1902年 | 明治35年 | 全国に10教区を置く教区制度始まる |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「全国に10教区を置く教区制度始まる」を確認しておく。「【明治35年】お指図1」、「【明治35年】お指図2」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【各地から招集された教会長に対してお指図】 | ||||||||
7.20日、お指図。「教祖20年祭を迎えるに当たって各地から招集された教会長に対して全教の心構えを懇々と諭されたお指図」で、「過日のお指図より一人も残らず願い出よ、との事に付き」。当時の教勢は、10年祭の時で信者数300万人、それから5年経って益々日の出の勢いであった。(「教祖20年祭前の重大なお指図」参照)
「押して、おさしづ次第一同相談して居りますと願い」。
押して、先々注意さして頂きますと申し上げ
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【全国を10教区にするお指図】 | ||
7.23日、全国を10教区にするお指図。
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【上田ナライト身上発症】 | |
「明治三十五年八月四日上田ナライト昨夜より腹痛に付願 」。
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【全国に10教区を置く教区制度始まる】 |
8月、教勢の全国的発展により、全国を10教区に分け、それぞれ取締員を置いて、本部が全国の教会を指導する体制を整えた。 |
1902年、みきから教えられ許された金平糖の御供を、病助けに使用することを禁止した。 |
(道人の教勢、動勢) |
10.2日、植田平一郎が出直し(亨年57歳)。弘化3年(1846)5月25日、大和国葛下郡池田村(現・奈良県大和高田市池田)生まれ。生家萬田家より上田家きぬの婿養子となる。きぬの逝去後弟弥七が亡くなりその妻いのと再婚。明治19年(1886)、右手親指にヒョウソを患い初参拝、ご守護頂く。以後千人たすけに奔走。本席よりおさづけ(明治20年12月21日)。中和支教会(郡山部内、現大教会)初代会長。 |
11.22日、山中忠七が出直し(亨年76歳)。文政10年(1827)10月26日、大和国式上郡大豆越村(現・奈良県桜井市大豆越)生まれ。文久4年(1864)、妻そのの痔の病を助けられ入信。扇・御幣・肥・物種のさづけ。妻その扇のさづけ。妻そのは山澤良治郎の姉:娘こいそは山田伊八郎(敷島大教会)の妻。息子・彦七は天理教校初代校長。姉るいは岡本重治郎の妻。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』11「神が引き寄せた」 84「南半国」) |
(当時の国内社会事情) |
(田中正造履歴) |
1902(明治35)年、62歳の時、川俣事件裁判での官吏侮辱罪で入獄41日間。獄中で聖書を読む。この頃渡良瀬川下流の川辺・利島村(埼玉県)や谷中村(栃木県)を遊水地にする計画が起きる。 |
(宗教界の動き) |
大谷光瑞アジア仏跡調査出発。官国弊社神職制・懲戒令・任用令。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)