第1部 鬼道考、当時の女王国体制考

 (最新見直し2013.02.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、卑弥呼のシャーマニズムの実態、鬼道、当時の女王国体制について検証しておく。

 2010.03.23日 れんだいこ拝


【鬼道考】
  「第271回講演会/ 卑弥呼の鬼道と原始神道」その他参照。魏志倭人伝に記されている「卑弥呼の鬼道」について詮索しておく。

 1、原始的祖先崇拝信仰説

 まず、鬼道について確認しておく。日本で「鬼」は「角と牙を生やし、虎の皮の腰巻をつけた怪物」でデフォルメ(
造形美術などで、対象・素材の形態を意識的に変形すること
)されている。永田久「暦と占いの科学」(新潮社)その他によれば、元々中国では、鬼は死んだ祖先の霊魂を意味していて、後に超人的な精霊を意味するようになったと云う。これによれば、鬼は魂、死人の霊、幽魂を表わし、鬼神とはこの世に出現した死人の魂、鬼籍とは死者の名を記した帳簿のことを云う。鬼のイメージの起源は「鬼門」という言葉にあり、その由来は八卦にある。八卦とは中国の古い占いで、これに木火土金水(五行)から万物が成り立っているという五行説思想が組み合わされている。八卦の要素のうち東北の方角を表わす「艮」(ごん)だけが五行相剋という相性の悪い方角とされ、その結果、東北の「艮」の方角が忌み嫌われるようになり、鬼が来るところ即ち鬼門と言われるようになった。「艮」は十二支で表現すると丑寅(うしとら)であるところから、牛の角と虎の牙、虎の皮の腰巻が鬼のイメージとして定着した。なお、初めて鬼の絵を描いたのは、唐の時代の画家・呉道子という人だそうで、この人の描いた「地獄変相図」という地獄の様子を表わす壁画を見て、多くの罪人が改心したと伝えられている。

 三国志は、朝鮮半島にあった高句麗、馬韓(のちの百済)などで鬼神が盛んに祭られていると記している。ここでいう鬼神は祖先の魂をさす。今でも、朝鮮半島では先祖供養が重んじられている。思うに、卑弥呼の鬼道もこの流れのものであろう。その重要な要素に祖先祭祀があることは間違いない。この祖先崇拝は色々な形をとって古代から現代まで受け継がれている。むしろ仏教渡来以前よりの固有のものであろう。村などの共同体すべての人の祖先が神になり、生きている人を見守り続けているとする。この祖先の恩を感じお陰を感謝し礼拝する信仰を祖先信仰と呼ぶ。卑弥呼の鬼道は更に、神憑り状態になって霊魂や精霊と交信する霊能力に長けていたのではなかろうかと考えられる。
 2、道教説

 元広島大学教授の重松明久氏は、著書「邪馬台国の研究」において、卑弥呼の鬼道とは道教的なものとして次のように述べている。魏志巻八・張魯伝に、五斗米道や道教の指導者であった張魯が、漢中で鬼道によって民を導いたことが記されている。魏志の編者陳寿は、鬼道という呼称を、張魯の場合に限ってとくに用いたらしい。同じ陳寿が、卑弥呼の場合も鬼道と呼んだことは、張魯の鬼道と卑弥呼の鬼道が同じように見えたと考えられる。張魯の鬼道は道教の系譜に属することはいうまでもない。したがって、卑弥呼の鬼道も道教的な色彩の濃いものと考えられるのである。
 3、「あやしげな教え」とする説

 中国人の謝銘仁氏、張明澄氏は道鏡説を否定し、鬼道とは「あやしげな教え」という意味であると説く。慶応大学で社会学を教えていた謝銘仁氏は著書「邪馬台国は中国人はこうよむ」で、「事」は動詞で「いとなむ」、「鬼道」は「邪術」のことであるとし、魏志倭人伝の「事鬼道」の意味は、「邪術をいとなむ」ことであると述べる。台湾出身の張明澄氏は「中国人の見た邪馬台国論争」で、「鬼道」という言葉には、そのままずばり道教という意味はない。ただ、道教をさげすむ時に使うことがあるだけであると述べる。

 中国での「鬼」という字の使い方には、「まやかし」「でたらめ」「ふざけた」「嘘八百の」などの意味で使われることがある。 例えば、次のような熟語で使われている。鬼話/でたらめな話、嘘。鬼胎/悪いたくらみ、秘密。鬼病/仮病。鬼道/ペテン。鬼混/ごまかして月日をむだに過ごす。鬼画符/つじつまのあわない嘘。鬼名堂/わけのわからないこと。鬼々崇々/こそこそ。つまり、張魯の呪術と卑弥呼の呪術とは、あやしげな説、あるいは、ペテン的呪術ということで共通点があるが、道教という共通点は見あたらない。結論として、卑弥呼の鬼道はただの「まやかし」の道であり、道教とはなんの関わりもない。
 4、シャーマニズム説

 シャーマニズムとはシャーマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教儀式で、極北、シベリヤ、中央アジア、北米の先住民に一般的で、類似の現象は南アジア、東南アジア、オセアニアなどにも見られる。井上光貞氏は「日本の歴史1」の中で、卑弥呼の鬼道について次のように述べている。
 「倭人伝によれば、『鬼道を事とし、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫婿なし。男弟あり、たすけて国を治む』とあるから、政治のことは弟が行い、彼女自身は霊力に秀でた独身の女性、つまりシャーマンにほかならなかったのである。じっさいは男子の政治であり、女子が霊媒者としてこれをたすけるという形態なのであった」。
 5、原始神道説

 本居宣長は著書「馭戎概言」(ぎょじゅうがいげん)で、後漢書の卑弥呼の記事を参照して次のように述べる。
 概要「後漢書の『一女子有り』という記述は、中国人が三韓から息長帯姫尊(神功皇后)のことを伝え聞き、誤った情報も交えて記したものである。『妖を以て衆を惑わす』というのは、中国人が日本の神道を知らなかったためにこのように誤って書いたものである。つまり、本居宣長は、卑弥呼の鬼道とは、現在の神道のもとになった原始的な神道のことであると考えたのである。日本の原始的な神道はどのようなものか。これについてもいくつかの説がある。

 1、アニミズム的解釈。

 本居宣長は古事記伝のなかで、「神」について次のように述べる。「人はいうまでもなく、鳥獣木草のたぐい、海山など、そのほか、なんであろうと、つねならずすぐれた徳があって、おそれ多いものをカミというのである。原始人や子供は、動くものはすべて命または心をもっていると考えるアミニズム的傾向を持つ」。

 本居宣長の解釈は「神」という語ののもつアニミズム的な側面にやや重点を置いているように見える。中国語の「神」という文字は、日、月、風、雨、雷など自然界のふしぎな力をもつものを指した。日本語の「カミ」という概念に、中国の「神」という文字をあてはめた人は、日本語の「カミ」は、中国語の「神」にあたる、ややアニミズム的な性格をもつものと判断していたようにみえる。古来からのアニミズムの精神は古事記、日本書紀の神話伝承の中にも生きている。たとえば、日本書紀の天孫降臨の場面には、「草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)有り」と記され、草木がそれぞれ精霊を持ち、ものを言って人間をおびやかすというアニミズムの世界が描写されている。また、大祓の祝詞のなかにも、「語問いし磐根(いわね)樹立(こだち)、草の片葉も語(こと)止めて」と言う記述があり、ものを言っていた岩や木立や草の葉がしゃべるのを止めたことが描かれている。ラオスやタイでは、草むらや樹叢に住むピーという聖霊への信仰がある。ピー信仰は、草むらや林に神がいるとする日本の神信仰とまったく同じである。ビルマでは、山川草木などに聖霊ナットがいるとする。ナット信仰も基本的には極めて類似した民俗宗教である。

 魂よばい(招魂、呼魂)という習俗がある。死者の出た家の屋根に登り大声で亡くなった人の名を叫び魂を呼び返す風習である。魂よばいはラオ族、タイ族をはじめ、クメール族のなかに広く行き渡っている。そして、魂よばいは日本にもまったく共通の習俗があり、明治時代まで広く行われていた。魏志倭人伝に記される日本の「たべもの」、「きもの」、「いえ」の原型は、東南アジア諸民族のそれときわめて似通ったものであり、アニミズム的な感性を含めた基礎文化のパターンが、古い時代に東南アジア方面からわが国に伝えられ、連綿と現代まで受け継がれてきたように見える。

 2、シャーマニズム的解釈

 天照大御神は大日貴(おおひるめのむち)とも号されたと日本書紀に記されている。「大」と「貴」は文字通りの意味であるが「日(ひるめ)」については、折口信夫のように「日の妻」すなわち太陽神を祭る女性であり、シャーマンであると解する学者もいる。(井上光貞氏「日本の歴史1」) シャーマンとは神や聖霊などの超自然的存在と直接的な関係に入る方法を知っている男性または女性ということであり、シャーマニズムはさまざまな現象に超自然的、霊的な存在を認めるアニミズムを基盤として成立している。日本では、古代から近代まで、神憑りした女性の話がある。神憑りは憑依現象の一種で、神霊が人間に憑くことは、シャーマニズムの基本形態である。

 3、人格神、祖先神的解釈

 アミニズム、シャーマニズムを更に発展させたのが新井白石の儒学的合理主義である。新井白石は古史通(こしつう)、古史通或問(こしつうわくもん)を著し、はじめて神代を合理的、実証的に追求しようとした。 すなわち、「神とは人である。尊ぶべき人を加美(かみ)とよんだのである。(神とは人なり。我が国の俗凡(およ)そ其の尊ぶ処の人を称して加美と云ふ)」と説いた。紀元前300年ごろシチリア生まれの神話学者のエウヘメロスは、神話は史実にもとづくとする説をたてた。すなわち、ギリシャ神話の神々は、人間の男女の神話化したものと説いた。神々は、元来、地方の王または征服者、英雄などであったが、これらの人々に対する尊崇、感謝の念が、これらの人々を神にしたとするもので、神話史実主義(エウヘメリズム)と呼ばれる。 エウヘメリズムは、新井白石の「神は人なり」説に近いといえる。第二次世界大戦後のわが国では、津田左右吉流の立場から、神話と歴史とは峻別すべしということで、エウヘメリズムは批判の対象とされることが多かった。 しかし、エウヘメロスの考えは、シュリーマンの発掘によって実証された部分があるといえる。
 2023.9.23日、「男性から隔離されていた女王・卑弥呼。「処女性」はどのように守られたのか?」。(監修・文 島崎晋 歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より)
 弥生時代、邪馬台国の女王として国を統治した卑弥呼。神に仕える身である彼女は、男性との身体的な接触はもちろん、男性の目に触れることすら避けられていた。魏志倭人伝に書かれた護衛の様子はどのようなものだったのだろうか? 人々を導いた卑弥呼は鬼道を行い、人びとを幻惑

 名前が伝わるなかで、日本史上最初の呪術(じゅじゅつ)師は卑弥呼(ひみこ)だろう。俗に言う魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によれば、卑弥呼は邪馬台国(やまたいこく)の女王にして、倭国大乱を終息させるため、倭国の統一君主にも擁立された人物。「鬼道(きどう)により衆を惑わす(鬼道を行い、人びとを幻惑した)」という。ここにある「鬼道」はシャーマニズムと考えられる。あえて訳するなら、「巫術」(ふじゅつ)か「妖術」(ようじゅつ)といったところか。卑弥呼は神の言葉を伝える巫女(みこ)たちの最高位にあったと見られ、同じく魏志倭人伝にある以下の記述が、そのことを裏付ける。 「歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり、国の統治を助けている。王となってより以来、卑弥呼を見たことのある者は少ない。婢(ひ)千人を自分に侍らせ、ただ一人だけ男子がおり、飲食を給仕し、言辞を伝えるために出入りしている」  

 神に仕える身であれば人間との性行為は厳禁であり、卑弥呼が男性から隔離されていたのは処女性を守るため。間違いが起こるのを防ぐだけでなく、卑弥呼が視姦される危険をも事前に排除しようとしていたのではあるまいか。 卑弥呼の処女性が失われれば、もはや神の言葉を聞くことはできない。特殊能力がなくなれば統一君主ではいられなくなり、倭国大乱の再発も免れない。そんな悪夢を回避するには、卑弥呼の処女性は何としても守らねばならなかった。 「卑弥呼のいる宮室は見張り櫓(やぐら)と城柵を厳しく設け、常に人びとがおり、武器をもって守衛している」 。これまた魏志倭人伝の一節だが、すべては卑弥呼の生命ではなく、処女性を守るためだった。また、卑弥呼とは限っていないが、同じく魏志倭人伝は、「行事や旅行、何かしようとする時には、そのたびに骨を焼いて、吉凶を占う」ことを、倭国の習俗として紹介する。骨に生じたひび割れから吉凶を判断するのも
シャーマンの役目で、卑弥呼はその点において、倭国における最高権威であった可能性が高い。 呪術は主に5つの系統から発展した

 卑弥呼の例が示すように、日本には仏教や道教が伝えられる以前、神道が形成される以前から呪術師が存在した。文字史料による裏付けこそ欠けるが、呪術に使用したと思われる道具の出土例から、日本における呪術の歴史はおそらく縄文時代にまでさかのぼることができる。初期の呪術者はシャーマンであり、訳するときは「巫者」(ふしゃ)とされることが多い。 漢和辞典の定番とされる角川新字源によれば、「巫」の字は「神を地上に招くための工形の道具を交差させた形にかたどる」「神おろしをする人」とある。 「工形の道具」の具体例は定かでないが、現在のような神社建築が普及する以前の古神道の世界では、女性の呪術師は巫(ふ)、男性の呪術師は覡(かんなぎ)と呼ばれ、この2字を組み合わせた巫覡(ふげき)は男女呪術師の総称とされた。彼らの後裔には神道系の呪術師となる者もいれば、完全なフリーランスとして活動をする者もいた。

 中国大陸や朝鮮半島との交流機会が増えるに伴い、未知なる文物も次々ともたらされ、遣隋使・遣唐使の派遣が軌道に乗ってからは、仏教以外の思想ももたらされるようになった。  留学僧たちは唐の国教であった道教にも接したはずだが、仏教僧という立場から距離を置き、道教を体系だって学ぶことはなく、道教の母体となった老荘思想(ろうそうしそう)や陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、風水説、易、讖緯説(しんいせつ)、災異説など個別の神秘思想をそれぞれ教養の一つとして持ち帰るにとどめた。経典や法具など、まとまった形で持ち帰ったのは仏教のものだけだが、中国では8世紀後半以降、道教と密教の融合が進んでいたことから、
最澄空海を始めとする留学僧たちは覚えずして道教由来の法術をも日本に持ち帰ることとなった。このような背景から、日本でも道教系の呪術が無意識のうちに受け入れられ、それで修法(しゅほう)を行うのは陰陽師の場合もあれば呪禁師(じゅごんし)、密教僧、修験者の場合もあった。そもそも陰陽道からして、中国から伝えられた陰陽五行説に基づく占いや信仰の総称に近く、同じく陰陽五行説に古神道や修験道などが混ぜ合わさって生まれたのが修験道だった。10世紀中頃からは密教と陰陽道の融合も進んだから、諸々の呪術間の相違は法術の中身ではなく、その呪術師がどこの所属か、何と名乗っているかで区別するしかなかった。もっとも権威のある呪術師はやはり国家公務員である陰陽寮所属の陰陽師であったが、貴族の子弟なら誰でもなれたわけではなく、平安時代中頃であれば祭祀との関わりが深い26の氏族出身者に限られ、そのなかでも賀茂氏と安倍氏だけで全体の2〜3割を占めるなど、頭一つ抜け出た存在だった。賀茂・安倍両氏の立場は時代が下るとともに強化され、12世紀中頃には正規の陰陽師の半数以上、13世紀初頭には7割、13世紀後半には9割を占め、14世紀末には10割と、完全な独占状態となった。

【天理教教祖みきの口上と邪馬台国女王卑弥呼の鬼道との接点考】
 れんだいこは、天理教教祖中山みきの研究を通じて、中山みきが卑弥呼の再来ではないかとする視点を構築した。これにより、中山みきの在り姿を通して卑弥呼のかっての在り姿を推理すると云うことが可能と思うようになった。この観点より以下論述する。れんだいこの「天理教教祖中山みきの研究」の「みき教祖ひみこ化身論」の「邪馬台国女王卑弥呼との接点考」で次のように記している。
 「教祖みきの中に卑弥呼を見ると云うこの観点は次のことによっても補強される。魏志倭人伝には、卑弥呼の在り姿について、『鬼道を事とし、衆を能く惑わす』に続いて次のように記している。『年已に長大なるも夫壻なし。男弟あり。佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし。婢千人を以って自ら侍らす。唯、男子一人あり。飲食を給し、出入りして辞を伝える。居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人あり。兵を持って守衛す』。

 これを念頭に於いて教祖みきの在り姿を比較してみるに、『年已に長大なるも夫壻なし』は中山善兵衛の妻にして5人の子を設けたみきには当てはまらない。但し、神がかり後のみきの精神においては一人身的であり、この観点からすればあながち外れておらず、卑弥呼の『夫壻なし』と通じているのではないかと思われる。次の『男弟有り。佐けて國を治む』は意味深く思われる。教祖みきも又『男弟』ではないが側用人を使い、世事雑多の表向きの用を側用人に処理させ、みき自身は精神界的な『親神の御言葉』を宣べ伝え続けていた。これを思えば、卑弥呼も又当時に於いて同じような『親神の御言葉』を宣べ伝え続けていたのてはなかろうかと推測できる。加えて、教祖みきが『親神の御言葉』を宣べ伝える際の降神入魂口上は独特なものであるが、当時の卑弥呼の口上もこの如くなものだったのではなかろうかと推測できる。これを中国の使者は『鬼道を事とし、衆を能く惑わす』の如くに伝え魏志倭人伝にそのように記されることになった。宗教学的にはシャーマニズムそのものであるように思われるが、まさしく日本式シャーマニズムなのではなかろうかと思われる。

 みき没後、後継者として本席が定められ、この任に当たった飯降伊蔵が同様の作法でお指図を宣べ伝えている。その口上も、男と女の違いがあるとはいえ教祖みきの口上にして卑弥呼の口上の如くなものだったのではなかろうか。これを逆に云えば、卑弥呼の口上の如くな教祖みきの口上を孫引きしていたのではなかろうか。時の道人が教祖みき、本席・飯降伊蔵の口上に耳を傾け何らの違和感も持たず拝受したのは、はるけき日本古来の伝統的な神の口上らしきものだったからではなかろうか。かく拝することができるように思われる。このような意味で、検証すればするほど教祖みきの卑弥呼らしさはますます補強されることになる」。

 これを踏まえつつ、卑弥呼のかっての在り姿を推理してみる。日常的な在り姿と祭事、有事の在り姿を説き分けねばならないと考える。日常的な在り姿は次のようだったのではなかろうか。

 祭事、有事の在り姿は次のようだったのではなかろうか。

 2013.2.13日 れんだいこ拝
 戦後のGHQ政策により簡略化されている「霊」は本來「靈」と書く。字義的に、巫女が口を開いて雨を受け取っている姿を象徴化している。シャーマン巫女が農耕に大切な雨期などの自然現象を知るため、天のメッセージや自然の聖靈のメッセージを受け取ることを現している。3つの口はシャーマン巫女に必要な三位一体(肉体の入口、心の入口、魂の入口)を調和させる姿を示す。靈とは本來、宇宙や大自然の自然エネルギーメッセージを現わしており、その高次の智慧であるエネルギーを受取った人が靈能者として人々を導くマスターになる。日本民族は元々「靈」に明るく、シャーマン的な素養を全員が供えている。巫女とは本來、天地のメッセージやエネルギーを受け取る受信機である。世界的に高名なシャーマンが女性であるのには理由がある。恐らく性的に感応し易いのだろう。但し、巫女自身はメッセージを受け取るだけで解釈はできない。そこで、そのメッセージを審判して論理的、思考的に判断解釈する存在が必要となる。この者を審神者(サニワ)と言う。「巫女 =女性的、直感的、右脳的、陰性審神者=男性的、論理的、左脳的、陽性という関係」に於いて、女性巫女が天や自然の声(メッセージ)を捉え、男性サニワが、その声を人々が理解できるような言葉に通訳し伝える。これが本來の「マツリゴト(政)」である。マツリゴト(政)は、巫女のメッセージを根源とする宇宙や大自然との宇宙交信で築き上げられているからして女性原理文明とも言える。

 魏志倭人伝に出てくる女性指導者は卑弥呼と台与である。

 大和王権に帰順した九州の女性指導者(女王・巫女) は次の通りである。

 神夏磯媛(山口県・景行紀)
 速津媛(大分県・景行紀)
 泉媛(宮崎県・景行紀)
 八女津姫(福岡県・景行紀)
 田油津媛(山門郡・神功紀)
 久津媛(日田郡・豊後国風土記)
 五馬媛(五馬・豊後国風土記)


 大祓えの祝詞に出てくる女性指導者。
 佐久那太理姫
 
瀬織津(せおりつ)
 速開都(
はやあきつ)姫
 佐須良(
はやさすら)姫






(私論.私見)