第5部 倭国の風俗について

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 これより前は、「女王国衛星諸国と狗奴国について」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、倭国の風俗について検証解析する。最近気づいたことは、ここに記されているくだりは古代日本の縄文時代の倭の諸国の政体と文化、風習、風俗ではあるまいか。このことは案外重要で、女王国が縄文国津系の王朝であったことを示唆していることになる。となると、大和王朝は弥生天孫系であるから、邪馬台国と大和王朝には王統継承的繫がりはないということになる。むしろ、邪馬台国は大和王朝によって滅ぼされた側ということになる。そういう推理を可能にするのが、この箇所のくだりである。

 2006.11.27日、2009.4.12日再編集 れんだいこ拝


男子は大小と無く、皆面と身に黥文す。
古より以来、其の使が中国に詣でるや、皆、自ら大夫と称す。

夏后少康の子は、(倭人を)會稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避ける。

今、倭の水人、好く沈没して魚や蛤を捕る。
文身し亦以って、大魚や水禽を厭ふ。
後、稍以って飾と為す。
諸国の文身は各々異なり、或は左に、或は右に、或は大きく、或は小さく、
貴卑に差有り。

【総合解説】
 ここでは、倭人の風体、身分について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。
後漢書倭伝  「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」
魏志倭人伝  「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」

【逐条解説】

 「男子は大小と無く、皆面と身に黥文す」について
 魏略の文中にも「郡より女王国まで一万二千余里、其の風俗は男子大小となく皆鯨面文身(顔や身体に刺青)す、昔からその使いが中国に来ると自らを太伯の後という」とある。

 「古より以来」について

 古より以来、とある「古」とはいつの頃のことをさしているかということについて、三国志の場合、「古」とは原則として「周」以前つまり、ほぼ「堯 、舜、禹、夏、殷、周」の時代のことを指しているとされる。こう考えると 、倭人伝の古より以来も又「周」代以前からと理解することが適切と思われる。

 「其の使が中国に詣でるや、皆、自ら大夫と称す」について

 「大夫」とは、「卿、大夫、士」という、統治階級の三分法の一つを指している。この三分法は「夏、殷、周」の時代に用いられており、従って、倭国の使が名乗っていたのは、この古の用法に従って正確な位置づけに則して自称していることになる。いいかえれば、自称は、自称であっても、決して分不相応、越権の自称ではなく、いわば中国の天子を中心とする「柵封 体制」(天子が柵をもって封爵を授け、それぞれの位置づけを行う政治体 制)の中に、正しく自己を位置づけた、そういう自称であったということになる。


 「夏后少康の子は、(倭人を)會稽に封ぜられ」について
 「会稽」というのは、現在は浙江省、抗州市の南方の山の名に会稽山として残っているが、かっては江蘇省から浙江省、福建省にかけて置かれた郡の名であった。会稽山の太古の名は茅山と云う。夏の兎帝がこれを会稽山と改称した。春秋時代に越王こう践が嘗肝して越国の再興を図ったというのがこの山の山中のことである。

 「断髪文身し、以って蛟龍の害を避ける」について
 字義表記通りである。

 「今、倭の水人、好く沈没して魚や蛤を捕る」について
 字義表記通りである。

 「文身し亦以って、大魚や水禽を厭ふ」について
 字義表記通りである。 

 「後、稍以って飾と為す」について
 字義表記通りである。

 「諸国の文身は各々異なり」について
 字義表記通りである。

 「或は左に、或は右に、或は大きく、或は小さく」について
 字義表記通りである。

 「貴卑に差有り」について
 字義表記通りである。

其の道里を計るに、當に會稽の東治の東に在る。

【総合解説】

 ここでは、邪馬台国の位置について論述している。突如の挿入の感がある。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「其地大較在稽東冶之東」
魏志倭人伝  「計其道里当在会稽東冶之東」

 「其の道里を計るに、當に會稽の東治の東に在る」について
 「東治」は「東冶」の誤りとする説もある。三国志版本は「会稽東治」とするのに対し、後漢書列伝倭条(范曄撰)、晋書・翰苑は「会稽東冶」と記している。後漢書列伝倭条は、「其の地は、大較 会稽.東冶の東に在り」となっている。梁書・隋書・北史は単に「会稽」と記している。「会稽間川」ともあり、記載無しの例もある。

 問題は、「会稽東治」と「会稽東冶」では大きく意味が変わってくることにある。「東治」の場合は、会稽山を中心とする会稽郡のことで、「當に會稽の東治の東に在る」は、日本列島を会稽山の東方海上に位置するとしてしていたことになる。これに対し、「東冶」の場合は、台湾対岸の福建省「東冶」(福建省びん候県付近にあった県名)の東方海上に位置するとしてしていたことになる。こうなると、沖縄から台湾北部の範囲が該当することになる。ちなみに、福建省東冶は永安三年(260年)以降は会稽郡に属していない。なお、中国における郡と県の関係は、日本の場合と逆になり、郡が大きく県が小さい。会稽東冶といえば、会稽郡東冶県のことになる。

 「東冶」とするのは以下のように後漢書・晋書・翰苑の三書に過ぎないが、この後漢書を根拠として、古代中国人は日本列島が台湾付近まで南北に延びていると誤認していた、との説がある。
(私論.私見) 解読取り決め38、「會稽の東治」考
 ここで「其の道里を計るに、當に會稽の東治の東に在る」の記述は突如登場の感がある。この記述と「郡より女王国に至るには、万二千余里」、「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里可り」が不自然な形でバラバラに挿入されていることに気付く。これにはどういう意図があるのだろうか。本来であれば、併記しても似合いそうな記述であるが、バラバラに関連性のない形で挿入されている。陳寿の筆法の意図を詮索せねばならない。思うに、先行する資料に記載があり、陳寿が解せなかった記述であり且つ削除するに不都合な事情があったと思われる。どういう不都合かまでは分からない。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

其の風俗は淫らでない。

男子は皆露かいし、木綿を以って頭に招け、其の衣は横幅、但結束し相い連ねて、略々縫うことなし。

婦人は髪をふりみだしたまま屈かいし、衣は単被の如く作り、其の中央を穿ち、頭を貫きて之れを衣る。


【総合解説】

 ここでは、倭人の風俗、衣服について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈介(糸+介) 衣如單被貫頭而著之」
魏志倭人伝  「其衣横幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈介 作衣如単被穿其中央貫頭衣之」

【逐条解説】

 「其の風俗は淫らでない」について
 東夷伝韓条には、その俗は乱れている。北方の郡に近いところは、やや礼俗を知っているが、遠いところはまるで凶徒や奴婢の集まりのように粗暴である。と記述されている。

 「男子は皆露かいし」について
 字義表記通りである。

 「木綿を以って頭に招け、其の衣は横幅、但結束し相い連ねて、略々縫うことなし」について
 字義表記通りである。

 「婦人は髪をふりみだしたまま屈かいし」について
 字義表記通りである。

 「衣は単被の如く作り、其の中央を穿ち、頭を貫きて之れを衣る」について
 字義表記通りである。

禾や稲を種え、

紵麻(ちょま)を養蚕して緝績し、
細紵やけん緜を出だす。
其の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。
兵は矛、楯、木弓を用いる。
木弓は下が短く、上が長い。竹で作った矢は或いは鐡鏃、或は骨鏃。
有無する所はたん耳、朱崖と同じである。

【総合解説】

 ここでは、倭国の農作物、動物、武具について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為謙(糸ヘン+兼)布」、「無牛馬虎豹羊鵲」、「其兵有矛楯木弓竹矢 或以骨為鏃」
魏志倭人伝  「種禾稲紵麻蚕桑緝績出細紵謙(糸ヘン+兼)緜」、「其地無牛馬虎豹羊鵲」、「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃」

【逐条解説】

 「禾や稲を種え」について
 字義表記通りである。

 「紵麻(ちょま)養蚕して緝績し」について
 字義表記通りである。

 「細紵やけん緜を出だす」について
 字義表記通りである。

 「其の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し」について
 字義表記通りである。「倭地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない」。

 「兵は矛.楯.木弓を用いる」について

 この矛が、銅製であったか、鉄製であったかは記されていない。矛の使用は九州説に伴う。銅矛は、九州で373例見いだされているのに、近畿からは、わずかに10例しか見いだされていない。


 「木弓は下が短く、上が長い」について
 字義表記通りである。

 「竹で作った矢は或いは鐡鏃、或は骨鏃」について
 字義表記通りである。

 「有無する所はたん耳、朱崖と同じである」について

 「たん耳.朱崖」とは、今の海南島にかってあった郡の名前である。海南 島といえば、中国大陸最南端の島であり、香港の西南にあたる。中国広東省南部の半島から二十kmという、目と鼻の近さにある島で、面積約3,


倭の地は温暖で、冬夏生菜を食す。
皆徒跣。
屋室有り。
父母兄弟は異なる處で臥息す。
朱丹を以って其の身体に塗る。中国で用いる粉の如きなり。
食飲には、へん豆を用い、手食す。

【総合解説】

 ここでは、倭国の気候、住居、食事法について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「土氣温□冬夏生菜茹」、「城屋室 父母兄弟異處」、「並以丹朱□身如中國之用粉也(□=土ヘン+分)」、「食飲以手而用邊(竹カンムリ+邊)豆」
魏志倭人伝  「地温暖冬夏食生菜」、「有屋室 父母兄弟臥息異処」、「以朱丹塗其身体如中国用粉也」、「食飲用邊豆手食」

【逐条解説】

 「倭の地は温暖で」について

 字義表記通りである。

 「冬夏生菜を食す」について
 字義表記通りである。「冬夏も生野菜を食べている」。
(私論.私見) 解読取り決め39、「冬夏生菜を食す」考
 今日でも「年中(じゆう)生野菜を食す」習慣が続いている。これは邪馬台国時代以来の伝統文化であろう。歴史はかく続いているものと拝したい。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 「皆徒跣」について
 字義表記通りである。

 「屋室有り」について
 字義表記通りである。

 「父母兄弟は異なる處で臥息す」について
 字義表記通りである。「寝床については父母兄弟別である」。

 「朱丹を以って其の身体に塗る。中国で用いる粉の如きなり」について
 字義表記通りである。

「食飲には、へん豆を用い、手食す」について
 字義表記通りである。

其れ、死には棺有るも槨無く、土で封じて塚を作る。
始め、死するや停喪十余日、その時は肉を食わず、喪主哭泣し、他人は歌舞飲酒を就す。
葬が已れば、家を挙げて水中に詣り、澡浴す。以って練沐の如し。

【総合解説】

 ここでは、倭国の埋葬法について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「其死停喪十余日 家人哭泣不進酒食 而等類就歌舞為楽」
魏志倭人伝  「始死停喪十余日 当時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒」

【逐条解説】

 「其れ、死には棺有るも槨無く、土で封じて塚を作る」について

 字義表記通りである。

 「始め、死するや停喪十余日、その時は肉を食わず、喪主哭泣し」について
 字義表記通りである。

 「他人は歌舞飲酒を就す」について
 字義表記通りである。
(私論.私見) 解読取り決め40、「葬儀の際の歌舞飲酒」考
 今日でも「葬儀の際の歌舞飲酒」が続いている。これは邪馬台国時代以来の伝統文化であろう。歴史はかく続いているものと拝したい。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 「葬が已れば、家を挙げて水中に詣り、澡浴す。以って練沐の如し」について
 字義表記通りである。

其れ、海を渡って行来し中国に詣でるには、

恒に一人の髪をくしけずらず、蝨を除かず、衣服は垢で汚れ、肉を食わず、 婦人を近づけず、喪人の如くにさせる。

これを名付けて持衰と為す。
若し行く者吉善ならば、共に其の生口.財物をいつくしむ。 若し疾病有り、暴害に遭えば好きなように之れを殺す。 
其の持衰謹まずと謂へばなり。

【総合解説】

 ここでは、倭国の宗教的な持衰について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「行來度海令 一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰 若在塗吉利則雇以財物 如病疾遭害 以為持 衰 不謹便共殺之」
魏志倭人伝  「其行来渡海中国詣恒使 一人不梳頭不去幾蝨衣服垢汚不肉食不近婦人如喪人名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害便欲殺之 謂其持衰謹」

【逐条解説】

 「其れ、海を渡って行来し中国に詣でるには」について
 字義表記通りである。

 「恒に一人の髪をくしけずらず、蝨を除かず、衣服は垢で汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くにさせる」について
 字義表記通りである。「船には一人の風変りの者が居り、その者は髪に櫛を入れず(虱(シラミ)を取らず)、服は汚れ放題の垢塗れ、肉は食べず、婦人を近寄らさず、葬儀の際に喪に服すような格好で静かにしている」。

 「これを名付けて持衰と為す」について
 字義表記通りである。「その者を持衰と云う」。

 「若し行く者吉善ならば、共に其の生口.財物をいつくしむ」について
 字義表記通りである。「乗員に吉報があるなり、船が無事に往来すれば、持衰に褒美が与えられる」。

 「若し疾病有り、暴害に遭えば好きなように之れを殺す」について
 字義表記通りである。「船内に病気が発生したり、暴風雨に遭うなりの災難があれば、持衰は殺されても文句を言えない」。

 「其の持衰謹まずと謂へばなり」について
 字義表記通りである。「その持衰の霊能力が責められるからである」。

真珠.青玉を出だす。
(出真珠青玉)
其れ、山に丹有り。
(其山有丹)
其れ、木には枏(だん)、杼(ちょ)、橡(よ)、樟(しょう)、楺(じゅう)、櫪(れき)、投(とう)、橿(きょう)、烏號(うごう)、楓香(ふうこう)あり。
(其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香)
其れ、竹には篠(じょう)、簳(かん)、桃支(とうし)がある。
(其竹篠簳桃支)
薑(きょう)、橘(きつ)、椒(しょう)、襄荷(じょうか)が有るも、以って滋味と為すを知らず。 
(有薑橘椒襄荷 不知以為滋味)
獮猴(びえん)、黒雉(こくち)有り。
(有獮猴黒雉)

【総合解説】

 ここでは、倭国の産物について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「出白珠青玉其山有丹」
魏志倭人伝  「出真珠青玉其山有丹」

【逐条解説】

 「真珠.青玉を出だす」について
 字義表記通りである。「真珠、青玉が採れる」。

 「其れ、山に丹有り」について
 字義表記通りである。「その山には丹(辰砂、水銀のこと)有り」。

 ここで云う「丹」とは何か。次のような解説がある。
 「丹を水銀入りの赤土を指していると解せば、そういう丹は日本列島内では九州南部、四国山脈の中央構造線、北海道でしか算出しないとされている。これが為、邪馬台国土佐説、阿波説が生まれている。土佐文雄著『古神、巨石群の謎』(リヨン社、1983.6.25日初版)は次のように記している。『東京都立工業センターに分析依頼していた丹は、分析の結果、極上であるとの結論が得られました』」。

 続日本紀に、「文武天皇2年9月(698) に伊勢国は朱砂雄黄を、常陸国・備前・伊予・日向の四国は朱砂を、安芸・長門の二国は金青・緑青を、豊後は真朱を貢す」 と記されている。

 「其れ、木にはだん、ちょ、よ、しょう、じゅう、れき、とう、きょう、うごう、ふうこうあり」について
 (其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香)
 字義表記通りである。「倭の木には枏(だん、タブノキ、ゆすらうめ)、杼(ちょ、コナラ、とち)、橡(よ、クロモジ)、樟(しょう、クスノキ)、楺(じゅう、くぬぎ)、櫪(れき、杉もしくはカヤ)、投、橿(きょうカシ)、烏號(うごう、ヤマグワ)、楓香(ふうこう、かえで)がある」。

 「其れ、竹には篠(じょう)、かん(やだけ)、とうし(しゅろちく)がある」について
 (其竹篠簳桃支)
 字義表記通りである。「その竹は篠(じょう、ささ)、かん(かん、ヤダケ)、桃支(とうし、真竹)がある」。

 「薑(きょう)、橘(きつ)、椒(しょう)、襄荷(じょうか)有るも、以って滋味と為すを知らず」について
 (有薑橘椒襄荷 不知以為滋味)
 字義表記通りである。「薑(しょうが)、橘(きつ、たちばな)、椒(しょう、山椒さんしょ)、襄荷(じょうか、茗荷みょうが)などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない」。

 「獮猴(びえん)、黒雉(こくち黒っぽいきじ)有り」について
 (有獮猴黒雉)
 字義表記通りである。「獮猴(びえん、アカゲ猿)、黒雉(こくち、黒っぽいキジ)がいる」。

其れ、俗として、もの事、行來を挙するに、云為するところあれば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。

先ず卜するところを告げる。其の辞は令の如し。
龜法は火によるさけ目を視て兆を占う。

【総合解説】

 ここでは、倭国の宗教的な吉凶占い龜法について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「灼骨以卜用決吉凶」
魏志倭人伝  「靱輒灼骨而卜以占吉凶」

【逐条解説】

 「其れ、俗として、もの事、行來を挙するに、云為するところあれば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」について
 字義表記通りである。

 「先ず卜するところを告げる。其の辞は令の如し」について
 字義表記通りである。

 「龜法は火によるさけ目を視て兆を占う」について
 字義表記通りである。

其れ、會同坐起には、父子男女の別無し。

人の性質は酒を嗜む。
大人を敬する所作は、但、手を搏ち、以って跪拝に當てる。

【総合解説】

 ここでは、倭人の家族紐帯、性質、所作について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「唯会同男女無別」
魏志倭人伝  「其会同坐起父子男女無別」

【逐条解説】

 「其れ、會同坐起には、父子男女の別無し」について
 字義表記通りである。

 「人の性質は酒を嗜む」について
 字義通りである。
(私論.私見) 解読取り決め41、「酒を嗜む」考
 今日でも「酒を嗜む」習慣が続いている。「酒の嗜み」は出雲王朝の御世に既に習慣となっており、更に昔の国史を記しているとされているホツマ伝えでは酒の発祥譚が記されている。この伝統が邪馬台国時代にも続いていると記されているところに意味と意義が認められる。ここの下りの記述を、邪馬台国が出雲王朝系に列なる有力な例証の一つの記述として拝したい。

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

 「大人を敬する所作は、但、手を搏ち、以って跪拝に當てる」について
 字義表記通りである。「敬意を示す作法は、拍手をし、うずくまって拝む」。

 言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。貴人の返答の声は「アイ」という。

其れ、人は長生き。或は百年、或は八九十年。
其れ、國の俗は、大人は皆四五婦、下戸も或は二三婦。
婦人は淫らでなく、やきもちもやかず、
盗まず、訴訟少なし。

【総合解説】

  ここでは、倭人の寿命、夫婦態様、犯罪、訴訟について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「多壽考至百余歳者甚衆」、「國多女子大人皆有四五妻其余或兩或三 女人不淫不妬忌」
魏志倭人伝  「其人寿考或百年或八九十年」、「其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不忌」

【逐条解説】

 「其れ、人は長生き。或は百年、或は八九十年」について
 字義通りである。
(私論.私見) 解読取り決め42、長寿考
 今日でも日本人は長寿である。これも出雲王朝-邪馬台国時代以来の伝統であろう。歴史はかく続いているものと拝したい。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝」

 「其れ、國の俗は、大人は皆四五婦、下戸も或は二三婦」について
 字義表記通りである。

 「婦人は淫らでなく、やきもちもやかず」について

 東夷伝夫余の条では、「淫行する男女、嫉妬する婦人は皆殺す。嫉妬をもっとも憎み、殺した死体は山の上にさらす」と記述されている。東夷伝高句麗の条では「その俗は淫」と記述されている。


 「盗まず、訴訟少なし」について
 字義通りである。これも、出雲王朝-邪馬台国時代以来の伝統であろう。歴史はかく続いているものと拝したい。
(私論.私見) 解読取り決め43、「盗まず、訴訟少なし」考
 今日の日本は幕末の黒船来航以降、ネオシオニズム的欧米思想の影響により犯罪が多くなった。そこで江戸時代までを想定すれば良い、案外と世界に稀に見る相身互いの社会を形成していたのではなかろうか。暴動、災害時のそれなりの秩序整然もこれによる。この精神は今も社会の底流生きているとは思う。これも邪馬台国時代以来の伝統であろう。歴史はかく続いているものと拝したい。

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝」

其れ、法を犯せば、軽い者は其の妻子をなくし、重いものは其の門戸を滅ぼされ、宗族の貴卑に及ぶ。
各々差と序有り。
相臣服するに足る。

【総合解説】

  ここでは、倭国の刑罰、身分差について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「又俗不盗竊少爭訟 犯法者没其妻子 重者滅其門族」
魏志倭人伝  「不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族」

【逐条解説】

 「其れ、法を犯せば」について
 字義表記通りである。

 「軽い者は其の妻子をなくし、重いものは其の門戸を滅ぼされ、宗族の貴卑に及ぶ」について
 字義表記通りである。

 「各々差と序有り」について
 字義表記通りである。

 「相臣服するに足る」について

 字義表記通りである。


 「倭人の暦法」について
 倭人伝以外に、倭地ないし倭国の様子を記載されたものとして次のような一文がある。
魏略  「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」

 「その俗、正歳四節を知らず。但々春耕秋収を計りて年紀と為す」

 (倭人の習俗は、一年を春夏秋冬と名付ける四季の区分暦を知らず、種まく春の訪れで新しい年の初めを知り、実りの秋に収穫することによって、農耕生活の一年の終わりとしている)
 これは後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が注釈として挿入したと考えられている。古代の日本では「春秋暦」といって現在の一年を 2年として数えていた可能性が高い。古代の天皇が百歳を超えて長寿だったのもこれによると思われる。日本書紀の神功皇后紀によれば、西暦246年に神功皇后は加羅(朝鮮半島)の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣した(遣斯摩宿禰于卓淳國)。この神功皇后紀の加羅への派遣の年(西暦 246年)は百済王の名前などから本居宣長(1730-1801)によって正確120年(現在の干支二巡)繰り上がっていることが指摘された。また、明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ、 1851-1908)も同じことを指摘した。
晋書

 「但秋収之時を計りて以って年紀と為す」

 (春耕して秋収穫するまでの農作業をもって、農耕生活1年の暦としている、という意味である)
隋書倭国伝  「夷人里数を知らず、ただ計るに日を以ってす」

 これより後は、「女王国、卑弥呼について」に記す。





(私論.私見)