山名大教会

 更新日/2018(平成30).7.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、山名大教会考をものしておく。

 2007.10.25日 れんだいこ拝





【諸井慶一郎(もろい・けいいちろう)】

 昭和19(1944)年生まれ。
 42年、東京大学文学部卒業。
 52年、山名大教会6代会長。
 62年、本部員。
 平成4(1992)年、天理教校校長。
 13年、天理図書館館長。


 「15歳からの教理 vol.1 」の「たんのう
 スタートラインは自分で引けばよい


 アンジェラ・アキさんの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」という曲があります。昨年の暮れ、テレビの音楽番組でピアノを弾きながら熱唱する彼女を見ていて、思わず涙がこぼれてきてしまいました。

拝啓

(中略)十五の僕には 誰にも話せない 悩みの種があるのです。(中略)
今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ひとつしかないこの胸が何度も ばらばらに割れて 苦しい中で 今を生きている
(後略)(JASRAC 出0905712-901)    

 

 涙のわけは、歌詞につづられている少年の心と自分の記憶がダブって蘇ってきたからです。中学3年生、大人への入口に立っていた私の心は、この歌詞のように、つらく苦しく、消えてしまいそうで、暗い闇の中をもがいていました。

 私の家は、代々、天理教の教会の会長職を預かってきた家で、その上、曾祖父も祖父も父も東大卒という三代続く高学歴。私は、家族からも教会の人たちからも父たちと同じような道を通って、次代を担うことを期待されていました。しかし、生まれつき記憶力が悪く、小学校の最初の頃から勉強についていけなかった私は、いわゆるおちこぼれのまま進級し、高校受験も危ぶまれるほどでした。また教会の子供であることと、内気で気弱な性格は、格好のいじめの材料にもなっていて、とにかく学校に行くのが苦痛でした。私が中学3年になった昭和60年頃は、「学歴社会」という言葉がまだまだ残っていて、第一に学校の成績の優劣が人間のすべてを計るものさしのように言われていた時代だったように思います。また、「受験戦争」という言葉があったように、学校は、横並びの競争社会。思えば私は最初から立ち遅れてしまっていたこともあって、努力をして食らいついていくガッツも無く、むしろゲームのようにリセットして人生を生まれた時からやり直せたらどんなに良いか、とか、この先ずっと人と比べられて嫌な思いをするくらいなら、いっそ逃げ出して人のいない山奥で暮らそうとか、そんなことばかりを考えていました。しかし、現実は現実のまま時間はただ刻々と過ぎてゆきます。自分とはいったい何なのか、この先自分はどうなるんだろうという言いようのない不安に押しつぶされそうになっていました。

 そんな私に、ある日、母親が一冊の本を買ってきました。天理教の本でした。無意識に手に取りました。何でもいいから自分の支えとなるものを求めていたのかもしれません。何も考えずにページを開きましたが、最初に目に飛び込んできた文章に衝撃を受けました。それは次の文章でした。
 人は難関にぶつかった時には、信心のある者とない者とがはっきり区別出来るものである。精神の出来ていない者はあわてうろたえ、不足をし、悲しむが、精神の出来ている者は、どんな中も、喜んで、勇んで通れる。この、勇んでどんな苦労の中も喜んで通る心が、すなわちたんのうである。一例をあげよう。一文なしになった、ああ嬉しいと思う者は一人もいないにちがいない。一文なしは、たとえると、海抜ゼロメートル、海岸線に立っている姿である。が、この姿に二つの悟り方がある。一つは、山の上から降りて来てここへ来たという、考え方である。もっと分かりやすくいうと、億万長者が使い果たして一文なしになったということである。が、ここにもう一つの考え方がある。おれは、海の方から来たのである。しかも海の底から来たのである。分かりやすくいうと、何百億の借金を皆払って一文なしになった。こう考えると、ああさわやかだなあ、海岸線のながめはうららかだなあ、こんな嬉しいことは外にないと喜べる。喜んでいると、今度は、いつの間にやら山の頂きに近づかずにはいられぬようになってくる。一文なしに変わりはないが、それを喜ぶか、嘆くかによって、それから先の運命が変わってくる。この喜びの心がたんのうである。(中学校教義科読本) 

 一文なしで、これから登るべき山を前にしてたじろぎ、海岸線をただうろうろしているのは、まさに私自身のことだと思いました。そうか、ならば自分は後者、海底から来た人間。そう思えばいいのか。「たんのう」とは、どんな時も喜ぶことだといいます。喜ぶとは、今を受け入れるということ。喜んでやっていれば、たとえ一歩一歩の足取りは遅くても、どこまでも登っていけるかもしれない。そんな気になりました。いつの間にか誰かが引いたスタートラインの上に立たされて、人と比べさせられて悩んだり悲しんだりしていたけれど、そもそも人はみんな顔や姿が違うように、生まれつき持っている能力や運命も違うはず。それならば、自分のスタートラインは、自分で引けばいいじゃないか。この「たんのう」の心で行けば、人は、たとえ失敗しても、またやり直せるはず。何も思い悩む必要はない。前を向いて、できることからがんばればいいじゃないか。このことが悟れた時、私の心を覆っていた重苦しい暗雲は消え去り、それまで味わったことのないようなすがすがしい気持ちになりました。今の自分の現実と将来の自分に正面から向き合っていこうという勇気が湧いてきたのです。そして、こんな素晴らしい考え方を説いて人をたすける天理教はスゴイと思いました。天理に行って教えをもっと学びたい。心底そう思って、それからがむしゃらになって一から勉強をしなおしていたら、成積も上がり、最後にはおぢばの高校に入れて頂くことができました。

 こうして15の私は、お道の「たんのう」の教えによって救われました。おやさまの教えは、どんな人にも生きる力を与え、確かな生き方を教えて下さる。その手ごたえは、その後も弱まることなく、人生の様々な節目を経るごとにますます強まっています。
 「15歳からの教理 vol.2 」の「徳を積む
 目に見える徳と目に見えない徳

 「たんのう」の教えによって心の闇から救われた15才の私は、さらなるヒントを求めて、積極的に天理教の本を読むようになりました。そして次に注目した教えは、「徳を積む」という話でした。「人の一生は魂の徳で決まる」。書名は忘れてしまいましたが、開いたページに確かそう書いてあったと思います。徳とは、魂の力、運命を切り拓く目に見えない力で、どんなに財産を持っていて能力や体力があっても魂に徳が無かったならば、結局はうまくいかない。自分自身が徳を積まなければ、運命を切り拓く力を持つことはできないというものでした。なぜ自分は、小さい頃から何をやってもダメなのか、親や先生から努力が足りないとよく言われましたが、頭の出来が良くなかったせいか、努力しようにも努力の意味さえもわからずにもがいていました。「そうか、僕には徳が無かったのか」。その頃は、徳の意味などまるでわかりませんでしたが、何か心に響いて納得できるものがあったのです。

 

 ところで「徳」とは、いったい何なのでしょう。まず、徳について調べてみると、天保9年に天理教が立教する以前から、もともと日本文化の中で広く根付いていた考え方であったことがわかります。参考までに、その中の一つで、私が尊敬する江戸時代後期の思想家・二宮尊徳さん( よく小学校にある柴を背負った金次郎像の人) の考え方を紹介したいと思います。この方は、徳を「米作り」に例えてわかりやすく説明されています。想像してみてください。

 今年、皆さんが食べているお米は、昨年に誰かによって作られたお米です。田植えの始まる5月に、もう今年作ったお米を食べているという人はいないはずです。昨年の人が一生懸命に働いて作ってくれたお米を食べて、今年の人は生きている。昨年は、お米がたくさん取れたからといって、今年は、怠けてあまり働かなかったならば、来年の人は、生きていくために充分な食料を得ることができなくなってしまいます。昨年の人の働きに感謝して、今年はそれ以上に働いて、次なる来年の人に喜んでもらおうと努力するからこそ、自分も世の中も年々豊かになっていくのです。徳とは、このお米のようなもので、「徳とは得」、すなわち、得たもの、貰ったもの、与えられたものです。それに感謝して、今度は自分も努力して働き、さらなる徳を残していくことが、先の人の徳に報いることになり、このつながりが社会繁栄の基礎になるのだと説いています。ですから、そうやって考えると、学生さんであれば、身体も住んでいる家もお金や食事も自分で生み出したものではなく、ほとんどが親から与えられた徳ばかりです。だからこそ、それに感謝して今度は自分が将来に向けて努力をする。自分自身が新たな徳を生み出さなければ、ただ徳を食いつぶすだけの存在でしかなくなり、いつか必ず行き詰まってしまいます。二宮尊 徳さんは、この徳の思想を説いて「勤労」の大切さを世に広めました。これは、いわば世間一般に知られる「目に見える徳」の話です。

 私たちのおやさまは、この「目に見える徳」があるのと同じように、実は「目に見えない徳」もこの世を支配する天の道理として厳然とあることを教えられたのです。稿本天理教教祖伝逸話篇に、次のようなお話が載せられています。

 教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」と、仰せになった。こいそは、「形のある物は、失しのうたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」と、お答え申し上げた。
(稿本天理教教祖伝逸話篇 「63 目に見えん徳」)


 これだけのお話ですが、これは教祖が、いつも「目に見えない徳」の必要性を教えられていたことを彷彿とさせるエピソードです。このお話によると「目に見える徳」とは、「形のあるもの」で失くしたり盗られたりしてしまうもの。言いかえれば、財産や金銭、身体、衣食住といったものでしょう。そこから考えると「目に見えない徳」とは、逆に形のないもの。言いかえれば、運とか縁、心の力、魅力、人徳、信用、あるいは天のお導きといったものだろうと想像することができます。世の中に、努力が報われなかったり、能力や体力に優れていても、出会いやきっかけ、チャンスに恵まれなくてくすぶっている人、あるいは成功者になっても転落してしまう人がたくさんいるように、お道の教えでは、「目に見える徳」をどれだけ身につけることができても、「目に見えない徳」に乏しければ、それを生かしていくことはできないことを教えられているのだと思います。では、この目に見えない徳は、どうしたら身につけることができるのでしょうか。それは一言で言えば、親神様に喜んでいただけるような生き方を実践することです。

 たとえば、教祖は、一番の高弟である飯降伊蔵先生には、常に、

 「伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先きでどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受取りはありませんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済になるのやで」。
 (新版 飯降伊蔵伝)


 と教えられたので、飯降先生は、夜な夜な、人知れず壊れた橋を繕ったり、悪い道を直したりして教祖の教えを実践されたと聞きます。人のためにすることは与える一方なので、自分にとっては、いわば損の道です。陰で徳を積むということは、自分以外の他人とのために、見返りや報酬や評価を求めないで良い行いをすることです。おやさまは、それが親神様にお受け取りいただける行いで、目に見えない徳を積むことになるのだと教えてくださっているのです。

 話は戻りますが、この「僕には徳が無かった」という気づきは、15才の私に確かな目標を与えてくれました。私は、勉強やスポーツは人よりダメだけれども、おやさまの言われるような徳積み、これなら自分にもできそうだと思ったのです。そこで、せっかくおぢばの高校に行くのだから、在学中の3年間、教会本部神殿の廻廊拭ふき掃除を毎日欠かさずさせていただこうと心に決めて実行しました。果たして、それで私はすごい徳を手にすることができたのかと言えば、そうではなく、実は今もあの頃と変わらず徳はないと思っています。徳積みとは、生き方であり、人間が豊かに生きるために毎年一生懸命働いてお米を作り続けるように、生ある限り続けるもの。そういうものだと思います。ただ、高校時代の3年間、陰の徳積みを志して、ほぼ毎日欠かさず一人で黙々と廻廊を拭き続けたことで、ひ弱な心に何やら力がついて大きく成長させていただけた実感はあります。そして、大人になった今も問題や悩み事は尽きませんが、神様のお導きを肌身に感じながら、どんな時も心を曇らさず、むしろ陽気に晴ればれと暮らせています。これもきっと目に見えない徳の力ではないかと思うのです。
 天理教教会本部准員/天理教山名大教会長/諸井道隆の「15歳からの教理 vol.3」の「 親神天理王命」。
 第3回 親神天理王命 我が身の生命の働きを拝む

 世界には、さまざまな宗教があります。そして、さまざまなものを礼拝の対象にして拝んでいます。石や木から彫り出した像や絵に描いたもの、あるいは紙でできたものを神や仏と見立てて拝むものもあれば、海や山や大木や岩を崇拝する信仰もあります。では、私たちの天理教は、何を神として、何を拝んでいるのでしょうか。このことは、信仰の基本となる大切な事柄ですので、ちょっと難しい話になりますが、少しお話をさせていただきたいと思います。さて、本当の神様は、この世のどこにおられるのか。そのことについて、おやさまは、
「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし」
 (稿本天天理教教祖伝逸話篇164「可愛い一杯」)

 とお教えになられています。

 

 また、これに似た話として、これまで人間に拝ましてきたものはどれもこれも皆、紙や金や木を使って作ったものばかりであったが、実は、紙や金や木で作ったものの中には神が入り込むことができないのである。だが、人間の身体には神が入り込んでどんな守護もしているのであるから人間に勝る神はない、ということを聞かせていただきます。人間に勝る神はないとは、これは皆さん自身が神様であるという意味ではありません。人間を生かしている身体の中の生命の働き、それこそが拝むべき神の姿だということを言われているのです。

 

 このことをよくわからせるために親神様は、おやさまを通してこの世と人間の元初まりの真実を明かされるとともに、人間を創造し、今においても人体とこの世の森羅万象を支配されている親神様の守護を示され、それぞれに神名をつけて「十全の守護」としてわかりやすくお教えくださいました。

 一、くにとこたちのみこと
 月様で天、お姿は頭一つ尾一筋の大龍。人体の目と潤い、世界の水の守護。人体の約60パーセントは水だということを考えると、潤いは生命維持の最も大切な条件であることがわかります。

 

 二、をもたりのみこと
 日様で地、お姿は頭十二尾三筋で尾の先にそれぞれ剣のある大蛇。十二の頭は十二支の方に取り巻いて十二時、十二カ月の時間を支配している。人体の温み、世界の火の守護。体温が下がり身体が冷たくなれば、それは死を意味します。温みは生命維持の最も大切な条件の一つです。

 天理教教典(30頁)に、
 この世の元の神・実の神は、月日親神であって、月様を、くにとこたちのみこと日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。

 

 と述べられていますように、この世はこの月日親神様の身体であり、陰陽、火水などの二つ一つ、天地抱き合わせの守護によってこの世のすべてを支配されています。

 

 そして、以下の八柱の神名は、月日親神様が人間とこの世界を創るために使われた道具雛型であります。

 三、くにさづちのみこと
 女一の道具、皮つなぎ、世界の万つなぎの守護。一の道具とは、生殖器のことです。人体は、約60兆個の細胞から成っていると聞きますが、細胞をつなぎ、皮や肉を成すのはこの働きがあってこそです。金銭や人の縁をつないでくださるのもこの守護です。

 

 四、月よみのみこと
 男一の道具、骨つっぱり、世界の万つっぱりの守護。つっぱりとは、硬く硬直する意味でつっぱりがなければ人も物も立つことができません。

 

 五、くもよみのみこと
 人体の飲み食い出入りの働き、また世界の水気上げ下げの守護。食物が器官を通り、不要なものを排泄し、栄養を摂取した血液が隅々まで巡ることで生命が維持されています。

 

 六、かしこねのみこと
 息吹き分けの働き、風の守護。呼吸は生命維持の必須条件であり、また人は口から風を出すことで言葉を発することができます。

 以上、六つが私たちの身体を成り立たせている守護で、これを「身の内六台」とお教えいただきます。

 七、たいしよく天のみこと
 出産の時に母と子の胎縁を切り、出直しの時に息を引き取る世話。世界の切ることいっさいの守護。人の生き死に、悪縁や悪運を切ってくださるのもこの守護です。

 

 八、をふとのべのみこと
 出産の時に母胎から子を引き出す働きで、世界の引き出すこといっさいの守護。農作物が大地から生えてくるのもこの守護で、食物の恵みをもたらす大切な働きです。

 

 九、いざなぎのみこと
 男性の雛型・種となった元の父親。

 

 十、いざなみのみこと
 女性の雛型・苗代となった元の母親。

 人間創造の時、このいざなぎのみことの体内に、月よみのみことの男一の道具を仕込んで、月様が入り込み。いざなみのみことの体内にくにさづちのみことの女一の道具を仕込んで、日様が入り込み、人間創造の守護を教え、母親なるいざなみのみことの体内に子を宿し込んで、最初の人間が産みおろされました。この宿し込みの場所が、今おぢばのかんろだいが据えられている地点です。

 以上、この十全の守護によってこの世の摂理は保たれ、人体は生命の営みを続けていられるのです。すべては親神様の守護があっての賜物で、私たちの身体も自分の物ではなくて親神様からの借り物であります。そして、天理王命とは、この十柱の神名の総名であると聞かせていただきます。天理王命の神名を唱えることは、十柱の神名を併せ念じることで、我が身とこの世に溢れる十全の守護の一つひとつを拝する意味があると思わせていただきます。また、おやさまの高弟の先生が残したお話では、この十全の守護によって人間が創られた証拠に、人間には十本の指をつけておいたのだとも聞かせていただきます。両親指は、月日様、両小指は、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、あと六本は道具をあらわしていると聞かせていただきます。

 

  合掌は、世界共通の神を拝む自然な姿勢ですが、これは、十全の守護によって自分の体内に息づく生命の働き一つひとつを、またこの世に現わされる天地自然の恵みの一つひとつを拝んでいるのと同じ意味があるのだと悟らせていただけます。

 では、その拝むべき天理王命は、今、どこにいらっしゃるかということですが、親神様は、その神名を人間や像や物にではなく、未来永劫変わることのない人間創造の地点・ぢばに授けられましたので、ぢばにお鎮まりくださいます。ぢばは、月日親神様が人間を宿し込まれた地点で、生命の原点であり人類共通のふるさとでありますから私たちはぢばを拝し、天理王命の神名をとなえることで、自分がこの世に生を享けて、今に生かさせていただいてるご恩に報わせていただくのです。




(私論.私見)