第53部 | 1871年 | 74才 | 教勢の発展と「講の結成」 |
明治4年 |
更新日/2024(平成31→5.1栄和6年).10.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教勢の発展と講の結成」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【この頃の教勢の発展と講の結成】 | |||
明治3年、4年、5年にかけて「珍しい助け」が次から次に現われ、この頃になると親神様の神名は一段と知れわたり、「お道」は大和の国境を越えて、河内、摂津、山城、伊賀と近隣の国々へ広まって行くこととなった。更に東は東海、関東にまで、西は中国、四国へと激しい勢いで延びて行った。ただ数の上で信徒が増えたばかりでなく、教祖を慕う人々の気持も益々強烈な勢いをもって進行していた。教祖の一列助けを急き込む仕込みもなお盛んに教理の形も次々と整えられて行く時代となった。
講そのものについては、既に1867(慶応3)年に御製された「御神楽歌」の中で次のように説かれている。
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【講元⇒大教会の系統】 |
天理教における主な講については以下の通りである。()書きは現教会名とする。(記述検証はできていない)講のその後の展開は「別章【お道の系統大教会史考】」に記す。(「講-教会」、「大教会の系統(敷島~治道)」、「講-教会」。その他参照) |
1867(慶応3)年頃 | |
矢部村講中(「御神前名記帳」に記されている) | |
七条村講中(「御神前名記帳」に記されている) |
1875(明治8)年頃 | |
この頃、道人の数は日増しに増加し、各地に講社の結成を見ることとなった。この時代、教勢は大和の国境を越え、東は東海、関東にまで、西は中国、四国へと激しい勢いで延びて行った。それは、ただ数の上で信徒が増えたばかりでなく、教祖を慕う人々の気持も益々強烈に昂進していくこととなった。 | |
天元講 (てんげん) |
(こかんの出直しの葬儀を手伝った庄屋敷村、三島村の人々が後仕舞いの膳の席で講をつくる話となり始まったのが「天元講」であり講の第1号となった。誰が講元ということもなく毎月、日を定めて赤衣を持ち廻って講勤めを始めたという。後に天元分教会となる。明治16年、安達秀治郎を講元に選ぶ。高井猶吉が庄屋敷村の北田嘉市郎宅に寄寓してお屋敷へ運んでいたので、傍ら天元講の世話取りに当たり、講勤めの後、神様の話を取り次いだ。
(稿本天理教教祖伝逸話篇p43その他参照) |
神楽講 | (河内の老原村)(講元・松田伊之助) |
真心組 | (大阪) |
1876(明治10年)頃 |
真栄講(大縣) |
神徳講(古市) |
真明講(芦津) |
明心組(船場) |
天地組(北) |
天水組(網島) |
恵心組(大江) |
平真講 |
真誠講 |
一心講 |
永続講 |
敬真講 |
天徳講 |
天心講 |
天恵組 |
1878(明治11)年頃 |
眞明講(講元・中山秀司、芦津) |
明心組(船場) |
天地組(北) |
1880(明治13)年頃 |
伊豆七条村講中⇒誠心講(治道) |
積善講(平安) |
心実講(講元・前川喜三郎)⇒城法 |
心勇講(講元・上村吉三郎)⇒敷島(講元・上村吉三郎) |
永神講(梅谷) |
天明講(八木) |
日の本講(旭日) |
天龍講(郡山) |
治心講(中和) |
大和講(櫻井) |
明元講(田原) |
1882(明治15)年頃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治十五年三月改めの講社名簿が遺されている。これを確認すると以下の通リ。大和国五、河内国十、 大阪四、堺二の講社が結ばれて居ることが分かる。その他この名簿には見えないが、この以前からあった ものに、天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠等がある。当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢 、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りにまで及んだ。
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天恵組四番(講元・泉田藤吉) |
1884(明治17)年頃 |
深谷源次郎が明誠社より脱会⇒斯道会(講元・深谷源次郎) |
1886(明治19)年頃 |
新たな講元として次の講が結社された。 |
阿波真心講 |
遠江真明講 |
斯道会 |
天地組 |
天元組 |
天明講 |
兵神真明講 |
天竜講 |
大和講 |
日元講 |
東京真明講 |
治心講池田組 |
1887(明治20)年頃 |
名張分教会 |
大阪天地組の布教師、中川徳蔵が北海道布教に出かける前に郷里である名張に寄り布教。名張分教会の始まりである。関係教会24のうち2カ所を除いて全て三重県にある。 |
大江(講元・中西金治郎)⇒天恵四番専心組 |
1888(明治21)年頃 |
講を元として教会になる。教会は以下の例である。 |
郡山天龍講(講元・平野楢蔵)⇒郡山大教会(初代会長・平野楢蔵) |
遠江真明組(講元・諸井国三郎)⇒山名(初代会長・諸井国三郎)が12.5日、天理教教会本部の最初の 直轄教会として設立を許された。 1889(明治22)年4.25日、山名分教会設立。 1909(明治42)2.2日、山名分教会がに山名大教会の改称。 |
1889(明治22)年頃 |
この年、次の講が教会となった。 |
大阪真明組(講元・井筒梅治郎)⇒芦津(大阪、初代会長・井筒梅治郎) |
摂津播磨真明組(講元・端田久吉)⇒摂津播磨 |
神戸兵庫真明講(講元・清水与之助)⇒兵神(神戸兵庫、初代会長・清水与之助) |
東京真明組(講元・上原佐助)⇒東(初代会長・上原佐助) |
大阪明心組(講元・梅谷四郎兵衛)⇒船場(大阪、初代会長・梅谷四郎兵衛) |
河内国講社(講元・松村吉太郎)⇒高安(河内、初代会長・松村吉太郎) |
近江国斯道会(講元・深谷源次郎)⇒河原町(初代会長・深谷源次郎) |
阿波国信心組(講元・土佐卯之助)⇒撫養(初代会長・土佐卯之助) |
1890(明治23)年頃 |
この年、次の講が教会となった。 |
斯道会第2号(講元・西野清兵衛)⇒宇治田原(初代会長・西野清兵衛) |
心勇講⇒敷島(上村吉三郎) |
大坂の柏原集談所(講元・山本利三郎、板倉槌三郎、)⇒中河(初代会長・山本利三郎) |
朝日組(講元・平野辰次郎)⇒堺(初代会長・平野辰次郎) |
摂津播磨真明組(講元・端田久吉) |
播磨以西各国天地組⇒北(講元・茨木基敬) |
大阪天恵組(講元・大江、泉田藤吉) |
正明講⇒南海(初代会長・山田作治郎)(和歌山県新宮町) |
心実講⇒城法(初代会長・前川喜三郎) |
誠心講(講元・喜多治郎吉)⇒治道(初代会長・喜多治郎吉)。 |
この年、新設分教会の開えん式が相次いで行われた。 6.2日、兵神、7.2日、郡山、船場、奈良の田原(久保小三郎)、敷島(上村吉三郎)、中河(山本利三郎)、 堺(平野辰三郎)の直属分教会が創設されている。 |
1891(明治24)年頃 |
正明講⇒南海支教会⇒南海大教会(山田作治郎) |
山田作治郎らが和歌山県新宮町に南海支教会を設置した。その後、南海大教会となり、和歌山県内に 109カ所、中紀関係に55カ所の教会を持つ。 |
9.16日、天理教髙知分教会設立(島村菊太郎)。 |
1892(明治25)年頃 |
津大教会 |
天龍講系の人たちが津支教会を設立した。その後、津大教会となり、三重県内に37カ所の教会を有している。 |
南紀大教会 |
下村謙三郎が、斯道会講元深谷源次郎に匂い掛けされ入信。熊野地方の中心地である本木にて南紀支教会を設立した。その後、南紀大教会となり、紀伊と志摩を中心に三重県内に51カ所の教会を持つ。 |
紀陽大教会 |
前田友千代、藤楠兄弟らが岩出市に紀陽支教会を設立した。その後、紀陽大教会となり、紀ノ川、貴志川流域に55カ所の教会を持つ。 |
名草分教会 |
紀陽の発端を作った常極らが名草支教会を設置した。その後、名草分教会となり、41カ所の関係教会を持つ。そのうち30カ所が和歌山県にある。 |
1893(明治26)年頃 |
東海大教会 |
心勇組に加わり城島(現敷島)分教会に所属していた奈良県笠間村の加見兵四郎が、度会郡滝原村に東海 支教会を設立した。その後、東海大教会となり、三重県内のほとんど中勢、南勢に46カ所の教会を持つ。 |
松阪大教会 |
松阪近辺の敷島系信者を一つにまとめ松阪支教会を設立した。その後、松阪大教会となり、中勢、南勢を 中心に三重県内に42カ所の教会を有している。 |
1894(明治27)年頃 |
岐美大教会 |
石原政治を会長に岐美支教会が設立された。その後、岐美大教会となり、岐阜県岐美は県内に100カ所近 くの教会を持つ。 |
1898(明治31)年頃 |
東濃大教会 |
酒井国三郎、川辺村長の勝村伴次郎らが川辺ほかで結ばれた講を統合し、東濃出張所を設立した。現在、 東濃大教会となり、岐阜県内に31カ所の協会を持つ。 |
その後 | ||
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心実講(講元・前川喜三郎)⇒城法 | |
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心勇講(講元・上村吉三郎)⇒敷島(講元・上村吉三郎) | ||
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天地組部内に天地組播磨以西各国天地組、大阪/大江(講元・中 西金次郎)、天恵組四番(講元・泉田藤吉)⇒中津(初代・泉田藤吉) 。御津(初代・小松駒吉)、豊成(初代・今村千賀子)、網島(初代・寺 田半兵衛)、上町(初代・近藤政慶)、宇佐(初代・宇都宮右源太)。 |
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播磨以西各国天地組⇒北(初代・茨木基敬) | |
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深谷源次郎が明誠社より脱会⇒斯道会(講元・深谷源次郎) | ||||||||||||
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郡山天龍講(講元・平野楢蔵)⇒郡山大教会(初代会長・平野 楢蔵) |
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遠江真明組(講元・諸井国三郎)⇒山名(初代会長・諸井国三郎) 12.5日、天理教教会本部の最初の直轄教会として設立を許された。1889(明治22)年4.25日、山名分教会設立。1909(明治42)2.2日、山名分教会から山名大教会に改称する。 | ||
山名の部内に磐城平、城山。 | ||
大正年間に教会継承者が2人となる事態を生じ、その解決を図るために、山名大教会を分割した。1923(大正12)11.23日、天理教本部より名京大教会設立の認可が下り、名古屋市東区田代町字西畑53番地(のちに千種区春岡二丁目8番10号と住居表示変更)に敷地13200平方メートルの大教会として発足した。2017年1月現在、国内外の直轄分教会33か所と、その部内分教会69か所の計102の部内教会が存在する。 大教会のある名古屋市だけではなく、北は北海道、南は鹿児島県と、日本全国に広く分布している。 | ||
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大阪真明組(講元・井筒梅治郎)⇒芦津(大阪、初代会長・井筒梅治郎) | |||
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摂津播磨真明組(講元・端田久吉)⇒摂津播磨 | |||
神戸兵庫真明講(講元・清水与之助)⇒兵神(神戸兵庫、初代会長・清水与之助) | |||
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東京真明組(講元・上原佐助)⇒東(初代会長・上原佐助) | |||
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河内国講社(講元・松村吉太郎)⇒高安(河内、初代会長・松村吉太郎) | |||
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阿波国信心組(講元・土佐卯之助)⇒撫養(初代会長・土佐卯之 助) |
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柏原集談所(講元・山本利三郎)⇒中河(初代会長・山本利三郎) | |
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誠心講(講元・喜多治郎吉)⇒治道(初代会長・喜多治郎吉)。 | |
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正明講⇒南海支教会⇒南海大教会(山田作治郎) | ||
山田作治郎らが和歌山県新宮町に南海支教会を設置した。その後、南海大教会となり、和歌山県内に109 カ所、中紀関係に55カ所の教会を持つ。 |
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(道人の教勢、動勢) | |
「1871(明治4)年の信者たち」は次の通りである。 | |
松村榮治郎() | |
1871(明治4)年、1.1日、河内国高安郡教興寺村(現・大阪府八尾市教興寺)の松村榮治郎が妻さくの「たちやまい」という患いを教祖に助けられ入信。栄治郎の妻さくは、秀司の妻まつえの姉にあたるという関係の人であった。稿本天理教教祖伝逸話篇「23、松村さく」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「102、私が見舞いに」、「190、この道は」) | |
1889(明治22).3.3日、出直し(享年48歳)。妻さく(1846-1928)の妹・小東まつゑは1869(明治2)年、中山秀司に嫁ぐ。長男・吉太郎は高安分教会(現大教会)初代会長。 | |
泉田藤吉(32歳) | |
春、大阪の合力/泉田藤吉(32歳)が霊救の噂を聞いて参拝、入信。 | |
的場彦太郎() | |
大和国仁興村の的場彦太郎入信。 稿本天理教教祖伝逸話篇「24、よう帰って来たなあ」。
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【この頃の逸話】 |
(当時の国内社会事情) | |
1871(明治4)年、1.9日、参議・広沢真臣、私邸で暗殺される。 | |
1月、社寺領上地令。 | |
2.13日、薩摩、長州、土佐の三藩兵で御親兵を創設。 | |
5.10日、新貨条例の公布。金単位が円、銭、厘となる。 | |
6.25日、木戸孝允以外の参議が辞任。西郷隆盛が参議に就任。 | |
7.14日、廃藩置県断行される。7.14日、大隈重信、板垣退助、参議に就任。 | |
8月、散髪(断髪)令、廃刀令。 | |
8月、解放令。 | |
9.7日、田畑の勝手作を許可する。 | |
9.10日、京都府から六十六部の処分の伺いが出され、10.8日、大蔵省が次のように上申している。
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10.23日、邏卒三千人、東京府内に配置。 | |
11.12日、岩倉使節団派遣。岩倉具視を特命全権大使として条約改正、海外視察を行う。 | |
11.23日、廃藩置県で全国を三府七十二県とする。 | |
12月、廃藩置県で大和全域が奈良県となる。廃藩置県が実施され、全国200万人に及ぶ武士が、一転して失職の憂き目を見た。 | |
(田中正造履歴) | |
1871(明治4)年、31歳の時、上役暗殺の疑いをうけ投獄される。獄中「西国立志編」や政治経済の本を読む。入獄2年9か月。 |
(宗教界の動き) |
1871(明治4).1月、寺社領の上知を命ずる。3月、廃仏毀釈激化、全国寺院の約半数が廃寺になる。三河で護法一揆。 |
興福寺でも僧侶全部が神主になり仏像や伽藍を破壊した。五重塔も金具を取ることだけで売られ、焼かれようとした。延焼をおそれた近隣の住民の反対で中止されたという。これらの動きは全国に広がり藩ごとに強行された。富山藩では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとする凄まじいものであった。伊勢神宮のある地方では1966箇所の寺が廃寺にされ仏像は捨てられたりした。 |
明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、など全てが破壊された。今でも九州には有力な大寺はない。この時、破却、廃寺された寺は全国の半分になったという。はっきりした数は把握されていない。 |
神祇官が太政官のなかの神祇省へ組み込まれ降格された。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1871年、ドイツ帝国成立。 |
(私論.私見)