第4部―2 | 「魏志倭人伝」総合解説(2)予め議論を為しておくべき事項整理 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).12.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、邪馬台国研究の上で確認しておかねばならない必須事項について検討しておくことにする。 2009.11.20日 れんだいこ拝 |
【「陳寿自身が倭地を実際に訪れていたかどうか」について】 |
陳寿が「倭人伝」を撰するに当り、陳寿自身が倭地を実際に訪れていたとの記録はない。つまり、聞き書き及び記録史料の参照によってこの編纂を為したものと思われるが、陳寿の簡明な記述の仕方と併せて、記述の真偽を廻っての評価及び解釈が一定しない恨みを残すこととなっている。今日に至るまで通説.異説が飛び交い決着を見ないのである。 |
【「魏使が倭国を訪れた季節の推測」について】 | ||||||||||
次に、魏使が倭国を訪れた季節の推測として夏であったとすることについて見ておこう。
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【「原文詮議」について】 |
【「改訂解釈」について】 | |
邪馬台国研究者の間では、「ここは原文の誤り」なるものが頻繁に出てくる。古田氏の「『邪馬台国』はなかった」では、①・「壱の台への改訂」、②・「南を東へと改訂」、③・「一月を一日に改訂」、④・「東治を東冶へ改訂」、⑤・「景初2年を3年に改訂」、⑥・「対海国を対馬国へ改訂」、⑦・「一大国を一支国へ改訂」等々が指摘されている。 古田氏は、「原形の真実」を重視、特に「紹煕本」の正確さを指摘し、「軽々しく改訂の手を加えるべきではない」として次のように述べている。
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【当時の里程について】 |
当時の里程について確認しておく。「里程は白髪三千丈的な中国人通有の誇張癖のあらわれ」として軽視する向きもあるが、この見解をひとまず斥けることとする。 ところで、一里434m説に従えば、郡より女王国へ至る里程として「万二千余里」の記述が問題になって来る。この数字をkm換算すれば凡そ5208kmとなる。邪馬台国大和説に従う場合、帯方郡から現在の奈良県迄の距離がざっと1500km内であるから大幅に超えることになる。九州説でも九州をはるかに突き抜けることになる。こういう事情から、従来魏志倭人伝の里程記述に対しては、これを中国式の白髪三千丈的な言い回しとして受けとめる向きも為されている。 |
当時、中国では、重要な軍事技術のひとつである測量技術が発達していた。例えば、「周髀算経」(しゅうひさんけい)に記載された「用矩(ようく)之道」という矩(さしがね)を使った方法を用いれば、目的地までの直線距離を求めることができる。また、「周礼」(しゅうらい)という書物に書かれた「日晷(にっき)法」を用いれば、季節を問わずほぼ正確な方向を知ることができる。 「南北の地で影の長さが異なる」ことも知られていた。夏至の日に8尺の竿の影の長さが南千里の地では1寸短く、北千里の地では1寸長くなることから「一寸千里の法」と呼ばれる。工学部出身のエンジニアで歴史研究家の谷本茂氏は「一寸千里の法」を現在の科学知識を用いて解析し、「1里=約77m」という距離の換算係数を求めている。(酒井正士(全国邪馬台国連絡協議会会員)の「ハイレベルだった三国志時代の技術」参照) |
【水行.陸行の旅程について】 |
この他、水行.陸行についても考察しておこう。一日の陸行距離については、739年に制定された唐の律令制度を記した「唐六典」による以外にめぼしいものはなく、これによると、陸上の歩行距離は一日五十里とある。もちろんこれは標準で、このほかに馬は70里、車は30里等の定めもある。唐の時代には、一里を360歩としたが、それ以前はすべて300歩をもって一里とした。孫子の兵法では一日の行軍を30里としていた。 次に、一日の水行距離である。現在、海上距離の単位は一海里という。1,52マイルのことで、mに換算すれば1852mである。船の速度を表わすには、時速、一海里を1ノットという。したがって、1ノットの速さで、1時間走った距離が1852mである。一日8時間の水行とすると約15km進むことになる。但し、実際はもっと少ない8km当たりを求めるのを標準とする。 |
【当時の方位について】 | ||
倭人伝の方位、距離その他の大雑把なものとして受けとめる向きに対して、方位については厳格に考えるべきではないかと思われる。海洋民族であれ、草原民族であれ、今日の我々が考えている以上に厳格であったのではなかろうかと思われる。例え磁石がなくても、星座と太陽と時刻を基準にして東西南北にはことのほか鋭敏であったものと考えたい。従って、倭人伝の記載も又相当に正確であることが推測される。但し、魏志倭人伝に「対馬―壱岐」間の行程を「南へ一つの海を渡る」と記しており、これが正確かということになる。実際は、対馬から壱岐に至るには東南方向に向かうことになる。ここに「方角のずれ」があるとする説が生まれることになる。 |
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原田大六氏が、「邪馬台国論争」で次のように説いているとのことである。
これを踏まえて、高城修三氏「奪われた古代史(アイデンティティ)」が次のように述べている。
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【当時の地図について】 |
最古の日本地図は8世紀の「行基(ぎょうき、ぎょうぎ)図」といって、行基(668-749)によって描かれたと伝承される九州、四国、本州地図である。但し、原版は現存していない。後世にその手の日本地図が行基図として各種書き写されて流布している。 「本光寺図」は1988年に長崎県島原市の本光寺で発見された。これは龍谷大学図よりもかなり大きい280cm×220cmである。長崎県有形文化財である。本光寺図は江戸時代の日本で複写されたものと見られる。日本が東西に拡がる形で正常な位置に描かれている。「混一彊理歴代国都之図」は日本に2枚、中国に2枚の計4枚あるらしい。中国の2枚の地図では日本は東西に並んだ3つの小さい島(山)にすぎない。いずれも写本なのでオリジナルは不明である云々。
この地図の原拠となったのは「兎貢地域図」(魏.晋に仕えた地理学者裴秀の224年から271年の作)であり、こうした地理観が当時の一般認識であったものと推測され、つまり倭人伝の撰者も又これに従っており、従って「南」は「東」に読み換えるべきであるという説となった。この説は「倭人伝」の「其の道里を計るに、当に会稽東冶の東にあるべし」の記述と適合することとなり、
従来方位の点で難のあった大和説が勢いづけられることとなった。 |
「疆理図」(きようりず)はモンゴル帝国を表した地図としても有名であり、イスラムの先端科学と中国の先端科学が統合してできたものである。この地図は西はアフリカ、ヨーロッパから東は日本まで、いわゆる旧世界全体を表している。この地図は、15世紀末まで、世界地図としてヨーロッパのものよりも優れていた。 |
魏の方位測量技術能力が次のように解析されている。東西の方位を知ることは簡単で、周髀算経(しゅうひさんけい:BC2世紀頃の古代中国の数学書)に、日の出と日の入りの方角を横に結び東西の方向を知るインディアン・サークル法が記述されている。具体的には日時計のように棒を地面に垂直に建て、その棒の先端の影を描き、午前と午後で同じ長さの影になる点を結べば、東西線が引けるという方法である。この線を2等分する垂線が南北線となる。東西線の北側と南側はこのように容易に認識できるので、東南を北東と間違えるはずがない。魏の一行は方位を正確に測量する技術を有しており、魏が方位を間違えるはずがない。結論として、魏志に記述されている方位は正確であり、南⇒東、或いは、東南⇒北東と読み替える説は成立しない云々。 |
【「混一彊理歴代国都之図」の記す国名について】 |
「混一彊理歴代国都之図」は、倭国転倒方位に於いてのみ意義があるのではない。もう一つ、興味ある国名を記しているところにも意味がある。魏志の地名が登場するのは「黒歯」である。明の時代に作られた地図に邪馬台国時代の地名はことごとく消えたかに思えるなか、黒歯国のみが記されているというのが面白い。日本海沿いに長門、石見、出雲、出雲の沖に隠岐の島、伯( )困幡、但馬、丹後、若峡、加賀、越前、能登、越中、越中沖に佐渡の島、越後、出羽、津軽。瀬戸内海ルートで、長門から安芝備後、備前、備中、播磨、摂津。「日本」という丸で囲んだ国の周囲に展開するのは、河内、和泉、伊賀、伊勢、紀伊、大和、志摩、近江の国々。東海方面から、尾張、美濃、飛騨、三河、遠江、信濃、駿河、相模、下野、武蔵、安房、上総下総、常陸、陸奥、夷地などの聞き覚えのある地名が列記されている。 |
【当時の海岸線について】 |
当時の海岸線に対しても一考せねばならない。かって、盲目の詩人宮崎康平氏による「まぼろしの邪馬台国」が上宰され、邪馬台国ブームを盛り上げることに一役を買ったが、同氏の邪馬台国ほか諸国の比定については評価がかんばしくないものの、その著書の中で指摘された、当時の「海岸線の復元思考」は価値有る一石であったと思われる。同氏曰く、現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することが肝要であり、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、現在の地図でいう等高線の五~十メ-トル辺りの範囲はかっては海域であり、後次第に陸化していったものであるものと推測されるということであった。 その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると、「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、大きく云って、 博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう」。残念ながら同氏のこの指摘にも関わらず、旧態依然の比定地論争が繰り広げられていることは惜しまれる。 |
【「卑字当て字」の使い分けについて】 |
中国の史書は伝統的に周辺の民族に対し、「卑字」を宛がっている。「東夷、北てき、西戎、南蛮」なる表記がそれである。他にも、邪、卑、奴、鬼、狗、馬、牛等々の「卑字」を多用している。これは、現地音の発音を中華思想に基づき文字選択して意図的に「卑字」を宛がったと考えられる。 「邪馬台国」の「邪」、「馬」や卑弥呼の「卑」等々いわゆる「卑字」をどう理解すべきか。「単なる表音的用法に過ぎぬ」として拘らず理解すべきか。「邪」は二通りに読め、「正邪」の場合は「ジャ」、「疑問の助字」の場合は「ヤ」となる。「邪馬台国」の「邪」は後者に読み取るべきで、「疑問=神秘、不思議」的な意味合いを込めている。「卑」は二通りの意味を持ち、軽蔑の意味を込めた「卑しい」又は謙譲の意味を込めた「へりくだる」の両読みがある。「卑弥呼」の「卑」は後者に読み取るべきで、同様例として「辞を卑(ひく)くして礼を尊ぶ」(「国語」越語下)、「求むる有れば、即ち辞を卑くす」(「漢書」西域伝)がある。 |
【「当て字」の読み方について】 |
古田氏の「『邪馬台国』は無かった」に次のように書かれている。「邪馬台国」が「邪馬壱国」だとして、これをどう読むべきか。「壱」は倭音では「い」又は「ゐ」となる。恐らく「ゐ」と読むべきで、そうなると「邪馬壱国」は「山倭」と読むことができる。「倭」は3世紀以前の上古では「ゐ」と読んでいたのが後に唐代の頃より「わ」音に転じた。「倭」と「委」は同義同音にして、「倭」とは「委の人」という意味でもある。してみれば、志賀島で発見された金印に「漢委奴国王」とあるのも頷ける。この金印の記事を掲載した後漢書(はんよう、5世紀)には「漢倭奴国王」と記されているが、あきらかな誤訂正である。 |
【「親魏」の称号考】 |
西暦229年、魏の高官・曹真(そうしん)(将軍・司馬懿の政敵)の提言によつてインドのクシャーナ朝に「親魏」の称号を授与した。それに対して、司馬懿の提言により倭國に「親魏」の称号を授与した。その背景には宮廷内の勢力抗争が絡んでいた。皇帝の徳は、朝貢する国が大国であれば大国であるほど、また、遠ければ遠いほど、高いと考えられていた。 倭國の朝貢はとりもなおさず公孫氏を討った司馬懿の功績だった。魏志倭人傳の魏使の報告書は、この司馬懿の功績を讃えるために「倭國はクシャーナ朝に匹敵する大国である。遠国である」と水増しして書かれている、とする説がある。これを確認しておく。但し真偽には検証を要する。魏志倭人傳は、数量(里数、水行日数、戸数、侍女の数、墳墓の径など)について「露布(ろふ)の習わし」を用いて書かれている。「露布の習わし」とは、北へ百里行って敵を百人殺した場合に北へ千里行って敵を千人殺したと報告しても褒められこそすれ咎められることはないといった習わしのことである。魏の都・洛陽(らくよう)からインドのクシャーナ朝までの距離は「16,370里」として知られていた(後漢書西域傳・大月氏國)。帶方郡までの距離は5,000里として知られていた。魏志倭人傳で、魏使は洛陽から末盧国までの距離を「15,000余里」、末盧国から邪馬臺國までの距離を「2,000余里」と報告した。これは、インドのクシャーナ朝(16,370里)に匹敵するように数字を合わせたとことになる。衛星写真で見ると、洛陽からクシャーナ朝までの距離の半分もない。これが誇張して書かれた証拠である云々。 |
【邪馬壹国の直線距離測定法】 | |
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【漢文の読み方(魏志倭人伝)「係り受け」、「係り結び」の原則】 | |
「寺田紀之フェイスブック/漢文の読み方(魏志倭人伝)」の参照できるところを抜き書きする。。
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「邪馬臺」か「邪馬壹」なのか、という議論はさておき…
「邪馬壹」が「ヤマト」と読めるというトンデモ論を目にしました。
「壹」は上古音で読んでも、中古音で読んでも、、
「iet」であり、これは日本語の「イ」に近い音です。
当時の中国人が「邪馬壹」を普通に読めば、違和感なく「ヤマイ」と読むでしょう。。
また、「壹」の声符は「豆(トウ)」だから「トウ」と読める。だから…
「邪馬壹」は「ヤマト」と読める。
…という、間違った説があるようです。
「壹」など形声文字には、
意味を表す「義符」と
音を表す「声符」がありますが、、
「壹」の声符は、、
「豆(トウ)」ではなく
「吉(キチ、キツ)」です。
事実、「壹」を「トウ」と読ませる用例は中国文献の中にはありません。
また、「臺」の声符は「至」で、「到」は「トウ」と読むから「臺」は「トウ」と読む。
…というのも間違っています。
「到」の声符は「刀」であり
「至」は「到」の義符です。
ちなみに「至」を声符としている漢字には、咥、挃、室、姪、庢、荎、郅、致、桎、胵、窒、秷、蛭、絰、銍などがありますが、どれ一つとっても「トウ」と読める漢字はありません。
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(私論.私見)