第1部 序文と郡から狗邪韓国に到るまで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 さて、いよいよ「倭人伝」の世界へと入って行こうと思う。魏志倭人伝は迷路になっており、特に方位と里程の点でにっちもさっちも行かなくなる。比定地も然りである。れんだいこの定見は未だ無く、折に触れどんどん書き改めていく予定である。既に、官民問わず専門家多数により数多くの研究が為されてもいるのであるが、厳密な学問的批判に耐ええるものとしては希有であることを考えると、身が引き締まる思いがする。本書も又珍説、奇説の類にならぬよう眼光紙背の批判精神でもって書き進めて行こうと思う。

 最後に。倭人伝の記述の解析に当っては、まず通説を記し、順次その他の有力と思われる異説を併記し、最後に私説を述べることとした。私説の確信部分又は独創的所見と思われる部分については特別にアンダーラインを引き、諸賢の判断を仰ぐこととした。今後も判断が揺るがない見解及び重要見解に就き「解読取り決め」コーナーを設けて別立てで解説した。郡より邪馬台国へ至る行程につきb付した。それぞれの比定地につき今現在の見解に基づく推定をした。これらは今後の研究に資すると思われる。

 「(4)後漢書倭伝に対応する魏志倭人伝の文」が値打ものであり参照させて貰った。後漢書倭伝との記述の相似と差異が興味深い。

 2003.9.13日、2011.8.14日再編集 れんだいこ拝



 
 (「邪馬台国・奇跡の解法」の「景初2年の証明01」より転写 )

倭人は、帯方の、東南の、大海の中に在り、
山島に依りて、国邑を為している。
舊は百余国。
漢の時、朝見する者有り、
今、使訳通ずる所は三十国

【総合解説】

 魏志倭人伝(以下、「倭人伝」と記す)の冒頭の一節である。撰者は、倭人の住む国邑を俯観して、その地理的特徴を五文意にて、倭人の国邑数と歴史的な往来の経過についてを三文意にて記述するところから論を起こしている。いずれも簡直明解な記述となっている。


【補足・各史書の「冒頭記述」について】

 ちなみに、倭人伝のこの冒頭の記述を他の史書のそれと比較してみれば、 微妙な違いがあり、併せて理解を援用することができる。

「(逸文)魏略」  「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」
 (「倭は帯方東南の大海中に有りて、山に依りて島を為す国である。海を度ること千里、復国有り。皆倭種」)
「後漢書」倭伝  「倭は、韓の東南の大海の中にあり。山島に依りて居を為す。凡そ百余国、武帝が朝鮮を滅ぼして自り、使駅漢に通ずる者は三十ばかりの国である。国皆王と称す。世世伝統。その大倭の王居が邪馬臺国である。(案ずるに今の名の邪摩(惟)堆は音の訛ったものである) 楽浪郡の徼(国境)から去りて其の国は万二千里、去りて其の西北界の狗邪韓国は七千余里」。
「晋書」倭人伝  「倭人は、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて居を為す。その地には山林多く、良田は無く、海の物を食す。旧くは百余国の小国が相接していたが、魏の時に至っては、三十国の通好が有った。戸は七万有り」。

【逐条解説】

【「倭人」について】

 ここに書かれた「倭人」が今日の日本人の祖先と考えられている。但し、ここでいう「倭人」が、現在の日本人の直系祖先となるのか、混血により大和化される以前の一方のルーツとしての「倭人」であるのかについては断定できない。

 「倭人」に、「倭」という名称の冠せられた由来については定かではない。松下見林(1636ー1703年)は、「異称日本伝巻上一」で、「日本古は之を倭国と謂えり、但し倭の義未だ詳かならず」と記している通りである。一説に、弥生時代以前の日本列島に住みついていた人々の背丈が大陸の人より低かったという「矮」という意味で倭人と呼称されたものとされる。

 一方、本居宣長は、その著書「国号考」の中で、中国正史による倭人の初見でもある「前漢書地理誌」(撰者班固)の燕地の条のくだりを引用し、「東夷は天性柔順にして三方の外と異なる。ゆえに孔子は道の行われざるを悼みて、海にいかだを設け九夷に居らんと欲す。夫、楽浪海中に倭人あり、分かれて百余國となり、歳時を以って来り献見すと云う」の記述に着目し、倭人とは、天性柔順さの民という意味において冠せられた当て字であったものと推測し、「従順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり」と説いている。「和」と解釈していることになる。

(私論.私見) 解読取り決め1、「倭」論
 「倭」どう解するべきか。私説は、その昔に、中国の士官が訪朝した倭の使節に対して「どこの国から来た何者ぞ」と尋ねたのに対し、倭の使節が中国の士官に対して自ら「ワ」と述べ、これがそのまま採用されたと推定する。「ワ」の意味は分からない。「矮」では有り得ず「和」に近いと思われる。或いは、今日の津軽弁に引き継がれている「私」を指す言葉であったと思われる。即ち、「ワはどこそこから来た何者である云々」と述べた一声の「ワ」が面白がられてそのまま国名になり、倭の漢字が宛がわれたのではないかとも推理する。案外、この辺りが倭の発祥経緯ではなかろうかと思っている。まさに津軽弁サマサマであることになるが、津軽弁が日本古語に近いと云うことにもなるのではなかろうか。

 2011.8.13日再編集、2011.8.16日再編集 れんだいこ拝

【他の文献上の「倭人」記述考】

 参考までに「倭人」について記された他の文献を見てみると、正史ではないが、「魏略」逸文、「山海経」、「論衡」などの書物に、「倭.倭人」について次のような記載が見える。

「(逸文)魏略」 「倭人は呉の太伯の子孫である」。
 「倭人は呉の太伯の子孫である」とは、「倭人」がその後裔であるという意味である。この文章によれば、倭人の祖先は、往古において中国の「呉.越」の国に隣接した中国江南、江北の華中及びその付近の島に住んでいた非漢民族=太伯となる。この民族が、やがて「楚」の迫害を受けるに及び、得意の航海術をもって南朝鮮や北部九州などに民族移動したものと推定されている。
「山海経」海内東経  「蓋国は鉅燕の南、倭の北に位置し、倭国は燕国に属す」。
 この書は、中国の伝説上の時代である「禹」王朝の頃、「禹」を助けて治水に成功した伯益の著作と伝えられる地誌である。この文章によれば、今の河北省の北半部から遼東半島にかけた一帯にあった国とされ、その燕国の南に蓋国が在り、倭はその蓋国の南にあって、燕国に臣下の礼を取る立場にあったということになる。
「論衡」恢国篇  後漢の撰者王充「成王の時、越裳、雉を獻じ、倭人ちょ草を貢す」。
 成王(前1115〜1079年)は周の時代の二代の天子であり、日本では、縄文中期の終わりから縄文晩期のはじめ頃に相当する。記事によると、この当時より倭人と中国王朝との交流があったことが推測されることになる。この記述に信憑性があるとすれば相当古くよりの歴史的往来が証左されることになるが、「論衡」は正史とはされないので参考に止まるというべきであろうか。

 ※「ちょう。黒黍を醸して酒と為す。ちょうと曰う。芳草を築き以って煮る、鬱と曰う。鬱を以ってちょうに合し、鬱ちょうと為す。之に因りて草を鬱金と曰い、亦ちょう草と曰う。」(説文通訓定声)。
「同書」儒増篇  後漢の撰者王充「周の時、天下泰平、越裳白雉を獻じ、倭人ちょそうを貢す」。
 

「帯方の」について

 「漢書」の「地理誌第八下.燕地の条」の一節に次の記述がある。

 「夫れ楽浪の海中、倭人有り、分かれて百余国と為る、歳時を以って来り、献見すと云う」。

 この時までは「楽浪」の海中と記されていたことがわかる。倭人伝では、この「楽浪」と「帯方」とが入れ替わっていることになり、このことは、「魏、蜀、 呉」の三国時代に、遼東半島を支配した公孫氏政権が楽浪郡を分けて帯方郡を置き、公孫氏を滅ぼした「魏」も又これを継承したことに基づいている。帯方郡を比定するには、その前に楽浪郡をも比定しなければならないが、定説はない。

 「帯方郡」は、当時の魏王朝による韓国.倭国との外交折衝及び事務を司どる出先機関であり、本国の幽州刺史の統属下にあった。建安年間に、遼東の帯方郡治のあったのは、1・現在の平壌の南約60キロの「沙里院駅付近説」(仮に平壌説とする)と2・現在の「京城ソウル説」との二説がある。この決着もついていない。

現在の平壌付近説  東洋建築史家の関野貞(1867〜1935).朝鮮視研究家の小田省互(1871〜1953).古代視研究家白崎昭一郎(1927〜)等々がこの説を採る。現在の朝鮮民主主義共和国黄海北道鳳山郡文井面九龍里(沙里院駅)の東北の一古墳から、「帯方太守張撫夷」の銘が発見されており、帯方太守の墓がある以上、この地が帯方郡治のあった場所であろうとする。
現在の京城ソウル説

 東洋史学者那珂通世、白鳥倉吉、池内宏(1878〜1952)、榎一雄、朝鮮史学者の今西竜(1875〜1931)氏等々がこの説を採る。漢書地理志の楽浪郡の条に、「帯水、西して帯方に至って海に入る」とある。この帯水をソウル(京城)市内を横切る漢江にあてて、従って、帯方を漢江の河口にある今日のソウル付近(大韓民国京畿道の臨津江河口)であるとする。

 京城ソウル説は、その理由として次のように述べている。

 二世紀後半に、遼東・遼西の豪族・公孫康が、建安年中(196〜220年)に韓・わいを撃ち、楽浪郡の属県屯有県(現在地不明)以南の荒地を割いて新しく設置したのが帯方郡である。楽浪郡治は王険城にあり、現在のピョンヤン(平襄)付近である。地図で分かるように、ピョンヤンと沙里院は非常に近い距離にある。帯方郡をわざわざ楽浪郡から分けたのに、帯方郡治と楽浪郡治がこんなに近ければ、郡を分けた意味がない。また、ピョンヤンと沙里院は共に大同江の流域に属し、地勢的に見てもおかしい。
 帯方太守を務めた張撫夷の墓から役職名が入った 「帯方太守張撫夷」 の文字が発見されても、その地が張撫夷の故郷であることが推定されるのであって、郡治の証明には直結しない。
 魏志韓伝は、韓国を 「方四千里」 と記す。帯方郡治が沙里院であれば、韓国は南北に広くなり、「南北七千里、東西四千里」であって、「方四千里」 との表現は適切でない。
(私論.私見) 解読取り決め2、帯方郡平壌付近説
 私説は、平壌説とする。しかし、これには特段の根拠はないので軽断とする。  

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「東南の」について、併せて「倭人伝記載の方位について

 ここで初めて方位の記述が登場する。倭人伝の記述における方位の正確度を廻っては諸説あり、全体的に正確でありこれを記述通りに読み進めるべきであるとする説と、北が東へ振っておるとする説とに分かれる。この場合45度反転説、90度反転説とあり、いずれも通説とする。


(私論.私見) 解読取り決め3、方位論

 私説は、「方位の記載は古代航海者の知見をもとにして記載したものであるから、方角を誤って記すことはありえない」(水野祐・氏「日本古代の国家形成」)という見方に与する。但し、恐らく星座の位置から割り出す方位法であったと推測するので、定点から目的地に向う方向には誤りはないものの、使節が実際に行程する道中における方位は概略であったと理解する。つまり、魏志倭人伝の方位記述は、目的地方向では誤らずも、個々の行程時の方位記述は正確ではないと受け取る。即ち「方位は見晴らしての目的地方向では誤らず、個々の行程時の方位記述は正確ではないと理解する」。こう確認したうえで、魏志倭人伝上の方位記述には何らかの作為があったとするしかない。45度反転説、90度反転説いずれも有り得ると心得る。

 
魏志倭人伝の生産的な解読を為すために、起点より順次解読手引きとしての「解読取決め」を為していきたいと思う。この取決めをしないと、必要以上に百家争鳴になるからである。不必要な混乱を避けるためこの方式を採用するものとする。

 この取決めに疑義がある場合はここを論議すれば良い。それも大事なことだ。しかし、一旦これを認めるならば、以下の同様記述は全てこの方式で解読していかねばならないものとする。まさか、魏志倭人伝文中に同じ記述で他の意味を持たせることはないと思われるから。そういう意味で、整合性を重んじることにする。従って、「解読取り決め1」は「方位論」となり、「方位は見晴らしての目的地方向では誤らず、個々の行程時の方位記述は正確ではないと理解する」と取り決めることにする。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「大海の中に」について

 日本列島全体が四方を海に囲まれており、現在の名称では太平洋、東シナ海、日本海、オホーツク海ということになるが、「大海の中に在り」との記述はまことに簡直明快な表現であると云える。

 倭国を取り巻く「大海」についてこれを考察しておくことも意味あることと思われる。「大海」は、視点を外から見れば、故に倭地列島を海洋の中に閉じ込め孤立させたという部分がある。他面において、海洋が倭国と外部の世界とをつなぐ通路の役割をも果たしてきたとも云える。倭国観の原点を為す地理的な条件として、「大海」をこの両方向から複眼的に考察するべきであると云える。

 歴史的に見て、「大海」を取り巻く黒潮は海上通行路としての役割を果たして、南北両方向からの人の往来及び移住を容易ならしめて来た。逆に云えば、この黒潮は辿り着くには好順ではあったが、出向いていくには不都合な海流でもあったが、他方で「大海」は列島に居住する人たちに豊富な食物資源を提供し続け、いわば格好の漁労経済を成立せしめる母体ともなり、定住を促進させることともなった。日本の「単一的であり且つ多元的」である特徴の源として、こうした「大海」の持つ意義を把握する必要がある。

(私論.私見) 解読取り決め4、倭国海洋国家論

 ところで、ここで注意しておくべきことは、倭人伝の記述の有り様からすれば、倭国は、その列島の国土のみならずその周辺の海域をも領域とする国家として、つまり海洋国家として認識されているという観点が必要であると思われる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝


「帶方東南大海之中」について
 「帶方東南大海之中」は、倭人たちは住んでいる地域を「帯方東南の大海の中」と解するのが妥当であろうが、「帯方東南且つ大海中」という解釈もあるらしい。この差は一見ほとんどないように見えるが、「帯方」と「大海」の大きさが極端に異なっているような場合は、大きな差が出てくる。

「在り」について

 「在」と「有」の使い分けも一考を要する。一説に、「在」は既に存在が分かっているもの、「有」は存在が不確定のものに対して使うという。


「山島に依りて」について

 「山島に依る」とは、中国大陸のような平坦な地形と異なり、列島化した山地含みの島々より構成されている、という意味であると思われる。

 倭地の国土としての列島は、一方で山地を波々とさせており、そういう地勢的条件に支えられて採集.狩猟経済を成立せしめたきたことが推測される。なお且つ平野部では、河川に恵まれてもいることから農耕経済を準備せしめることともなったであろう。こうして見ると、倭地に対して、先の海洋による漁労経済と併せて、地理的自然に恵まれている国土観というものが必要であろうかと思われる。


「国邑を為している」について
 「国邑」とは「国」+「邑」という意味で、中国では「城郭都市」のことを指す。旧唐書に、倭国の特徴として、「其國居無城郭」(其の國、居るに城郭無し)と記しているように、中国では異民族から略奪の目にあわないよう「国が城壁で囲まれている」のが当たり前のところ倭の国々にはそれがなかった。「邑」(ゆう)は「国」の小型版と考えられる。古代中国では「邑」と呼ばれる都市国家が多数散在していた。「邑」では、君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設け、周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲っていた。戦時に住民は城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。「邑」は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。その外側に「夷」族が住んでいた。小邑は次第により大きな邑に併合され、大邑はその領域を拡大して行った。後に秦の始皇帝が統一したのは中国の「領土」ではなく、中原に点在した「国々」(複数の城郭都市)だった。
 中国の歴代王朝との交易はかなり早くから行われていたらしいことが推測されるが、その記述のされ方からすれば、いわば国家形成以前の成熟過程としては「倭.または倭人」として存在が認められていたようである。いわば各々が独立した自然村落的社会集団を形成している段階の国邑像を思い浮かべれば良いと思われる。

 既に、この国邑のうち有力なそれは、かっては楽浪郡、この頃においては帯方郡を折衝の窓口としながら、中国歴代王朝及び周辺諸国との関係を深めていたことが推測される。特に前漢時代の元封2〜3年(前109〜前108年)にかけて武帝(前141〜前87年)により衛氏朝鮮が討伐された結果、朝鮮半島に「楽浪郡、真番、玄菟、臨屯」の四郡が置かれて以降において、「ここにおいて東夷初めて上京に通ず」との記録が為されており、武帝の朝鮮出兵による朝鮮半島の支配が東夷との交易朝貢関係を大きく進展させることとなったようである。大陸との交流は非常な速度で倭国の政治的経済的文化的な発展を促すことになり、この時代を経過して「倭人」は「倭国」として認識される段階に変貌を遂げていった様子が推測される。

「舊は」について

 「舊」とは、漢時代の頃のこと、紀元前後から第一世紀の中葉の頃と推定される。


「百余国」について

 この頃、倭地には列島の処々に独立した国邑が形成されつつあり、当初は「百余国」として認識されていたことがわかる。実数の百という意味であるのか、たくさんのという意味であるかについてははっきりしないが、実数的に理解してみても大過ないものと思われる。

 この百余国の所在について、日本列島のどのくらいの範囲に百国あったのか、については不祥である。一説は、いわば限定的な地域に群立していた国邑の概数と見て、九州北岸一帯を指しているものと推測する。別説は、今日の日本列島の各地を前提として、所々に散在していた国邑の総数とみる。つまり、二説がある。私説は、後者として理解する。整理の都合上、この百余国期の倭国を仮に「古代プレ倭国」と称して標識しておこうと思う。その時期は紀元前後に当たる。


「漢の時、朝見する者有り」について

 「朝見」とは、小国が大国に使節を送って挨拶することを云う。先の百余国とされた国邑のうち、有力な国々が率先して中国本朝との関係を求めて使節を往来させたようである。この頃の倭国の有力な国邑の一つとして、北九州の沿岸地域主に博多湾沿岸地域、糸島半島、唐津市付近等玄界灘寄りの沿岸部が推測されており、その中にあっても「奴国」が支配的な勢力を誇っていたようである。その記録が次のように残されている。

 「後漢書」「光武帝紀第一下.中元二年春正月辛未の項」(南朝.宋の宣城大守范曄撰述)
 「東夷倭の奴国王、使を遣わして奉献す」

 「同書」「東夷伝第七十五.東夷伝倭の条の下り」
 「建武中元二年(57年)、倭の奴国奉貢朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす」

 ※類似の記事は、唐代の編纂ではあるが、「晋書」.「随書」.「北史」などにも散見する。これにつき詳しくは「三世紀に至る中国史、朝鮮史と倭国史の交流考」で確認する。


補足.「古代プレ倭国」の様子について

 さらに紀元二世紀前後の頃になると、「古代プレ倭国」の国邑が次第に世襲的な王権を存立させる国家的風貌を整えつつあったことが記録されている。

 「後漢書」倭伝
 「国、皆王を称し、世世統を伝う」

補足.「古代倭国」の様子について

 紀元二世紀初頭に至って、一括して倭国として称される代表政権が形成され、この政権と漢王朝との朝貢関係が次第に勢力的に続けられていった様子が記録に登場する。整理の都合上、この時代を「古代倭国」として標識することができる。

 「後漢書」「安帝紀第五.永初元年(107)冬十月の項」
 「倭国、使を遣わして奉獻す」

 紀元二世紀の半ば頃西暦120年乃至130年頃になると、倭国王として帥升等の存在が確かめられることとなった。帥升等は記録に表れた最初の倭国王であることが注目される。この倭国王を初代邪馬台国の王と推理する説もあるが、通説とまでは行かない。


補足.「倭国王帥升等」について
 「倭国王帥升等」については、「後漢書」倭伝に次のように記されている。
 「安帝の永初元年(107)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じて請見を願う」

 「倭国王帥升等」について考察をしておく。多くの論者は、この個所を帥升等と読んで、倭国王の「升」及びその従者が後漢に朝貢したものと解釈している。藤間生太氏は、「帥升等」の表現は、王を複数で表わしたものと解釈する。しかし、これには異説も多く、「帥」は「率」とともに当時の支配者を表わす字であり、従って倭国の「王帥」の「升等」と読むべきであり、又「王帥」は「主帥」の間違いであり、「主帥」の「升等」と読むべきであり、升及びその従者たちとする説がある。この説に従えば、仮に「王帥の升」という人物を派遣した倭国とはどこの国であろうかということになる。


補足.「倭国、倭面土国、倭面国」について

 「倭人伝」、元版以降の「後漢書」は、単に「倭国」と記すが、別本.異本などには、別表の通り様々に記載されている。要約して、「倭面土国」か「倭面国」となっており、これをどう読むかで又諸説分かれている。「倭面土国」か「倭面国」か及びその比定地についての絡みで見ることにする。

「やまと説」  畿内大和に比定する。
「わのいと説」  福岡県糸島に比定し伊都国に当てる。
「わのまつら説」  佐賀県松浦に比定し末盧国に当てる。
「わのま説」  佐賀県松浦に比定する。

補足.「倭国の形成過程」について
 こうしてみると、倭国は、三つの発展過程を経ており、「百余国期=古代倭国」から「三十許国=中期倭国」へ、「三十許国」から「邪馬台国=末期倭国」へと向かったことが伺われることになる。この後二世期の半ばを過ぎた頃、倭国の王国間に深刻な戦争状態が起ったことが知られている。この後の消息については、魏志倭人伝本文の項においてふれることとするが、この末期倭国の争乱を経て、大和朝廷の時代へと向かうことになる。

「今」について

 今というのは、撰者陳寿が三国志を著わした西晋の時代のことを云う。従って、二世期の半ば頃には、ほぼ三十余国の存在が確認される。本項と同じ記述は「随書倭国伝」にも有り、「魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す」と記録されている。この時期を仮に「中期倭国」と称してみることとする。


「使訳通ずる所は三十国」について

 「使訳所通」とは、使者と通訳と解されるが、これは朝貢関係を意味するのか、朝貢関係までには至らない単に使訳関係のことなのか不祥である。 

 ところで、ここに書かれている「三十国」の比定についても議論の余地がある。概略邪馬台国を盟主とする倭人伝記載の諸国を指しているものと了解して限定的な地域とするのか、今日の日本列島全体に生息していた国々のうち使訳通ずる所の国としての「三十国」と見るのか議論の余地がある。つまり、「倭人伝記載三十国説」と「列島全域三十国説」に分かれる。

 私説は「列島全域三十国説を採りたい。これによると、概略次のような国々が想定される。対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国(女王国)、狗奴国、吉備国、出雲国、河内平野国、奈良盆地国、福井県中心の古志国、越国、等々が挙げられるものとする。しかし、これには特段の根拠はないので軽断とする。

 参考までに、外国からみた日本の特徴が記された文献として、マルコポーロ(1254ー1324、イタリアの旅行家)の「東方見聞録の」一節を見ておこう。比較してみるのもあながち無益ではないと思われる。その著の中で、日本は次のように紹介されている。ここで述べられている日本は13世紀の鎌倉時代の記述であり、邪馬台国の時代からは丁度千年程たっている。

 「ジパングは、東の方マンジ(中国中南部)から千五百マイル約2400キロ離れた公海中の島である。住民は色白で優雅な偶像教徒である。ここは独立国で、かれら自身の王を頂き、どこの国からも干渉を受けていない。ジパングには莫大な黄金がある。王はすべて純金で覆われた、きわめて大きな宮殿を持っている。宮殿の屋根は、すべて純金でふいている。部屋の床も、指日本の厚みの純金が敷かれている。ジパングの莫大な冨を耳にした大汗、すなわち今の皇帝フビライは、この島を征服しようと思い立った」。

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、(從郡至倭 循海岸水行)
韓国を歴て、(歴韓国)
乍に南へ乍に東へしながら、(乍南乍東)
其の北岸狗邪韓国に到る (到其北岸狗邪韓國)
七千余里 (七千餘里)
(郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里)

【総合解説】
 使節の、帯方郡から「狗邪韓国」へと至る様子が四文意にて述べられている。これを仮に、第一行程として理解を進めてみようと思う。この記述は(逸文)魏略、後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。
(逸文)魏略  「従帯方至倭 循海岸水行歴韓國 至拘邪韓國七十里」
後漢書倭伝  「去其西北界狗邪韓國七千余里」
魏志倭人伝  「到其北岸狗邪韓国七千余里」

【逐条解説】

「郡」について

 「郡」は、帯方郡を指すと理解すべきであろう。これを「比定地1、帯方郡」とする(2011.8.14日現在認定)。

 帯方郡の港について考察を要する。従来の定説では、魏の一行は帯方郡南端のソウルから出発したということであるが、魏志倭人伝と後漢書東夷伝を併せ読むと、魏の一行は帯方郡と楽浪郡の境の港となる現在の平壌付近の大同江河口から出港したと考えられる。この港の位置は、中国河北省天津港から湾岸沿いに朝鮮半島に訪れると、その渡航距離はおよそ1000km。大同江河口から南に下り、狗邪韓国まで船で渡ると、それもまた凡そ1000kmにもなる。大同江河口は中国と狗邪韓国、どちらからも同距離の中間地点にあることになる。朝鮮半島の発展は中国により近い、半島の北側に位置する平壌の方から始まり、衛氏朝鮮(紀元前195年? - 紀元前108年)の時代以降、朝鮮半島の交易路沿いの地として、平壌を中心として成長したと考えられる。ソウルが本格的に発展した時代は李氏朝鮮(AD1392~)以降である。ソウル近郊は平壌より200kmほど南方に位置している。それ故、倭国へ向かう船の起点となる主要港としてはソウルよりも平壌が重要な位置を占めていたと考えられる。魏の一行が出発した地点を平壌の大同江河口に比定すれば、邪馬臺國の位置がその東南方向となり、魏志倭人伝冒頭の「倭人は帯方の東南の大海の中に在り」記述と一致することになる。
(中島尚彦「邪馬台国への起点となる帯方郡とは」その他参照

「従(より)」について

 「従郡」とある場合、この郡を帯方郡よりと解釈するのを通説とする。私説もこれに従う。これを、魏の都・洛陽からの距離と見て洛陽郡よりと解釈する説又は楽浪郡よりとする説もあるが、参考に留まる。

 ちなみに、後漢書東夷伝では、魏の一行が出発した所は楽浪郡であるとして冒頭で次のようにに記述されている。

 「浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東」。
 (楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里、其の西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地はおおむね会稽、東冶の東にある)

 当時の帯方郡はソウルと平壌の間に位置する魏の植民地であった。後漢書との記述を併せ読むと、平壌付近、帯方郡と楽浪郡の境界から出発したと訂正していることになる。楽浪郡治の所在地が、現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し考古学的に立証されている。帯方郡は、晋書地理志によれば、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡である。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした云々。
 なお、後に、「自郡至女王国万二千余里」の記述があり、「自郡」とある場合と「従郡」とある場合の違いを踏まえておく必要があるかと思われる。「自郡」は出発点としての意味において捉え、「従郡」は経過点として捉える、との違いと考えられるものと思われる。

「倭に至るには」について

 「至る」というのは、「---迄」という意味である。後に「到る」の記述が出てくるが、その違いについては「到る」のところで述べることとする。


「海岸に循ひて水行し」について

 「循(したがう)」とは、「拠る」、「沿う」という意味。「Aに循いてBす」文形は、「Aの地形に沿いつつ、Bの行為をする」という意味になる。

 【「水行」と「度海」の違い】
 川舟などで海岸線に沿って航行することを「水行」と云う。魏使は帶方郡から邪馬臺國まで三回「水行」をしてる1回目が帶方郡から狗邪韓國まで海岸に沿っての「水行」。2回目が不彌國から投馬國までの「水行」。3回目が投馬國から邪馬臺國へ行く途中までの「水行」。

 これに対して、陸地から海を越えて別の陸地へ航行することを「度海」と云う。「度する」は此岸(この岸)から彼岸(あの岸)へ行くことを意味する。魏の使いは帶方郡から邪馬臺國まで3回「度海」している。1回目が狗邪韓國(釜山)から對馬國までの「度海」。2回目は對馬國から一支國までの「度海」。3回目は一支國から末盧國までの「度海」。

 但し、別説として、「度海」というのは到着点が見えるときの航海で、見ないときは水行」とする説がある。通典《流求》に『流求、自隋聞焉。居海島之中、當建安郡東、鬥川之東。水行五日而至」なる出典がある云々。

「韓国を歴て」について
 「韓国」は、馬韓.辰韓.弁韓を指す。これを「比定地2、韓国」とする。

 「歴」は、「へ」又は「けみし」と読む。その意味するところ、「次々と経て」と解するべきだと思われる。

「乍に南へ乍に東へしながら」について

 通説は水行コースで考えるが、上記の韓国を経てより陸行とする説もある。これにつき、古田武彦氏は、魏志の帯方郡から狗邪韓国への道は、海路ではなく陸路であったとする「半島陸行説」を主張し、「邪馬台国の方法」で次のように述べている。

 「海岸に循って水行して、帯方郡西南端 ( 韓国西北端 ) にいたり、そこから上陸して、陸行にうつり、南下、東行をいわば、階段式に、小刻みにくりかえして、狗邪韓国にいたったことになるのである。従来のように、帯方郡治からまっすぐ水路『南行』して、韓国西南端にいたり、ふたたび、まっすぐ水路「東行」して、東南端附近の狗邪韓国に至る。というような理解の仕方は、全く原文章の文脈を無視した、不用意な『読み変え』なのである」。

 「乍に」は、「あるいは」、「きゅうに」、「たちまち」と様々に読まれる。「たちまち」と読めば、この「乍A、乍B」文形は、「AとBとを小刻みに繰り返す」という意味になる。こう読み取る方が正意と思われる。又は、「行きつ戻りつしながら」と解することもできる。

 ここにも方位が出で来るが、【解読取決め1、「方位論」の取決め、「方位は見晴らしての目的地方向では誤らず、個々の行程時の方位記述は正確ではないと理解する」】に従う。この場合は、後者の「個々の行程時の方位記述は正確ではない」に該当するので、「南へ」、「東へ」の記述を大雑把にその方向へと理解して可とする。

 いずれにしても朝鮮半島を西の海岸線に添って南下し、木浦を通過して済州海峡に面した島々の間を縫いながら東進したことになる。平壌説に従うと、大同江口の長口鎮より椒島.得物島.唐恩浦.泰安.郡山.法聖浦.木浦.康津.麗水.固城.金海のコースとなる。

(私論.私見) 解読取り決め5、郡から韓国、狗邪韓国行きの水行、陸行如何考

 私説は水行コースを採る。理由は、前段で「海岸に循ひて水行し」と記されているからである。水行から陸行に代わる場合には、その旨の記述がなされる筈で、そういう記述がない以上は「海岸に循ひて水行し」を受けて解釈すべきではなかろうかと思うからである。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝


「其の北岸」について
 「其の北岸狗邪韓国」という記述に対して考察を為す必要があると思われる。「その北岸」、「狗邪韓国の領有権」も解釈が非常に分かれているところである。ここでは、「その北岸」について考察する。これを普通に読めば、「狗邪韓国の北岸」と云う事になるが、学究の手に掛かると簡単にそのようには受け取ることができなくなる。「倭地の北岸である狗邪韓国」と云う意味に採ることが可能となる。
(私論.私見) 解読取り決め6、「其の北岸狗邪韓国」考
 私説は、「倭地の北岸である狗邪韓国」と読む。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「狗邪韓国」について

 通説は「くやかんこく」と読み下すが、「こやわにこく」と読む説もある。

 「狗邪韓国」は、朝鮮半島の南方、現在の慶尚南道の釜山〜金海忠武付近にあったとされる。異説として、朝鮮海峡を渡るのに最も対馬に近い巨済島を比定する説もある。巨済島は朝鮮半島の最南東端の鎮海湾頭にあり、済む州島につぐ韓国第二の島で、面積は389km2である。「狗邪韓国」の比定地について、私説は、「朝鮮半島の南方、現在の慶尚南道の釜山〜金海忠武付近」説を採る。これを「比定地3、狗邪韓国」とする(2011.8.14日現在認定)。

 ちなみに、「魏志韓伝」には、狗邪韓国の名称は出てこない。朝鮮の歴史書「三国史記」では、「金官国」と記されている。又、「加邪(かや)国」とも記されており、「狗邪(くや)国」に通ずることから伽耶地方また金官伽耶国と云われている。魏志韓国伝にある「弁辰(弁韓)伝」の記載では、12国あるとされる国の中に「弁辰狗邪国」の名があり、この「弁辰狗邪国」が「狗邪韓国」に相当するのではないかと推測されている。「弁辰狗邪国」は、慶尚南道.北道の境に「伽耶山」(標高1430m)という山があり、その山の南から海岸に至る一帯が伽耶地方のことを指しており、この領域が「弁辰狗邪国」即ち「狗邪韓国」と推定される。「三国遺事」では、「駕洛国」、「日本書紀」では「加羅」.「かや」と記されている国が相当するものと思われる。後の任那との絡みが注目される。

 この場合、方位的にみて「北岸」という表現が疑問となるが、実際の方位とは別に、著者が地勢的に朝鮮半島を西から東へ伸びだしているものと理解しておるものとすれば、半島突端の南端からみて狗邪韓国はその北端に位置していたと考えられるので問題ないとする説がある。

 「弁辰狗邪国」には金貝遺跡が認められている。この地ならば、北九州地方との考古学的な共通性も有り、朝鮮半島−九州.本島間航海の出発点としての条件を備えている。


「狗邪韓国」の領有権について
 狗邪韓国については、「倭国地説」と「韓国地説」、「倭韓両国説」とに見解が分かれており、不毛とも思われる論争が決着を見ていない。私説は、「韓国地説」に従う。

 ○、「倭国地説」

 一般に「日本国」乃至「倭の地」を了解する場合、対馬以東、以南の海上に位置する現在の日本列島の規模で理解するのが普通であるが、「倭人伝」に、「其の北岸」とあることから、「其の」を「倭」と理解し、狗邪韓国を倭地の国の北岸であるとする説を云う。文節から云えばそう理解する事ができ、今日の朝鮮半島南端に倭に属する「狗邪韓国」があったということになる。後の大和朝廷時代に朝鮮半島南端の地に任那国の存在が指摘されているので、半島との歴史的繋がりという観点を踏まえれば、あながちこう理解することにつき誤りとも思えない。この説を支える史料として、次の記載が指摘される。

 「山海経」海内東経
 「蓋国は鉅燕の南、倭の北に位置し、倭国は燕国に属す」

 とあり、蓋国は後の高句麗、鉅燕国は大燕国と考えることが出来、倭の地の北に位置しているということであれば、逆に倭地はその南の朝鮮半島南端に在ったということが裏付けられると推測する。

「魏志」韓伝  「韓は帯方の南に在りて、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す」。字句通りであり、ここでも倭が韓と接していたことが裏付けられるとする。
「後漢書・東夷伝」
「韓条の項」
 「馬韓は、半島の西に在り、五十四国をもっている。その北は楽浪郡と境を同じくし、その南は倭と接している。辰韓は東に在り、十二国をもっている。その北は と接し、弁辰は辰韓の南にあって、これも十二国をもっている。その南は、これも、倭と国境が接している。計七十八国で、百済はその一国である」。

 とあり、ここでも朝鮮半島南端に倭の地があったことが記されているとする。

 ○、「韓国地説」

 狗邪韓国が倭地の最初の国であるとすれば、次の対馬国以下の記述に見られるように官名、戸数、国の特徴等が記されていなければ不自然であり、この記載が為されておらず、又冒頭での帯方の東南の大海の中にあるという記述に但書のないことを思えば、朝鮮半島に陸続する倭地というのは具合が悪くはないかとするのが、「韓国地説」である。又、国名に韓国という文字が入っている以上、倭の国というより韓の国として捉えるべきではなかろうか、と考える。従って、「其の」は韓国と考えるべきで、韓国からみて北岸の国に狗邪韓国が位置していたと解釈するのが妥当とされる。

 ○、「倭韓両国説」

 別説として、白鳥庫吉氏曰く「北岸の文字は穏やかではないけれど、これを倭漢両国に横たわる海洋の北岸とみれば文意は通ずる」と述べているように、「其の」を初文の「東南の大海」を受けた言葉と理解する説がある。「接す」についても、山尾幸久氏のように、陸続きであることに限定せず、海域を挟んで境界が接するとの意味に了解し、「倭国地説」が挙げた史料の例証にも関わらずこれを字句通りには受け取らない見方もある。倭国は、前述した様にあくまで国土及びその周辺の海域の海洋迄を含んだ地域として認識されていると思われるからである。いずれにせよ、三世紀の倭国を考える場合には、常に半島との絡みを見ておく必要があるということにはなるであろう。


「に到る」について

 「到」というのは、「---に着く」という意味である。「至」と「到」の違いを単に修辞上の違いと見做す黙殺説もあるが、「至」と「到」とは厳密に書きわけられておるとする区分説もあり、私説は区分説を採る。魏志倭人伝の又「至」と「到」を明確に使い分けていると受け止める。一般に中国古文の中で、同文中に「至」と「到」が出現した場合には区別して使用されており、当然意味するところを違えて読まれなければならないことになる。この問題は、後の伊都国のところで大いに問題となる。「到」が使われているヶ所は「狗邪韓国に到る」と「伊都国に到る」の2箇所のみで、後は全て「至」となっている。「至」と「到」とは、日本語では両方共「イタル」と読み区別されないが、中国語では使い分けするようである。

 厳密な意味においては、漢字の三代要素である「形」(字の形態)、「音」(字の発音)、「義」(字の意味)においてすべて異なって理解される。仮にこれを英訳すれば歴然とする。「至」は、「till」又は「untill」であり、「到」は「reach」又は「arrive to」である。「至」と「到」にはそういう違いがある。つまり、 「至」は、「通行途次の場合に使われ、至る先は経過点を表す」のに対し、「到」は、「次の行先への起点にならず、これから先には進めないという含意を持つ到着点を表わす」という違いがあるとしたい。

 これを中国の辞典である台湾中華書局印行の「辞海」で確認すると次のように云える。「至」は至部の字であり、その意味は、第一に極、第二に到、第三に大、第四に善---というようになり、倭人伝では第一の「極」の意味で使用しており、線的な概念として「---迄」として理解していることになる。文章の中では、通行途次の場合に使われ、「至」る先は経過点を表す。これに対して「到」は、刀部の字であり、その意味は、第一に至る、第二に周、第三に倒、第四に弔---というようになり、倭人伝では、第一の「至る」の意味にとっており、点的な概念として使われており、その一点に着くことであり、「---に至る」として理解すればよいことになる。文章の中では、次の行先への起点にならず、これから先には進めないという含意を持つ終着点であるという認識が必要であると云う。

(私論.私見) 解読取り決め7、「至、到論」
 私説は、「至」と「到」の違いを次のように解く。「もう一つの至、到論」として注目して貰いたい。私説によると、「至」と「到」の使い分けを重視し、「至」は、「次の行程の起点になる経過地」を指している。「到」は、「次の起点にならない到着地」を指している。到着し逗留するところであり、止まる地である。従って、狗邪韓国に「到」とあるのは、「止まり、ここから先へは進まない」という言外の意味が含まれていると解する。「到」の場合には次の行程に向う場合の起点にならず、次の行程には回り道となるという意味も込められているのではなかろうか。次の行程は必ずしも狗邪韓国の首府から出発するのではなく、事前行程の都合の良い所を任意に選んで出発地としている、と解することができるように思われる。

 この説をひとまず打ち立てると、解釈の整合的統一上、伊都国の「到る」の場合にも同様に解せねばならないことになる。つまり、邪馬台国へ一瀉千里に向う場合には、必ずしも狗邪韓国と伊都国へは向う必要がないということになる。では、邪馬台国への到着になぜ「至」が使用されているのかというと、定まったルートがある訳ではないという風に解するべきと云うことになる。「ルート行程=至」と記述したと解することができる。「至る=ルート通過点を意味する、到る=行き止まりを意味する」と解すれば良い。これを、「解読取り決め2」を「至、到論」とする。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「七千余里」について

 郡より「狗邪韓国」へと至る行程、これを第一行程とすれば、「7千余里」であるということである。以下、第一行程を検討する。この後の記述で邪馬台国に至る諸国とその行程が順次明らかにされることになるが、その最初の基準がここに現れているのでこの「7千余里」の分析は重要である。

 魏の使節が実際に邪馬台国まで行っていたかどうかの論争があるが、大陸と地続きのこの第一行程に使節が足を踏みいれていないとは考えられない。その意味で、水行によってではあるとはいえ、かなりに明快な基準を提供しうるものとして理解されるべきものと心得る。邪馬台国の長短里論争史上において、両説の側からもこの第一行程に対して検討されることが少なきことは疑問でもある。それでは、帯方郡から狗邪韓国までは現在のメートル距離で何キロあるのかを調べようとすると、先程述べた様に帯方郡の位置を廻って、「平壌説」と「ソウル説」とがあり、最初より暗礁に乗り上げることになる。帯方郡の確定はその意味で肝要となっている。これまで、膨大な邪馬台国の比定論争が行われたにも関わらずかなりに杜撰なことではなかろうかと思われるが仕方ない。

 今仮に、この行程を現在の航路に置き直してみると次のようになる。平壌説を取れば、沙里院駅より朝鮮半島南岸東部迄の地図上の直線距離は約460km、ソウル説を取れば、ソウル〜プサン間は高速道路で約454,5km、鉄道では444,5kmということになる。つまり、実際の距離では、左程の変化がない。実際の行程は水行であることからすれば、仮に三割増えるとすれば、平壌説ソウル説ともども約600kmから800kmと考えることができるであろう。

 「七千余里」とある「余里」について考察してみる。三国志全体の記載を通じて、「余」の検討をしてみるのに、「余年」、「余里」と有る場合の「余」は、凡そ越えて「一」から「七」迄を指していることがわかる。してみれば「七千余里」とは七千里より七千七百里の間を意味していることになる。これにより七千余里を仮に七千五百里とすれば、狭く見て600km÷7500里=80m、広く見て800km÷7500里=100mとして「一里=80〜100m」を求めることができる。少なくとも、魏志倭人伝全体に及ぶかどうかは別にしても、海を越えていない大陸との地続きの相互間の距離であり、往来に容易と見做されるから精度も高いと考えることができ、「長里・短里」を云う場合のかなりに正確な目安として、この「一里=80〜100m」を参考にせねばならないことと思われるが如何であろうか。これはれんだいこの私説であるが、この基準は後の行程にも十分通用する。


(私論.私見) 解読取り決め8、里程論(「一里=80〜100m」とする)

 ここで、魏志倭人伝で記されている一里が現在の何mに相当するのかということについて分析する。いわゆる「短里説」、「長里説」の問題に踏み込むことになるが、「解読取り決め3、里程論」として「一里=80〜100m」と取り決めることにする。「当時の里程」についてより詳しくは、「魏志倭人伝」総合解説(2)予め議論を為しておくべき事項整理」の「当時の里程について」で考察する。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「魏志韓伝の倭記述」、「後漢書倭伝の記述」考
 魏志倭人伝では省かれているが、韓伝に「韓は帯方の南に在り。東西海を以て限りと為し、南、倭と接す」と記されている。これによると、朝鮮半島の南岸に倭国が存在していたとも読めることになる。

 これより後は、「對馬国から不弥国に至るまで」に記す。





(私論.私見)