第53部 1871年 74才 教勢の発展と「講の結成」
明治4年

 更新日/2024(平成31→5.1栄和6年).10.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教勢の発展と講の結成」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【この頃の教勢の発展と講の結成】

 明治3年、4年、5年にかけて「珍しい助け」が次から次に現われ、この頃になると親神様の神名は一段と知れわたり、「お道」は大和の国境を越えて、河内、摂津、山城、伊賀と近隣の国々へ広まって行くこととなった。更に東は東海、関東にまで、西は中国、四国へと激しい勢いで延びて行った。ただ数の上で信徒が増えたばかりでなく、教祖を慕う人々の気持も益々強烈な勢いをもって進行していた。教祖の一列助けを急き込む仕込みもなお盛んに教理の形も次々と整えられて行く時代となった。

 教祖は、文久、元治より人々に「講を結べ」と仰せられた。「講」とは、同じ信仰に結ばれる集団(信徒集団)の寄り合い組織であり「組」とも云う。当時から様々な宗派や信仰において「講」が結ばれていた。主な例としては、氏神を中心とした集団、檀那寺を中心とした集団、また富士山を参詣する人々の富士講、伊勢神宮を参詣する人々の伊勢講などが挙げられる。教祖にあっては、道人の続々と列なり来る姿と、こうした道人の信者組織としての「講の結成」とが、「お道」の将来の青写真として映じていたようである。「講の結成」は、実際には明治11年の秀司を講元とする真明講を始まりとするが、「お道」のこの後の展開が「講の結成」を眼目として進展して行くこととなる点に着目を要する。

 これにつき、稿本天理教教祖伝p141-142は次のように記している。
「教祖は、八十の坂を越えてから、警察署や監獄署へ度々御苦労下された。しかも、罪科(つみとが)あっての事ではない。教祖が、世界たすけの道をお説きになる、不思議なたすけが擧がる、と言うては、いよいよ世間の反對が厳しくなり、ますます取締りが厳しくなった。(中略) そして、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられた。(中略) 教祖は常に、『節から芽が出る』と、仰せられた。迫害の猛火はいよいよ燃え盛ったが、しかもそれは悉く匂いがけとなり、親神の思召は一段と弘まる一方であった。『講を結べ』と、お急込み頂いたのは、文久、元治の頃に始まり、早くもその萌(きざ)しはあったが、明治11年4月頃には、秀司を講元とする眞明講が結ばれて居た。小さいながらも、親神のお急込み通り、人々の喜びを一つに結ぶ講が出来て居たのである」。

 講そのものについては、既に1867(慶応3)年に御製された「御神楽歌」の中で次のように説かれている。
 どうでも信心 するならバ
 講を結ぼや ないかいな
五下り目10


 【講元⇒大教会の系統】

 天理教における主な講については以下の通りである。()書きは現教会名とする。(記述検証はできていない)講のその後の展開は「別章【お道の系統大教会史考】」に記す。(「講-教会」、「大教会の系統(敷島~治道)」、講-教会」。その他参照)


 1867(慶応3)年頃
 矢部村講中(「御神前名記帳」に記されている)
 七条村講中(「御神前名記帳」に記されている)

 1875(明治8)年頃
 この頃、道人の数は日増しに増加し、各地に講社の結成を見ることとなった。この時代、教勢は大和の国境を越え、東は東海、関東にまで、西は中国、四国へと激しい勢いで延びて行った。それは、ただ数の上で信徒が増えたばかりでなく、教祖を慕う人々の気持も益々強烈に昂進していくこととなった。
 天元講
(てんげん)
(こかんの出直しの葬儀を手伝った庄屋敷村、三島村の人々が後仕舞いの膳の席で講をつくる話となり始まったのが「天元講」であり講の第1号となった。誰が講元ということもなく毎月、日を定めて赤衣を持ち廻って講勤めを始めたという。後に天元分教会となる。明治16年、安達秀治郎を講元に選ぶ。高井猶吉が庄屋敷村の北田嘉市郎宅に寄寓してお屋敷へ運んでいたので、傍ら天元講の世話取りに当たり、講勤めの後、神様の話を取り次いだ。
(稿本天理教教祖伝逸話篇p43その他参照)
 神楽講 (河内の老原村)(講元・松田伊之助)
 真心組 (大阪)

 1876(明治10年)頃
 真栄講(大縣)
 神徳講(古市)
 真明講(芦津)
 明心組(船場)
 天地組(北)
 天水組(網島)
 恵心組(大江)
 平真講
 真誠講
 一心講
 永続講
 敬真講
 天徳講
 天心講
 天恵組

 1878(明治11)年頃
 眞明講(講元・中山秀司、芦津)
 明心組(船場)
 天地組(北)

 1880(明治13)年頃
 伊豆七条村講中⇒誠心講(治道)
 積善講(平安)
 心実講(講元・前川喜三郎)⇒城法
 心勇講(講元・上村吉三郎)⇒敷島(講元・上村吉三郎)
 永神講(梅谷)
 天明講(八木)
 日の本講(旭日)
 天龍講(郡山)
 治心講(中和)
 大和講(櫻井)
 明元講(田原)

 1882(明治15)年頃
 明治十五年三月改めの講社名簿が遺されている。これを確認すると以下の通リ。大和国五、河内国十、
大阪四、堺二の講社が結ばれて居ることが分かる。その他この名簿には見えないが、この以前からあった
ものに、天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠等がある。当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢
、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りにまで及んだ。
神清組 (教興寺村)
天神組 (恩知村)
神恵組 (法善寺村)
神楽組 (老原村)
敬神組 (刑部村)
清心組 (国分村)
神徳組 (飛鳥村)
榊組 (太田村)
一心組 (西浦村)
永神組 (梅谷村)
平真組 (平野郷)
真実組 (大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、檜垣村)
心勇組 (大和国倉橋村出屋舗方講中)
誠心組 (大和国佐保庄村講中)
信心組 (大和国忍坂村講中)
天恵組 (大阪) 
真明組 (大阪)
明心組 (大阪)
信心組 (大阪)
真実組 (堺)
神恵組 (堺桜之町講中)
天恵組四番(講元・泉田藤吉)

 1884(明治17)年頃
 深谷源次郎が明誠社より脱会⇒斯道会(講元・深谷源次郎)

 1886(明治19)年頃
 新たな講元として次の講が結社された。
 阿波真心講
 遠江真明講
 斯道会
 天地組
 天元組
 天明講
 兵神真明講
 天竜講
 大和講
 日元講
 東京真明講
 治心講池田組

 1887(明治20)年頃
 名張分教会
 大阪天地組の布教師、中川徳蔵が北海道布教に出かける前に郷里である名張に寄り布教。名張分教会の始まりである。関係教会24のうち2カ所を除いて全て三重県にある。
 大江(講元・中西金治郎)⇒天恵四番専心組

 1888(明治21)年頃
 講を元として教会になる。教会は以下の例である。
 郡山天龍講(講元・平野楢蔵)⇒郡山大教会(初代会長・平野楢蔵)
 遠江真明組(講元・諸井国三郎)⇒山名(初代会長・諸井国三郎)が12.5日、天理教教会本部の最初の
直轄教会として設立
を許された。
 1889(明治22)年4.25日、山名分教会設立。
 19
09(明治42)2.2日、山名分教会がに山名大教会の改称。

 1889(明治22)年頃
 この年、次の講が教会となった。
 大阪真明組(講元・井筒梅治郎)⇒芦津(大阪、初代会長・井筒梅治郎)
 摂津播磨真明組(講元・端田久吉)⇒摂津播磨
 神戸兵庫真明講(講元・清水与之助)⇒兵神(神戸兵庫、初代会長・清水与之助)
 東京真明組(講元・上原佐助)⇒東(初代会長・上原佐助)
 大阪明心組(講元・梅谷四郎兵衛)⇒船場(大阪、初代会長・梅谷四郎兵衛)
 河内国講社(講元・松村吉太郎)⇒高安(河内、初代会長・松村吉太郎)
 近江国斯道会(講元・深谷源次郎)⇒河原町(初代会長・深谷源次郎)
 阿波国信心組(講元・土佐卯之助)⇒撫養(初代会長・土佐卯之助)

 1890(明治23)年頃
 この年、次の講が教会となった。
 斯道会第2号(講元・西野清兵衛)⇒宇治田原(初代会長・西野清兵衛)
 心勇講⇒敷島(上村吉三郎)
 大坂の柏原集談所(講元・山本利三郎、板倉槌三郎、)⇒中河(初代会長・山本利三郎)
 朝日組(講元・平野辰次郎)⇒堺(初代会長・平野辰次郎)
 摂津播磨真明組(講元・端田久吉)
 播磨以西各国天地組⇒北(講元・茨木基敬)
 大阪天恵組(講元・大江、泉田藤吉) 
 正明講⇒南海(初代会長・山田作治郎)(和歌山県新宮町)
 心実講⇒城法(初代会長・前川喜三郎)
 誠心講(講元・喜多治郎吉)⇒治道(初代会長・喜多治郎吉)。
 この年、新設分教会の開えん式が相次いで行われた。
 6.2日、兵神、7.2日、郡山、船場、奈良の田原(久保小三郎)、敷島(上村吉三郎)、中河(山本利三郎)、
堺(平野辰三郎)の直属分教会が創設されている。

 1891(明治24)年頃
 正明講⇒南海支教会⇒南海大教会(山田作治郎)
 山田作治郎らが和歌山県新宮町に南海支教会を設置した。その後、南海大教会となり、和歌山県内に
109カ所、中紀関係に55カ所の教会を持つ。
 9.16日、天理教髙知分教会設立(島村菊太郎)。

 1892(明治25)年頃
 津大教会
 天龍講系の人たちが津支教会を設立した。その後、津大教会となり、三重県内に37カ所の教会を有している。
 南紀大教会
 下村謙三郎が、斯道会講元深谷源次郎に匂い掛けされ入信。熊野地方の中心地である本木にて南紀支教会を設立した。その後、南紀大教会となり、紀伊と志摩を中心に三重県内に51カ所の教会を持つ。
 紀陽大教会
  前田友千代、藤楠兄弟らが岩出市に紀陽支教会を設立した。その後、紀陽大教会となり、紀ノ川、貴志川流域に55カ所の教会を持つ。 
 名草分教会
  紀陽の発端を作った常極らが名草支教会を設置した。その後、名草分教会となり、41カ所の関係教会を持つ。そのうち30カ所が和歌山県にある。

 1893(明治26)年頃
 東海大教会
 心勇組に加わり城島(現敷島)分教会に所属していた奈良県笠間村の加見兵四郎が、度会郡滝原村に東海
支教会を設立した。その後、東海大教会となり、三重県内のほとんど中勢、南勢に46カ所の教会を持つ。
 松阪大教会
 松阪近辺の敷島系信者を一つにまとめ松阪支教会を設立した。その後、松阪大教会となり、中勢、南勢を
中心に三重県内に42カ所の教会を有している。

 1894(明治27)年頃
 岐美大教会
 石原政治を会長に岐美支教会が設立された。その後、岐美大教会となり、岐阜県岐美は県内に100カ所近
くの教会を持つ。

 1898(明治31)年頃
 東濃大教会
 酒井国三郎、川辺村長の勝村伴次郎らが川辺ほかで結ばれた講を統合し、東濃出張所を設立した。現在、
東濃大教会となり、岐阜県内に31カ所の協会を持つ。

 その後
 ⇒櫻井
 櫻井の部内に五條。

【天理教主要教会】
 天理教主要教会は、天理教所属の主要教会、大教会など。大教会は2016(平成28)年現在159ある。これを確認しておく。
郡山大教会 奈良県大和郡山市天理町(大和国添下郡?)。教祖が明示した「打ち分け場所」の一つ。但し、教祖は直接当地を訪れていない。
兵神大教会
山名大教会
船場大教会
河原町大教会
撫養大教会
東大教会
敷島大教会
日本橋大教会
高安大教会 大阪府八尾市教興寺(河内国高安郡教興寺村)にある大教会。教祖が直接布教した地。教祖が明示した「打ち分け場所」の一つ。
南海大教会
芦津大教会
高知大教会
北大教会
湖東大教会
甲賀大教会
水口大教会
中河大教会
名京大教会
中和大教会
桜井大教会
筑紫大教会
越乃国大教会
名東大教会
麹町大教会
日光大教会
飾東大教会
東本大教会
嶽東大教会
島ケ原大教会
堺大教会
御津大教会
城法大教会
生野大教会
東愛大教会
本島大教会
牛込大教会
深川大教会
浅草大教会
西陣大教会
大県大教会 大阪府柏原市大県(河内国大県郡大県村)にある大教会。教祖が明示した「打ち分け場所」の一つ。但し、教祖は直接当地を訪れていない。
社大教会
神川大教会
笠岡大教会
西宮大教会
明和大教会
明城大教会
大江大教会
旭日大教会
池田大教会
阪東大教会
蒲生大教会
日野大教会
朝倉大教会
佐野原大教会
高岡大教会
愛知大教会
梅谷大教会 奈良県奈良市東笹鉾町(大和国添上郡)にある大教会。もとは京都府木津川市梅谷にあったが、奈良市に移転し、中山みきが拘留された監獄跡を護持している。「教祖御苦労の處」碑が建てられている。
平安大教会
豊岡大教会
治道大教会
都賀大教会
川之江大教会
周東大教会
南阿大教会
香川大教会
中紀大教会
津大教会
秩父大教会
中津大教会
岐美大教会
熊本大教会
那美岐大教会
中野大教会
秦野大教会
立野堀大教会
中央大教会
南紀大教会
北陸大教会
東濃大教会
岡大教会
八木大教会
洲本大教会
錦江大教会
繁藤大教会
大森町大教会
防府大教会
愛予大教会
津軽大教会
阿羽大教会
伊野大教会
磐城平大教会
西海大教会
新潟大教会
中根大教会
肥長大教会
名古屋大教会
奈良大教会
西大教会
上之郷大教会
益津大教会
小牧大教会
府内大教会
東肥大教会
都大教会
西成大教会
南大教会
山陰大教会
鹿島大教会
此花大教会
仙台大教会
東海大教会
大鳥大教会
古市大教会
神崎大教会
甲府大教会
本保大教会
本愛大教会
本芝大教会
山国大教会
京城大教会
東神田大教会
北洋大教会
宇佐大教会
岡山大教会
泉大教会
東中央大教会
城山大教会
静岡大教会
白羽大教会
伊那大教
小南部大教会
雨龍大教会
愛静大教会
紀陽大教会
大垣大教会
鎮西大教会
生駒大教会
中背大教会
高松大教会
五条大教会
沼津大教会
網干大教会
宇仁大教会
双名島大教会
夕張大教会
山陽大教会
本荏大教会
国名大教会
玉島大教会
網走大教会
松阪大教会
越知大教会
本理世大教会
加古大教会
秋津大教会
幅下大教会
亀岡大教会
大原大教会

 心実講(講元・前川喜三郎)⇒城法
 城法の部内に上之郷。

 心勇講(講元・上村吉三郎)⇒敷島(講元・上村吉三郎)
 敷島の部内に明和、明城、岡、東海、紀陽、松坂、秋津。
 岡の部内に東神田。

 天地組部内に天地組播磨以西各国天地組、大阪/大江(講元・中
西金次郎)、天恵組四番(講元・泉田藤吉)⇒中津(初代・泉田藤吉)
。御津(初代・小松駒吉)、豊成(初代・今村千賀子)、網島(初代・寺
田半兵衛)、上町(初代・近藤政慶)、宇佐(初代・宇都宮右源太)。
 播磨以西各国天地組⇒北(初代・茨木基敬) 
 北の部内に麹町、生野、豊岡、府内、岡山、(尾道)、(淀)、(青野
原)、(栗田)、(細川)、(鐸姫)、(名張)、(玉江)、(藝備)、(八阪)。
 麹町の部内に錦江、大森町。
 錦江の部内に錦徳。

 深谷源次郎が明誠社より脱会⇒斯道会(講元・深谷源次郎)
 斯道会の部内に湖東、甲賀、水口、越乃國、西陣、山國、大垣
、亀岡、大原、(崇文)。
 湖東の部内に筑紫。
 筑紫の部内に朝倉、西海、名古屋、北洋。
 西海の部内に鎮西。
 甲賀の部内に日光。
 日光の部内に都賀、那美岐、中根、蒲生、日野、秩父、岐美、
中野。
 中野の部内に東濃。
 水口の部内に嶽東。
 嶽東の部内に沼津、網走、佐野原。
 佐野原の部内に秦野、小南部。
 越乃國の部内に本島、鹿島、京城。
 京城の部内に東中央。

 郡山天龍講(講元・平野楢蔵)⇒郡山大教会(初代会長・平野
楢蔵)
 郡山の部内に中和、島ヶ原、熊本、中央、北陸、東肥、山陰、
生駒、中背、山陽。
 中和の部内に津、津軽。
 島ヶ原。1886(明治19)年頃、天龍講(後の郡山大教会)の萬田平治郎が三重県の伊賀上野町に布教し
講が結ばれた。これが島ケ原大教会の始まりとなる。伊賀地方を中心に三重県内に17カ所、関東、東北に
も伝道線を伸ばしている。部内に高宮。島ケ原の関係教会は伊賀地方を中心に三重県内に17 カ所あり、
関東、東北にも伝道線を伸ばしている。
 東肥の部内にノウスアメリカ。

 遠江真明組(講元・諸井国三郎)⇒山名(初代会長・諸井国三郎) 12.5日、天理教教会本部の最初の直轄教会として設立を許された。1889(明治22)年4.25日、山名分教会設立。1909(明治42)2.2日、山名分教会から山名大教会に改称する。
 山名の部内に磐城平、城山。
 大正年間に教会継承者が2人となる事態を生じ、その解決を図るために、山名大教会を分割した。1923(大正12)11.23日、天理教本部より名京大教会設立の認可が下り、名古屋市東区田代町字西畑53番地(のちに千種区春岡二丁目8番10号と住居表示変更)に敷地13200平方メートルの大教会として発足した。2017年1月現在、国内外の直轄分教会33か所と、その部内分教会69か所の計102の部内教会が存在する。 大教会のある名古屋市だけではなく、北は北海道、南は鹿児島県と、日本全国に広く分布している。
 名京の部内に愛知、益津、小牧、仙䑓、甲府、静岡、白羽、伊那。
 愛知の部内に幅下。

 大阪真明組(講元・井筒梅治郎)⇒芦津(大阪、初代会長・井筒梅治郎)
 芦津の部内に笠岡、西宮、池田。
 笠岡の部内に玉島。
 池田の部内に双名島。

 摂津播磨真明組(講元・端田久吉)⇒摂津播磨
 神戸兵庫真明講(講元・清水与之助)⇒兵神(神戸兵庫、初代会長・清水与之助)
 兵神の部内に飾東、社、神崎、夕張、加古。
 飾東の部内に網干。
 社の部内に宇仁。

 東京真明組(講元・上原佐助)⇒東(初代会長・上原佐助)
 東の部内に日本橋、牛込、深川、浅草。
 日本橋の部内に坂東。
 浅草の部内に立野堀。

 河内国講社(講元・松村吉太郎)⇒高安(河内、初代会長・松村吉太郎)
 高安の部内に東本、大縣、洲本、都、西成、南、大鳥、古市。
 東本の部内に本保、本愛、本芝。
 本芝の部内に本荏、本理世。

 阿波国信心組(講元・土佐卯之助)⇒撫養(初代会長・土佐卯之
助)
 撫養の部内に名東、南阿、香川、防府。
 名東の部内に周東、国名。
 南阿の部内に阿羽。
 香川の部内に高松。

 柏原集談所(講元・山本利三郎)⇒中河(初代会長・山本利三郎)
 中河の部内に神川、此花。

 誠心講(講元・喜多治郎吉)⇒治道(初代会長・喜多治郎吉)。
 治道の部内に肥長。

 正明講⇒南海支教会⇒南海大教会(山田作治郎)
 山田作治郎らが和歌山県新宮町に南海支教会を設置した。その後、南海大教会となり、和歌山県内に109
カ所、中紀関係に55カ所の教会を持つ。
 南海の部内に東愛、中紀、雨龍。
 東愛の部内に愛静。

 ⇒高知()
 高岡、川之江、繁藤、愛豫、伊野、越知。

 (道人の教勢、動勢)
 「1871(明治4)年の信者たち」は次の通りである。
 松村榮治郎()
 1871(明治4)年、1.1日、河内国高安郡教興寺村(現・大阪府八尾市教興寺)の松村榮治郎が妻さくの「たちやまい」という患いを教祖に助けられ入信。栄治郎の妻さくは、秀司の妻まつえの姉にあたるという関係の人であった。稿本天理教教祖伝逸話篇「23、松村さく」。
 「松村さくは、明治4年正月十日に“たちやまい”にかかれ、生家の小東家で養生した上で、おぢばへお助けを願い帰って来た。教祖は、いろいろと有難いお話をお聞かせくだされ、長患いと熱の為にさくの頭髪にわいた虱(しらみ)を一匹ずつ取りながら、髪を梳(す)いておやりになられた。さらに、お風呂を沸かし、垢ついたさくの身体を、御手ずから綺麗にお洗いくだされた。この手厚いご看護により、さくの病気は、三日目にはウソのように全快した」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「102、私が見舞いに」「190、この道は」)
 1889(明治22).3.3日、出直し(享年48歳)。妻さく(1846-1928)の妹・小東まつゑは1869(明治2)年、中山秀司に嫁ぐ。長男・吉太郎は高安分教会(現大教会)初代会長。
 泉田藤吉(32歳)
 春、大阪の合力/泉田藤吉(32歳)が霊救の噂を聞いて参拝、入信。
 的場彦太郎()
 大和国仁興村の的場彦太郎入信。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「24、よう帰って来たなあ」。
 「大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。明治4年、19才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、と聞き、夜、横川の滝で、『コーリャ コリャ コリャ』と、大声を張り上げた。昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったのである。長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。それで、付添いの母親しかが、『足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか』と歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、匂いがかかった。『庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そんなぐらい直ぐに救けて下さるわ』という事である。それで、早速おぢばへ帰って、教祖(おやさま)にお目通りさせて頂いたところ、教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、『よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて下さるで』。と、仰せになった。彦太郎は、『このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます』とお答えした。すると。教祖は、『それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろうて、人救けに歩きなされ』と、仰せられた。『そんなら、そうさしてもらいます』と彦太郎の答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、匂いがけ、お助けに励んだ。それから87才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が読めるよう、お救け頂いたのである」。

【この頃の逸話】

 (当時の国内社会事情)
 1871(明治4)年、1.9日、参議・広沢真臣、私邸で暗殺される。
 1月、社寺領上地令。
 2.13日、薩摩、長州、土佐の三藩兵で御親兵を創設。
 5.10日、新貨条例の公布。金単位が円、銭、厘となる。
 6.25日、木戸孝允以外の参議が辞任。西郷隆盛が参議に就任。
 7.14日、廃藩置県断行される。7.14日、大隈重信、板垣退助、参議に就任。
 8月、散髪(断髪)令、廃刀令。
 8月、解放令。
 9.7日、田畑の勝手作を許可する。
 9.10日、京都府から六十六部の処分の伺いが出され、10.8日、大蔵省が次のように上申している。
 「一種ノ遊民ニテカカル開化ノ時勢ニ当り一日モ可存置事ニ有之間敷候間、京都府見込ミノ通り断然廃止下サレ候儀至当と存候」。
 10.23日、邏卒三千人、東京府内に配置。
 11.12日、岩倉使節団派遣。岩倉具視を特命全権大使として条約改正、海外視察を行う。
 11.23日、廃藩置県で全国を三府七十二県とする。
 12月、廃藩置県で大和全域が奈良県となる。廃藩置県が実施され、全国200万人に及ぶ武士が、一転して失職の憂き目を見た。
 (田中正造履歴)
 1871(明治4)年、31歳の時、上役暗殺の疑いをうけ投獄される。獄中「西国立志編」や政治経済の本を読む。入獄2年9か月。

 (宗教界の動き)

 1871(明治4).1月、寺社領の上知を命ずる。3月、廃仏毀釈激化、全国寺院の約半数が廃寺になる。三河で護法一揆。

 伊勢神宮以下、すべての神官社家の世襲を廃し、神祇官および地方庁に神職の任免権を与えた。
 「官社以下定額及神官職員規則等」(明治4年5月14日太政官布告)により、伊勢神宮を頂点として官国幣社、府藩県社、郷社の位階を定め、官国幣社長官は華族等から選任、国幣社長官は府藩県の参事の兼任とし、世襲神職のすべてを「改補新任」することとした。「郷社定則」(明治4年7月4日太政官)により全国の神社と神職を序列化した。また1戸籍区に1郷社を置き、他の氏神は村社として郷社に付属するものとした。神祇官廃止、神祇省設置。伊勢神宮の神宮大麻を地方官を通して全国700万戸に1個2銭で強制配布することに決め、翌年から実施。1878年以後は受不受は自由となったが、地方官が関与してトラブルを生ずることもあった。

 6月、市川栄之助夫妻、キリスト教研究を理由に検挙される。10月、六十六部禁止、普化宗廃止。

 興福寺でも僧侶全部が神主になり仏像や伽藍を破壊した。五重塔も金具を取ることだけで売られ、焼かれようとした。延焼をおそれた近隣の住民の反対で中止されたという。これらの動きは全国に広がり藩ごとに強行された。富山藩では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとする凄まじいものであった。伊勢神宮のある地方では1966箇所の寺が廃寺にされ仏像は捨てられたりした。
 明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、など全てが破壊された。今でも九州には有力な大寺はない。この時、破却、廃寺された寺は全国の半分になったという。はっきりした数は把握されていない。
 神祇官が太政官のなかの神祇省へ組み込まれ降格された。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 1871年、ドイツ帝国成立。





(私論.私見)