第6部 | 女王国、卑弥呼について |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.10日
これより前は、「倭国の風俗について」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、女王国及び卑弥呼について検証解析する。 2006.11.27日 れんだいこ拝 |
租賦を収む。 |
国の邸閣(倉庫)有り。 |
国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる。 |
女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを畏れ憚る。 |
國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る。 |
【総合解説】 |
ここでは、邪馬台国、その女王国全体を含む倭国の租税、市場、検察について論述している。 |
【逐条解説】 |
「租賦を収む」について |
祖賦は、租税として賦課されるものであり、農産物や海産物などを納めさせたのであろう。倭国で既に貨幣制度が敷かれていたかどうか定かでないが、壹世紀の初めに中国で鋳造された貨泉という貨幣が、日本において弥生時代中期の遺跡から発見されていることから推測すると、当時の人たちが貨幣の存在を知り、一部では使用されていたことも推測される。それが金属であったのか、貝殻、石、木片であったのかはよくわからない。 |
「国の邸閣(倉庫)有り」について |
邸閣とあるのは、倉庫よりも立派なという意味において解釈され、恐らく納税の為の役所と倉庫を合わせた建物と考えられる。 |
「国に市有り、有無を交易し」について |
この頃の市(いち)として、奈良県桜井市の三輪山の西南麓で、初瀬谷の北側の入口にあたる所が 山辺道(やまのべのみち)・磐余山田道(いわれのやまだみち)
・上(かみ)ツ道・泊瀬道(はつせみち) ・横大道(よこおおじ)などの交わるところで、 初瀬川による水上交通もこの辺りを起点としており、水陸の交通の要衝であったところから、
古くから市が開かれており、歌垣の催される場でもあった「椿市」(つばきち、つばきいち。「海石榴市」とも書く)が知られている。 長谷寺参詣の入り口としても栄えた。 武烈紀に海石榴市の歌垣の記事が見える。 市には呪的な樹木と考えられた椿が植えられていたようで、海石榴市はそれによる地名であろう。 「海石榴」は「椿」に同じ意の漢語である。平安期には長谷寺参詣の盛行に伴い市場・宿駅として機能していた。現在、椿市観音という堂がある。 |
「大倭にこれを監せしめる」について |
「大倭」ははっきりしない。「大倭」が単数なのか複数なのかはっきりしない。各国に一人ずつ「大倭」がいたと考えると、現代風に云えば市長とか知事のような行政官を指すものと思われる。 倭国からの派遣官吏か、現地採用の役人で、市の監督官吏にふさわしい人を指しているとも考えられる。大倭を大和朝廷を指すとみる説もある。 |
「女王国より以北には」について |
通説は、女王国を邪馬台国の俗称と解釈する。私説は、女王国とは邪馬台国+周辺の21ケ国と理解する。従って、本項は、女王国より北の国々には、と解釈される。 この文意によって女王国の比定地に対するメッセージとして、女王国の北方に諸国が所在したことが明らかとなり、北九州の一角に邪馬台国を比定することが無理となることを伺うことができる。 |
「特に一大率を置き検察す。諸国これを畏れ憚る」について |
ここに「一大率」が登場する。「一大率」とは何者か。全体文は「自女王國以北、特置一大率、儉察諸國、諸國畏憚。常治伊都國、於國中有如刺史」である。次のように訳されている。「女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割をもっている」。 「一大率」を、「一大」の率と読むのか、一人の「大率」と読むのかの問題もある。「率」をどう読むのかと云う問題もある。文意から見て、「ひきいる者」という意の「率」であろう。これを「スイ」と読み「帥」に通じさせるのか、「ソツ」と読み「卒」と充てるのかと云うことになる。いずれにせよ、強い権限を持つ統括官と云う意味であろう。 |
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私説は、「自女王國以北、特置一大率、儉察諸國、諸國畏憚。常治伊都國、於國中有如刺史」を次のように訳す。「女王国より北には、特別に一大率を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。一大率とは、伊都国に置かれ、又それぞれの国にも置かれている刺史(しし)のような役割をもっている」。こう理解しないと、伊都国の項で一大率がなぜ語られなかったかと云う問題に逢着するからである。伊都国の項で官吏として官として爾支、副として泄謨觚.柄渠觚が語られている。一大率はこれに見合うような監察官であると記していると窺いたい。 私説は、「一大率」は、邪馬台国、卑弥呼に直結する高官と解する。なぜなら、この下りは、女王国の統治ぶりを解説している箇所であるからである。邪馬台国が、この伊都国に「一大率」を置くのは、魏や帯方郡、諸韓国との外交の窓口且つ「諸国検察」に当たらせていたと推定し得るように思われる。女王国圏には宿敵「狗邪国」が存在しており、統治を競っていたとみなしたい。 ちなみに「一大国」の「一大」と表記が同じであるが、絡むのか絡まないのかは分からない。「一大国」を「壱岐国」と読み変え、「一大率」をそのまま「一だい率」と読むのも疑問なしとしない。何か釈然としないものがある。 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝 |
「國中を、常に伊都國で治する」について |
伊都国は、王統譜の存在、外交上の枢要地、軍事力の一大拠点となっていることが伺われる。 この文章によって、邪馬台国連合国の統治構造が明らかとなる。つまり実務的には伊都国がその主体であり、邪馬台国はいわば象徴乃至最高機密に責任を持つだけの存在であるという二重構造が浮き彫りにされる。 |
「刺史の如く有る」について |
中国の州の長官のような有様である、と解釈される。「刺」は、不法をたずね、告発するする意で、「史」は使いの意で、その職権は重い。後漢には「刺史」は州内に治所を有して民政にも関与し、のち兵権をも握るようになって権限を強めた。しかし、魏.晋の時代になると、都督に「刺史」を兼任させるようになった。従って、一大率が、女王国より以北の諸国を巡撫するかたわら、検察や軍事、そして外交官系の事務をつかさどったとみてたよい。伊都国においては、一大率の官職が設置され、この官職の一つは、魏使が倭国に着いた時、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふというのである。魏使の通常の上陸地は末盧国であり、従って津は末盧国の津である。とすれば、一大率は常には伊都国にいるが、外交上の問題があると、必ず末盧国に赴いて事務処理に当ったわけである。従って末盧国は行政的には恐らく伊都国の支配下にあり、又外交面では邪馬台国より派遣されている一大卒の検察下にあったとみるべきであろう。 |
王、使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で、 (王遣使詣京都帯方郡諸韓国) |
及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、 (及郡使倭国 皆臨津捜露) |
文書を伝送し遺の物を賜ふ。 (傳送文書賜遺之物」) |
女王に詣で、不得差錯。 (詣女王不得差錯) |
【総合解説】 |
ここでは、邪馬台国、その女王国全体を含む倭国の外交について論述している。 |
【逐条解説】 |
「王」について |
ここで云う「王」が女王なのか女王以外の王なのかを詮議せねばならない。単に「王」とある意味は、女王以外の意味が含意されていると解したい。 |
「使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で」について |
字義通り。 |
「及び郡の倭国に使するや」について |
「帯方郡の使者が倭国へやって来た時には」。 |
「皆津に臨みて現われるを捜し」について |
「皆津に臨みて」は、「いつも(一大率が)津(港)に出向いて」。 |
「現われるを捜し」は、「使者が現れるのを待ち捜す」。「捜露」とは、文書や賜物を露わにして(広げて)、一つ一つ間違いがないか確認するの意味である。郡使は、荷物(文書・賜物)を広げて確認してから荷物を一大率に引き渡すことを決まりとしていた、との解釈もある。 |
「文書を伝送し遺の物を賜ふ」について |
「伝送」とは、そのまんま”伝えて送る”ことを指す。文書や賜物を「捜露(調査、確認)し、女王に「伝送」する。今日の税関業務のようなことを行っていたのであろう。ここで、わかる事は、郡使たちは持ってきた荷物(文書・賜物)を直接女王へ届けるのではなく、伊都国の港で一大率に引き渡していたということである。 |
「女王に詣でて、差錯することを得ず」について |
「女王に詣でて」は字義通り。「差錯することを得ず」は、「紛失したり抜き取り等の間違いは許されない」。 |
下戸、大人と道路で相遭えば、逡巡して草に入り、 |
辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、両手は地に據り、之を恭敬と為す。 |
対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し。 |
【総合解説】 |
ここでは、倭国の臣下の礼法について論述している。 |
【逐条解説】 |
「女王に詣でて、差錯することを得ず」について |
字義通り。 |
「下戸、大人と道路で相遭えば」について |
字義通り。 |
「逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、両手は地に據り、之を恭敬と為す」について |
この様子は、江戸時代の参勤交代時の土百姓の礼儀作法を髣髴とさせる。こういうところにも伝統が続いていることを見て取ることができるのではなかろうか。 |
「対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し」について |
御覧魏志では、「噫噫」となっている。これをどう読むかということでは後世の史料になるが、日本書紀.神武即位前紀には返答の際の辞として、「唯唯」が使われており、これを右同じと考えると、「ああ」または「おお」を表わしているとみることが出来る。 |
其の國、本亦男子を以って王と為す。 |
住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。 |
【総合解説】 | ||||
ここでは、倭国の政情について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。
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【逐条解説】 |
「其の國」について |
「其の国」とは、倭の諸小国を含めた説と邪馬台国説とに分かれる。井上光貞氏は「日本国家の起源」の中で、「其の國、本亦男子を以って王と為す とあるのは、先に、57年に奴国王が、107年に帥升らが貢献したことなどを指しており、従って、男子を王としたというその国は、奴国や帥升らの国の総称であり、従って倭国であって、決して邪馬台国ではない」と する。一方、上田正昭氏は、「倭国の世界」で、「其の国とは倭国のことだ が、ここでは倭国とは倭の諸国を指すのではなく、邪馬台国を指す」と理解している。 |
「本亦」について |
「本」は、時制句であり、過去から現在に連なる比較を意味している。 「亦」は、「官は亦卑狗と曰い、亦南北に市てきす」とある「亦」が、いずれも対馬との比較を示しているように、文中に比較の対象がある場合に、この字を用いられておることがわかる。「亦」が示す比較の対象は、一国内における過去と現在を比較したものではなく、倭人伝の中の他の国との比較を示している。 本亦であり、過去から現在に連なる他国との比較ということになる。 |
「男子を以って王と為す」について |
字義通り。 |
「住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」について | ||||||||||||
「住こと七八十年」年代については、他の史書との比較に基づいて次のように推定される。
これによれば、「住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」について、後漢書倭伝及び随書倭国伝とも「桓.霊の間」と記している。桓帝の治政は146(本初元)年~167(永康元)年であり、霊帝の治政は167(永康元)年~189(中平6)年であり、両帝の全期間中という意味に解せば、146年から189年迄の約40年間ということになる。短く解せば、桓帝の末期から霊帝の初めの頃にかけてという意味において167年前後ということになる。なお、梁書倭伝や北史には「漢の霊帝の光和中」と記している。霊帝の光和中とは178年から183年の御代の6年間を指す。ちなみに184年、恒霊の御代、最大の事件となった黄巾の乱が発生している。中国史にあって、この黄巾の乱は、後漢の崩壊と魏、呉、蜀の三国時代
( 220~280年 ) の誕生の要因となった大事件として記録されている。黄金の乱で中国全土が戦場となり、朝鮮半島には、その乱をさけて莫大な数の難民が押し寄せることになった。こういう動乱時代に、「倭国乱れ、相攻伐す」となっていたことになる。 |
年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。 |
名は卑彌呼と曰い、 |
鬼道を事とし、衆を能く惑わす。 |
年已に長大なるも夫壻無し。(年已長大、無夫壻) |
男弟有り佐けて國を治む。(有男弟佐治國) |
王と為して以来、見た者少なし。(自爲王以來、少有見者) |
婢千人を以って自ら侍らす。 |
唯、男子一人有り、飲食を給し、出入りして辞を伝える。(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入) |
居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、(居處宮室・樓觀、城柵嚴設) |
常に人有り兵を持って守衛す。 |
【総合解説】 | ||||
ここでは、邪馬台国女王卑弥呼について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。
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【逐条解説】 |
「年を経て」について |
中国内政変での新漢系国と反漢系国との対立が倭国にも及んだものと思われる。この時期の二世紀中葉から末期にかけて倭国でも動乱が確かめられる。この大乱の内容を廻っては諸説ある。一つは、奴国対邪馬台国連合の争乱と位置付ける説。一つは、北九州勢力対畿内勢力との争乱説である。 |
「すなわち共に一女子を立て王と為す」について |
「共に」とは「共立した」ということであり、この当時の倭国が集合国家ないしは連合国家であったことを意味している。「一女子を立て王と為す」とは女治制国家となったことを告げている。興味深いことは、この背後に「合議制」が垣間見えることである。原始的な部族社会にあっては、首長たちによる一種の合議制があったことが知られている。古事記や日本書紀においても、スサノオノミコト追放にあたって、「八百万の神、共に議りて」という記述が見受けられる。同様な意味で、「合議制」によって女治制国家になったことが明らかにされていると窺いたい。 |
「卑彌呼が女王として共立合意された場所」について |
「卑彌呼が女王として共立合意された場所」について議論が及んでいない。一説に、「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立譚」が伝承されている。詳細は「米子市淀江・三輪神社考」に記す。これによれば、倭の大乱後、大和・出雲双方の代表が集り和平を希求した。AD185年、卑弥呼が大和 、出雲の双方に共立されて連合国女王に擁立されることで倭の大乱が終結されたとする伝説がある。終結の儀式は、出雲の神奈備山の大山で、冬至の日に(三輪山に見立てた)大山山頂から昇る朝日を受けて行われた。この故事に基づき、三輪神社には、冬至の日に大山山頂から昇る朝日を拝む神事や、天の真名井にかかわる若水汲などの神事がある。これにより「伯耆国の三輪神社は邪馬台国女王卑弥呼誕生の地」として崇敬されている。この故事により、この地は大和朝廷の聖地となっている。「大和の倭迹迹日百襲姫が出雲の大物主の妻となる儀式により卑弥呼として即位した」との説もある。 |
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「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意伝説考」は着目されるに値する。なぜなら、大和の三輪(大神)神社と米子市淀江の三輪神社での「共立合意」は推理的にあり得るからである。これは出雲王朝と三輪王朝の同盟を意味する。このことを認めれば、邪馬台国を核とする女王国が出雲王朝と三輪王朝の同盟に支えられていたことになる。このことが確認できる貴重な伝説と思う。こう理解すべきところ、倭国の大乱を出雲王朝と大和王朝の対立とみなして、「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意」をその終結として見做す向きがある。これは邪推と思う。倭国の大乱は、出雲王朝と三輪王朝を主流としつつ、その反対派との国を揺るがす大乱であり、「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意」で、倭国の大乱が漸く鎮まった、但し拘奴国その他が反対派として併存したと見るべきだろう。「出雲王朝と大和王朝の対立」は時代間隔的にあり得ない。 |
「名は卑彌呼と曰い」について |
卑彌呼を「ヒミコ」、「ヒメコ」、「ヒミカ」、「ヒムカ」と読む説がある。通説は「ヒミコ」と読む。なお呼は「ヲ」と読むべきで「ヒミヲ」とする説もある。又、卑彌呼は俾彌呼と書かれることもある。卑彌呼を個人的な名前としての名称と考える説と日の巫女(御子)という職名として考える説とに分かれる。江戸時代に新井白石は「日御子(ひみこ)」、つまり太陽神を表わす「日の御子」と解釈し、本居宣長は位の高い女性の子を意味する「姫児(ひめこ)」とした。明治時代の白鳥庫吉は「姫尊(ひめみこと)」説を唱えている。いずれにせよ卑弥呼とは女王の個人名ではなく、女性が就任する地位や身分を表わす呼称であったと考えられる。 |
【卑彌呼比定諸説】 | |||||||||||||||||||||||||
卑弥呼が、わが国の古い文献古事記、日本書紀などに現われる誰に当たるのかという議論があり、1・「神功皇后説」、2・「倭姫(やまとひめ)説」、3・「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそ姫)説」、4・「天照大神説」に分かれる。この他、大和朝廷とは関係のない5・九州の女酋とする説や、6・古事記、日本書紀によっては、卑弥呼や邪馬台国はさぐれないとする不詳説の立場がある。
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「卑弥呼は個人名なのか官職名なのか」について |
「卑弥呼は個人名なのか官職名なのか」について、探られることが少ない。佐喜真興英の「古代日本の政治―『女人政治学』から」は「卑弥呼は一個人を指すのではなく、古琉球のキコエ大君のごとく縦に連なる複数の人物を指すと解すべきであろう」と命名している。私見は、天照大神は官職名と見做すが卑弥呼は個人名称と伺いたい。 |
「鬼道を事とし、衆を能く惑わす」について | ||||||
他の史書との比較によってこれをみれば意味するところが判然としてくる。
卑弥呼の「鬼道」について幾つかの解釈がある。卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞「日本の歴史1」(中公文庫、2005年)等)。魏志張魯伝、蜀志劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久「邪馬台国の研究」(白陵社、1969年)、黒岩重吾「鬼道の女王 卑弥呼」(文藝春秋、1999年)等)がある。道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁「邪馬台国 中国人はこう読む」(徳間書店、1990年)等)もある。「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、儒教的価値観にそぐわない政治手法であることを意味しているとする説もある。 |
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「鬼道」をどう理解すべきか。佐喜真興英の「古代日本の政治―『女人政治学』から」は「古琉球においても古代日本においても女治は徹頭徹尾宗教的性質を帯びていた。霊感あつき女君が同じく霊感に富む数百の婦女を従えて女治を行った」と解説している。こう窺うべきであろう。 これを中国史書に見られる「鬼道」記述と関連させようとする研究があるが、その研究は大事と思うがそれはそれであり、要するに日本の古神道的宗教に対する蔑視的表現として「鬼道」を宛がったと解釈すれば良いのではなかろうか。日本の古神道に基づくシャーマンであり、「衆を能く惑わす」とは、陳寿的即ち中国の知識人的理解を超えた霊能的呪術による統率力を示していたと窺うべきではなかろうか。つまり、卑弥呼の霊能力、日本古神道に対する畏敬と蔑視の両面からの記述ではなかろうか。詳しくは「鬼道考、当時の女王国体制考」に記す。 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝 |
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「鬼道」について、次のように推測できる。西暦600年、推古天皇の御世、日本の使者が隋の文帝に拝謁したとき、文帝が日本の国情を問うたところ、使者が次のように答えている。
これによれば、日本の王は、天文学に明るく、日月を遥拝し「ご来光」を拝みながら、「二至二分」(夏至、冬至、春分、秋分)の和暦法に基づき旬日の見立てをし、これによる霊能を司どっていたことになる。恐らく、卑弥呼の鬼道はこの類のものではなかったかと思われる。ちなみに、577年、敏達天皇の御世、日祀り部(ひのまつりべ)が設置され太陽遥拝の記録を遺している。その宮跡が奈良盆地の他田坐(おさだます)天照御魂(あまてるみたま)神社として跡をとどめている。この位置は、冬至に太陽が三輪山から昇るのを望まれる位置にある。 2013.7.18日 れんだいこ拝 |
「唯、男子一人有り」について |
字義通り。これにつき、佐喜真興英の「古代日本の政治―『女人政治学』から」は「男弟佐治」と命名している。 |
「飲食に給し、出入りして辞を伝える」について |
飲食を給しと読むか、飲食に給すと読むかに分かれる。つまり、卑弥呼の食事の世話をする男子を想像するのか、食事を共にする男子を想像するのかの違いであり、卑弥呼に従う奴卑1000人を考える時、男子が食事の世話をする必要はなさそうであり、従って、飲食に給すと読み、共に食事を為したと解釈すべきであろう。 |
「居る處の宮室は樓観であり」について |
字義通り。 |
「城柵を厳かに設け」について |
厳しくと読むべきである。御覧魏志では、「其の居室の宮室は、樓観. 城柵、守衛厳峻なり」と記している。後漢書では、「皆兵を持して守衛し、法.俗は厳峻なり」と読み変えている。 |
女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り、皆倭種。 |
又、侏儒國が有って、其の南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里。 |
又、裸國.黒齒國が有って、復其の東南に在り、船行一年で至る可し。 |
【総合解説】 | ||||||
ここでは、女王国以外の諸国について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。
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【卑弥呼の生年、即位年、没年考】 |
卑弥呼の即位年、没年はまま判明するが生年は不明である。即位年については後漢書に「倭国はもともと男王が治めていた。桓帝・霊帝の治世の間(後漢146年~189年)に大いに乱れ、互いに攻めあっていたが、ひとりの女子を共立して王とし、名付けて卑弥呼と言う」とあるので、霊帝末期の189年辺りが即位年になる。この時のヒミコの年齢を仮に10代とすると、魏の使いを出したのは50年後で60歳過ぎ、狗奴国と戦っていた時には80歳近い老婆になる。このことからヒミコは1人ではなく2人ないし3人かもしれない、卑弥呼とは固有名詞ではなく女王の称号ではないかとする説が生まれる。 私説は、卑弥呼は1人で、10代の即位から80歳代まで即位し続けたと見做す。なぜなら、その方が卑弥呼長期政権、長命説に整合するからである。 |
【逐条解説】 |
「女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り」について |
この文章は意味深である。女王国の比定地に対して相当のメッセージとなる文意を伺うことができる。つまり、女王国の1・東の方位に、2・海が存在し、3・その里程は千余里であり、4・邪馬台国連合国とは別の国が存在しているということを明記している訳である。邪馬台国畿内説はこの点で決定的な欠陥を持つことになる。これにピタリと合うのは四国阿波説ということになる。 ちなみに、「漢書地理志、倭人の項」に「魏略に云う。倭は帯方東南の大海の中に在り。山東に依りて国を為す。海を度(わた)るること千里、複(ま)た国有り。皆倭種と」と記されている。 |
「皆倭種」について |
倭種というのは、倭国そのものではなく、倭国と同人種という意味である。侏儒國は小人国のことで、アイヌ人の伝説に、コロボックル人の伝承が在り、蕗の下にいる人、地下にいる人のことを意味しており、小人人種であったという。あながち荒唐無稽のことではない。 「後漢書」倭伝では、「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種なり」と記載されている。 |
「又、侏儒國が有って」について |
字義通り。 |
「其の」について |
この其のは、直前に語られた邪馬台国連合国とは別の国をうけているのか、女王国を受けているのかについて見解が分かれる。但し、後漢書では「女王国より南四千里、侏儒国に至る」と記述されている。 |
「南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里」について |
字義通り。 |
「又、裸國.黒齒國が有って」について |
字義通り。 |
「復其の東南に在り、船行一年で至る可し」について |
字義通り。 |
倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、 |
周旋五千余里可り。 |
【総合解説】 |
ここでは、倭地の地勢、国土について論述している。 |
【逐条解説】 |
「海中洲島の上に絶在し」について |
「絶在」とは、続いてなくて切れ切れになっている意味。 |
「或は絶え或は連なり」について |
「周旋」について |
「周旋」とは、往復の距離、又は魏使の足跡を示した距離、倭国の中の一地域の周囲、倭国という島国の一周範囲という意味等々に受け取ることが出来るが、ここでは回り巡る意味に用いられているものと理解するのが望ましい。 |
五千余里可りについて |
五千余里という感覚について。帯方郡から狗邪韓国までの距離が七千余里であるから、比率的にその約7割(5/7)の距離を想定することができる。 |
これより後は、「女王の外交史、その死と宗女壹與の登場」に記す。
(私論.私見)