敷島大教会

 更新日/2018(平成30).7.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、敷島大教会考をものしておく。

 2007.10.25日 れんだいこ拝



 「増野鼓雪の敷島大教会論」(増野鼓雪全集5)。
 「本部直轄の教会が多数ある中で、神様が打分け場所と仰せられたのは、我が敷島大教会と高安大教会の二ヶ所だけである。神様の御予言に、地場を中心に六里四方に内三十一ヶ所の打分け場所が出来ると仰せられてある。して見れば、九十三ヶ所の打分け場所の中、我が敷島は御地場に最も近い内三十一ヶ所の部に属するものである」(「國への土産」 より)。

 敷島大教会は、奈良県桜井市大字金屋806-1にある。0744-42-6602。
 上村吉三郎【うえむら きちさぶろう】

 天保9年(1838)1月28日生まれ(大和国十市郡倉橋村出屋鋪‐現・奈良県桜井市倉橋出屋敷) 。明治17年(1884)足のケガを山田伊八郎(心勇組初代講元)のおたすけでご守護頂く。この後、講元を譲り受けることで入信。心勇組2代講元。稿本天理教教祖伝』では明治16年、城島分教会(現敷島大教会)初代会長。明治28年(1895)11月24日、出直し(享年58歳)。

【大神大社と天理教敷島大教会との関係】
 大神大社の鳥居の南に天理教敷島大教会がある。敷島大教会は何故にこの地にあるのだろうか。これが偶然である訳がなかろう。これを推定して見る。

 敷島大教会の前身は、心勇組講である。心勇組は、1886(明治19).2.18(陰暦正月15)日、講元上村吉三郎に引率された心勇組の講中が7里の道を遠しともせず参詣にやって来て、「十二下り」をおつとめさせて頂きたいと御願いしたところ、お屋敷では警備取り締まりの厳しい折柄、この由を話し聞かせて断わったのに対し、一同が二階が信徒の宿泊所になっていた門前の豆腐屋こと村田長平方に引き揚げ、自然にお手振りが始まり声高らかに唱和し始め、これが原因で「教祖最期の御苦労」になったことで知られている。

 本部教理では心勇組の勇み足を咎める記述の仕方になっているが、教祖の受け取り方は違っていた。教祖は、心勇組のお手振りの声を聞いて、「心勇組は一の筆やなぁ」と取次ぎの者に仰せられたと伝えられている。ここで確認すべきは、当時のお道の教徒、講中が「応法の理」に従い、教祖の意向に反して逼塞していたところ、心勇組が唯一、教祖に一筋心になり匂いがけ、お助けに東奔西走していた講であったことである。

 これより先、1882(明治15).10.20日(9.9日)、熱心な道人である泉田藤吉系譜の信者が、和泉国豊中村我孫子(現在の大阪府泉大津市我孫子町)で、熱心な信者の一人が病人を救おうとしたあまり、死なせてしまうという不祥事件が起こして警察沙汰となった事件がある。これを「我孫子事件」と云う。事件の責任者であった泉田は、大阪で警察に拘引された際に堂々と所信を披瀝した。これを「泉田藤吉所信表明事件」と云う。事件は、当時の大坂朝日新聞等に大々的に取り上げられ、激しい非難を浴びせられることになった。当時のマスコミは得たりとばかり口を極めて攻撃し、これを大々的に取り上げて全国的な報道となった。我孫子事件は格好の天理教パッシングの材料になった。お道内にも動揺がひろがった。

 
本部教理では「信仰の浅い信者達が起した我孫子事件」として否定現象事件として釈明しているが、この時、教祖は、「さあ海越え山越え、海越え山越え、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで」と述べ、揺るぎのない信仰の義を指示している。これによれば、本部教理釈明と違って教祖は泉田籐吉らの跳ね上がりをむしろ激励していたと受け取るべきであろう。

 この系譜が敷島大教会創出へと向かっていることが判明する。その敷島大教会が他の大教会と違ってなぜ大神大社の入り口に居を構えたのかが問われねばならない。何らかの繋がりがあると読むべきであろう。

 敷島大教会の初代は、山田伊八郎(やまだ いはちろう)である。山田は、1848( 嘉永元).3.14日、大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)にて誕生し、1881(明治14)年、山中忠七の次女こいそ(いゑに改名)との結婚により信仰を始めている。同年末、教祖より名付けられた心勇組の講元となる。教祖より赤衣を授けられる。明治17年、上村吉三郎が入信し心勇組の講元を譲る。明治20年9月、本席よりお授けを戴いている。別席取次人となる。1899(明治32)年、城島分教会の2代会長の許しを受ける。1900(明治33)年、城島分教会を三輪町金屋886に移転する。城島を敷島と改名する等の許しを受ける。明治42年、敷島分教会が大教会に昇格改称する。明治44年、天理教教会本部役員に任命される。1916(大正5).8.21日出直している(享年69歳)。

 この履歴からは、敷島大教会が何故に大神大社の入り口脇に設置したのか特段のことは判明しない。しかし、何か強い因果関係があったものと思われる。追々確認して行くことにする。  

 ネット検索で次の一文に出くわしたので転載しておく。(第二節 山田伊八郎
 今日、教内でも大きな教勢をもつ敷島大教会は元々心勇組と言う山田伊八郎を講元とする講から始まっている。その心勇組は後に心勇講と改められ、出屋敷と宇陀地方の講社を一つにまとめられていったのであるが、当時その中でも、宇陀地方の信者の勢いは非常に熱烈なものがあり、「宇陀の白パッチ」と異名をとるほどのものであった。その頃の、勢いは現在も敷島大教会の部内の宇陀地方の教会や信者の中で燃え続けている。これだけの宇陀の信者を導き、また自ら宇陀地方へ出向いて布教し、人々の信頼を一挙に集めた山田伊八郎について、宇陀地方の伝道とのかかわりを焦点に合わせながら研究して行くことにする。

 山田伊八郎は嘉永元年三月十四日、十市郡倉橋村出屋敷にて父伊平、母タカの長男として生まれた。山田家は元々豪族の子孫で、雇用人も多く裕福であった。伊八郎も恵まれた環境の中、勉学に努める機会も多く、周囲の人々からの信頼が厚かったようである。更に、大変親孝行で信仰熱心で両親の信仰もあって融通念仏宗を信仰していたのである。そのような信心深い伊八郎は縁あって明治十四年、大豆越村の山中忠七の娘こいそを嫁に貰うことになった。彼女はそれまで教祖のそばでお仕えしており、この結婚について教祖にお伺いしたところ、教祖は講社名簿を眺めながら「南半国はまだ道がついておらん、南半国道弘めにだす。」と仰せになったと伝えられている。

 その後、伊八郎は義父からお道の話を聞き、天理教を信仰するようになり、その年には同村で兼ねてから信仰のあったものが組を結成することになり、心勇組と名付け、伊八郎が講元としてつとめることになったのである。また、妻こいそがをびや許しを頂き、不思議な御守護を見せて頂いたのをきっかけに、伊八郎とこいその布教が始まった。翌年明治十五年には分家の山本いさが長男を出産後、病に悩まされ足腰が立たないようになった。しかし、伊八郎らの懸命の布教と、忠七の扇の伺いによって御守護頂き、この不思議な助けによって、お道は一気に広まって行ったのである。特に、宇陀地方ではこの不思議な話がきっかけとなって入信者が一気に増加したのである。 

 『山田伊八郎傳』によると、この話は伊八郎から事情たすけを頂いた上田音吉から宇陀郡西山村の森本治良平へ、また心勇組内の布教師から栗原村、忍阪村等へ、助けられた山本いさは実家の笠間村、神戸村の麻生田、上宮奥、百市へと次から次へ伝えられ、心勇組の信仰は飛躍的に伸び広まったのである。この広がりの力は総てが伊八郎自身の布教によるものであるとは限らないが、彼を講元としている以上、道の広がりと共に彼の足もその方面に向けられていたことは確かであると考える。

 特に、この年に宇陀地方へ急速にお道が伸びていることは明確であり、出屋敷と宇陀を結ぶ街道が多く利用されたと考えられる。この街道は松山街道と呼ばれ、その交通路として主として三線あり、北より女寄峠、半阪、宮奥の大峠である。心勇組によって布教された地域を当時の地図のうえで確認してみると、麻生田には女寄峠を、忍阪村、栗原村には半阪を、宮奥には大峠を利用したものと考えられる。それぞれは当時の伊勢街道に匹敵するほど交通量も多く、人や物資の交流が盛んであった。特に、大峠などは薪炭を峠越しに搬出するために利用されたらしい。

 『山田伊八郎傳』によると、伊八郎もよくこの松山街道を利用して宇陀、吉野、上市、川上、北山方面に布教し、特に半阪峠が常の街道であったとされている。その布教の過程に次のような話が残されている。伊八郎は宇陀から吉野にかけての布教のときは、半阪を越えてから伊賀街道を南に進み、宇陀郡神戸村関戸を経て行くのであるが、その時はいつもその村の有名な講元である田中徳三郎の家に立ち寄り、四、五日ほどそこに滞在し、おたすけや教理の伝承につとめていた。ある時、その家に滞在していると、小角峠に暮らす人が突然飛び込んできて、イロリに落ちた子供を助けて欲しいという。伊八郎は早速その人の家にいき、ほとんど危ない状態になっている子供におさづけを取り次いだところ、不思議な御守護を頂いたということである。そしてこのことがあってから、彼がこの地に訪れたときには村人が皆集まり、伊八郎の背中を拝んだということである。

 伊八郎は宇陀の布教において、特に西部の伊賀街道を利用しながら南の方へ歩き、何日もの日数をかけてこつこつと布教して行ったものと考えられる。そしてこれは彼の教祖から任された「南半国道弘め」の使命を全うしようとした行動でもあるとも考えられる。

 こうして、心勇組の信仰が安定して来ると、おつとめの出来る者を増やそうと、明治十六年、おぢばより先生を迎えてお手直しを実施するようになった。一回目、二回目は出屋敷村の信者がそれを受けたが、三回目以降は他村在住の信者も受講している。宇陀の信者も西山村の森本治良平ら三十五人が伊八郎より直接お手直しを受けている。

 明治十八年、心勇組の拡大の話が持ち上がり、上村吉三郎、上田音松、加見兵四郎、小西定吉、森本治良平らによって相談がなされた。その結果、上村吉三郎を講元とする心勇講が結成されたのであるが、何故かここには伊八郎の名前は挙がっていない。上村による心得違いの行動があったものだとされている。この事情については、ここでは触れない。

 いずれにしても新しく大きくなった心勇講において、伊八郎の布教に対する思いは前と変わらず、以前よりも増して熱心につとめたのである。そして、その翌年明治十九年心勇講の一団、三百名程がておどり練習の総仕上げとしておぢばに参拝した。ところが当時はまだ官憲の迫害が厳しいときで、本部の先生からも「教祖に御苦労がかかるのでお帰り戴きたい。」との言葉を頂いた。しかし、それでは気が済まぬと門前の豆腐屋という旅館で賑やかにおつとめをはじめ、その声を聞かれた教祖は「心勇講はいつも熱心やなあ。心勇講は一の筆や。」という結構なことばをおかけ下されたのである。このとき集まっていた信者のほとんどは宇陀地方の信者であり、このとき宇陀の信者がきまって白のパッチを履いていたことから、「宇陀の白パッチ」と呼ばれるようになったのは有名な話である。

 しかし、この信者たちの信仰への熱烈な思いは一転して教祖に最後の御苦労をおかけしたのである。このとき、伊八郎は参加していなかったが、この事情を聞き、自分の不徳の為だと自らを責め、初代講元としてさんげの道を通ろうと誓ったのである。現在もこのさんげの道は続いており、毎月十五日には宇陀地方の信者は元より、敷島大教会につながる信者が早朝からおぢばに集い、廻廊ひのきしんをさせて頂いている。私もほとんど毎月、このひのきしんに参加させて頂き、当時の教祖の御苦労を忍ばさせて頂いている。

 そして、明治二十年人々の思いとは逆に教祖はお身をお隠しになり、人々に落胆を与えたが、本席様を頂いたことで、また信仰生活に活気を取り戻して行ったのである。

 この年の三月には宇陀郡菟田野町古市場から御杖村菅原に至るまで、三日間の道路の改修ひのきしんとして心勇講から三十四名が参加している。このころは、あちらこちらで道路の改修が行われていたが、伊勢街道でもあるこの道は利用率も非常に高く、地域の人々にとっても有り難く思われていたと考えられる。

 こうして心勇講もだんだんと信者の心を寄りもどし、伊八郎にとっても前以上の布教への熱意が高まって来たのである。そんな中、心勇講の教会設置の気運が高まりつつあった。この時、宇陀郡神戸村野依の地に教会設置の計画が持ち上がったのである。それは熱意ある多くの宇陀の信者の希望でもあり、伊八郎らによって布教された宇陀地方の人々が、かなり熱心であったことの現れであるとも考える。そこで立木の買い入れや竹縄などの寄進を募り始め、準備は段々と進んで行った。 しかし、他地域の講元達が反対をし、宇陀地方への教会設置が取りやめになり、かわって式上郡城島村に設置することになった。これはそれぞれの講元が相談した結果、地域の教勢の中心として、式上郡が良いと判断したからである。しかし、逆にこのことを信者の信仰心から言えば、宇陀の信者が心勇講の中でも中心的役割を果していたと考えられる。  

 明治三十二年、伊八郎はおさしづより城島分教会二代会長に任命され、新たな真をもって栄えて行ったのである。そして後に教会名を「城島」から「敷島」に改正され、更に明治四十二年には敷島大教会に昇格したのである。

 その間に、教祖三十年祭があり、本部の神殿ふしんの打ち出しがあった。本部員の増野正兵衛先生より「敷島は宇陀、吉野、高見山に近いところに部内教会があるから、ふしんの献木をしっかり頼む。」とお話し下され、伊八郎も献木の心定めをさせて頂いたのである。この献木については、宇陀地方も大きなお徳を頂いた。後に述べる御杖村の敷島部属大勢分教会は特にこの献木活動に対して中心的役割をつとめている。こうしたことから宇陀山地が広がる室生、曾爾、御杖村の山々が敵地とされたのである。

 伊八郎の日誌によれば、木材の買い入れ先として「宇陀郡神末、同菅野」と記している。また宇陀地方の献木の伊八郎宛の書簡によれば「当所においても諸方駆け廻り、八本見付けさせて頂き、|略|之が運搬に付いては土持ちに帰らせて頂く可き人夫を募集して、途中御木引きとして賑々敷く運搬させて頂く|略|当村大字神末に於て元にて九尺強廻りの木を一本見付け、献木させていただかんとして|略|。」と書かれている。つまり、御杖村の神末、菅野が宇陀地方からの献木地の中心とされており、宇陀山地での信者の出入りが多くあったと考えられる。このことは今まで、宇陀地方の西部の宇陀盆地地域が布教師達によって多く伝道されたのに対し、山地として地理的にも出入りの困難な、宇陀山地地域への伝道が一転して高まり、信者の増加につながったのではないかと考えられる。

 更に、前述の書簡に出ているように、集められた献木の運搬について途中御木引きをして運搬されたようで、このことについて、私の父の話では、宇陀地方の信者や山仕事をしている人々によって、人力で運ばれたらしい。つまり細い丸太を何十本と街道に並べ、大木を滑らすようにして伊勢街道を運搬したのである。 

 この献木活動の結果、宇陀地方からは柱材四本、長押高梁二十本を献上したのである。更に、こうした形のふしんを通して、伊八郎を真とする宇陀地方の総ての信者は勇み立ち、心のふしんにつながったと思う。また、同時に、宇陀地方の伝道においても、信仰がほぼ全域に行き届いたと考えて良いのではないか。 伊八郎は初期の伝道において、宇陀地方単独で布教し、多くの信者をつくった。そして晩年は敷島大教会二代会長として大きな功績を残し、宇陀の信者にとっても、心置きなく頼れる存在であったと思う。それは「南半国道弘め」の教祖の言葉をいつも心に刻み、下向きな心で通った伊八郎の神一条の精神に外ならないと考られる。同時に、そうした彼の信仰心は宇陀地方の伝道の広がりに、大いにつながりをもっていたと思われる。

 ネット検索で次の一文に出くわしたので転載しておく。(天理教教祖中山みきの口伝等紹介
 山中忠七先生について(その一) (作成者 リ・ラックマン、2008年8.21日)

 ※次に紹介させて頂くお話は、兵神大教会三代会長である清水由松さん(山澤良助さんの実弟清次郎さんの四男、明治33年、清水家に養子に入る。明治34年より本席邸詰青年として本席様出直しまで勤める)の自叙伝「清水由松傳稿本」という書籍より、山中忠七先生について語られている部分を引用させて頂いたものです。山田伊八郎さんについても触れられておりますが、歴史上の出来事に対する捉え方が「山田伊八郎伝」とはかなり異なる(誤った解釈では?と思える)箇所もあります。しかし、私がそう思うからと言ってその部分を削除するのは、良くないと思っております。敷島の系統の歴史から学ばせて頂いた事(おさしづ隠匿問題など)に対して、それを生かせていない事になると思うからです。そういう事を踏まえた上でお読み下さい。

 先生は元治元年1月、夫人おそのさんの、産後と痔のわづらいをお助け頂いて入信した人で、織田村の木下清蔵(※1)という人から匂をかけてもらったと聞いている。何しろあざやかに不思議なお助けを頂き、教祖様から直き直きお話も聞かしてもらい、爾来非常に熱心し、元治元年、最初のつとめ場所の建築にも穴師の纒向山のにあった持山の木をきって献納し、夫婦ともども「よろづ伺いのさづけ」を頂き、忠七さんは「扇の伺」と「肥のさづけ」とを頂いておられる。

 家は代々豪農で、身体は頑健、横に巾の広い朝は早くから起きて人の倍も働く人であった。煙草はのまなかったが酒は三度の御飯より好きなほうで、とても質素倹約で無駄を一切せぬような人であった。家内の身上をお助け頂いてからは、お屋敷へ日参し、その度毎に米一升づつ袋へ入れてさげて詣られた。そしてその往き帰りの道中では、古い縄ぎれ、古草履古わらじを拾って帰って何かの用にされた。私の実父の話では、木屑棒ぎれその他何でもかでも見のがさずに拾って帰った人である。こうして日参している内に、教祖様に段々と結構な理をきかしてもらい、親戚の山沢良助(新泉)、岡本重治郎(永原)、藤本清治郎(坂平)、上田平治(大西)、等に匂いがけして皆な熱心な道の信仰に入らせた。

 それから教祖様は娘のこいそさんを秀司先生の嫁に貰いうけると仰言ったが、当時のお屋敷は殆んど食うに事かく貧乏のどん底時代であった。それがためいくら神様の仰せでも、そんな困難な所へは親として娘が可愛想でやれんと、とうとうお断りして家内の妹の息子栄蔵(芝村)が小学校の先生をしている所へ嫁がせた。その頃は小学校の先生といえば社会的にもあがめられ、生活も俸給で楽にゆけるので、これならと思ってめあわしたのである。ところが栄蔵さんは酒のみで品行が悪く、とうとう不縁になり、後に敷島の初代会長(※註・二代会長の誤り)となった倉橋村の山田伊八郎さんに再縁させた。伊八郎さんは仏教の熱心者で、寺の一番の旦那であった。熱心に忠七さんが匂い掛けしてもなかなか聞かなかったが、庄屋敷の神様は結講だからと無理強いにお屋敷へ連れて詣り、教祖様にお目にかからせた。それから始めて伊八郎さんも道の信仰に入れて頂いた。

 その後、伊八郎さんは身上にかかり、又家にも事情ができて、不思議なお助けに浴し、爾来信心した仏教もやめてお道の布教に熱心するようになって、沢山の信徒も結成された。これが心勇講であり、後の敷島大教会である。そして□□吉三郎さんが村の顔役であったのでこの人を講元に立てて講を組織したのである。(※註・この辺りの話も「山田伊八郎伝」と異なる見解)

 教祖様は山田さんが入信以来なかなか熱心に運ぶので、『
大和の南半国道をやろう』と仰言ったと聞いている。本席様はよく「明治16年、教祖様の御休息所の建築の時、山田はんが持山の桧の木を伐って献納してくれたのや」と仰言った。尚そのお話に続いて、「わしが休息所の建築の時、丹波市警察署へ拘留されて、その材木どこからあげてもうたかと責められたんや。それで山田伊八郎から買いましたというとなあ、そんなら早速調べるというて、山田はんを呼び出された。山田はんは、お前飯降伊蔵に材木売ったかときかれて、はいこれこれで売り渡しましたと受取を見せたので、警察も案に相違してどうしようもあらへん。実はこんなこともあろうかと思うて、山田はんに受取をわたしといたんや。それでわしも無事釈放された」とよくおきかせ下された。(つづく)

 ※1‥「山中忠七傳」(昭和40年10月発行、山中忠正・山中忠昭編)の11頁には、芝村の清兵衛という人が匂をかけたとある。高野友治さんの「先人素描」は「清水由松傳稿本」と同じ。

 作成者 リ・ラックマン : 2008年8月21日(木)
 山中忠七先生について(その二)

 (つづき)~こんな訳で心勇講を結成する時も、前述の通り土地の顔役であった□□はんに、山田さんから頼んで講元の名前をもってもろうたのであって、実際は山田さんが講元とならねばならんところを、おとなしい温厚な人であった為、譲ったのである(※註・この辺りも「山田伊八郎伝」と異なる見解)。そして明治二十三年三月十七日□□さんを会長として敷島分教会の設置のお許を得たのである。その後□□さんはお屋敷へ入れてもらい、平野さんと特に心易くなり、道の草創時代につくして本部員にもしてもらい、教会設置の折に敷島の初代会長となられたが、早く明治28年11.24日出直してしまい、息子は会長を継ぐつもりでいたが、極道のため見込なく、その整理に増野正兵衛先生が入られた。その時、会長の候補者が山田伊八郎さん始め、峯畑為吉、加見兵四郎さんなど沢山あって、どの人を会長にして良いか大変迷われた揚句、正式にお指図を仰ぐのでなく、人間として又先輩としての本席様に伺われたのである。すると教祖様の休息所建築の折のお話が出た。そこで増野先生も「そういう元つくした理があるならそれで結講で御座います」と、早速山田伊八郎さんを後継者と決定してお許しを頂かれた。この話は私が本席様から直接に聞かして頂いた間違いのない話である。

 その後□□さんの息子は、いろいろ山田はんを苦しめ、時には抜刀しておどかしたりしたが、後に自決して果て、その未亡人はお屋敷で生涯つとめさしてもらい、孫養子福太郎さんが集成部に入れてもらって現在に及んでいる。(※「山田伊八郎伝」によると、庄作さんは昭和9年8月58歳の時から、さんげの為か、別科53期生に入学、その後敷島詰所のひのきしんをつとめ、二年後に詰所において出直した、とある。)

 とにかく敷島の大きい理は、山田伊八郎さんによってできたのである。同家はもと相当な資産家であったが道の為にその殆んどを果たしてしまい(親戚の頼母子の損害もうけたが)どん底に落ちきった。嫁の親として山中忠七先生も見るに見かねて取りもどそうとされたこともあった。けれども敷島分教会もでき、夫婦とも道の為に懸命に働いているし子供も多いことなので辛棒された。おいえさんは子供が多いし、その中に盲目の妹もあったし、夫伊八郎は布教に出て留守ばかりのむつかしい家庭にあって真黒になって働き、夏は高い山田のあぜの草刈から肥かつぎまでして、風呂も焚かず昔の古家に住んで、夜暗くなってから谷川で水浴してすまし、麦飯に塩気もないおかゆを啜(すす)って、その中を夫をはげまして通りきった。何しろ前に一度不縁になっていることだし、最初教祖様のお言葉通り秀司先生にもらいうけられて、若い時に苦労しといたらあとあと何ぼう結講であったか知れないものを、親の忠七さんが娘に苦労させたくないと折角のお言葉にそむいて、これならとかたずけたところが前に述べたような始末で不縁になったのだから、今度も亦わが子可愛いにひかされてはと泣く泣く辛棒されたのである。けれども親神様のお影で敷島の道の母となって、末代の古記を残すことになった。親神様はたとえそのお言葉にそむいた者でもお見捨てなさらず、手を変え品変えて結講にお通し下さる。ほんとに有難い事である。晩年忠七さんも、「おいえを秀司先生の嫁にと仰言る以前に、大豆越は親類同様にしてやろうと教祖様おきかせ下さったのに、娘可愛いばっかりに惜しいことをした」とよく述懐して居られた。教祖様の仰せ通りにしておけば、中山家の親戚として頂けたのである。おいゑさんは教祖様から「こいそ」と名前を頂いたが、嫁入先で名前をかえる当時の習慣に従い、芝村へ嫁いだ時に「いえ」とされた。この人は姉弟五人の内でも一番お道に熱心勝気で根性も亦しっかりしていた。身長五尺二寸、当時の婦人としては背が高い方で、色白の卵型の顔立ちできりよう(器量)は良かった。(つづく)
 山中忠七先生について(その三)

 (中略)~さて忠七先生の頂かれた扇の伺いというのは、その理を許された人が神様に向って座り、日の丸扇子笏板(しゃくいた)で一揖(※1)する時の様に両手でもって平伏して神意を伺う。その時伺う人の心に浮ばして下さる。それを伺った人にとりつぐのであって、伺の扇が倒れる方向によって神意を悟るものだという人があるのはどうかと思う。「よろづ伺い」は、その理を許された人が扇子をもたずに神前に平伏し心に浮んだ理をとりつがれるのである。

 「肥のさづけ」は、さづけを頂いてる人が土三合、糠(ぬか)三合、灰三合をまぜあわせて神前にお供してお願すると、それが肥一駄即ち四十貫の肥になる。然しこれは自分の田畑にだけ使用することに限られているから、他人に与えても理がきかない。辻忠作先生のお話では「神さんは反四石五石米をとらすと仰言っていたが、人間心の欲があってそれだけ与を頂くだけに心が澄まんからいかんのや」と仰言っていた。大体普通の肥を置かずに収穫は相当頂けるが、藁が余り大きくならない。その上肥のさづけを置いたものは、長年にわたって出来不出来がなく、収量が平均しているから結局ずっと普通より出来が良いということである。

 忠七先生は又めどう(目標)の御幣をきってそれを記念(※2)して神様に御祭りさしてもらう理も頂いておられた。私の実父が忠七先生に「忠七さん、内の神さんのめどうないよってん(ないから)あんた御幣さんきって、一ついわいこめてもらいたい」とたのんで、忠七さんにすぐそうしてもらって、それを朝夕拝んでいたが、その後本部から「奉修天理王命」というお札を頂いて、共に神棚におまつりした。これを当時「おがみつけ」と言い、後明治41年秋、一派独立なってから、現在と同様御神鏡を下附される事になった。

 さて忠七先生は、晩年お屋敷内に家を一軒東南隅に建てて頂き(小南の南側東寄り)そこに住居し、御供包みなどしていられたが、後老衰して大豆越の離れの上段の間に起居し、明治35年11.22日、七十六才で出直しされた。葬儀は初代真柱様斎主の下に執行され大豆越の墓地に葬られ、そのみたまは夫婦とも、中山家のみたまやへ本席夫婦と共に合祀された。

 昭和二十八年十二月発行「清水由松傳稿本」(編者・橋本正治、芳洋史料集成部発行)90~91ページより
 ※1「一揖(いちゆう)」‥軽く会釈をする事。
 ※2「記念して」‥この場合あきらかに”祈念して~”が正しい。誤り。
 祈念→神仏に願いがかなうよう祈ること。祈願。


   2010.7.23日 れんだいこ拝





(私論.私見)