第7部 女王の外交史、その死と宗女壹與の登場

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 これより前は、「女王国、卑弥呼について」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、卑彌呼女王の外交史、その死と宗女壹與の登場について検証解析する。

 2006.11.27日 れんだいこ拝


景初二年六月、倭の女王は大夫難升米等を遣わして

郡に詣で、天子に詣でて朝獻することを求む。
太守劉夏、吏を遣わして送って行き、京都に詣らしむ。

【総合解説】

 ここでは、卑弥呼の外交について論述している。この下りにつき晋書は次のように記している。

 「宣帝(司馬懿)の公孫氏を平らぐるや、 その女王 (卑弥呼は、魏の初めから)使を遣わして帯方に至りて朝見せしむ。其の後、貢聘(こうへい・・・貢ぎ、贈るの意)絶たず。文帝(司馬昭)の相(魏の宰相)となるに及びて、又しばしば至る。泰始の初め(266年)、(晋に)使を遣わし、訳を重ねて入貢せしむ」。

【逐条解説】

 「景初二年六月」について

 「景初二年六月」につき「景初三年説」が対置されている。むしろこちらの方が通説となっている。この問題につき、「景初2年の証明01」の考察があり参照する。ちなみに「景初二年」はAD238年である。

 720年完成の日本書紀巻第九の「神功皇后摂政三九年の条」においては次のように「魏志に伝はく、明帝の景初の三年の六月」と記載している。

 「三九年。是年、太歳 己 未( おほとしつちのとひつじみなつき)。魏志に伝はく、明帝の景初の三年の六月倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守劉夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ」

 他の史料的根拠として、唐代の629年に書かれた粱書に「明帝の景初三年六月、公孫淵を誅後に」、梁書にやや遅れて成立した翰苑に「魏志にいう景初3年」、宋代の983年に成立した太平御覧の魏志・倭国伝に「景初3年 公孫淵が死して」と記載されている。これらを根拠に、「唐代に流布していた『魏志』に景初3年とあったことは動かない。したがって、『三国志』のオリジナルには3年と書いてあった可能性が高い」としている。「景初二年」と云えば、この年正月に魏(司馬懿仲達)が遼東の公孫氏(公孫淵)に対して四万の軍勢をもって大攻撃を開始し、これを滅ぼし、8月、楽浪郡、帯方郡の二郡を接収している。その戦争のさなかの6月に倭の女王が使者を帯方郡に行かせ、さらに魏の都の洛陽に朝見させる筈がなく、戦争が済んで情勢を見極めた翌年の「明帝の景初三年月」が正しいとしている。

 しかし、「景初二年六月」を裏付ける根拠もある。晋書倭人伝は「宣帝の公孫氏を平げるや、その女王、使を遣わして帯方に至り朝見す」と記している。これによれば、倭の女王率いる邪馬台国側が魏、呉、公孫政権の三つ巴の戦局に高度な情報能力を発揮しており、まさにタイムリーな訪朝こそ見て取るべしと云うことになる。
(私論.私見) 解読取り決め47、「景初二年六月」考
 私説は、「景初2年か3年」かについて、国名の「邪馬台、一論争」の際にも然りであるが、求むべきは「陳寿原本の記述如何」ではなかろうか。「陳寿原本」に「景初二年六月」とあれば極力そう読むべきであり、無闇に訂正すべきではなかろう。かく構えるべきではないかとする。では、「陳寿原本」はどう記載されていたか。陳寿は他の記述もそうであるが一言一句歴史考証を疎かにしていない。故に「陳寿原本魏志倭人伝」の価値は高いと評したい。従って、記載通りの「景初二年六月」を採る。

 2011.8.16日再編集 れんだいこ拝

 「倭の女王は」について
 ここで云う「倭の女王」は卑弥呼を指していると解するべきであろう。これによると、卑弥呼は「倭の女王」と位置付けられていることになる。倭国全体の女王なのか、倭国に於いて傑出する女王の意味なのかは分からないが、後者の意に解したい。

 「大夫難升米等を遣わして」について
 「大夫」がどういう政治的地位なのかは分からないが、「倭の女王」の代理人にして直属の外交官的位置づけとして解するべきであろう。

 「難升米」は「なしめ」と読む。「なんしょうまい」とも読む。日本書紀の神功皇后39年の条では「難斗米」と記載されている。「難升米」を、記紀の記す大和の明け渡しに最後まで抵抗したナガスネヒコと読む説もある。


 「郡に詣で」について
 郡とは帯方郡を指す。

 「天子に詣でて朝獻することを求む」について
 字義通りに解する。

 「太守劉夏」について
 字義通りに解する。

 「吏を遣わして送って行き」について
 字義通りに解する。「太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし」。

 「京都に詣らしむ」について
 字義通り。「京都(洛陽)まで送らせた」。

其の年十二月、詔書は倭の女王に報じて曰く、

「卑彌呼を親魏倭王に制詔す。
帯方太守劉夏、使を遣わして汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、
汝が獻ずる所の男生口四人.女生口六人.班布二匹二丈を奉り、以って到る。
汝の在る所ははるかに遠きも、すなわち使を遣わし貢獻す。是れ汝の忠孝なり。
我甚だ汝を哀れみ、今、汝を以て親魏倭王と為し、
金印紫綬を假し、装封して帯方の大守に付し假授せしむ。
汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
汝の來使難升米と牛利は遠くを渉り、道路勤勞す。
今難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を假し、引見してねぎらい、遣還を賜う。
今、絳(こう)地交龍錦五匹、絳(こう)地すう粟けい十張、せん絳(こう)五十匹、紺青五十匹を以って、
汝が献ずる所の貢の直に答う。

又、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華けい五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤、

皆装封して難升米と牛利に付す。
還り到らば録受し、以って汝の國中の人に悉く示すべし。
国家が汝を哀れむを知らすことに使え。
故に汝の好物を鄭重に賜うなり」と。

【総合解説】

 ここでは、卑弥呼の引き続きの外交について論述している。この記述は後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

後漢書倭伝  「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」
魏志倭人伝  該当分なし

【逐条解説】

 「其の年十二月」について

 字義通り。西暦2388年の12月となる。

 「詔書は倭の女王に報じて曰く」について
 字義通り。「詔書、倭の女王に報いて、こう曰く」。この時の魏の皇帝明帝は曹操の孫で第二代皇帝・曹叡(205-239)で、呉・蜀と戦い続けていた。

 「卑彌呼を親魏倭王に制詔す」について

 「今、汝を以て親魏倭王と為し」。ここで、卑弥呼に「倭王」の称名が与えられていることが判明する。韓国の首長は邑君の印綬、次位には邑長の印綬が与えられており、卑弥呼に「王」の称名が与えられたことは重大なことであると思われる。少なくとも属国ではない独立国として認められた上での破格の待遇であり、臣下の礼に基づく制詔であったことが推測される。これは卑弥呼率いる邪馬台国女王国としての倭國の外交的功績であり且つ栄誉である。

 卑弥呼は、倭国の統治に中国の威光を頼ろうとした。当時は三国志で知られる魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)がしのぎを削り、魏の王・曹操(そうそう)や蜀の劉備玄徳(りゅうびげんとく)ら英雄が覇を競った。卑弥呼が外交相手に選んだのは、中でも優位にあった魏だった。纒向(まきむく)学研究センターの寺沢薫所長は、「卑弥呼の政権は、東アジア情勢を敏感に察知しながら中国と外交を展開した」と評価している。

 こうして、卑弥呼政権は、魏の外臣に列することに成功した。 魏朝が他の国に「親魏王」を制詔した例は他の東夷にはなく倭国が唯一である。これに匹敵するのは、同時期、中央アジアからインド亜大陸を支配した西方の大国、ガンダーラ文化で知られるインドのクシャナ朝「大月氏国王」(仏教を奨励したカニシカ王の孫の国)に与えられた「親魏大月氏王」であり、他には例がないとのことである。日本の古代史上、卑彌呼が魏の皇帝に倭國が魏の友好国である(属国ではない)と認めさせた功績は大きく、倭國としてはそれほどの高い栄誉でした。

(私論.私見) 解読取り決め48、「親魏倭王」考
 卑弥呼に対する「親魏倭王」の制詔をどう読むべきか。当時の国際情勢論だけの説明で足りるだろうか。筆者は、「魏志倭人伝最大分量二千文字」同様に、当時に於ける倭国に対する格別なる配慮を窺う。道教的神仙思想に登場するが、倭国は理想の逢来国として位置づけられており、こういう背景も重なっているのではなかろうかと思う。

 2011.8.20日 れんだいこ拝

 「帯方太守劉夏」について
 字義通り。

 「使を遣わして汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り」について

 「都市牛利」とは何者か。

 「汝が獻ずる所の男生口四人.女生口六人.班布二匹二丈を奉り、以って到る」について

 生口とは何者か。

 「汝の在る所ははるかに遠きも、すなわち使を遣わし貢獻す」について

 字義通り。

 「是れ汝の忠孝なり。我甚だ汝を哀れみ」について

 字義通り。

 「今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を假し(与え)」について

 ここで、「親魏倭王」の称号に加えて「金印(紫綬)」が授けられていることが判明する。「印綬」とは、古代中国皇帝が冊封体制(古代中国の封建体制)を確立するために、中国王朝と配下以外の周辺諸国と「外臣」の契約を結ぶことを意味している。その証は詔書、「印」が印章としての「金印」、「綬」が金印を下げるための「紐」の3つが揃う必要がある。「印」は、「綬」はそれをための紐のことであり、この組み合わせにより一目でどのような地位にあるかがわかるようにされていた云々(寺田紀之)。 「親魏倭王」の名の金印はインド・クシャーナ朝と倭国の二つにしか贈られなかった破格の待遇である。
 「假(仮)し」について

 「假(仮)す」、「封ず」、「拝す」、「拝仮す」の違いを確認する。
假(仮)す 仮に与える事。
封ず 王、諸侯などの爵位を与える事。
拝す 将軍など、官職に任命する事。
拝仮す 「拝す」と「仮す」の複合。
 印鑑を「仮す」とは「仮に授ける」という意味で、いわば職務の在任期間中にのみ有効なものとなる。別説として、「印綬」の三証の詔書、金印、紐のうち金印が揃わなかった為に「仮す」となったとする説がある。
(私論.私見) 解読取り決め49、「親魏倭王」考
 この金印と志賀家の島で発見された金印とが同じものかどうかは分からない。違うものとすれば、志賀家の島で発見された金印のようなものが授与されたと云う事になる。私説はこれを採る。

 「装封して帯方の大守に付し假授せしむ」について

 字義通り。

 「汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ」について
 字義通り。「汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ」。

 「汝の來使難升米と牛利は遠くを渉り、道路勤勞す」について
 字義通り。「汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している」。

 「今難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を假し、引見してねぎらい、遣還を賜う」について
 字義通り。「今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる」。

 「今、絳(こう)地交龍錦五匹、絳(こう)地すう粟(ぞく)けい十張、せん絳(こう)五十匹、紺青五十匹を以って」について
 絳(こう)地交龍錦の絳(こう)地とは濃い赤。交龍錦は二頭の龍を描いた錦織物。絳(こう)地すう粟(ぞく)けいのすう粟(ぞく)けいとは縮み毛の織物。せん絳(こう)とは、茜色の紬(つむぎ)。

 「汝が献ずる所の貢の直に答う」について
 字義通り。

 「又、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華けい五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤」について
 紺地句文錦とは、紺地に区切り模様を描いた錦。細班華けいとは、細かい花模様をまだらに散らした毛織物。白絹とは。金とは。五尺刀とは。銅鏡とは。鉛丹とは赤色の顔料。

 「皆装封して難升米と牛利に付す」について
 字義通り。

 「還り到らば録受し、以って汝の國中の人に悉く示すべし。国家が汝を哀れむを知らすことに使え」について
 字義通り。

 「故に汝の好物を鄭重に賜うなり」について
 字義通り。

正始元年、大守弓遵は建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、
詔書.印綬を奉りて倭国に詣で倭王に拝假し、
並びに詔をもたらし、金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う。
倭王、使によりて上表し、恩詔を答謝す。
(倭王因使上表、答謝詔恩)

【総合解説】

 ここでは、魏の使節・建中校尉梯儁(ていしゅん)らの倭王拝假の様子について論述している。


【逐条解説】

 「正始元(240)年」について

 日本書紀では、次のように記されている。

 日本書紀巻第九、神功皇后摂政四十年の条

 四十年。魏志に云はく、正始の元年に、建中校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。

 其の四年、倭王復た使大夫伊聲き.やく邪狗等八人を遣わし、生口.倭錦.こう青 .緜衣.帛布.丹.木ふ.短弓矢を上獻す。

 やく邪狗等、率善中郎将の印綬を壹つ拝す。

 日本書紀巻第九、神功皇后摂政四三年の条

 「四三年。魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊聲者.わき椰 子耶約等八人を遣して上獻す」とある。

 其の六年、詔して倭の難升米に黄どうを賜い、郡に付して假綬す。

 女王が魏に使者を送ったのは238年。ところが同じ頃、その倭国の鼻先を通って、呉の大船団が、呉から遼東半島へ何度も往復していたことが確認されている。今、その記録を見れば、

232年  呉は将軍周賀の船団を遼東半島に派遣。
233年  呉は兵1万人の船団を遼東半島に派遣。
235年  呉は使者謝宏を高句麗に派遣。
239年  呉は船団を遼東半島に派遣して魏軍を攻撃。

 ということになる。呉の遠交近攻の外交策として、遼東半島を支配する公孫氏あるいは朝鮮半島を支配する高句麗に対する折衝の様が伺えるであろうということは、記録上は残されていないけれども、当然呉より倭国に対しても同様の外交攻勢が為されていたものと推測される。こういう背景を前提として、卑弥呼政権が魏との一早い臣下の礼をとったという認識が必要なのではなかろうか。このことは、一方で帯方郡を掌握して間もない魏王朝の外交的成果であり、他方で、卑弥呼政権の側からみても、中国の最強の支配者を見定めた、外交的成果でもあった。公孫氏政権が見せた魏と呉との二俣外交に比べて、読み誤りのない政策路線の選択でもあったと云える。

 「倭の外交史」の概要は「」に記す。


【倭の外交史】(「卑弥呼の時代」その他参照)
  西 暦 中国歴 和歴 出     来     事
紀元前107  倭は100余国からなる。この頃、中国王朝に定期的に朝貢している。
 「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来り、献見す」(漢書・地理誌)。
57 建武中元2年  漢の光武帝が委の奴国に金印(漢委奴国王)を贈る。
 「建武中元2年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫」(後漢書)。
106  統一奴国成立。
107  「倭国王師升らが後漢に朝貢、生口160人を贈り謁見を求める」(後漢書)。漢の都の落陽へ行き、皇帝の孝安帝に会見を申し入れた。
170頃  「倭国大乱(桓霊間倭国大乱  更相攻伐  暦年無主)」( 両帝の在位期間は147~188年)(後漢書)。
 「其国本亦以男子為王  住七八十年倭国乱  相攻伐暦年  乃共立一女子為王  名曰卑弥呼」(魏書)。
184  黄巾の乱
中平  1961年、天理大学付属天理参考館が奈良県天理市の初期の前方後円墳である東大寺山古墳の発掘調査に乗り出し、粘土郭から鉄剣数本が出土した。その中の1本に金象嵌の銘文のある鉄刀が見つかった。銘文は「中平□年 五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下*不祥」と解読された。中平は後漢の年号で西暦184~190年である。金象嵌がある鉄剣の出土は中国でもきわめて稀で、製作は特殊な場合(遠征将軍や遠地太守の任命など)に限られるという。金象嵌がある鉄剣が和珥氏の地元である奈良県天理市の東大寺山古墳から出土したことは畿内豪族の漢王朝との交流を物語る。なお、倭国の乱が光和年中とすると、卑弥呼が共立の直後に漢に遣使して中平紀年銘の秘宝剣を授けられた可能性が出てくる故に邪馬台国大和説の有力な証拠となる。

 中平(ちゅうへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた4番目の元号。184年 - 189年。中平6年は4月に少帝劉弁が即位した際、改元されて光熹元年とされたが、8月に昭寧と改められ、さらに9月に献帝劉協が即位した際、永漢に改められた。しかし、12月、光熹・昭寧・永漢の三号は除かれ、再び中平6年に戻された。

 188  後漢の*帝・霊帝の間(147ー188)、光和年中(178-183)倭国乱れて攻伐続き、遂に卑弥呼を擁立して女王とする。
204  公孫氏の公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を設置する。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
220  後漢が滅亡、魏が興る。
221  蜀が興る。
222  呉が興る。
229  魏の高官・曹真(そうしん)の提言により、インドのクシャーナ朝に「親魏」の称号を授与した。曹真は司馬懿の政敵であった。
237 魏の景初元年  帶方郡(たいほうぐん)の公孫淵(こうそんえん)は魏の第二代皇帝・曹叡(そうえい)から朝貢を求められた。公孫淵はそれに反旗を翻し、自ら燕國王(えんこくおう)と称した。翌年には年号を「紹漢(しょうかん)」と定めた。(公孫淵、魏と対立し「燕王」を自称する) 卑彌呼は公孫氏から鉄器や青銅器を輸入していた。卑彌呼はそのため公孫氏に朝貢していた。
238 魏の景初2年  魏が将軍・司馬懿(しばい 179-251)の軍勢・四万人を送って燕國を討伐する動きとなった。この情報が直ちに卑彌呼に伝わる。卑彌呼は公孫氏を見切って魏の皇帝に朝貢せんと指針させた。
景初2年6月  卑弥呼が直ちに使者(大夫の難升米(なしめ)と次使の都市牛利)を魏の帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
 「倭女王遣大夫難升米等詣郡  求詣天子朝献」(魏書)。
8月   魏の明帝は劉昕を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収め半島の支配を確立する。(三国志』魏書東夷伝序文)。

 8.23日、帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。これにより公孫氏滅ぶ。
景初2年12月   「今以汝親魏倭王  假金印紫綬(詔書)」(魏書) 。銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。倭國に「親魏」の称号を授与したのは司馬懿の提言による。
 呉の赤鳥元年の銘のある鏡が、和泉国西八代郡の古墳から出土する。
239 景初3年正月1日  春正月丁亥日(1月1日)、魏の明帝が急死、斉王・芳が即位(三国志魏書明帝紀)
景初3年6月  卑弥呼、使人難升米らを派遣し、生口4人、女生口6人、その他を献じる。
景初3年12月  卑弥呼が魏の明帝より金印(親魏倭王)を贈られる(現物が届いたのは翌年)。「 又特賜汝紺地句文錦三匹  (中略)  銅鏡百枚  真珠鉛丹各五十斤」(魏書)
 魏の景初3年の銘のある鏡が、和泉国北部黄金塚から出土する。
 240 正始元年  帯方太守弓避(弓遵)、建中校尉梯儁らに魏の詔書と印綬、賜物をを持たせて倭国に派遣する。
 魏が帯方郡の建忠校尉・梯儁らを倭国に派遣。
「 正始元年  太守弓遵  遣建中校尉梯儁等  奉詔書印綬詣倭国  拝仮倭王」
「 正始元年正月  東倭重訳納貢  難升米に銀印青綬を授ける(晋書・宣帝記)」
 魏の正始元年の銘のある鏡が、但馬国出石郡、上野国群馬郡の古墳から発掘される。
243  卑弥呼が魏に使者(大夫伊聲耆、掖邪狗ら)を派遣し、生口、布その他を贈り、魏に援軍を求める。皇帝(斉王)は、使者の液邪狗らに率善郎将の印綬を授ける。「其四年  倭王復遣使  大夫伊聲耆掖邪拘等八人」(魏書)。
244 2月~5月  魏は蜀を攻撃、倭の戦乱に介入できず?(魏書)
 呉の赤鳥7年の銘のある鏡が、摂津国川辺郡の古墳で発掘される。
245 正始六年  魏の斎王、邪馬台国の使者難升米に魏の軍旗である黄幢(黄色い旗さし)を与える。「詔賜倭難升米黄幢  付郡仮授」(魏書)。
 帯方太守弓遵は嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族の反乱にあって居所の崎離営を襲われ戦死。
246 正始七年   魏、馬韓と戦う、帯方太守・弓遵が戦死。半島全体が混乱状態に陥る。(魏書)
247 正始八年  女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。魏が塞曹掾史・張政を倭国に派遣する。「 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素  不和」(魏書)
?248 魏の正始  卑弥呼死去。卑弥呼の死後、男王立つが国中治まらず、壱与立って治まる。「 卑弥呼以死  大作冢  徑百余歩  徇葬者奴婢百余人 更立男王  国中不服  更相誅殺  当時殺千余人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王  国中遂定  政等以檄告喩壹與」(魏書)。
 女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
263  司馬昭が魏の相国に就任する。蜀が滅ぶ。
 265 8月  司馬昭が亡くなる。  
12月  魏が滅び西晋が興る。(西晋の泰始元年)
266  邪馬台国の女王壱与、使者を西晋に派遣して入貢する。(晋書)
285  陳寿(233~297)により「三国志」が完成
300  奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。
351  邪馬台国を継承した邪馬台国王統が中国に朝貢する。

 「大守弓遵は建中校尉梯儁(しゅん)等を遣わし」について
 字義通り。「太守弓遵は、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らを遺わし」 。梯儁は帯方郡の建中校尉という役職にあった。公孫氏滅亡後、帯方郡は魏の植民地となっていた。梯儁は印綬を卑弥呼に手渡す目的で、実際に邪馬壹国に行ったものと推理できる。よって、その記述が伝聞ではないことになる。

 「詔書.印綬を奉りて倭国に詣で」について
 「詔書・印綬を奉じて倭国に行き」。

 ここで云う倭王は卑弥呼かどうか諸説生むところである。
(私論.私見) 解読取り決め50、「倭王に拝假」考
 私説は、「倭王に拝假」とは、卑弥呼以外の倭王と読む。なぜなら、卑弥呼であれば卑弥呼と記すべきところだからである。推理するのに、卑弥呼は政治的権限を持たず、外交の任に当たる王が別にいたと考えられ、この王が拝假したと読む。ちなみに「倭国に詣で倭王に拝假」とあるのみで邪馬台国に詣でたとは記していない。ならばどこに詣でたのかと云うことになるが、倭国とあるばかりなので邪馬台国又は伊都国又は倭王が出迎えた所と推理する以外にない。

 倭地に来た帯方郡関係者が卑弥呼の都までは来なかったとみる見解が伴信友、喜田貞吉、白鳥庫吉以来、かなり多数の研究者から強く主張されている。しかし、本文の「詣」、「拝仮」の語意は現実に首都まで来、倭王に直に見(まみ)えたと受け取るべきではなかろうか。これにつき、三木太郎著「倭人伝の用語の研究」(多賀出版、1984年初版)66Pが次のように述べている。同意できるので採録しておく。
 「かくて、倭人伝の邪馬台国に関する記述は、ほぼ魏使の見聞に基づくものとみて差し支えないことになる。したがって、今後、邪馬台国に関する事柄にふれるときは、伝聞か見聞かは不明だからという、曖昧な態度は許されなくなる。基本的には、魏使の見聞に基づく内容として、論議解明を進めるべきであろう」。

 2014.10.14日再編集 れんだいこ拝

 「倭王に拝假し並びに詔をもたらし」について
 字義通り。「倭王に拝仮して詔をもたらし」。

 「金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う」について
 字義通り。「金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜った」。

 「倭王、使によりて上表し、恩詔を答謝す」について
 字義通り。「 倭王因使上表、答謝詔恩」。

その四年、倭王復た使大夫伊聲耆(き)、掖(やく)邪狗等八人を遣わし、
生口、倭錦、こう青、緜衣、帛布、丹、木ふ、.短弓矢を上獻す。
やく邪狗等、率善中郎将の印綬を壹つ拝す。
その六年、詔して倭の難升米に黄幢(どう)を賜い、郡に付して假綬す。
その八年、大守王き、官に到る。

【総合解説】
 ここでは、倭王の答礼としての魏への使節派遣について論述している。

【逐条解説】

 「その四年、倭王復た使大夫伊聲耆(き)、掖(やく)邪狗等八人を遣わし」について
 字義通り。

 「生口、倭錦、こう青、緜衣、帛布、丹、木ふ、短弓矢を上獻す」について
 字義通り。

 「やく邪狗等、率善中郎将の印綬を壹つ拝す」について
 字義通り。

 「その六年、詔して倭の難升米に黄幢(どう)を賜い、郡に付して假綬す」について
 ここで、「倭の難升米」とある。それ以前の倭王とは違うと云う意味に解する。黄幢(どう)とは、魏の軍旗の黄色い旗を意味している。同時期、魏の帯方郡に対して三韓が反乱を起こし、帯方郡の太守が殺害される事件が発生している。難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。

 「その八年、大守王き、官に到る」について
 字義通り。

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素より和せず。
(倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和)

倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。
(遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状)

塞曹エン史(さいそうのえんし)張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、
(遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢)
難升米に拝假し、檄を為して之を告喩す。
(拝仮難升米為檄告諭之)

【総合解説】
 ここでは、倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼との抗争、魏の卑弥呼支援について論述している。

【逐条解説】

 「倭の女王卑弥呼」について
 字義通り。

 「狗奴國の男王卑弥弓呼」について

 狗奴国の男王が「卑弥弓呼」と表記されている。魏略では拘右智卑弥狗(コウチヒク)とあるとのこと。卑弥呼と卑弥弓呼の名前の類似性は、両者が歴史的に非常に近い同族関係を推測させる。


 「素より和せず」について
 字義通りとする。

 「倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く」について
 ここに云う「相攻撃する状」とは、倭の女王卑弥呼と狗奴國の男王卑弥弓呼間の抗争と看做すべきであろう。文意から見てこう解するべきだと思う。この背景に何があったのかまでは記されていない。これにより、邪馬台国、狗奴國の地理的位置関係、政治的対立関係の考察が必要となるが明らかではない。

 「塞曹掾史(さいそうのえんし)張政等を遣わし」について

 「塞曹掾史(さいそうのえんし)張政」とは何者か。247(正始8)年、張政(ちょう せい)氏が邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、和睦を促すために魏から派遣された。張政氏は帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)であり邪馬壹国に深く関わり長く滞在したようである。

 張政の官職の
「掾史」(えんし)は難升米の「率善中郎将」に比べると下級官吏になるが、中国皇帝の威光を得ているので上役としてふるまうことができたと思われる。


 「因って詔書、黄幢をもたらしらし」について

 「黄幢」とは、天子の御旗を云う。魏朝が、このような天子の御旗である黄幢を下賜したことの政治性に対して認識を征討にする必要がある。


 「難升米に拝假し」について

 「倭の難升米に拝假」とある。ここで、難升米が拝假されるに足りる地位の者であることが判明する。 難升米の位は「率善中郎将」。「中郎将というのは将軍に次ぐ高官で、秩禄比二千石という大身です。二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権や、兄弟や子を郎に就けることができる任子の特権がありました」と解説されている。


 「檄を為して之を告喩す」について

 「告喩」とはどういう意味か。三国志全体における「告喩」の使われ方を吟味する必要がある。恐らく、「重要な告知及び諭し」的意味があると思われる。


卑弥呼死す。(卑弥呼以死)
大きな塚を作る。徑百余歩。(大作冢、徑百餘歩)
徇葬者奴婢百余人。(殉葬者奴婢百餘人)。
替わって男王を立てたが、國中服さず、こもごも相誅殺す。
当時千余人を殺す。

【総合解説】

 ここでは、卑弥呼の死と塚築造、その後の内戦の様子について論述している。


【逐条解説】

 「卑弥呼死す」について(卑弥呼以死)
 魏志倭人伝原文は「卑弥呼以死」と記している。「以死」の訓読についても諸説ある。その為、この「以」という字をどう読むかが問われる。通説1は、「以」に深い意味はないとする。通説2は、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」と読む。通説3は、「以(も)って死す」と読む。狗奴国との戦の関連で死んだと云うことになる。通説4は、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点、もしくは張政が来た時すでに卑弥呼は死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。通説5は、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読む。この場合、この前に書かれている卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。通説6は、「以(それにて)死す」と読む。卑弥呼は殺されたのだという説になる。松本清張がこの説に賛同して広く世間に広まった。作家の井沢元彦も卑弥呼は殺されたとする。しかし中国人の歴史家、謝銘仁、張明澄の両氏は「以死は、死んだのでという程度の意味しかなく、卑弥呼の死に、少なくとも倭人伝上では疑問はない」とする。

 問題は「卑弥呼が死す」の死因解析にある。これには老病死説、戦死説、王殺し系譜説等諸説がある。他にも持衰(じさい)説が考えられる。卑弥呼の死をどう読むべきか。直前文で狗奴国の男王卑弓弥呼(ひこみこ)との確執、魏に支援を頼んで使張政等が檄文を持って来たとの記述があり、続いて「以死」とある故に関連性を認めるべきだろう。

 王殺し系譜説

 J.G.フレイザ-著書「金枝篇」の中で詳しく考察されているが、古代の王は呪う術師であり、祭司的権威と俗的権威の結合であった。もし、ある一定の期間の後、その祭司的王の健康や精力が衰弱し始めたときは、いつでも王を殺してしまう慣行があった。旱魃、飢饉、敗戦などのような公的災禍が彼の生命力の衰弱を指示するように見える場合は、多く殺されるのであった、と云う。この風習は、バビロニアでもインドでも北イタリアでもカンボジアでもシャムでも中南米でもハワイでもあった。卑弥呼の場合も、これに類推して彼女の呪力の衰退の責任をとらされて殺されたものと推測することができる。

(私論.私見) 解読取り決め51、「卑弥呼死す」考
 私説は、「以(も)って死す」説を採る。直前の狗奴国の男王卑弓弥呼(ひこみこ)との確執、魏に支援を頼んで使張政等が檄文を持って来たとの記述との関連がありと読むべきであろう。よって、「以(も)って」を、「激動の最中で」と読む。こう読むことで、後の「大きな塚を作る」、「徑百余歩」の簡略な記述とテンポが整合する。「卑弥呼が死んだので」と読むのでは陳寿の文体と合わない。

 更に推理すれば自主的な持衰(じさい)説も有力と考えている。持衰は、航海中に航路の安全を祈願する為に同道していた霊能士であるが、嵐に遭遇するなどして不首尾に終わった場合、責任を取らされて殺された。あるいは後の日本武尊の東国征討遠征の際の航海で荒波に襲われた時、オトタチバナ姫が身投げして荒海を沈めた逸話の如く自主的な死もある。卑弥呼の死はこの先例ではなかろうかと思う。即ち「来る御世の平安を祈願しての霊能的投身死」の可能性がある。


 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝
 「卑弥呼以死大作塚」の「以」について、南宋の書物「通志」の通行本に「卑弥呼已に死す」とあるとの説が岡上祐/氏によって開陳されている。「以」と「已」について、荒木隆祐氏が「字統」(白川静著)で調べると次のように記されているとのことである。
「已‣以は声義の同じ字であり、ただのち釈字の形が分化して、用義上の区別が生まれたのである。例えば已は『やむ』、『すでに』に用い、以は『おもう』、『ゆえに』、『もって』に用い、その訓義の範囲を越えて互用することは殆どない。卜文・金文の字形では已と以とは同形で、のち字形分化に伴って慣用上の区別を生じたものである」。
(私論.私見) 南宋の書物「通志」の記述の信用度如何考
 南宋の書物「通志」の記述の信用度如何が問われるが、興味深い指摘ではある。

 「卑弥呼の逝去年、逝去時の年齢」について
 卑弥呼の逝去年につき、北史倭伝に「正始中、卑弥呼死す」とある。梁書倭伝にも同様の記述がある。正始は10年で249年に終わる。邪馬台国と狗奴国が争っていたのが247年とすると、卑弥呼が逝去したのは同年か、その数年後(248-249年)辺りの可能性が高い。通説は247(正始8)年頃としている。

 この没年に信憑性があるとしたなら、卑彌呼は西暦169年頃に生まれ(正確には生年も生地も不明)、卑弥呼擁立時の年齢を仮に次期・女王の台与と同じ13歳であったとすれば182年頃に即位し、もしくは189年頃に即位したとする説もあり、238年に魏の皇帝・第二代皇帝・曹叡(205-239)から「親魏倭王」の詔書と金印、銅鏡100枚を下賜され、その頃は「年已に長大なるも夫壻無し」(年已長大、無夫壻)で、その十年後の247年に崩御したと推定される。してみれば75-77歳で没したことになる。

 「大きな塚を作る。徑百余歩」について

 「大いに冢(土を高く盛った墳墓)を作る、径(円形のさしわたし)、百余歩」。(「大作冢、径百余歩」)

 「大きな」について、「大いに」と読む説もある。この場合、「大いに」は「塚」にではなく「作る」に掛かるとする。

 「徑」について論ぜられることが少ない。對島国について「方四百余里可り」の記述があり、これとの対比で見れば、「徑」は「方」と違う意味で使われていることになる。思うに、「塚」は円墳形であり、「徑」は全体の周囲か片方の半円周囲かを意味しているのではなかろうか。古墳の始まりが「塚」であり、邪馬台国時代の墳墓は円墳だったのではなかろうか。卑弥呼の墓と想定される箸墓(はしはか)古墳については「纏向(まきむく)遺跡考」で確認する。

 「徑百余歩」について諸説ある。

180m説  斎藤忠「統一国家成立前の社会」
150m説  魏朝の時代の尺度(1里=3百歩で、一歩が約1,45m)に基づく。笠井新也「卑弥呼の塚墓と箸墓」、小林行雄「女王国の出現」
70-80m説  「歩」を人間の実際の歩幅(一歩=約60-70m)とみて約60ないしは7、80mとみる。榎一雄「邪馬台国」、原田大六「邪馬台国論争」
30m説  倭人伝に通じる「短里」で表現されたものとみて30mほどとみる(なお、「短里」についても、朝鮮半島・倭地に限定の短里とみる説と魏晋朝一般の短里とみる説がある)。古田武彦「『邪馬台国』は無かった」

 箸墓古墳の後円部直径は約156mであり、徑百余歩を150mとすると符合する。当時、薄葬であった魏の役人は卑弥呼の墓の巨大さに驚き、それを特筆したのであろう。魏の一歩は約1・45mである。箸墓の後円部の直径は約160mで、「径百余歩」に対応している。
(私論.私見) 解読取り決め52、邪馬台国時代の墳墓としての円墳考
 「大きな塚を作る。徑百余歩」の推理から邪馬台国時代の墳墓が円墳だったと推定することはかなり重要である。後の前方後円墳につき、後円墳を邪馬台国古墳、前方墳を大和朝廷古墳と見立てることができるようになる。通説は混乱しており、逆に前方墳を邪馬台国古墳、後円墳を大和朝廷古墳と見立てる見解もある。それらは出雲王朝圏内の方墳を見て出雲王朝の古来よりの墳墓を方墳としているが、それは間違いで、出雲王朝圏内の方墳は大和朝廷古墳であるとすべきであろう。出雲王朝圏内の円墳がなかりせば毀損消滅されたと窺うべきだろう。

 2014.10.14日 れんだいこ拝
 「墳」は土を高く盛り上げた墓の意とされるが、卑弥呼の墓の高さは表現されていない。中国の「周礼」では「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」と記されており、身分による造墓規制が高さにあったことを示している。他にも「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」の記事に注目して、高さのある人工墓を「墳」、規模の小さい盛り土を「冢」と表現したとする説もある。これに対して、「冢」を小さく見ようとする議論は無理であり、大小の問題ではなく日本的な墓制に対する中国側からの呼称とみなす説もある。

 箸墓の築造年代について
 箸墓の築造年代はかって4世紀半ば頃と考えられていた。この為に、笠井新也の「箸墓=卑弥呼の冢墓説」は長らく無視されてきた。が、近年の年輪年代測定法(木材の年輪のパターンによって伐採された年代を一年単位で特定する方法)で精査すると、箸墓の築造年代が3世紀半ば頃であることが判明した。こうなると、魏志倭人伝が伝える卑弥呼の没年と合致する。これにより、にわかに「箸墓=卑弥呼の冢墓説」が有力になってきた。
 日本書紀は、箸墓築造につき、「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話を記述している。

 箸墓は誰を埋葬している墓なのか
 日本書紀は箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓と記している。しかも前代未聞の巨大古墳として伝えており、これは箸墓を我が国最初の巨大古墳とする考古学の成果と一致する。さらに、箸墓が三輪山ふもとの「大市」に築造され、そのおり「大坂山の石」を運んできたとする記述も考古学資料によって裏付けられている。箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓であり、魏志倭人伝の記す卑弥呼の冢墓であることは間違いなかろう。

 「箸墓=卑弥呼の冢墓説」、「箸墓=倭迹迹日百襲姫の冢墓説」は一致するのか如何が問われている。
一説に、孝霊天皇が倭迹迹日百襲姫を倭国の女性最高司祭者(倭女王=巫女王)に擁立した。これに半島情勢が関係していた。後漢王朝の衰微に乗じて二世紀末から渤海湾東部で自立の勢いを見せ始めた公孫氏が、3世紀初頭に楽浪郡から帯方郡を分置して倭・韓の地に影響力を強めると、それに呼応して、倭国は大和を盟主とし、畿内とその周辺、瀬戸内海、北九州諸国を糾合した邪馬台国連合国家を形成し、その女性最高司祭者として倭迹迹日百襲姫を擁立したのであろう。これは、聖なる祭事を司る「日女=姫」と俗なる政事を司る「日子=彦」の共治体制である。238年、公孫氏が魏によって滅ぼされると、その翌年の景初3年、倭女王卑弥呼名(というよりも称号)で直ちに魏に遣使し、卑弥呼は「親魏倭王」に柵封されて金印紫綬・銅鏡・絹織物など豪華な下賜品を受けている。孝霊天皇は、これら大陸の文物を独占し、また当時の倭人が銅鏡の中でも特に好んだ三角縁神獣鏡を大和の鏡作郷(奈良県田原本町。孝霊天皇のいお と 廬戸宮伝承地の近くには延喜式神名帳に大社として記されている鏡作坐天照御魂神社があり、ここには外区を欠く三角縁神獣鏡が神宝として伝世されている)において大量複製することによって、倭国の統一を進めようとしたのであろう。呉に対抗する魏の思惑を巧みに利用して得た「親魏倭王」の権威も、大いに役立ったに違いない。

 「徇葬者奴婢百余人」について
 「徇葬者」をどう解するか、さほど問われていない。私説は殉死の意味に解して、「殉死によって弔われた者」と読む。ところで、「徇葬者奴婢百余人」は卑弥呼の死により宗教儀式的にいわば強制的に埋葬された者と読むべきだろうか。私説は、邪馬台国は滅ぼされたとみているので、卑弥呼の死に象徴される如きの邪馬台国の敗北があり、攻撃軍の戦勝特権として性の蹂躪が為されるのを拒否して殉死したのが傍に仕えていた「奴婢百余人」であり、共に埋葬されたと読む。

 「徇葬者」以外の者の葬儀作法として、既述の「その死には、棺があるも槨なく、土を封じて冢を作る。始め死するや喪を停めること十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主哭泣し、他の人は歌舞飲酒に就く。すでに葬むれば、家を挙げて水中に詣りて澡浴す、以て練沐(水垢離)の如し」の通りであったと思われる。卑弥呼の葬送にも適用されており重複を避けていると思われる

 2014.10.14日 れんだいこ拝

 「替わって男王を立てたが、國中服さず、こもごも相誅殺す。当時千余人を殺す」について

 字義通り。


復た卑弥呼の宗女壹(臺)與、年十三才なるを立てて王と為す。
國中遂に定まる。
政等、檄を以って壹與を告喩す。
壹(臺)與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送り、
因って臺に詣で、
男女生口三十人を献上し、白珠五千、孔.青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。

【総合解説】

 ここでは、卑弥呼の宗女壹(臺)與の擁立、壹(臺)與の外交について論述している。


【逐条解説】

 「復た卑弥呼の宗女壹(臺)與、年十三才なるを立てて王と為す」について

 「壹與」の「壹」をそのままに読むべきか、「邪馬壱国」と同じで「臺」に変えて読むべきかにつき両説ある。「臺與」は「豊」を意味している。

 「臺」派の論拠は次の通り。一説は「書き誤り説」である。「臺與」を「壹與」に書き誤ったとする。この説によると、「邪馬臺国」も「邪馬壹国」に書き誤ったとすることになる。二説として、「梁書諸夷伝・倭」、「北史東夷伝」、「翰宛」の表記に根拠を求め、魏志には「壹與」とあるが「臺與」と読み直すべきであるとする。唐時代636年に姚思廉(?~637)によって編纂された梁書諸夷伝・倭には、「更立男王 国中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女臺與為王」(卑弥呼の死後、男の王が立ったが、国中、男の王を認めず不服で更に殺し合いの戦争が起こった。そこで再び卑弥呼の宗女臺与が王となった)とあり「臺与」と記されている。同じく唐時代に李延寿によって編纂された北史東夷伝にも、「正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王」(正始の時代に卑弥呼が死んだ。男の王が立ったが国中不服治まらず、更に殺し合いが起こった。そこで卑弥呼の宗女の臺与が王となった)と「臺与」と表記されている。翰宛にも「台与は幼い歯なるも方に衆望に諧う」と記述されている云々。

 これにつき、「壹」派は、「梁書諸夷伝・倭」、「北史東夷伝」、「翰宛」は魏志倭人伝より後代の記述であり、後代の記述で先代の魏志倭人伝の記述を訂正するのは不当としている。これに対して「臺」派は、梁書、北史は魏志倭人伝も又二、三十年早く書かれた魏略(編纂者魚劵)を参考にしており、魏志倭人伝も又魏略を参考にして書いたと推測されているので、梁書、北史の記述に従うのに問題はないとする。 

(私論.私見) 解読取り決め53、「壹與」の「壹」の「臺」読み考
 私説は、「臺」派に与する。但し論拠が異なる。魏志倭人伝の現本に「壹與(一与)」とあるのは「邪馬壱国(邪馬一国)」の例と同じで、元々は「臺」とあるのを後世の転写時に意図的故意に「壹」と差し替えたと読む。従って「臺與」と読み直すべきだと思う。「一、台論争」の項で述べたが、後世の転写時に中華ナショナリズムの民族主義観点から倭国に「臺」字を宛てるのは不遜とする観点から記述変えが為されたものと思われる。陳寿原本は「邪馬臺国(邪馬台国)」と記載されていたと推定でき、これに戻すのを至当としたい。

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

 「國中遂に定まる」について

 翰宛には、「台与は幼い歯なるも方に衆望に諧う」と記述されている。


 「政等、檄を以って壹(臺)與を告喩す」について
 字義通り。

 「壹(臺)與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送り」について
 晋書によると、台与が魏の後継国である晋に遣使したのは266年とある。邪馬台国の動向が中国史書に登場するのは、これが最後となる。

 「因って臺に詣で」について
 字義通り。
(私論.私見) 解読取り決め54、同文に於ける「壹」と「壹」の使い分け記述考
 「壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送り、因って臺に詣で」と「壹」と「臺」が同時に出てくる。邪馬台国の「一、台論争」につき、この下りが非常に重要である。私説は、この箇所でその昔の転写過程で魏朝の「臺」と同じ「臺與」の記述が問題になり、民族ナショナリズムの観点から「臺與」を「壹與」に変え、これが全編に及び、以降踏襲されたと推理する。これに対し、梁書諸夷伝・倭、北史東夷伝、翰宛がこの書き換えを否定し原書に基づく記述に再訂正したものと推理したい。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 「男女生口三十人を献上し」について
 字義通り。

 「白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ」について
 孔青大句珠とは翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)と思われる。

(私論.私見) 解読取り決め55、魏志倭人伝の後続記述削除考
 魏志倭人伝はここで終わっているが、陳寿原文にはもう少し記述があったのではなかろうか、突如尻切れトンボになっている感が否めない。私説はこう読む。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)