第6部 女王国、卑弥呼について

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.10日

 これより前は、「倭国の風俗について」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、女王国及び卑弥呼について検証解析する。

 2006.11.27日 れんだいこ拝


租賦を収む。
国の邸閣(倉庫)有り。
国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる。
女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを畏れ憚る。
國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る。

【総合解説】

 ここでは、邪馬台国、その女王国全体を含む倭国の租税、市場、検察について論述している。


【逐条解説】

 「租賦を収む」について

 祖賦は、租税として賦課されるものであり、農産物や海産物などを納めさせたのであろう。倭国で既に貨幣制度が敷かれていたかどうか定かでないが、壹世紀の初めに中国で鋳造された貨泉という貨幣が、日本において弥生時代中期の遺跡から発見されていることから推測すると、当時の人たちが貨幣の存在を知り、一部では使用されていたことも推測される。それが金属であったのか、貝殻、石、木片であったのかはよくわからない。


 「国の邸閣(倉庫)有り」について

 邸閣とあるのは、倉庫よりも立派なという意味において解釈され、恐らく納税の為の役所と倉庫を合わせた建物と考えられる。


 「国に市有り、有無を交易し」について
 この頃の市(いち)として、奈良県桜井市の三輪山の西南麓で、初瀬谷の北側の入口にあたる所が 山辺道(やまのべのみち)・磐余山田道(いわれのやまだみち) ・上(かみ)ツ道・泊瀬道(はつせみち) ・横大道(よこおおじ)などの交わるところで、 初瀬川による水上交通もこの辺りを起点としており、水陸の交通の要衝であったところから、 古くから市が開かれており、歌垣の催される場でもあった「椿市」(つばきち、つばきいち。「海石榴市」とも書く)が知られている。 長谷寺参詣の入り口としても栄えた。

 武烈紀に海石榴市の歌垣の記事が見える。 市には呪的な樹木と考えられた椿が植えられていたようで、海石榴市はそれによる地名であろう。 「海石榴」は「椿」に同じ意の漢語である。平安期には長谷寺参詣の盛行に伴い市場・宿駅として機能していた。現在、椿市観音という堂がある。

 「大倭にこれを監せしめる」について

 「大倭」ははっきりしない。「大倭」が単数なのか複数なのかはっきりしない。各国に一人ずつ「大倭」がいたと考えると、現代風に云えば市長とか知事のような行政官を指すものと思われる。

 倭国からの派遣官吏か、現地採用の役人で、市の監督官吏にふさわしい人を指しているとも考えられる。大倭を大和朝廷を指すとみる説もある。


 「女王国より以北には」について

 通説は、女王国を邪馬台国の俗称と解釈する。私説は、女王国とは邪馬台国+周辺の21ケ国と理解する。従って、本項は、女王国より北の国々には、と解釈される。

 この文意によって女王国の比定地に対するメッセージとして、女王国の北方に諸国が所在したことが明らかとなり、北九州の一角に邪馬台国を比定することが無理となることを伺うことができる。


 「特に一大率を置き検察す。諸国これを畏れ憚る」について

 ここに「一大率」が登場する。「一大率」とは何者か。全体文は「自女王國以北、特置一大率、儉察諸國、諸國畏憚。常治伊都國、於國中有如刺史」である。次のように訳されている。「女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割をもっている」。

 「一大率」を、「一大」の率と読むのか、一人の「大率」と読むのかの問題もある。「率」をどう読むのかと云う問題もある。文意から見て、「ひきいる者」という意の「率」であろう。これを「スイ」と読み「帥」に通じさせるのか、「ソツ」と読み「卒」と充てるのかと云うことになる。いずれにせよ、強い権限を持つ統括官と云う意味であろう。

 「一大率」は女王国の役人か、中国(魏)からの派遣官かで両説ある。松本清張氏は、帯方郡治の倭国監督官吏とみなし、江上波夫氏も、「中国から刺史のようなものが伊都国に駐在して、邪馬台国と朝鮮半島の帯方郡や韓人の国々、あるいは魏の本国との間の文書のやりとり、あるいは者のやりとりを検閲する。そして互いにそれらの文書.物件が間違いなく相手方の政府に伝送されるように監督するという、一種の税関や検閲のようなことも行われた」と述べて、一大卒は魏の派遣官吏であるとしている。

(私論.私見) 解読取り決め44、一大率考
 私説は、「自女王國以北、特置一大率、儉察諸國、諸國畏憚。常治伊都國、於國中有如刺史」を次のように訳す。「女王国より北には、特別に一大率を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。一大率とは、伊都国に置かれ、又それぞれの国にも置かれている刺史(しし)のような役割をもっている」。こう理解しないと、伊都国の項で一大率がなぜ語られなかったかと云う問題に逢着するからである。伊都国の項で官吏として官として爾支、副として泄謨觚.柄渠觚が語られている。一大率はこれに見合うような監察官であると記していると窺いたい。

 私説は、「一大率」は、邪馬台国、卑弥呼に直結する高官と解する。なぜなら、この下りは、女王国の統治ぶりを解説している箇所であるからである。邪馬台国が、この伊都国に「一大率」を置くのは、魏や帯方郡、諸韓国との外交の窓口且つ「諸国検察」に当たらせていたと推定し得るように思われる。女王国圏には宿敵「狗邪国」が存在しており、統治を競っていたとみなしたい。

 ちなみに「一大国」の「一大」と表記が同じであるが、絡むのか絡まないのかは分からない。「一大国」を「壱岐国」と読み変え、「一大率」をそのまま「一だい率」と読むのも疑問なしとしない。何か釈然としないものがある。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 「國中を、常に伊都國で治する」について

 伊都国は、王統譜の存在、外交上の枢要地、軍事力の一大拠点となっていることが伺われる。

 この文章によって、邪馬台国連合国の統治構造が明らかとなる。つまり実務的には伊都国がその主体であり、邪馬台国はいわば象徴乃至最高機密に責任を持つだけの存在であるという二重構造が浮き彫りにされる。


 「刺史の如く有る」について
 中国の州の長官のような有様である、と解釈される。「刺」は、不法をたずね、告発するする意で、「史」は使いの意で、その職権は重い。後漢には「刺史」は州内に治所を有して民政にも関与し、のち兵権をも握るようになって権限を強めた。しかし、魏.晋の時代になると、都督に「刺史」を兼任させるようになった。従って、一大率が、女王国より以北の諸国を巡撫するかたわら、検察や軍事、そして外交官系の事務をつかさどったとみてたよい。伊都国においては、一大率の官職が設置され、この官職の一つは、魏使が倭国に着いた時、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふというのである。魏使の通常の上陸地は末盧国であり、従って津は末盧国の津である。とすれば、一大率は常には伊都国にいるが、外交上の問題があると、必ず末盧国に赴いて事務処理に当ったわけである。従って末盧国は行政的には恐らく伊都国の支配下にあり、又外交面では邪馬台国より派遣されている一大卒の検察下にあったとみるべきであろう。

王、使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で、
(王遣使詣京都帯方郡諸韓国)
及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、
(及郡使倭国 皆臨津捜露)
文書を伝送し遺の物を賜ふ。
(傳送文書賜遺之物」)
女王に詣で、不得差錯。
(詣女王不得差錯)

【総合解説】

 ここでは、邪馬台国、その女王国全体を含む倭国の外交について論述している。


【逐条解説】

 「王」について
 ここで云う「王」が女王なのか女王以外の王なのかを詮議せねばならない。単に「王」とある意味は、女王以外の意味が含意されていると解したい。

 「使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で」について
 字義通り。

 「及び郡の倭国に使するや」について
 「帯方郡の使者が倭国へやって来た時には」。

 「皆津に臨みて現われるを捜し」について
 「皆津に臨みて」は、「いつも(一大率が)津(港)に出向いて」。
 「現われるを捜し」は、「使者が現れるのを待ち捜す」。「捜露」とは、文書や賜物を露わにして(広げて)、一つ一つ間違いがないか確認するの意味である。郡使は、荷物(文書・賜物)を広げて確認してから荷物を一大率に引き渡すことを決まりとしていた、との解釈もある。

 「文書を伝送し遺の物を賜ふ」について
 「伝送」とは、そのまんま”伝えて送る”ことを指す。文書や賜物を「捜露(調査、確認)し、女王に「伝送」する。今日の税関業務のようなことを行っていたのであろう。ここで、わかる事は、郡使たちは持ってきた荷物(文書・賜物)を直接女王へ届けるのではなく、伊都国の港で一大率に引き渡していたということである。

 「女王に詣でて、差錯することを得ず」について
 「女王に詣でて」は字義通り。「差錯することを得ず」は、「紛失したり抜き取り等の間違いは許されない」。

下戸、大人と道路で相遭えば、逡巡して草に入り、
辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、両手は地に據り、之を恭敬と為す。
対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し。

【総合解説】

 ここでは、倭国の臣下の礼法について論述している。


【逐条解説】

 「女王に詣でて、差錯することを得ず」について
 字義通り。

 「下戸、大人と道路で相遭えば」について
 字義通り。

 「逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、両手は地に據り、之を恭敬と為す」について
 この様子は、江戸時代の参勤交代時の土百姓の礼儀作法を髣髴とさせる。こういうところにも伝統が続いていることを見て取ることができるのではなかろうか。

 「対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し」について

 御覧魏志では、「噫噫」となっている。これをどう読むかということでは後世の史料になるが、日本書紀.神武即位前紀には返答の際の辞として、「唯唯」が使われており、これを右同じと考えると、「ああ」または「おお」を表わしているとみることが出来る。


其の國、本亦男子を以って王と為す。
住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。

【総合解説】

 ここでは、倭国の政情について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主」
魏志倭人伝  「倭国乱相攻伐歴年」

【逐条解説】

 「其の國」について
 「其の国」とは、倭の諸小国を含めた説と邪馬台国説とに分かれる。井上光貞氏は「日本国家の起源」の中で、「其の國、本亦男子を以って王と為す とあるのは、先に、57年に奴国王が、107年に帥升らが貢献したことなどを指しており、従って、男子を王としたというその国は、奴国や帥升らの国の総称であり、従って倭国であって、決して邪馬台国ではない」と する。一方、上田正昭氏は、「倭国の世界」で、「其の国とは倭国のことだ が、ここでは倭国とは倭の諸国を指すのではなく、邪馬台国を指す」と理解している。

 「本亦」について

 「本」は、時制句であり、過去から現在に連なる比較を意味している。

 「亦」は、「官は亦卑狗と曰い、亦南北に市てきす」とある「亦」が、いずれも対馬との比較を示しているように、文中に比較の対象がある場合に、この字を用いられておることがわかる。「亦」が示す比較の対象は、一国内における過去と現在を比較したものではなく、倭人伝の中の他の国との比較を示している。

 本亦であり、過去から現在に連なる他国との比較ということになる。


 「男子を以って王と為す」について
 字義通り。

 「住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」について

 「住こと七八十年」年代については、他の史書との比較に基づいて次のように推定される。

「後漢書」倭伝(東夷伝 )  「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主無し」
「随書」倭国伝  「桓霊の間、其の邦大いに乱れ、逓かに相攻伐し、歴年主無し」

「梁書」倭伝

 「漢の霊帝の光和中( 178から183年 ) 、倭国大いに乱れ、相攻伐すること歴年」
「御覧魏志」  「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐して定まる無し」
「晋書」倭人の下り  「漢末、倭人乱れ、攻伐して定まらず」

 これによれば、「住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」について、後漢書倭伝及び随書倭国伝とも「桓.霊の間」と記している。桓帝の治政は146(本初元)年~167(永康元)年であり、霊帝の治政は167(永康元)年~189(中平6)年であり、両帝の全期間中という意味に解せば、146年から189年迄の約40年間ということになる。短く解せば、桓帝の末期から霊帝の初めの頃にかけてという意味において167年前後ということになる。なお、梁書倭伝や北史には「漢の霊帝の光和中」と記している。霊帝の光和中とは178年から183年の御代の6年間を指す。ちなみに184年、恒霊の御代、最大の事件となった黄巾の乱が発生している。中国史にあって、この黄巾の乱は、後漢の崩壊と魏、呉、蜀の三国時代 ( 220~280年 ) の誕生の要因となった大事件として記録されている。黄金の乱で中国全土が戦場となり、朝鮮半島には、その乱をさけて莫大な数の難民が押し寄せることになった。こういう動乱時代に、「倭国乱れ、相攻伐す」となっていたことになる。

 「倭国大乱」について。主として何国と何国の大乱だったのか、右代表何国と左代表何国の大乱だったのかを解明せねばならぬ処、諸説紛々としている。れんだいこは、片や出雲王朝連合国、片や来航族連合国の戦いだったと見立てる。或いはその前段階の諸国間の覇権争いであったかも知れぬ。いずれにせよ卑弥呼擁立直前の国情様子として窺う必要があろう。


年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。

名は卑彌呼と曰い、
鬼道を事とし、衆を能く惑わす。
年已に長大なるも夫壻無し。(年已長大、無夫壻)
男弟有り佐けて國を治む。(有男弟佐治國)
王と為して以来、見た者少なし。(自爲王以來、少有見者)

婢千人を以って自ら侍らす。

唯、男子一人有り、飲食を給し、出入りして辞を伝える。(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)
居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)
常に人有り兵を持って守衛す。

【総合解説】

 ここでは、邪馬台国女王卑弥呼について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王」、「侍婢千人少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 法俗嚴峻」
魏志倭人伝  「乃共立一女子為王 名曰卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫婿」、「有男弟佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍唯 有男子一人給飲食伝辞出入 居処宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」

【逐条解説】

 「年を経て」について

 中国内政変での新漢系国と反漢系国との対立が倭国にも及んだものと思われる。この時期の二世紀中葉から末期にかけて倭国でも動乱が確かめられる。この大乱の内容を廻っては諸説ある。一つは、奴国対邪馬台国連合の争乱と位置付ける説。一つは、北九州勢力対畿内勢力との争乱説である。

 この大乱を通じて、邪馬台国が共立されたことになる。勝利を得た国々によって誕生したのが邪馬台国であり、女王として共立したのが卑弥呼であった。倭国の大乱にあって、卑弥呼は多くの予言、警告、作戦提案をなし、連合体を勝利に導いたと推定される。

 一説に、邪馬台国は107年建国、初代の王を倭国王帥升と推理する。以下男王が続き、173年、女王卑弥呼となっていたが、180年頃、奴国王を倭王とする倭国全体が乱れて乱は数年続いた。乱後187年(建国 から80年目)に、邪馬台国女王である卑弥呼が奴国王に替わって倭王に 共立された、とする。従って魏志倭人伝の記す時代は、この直後の、卑弥呼女王の現われた三世紀前後の倭国となる。

 卑弥呼擁立の時期につき、梁書倭伝に従えば霊帝の光和中(178―183年)から「年を経て」と云うことになる。「年を経て」の年数が不明であるが、「暫くして」と解すれば、卑弥呼擁立は183年以降の184年、185年頃と云うことになる。「かなり経って」と解すれば、卑弥呼が女王として共立されるのは二世紀末か三世期初めの公孫淵が帯方郡を新たに設けた204年前後とされる。死去するのは247年前後である。最長で約70年、最短で約50年在位したことになる。


 「すなわち共に一女子を立て王と為す」について

 「共に」とは「共立した」ということであり、この当時の倭国が集合国家ないしは連合国家であったことを意味している。「一女子を立て王と為す」とは女治制国家となったことを告げている。興味深いことは、この背後に「合議制」が垣間見えることである。原始的な部族社会にあっては、首長たちによる一種の合議制があったことが知られている。古事記や日本書紀においても、スサノオノミコト追放にあたって、「八百万の神、共に議りて」という記述が見受けられる。同様な意味で、「合議制」によって女治制国家になったことが明らかにされていると窺いたい。


 「卑彌呼が女王として共立合意された場所」について

 「卑彌呼が女王として共立合意された場所」について議論が及んでいない。一説に、「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立譚」が伝承されている。詳細は「米子市淀江・三輪神社考」に記す。これによれば、倭の大乱後、大和・出雲双方の代表が集り和平を希求した。AD185年、卑弥呼が大和 、出雲の双方に共立されて連合国女王に擁立されることで倭の大乱が終結されたとする伝説がある。終結の儀式は、出雲の神奈備山の大山で、冬至の日に(三輪山に見立てた)大山山頂から昇る朝日を受けて行われた。この故事に基づき、三輪神社には、冬至の日に大山山頂から昇る朝日を拝む神事や、天の真名井にかかわる若水汲などの神事がある。これにより「伯耆国の三輪神社は邪馬台国女王卑弥呼誕生の地」として崇敬されている。この故事により、この地は大和朝廷の聖地となっている。「大和の倭迹迹日百襲姫が出雲の大物主の妻となる儀式により卑弥呼として即位した」との説もある。

(私論.私見) 米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意伝説考
 「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意伝説考」は着目されるに値する。なぜなら、大和の三輪(大神)神社と米子市淀江の三輪神社での「共立合意」は推理的にあり得るからである。これは出雲王朝と三輪王朝の同盟を意味する。このことを認めれば、邪馬台国を核とする女王国が出雲王朝と三輪王朝の同盟に支えられていたことになる。このことが確認できる貴重な伝説と思う。こう理解すべきところ、倭国の大乱を出雲王朝と大和王朝の対立とみなして、「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意」をその終結として見做す向きがある。これは邪推と思う。倭国の大乱は、出雲王朝と三輪王朝を主流としつつ、その反対派との国を揺るがす大乱であり、「米子市淀江の三輪神社での卑彌呼共立合意」で、倭国の大乱が漸く鎮まった、但し拘奴国その他が反対派として併存したと見るべきだろう。「出雲王朝と大和王朝の対立」は時代間隔的にあり得ない。

 「名は卑彌呼と曰い」について

 卑彌呼を「ヒミコ」、「ヒメコ」、「ヒミカ」、「ヒムカ」と読む説がある。通説は「ヒミコ」と読む。なお呼は「ヲ」と読むべきで「ヒミヲ」とする説もある。又、卑彌呼は俾彌呼と書かれることもある。卑彌呼を個人的な名前としての名称と考える説と日の巫女(御子)という職名として考える説とに分かれる。江戸時代に新井白石は「日御子(ひみこ)」、つまり太陽神を表わす「日の御子」と解釈し、本居宣長は位の高い女性の子を意味する「姫児(ひめこ)」とした。明治時代の白鳥庫吉は「姫尊(ひめみこと)」説を唱えている。いずれにせよ卑弥呼とは女王の個人名ではなく、女性が就任する地位や身分を表わす呼称であったと考えられる。

 別解釈として、カタカムナ語であり、カタカムナ語音をそのままに漢字で伝音表記したとの説もある。これによれば、「ヒミコ」と読み、「ヒ」は朝日、「ミ」は真昼の太陽、「コ」は継続を意味しており、「日が昇り照り輝いている最高のチカラが 継続している状態」の職掌名又は個人名と云う意味になる。これによれば、「日女命」、「日弥子」になる。

 卑弥呼の本名は、撞賢木厳御魂天疎向津比売命(ツキサカキイツノミタマアマ サカルムカツ姫の命)と云われている。別名大日霊女貴命(オオヒミコムチの命)、大日孁尊(オオヒルメの尊) とも云われている。他にも大倭姫(命)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫(おおあまひるめひめ)とも云う。

 魏志倭人伝中の卑弥呼の記述の登場は*回、女王国が5回、女王が8回となる。中国では、女性が権力を握ると政治が乱れるとする「牝鶏司震」(ひんけいししん)の成句がある。倭国ではそういう警句はないことも注目される。


【卑彌呼比定諸説】
 卑弥呼が、わが国の古い文献古事記、日本書紀などに現われる誰に当たるのかという議論があり、1・「神功皇后説」、2・「倭姫(やまとひめ)説」、3・「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそ姫)説」、4・「天照大神説」に分かれる。この他、大和朝廷とは関係のない5・九州の女酋とする説や、6・古事記、日本書紀によっては、卑弥呼や邪馬台国はさぐれないとする不詳説の立場がある。
 「神功皇后説」

 神功皇后は「おきながたらしひめのみこと」と呼ばれ、古事記では「息長帯比売命」、日本書紀では「気長足姫尊」と記されている。記紀の「息長帯」、「気長足」は「おきなが」と読み、「おきなが」氏の姫命であることを知らせている。日本書紀は、神功皇后の父は気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)と記している。神功皇后は、息長氏の政治的展開を生み出す母親的な存在として、『日本「おきなが」氏は、近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市周辺)を拠点とした豪族で、後に大和に進出し天皇家と密接な関係を持つ。

 日本書紀の編者は、日本書紀巻第九、神功皇后摂政三九年、四十年、四三年の条の各下りにおいて、分註で魏志倭人伝記載の倭の女王と魏との往来の様子を転写し次のように記している。

 「魏志によると、景初3年6月、倭の女王が使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申し出て、洛陽に至ったと云う」。

 神功皇后治世66年には次のように記している。

 「武帝の泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて、貢献した」。

 これによれば、日本書紀の編者が卑弥呼、魏志倭人伝共に存在を知っていたことを意味する。その上で、神功皇后が卑弥呼だと示唆していることになる。しかし、「神功皇后説」は次の点で訝しい。1・時代が合わない。2・神功皇后は皇后なので夫(第14代仲哀天皇)がいる。卑弥呼にはいない。3・日本書紀は卑弥呼だけでなく、台与も神功皇后としている個所があるが、魏志倭人伝の「以て卑弥呼死す」の記事と整合しない。4・神功皇后が魏に朝貢したという記事は日本書紀に出てこない。5・神功皇后が卑弥呼だとするのであれば、引用形式でなく直接的に記述すれば良いはずである。いずれにしても、古事記、日本書紀が何ゆえ卑弥呼を直接的に記述することができなかったのか、それが解せないことになる。積極的に書きたくなかった理由があったということになる。

 「倭姫(やまとひめ)説」
 「やまとひめ」は古事記では「倭比売命」、日本書紀では「倭姫命」と記されている。第12代景行天皇の頃に活躍した。内藤湖南氏は、「藝文」(1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、7月第1年第4号)で次のように述べている(「魏志倭人伝と邪馬台国」参照)。

 「余は之を以て倭姫命に擬定す。その故は前に挙げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、その崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事二鬼道一、能惑レ衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並にその細註、延暦儀式帳、倭姫命世記等の所伝を綜合して、最もこの命の行事に適当せるを見る。その天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、(倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し)到る處にその土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数が甚しき附会に陷らずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、又一証とすべし、三なり。年已長大無二夫婿一といへるは、最も倭姫命に適当せること、神功皇后とするの事実に違へる比にあらず、四なり。

 有二男弟一、佐治レ國といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。国史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事にこれ程の相違は有り得べし。この記事によりても、国政は天皇の御手中に在りて、命は専ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞその勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に当りて、必ず之に謁し、その凱旋に当りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特にその天照大神を奉じて、神領を諸国に徴するは、一種の宗教的領土拡張にして、その成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外国人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。

 以二婢千人一自侍といへる、数の過多なるはいかゞと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が兒、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有二男子一人一(隋書及び北史には二人に作る)給二飮食一、傳レ辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。

 その余は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑弥呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫(ヒノトバタヒメコチヽヒメ)ノ命、また萬幡姫兒玉依姫(ヨロヅハタヒメコタマヨリヒメ)命に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。弥をメと訓む例は黒川氏の北史国号考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等(キタシヒメノミコト)、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、註云 彌字或當二賣音一也とあるを引けるなどに従うべし」。


 「やまとひめ」は、倭建命(やまとたけるのみこと)の叔母に当たり、倭建命が東国征伐を命じられた時に三種の神器の一つである草薙の剣を与えたことでも知られている。
 「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそ姫)説」
 「やまとととひももそひめ」は、古事記では「夜麻登登母母曾毘賣命」(ヤマ ・ トト・ ・モモソ・ビメの命)、日本書紀では「倭迹迹日百襲姫」(ヤマト・トト・ヒ・モモソ・ヒメ)と記されている。古事記の方では、「ト」が一つ少ないことと、「日」に対応する「ヒ」の音が抜けている。百襲は幾つかの読みが可能であるが、古事記の表記(「母母曾」)に従って「モモソ」と読まれている。(「百」の訓がモモ、「襲」は熊襲のソ)。一方、百を千五百をチイホと読む如くに「ホ」と読む例もある。(古代日本語の特殊仮名遣い(甲類・乙類のある音がある)において「モ」に就いては古事記だけが甲乙の区別をしている。書紀・万葉集では分別されていない)

 古事記では、夜麻登登母母曾毘賣命の母親が意富夜麻登玖迩阿禮比賣命(おほやまとくにあれ姫の命)で、第7代孝霊天皇(黒田盧戸(くろだのいおとの)宮に都す)との間に生まれた皇女になる。これは「大倭国を生む」と云う意味で母子で「国母」のイメージが窺える。更に、異母兄(弟?)が孝元天皇(第8代、大日本根子彦国牽、軽境原 ( かるのさかいはらの)宮に都す)。吉備津彦の命の姉である。出雲神話の国引きを想起させられる名前になっている。考霊から10代の崇神の御代に足跡を遺している。日本書紀には「聡明(さと)く、叡知(さか)しくして、能く未然(ゆくさきのこと)を識(し)りたまえり」と記している。

 纏向に最初に都した第十代祟神天皇の時代の7年、春2月、国内に疫病がはやり、民は流離し、またそむくものがあった。 祟神天皇は、倭迹迹日百襲姫に託して教えをのべた。教えによって、天皇は心をつくして、大物主の命の祭祀を行う。疫病は終息し、民はふたたび賑わったと記されている。祟神天皇の10年、崇神が神浅芽原 ( カンアサシハラ ) に八十万の神々を召集した時、倭迹迹日百襲姫が突然神がかりとなって、武道安彦の命の謀反や吾田姫の呪言について崇神天皇に注意を促した類稀なる霊力の持ち主と記されている。崇神天皇の十年の条、三輪山の神である大物主の命の妻になる。(「倭迹迹日百襲姫の周辺」その他参照) 孝元天皇の子の第九代開花天皇(春日率川宮 ( かすがいざかわのみや ) に都す)、開花天皇の子の第十代崇神天皇(纏向の地、磯城端離宮 ( しきのみずかみのみや )に都す)の間、歴代の天皇のバックホーンであったとされる。長寿であったことが分かる。祟神天皇の時代に亡くなったという。

 笠井新也氏が早くより唱えており、概要次のように述べている。

 意訳概要「記・紀は崇神天皇の初めに三輪山祭祀について語っている。ことに日本書紀においては、第七代孝霊天皇と倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間に生まれた倭迹迹日百襲姫について詳しい話が記されている。おそらく、我が国の統一国家形成課程を初めて記した『崇神天皇に始まるハツクニシラス天皇の物語』の冒頭に置かれていたものであろう。先の紀年解読で明らかになった崇神崩年=二九〇年から考えれば、記・紀の皇統譜で崇神天皇の二代前に当たる倭迹迹日百襲姫は卑弥呼と同世代ということになる。倭迹迹日百襲姫は『倭成(やまとな)す』と歌われた大物主神の妻(女性最高司祭者=巫女王)となって三輪山のふもとにあったと思われる神浅茅原に住み、国難にあっては天皇の行幸を受けて大物主神を憑依し、また神語をよく解したと伝えられている。これが魏志倭人伝にいう『鬼道につか事え、能く衆を惑わす』の実態であろう。天皇と倭迹迹日百襲姫の関係は、男弟-倭女王に対応しよう。また、諸国の交易を監察せしめたという『大倭』は、欠史八代の天皇の和風諡号(和風のおくり名)に四例ほど見えているオオヤマトを意訳したものと考えられよう」。
 意訳概要「箸墓は日本書紀に記されている倭迹迹日百襲姫の墓である。倭迹迹日百襲姫は祟神天皇の時代の人である。古事記記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとに、祟神天皇の没年を258年であるとすると、卑弥呼が没したのは248年ごろと考えられるので、祟神天皇の時代と卑弥呼の時代は重なる。よって、卑弥呼が倭迹迹日百襲姫である蓋然性が高い。この二人を同一人物とすると箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓であり卑弥呼の墓であると云うことになる」。
 意訳概要「魏志倭人伝の時代は崇神天皇の時代に当たり、卑弥呼の死と崇神天皇の死は10年前後しか相違しない。卑弥呼とはヒメミコトの意味で、高貴な女性に対する尊称である。夜麻登登母母曾毘賣命と云う名前の最後にある『毘賣命』はヒミコと一致する。鬼道をもって人々を畏敬させたと云う卑弥呼と巫女として霊力を発揮した夜麻登登母母曾毘賣命の類似性、さらには結婚した形跡がないことも両者の一致を証している」。
 意訳概要「さらに驚くべきは、倭迹迹日百襲姫の母(倭国香媛)の名を古事記が『オオヤマトクニアレヒメ』と伝えていることである。これは『大倭国を生んだ女性』を意味する。記・紀が伝える女性名でオオヤマトを冠されているのは持統天皇と倭国香媛だけである。倭国香媛は皇后とはされていない。一人の妃にすぎない。そのような女性にオオヤマトクニアレヒメという名は尋常ではない。これは、倭国統一国家の最初の女王(女性最高司祭者=巫女王)となった倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)を生んだ女性の諡号、と考えてこそ相応しいものとなる」。
 「天照大神説」
 「あまてらすおおみかみ」は、古事記では「天照大御神」、日本書紀では「天照大神」と記されている。卑弥呼=天照大神説は、神功皇后説よりは辻褄が合う。1・共に偉大な女性であり、女王的存在である。2・共に男弟がいる。天照大神の場合はスサノオ。3・天照大神のいたとされる高天原の様子が卑弥呼の時代を彷佛とさせる風景になっている。4・天照大神の本名は大日靈貴で、「大」と「貴」は尊称、「靈」は「巫女」の意味であるため、尊称を省くと「日巫女」となる。実際、巫女的な性格が認められる。これがいつの間にか、巫女の側から祀られる神の側に変わり、天照大神となっている。「卑弥呼」も個人名ではなく官職名のようなものだと言われている。鏡も太陽を象徴していて、卑弥呼が太陽神に仕える巫女であった可能性は高いと思われる。当初巫女で、後に女王となったところも天照大神と似ている。5・天照大神が天の岩戸に隠れたというのは、天照大神の死を意味し、再び出て来る所は若く霊力に満ちた新しい巫女の登場を暗示しているという解釈がある。岩戸から出た天照大神を台与とするとピッタリと一致する。魏志倭人伝では台与の活躍はあまり書かれていないが、天の岩戸から出た後の天照大神も以前とは違いあまり前面に出て来ない。このように、天照大神を卑弥呼とすると多くの点で似ている。「天照大神=卑弥呼」であれば、天皇家は卑弥呼の子孫だったということになる。「邪馬台国=高天原」ということになる。
 九州の女酋説
(私論.私見) 解読取り決め45、卑弥呼考
 私説は、2008年末頃より邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説を閃かせた。これによると、卑弥呼はアイヌ蝦夷王朝の女王と云うことになる。そうなると、天孫族大和王朝系の「神功皇后説」、「天照大神説」は牽強付会と云うことになる。九州説の一説に「天の岩屋に隠れる前の天照大神説を卑弥呼、天の岩屋から出た後の卑弥呼を台与」とみなす見解があるが、奇想天外無茶苦茶な漫画説と云うしかない。

 少なくとも卑弥呼はアイヌ蝦夷王朝系の霊能者と看做すべきで、ないしは出雲王朝系の「倭姫(やまとひめ)説」、「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそ姫)説」が近いと云うことになる。但し、倭姫(やまとひめ)、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそ姫)の血統、父母を確認せねばならない。アイヌ蝦夷王朝系-出雲王朝系の皇統家系図を持ちだして来航族系の血筋、父母に比定するのも愚昧と云うしかない。今のところ特定できないので不肖として「幻の女王」としておく。痕跡が歴史的に消されたと思われるので致し方ない面もある。但し、いつまでも不詳とはできないので何らかの尻尾を捉まえたいと思う。

 例え話をしておけば、卑弥呼は実像である。その写し鏡が神功皇后、倭姫(やまとひめ、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそ姫)、天照大神と受け取らねばならぬ。写し鏡の方の像をもって卑弥呼の正真正銘とするのは愚かである。卑弥呼は痕跡を消され、封印されているのであり、記紀その他の史書の史家は時の王朝権威の眼を盗んで何らかの痕跡を至る所に記そうとしていると看做さねばならぬ。これを逆に営為するのは愚挙であろう。

 2011.8.15日再編集 2011.9.2日再編集 れんだいこ拝

 「卑弥呼は個人名なのか官職名なのか」について
 「卑弥呼は個人名なのか官職名なのか」について、探られることが少ない。佐喜真興英の「古代日本の政治―『女人政治学』から」は「卑弥呼は一個人を指すのではなく、古琉球のキコエ大君のごとく縦に連なる複数の人物を指すと解すべきであろう」と命名している。私見は、天照大神は官職名と見做すが卑弥呼は個人名称と伺いたい。

 「鬼道を事とし、衆を能く惑わす」について

 他の史書との比較によってこれをみれば意味するところが判然としてくる。

「後漢書」倭伝  「年長ずるも嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以って衆を惑わす」
「随書」倭国伝  「能く鬼道を以って衆を惑わす」
「翰宛」  「卑弥、娥惑して翻って群情に叶い」

 卑弥呼の「鬼道」について幾つかの解釈がある。卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞「日本の歴史1」(中公文庫、2005年)等)。魏志張魯伝、蜀志劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久「邪馬台国の研究」(白陵社、1969年)、黒岩重吾「鬼道の女王 卑弥呼」(文藝春秋、1999年)等)がある。道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁「邪馬台国 中国人はこう読む」(徳間書店、1990年)等)もある。「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、儒教的価値観にそぐわない政治手法であることを意味しているとする説もある。
(私論.私見) 解読取り決め46、鬼道考
 「鬼道」をどう理解すべきか。佐喜真興英の「古代日本の政治―『女人政治学』から」は「古琉球においても古代日本においても女治は徹頭徹尾宗教的性質を帯びていた。霊感あつき女君が同じく霊感に富む数百の婦女を従えて女治を行った」と解説している。こう窺うべきであろう。

 これを中国史書に見られる「鬼道」記述と関連させようとする研究があるが、その研究は大事と思うがそれはそれであり、要するに日本の古神道的宗教に対する蔑視的表現として「鬼道」を宛がったと解釈すれば良いのではなかろうか。日本の古神道に基づくシャーマンであり、「衆を能く惑わす」とは、陳寿的即ち中国の知識人的理解を超えた霊能的呪術による統率力を示していたと窺うべきではなかろうか。つまり、卑弥呼の霊能力、日本古神道に対する畏敬と蔑視の両面からの記述ではなかろうか。詳しくは「鬼道考、当時の女王国体制考」に記す。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝
 「鬼道」について、次のように推測できる。西暦600年、推古天皇の御世、日本の使者が隋の文帝に拝謁したとき、文帝が日本の国情を問うたところ、使者が次のように答えている。
 「王は天をもって兄とし、太陽をもって弟としております。天がまだ明けないときに王は政庁に坐して政につき、太陽が出れば仕事を止めて後は弟に任せる、と云って退きます」(「隋書東夷伝倭国」)

 これによれば、日本の王は、天文学に明るく、日月を遥拝し「ご来光」を拝みながら、「二至二分」(夏至、冬至、春分、秋分)の和暦法に基づき旬日の見立てをし、これによる霊能を司どっていたことになる。恐らく、卑弥呼の鬼道はこの類のものではなかったかと思われる。ちなみに、577年、敏達天皇の御世、日祀り部(ひのまつりべ)が設置され太陽遥拝の記録を遺している。その宮跡が奈良盆地の他田坐(おさだます)天照御魂(あまてるみたま)神社として跡をとどめている。この位置は、冬至に太陽が三輪山から昇るのを望まれる位置にある。 

 2013.7.18日 れんだいこ拝

 「唯、男子一人有り」について
 字義通り。これにつき、佐喜真興英の「古代日本の政治―『女人政治学』から」は「男弟佐治」と命名している。

 「飲食に給し、出入りして辞を伝える」について
 飲食を給しと読むか、飲食に給すと読むかに分かれる。つまり、卑弥呼の食事の世話をする男子を想像するのか、食事を共にする男子を想像するのかの違いであり、卑弥呼に従う奴卑1000人を考える時、男子が食事の世話をする必要はなさそうであり、従って、飲食に給すと読み、共に食事を為したと解釈すべきであろう。

 「居る處の宮室は樓観であり」について
 字義通り。

 「城柵を厳かに設け」について

 厳しくと読むべきである。御覧魏志では、「其の居室の宮室は、樓観. 城柵、守衛厳峻なり」と記している。後漢書では、「皆兵を持して守衛し、法.俗は厳峻なり」と読み変えている。


女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り、皆倭種。
又、侏儒國が有って、其の南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里。
又、裸國.黒齒國が有って、復其の東南に在り、船行一年で至る可し。

【総合解説】

 ここでは、女王国以外の諸国について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「自女王國東度海千余里 至狗奴國 雖皆倭種而不屬女王」、「自女王國南四千余里至侏儒國 人長三四尺」、「自侏儒東南船行一年 至裸國黒齒國 使譯所傳極於此矣」
 「会稽海外有東□(魚+是)人 分二十國 又有夷洲壇(三スイヘン)洲傳言秦始皇遣方士徐福将 童男女數千人入海求蓬莱神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承有數萬家 人民時至稽市  会稽東冶縣人有入海行遭風流移至洲者 所在絶遠不可往來」
魏志倭人伝  「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」、「又有株儒国在其南人長三四尺 去女王四千余里」、「又有裸国 黒歯国 復在其東南 船行一年可至」
 該当分なし

【卑弥呼の生年、即位年、没年考】
 卑弥呼の即位年、没年はまま判明するが生年は不明である。即位年については後漢書に「倭国はもともと男王が治めていた。桓帝・霊帝の治世の間(後漢146年~189年)に大いに乱れ、互いに攻めあっていたが、ひとりの女子を共立して王とし、名付けて卑弥呼と言う」とあるので、霊帝末期の189年辺りが即位年になる。この時のヒミコの年齢を仮に10代とすると、魏の使いを出したのは50年後で60歳過ぎ、狗奴国と戦っていた時には80歳近い老婆になる。このことからヒミコは1人ではなく2人ないし3人かもしれない、卑弥呼とは固有名詞ではなく女王の称号ではないかとする説が生まれる。

 私説は、卑弥呼は1人で、10代の即位から80歳代まで即位し続けたと見做す。なぜなら、その方が卑弥呼長期政権、長命説に整合するからである。

【逐条解説】

 「女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り」について
 この文章は意味深である。女王国の比定地に対して相当のメッセージとなる文意を伺うことができる。つまり、女王国の1・東の方位に、2・海が存在し、3・その里程は千余里であり、4・邪馬台国連合国とは別の国が存在しているということを明記している訳である。邪馬台国畿内説はこの点で決定的な欠陥を持つことになる。これにピタリと合うのは四国阿波説ということになる。

 ちなみに、「漢書地理志、倭人の項」に「魏略に云う。倭は帯方東南の大海の中に在り。山東に依りて国を為す。海を度(わた)るること千里、複(ま)た国有り。皆倭種と」と記されている。

 「皆倭種」について

 倭種というのは、倭国そのものではなく、倭国と同人種という意味である。侏儒國は小人国のことで、アイヌ人の伝説に、コロボックル人の伝承が在り、蕗の下にいる人、地下にいる人のことを意味しており、小人人種であったという。あながち荒唐無稽のことではない。

 「後漢書」倭伝では、「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種なり」と記載されている。


 「又、侏儒國が有って」について
 字義通り。

 「其の」について

 この其のは、直前に語られた邪馬台国連合国とは別の国をうけているのか、女王国を受けているのかについて見解が分かれる。但し、後漢書では「女王国より南四千里、侏儒国に至る」と記述されている。


 「南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里」について
 字義通り。

 「又、裸國.黒齒國が有って」について
 字義通り。

 「復其の東南に在り、船行一年で至る可し」について
 字義通り。

倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、
周旋五千余里可り。

【総合解説】

 ここでは、倭地の地勢、国土について論述している。


【逐条解説】

 「倭地を参問するに」について
 「倭地」とはどういう意味か。「倭国の地」全体を指すのか、「倭地という別の地」があるのか。案外と詮索されていいない。
 「参問」とは実際に尋ねて見ることであることに注意したい。伝文や文書によってはいないという意味において、つまり目で見てきたことをはっきりと示していると理解できる。これを「問い質す」と解すると、魏の一行が倭人に色々と質問し、5千余里を算出したと推察することになる。

 「寺田紀之FB」参照

 「参問」の用例は三国志にはない。後漢書列伝第五十九、竇武(とうぶ)伝に一例がある。
 「其の冬、帝崩ず。嗣無し。武、侍御史の河閒(かかん)の劉儵(りゅうしょく)を召し、其の國中の王子侯の賢なる者を參問す」。
 (其冬帝崩,無嗣。武召侍御史河閒劉儵,參問其國中王子侯之賢者)

 後継の皇帝を選定するために、参問し、劉宏が霊帝となる。従来は、単に「問い合わせる」の意味とされていたが、「比較し、問いただす」意味である。

 「海中洲島の上に絶在し」について
 「絶在」とは、続いてなくて切れ切れになっている意味。

「或は絶え或は連なり」について

 「周旋」について

 「周旋」とは、往復の距離、又は魏使の足跡を示した距離、倭国の中の一地域の周囲、倭国という島国の一周範囲という意味等々に受け取ることが出来るが、ここでは回り巡る意味に用いられているものと理解するのが望ましい。


 五千余里可りについて
 五千余里という感覚について。帯方郡から狗邪韓国までの距離が七千余里であるから、比率的にその約7割(5/7)の距離を想定することができる。

 これより後は、「女王の外交史、その死と宗女壹與の登場」に記す。





(私論.私見)