第4部―2 「魏志倭人伝」総合解説(2)予め議論を為しておくべき事項整理

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).12.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、邪馬台国研究の上で確認しておかねばならない必須事項について検討しておくことにする。

 2009.11.20日 れんだいこ拝


【「陳寿自身が倭地を実際に訪れていたかどうか」について】

 陳寿が「倭人伝」を撰するに当り、陳寿自身が倭地を実際に訪れていたとの記録はない。つまり、聞き書き及び記録史料の参照によってこの編纂を為したものと思われるが、陳寿の簡明な記述の仕方と併せて、記述の真偽を廻っての評価及び解釈が一定しない恨みを残すこととなっている。今日に至るまで通説.異説が飛び交い決着を見ないのである。

 但し、いずれにせよ、三世紀頃の倭地(日本)について書かれた貴重な記録であり、その中に記述されている「邪馬台国」あるいは女王卑弥呼の存在は、文献に表われた日本で最初の国家らしい国家の姿を伝えている点で、後に続く大和朝廷との関係は明らかでないものの、特大の価値が認められる。追記すれば、女王卑弥呼の名跡を継いだ壱與のあと、つまり265年から266年頃から後百五十年ほど、中国の歴史の本に、倭地(日本)について記載が消失していることを考えあわせる時、同書が一層の光彩を放っていることになることを確認せねばならない。

 中国の史書に次に表れるのは、邪馬台国の時代から百五十年あまりたった「倭の五王」と呼ばれる倭王たちが中国との交渉をもった記録である。しかし、「倭の五王」についてもっとも詳しくしるす「宋書倭国伝」の倭の記事でさえ、六百字足らずであり、倭人伝の二千文の三分の一にすぎない。


【「魏使が倭国を訪れた季節の推測」について】

 次に、魏使が倭国を訪れた季節の推測として夏であったとすることについて見ておこう。

朝鮮半島から対馬に渡る場合、日照時間の長い夏でないと、日のあるうちに着くことが出来ない、3ノットの速力で、約12時間以上かかり、朝5時に出航して、夕方6時過ぎに着くことになる。

冬期の航海は、季節風が連吹するので、波が高く、小型船にとって危険である。
倭人伝に記されている方位は、夏季の日ので方向を東とする方位に、大略一致している。日の出方向は、6月22日前後の夏至の頃、約30度、北にずれる。
冬期では、冷たい飛沫や風を浴びることになり、漕ぎ手の手がかじかんで、充分な力がだせない。難破は即凍死につながる。
春から秋口辺りの任意の季節と推測される。

【「原文詮議」について】
 

【「改訂解釈」について】
 邪馬台国研究者の間では、「ここは原文の誤り」なるものが頻繁に出てくる。古田氏の「『邪馬台国』はなかった」では、①・「壱の台への改訂」、②・「南を東へと改訂」、③・「一月を一日に改訂」、④・「東治を東冶へ改訂」、⑤・「景初2年を3年に改訂」、⑥・「対海国を対馬国へ改訂」、⑦・「一大国を一支国へ改訂」等々が指摘されている。

 古田氏は、「原形の真実」を重視、特に「紹煕本」の正確さを指摘し、「軽々しく改訂の手を加えるべきではない」として次のように述べている。
 概要「(あちら立てればこちに立たず、帯に短し、たすきに長し、屋上屋を架するの状況に対し、)3世紀には3世紀の論理性がある。自分の説にとって一番困難な個所を、またもや原文改訂で切り抜ける―これはもはや、『邪馬台国』学者の冒されて久しい『不治の病』と化しているようにさえ見えるではないか。私たち『邪馬台国』の研究者は、このように、いわば『卓抜し過ぎた有効性』を、すなわち後代人安易の道として、厳しく自らに拒否しなければならないのである」。

【当時の里程について】

 当時の里程について確認しておく。「里程は白髪三千丈的な中国人通有の誇張癖のあらわれ」として軽視する向きもあるが、この見解をひとまず斥けることとする。

 一里につき、中国では各王朝時代によってその長さが違っていたと思われる。秦の始皇帝が、「六尺をもって歩をなす」(「六尺為歩」)(「1歩=6尺」)と定めたという制度を公布している。「秦始皇帝紀」は「歩三百をもって一里」としている。魏代の里程が、秦代の里程と同じであるのか違っていたのか諸説ある。

 「日本及び中国の度量衡」の制定由来、経緯ははっきりとは分かっていない。姿形が見えてきたところでは尺を基準として「寸、尺、丈、歩、里」が定められており、次のように仕分けされている。一尺を身体尺で測っている。手のひらを拡げて親指と中指の先までの長さを一尺とし、これによると、この長さはおおむね18cmくらいである。但し、これが次第に延長され、但し、単位自体は時代の変遷につれて変化しており、紀元前10世紀の周、春秋戦国時代から前漢に至る頃はほぼ一定して22,5cmであった。その後、唐の時代に至っては31,1cmとなった。但し、魏代の一尺は当時のモノサシが出土しており、これによれば24,12cmとしている。「六尺を一歩」と定め、一歩は144,72cm。「三百歩を一里」と定め、100cm=1m換算で一里は434,16m。このように構成されている。一里は凡そ400m強であったと云うことになる。魏の前の時代も魏の後の時代も、それほど変わってはいないとすれば、魏志倭人伝記述上の中国本土の標準一里は434mを基準にしていたと考えられる。これを仮に長里説と命名する。

 ところで、一里434m説に従えば、郡より女王国へ至る里程として「万二千余里」の記述が問題になって来る。この数字をkm換算すれば凡そ5208kmとなる。邪馬台国大和説に従う場合、帯方郡から現在の奈良県迄の距離がざっと1500km内であるから大幅に超えることになる。九州説でも九州をはるかに突き抜けることになる。こういう事情から、従来魏志倭人伝の里程記述に対しては、これを中国式の白髪三千丈的な言い回しとして受けとめる向きも為されている。

 他方、誇張ではなく魏時代特有の尺度に基づいているのではないかとする説がある。この疑問を最初に投げかけたのは九州説の旗頭・白鳥庫吉氏であった。同氏は、倭人伝における里程基準として一里約140m言い替えれば1km約7里説を唱えるところとなった。これを仮に中里説と命名する。この説を再び採り上げ、「魏晋朝短里説」として大々的に宣揚したのが古田氏であった。著書「邪馬台国はなかった」で、通常一里を430mとして考えられているが、「一里を75mから90m」として了解すべきことを主張した。これを仮に短里説と命名する。ちなみに、「一里を75mから90m」とした場合、「歩」はその300分の1となるので約25~30cmとなる。この鑑定は、卑弥呼の埋葬塚「径百余歩」の解釈に関係してくる。

 この一里をどう見るかを廻って、高木彬光氏は「邪馬台国の秘密」で一里140m、山尾幸光氏は「魏志倭人伝」で一里435m、唐六典を参考にする人は一里420から540mといった具合であり未だに決着を得ていない。但し、長里中里短里説いずれを採る場合においても、相互の里程記述は比率としては正確な基準を保っているものと推測されており、それが誇大であれ、なんらかの内的関連のうちに統一的に記述されていることは疑いないものと思われる。

 生野真好氏による三国志全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも西暦220年(即ち後漢から魏への禅譲の年)より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる(安本美典らの説では、「短里」は東夷伝のみに見られ、他の箇所では存在しないとしているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する)。但し、220年以後の記述であっても従来通りの「長里」でないと解釈できない部分もあり、「魏王朝=短里」という単線的構図は成立しない云々と述べている。

 当時、中国では、重要な軍事技術のひとつである測量技術が発達していた。例えば、「周髀算経」(しゅうひさんけい)に記載された「用矩(ようく)之道」という矩(さしがね)を使った方法を用いれば、目的地までの直線距離を求めることができる。また、「周礼」(しゅうらい)という書物に書かれた「日晷(にっき)法」を用いれば、季節を問わずほぼ正確な方向を知ることができる。 「南北の地で影の長さが異なる」ことも知られていた。夏至の日に8尺の竿の影の長さが南千里の地では1寸短く、北千里の地では1寸長くなることから「一寸千里の法」と呼ばれる。工学部出身のエンジニアで歴史研究家の谷本茂氏は「一寸千里の法」を現在の科学知識を用いて解析し、「1里=約77m」という距離の換算係数を求めている。(酒井正士(全国邪馬台国連絡協議会会員)の「ハイレベルだった三国志時代の技術」参照)

【水行.陸行の旅程について】

 この他、水行.陸行についても考察しておこう。一日の陸行距離については、739年に制定された唐の律令制度を記した「唐六典」による以外にめぼしいものはなく、これによると、陸上の歩行距離は一日五十里とある。もちろんこれは標準で、このほかに馬は70里、車は30里等の定めもある。唐の時代には、一里を360歩としたが、それ以前はすべて300歩をもって一里とした。孫子の兵法では一日の行軍を30里としていた。

 次に、一日の水行距離である。現在、海上距離の単位は一海里という。1,52マイルのことで、mに換算すれば1852mである。船の速度を表わすには、時速、一海里を1ノットという。したがって、1ノットの速さで、1時間走った距離が1852mである。一日8時間の水行とすると約15km進むことになる。但し、実際はもっと少ない8km当たりを求めるのを標準とする。


【当時の方位について】

 倭人伝の方位、距離その他の大雑把なものとして受けとめる向きに対して、方位については厳格に考えるべきではないかと思われる。海洋民族であれ、草原民族であれ、今日の我々が考えている以上に厳格であったのではなかろうかと思われる。例え磁石がなくても、星座と太陽と時刻を基準にして東西南北にはことのほか鋭敏であったものと考えたい。従って、倭人伝の記載も又相当に正確であることが推測される。但し、魏志倭人伝に「対馬―壱岐」間の行程を「南へ一つの海を渡る」と記しており、これが正確かということになる。実際は、対馬から壱岐に至るには東南方向に向かうことになる。ここに「方角のずれ」があるとする説が生まれることになる。

 但し、方位のずれを認めるかどうかについては議論の余地がある。魏使いの来航時を六月の夏至の頃として、なお太陽の運航に合わせた方位観により導かれたものと推測すれば、正式な磁石の方位と30度の偏差をもたらすことになる。こうなると、東南というのは東寄りに解釈すべきということになり、記述された方位が互いに整合しているものとすれば、以下同様に解釈すべきということになる。

 原田大六氏が、「邪馬台国論争」で次のように説いているとのことである。
 「夏の日の出の位置によって東を定めたために、実際の東を東南としてしまうような、八分法で四五度のずれが生じたのであろう。古代の我が国では、日本書紀の成務紀五年の条に『阡陌(たたさのみち よこさのみち)に随ひて邑里を定む。因りて東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこし)とす』」。

 これを踏まえて、高城修三氏「奪われた古代史(アイデンティティ)」が次のように述べている。
 「日本語の東は『日向し』に由来する。即ち日の出の方向に向かった人から見て、前後方向を阡(たたさのみち)とし、左右方向を陌(よこさのみち)としていたのである。これに対し、大陸では『天子南面』の思想に見られるように南中する太陽に向かって、その前後方向(南北)を阡(たたさのみち)とし、左右方向(東西)を陌(よこさのみち)としたのである。南の方角を示す『指南車』も同じ思想による。だから、倭人が帯方郡の使者に『邪馬台国へは日に向かって行く』と言えば、しかもそれが通訳を介してのことなら、『東に行く』を『南に行く』と受け取られることは十分に考えられるのである。先に挙げた吉田連の系譜伝承においても、実際は任那から見て西北にある己*の地が東北にあるとするのは、魏志倭人伝と同様の錯誤があったからではなかろうか。共に時計回りに九〇度ずれているのである。時代も同じ三世紀で近接しており、偶然の一致とは思えない。こうした魏志倭人伝や新撰姓氏録との思いがけない一致を見れば、成務紀の記事の重要性が分かるであろう」。

【当時の地図について】

 最古の日本地図は8世紀の「行基(ぎょうき、ぎょうぎ)図」といって、行基(668-749)によって描かれたと伝承される九州、四国、本州地図である。但し、原版は現存していない。後世にその手の日本地図が行基図として各種書き写されて流布している。

 当時の倭国に対する地理観に関する特徴についても一考を要する。先に地理観に対しての考察を為すと、地理学者室賀信夫氏は、その著書「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像-地図学史的考察-」において、日本を記した古地図においては、日本の地形を北九州を北として日本列島が北から南へ伸びた格好に転倒された形で記載されており、魏志倭人伝の方位もこれに従っているのではないか。1402(明の建文4)年に朝鮮で作られた東アジアの地図「混一彊理歴代国都之図」(こんいつきょうりれきだいこくとのず、略称「疆理図」)がその証左であり、右下がり90度の日本が描かれている、と述べている。

 「疆理図」はモンゴル帝国を表した地図として有名である。写本が日本に龍国図(京都市龍国大学所蔵)と本光寺(島原市本光寺所蔵)の二つ残って居る。日本にしか写本が残されていない、という意味で貴重な資料になっている。いずれも同じ原資料を書き写していると推定されている。

 「龍国図」は次の通り。大きさ163cm×158cmで絹布の上に描かれている。龍谷大学本は李氏朝鮮の官邸で作られた写本と見られるが、いつごろ日本にもたらされたかは分かっていない。
大谷光瑞が買い求めたという説と、16世紀末の文禄・慶長の役の際に獲得したものを豊臣秀吉が西本願寺に与えたという説がある。「龍国図」では、倭国は帯方郡(平壌)から真南に描かれており、現在の日本列島の形が「中国の東南海上に90度南に転倒した「日本列島南向き形態」で描かれている。このスタイルのものは「龍国図」しかない。この「龍国図」に依拠して「魏晋の時代の中国人の日本についての地理的観念を、そのまま可視的に表現したものである」、「魏志倭人傳の魏使は、この図に基づき東と南を90度右にズレた状態で口上し、そのまま記述されることになったのではないか」と主張されるところとなり、邪馬台国比定論争に波紋を投げかけるところとなった。

 「本光寺図」は1988年に長崎県島原市の本光寺で発見された。これは龍谷大学図よりもかなり大きい280cm×220cmである。長崎県有形文化財である。本光寺図は江戸時代の日本で複写されたものと見られる。日本が東西に拡がる形で正常な位置に描かれている。「混一彊理歴代国都之図」は日本に2枚、中国に2枚の計4枚あるらしい。中国の2枚の地図では日本は東西に並んだ3つの小さい島(山)にすぎない。いずれも写本なのでオリジナルは不明である云々。

 疆理図に関連する地図が日本に2つある。熊本の本妙寺にある「大明国地図」、天理大学にある「大明国図」である。この2つは後年にオリジナルから複写したものと見られる。最も大きな違いは、中国の表記が「元」であるところが「明」となっていることである。「本光寺図」は
海東諸国紀に収録された地図との類似点が多いため、情報が更新されているものと考えられている。寺に伝わっている話によると、本妙寺の地図は加藤清正が文禄・慶長の役に際して豊臣秀吉から賜ったものということになっている。しかしながら、朝鮮王朝側の証言として1593年に記された宣祖実録によると、「加藤清正に降伏した朝鮮官僚の息子が中国と韓国の地図の複写を提供した」との記録があり、これが本妙寺の地図である可能性がある。

 この地図の原拠となったのは「兎貢地域図」(魏.晋に仕えた地理学者裴秀の224年から271年の作)であり、こうした地理観が当時の一般認識であったものと推測され、つまり倭人伝の撰者も又これに従っており、従って「南」は「東」に読み換えるべきであるという説となった。この説は「倭人伝」の「其の道里を計るに、当に会稽東冶の東にあるべし」の記述と適合することとなり、 従来方位の点で難のあった大和説が勢いづけられることとなった。

 山尾幸久氏もこの説を補強し、陳寿が倭人伝を編纂する時参考にした地図は、裴秀の「兎貢地域図」十八篇、又はそれを縮小した「地形方丈図」ではないかと想定する説を唱えた。しかし、この説をそのまま鵜呑みにすることは危険であり、弘中芳男氏は、その著書「古地図と邪馬台国-地理像論を考える一」の中で、「混-彊理歴代国都之図」の成立ちを追及し、この地図が、15世紀の初頭に、朝鮮の権近が、西を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入してしまった爲に日本列島が転倒した形に描かれることになったという由来を解析し、史料的価値を持たないと反証している。

 私説は、この詮議につき参考迄に留めることとする。但し、古代の人は方角を90度右にズレた状態で東西南北を思い込んでいた可能性、3世紀の日本列島は本当に右下がりに日本列島が90度傾いていた可能性を考えることは無駄ではないとしたい。

 「疆理図」(きようりず)はモンゴル帝国を表した地図としても有名であり、イスラムの先端科学と中国の先端科学が統合してできたものである。この地図は西はアフリカ、ヨーロッパから東は日本まで、いわゆる旧世界全体を表している。この地図は、15世紀末まで、世界地図としてヨーロッパのものよりも優れていた。
 魏の方位測量技術能力が次のように解析されている。東西の方位を知ることは簡単で、周髀算経(しゅうひさんけい:BC2世紀頃の古代中国の数学書)に、日の出と日の入りの方角を横に結び東西の方向を知るインディアン・サークル法が記述されている。具体的には日時計のように棒を地面に垂直に建て、その棒の先端の影を描き、午前と午後で同じ長さの影になる点を結べば、東西線が引けるという方法である。この線を2等分する垂線が南北線となる。東西線の北側と南側はこのように容易に認識できるので、東南を北東と間違えるはずがない。魏の一行は方位を正確に測量する技術を有しており、魏が方位を間違えるはずがない。結論として、魏志に記述されている方位は正確であり、南⇒東、或いは、東南⇒北東と読み替える説は成立しない云々。

【「混一彊理歴代国都之図」の記す国名について】

 「混一彊理歴代国都之図」は、倭国転倒方位に於いてのみ意義があるのではない。もう一つ、興味ある国名を記しているところにも意味がある。魏志の地名が登場するのは「黒歯」である。明の時代に作られた地図に邪馬台国時代の地名はことごとく消えたかに思えるなか、黒歯国のみが記されているというのが面白い。日本海沿いに長門、石見、出雲、出雲の沖に隠岐の島、伯( )困幡、但馬、丹後、若峡、加賀、越前、能登、越中、越中沖に佐渡の島、越後、出羽、津軽。瀬戸内海ルートで、長門から安芝備後、備前、備中、播磨、摂津。「日本」という丸で囲んだ国の周囲に展開するのは、河内、和泉、伊賀、伊勢、紀伊、大和、志摩、近江の国々。東海方面から、尾張、美濃、飛騨、三河、遠江、信濃、駿河、相模、下野、武蔵、安房、上総下総、常陸、陸奥、夷地などの聞き覚えのある地名が列記されている。


【当時の海岸線について】
 当時の海岸線に対しても一考せねばならない。かって、盲目の詩人宮崎康平氏による「まぼろしの邪馬台国」が上宰され、邪馬台国ブームを盛り上げることに一役を買ったが、同氏の邪馬台国ほか諸国の比定については評価がかんばしくないものの、その著書の中で指摘された、当時の「海岸線の復元思考」は価値有る一石であったと思われる。同氏曰く、現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することが肝要であり、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、現在の地図でいう等高線の五~十メ-トル辺りの範囲はかっては海域であり、後次第に陸化していったものであるものと推測されるということであった。

 その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると、「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、大きく云って、 博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう」。残念ながら同氏のこの指摘にも関わらず、旧態依然の比定地論争が繰り広げられていることは惜しまれる。

【「卑字当て字」の使い分けについて】
 中国の史書は伝統的に周辺の民族に対し、「卑字」を宛がっている。「東夷、北てき、西戎、南蛮」なる表記がそれである。他にも、邪、卑、奴、鬼、狗、馬、牛等々の「卑字」を多用している。これは、現地音の発音を中華思想に基づき文字選択して意図的に「卑字」を宛がったと考えられる。

 「邪馬台国」の「邪」、「馬」や卑弥呼の「卑」等々いわゆる「卑字」をどう理解すべきか。「単なる表音的用法に過ぎぬ」として拘らず理解すべきか。「邪」は二通りに読め、「正邪」の場合は「ジャ」、「疑問の助字」の場合は「ヤ」となる。「邪馬台国」の「邪」は後者に読み取るべきで、「疑問=神秘、不思議」的な意味合いを込めている。「卑」は二通りの意味を持ち、軽蔑の意味を込めた「卑しい」又は謙譲の意味を込めた「へりくだる」の両読みがある。「卑弥呼」の「卑」は後者に読み取るべきで、同様例として「辞を卑(ひく)くして礼を尊ぶ」(「国語」越語下)、「求むる有れば、即ち辞を卑くす」(「漢書」西域伝)がある。

【「当て字」の読み方について】
 古田氏の「『邪馬台国』は無かった」に次のように書かれている。「邪馬台国」が「邪馬壱国」だとして、これをどう読むべきか。「壱」は倭音では「い」又は「ゐ」となる。恐らく「ゐ」と読むべきで、そうなると「邪馬壱国」は「山倭」と読むことができる。「倭」は3世紀以前の上古では「ゐ」と読んでいたのが後に唐代の頃より「わ」音に転じた。「倭」と「委」は同義同音にして、「倭」とは「委の人」という意味でもある。してみれば、志賀島で発見された金印に「漢委奴国王」とあるのも頷ける。この金印の記事を掲載した後漢書(はんよう、5世紀)には「漢倭奴国王」と記されているが、あきらかな誤訂正である。

【「到と至」の識別について】
 「水野健一/邪馬台国の場所」参照。
 台湾人の学者の張明澄氏は「到と至は同じ字ではない」として概要次のように主張している。
 “到”と“至”とは、漢字の三大要素である形(字の形態)、音(字の発音)、義(字の意味)がすべて違う字である。 日本語で読むと、両字とも“イタル”と読むので、全く同じ字と誤解されている。 両字を英訳すれば違いがよく分かるが、“到”はreachまたはarrive to、“至”はtillまたはuntilというように違っている。 日本の漢和辞典は、これらの両字をどう扱っているのかは知らないが、中国の辞典(例えば、台湾中華書局印行の『辞海』)は、明らかに二つを違う字としている。 多くの日本の先生方は、『三国志』において“到”と“至”は同じ意味に使われているといっているが、それは訳すと同じ日本語になるから、日本語的にいって同じというだけで、中国語的には同じではないし、英訳したら別々の単語によって表現されるようになる。全く同じであれば、ことさら両字を使う必要がなく、ただその中の一字を使えばいいはずである。

 やや専門的すぎる話になるが、中国語の発音は意味と大きな関係があり、大きく陽音と陰音に分けられる。問題の“到”と“至”は、やはり陰陽が違っており、 “到”は現代音では“タウ”、中古音では“トウ”でいずれも陽音。 “至”は現代音では“ツウ”、中古音では“チイ”でいずれも陰音 。というようになり、もともと違う意味を持つ両字である。 『三国志』の中でも違う意味に用いられており、簡単にいえば、 “到”は“到る”、“至”は“まで”ということである。 “到”というのは、点的な概念であり、その一点に着くことであり、文章の中では、次のところへの起点にならない。 “至”というのは、線的な概念であり、その一点までということで、文章の中では、次のところまでの起点になる可能性がある。 『三国志』は、意識して“到”と“至”を使い分けている。一般的に、中国古文は、文章の中で、これら二字の中の一字だけを使っているが、今回のように文章の中で“到”と“至”が混じっている場合、 “到”は“到る”で何かがA点から離れてB点に移って着く、 “至”は“まで”で何かがA点からB点までおよぶ、 というように区別される。 中国古文を多く読んで見ると分かるが、“到”と“至”が混じっている文章において、これら両字が全く同一の意味に使われている例は、いまだ一例もない、だから、この文章では、両字をしっかり区別して読むべきである。
 中国魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授が指摘するように倭人伝は多くの文が融合して矛盾が生じている文章となっています。我々は張先生の読解方法を運用しながらさらに倭人伝の真実に近づく努力をするべきなのでしょう。

【「親魏」の称号考】
 西暦229年、魏の高官・曹真(そうしん)(将軍・司馬懿の政敵)の提言によつてインドのクシャーナ朝に「親魏」の称号を授与した。それに対して、司馬懿の提言により倭國に「親魏」の称号を授与した。その背景には宮廷内の勢力抗争が絡んでいた。皇帝の徳は、朝貢する国が大国であれば大国であるほど、また、遠ければ遠いほど、高いと考えられていた。

 倭國の朝貢はとりもなおさず公孫氏を討った司馬懿の功績だった。魏志倭人傳の魏使の報告書は、この司馬懿の功績を讃えるために「倭國はクシャーナ朝に匹敵する大国である。遠国である」と水増しして書かれている、とする説がある。これを確認しておく。但し真偽には検証を要する。魏志倭人傳は、数量(里数、水行日数、戸数、侍女の数、墳墓の径など)について「露布(ろふ)の習わし」を用いて書かれている。「露布の習わし」とは、北へ百里行って敵を百人殺した場合に北へ千里行って敵を千人殺したと報告しても褒められこそすれ咎められることはないといった習わしのことである。魏の都・洛陽(らくよう)からインドのクシャーナ朝までの距離は「16,370里」として知られていた(後漢書西域傳・大月氏國)。帶方郡までの距離は5,000里として知られていた。魏志倭人傳で、魏使は洛陽から末盧国までの距離を「15,000余里」、末盧国から邪馬臺國までの距離を「2,000余里」と報告した。これは、インドのクシャーナ朝(16,370里)に匹敵するように数字を合わせたとことになる。衛星写真で見ると、洛陽からクシャーナ朝までの距離の半分もない。これが誇張して書かれた証拠である云々。

【邪馬壹国の直線距離測定法】
 魏志倭人伝および後漢書東夷伝には、次の三つの距離が記載されている。①楽浪郡の国境いから12,000余里、②郡から狗邪韓國まで7,000余里、③狗邪韓國から7,000余里。これらの距離はどのようにして算出されたのであろうか?当時は膨大なデータを測量する技術はなかったので、地図を作成することはできなかったが、二地点間の距離と方位を測量する技術はあった。即ち、点と線を繋げることはできた。 BC2世紀頃に成立した『周髀算経』に記載されている「一寸千里法」では、8尺の棒を地面に立て、太陽の南中時にその日陰長を測定する。この二地点の日陰長の差が緯度方向(南北方向)の距離差に相当する。日陰長の差、一寸が千里に相当する。また方位差(α)も測量すれば,「南北方向の距離差」X arctan(α)で、東西方向の距離差が算出できる。ピタゴラスの定理は、『九章算術』第九章に「句股術」として記載されている。ただし、方角がわからないと適用できない。また、大きな山が見通せる場合は、海島算経の手法(一寸千里法の原理と同じ)により、この山頂との距離が計算できる。魏の一行は、地図を描くことはできなかったが、距離と方位を示す直線と、直角三角形を描くことができた。邪馬壹国・四国説に基づくルート(添付図)で、どのように直線距離を算出したが図に示した。対馬から剣山の方向は山口県の鷹子山の方角なので、対馬の人は剣山の方角がわかっていた可能性がある。しかし、もしわからなかったのであれば、下記のように直角三角形を描いて、直線距離を算出したのではないかと推定できる。

―平壌~釜山/巨済島(7000余里):過去往来していたと思われるので、この直線距離は既知と思われる。平壌~釜山間に、見通しのきく中継地点を複数設定し、その中継地点の緯度、経度を繋げることにより、トータルの平壌~釜山/巨済島の直線距離が測量できる。実際、魏志韓伝では、韓国の大きさを方4千里(勿論直線距離。東西の距離は実際の距離にほぼ等しい)としているので、韓国内の地域は測量済であったと考えられる。

―釜山/巨済島~対馬(千余里):釜山と洛陽は、ほぼ同緯度なので、釜山の日陰長は洛陽の日陰長とほぼ同じ長さとなる。対馬は釜山の南なので、対馬の日陰長が釜山より、一寸短ければ、その距離は千里となる。
―対馬~壱岐(千余里):同上
―壱岐~宗像(千余里):宗像は壱岐のほぼ真東の位置である。宗像から対馬は見通せるので、対馬~壱岐~宗像の二等辺三角形により、壱岐~宗像の距離が算出できる。
―末盧國(宗像)~伊都國(田川)~奴國の関所(内田と赤村の間)~不彌國(犀川)~不彌國の港(豊津):歩測により、各地の位置は特定できる。
―豊津~投馬國(南へ水行20日):水行の航行距離を測量する手段はない。航行距離はわからないが、場所(別府)の特定は可能である。国東半島に両子山という山があり、この山までの距離は、「海島算経」法により測量できる。また、この山は別府からも見通せるので、豊津~両子山~別府を結ぶ、二つの直角三角形の角度と大きさが特定できる。
―別府~臼杵~宿南~剣山:別府から四国山地の方向はわかる(案内人がいた)ので、女王國の都で日陰長を算出すれば、別府~剣山の直線距離がわかる。

 添付図のように直角三角形を繋げていけば、①魏の一行の出発地と、②経由した狗邪韓國の港と、③倭(女王の都)の3地点を結ぶ三角形の位置が確定する。不彌國から投馬國まで何故水行20日も要したのか、大きな謎となっているが、黒潮分流の北上という現象があり、潮待ち、天候待ちに日数を要したほか、途中の別府でこの測量をしていたのではないだろうか? なお、一寸千里法は夏至の頃に測定するのが最も精度が高いのであるが、1~2月の季節ずれに対しては、日陰長の補正をしたことが考えられる。

【漢文の読み方(魏志倭人伝)「係り受け」、「係り結び」の原則】
 「寺田紀之フェイスブック/漢文の読み方(魏志倭人伝)」の参照できるところを抜き書きする。。
 漢文には句読点がないので、どこで区切るかによってとんでもない誤訳になる可能性がある。そのため、漢文には「係り受け」、「係り結び」の原則があり、すべての史書は、この原則に基づいて、テーマ毎に区切り、理路整然と記述されている。「係りの言葉」とは、文章が何について書かれているか示しているキーワードであり、「結びの言葉」とは、そのキーワードの記述がそこで終わることを示している。

 魏志倭人伝は、3つ章に分かれている。第1章/邪馬台国への行路・倭の国々、第二章/倭の風俗 ・習慣、第三章/政治と外交・卑弥呼の死後の3章構成である。そのうち第1章について、「係り受けの構造」を添付図に示す。第一章は、「倭人」という言葉が冒頭にあるので、倭人が「係りの言葉」であり倭人について書かれた章であることが明白であり、まず冒頭でその方角を示している。その内容は①倭(倭国、倭人の住む国という意味)への行き方、②女王國の周辺の国々の記述による女王國の位置関係、③最後の結言として、群(魏志倭人伝では帯方郡、後漢書では楽浪郡との境界)からの距離を記述してあり、「倭」の方位、その行き方、周辺国との位置関係、および距離を詳細に記述している。

「邪馬臺」か「邪馬壹」なのか、という議論はさておき…
「邪馬壹」が「ヤマト」と読めるというトンデモ論を目にしました。
あのう…どう間違っても
「邪馬壹」は「ヤマト」とは読めません。
「壹」は上古音で読んでも、中古音で読んでも、、
「iet」であり、これは日本語の「イ」に近い音です。
当時の中国人が「邪馬壹」を普通に読めば、違和感なく「ヤマイ」と読むでしょう。。
また、「壹」の声符は「豆(トウ)」だから「トウ」と読める。だから…
「邪馬壹」は「ヤマト」と読める。
…という、間違った説があるようです。
「壹」など形声文字には、
意味を表す「義符」と
音を表す「声符」がありますが、、
「壹」の声符は、、
「豆(トウ)」ではなく
「吉(キチ、キツ)」です。
事実、「壹」を「トウ」と読ませる用例は中国文献の中にはありません。
また、「臺」の声符は「至」で、「到」は「トウ」と読むから「臺」は「トウ」と読む。
…というのも間違っています。
「到」の声符は「刀」であり
「至」は「到」の義符です。
ちなみに「至」を声符としている漢字には、咥、挃、室、姪、庢、荎、郅、致、桎、胵、窒、秷、蛭、絰、銍などがありますが、どれ一つとっても「トウ」と読める漢字はありません。




(私論.私見)