第1部 中国、朝鮮、倭国の交流文献考その1

更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).3.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「中国、朝鮮、倭国の交流文献考その1」をものしておく。「第3章 中国少数民族と長江文明」の「第3章 中国神話の中の少数民族」その他を参照する。

 2006.12.18日、2015.12.10日再編集 れんだいこ拝


【中国正史のうち、倭・日本について書かれている18の古書一覧】
後漢書 25巻 東夷 倭 南朝宋王朝 ハンカ(398~445)著
三国志  30巻 東夷 倭人 西晋王朝 陳寿(233~297)著
晋書 97巻 東夷 倭人 唐王朝 房玄齢(578~648)著 
宋書 97巻 夷蛮 倭国  南朝梁王朝 沈約(441~513)著 
南斉書 58巻 東南夷 倭国  南朝梁王朝 薫子顕(487~537)著 
梁書 57巻 東夷 倭 唐王朝 ヨウ思廉(?~637)著
南史 79巻 夷カイ下 倭国  唐王朝 李延寿(?)著 
北史 94巻 四夷 倭国 唐王朝 李延寿(?著
隋書 81巻 東夷 倭国 唐王朝 魏徴(581~643)著
10 旧唐書 199巻上 東夷 倭国・日本 五代晋王朝 劉ク(887~946)著
11 新唐書 220巻 東夷 日本  宋王朝 宋祀(998~1061)著
12 宋史 491巻 外国 日本国 元王朝 脱脱(1314~1355)著 
13 元史 208巻 外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310~1381)著 
14 新元史 250巻 外国 日本  中華民国王朝 アショウユウ(1850~1933)著
15 明史稿 196巻 外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645~1723)著
16 明史 322巻 外国 日本  清王朝 張廷玉(1672~1755)著
17 清史稿  164巻 邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845~1927)著 
18 清史 159巻 邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900~)著

 中国の勝者の記録ですが、日本の歴史学者などによっての改ざん不能ですので、信憑性の高い歴史書といえます。中国の国の歴史、外交文書などの記録ですので、信憑性が高いものと考えられます。

 「ウィキペディア中国の正史」は次のように記している。

 中国では、もと孔子の作とされる『春秋』のように編年体の史書が一般的であったが、司馬遷の著した『史記』以来、紀伝体が盛んに行われるようになった。史記を継いで前漢王朝一代の歴史書とした班固の『漢書』からは王朝ごとに時代を区切った紀伝体の史書(いわゆる「断代史」)の体裁が流行した。しかし、「史記」「漢書」をはじめ、西晋の陳寿が書いた『三国志』、宋の范曄が書いた『後漢書』、梁の沈約が書いた『宋書』など、当初の紀伝体史書はみな個人の撰であった。

 唐に至って、歴史書を編纂する事業は国家の事業となり、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』などが次々と編纂され、これまでの紀伝体の史書のうち史記や漢書、三国志などとあわせて「正史」とした。これらは北朝の系譜に連なる唐の編纂であるが故に、晋朝の後継国である南朝よりも、むしろ北朝の諸王朝を正統として扱う傾向があったといわれる。こうして唐以降、正史は王朝の支配の正統性を明らかにする道具となり、王朝が成立すると滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての価値は大きく損なわれる事になった。

 唐代以降は、正史が編纂される手法も確立される。朝廷内で皇帝に侍る史官が、皇帝および国家の重大事を記録する「起居注」を蓄積し、皇帝が崩御すると、代ごとに起居注をまとめた「実録」が編纂される。王朝が滅んだ際には次に正統を継いだ王朝が国家事業として、前王朝の皇帝ごとの実録を元に正史を編纂する、というのが大まかな手順である。このため、たとえば正史の「明史」よりも「明実録」の方が記録は詳細に残されている。史料としては、実録が1次史料、正史が2次史料ということになるが、どちらがより真実に近いかはそれぞれの史料によって異なる。

 清のとき、二十四書が正史として再度選ばれ、「二十四史」と呼ばれるようになったので、中国の正史といえば普通二十四史を指す。二十四史に、中華民国期に編纂された『新元史』や『清史稿』を含めて「二十五史」あるいは「二十六史」という呼び方も見られる。また、台湾国民政府によって、正史としての『清史』(実際は『清史稿』の改訂)が編纂されたが、中華人民共和国政府はこれを認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期すため、完成は2015年に先送りされた。


【中国史書のうち、倭・日本について書かれている古書一覧】
漢書地理志
論衡(ろんこう)
山海経
漢書
魏書
魏略
後漢書
三国志
呉書
晋書
宋書
南斉書
梁書
南史
北史
隋書
旧唐書
新唐書
翰苑(かんえん)
資治通鑑』(しじつがん)

 中国の勝者の記録ですが、日本の歴史学者などによっての改ざん不能ですので信憑性の高い歴史書といえます。中国の国の歴史、外交文書などの記録ですので信憑性が高いものと考えられます。


【「三皇」】
 中国では、神話時代の伝説上の8人の帝王たちを三皇五帝という。史記を書いた司馬遷は三皇を省いて五帝本紀から記録しているが、唐代に司馬貞が補筆して三皇本紀を加えた。それによると、伏義(ふくぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)を三皇とする。

 黄河の中流域に漢民族が農耕民族として現われたのは、今から凡そ四千年から五千年前のこととされている。伝説によれば、まず「三皇」という三人の天子の時代があった。三皇とは、順に「伏羲」(ふくぎ)、「女媧」(じょか)、「神農」(しんのう)を云う。
 三皇の最初の皇帝は伏義である。現在の河南省の陳を都とした。下半身が蛇で上半身が人の姿(人首蛇身)をしており、八卦を考案し、家畜飼育、調理法、漁労法、狩猟、武器の製造を開発したといわれる。また、三牢(牛羊豚)を生贄とした祭祀を行なったり、太山(泰山)で天を祀る封禅の儀も彼から始まっている。泰山での封禅は、真の天下泰平を成し遂げた王者(天子)だけが行なうもので、この時代すでに天子を頂点とした政治体制があったことを思わせる。
 三皇の真ん中の皇帝は女媧である。伏義とは兄妹あるいは夫婦とされ、やはり下半身が蛇で上半身が人の姿をしている。彼女の治世下で、共工という荒ぶる部族が謀反を起したとき、これを鎮圧しようとした祝融との間で戦争となった。この戦争で天地が崩壊して傾いたとき、天との欠けた所を補修し、洪水をせき止め、大亀の脚を切って傾いた天地を支え直したと伝えられている。
 三皇の最後の皇帝は神農(炎帝)である。湖北省の烈山の出身で炎帝とも称される。牛首人身をしており、医薬の神、易の神、火の神として信奉されている。農業や養蚕を教えたり、市場を設けて商業を教えるほか、百草を試食して薬草を発見したとされる。(日本においても露天商の祀り神となっている)。神農が率いた部族集団は、中国において最も早く誕生した農耕部族であり、長江文明の中心的部族集団であった。はじめは河南省の陳に都したが、のちに山東省の曲阜に都を移した。彼の子孫はみな神農氏を名乗り、そのリーダーは代々炎帝と称して8代、530年間にわたって中国を統治した。

「五帝」】
 神農(炎帝)は魁、承、明、直、釐、哀、克と続いたあと、8代目の□罔の治世下に黄河文明を象徴する英雄が登場する。それが軒轅(けんえん)という若者である。軒轅が黄帝となり、「五帝」と呼ばれる聖君の時代へ入った。「五帝」は、「黄帝」(こうてい)、「顓頊」(せんぎょく)、「(こく)」、禅譲(ぜんじょう)で知られる「」(ぎょう)と「」(しゅん)の五帝を云う。
 「五帝」の最初の皇帝が軒轅(黄帝)である。河北の畑作、牧畜民の漢族と思われる軒轅は、生まれながらに神妙があり、15歳にして群民から河北の部落猷長に擁立された。このときの炎帝の治世は乱れ、天下の人望を失っていた。族長たちは互いに侵略し合っており、炎帝はこれを制圧する力を持ってなかった。そこで、軒轅はそうした部族を制圧した。そうして自らは徳を修め、五穀を植えて実らせ、万民を鎮撫して四方の安定をはかったことで、族長たちはみな軒轅の徳を慕った。炎帝勢力と軒轅勢力は、(紀元前2600年ごろ)坂泉(はんせん)の野で三度戦った末に軒轅勢力が勝利した。これはいわば、長江勢力と黄河勢力の南北民族による政権争いである。軒轅が炎帝を破ったあと、神農氏系の炎帝に代わって黄帝と称して中国を統治した。これが五帝の一番目の帝にあたる。
 「五帝」の二番目の皇帝が蚩尤(しゆう)である。黄帝の時代となったあと、神農氏の一人である蚩尤が黄帝と対立した。蚩尤は獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂、人身牛蹄で頭に角があるといわれる。羌姓とされるから羌族系の猛者だったようである。砂や石や鉄を食い超能力を持ち、勇敢で忍耐強く同じ姿をした兄弟が80人もいたという。相当に頑強な勢力を投影したものと思われる。のちに編まれた史記で蚩尤は兵主神(戦の神)として登場する。また戦争で必要となる戦斧(おの)、楯、弓矢などの優れた武器を発明したという。蚩尤と黄帝の両者はた涿鹿(たくろく)で戦った。蚩尤は、兄弟のほかに無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝と苦しめたが、黄帝は苦戦した末に蚩尤軍を破った。この武力衝突で蚩尤軍の主力を務めたのは勇猛かつ剽悍な九黎族と夸父族だった。敗れた彼らは四散して三苗族となった。これが長江流域に広範囲にわたって居住する苗族の祖先とされる。

【「兎」】

 ついで、「兎」が現われ、治水に功があった。「兎」の時代から王位は世襲になったといわれている。

 「五帝」の5代目の帝にあたる舜(しゅん)の時代のこと。禹(う)は13年間にわたって身を粉にして治水や道路整備、開拓に努めた。舜から帝位が禹に禅譲され、禹は自らが開拓した国土を王宮から500里四方ずつ5段階にわけて5服制度を制定する。禹の治水土木事業の中心は長江下流域だったらしく、彼の墓は江南の地の会稽山にある。禹の死後は子の啓が受け継いだ。(ここで、世襲王朝・夏王朝の誕生となる)。

【「夏」】
 次に「夏」王朝が始まった。禹(う禹は“龍”のこと)が夏朝の初代帝。禹王の陵墓とされるのが会稽山の大禹陵で、そこに「禹陵」「禹祠」「禹廟」がある。これを禹祠(うし)と云う。「夏」の17代目の王桀は暴虐であった爲「殷」の湯王に討たれ、夏は滅んだ。この夏の時代迄は伝説上の時代であるとされているが、「夏」王朝については実在説も説かれている。

【「殷」王朝】

 紀元前1400年頃、黄河上流地方には氏族からなる多数の小国家が生まれつつあった。こうした多数の部族国家を征服して、中国最初の王朝となる「殷」王朝が建国された。殷の政治は、祭政一致であり、亀甲を火であぶって占う卜占(ぼくせん)による神権政治を敷き、陰陽思想等による鬼道を発達させた宗教を基本としていた。この時代には既に文字、法律、青銅器の使用が為されていたことが認められている。ほぼ四百年後に、殷の三十代目の紂王(ちゅうおう)も又暴虐であった爲、「周」の武王に滅ぼされた。


【「周」王朝】

 紀元前1050年頃、「殷」に替わって「周」王朝が出来た(殷周革命)。周王朝(前1066年 - 256年)の創立者である周武王が商王朝(前16世紀 - 前1066年)の末代の商帝辛を討ち取った後中原に定住し、その一族を「華族」と称した。夏王朝(前21世紀 - 前16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと云われている。

 武王は「殷」を破って二年後に亡くなり、叔父の周公が政治をとった。この時代に周の勢力は、東北方面ではぼっ海湾まで達し、南方面は揚子江まで拡がった。武王時代から12代の幽王が殺された紀元前771年までを西周、幽王の子の平王が都を成周に東遷し、秦に滅ぼされるまでの紀元前770年から同256年までを東周(春秋戦国時代)と呼ぶ。

 首都の周原は武王の祖父の時代に移住して勢力を蓄えた故地で、西周の都が他に移った後も国の政治。宗教上の中心として栄えた。


 周の政治も殷の方法を受け継ぎ、亀甲による占い等の鬼道に従ったが、殷の時代ほどこれに支配されず、むしろ開明的な傾向を強めていった。統治方法としては、支配地域に分国を設ける等封建体制を敷いた。天下泰平が長く続いた為、この時代を「聖代」と考える思想が中国人にもたらされた。孔子は、殷の暴君・紂王を討伐して成立した周王朝を高く評価し、初期の文王、武王、その弟・周公旦時代を儒教の最高の手本とするなど、西周は政治の理想とされてきた。晩年の孔子は、「ああ私も衰えたものだ。夢に周公を見なくなった」と嘆いた。 

 紀元前1020年頃、「最初の倭人」の記事が江南人王充の「論衡」に「周の時、倭人来たりてちょう草を献ず」と記録されている。 文字上ではこれが最初であろう。「倭」とはこの頃から使用されていたことになる。 


【「春秋時代」】

 紀元前8世紀ともなると周も衰えて、各地の諸候が自立する「春秋時代」(前770~前403又は前722から前481年)となる。この 時代は、200前後の小国が各地に生まれ、やがて互いに連合と争いを繰り返しながらいくつかの大国に統合されていく過程にあり、又、占い、迷信を排除して有能な官吏による政治へと変化して行く時代でもあった。

 この時代、孔子が「春秋」を編纂し、初めての「史書」が登場している。晋では「乗」、楚では「とう杭」、魯では「春秋」というように列国は競って史書編纂に途を開くと ころとなった。孔子(前551~前479)はこの時代の魯の国(山東省にあった封建小国家)の人であり、いわゆる「四書五経」もこの時代の書物ということになる。「春秋」魯の国の年代記で、紀元前770年から紀元前481年迄の242年間が記されている。孔子の手による修筆が為されていると伝えられている。本書は、史的史実と歴史への批判精神を組み合わせた「筆法」に基づいた著述の仕方になっており、「歴史の大原は春秋に基づく」と される評価を得るように後の史書の原点となる役割を後世に果たすこととなった。倭国に関する記事はない。
 


【「戦国時代」】

 そして有力な諸候の一つであった「晋」が分裂し、「韓、魏、趙」の三国に分かれた。紀元前403年から秦の統一前221年迄を「戦国時代」と呼ぶ。この時代は「七強」と呼ばれる「燕.斉.楚.秦.韓.魏 .趙」の諸国が対立抗争した。東夷との関係で見ると、東北隅に位置した「燕」という国が関係深く、北京の西北けいに都し、その昭王(前312~前279)の頃は遼東を傘下に治めていた。「山海経.第十三海内東経」に「鉅燕は東北陬に在り」、とあり、「同書第十二海内北経」には、「蓋国は鉅燕の南に、倭の北に在り、倭は燕に属す」、という一節がある。

 この時代に、「儒家.墨家.道家.法家」など の「諸氏百家の学」が起った。

 ◯越(えつ、前600年頃 - 前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。なお、三國志「烏丸鮮卑東夷傳」に記される「夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害」に沿って述べると、吳越春秋「勾踐伐吳外傳」によると、吳を滅ぼした越王の勾踐(こうせん)の流れが、會稽に封ぜられた夏后(かこう=夏)少康(しょうこう・夏朝の第6代帝)の庶子の無余(むよ)からの流れとされることから、越の国の禹祠主宰者のルーツは紀元前ニ千年紀前半まで遡るとも言い得る。紀元前473年に呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

「秦」王朝】

 前221年、この戦国時代を経て、中国最初の統一王朝として、始皇帝により「秦」王朝(前221~前206年)が建国された。秦は、中央集権をはかり、封建制度を廃して郡県制度を断行し、36の郡を置き中央集権体制を確立させた。「県」は「直轄」という意味で、それまで「国」と呼ばれていたこれらの都市が「県」になった。その上にいくつかの県を監督させる「郡」を置いた。漢の時代には、この郡の上に13の「州」が置かれた。当初の「州」は行政単位の名称のようなもので、州の刺史(しし)とは郡の監察官であり、特定の治所さえ持たずに担当郡を巡察していた。「県・市(郡)・町」という現代日本の行政区域のようなイメージで「州・郡・県」を考えるのが間違いで、すべての基本は「県」。県を監督し守るために軍(郡)を置き、郡の監察組織として州を置いた。監察官たる州「刺史」もまた軍人ですが、後には州長官を指す言葉となり、魏志倭人伝において伊都国の一大率を「刺史のごとくある」と記したのは、彼がそのくらいの大権を持っていたということ。

 又、北方遊牧民族の凶奴の南下を防ぐ爲、万里の長城を築いた。秦は、全国的な道路網の整備、度量衡、文字の書体、通貨の統一などにも功績を挙げた。遼東郡を置き間接統治する。しかし、始皇帝は、即位後12年で逝去。紀元前206年、漢の劉邦(高祖)によって滅ぼされた。 


【「前・漢」王朝】

【「前・漢」王朝】

 秦の滅亡後、封建制度の復活を図る旧貴族の項羽と、新興農民層出身の劉邦とが争った。

 前202年、劉邦が「垓下の戦い」で項羽を破り、中国を統一して、「漢」の国を樹立した。中国の「漢」の時代は漢民族の発展期ともなった。通常漢の時代は、前漢(紀元前206~紀元8)と後漢(紀元25~220)に分けられる。前漢は、前202年、高租劉邦の即位により始められ、都は 西の長安に置かれた。

 前194年、燕の衛満が箕氏朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮興る。

 前漢の武帝(前141~前87)は、中央集権体制を確立し 、前136年、儒学を官学と定め、五経博士をおき儒教を重用する。豊富な経済力を背景にして領土拡張政策を進めた。まず、前129年、衛青、第一回対匈奴戦争を開始。張騫を派遣して、それまで北方から中国を脅かしていた騎馬民族の凶奴を打ち破り、モンゴル高原へ進出し、西域への交通路の安全網を確保した。はるか西方の大月氏(今のアフガニスタン北部を領域として中央アジ アに活躍していた)にまで使者を送り通域の版図を拡げた。

 前111年、南方の南 越國を滅ぼして、南海郡ほか八郡を置いて直轄地とした(ベトナム北部に交趾、九真、日南の3郡を置く)。

 次に東方政策として朝鮮半島へ乗り出した。まず元封2~3年(前109~前108)にかけて衛氏朝鮮を滅ぼし、紀元前108年、「楽浪郡、真番、玄菟、臨屯」の四郡を置き朝鮮半島を直接支配することとなった。「ここにおいて東夷初めて上京に通ず」との記録があることからすれば、武帝の朝鮮出兵の結果、東夷との交易朝貢関係が大きく進展したことになる。紀元前82年、
真番郡、臨屯郡の二郡を廃止。前漢書地理志に「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国を為し歳時を以って来たり献見す」とある。


【「史記」】
 この時代、司馬遷(前145~前86)により中国最初の正史「史記」(本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、年表10巻、書8巻、全130巻。中国の古代から紀元前100年迄の歴史を編纂)が編纂されている。司馬遷は、五千年の歴史を持つ中国の「歴史の父」と云われており、「史記」は、紀元前93年に15年の歳月を経て書かれ、世界に残る名歴史書となっている。「本紀」は国家の年代記、政治史で、「列伝」は個人の伝記である。中国史の大家・貝塚茂樹氏は、「歴史的人物に焦点をあて、その行動と個性を描く方法を創造した」と評している。

 
古代の「三皇、五帝時代」を除く紀元前100年頃までの中国史を叙述している。「三皇、五帝時代」の条は、後年、司馬遷の子孫が補充したものである。

【除福伝説】
 「史記」は倭国に対する直接言及の記事は記さないが、秦の始皇帝が除福に命じ、若者数千人を率いて海外へ向けて蓬来の国に不老長寿の秘薬を求めさせる条があり、除福団が倭国に辿り着いているとの伝説がある。これを確認する。

 始皇帝の時代に、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士の除福(じょふく、斉国の琅邪の出身)ら「五穀百工」数千人を乗せた船による航海の記録が残っている。この話は司馬遷(前145~86)によって書かれた中国史書の史記の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東海に神仙境あり」とする伝説に従い、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、不老不死の医薬を求めて「東海の三神山」を訪ねる船旅に出向いた。始皇帝の命を受け、3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。「徐市(徐福)ら、巨万の費用を費やすも、ついに薬を得ず・・・」等、史記は前後4回にわたり徐福を登場させている。
 又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。

 東方の三神山とは、蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、竹取物語でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となった(「海からの世界史」)。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は行政区分として制定される。

 除福伝説が日本の各地に残っている。従来、歴史学者の間にあって伝説とのみ捉えられてきたが、徐福という村が中国の江蘇省にあることが判明し、「徐福伝説」の史実性がクローズアップされつつある。魏志倭人伝が書かれた百年後の5世紀、「後漢書」倭人伝には、「徐福は(始皇帝の懲を畏れて)還ろうとはせず夷州(台湾)に止まった」とあり、台湾にもゆかりがあることになる。

【「漢書地理志」】
 後漢の初頭時代(紀元1世紀後半)、班固(**~後92)が、前漢(前206-後8)の歴史を書いた「漢書」(「前漢書」とも云う)(帝紀12巻、年表8巻、志10巻、列伝70巻、全100巻)を著わした。「漢書地理誌の第八下.燕地の条」の一節にこの時代の倭の記録が次のように残されており、これが倭についてはじめて書かれた正史となる。
 「然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
 「」。
 (和訳)「然(しか)るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う」

 東夷の者の性質は天性柔順で、中国の近くの三方向の蛮族とは異なる。ゆえにあの孔子でさえ、わが国人民の道理に反する生き方を憂い、できることなら海に出て九夷(東方の理想の島國)に行きたいと欲したのだ。(そのような故事から思い起こされるには)楽浪の海には倭人がおり、分かれて百余国を作っている。時を選んで朝貢してきた、と言い伝えられていることである。


 楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つである。その役所は、今日の朝鮮民主主義人民共和国の平壌付近にあった。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。

 「東夷伝」が記録する「百余国」は、そ大多数が「カタカナ国」であったと推定できる。後漢に朝貢した倭奴国王や倭国王(倭面土国王))師升ら、中国の古代史書に登場する倭人は「カタカムナ国」の国王であり、後の天皇族に列なるとは考えにくい。倭の先住民族を推定すると、先住者は不明であるが、その後裔としてエミシ、土蜘蛛、国栖、隼人等、これにアイヌが関わる。この時代の「倭人」は漢字のような表意文字をもたず、いわゆるカタカムナ表音文字を使用していたと思われる。

 ちなみに、カタカムナ表音文字では「倭」は「ワ」と発音され、後代の「大和、山都、耶麻と、山門、大倭」ではない。その頃の倭人は自らを「ワ」と唱え、これが倭と漢音表記されたと窺うべきであろう。「倭」の表意的解釈は様々であるがいずれも的を射ていない。これは、「カタカムナ文字」で解く以外ない。「カタカムナ文献」(によれば、「ワ」とは、大きくはアマ宇宙球の 全体像であり、小さくは宇宙の万物万象の固体を意味する。「ワ」とは、単なる集合では無く「渾然と調和融合」であるが、 それは固くかたまっているのでは無く、自由にそこからワケられてワク(発生)し、凝縮し膨張するチカラをもつもので豊かな融通性のある、極めて柔軟な状態である。要約すると、「ワ」とは天然自然の大宇宙の実体そのものを意味していると解される。「倭人」は、古代人そのままで、天然自然のままに生き、天然自然を尊崇し、これを「ワ」という表音で絆としていたものと思われる。
※漢書を書いた班固の認識では、「九夷」と「倭人」は同じ、または近い関係としていたらしいことが上記の書き方から覗える。以下、その東夷と九夷、孔子が実際それらについてどのように言ったのかを確認する。

  ◯東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で四夷の一つである。本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。黄河流域の黄河文明の担い手であった漢民族は、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして見下した。漢民族は、自らを「華夏」と呼び、周辺の諸民族を「東夷」、「北狄」、「西戎」、「南蛮」と呼んでいた。後漢書東夷伝に以下のように記されている。礼記王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえいわれる。このように初めの「夷」には侮蔑的な意味合いは見受けられず、むしろ好意的な印象を受ける。しかし周代以降、現在の江蘇省や山東省付近に斉や魯といった漢民族系の国々が建国され、東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、「東夷」という言葉は現在の中国東北部や朝鮮半島に住んでいた人々、すなわち濊,貊,倭,韓といった諸民族を指す用語となった。しかし、中国東北部の東夷においても「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷(北狄,西戎,南蛮)と異なるところである」(後漢書東夷伝)と記し、また「東夷諸国は夷狄の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)(祭器の名に由来する礼法)の礼がある。中国ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」(三国志東夷伝)、と記していることから、侮蔑というよりむしろ敬意を感じる。

 ◯九夷(きゅうい)
昔、中国の漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国。畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。

 ◯論語
 子欲居九夷 或曰陋如之何 子曰 君子居之 何陋之有
 子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之、如何(いかん)と。子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。
 孔子が(道理の廃れた国を厭い)九夷(の国)に住みたいと言った。ある人が、九夷は陋であるのに一体どういうことか?と問うと、孔子は「君子が居る国なのだから何のいやしきかことがあろうか」と応えた。
◯陋 ロウ  心が狭く卑しい。

 子曰 道不行 乘桴浮于海 從我者其由與 子路聞之喜
 子曰く、道行なわれず。桴(いかだ)に乗りて海に浮ばん。我に従う者は其れ由(ゆう)かと。子路之を聞きて喜ぶ。
 孔子が言った。(この国では)道理が行われない。(故に)いかだに乗って、海外に行ってしまいたいが、(その時)私について来る者は由(=子路)ぐらいのものだな。子路はこれを聞いて喜んだ。
※孔子(BC552年~479年)は、当時の中国で道理が廃れていることに心を痛めて、できることなら海に浮かんで「君子のいる国」=「九夷」へ移住したいくらいだ、と皮肉っている。このように、孔子を含め上古、漢人の東夷に対するイメージは「東方の理想郷」のようなものだったことが分かる。それがBC219年の徐福の東進に繋がる。

論衡(ろんこう)】

 漢書地理志に続いて、王充(おうじゅう、27年 -97年)が「論衡」(ろんこう)を著わしている。王充は会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。 漢書の著者・班固より5才年長の先輩で知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草 不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。

 中国の歴史時代は、夏、商に始まり、周代(紀元前1046年 - 紀元前771年)、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。この中で倭について言及している。論衡では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。周代は、日本の縄文時代晩期にあたり、この当時から倭人と呼ばれる人たちがいたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。倭人について次のように記している。

 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
 (和訳)周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
 (和訳) 成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢ず。
 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
 (和訳) 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

 既に、この頃から倭人は、大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って、周に朝貢していた事が分かる。ここに登場する「倭」が何時の時代の何処に住んでいた倭であるのかはっきりしていない。一説に、中国長江(揚子江)上流にあった江南の倭人の国(族)のこととされている。

 成王は、周国の二代目の天子で、その治政は紀元前1115~1079年。日本では縄文中期の終わり、縄文晩期のはじめ頃に当る。卑弥呼が登場する千二百年も前に、ベトナムの越掌が白い雉を、倭が暢草を献じたと記している。草というのは、茸類に属する霊芝のことで、酒に入れて不老長寿の妙薬とする貴重な薬草のことだと解されている。暢草というのは、江南地区ではウッチョンと呼ばれ、琉球に伝わってウッチンと呼ばれ続け、現在では「ウコン」で知られる薬草のことであるとの説がある。※「ちょう。黒黍を醸して酒と為す。ちょうと曰う。芳草を築き以って煮る、鬱と曰う。鬱を以ってちょうに合し、鬱ちょうと為す。之に因りて草を鬱金と曰い、亦ちょう草と曰う。」(説文通訓定声)。

【魏書】
 この時代、王沈(おうしん、?―266)が「魏書」を編纂している。魏志倭人伝の著者・陳寿が参考にしている。東夷伝としてはなし。

【魏略】

 続いて、魚拳(ぎょけん)が「魏略」を編纂している。現在では佚文(いつぶん、一部しか伝わらない文章のこと)になっている。清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の逸文を集めて「魏略輯本」を編集している。38巻ないし50巻。魏略は後漢の滅亡から明帝在位(227~239年)の治政までの歴史をまとめている。魚拳は、民間の歴史家であり、大変な蔵書家であり大富豪でもあった。魚劵の学識はかなり高いものであり、民間の歴史研究者として興味の趣くところを記しており、当時の武将や知識人のエピソードを伝える等において、正史と違った異彩を放っている。特に四夷の異民族に興味を持ち、その生活や習慣を克明に記している。「魏略」の真骨頂は、東夷伝の中で、当時の倭国について格別の関心を寄せていたことが伺え、位置、風俗、習慣、産業、人口、暮しぶり、国の歴史、組織などについてより詳細に伝えていることである。「魏略」の原本はなくなっており、諸書にその逸文が残っているだけである。

 魏志倭人伝の原本ともなったのが、「魏略」五十巻である。魏略の成立は三国志よりも二、三十年早いとされている。それだけ同時代史料近いといえる。倭人伝の三分の二余りが魏略からほとんど書き移す形で纏められている。帯方郡から邪馬台国への行く程度記事や、倭人の生活や習俗の記述、倭国の有様を記した部分は、ほとんど魏略に基づいている。

 角林文雄氏や江上波夫氏は、「魏志倭人」伝が異質の書き方の二部分に分かれていることを指摘し、魏志倭人伝は、魏略の記述をそのまま採用し、陳寿が魏と倭国との外交考証部分をつけ加え、倭人伝の全体が整ったと推定している。

 裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。

 記事倭人伝との対照は「魏略倭伝逸文、後漢書倭国伝対照」に記す。


【「新」王朝】

【「」王朝】
 紀元8年、王莽(前45~後23年.前漢第10代の皇帝元帝の皇后の弟の子)が前漢を滅ぼして 皇帝になり、「新」(8~23年)を建国した。王莽の治政は凡そ十五年の短き期間となったが、この間「是に於いて、農商は業を失い、食貨倶に廃れ民人は市.道に於いて涕泣するに至る」(「漢書」王莽伝第六十九中)程に国土の荒廃が進んでいった。紀元14年、王莽が貨泉を鋳造する。この硬貨が、わが国でも弥生式土器とともに出土しているところをみると、既に往来が進行していたことを証左している。紀元18年、「赤眉の乱」が起る。この乱は翌年鎮圧されたが、余塵はその後も各地にくすぶり続けた。

山海経
 この時代、「山海経」(著者不明)が著される。山海経の著作年代は不詳、18巻(増補版はBC202~AD8)。中国最古の地理書とされているが、洛陽付近を中心に中央と地方の山脈、河川、産物、山神、生物などを述べている。その記述は奇怪さに満ちており、荒唐無稽という評価がされる向きも有る。「山海經 第十二 海内北經」に次のように記している。
 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
 (和訳)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す

 これによれば、この時代の倭は、燕に朝貢していたことがわかる。蓋国は、現在の北朝鮮、平壌のあたりにあった国で、鉅燕とは巨大な、偉大なる燕という意味である。中国の燕の昭王が斎を破るのは起源前333年、卑弥呼登場の500年前、日本の縄文時代が終わろうとする頃、日本列島の倭が、燕国に隷属していたことを意味している。


【「後漢」王朝】

【「後漢」王朝】

 紀元23年、前漢の王族の劉元等により新が倒された。王莽の没後の動乱を治めて、紀元25年頃、高祖の9世の孫に当る前漢の王族の劉秀により「後漢」王朝が建国された。彼は、帝位について光武帝(前6~57、在位25~57)と名乗った。都は東の洛陽に置かれた。

 この時代を記す史書として、宋時代に降って范曄(398~445)が「後漢書」(帝紀10巻.列伝80巻.志30巻.全120巻)を著わしている。「後漢書」には光武帝の治政するこの時代と倭の関係を記す記述が残されている。「後漢書」.東夷伝第 七十五.東夷伝倭の条に「建武中元二年(57年)、倭の奴国奉貢朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす。」と ある。ちなみに、この時の印綬と思われる金印は、天明4年(1784)筑前国 那珂郡志賀島村叶の崎で発見されることとなった。


【「後漢」衰退時代】
 この時代この頃から北の脅威であった凶奴は内紛によって力が衰えていった。そういった中で、西域都護となった班超は西方の移民族を次々に打ち破り、領土をインド北方にまで広げた。都護という官職は、辺境の地にいてその地域の政治.軍事を司る武官で、西域都護をこう矢とする。班超 が活躍した90年代は後漢の最盛期であった。 
 57年、「後漢書東夷傳倭伝」には、「建武中元2年(西暦57年)倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす」(「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」)と記されている。博多湾岸、志賀島、糸島半島らを支配する「委奴(いと)国」が勢力を伸ばし 後漢帝国に朝貢し「漢委奴国王」の金印をもらっている。この時授けられたと見られる金印の倭奴国王印が江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出された。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉は「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」と読んだ。

 105年、高句麗、遼東6県を侵す。

 この頃から、184年までの80年間、倭国分裂大乱が記録されている。光武帝後漢王朝建立以来、後107年頃までの天皇即ち懿徳.孝昭.孝安.孝霊.孝元.開化には何らの治績記録もない。「欠史時代約百年間」になっている。陵墓はすべて奈良県にある。

 107(永初元)年、「後漢書.東夷伝倭伝」は、「永初元年(107)、倭国王帥升(すいしょう)等、生口百六十人を 獻じ、願いて見えんことを請う」(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)と記されている。倭国王帥升らが即位したばかりの後漢安帝に生口160人を献じ、「請見」を願っている。中国の史書に倭国が現れたのは、後漢書の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。
安帝は帥升を北九州の数カ国の代表として遇しても「倭国王」とは承認していないように思われる。倭国王帥升(すいしょう自ら後漢帝国に朝貢している。この頃、委奴国は筑紫野方面へ勢力を伸ばし春日に都を移し「須玖岡本遺跡」を都にしている。

 三国志より古い時代を書いているが、成立は三国志より遅い。五世紀に書かれた。范曄は『漢書』は当然、『三国志』、『魏略』なども読むことができたと思われる。また「倭の五王」の「上表文」も知っていた。

 倭面土国王帥升は、この時登場して以来、消息を絶っている。一説によれば次のように記している。
 概要「漢は紛争を調停し、奴国を復活させ、帥升に勢力拡大を禁ずる。帥升は一部を津屋崎付近(不弥国)に遺し、出雲の宇賀へ移動。先に国を作っていた辰韓人に合流する。帥升は、邪馬壱国を共立して以来、もはや年齢的にもその任務は終了、中国の政情も後漢から「魏」の時代となり、邪馬壱国は「難升米」の登場となる。そして難升米は邪馬壱国を守護しながら、壱与の代まで活躍を継続することとなる。この邪馬壱国にとっては最重要の実権者、「帥升」と「難升米」について、その「名称」の類似、一字一音のカタカナ言葉ではない漢字音であるということ、そこから感じられる「同族」感から、私は、両者は大陸の出自であり、難升米は帥升の後裔か同族かではないかと想像することができる」。

 楽浪郡との交易ルートを掌握したのは筑紫連合王国であった。しかし、この連合王国は107年の遣使以降、大陸王朝との正式な朝貢記録を残していない。遣使が途絶える百年余り、倭国では「神武東征」、「倭国大乱」をへて統一国家形成の核が北九州から畿内へと移動する。239年、畿内周辺・瀬戸内海・北九州の諸国を糾合した邪馬台国女王卑弥呼が魏へ遣使するので動静が記されない。その女性最高司祭者を女王として戴いた「邪馬台国」の遣使は266の晋への朝貢をもって終り、正式な遣使記録は413年まで消える。

【「後漢」衰退時代】
 166(延熹9)年、宦官勢力に批判的な清流派士大夫(党人)らを宦官が弾圧した党錮の禁(とうこのきん)事件が発生している。党錮の禁とは後漢末期に起きた弾圧事件で、和帝が外戚の竇憲らを排除するのに宦官を用いて以降、宦官の勢力が強まり、宦官の多くは自らの利権の追求に専念し、外戚が専横していた頃以上の汚職が蔓延するようになった。こうした状況に対し、一部の士大夫(豪族)らは清流派と称し徒党を組み、宦官やそれに結びつく勢力を濁流派と名づけ公然と批判するようになった。この批判の背景には、宦官を一人前の人間として認めない儒教的な価値観や、従来士大夫がその選抜に強い影響力を持っていた「郷挙里選」における「孝廉」の推挙まで宦官の利権の対象となった事に対する反発が影響したと見られている。166(延熹9)年、司隷校尉の李膺と太学の学生の郭泰や賈彪などからなるいわゆる「清流派」と呼ばれる者達が朝廷に於いて、中常侍の専横を批判し罪状を告発したが、中常侍たちは逆に「党人どもが朝廷を誹謗した」と訴え、李膺ら清流派党人を逮捕した。逮捕者は豪族達の運動で死罪は免れたものの、終身禁錮の刑に処された。これを第一次党錮の禁という。その多くが禁錮刑(現代的な禁錮刑とは異なり、官職追放・出仕禁止をさす)に処された事からこの名で呼ばれる。169(建寧2)年、外戚の竇武と清流派党人陳蕃らが結託して宦官排除を計画し挙兵したが、この挙兵は失敗に終わり竇武は自害した。この乱の加担者や清流派の党人らに対して行われた弾圧を第二次党錮の禁と呼ぶ。この党錮の禁の対象者は176年に党人の一族郎党まで拡大された。しかしその後黄巾の乱が起きた際、追放された党人らが乱に加担する事を恐れた後漢朝廷によって禁が解かれ、党錮の禁は終結した。

 後漢書党錮伝に次のように記されている。
 「桓帝、霊帝の頃(147-188年在位)になると、君主は暗愚で政策は間違いばかり。国事は宦官に任されてしまった。その為、志ある者は腐敗した宦官と付き合うのを恥とした」。
 184年、黄巾の乱おこる。奴隷化した農民を救おうとする声が起り、道教的な呪術を使った張角という人物が、漢の天下は終わったという意味で「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」と唱えて反乱を起こした。張角のもとには十数万人の信徒が集まったという。彼は敵と味方を区別する為、部下たちに黄色の巾を頭に巻いて戦わせた。それゆえこの事件は「黄巾の乱」と呼ばれる。後漢の政府は莫大な恩賞を約束して豪族たちの軍勢を集め、やうやく「黄巾の乱」を鎮めることに成功した。

 しかしながら、黄色の乱討伐に活躍した豪族や地方間たちは、この間に私兵を蓄え、軍閥へ と成長していくこととなった。こうして国内を統一する力を失った後漢政府は、当然のことながら周辺諸民族への影響力をも失ってしまった。東方では、高句麗が成長し、北方では凶奴の子孫が暴れ始めることとなった。南蛮の諸王や西羌の軍勢もしばしば国境周辺で略奪を行うこととなった。しかも、西涼(現在の敦煌)にあって異民族を押さえる役目の将軍トウタクが政権に野望をもち、軍隊を率いて首都洛陽にのぼり政権を奪取してしまった。その為西域の諸民族はいよいよ力を伸ばしていった。192年、トウタクは部下の呂布に殺されてしまうのだが、そのあとで軍閥抗争に勝ち抜き、中央の混乱を武力で治めて華北を制圧したの人物が後漢の重臣曹操であった。彼は、「三国志演義」によっては悪玉に描かれているが、実際は後漢末期の動乱で荒れた農村を復興する為に屯田を興したり、極力兵を使わず政略によって天下統一を試みたりする等なかなかのすぐれた政治家、政略家であった。

【「後漢」衰退時代】
 この頃、韓国の動乱、倭国の動乱が記録されている。「後漢書倭伝」は「桓霊の間、倭国大乱」と記す。「魏書倭人伝」は「住むこと七、八十年、倭国乱れ相攻伐すること歴年、長い間盟主無し」、「今昔物語」等は「文,漢人と秦人が連携して奴国等の呉人の国と戦う」と記す。「中平□年」の紀年銘をもつ奈良県天理市東大寺山古墳出土の大刀は、この時期にもたらされたらしい。

 この後、卑弥呼が共立されて王となっている。卑弥呼が共立される前に、倭面土国王帥升が消息を絶っている。「塚田の邪馬壱国大和説」は次のように記している。
 「文.漢氏が出雲から大和へ移動。160~172年頃、卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)を共立して女王と為し、大和(田原本町)で邪馬壱国が成立。秦氏は狗奴国(紀伊)や河内に首長として入る」。

 1961年、天理大学付属天理参考館が奈良県天理市の初期の前方後円墳である東大寺山古墳の発掘調査に乗り出し、粘土郭から鉄剣数本が出土した。その中の1本に金象嵌の銘文のある鉄刀が見つかった。銘文は「中平□年 五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下*不祥」と解読された。中平は後漢の年号で西暦184~190年である。金象嵌がある鉄剣の出土は中国でもきわめて稀で、製作は特殊な場合(遠征将軍や遠地太守の任命など)に限られるという。金象嵌がある鉄剣が和珥氏の地元である奈良県天理市の東大寺山古墳から出土したことは畿内豪族の漢王朝との交流を物語る。なお、倭国の乱が光和年中とすると、卑弥呼が共立の直後に漢に遣使して中平紀年銘の秘宝剣を授けられた可能性が出てくる故に邪馬台国大和説の有力な証拠となる。

 196~220年、「魏志韓伝」遼東太守公孫度が、楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡となす。 韓や倭は帯方群に属していた。

 196年、曹操、後漢の献帝を擁して許に都し、屯田制を設ける。この頃、中部ブェトナムに林邑国建国。208年、赤壁の戦い、劉備.孫権、曹操を破り、中国3分の形勢となる。

 204年、公孫康が帯方郡を新設し、韓、ワイを討伐する。

 アジアでの後漢の優位はそれからも暫く続いたが、二世紀に至って桓帝.霊帝の時代(132~189年 )を通して後漢は衰運に向かうこととなる。宦官勢力の伸張によって後漢の政界は急速に腐敗していくこととなった。皇帝の后たちに仕える宦官が、裏から動かす力を持つようになったのである。まじめな役人は宦官の不正を正そうとしたが、朝廷の政治を握った宦官に「党人」と呼ばれ、逆に弾圧されてしまう。党人とは群れて不正をする者という意味である。166年と169年の二度にわたって、「党錮の獄」と呼ばれた党人への大弾圧があり、これに成功した宦官はさらに専権をふるうようになった。宦官は賄賂を好んだ為に、地方官たちは農民に重税を課し、贈賄して出世をはかったその為、土地を失う農民や貧窮にあえぐ農民が国中にあふれることとなった。

【「魏、蜀、呉の三国志」時代】
 220~222年、魏.蜀.呉の三王朝相次いで成立。220年、軍閥の実力者曹操の息子の曹丕が献帝からの禅譲により帝位につき後漢の時代に終止符を打ち「魏」王朝を建国した。曹丕は文帝(在位220~226年)と称し、黄初と改元して都を洛陽に定めた。こうして三国対立の時代が幕開けした。実質的には曹操が華北を制圧した段階で、三国時代が始まったといってよい。中国では、帝位をめぐる争いがしきりに起こり、いくつもの王朝が交代した。しかし、三つの強国が並んで互いに天下を争った時期はこのときだけである。こうして「魏」は揚子江の北部を拠点として華北一帯を領土とし強勢を誇った。

 ところで、曹操と対立して四川地方で独立し、「蜀」(221~263年)を興したのが、後漢の王室の血を引くと云われる劉備であった。劉備が、軍神と云われた関羽、酒飲みの豪傑張飛の二人と義兄弟の契りを結び、彼らの武勇と軍師として迎えた諸曷孔明の軍略に助けられて、しばしば曹操の大軍を悩ます話は有名である。「蜀は今日の重慶とか成都等揚子江の上流奥地いわば西方を拠点とした。

 一方江南地方の名門出身の孫権は、魏の南の江南一帯を支配とする
「呉」(222~280年)を興すこととなった。呉の時代には、「六朝文化」と呼ばれる、華北とは異質な江南特有の文化が生まれた。 

 この時代、朝鮮半島も倭国もやはり激しく動いていた。東アジア全体が動乱の時代であったともいえる。邪馬台国を考察するにあたりこうした時代背景を抜きには語れないことに注意を喚起しておくべきことと思われるこうして、後漢の時代を経て、220年から265年までの中国には「魏 .呉.蜀」の三国が鼎立し、われこそは中国の覇者にならんとして三国は激 しく争うこととなった。この当時の戦乱の時代を活写したのが「三国史」である。ところで、三国が睨みあいながらも、中国全体としての政局は安定し、そうなると三国はいずれも周辺の異民族に目を向け始め出した。

 後漢時代の終わりに失った漢民族の支配圏を取り戻そうという動きでもあった「呉」はベトナム.カンボジア方面に南下策を取り、蜀は雲南(ビルマの北方)やチベット方面に進出した。

【「魏」の隆盛時代】
 「魏」は、呉、蜀に劣らぬ最も積極的な外征策を取った。220年、魏の祖たる曹操が死んだ。曹操は姦雄として悪名が高いが、生前は魏王にとどまり後漢の臣下という形式を保っていた。曹操の死の直後、長子の曹丕が相続し、後漢の最後の皇帝献帝を廃嫡させ、自ら文帝と称し魏を建国した。こうして魏・蜀・呉の三国時代が始まった。曹丕は、曹真と司馬いの二人の将軍の活躍により勢力を拡げていった。曹真は、曹氏一族の出身で、曹操から大変可愛がられ、文帝の弟のようにして育てられた。文帝は、この曹真に、蜀との抗争の最前線であり、しかもシルクロードの入り口にあたる西安の防備を命じた。曹真は、西安に趣くと、西域の諸国に働きかけて魏の勢力を西方に伸ばし北方から蜀を圧迫する態勢をつくりあげた。

 226年、文帝が没すると、文帝の長男の明帝(226~239)を助けながら西域経営をさらに進めていった 。こうして229年には、クシャナ朝のヴァースデーヴァ王が朝賀する程に至った。クシャナ朝はアフガニスタンに本拠を置くインド系の王朝で、「ガンダーラ文化」と呼ばれる高度な仏教文化を生み出した大国でもあった。 他方で、司馬いは(字を仲達と云う)元々曹操に仕えていた軍略家として頭角を現わしていった。文帝の死の五年後に曹真は病没してしまうが、それからまもなく蜀の諸曷亮が魏に攻め込んで来た。これに対抗して陣頭指揮を取ったのが司馬いであった。有名な五丈原における対峙の陣である。この戦闘は234年、孔明が死ぬまで続き、最終的には司馬いの働きで蜀の侵略は食いとめられた。五丈原の戦の時、「死せる孔明生ける仲達を走らす」の名句が生まれている。諸曷亮の死後、蜀は次第にその力を弱めて行く事となり、魏は安んじて矛先を東方に転じることとなった。


 この時代、王沈の「魏書」が著される。続いて魚拳の「魏略」が著される。

【「遼東半島に公孫氏政権誕生」、やがて滅亡させられる】
 2世紀の終わり頃、後漢は衰微し群雄割拠の時代になった。この時、遼東半島に公孫氏政権が誕生している。倭国史に相当絡んでいるので、その興亡史を確認しておく。(「景初2年の証明01」その他を参照する)

 189年、正平年間の末期、丞相の董卓が、公孫度を、地方官吏として遼東半島の大守「襄平太守」に任命する。遼東の下級役人の出自だった度は、「郡中の名豪大 姓の不法を按誅し、百余家を夷滅」するという荒療治により遼東の有力者100名近くを始末し、支配の地固めに成功する。外交軍事攻勢により東は高句麗を討ち、西は鳥桓を撃ち、その宗女を夫余に嫁がせ中立を守らせる等着々と影響力を蓄えていった。

 
190年、度は、「漢の命運は尽きようとしている。今こそ、諸君らとともに王座を狙うべきだ」と述べ、遼東郡を分割して遼西、中遼郡を設置して太守を任命する。海を渡っては東莱郡の諸県を手に入れて営州刺史を置く。漢の支配からの独立を目指し、自ら「遼東侯平州牧」を名乗り始め、地方王としての権勢を振るうこととなった。父親の公孫延に律儀候を追号した。こうして、魏の西北に公孫氏政権が誕生した。公孫度を懐柔するしかなかった後漢政府は、武威将軍永寧侯に取り立てた。度は、「私は遼東王だ」と述べ、「独立国の王に対してこんなものを送ってよこすとは」と文句を言いながら送られてきた印綬を叩き返すでもなく捨てるでもなく武器庫にしまいこんだという。その後の度は、天子然とした立ち居振る舞いをする。初平年間(190-193年)には、遼東郡を分割し、遼西、中遼それぞれに大守を置き山東半島までも手に入れた。

 204年、度が死す。子の公孫康が度の跡を継ぎ、弟の恭を永寧郷侯とする。康は、曹操に追われた袁尚が遼東に逃げ込んできた時、その首を斬って曹操のもとに送り届けた。この功によって襄平侯に取り立てられ左将軍に任命された。康の時代、朝鮮半島へ進出し楽浪郡を手に入れ、東方の異民族と積極的に交流をもった。公孫康はやがて紀元200年代もしくは210年代に、楽浪郡の南の京城に帯方郡を置くこととなった(楽浪・玄菟の二郡を手中におさめる)。朝鮮半島を再支配する為であった。帯方郡は水利の便を考えて、大同江の河口に南から流入するサイネイ江の上流に置かれた。「三国志」によると、それによって倭国や朝鮮半島南部の小国家(いわゆる馬韓.弁韓.辰韓の三韓)が帯方郡に従ったと記されている。


 220(黄初元)年、魏で、曹操の子の曹丕が天子の座に就いて文帝となる。221年、康没。子の晃と淵が幼少のため群臣によって康の弟の公孫恭が遼東太守に擁立された。魏の文帝は、公孫恭を車騎将軍・仮節に任命し平郭侯に取り立て、兄の公孫康に大司馬の称号を追封した。公孫政権を討伐する余裕がなかった故の懐柔策であった。221年、劉備と孫権が続けて王を号して、魏蜀呉の三国鼎立なる。公孫恭は、この期に乗じて王を号して燕を興こそうとしたが果たせなかった。但し第四勢力の地位を保ち続けた。

 227(太和元)年、魏の文帝亡きあとを受けて明帝が即位する。228(太和2)年、康の子の淵(在位228-238年))が、恭が太守たる資質に欠けるとして 位を奪い公孫氏政権四世となる。魏の明帝は、淵を楊烈将軍・遼東太守に任命し、淵に来朝を命じたが、淵はこれに応じず、燕王を僭称して、百官を設け、年号を紹漢と定めた。この時代が卑弥呼の時代である。

 この頃、呉の孫権が高句麗と同盟を結んで魏の北方を撹乱させ、遼東をも襲わせようとしていた。淵は、呉に対して、孫権を持ち上げる長々とした上表文を送った。孫権がこれに応えて公孫淵を燕王とし、金・玉・宝物をおくった。237年、「魏書公孫伝」では、「景初元年7月、遼東太守、公孫淵が自立して燕王と称す」。淵政権の経過を見てみると、公孫恭の位を奪い取って帝位に就いた経緯も含めて当初より内紛を抱えていた。公孫政権は常に魏と呉との狭間で翻弄される宿命を負っていた。淵政権は、表面上は魏に服属しながら魏敵の呉との同盟を計ることにより政権延命を必死にはかろうとした形跡がある。 


 淵は、孫権に封爵使節を派遣するよう誘い、孫権は、400名の兵士と600名の交易商人からなる1000名規模の使節団を編成し、使節に封爵儀式に必要な文書・九錫・印綬・官服・什器、割り符、その他、珍品・財物を持たせて遼東に送った。ところが淵は、呉の使節代表の張弥、許晏、万泰、裴潜の4名を殺害。残る随員、兵士、交易商人らも奇襲して殺害した。そうして、呉の使節代表4名の首に「逆賊・孫権をしてやったり」という内容の文書を添えて魏に送りつけた。

 魏は、公孫淵の呉と魏二股政略を見抜いていた。淵の持節と太守の地位はそのままに大司馬・楽浪侯を追封すべく、封爵使節団を遼東に赴かせた。偵察ないしは暗殺をも使命にさせていた。財政報告のために洛陽に出向いていた公孫淵の計吏(会計担当官吏)が魏の計略を見抜き、封爵使節団よりも一足早く遼東に帰還し淵に報告する。淵は暗殺を警戒し、学校を会見場に設定して封爵使節を滞在させ、完全武装した兵士に囲ませたうえで応対した。洛陽に帰還した封爵使節は、迎賓殿で対応しなかった非礼も含めて、「淵に恭順の姿勢見られず」と報告した。


 魏は、公孫政権討伐を決意し、遼東郡の官民に公文書をおくり、「公孫淵の脅迫に屈するしか手段がなかった者、賊・孫権の使者とかかわった者はみなこれを許す」として、遼東郡の本来の領有者である魏に帰属するよう啓発する。この頃、蜀の名参謀であった諸葛孔明が死に、蜀は衰退した。兵力を西部戦線から東部に移動できるようになった魏は公孫氏の討伐に着手する。

 237(景初元).7月、魏の明帝は、中原の北方を荒らし回る高句麗対策を口実に幽州刺史の毋丘儉に魏と鮮卑・烏丸の連合軍を統率させ、遼東の南境に駐屯させた。そして、毋丘儉に委ねた詔書によって公孫淵を洛陽に召喚しようとした。淵はこれを蹴って、軍隊を発して毋丘儉の軍勢を追い返した。この年、帯方郡や楽浪郡は魏の影響下に移ったが、公孫氏の討伐そのものは失敗した。

 その後、淵は自立して燕王を名乗り、百官有司を置いて年号も紹漢元年とし、魏朝への財政報告も貢献もやめた。そうする一方で、主だった郡官789人の連名で魏朝廷に上書させ、自立の正当性を延々と述べさせた。その一方で、鮮卑族を手なづけて周辺の異民族を支配させ、魏の北方を荒らし回らせた。これに対して、景初中のこと、魏の明帝は密かに帯方郡太守に劉書怐A楽浪郡太守に鮮于嗣を任命して、密かに(遼東の背後の)海を越えて帯方郡と楽浪郡の二郡を平定させている。


 238年(景初2)年、「景初二年一月、魏の明帝は司馬宣王(司馬仲達)に公孫淵の討伐を命じた」(「魏書公孫度伝」)。司馬懿が本格的な討伐軍四万名を率いて洛陽を出立する。群臣たちは軍費がかさむことを理由に「いくら何でも多すぎます」と異論を唱えていたが、明帝の意思は断固としていた。晋書帝紀の青龍4年の項は、明帝が司馬懿に「この件は君に労をかけるには不足だろうが、事に必ず勝ちたいと思う」と述べていることを記載している。魏志の明帝紀中に、干宝の晋紀から引用した「公孫淵討伐の作戦会議での明帝と司馬懿の次のようなやり取り」を記している。これを確認する。
明帝  公孫淵はどんな戦法をとるだろうか。
司馬懿  淵が城を棄てて事前に逃走するなら、それが淵にとって最上の策です。遼水を防衛根拠として抵抗するなら、それが第二番目の策です。そのまま襄平で守りを固めるなら、生け捕りになるだけです。
明帝  では淵は、その三つの策のどれを使うだろうか。
司馬懿  優れた知恵を持つ者なら、形勢を読んで事前に城を棄てるでしょうが、淵にそんな知恵はありますまい。優れた知恵を持つ者なら、形勢を読んで事前に城を棄てるでしょうが、淵にそんな知恵はありますまい。

 淵は、呉の孫権に自らを臣と呼んでへりくだり、詫びを入れると同時に援護を要請した。孫権は公孫淵の使者に告げた。「必ずや書簡の通りにしよう。淵と喜びと悲しみを一つに、存亡をともにしよう。たとえ中原の地で命を落とすことになっても、私は本望である。ただ、司馬懿は神威のごとき勇者だからして、私は淵のために深く憂慮するものである」。

 魏の司馬いの率いる四万人の軍兵が首都襄平城(遼陽市)を包囲する。淵は、背後の楽浪郡や帯方郡に撤退できず襄平城に籠城する。景初二年八月、襄平城が陥落させられ、独立小国家として自立していた公孫氏は滅ぼされた。「首都襄平で20万人という大虐殺」が記されている。公孫氏勢力は三世四代のわずか半世紀ばかりで命脈を断たれ、中国全体から見ればごく小さな地方政権にすぎなかったとはいえ、東アジア史の上からは見落とすことができない重要な影響力をもたらした政権であったといえる。

 238年、「魏書韓伝」は次のように記している。
 「景初二年?月、劉听と鮮于嗣がひそかに海を渡って楽浪、帯方郡を急襲。魏が両郡を攻め落とし楽浪.帯方2郡を領有する。劉听は帯方太守となる」。

 
司馬仲達の台頭著しく、その影響力の増大を防ごうという工作のために一波乱があった。西部戦線に向かわせられたが、その政争にも勝利して司馬仲達が洛陽に凱旋したのは239年(景初3年)の12月、即ち卑弥呼が魏に遣使した年であった。この年、司馬仲達は即位直後の幼帝を擁して魏の実権を握り、十数年後に子の司馬炎が魏を乗っ取って晋朝を開く基礎を作ることになる。

【三国志】
 晋が天下を統一した太康年間(280-289)年、陳寿(233~297)の撰で「三国志」が著されている。華北の魏について記した魏書三十巻(通称、魏志)、華南の呉について記した呉書二十巻(通称、呉志)、長江(揚子江)の上流四川を中心にしていた蜀の蜀書十五巻(通称、蜀志)の全六十五巻からなる。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220~280)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。

 東夷伝の倭人の条を魏志倭人伝と云う。東夷伝には、扶余高句麗東沃沮?婁?馬韓辰韓弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。

 倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなかったのにも関わらず、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書なのに、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。

 裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。

 東夷伝の韓伝冒頭は次のように記している。

 「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
 (和訳) 「韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり」。

 日本書紀は次のように記している。

 「景初二年六月、卑弥呼の使者難升米、都市牛利が公孫淵の独立を祝賀するか、あるいは軍事援助を要請するため帯方郡に到着、実情を知った難升米は、急遽、魏へ向かうことにして、対方 太守、劉听(劉夏)に案内を求めた(中国へ派遣された漢氏の祖、阿知使主、都加使主が道を知らなかったので高麗王に案内を求めた」。

 「魏書公孫度伝」では、「景初二年?月、難升米が洛陽に到着」。「魏書倭人伝」では、「景初二年十二月、魏の明帝の制詔が下され、卑弥呼を親魏倭王となし、難升米 を引見してねぎらうことが發表された。「魏書明帝紀」では、「景初二年十二月八日、明帝、病に倒れる」。呉の「赤鳥元年」(238年)の紀年銘をもつ画文帯神獣鏡が、山梨県西八代郡の鳥居原きつね塚古墳から出土している。


【「邪馬台国の女王卑弥呼から朝賀を求める使節が送られて来る」】

 この結果、魏は朝鮮半島北部までをその支配下に置き、帯方郡は魏の直接統治のもとに置かれ、引き続き東夷政策の拠点となった。しかし、朝鮮半島南部は部族間の争いの唯中であり、魏に属そうとする動きはなかった。むしろ中国東北部から沿海州にあった「わい」や「東よくそ」、「高句麗」等は反抗的でさえあった。

 こうした折、司馬いが公孫氏を滅ぼした直後、翌239(魏.景初3).6月、最も遠方の倭の國邪馬台国の女王卑弥呼が、大夫の難升米らを帯方郡に派遣し、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守、劉夏は、難升米らを魏の都、洛陽へおくる(魏志倭人伝)。卑弥呼が魏に遣使した景初3年というのはこういう激動の年だった。これは絶妙なタイミングだった。当時の倭国は大陸の微妙な情勢を的確に把握していたことになる。

 このとき使者は、かっての中国の王朝である「商」の国の役職を名乗っている。これについて深く分析した人はいない。どういう理由で、日本の使者が、当時から見て600年も前に滅んだ商の役職を名乗ったのか判らないが、言えることは、日本には、商の時代の政治の慣行が残っていたということである。それはともかく、このまことに時機を得ていたと思われ、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を授けられた。この待遇は西方の大国クシャナ朝のヴァースデーヴァ王と同格の優遇であった。

 明帝は詔して、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を授ける。また難升米を率善中郎将、副使の牛利を率善校尉とし、銀印青綬を授ける。卑弥呼に銅鏡100枚などを与えている(魏志倭人伝)。「景初三年」の紀年銘をもつ神獣鏡が、大阪府和泉市の黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。親魏倭王とは属国ではなく対等に近い破格の待遇をしていることになる。その背景として、魏の対呉戦争上、倭国を重視したと推料されている。

 邪馬台国が入朝してまもなく、周辺民族に対する魏の優位が確立し、呉や蜀の侵入も治まり、次第に司馬いを中心とする司馬氏一族が、魏の政治の実権を手中に治めていくこととなった。明帝の没後、斉王の曹芳が跡を継いだ。司馬いは一時名誉職に退けられたが、249年にクーデターを起して、曹真の子曹爽を討ち曹氏一族の力を弱め、この間、司馬いの息子司馬昭が、263年に蜀を滅ぼした。
 240(魏.正始1)年、帯方郡の太守,弓遵、建中校尉の梯儁らを遣わし、詔書と親魏倭王の印綬を倭国にもたらす。倭王、魏の使に託して上表する(魏志倭人伝)。「□始元年」の紀年銘をもつ三角縁神獣鏡が、群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳から出土している。

 242年、「魏書高句麗伝」では「魏は高句麗王の位宮と戦う」。

 243(魏.正始4)年、「魏氏倭人伝」、「魏書三少帝紀」では「正始四年十二月、卑弥呼は伊声耆等を魏へ派遣。木拊短弓を献じ、軍事援助を要請。倭王、大夫の伊声耆.掖邪狗ら8人を遣わし、生口.倭錦などを献じる。12月、魏の少帝、掖邪狗らを率善中郎将とし、印綬を授ける(魏志倭人伝)。

 244年、魏の母丘倹,高句麗の丸都城を攻略する。(呉.赤鳥7)「□鳥七年」の紀年銘をもつ画文帯神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土している。「魏書三少帝紀」では「正始五年二月~五月、魏は蜀を攻撃。倭のことは対処出来ず」。

 245(魏.正始6)年、魏の少帝、倭の難升米に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏志倭人伝)。「魏書?丘倹伝」、「魏書東沃沮伝」では「魏は再び高句麗王の位宮と戦う。幽州刺史の命を受け、玄菟太守は東沃沮まで位宮を追って日本海に達した」。

 246(魏.正始7)年、「魏書韓伝」では「正始七年、魏は辰韓八国を楽浪郡に編入しようとしたことが原因で馬韓と戦う。五月、馬韓(箕氏)を滅ぼしたが、帯方太守弓遵が戦死(五月以降)(主家を失った馬韓は統制のとれない群雄割拠の混乱状態に陥る)。「日本史年表」では、「246年、韓の那奚など数十国、魏に服属する」。

 247(魏.正始8)年、「魏書倭人伝」では「正始八年、玄菟太守、王?が帯方太守に転任。卑弥呼は狗奴国と戦い、帯方郡に急使を派遣して軍事援助を要請した。それを受け塞曹掾史の張政等が倭に派遣され、帯方郡が預かっていた難升米の黄幢が届けられた」。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と対立していたが、倭の載斯鳥越らを帯方郡に派遣し、狗奴国との交戦を告げる。魏は、塞曹掾史の張政らを倭に派遣し、詔書.黄幢を難升米に与え、檄をつくって告諭する(魏志倭人伝)

 つまり、大和朝廷初代の崇神天皇(321)と壱与(300)との年代差は21年で、あまり変らないことになる。壱与が何事もなく天寿を全うしたという前提付きでそうなる。大和朝廷の一代が二十年という計算は過大と思えるので、実際は、もう少し開いていたかもしれない。それでも一、二世代の違いでしかない。邪馬壱国は壱与の死後、求心力が衰え、一、二代後に滅びたと考えられる】

 248(魏.正始*)年、卑弥呼死す。径100余歩の冢をつくり、奴婢100人が殺されたという。卑弥呼の宗女、壱与(叉は台与)が女王となり、国中が治まる。魏使の張政ら、檄をもって壱与に告諭する。壱与は、倭の大夫、掖邪狗ら20人を遣わして張政らをおくらせ、生口30人、白珠5000孔などを献じる。魏志倭人伝)

 249年、「新羅本紀」では「沾解尼師今の三年、倭人は昔于老という王族を殺した。于老が倭国の使者に「そのうち、おまえの国の王を塩作りの奴とし、王妃を飯炊き女してやる」と戯れて言ったた め、倭王が怒って派遣してきた軍に焼き殺されたもの。倭には男王がいた。「魏書倭人伝」では「男王を立てたが国中が不服でお互いに殺し合い、当時、千余人が殺された。天高市神社近くの蘇我川=安川?の川原で難升米を中心に善後策が協議された。洞穴に閉じこもった太陽=卑弥呼を再びよみがえらせた(壱与即位のこと)難升米は、後に知恵の神(思兼命)として祭られた」。   

 250年頃、台与が十三歳で即位。男王(開化天皇)と兄の大彦の間で後継争いがあり、卑弥呼時代と同じ形を作る。壱与が女王となり、開化天皇とされる人物が補佐。狗奴国の臣、コウチヒコを懐柔し、大阪を傘下に収める。奈良,大阪のニ方面から紀ノ川河口部の狗奴国を攻撃。コウチヒコは富木を本拠とした藤原氏の祖先。狗奴国は南下して熊野に至る。

 251年頃、台与が洛陽に遣使し,台与の地位が確認された。

 262年、卑弥呼や壱与と戦った狗奴国が滅びる。箸墓の完成?。「新羅本紀」---新羅で味鄒尼師今(在位262~284)が即位。金氏。邪馬壱国(文.漢氏)同族。
 263年、晋書宣帝紀」「魏書倭人伝」---景元四年11月、司馬昭が魏の相国となる。
  ---?月、壱与が使者を派遣し、張政等を送る。生口、勾玉、真珠を献上。魏志倭人伝末尾に記される。生口は狗奴国の首長階級と考えられる。
 264(咸煕元)年、春---壱与再び遣使。壱与はこの頃二十代前半。夏---張政を送った前年の使者が帰国。冬---春の者が洛陽到着。
 265年、泰始元年春、壱与遣使。「晋書宣帝記」。

【呉書】
 呉書は、呉の韋昭(260年頃~)の撰。全55巻。

【「西・晋」時代】

【「西・晋」時代】
 265年、司馬昭の 子司馬炎が、魏の皇帝を追って(魏が禅譲して「晋」(西晋)を建国し、帝位についた。8月、司馬昭が死亡。司馬炎が相国と晋王の地位を相続。「晋書武帝紀」「晋書倭人伝」十二月、司馬炎が魏に代って西晋を建国し、泰始と改元。壱与の使者はこの王朝交代の式典に参加し、晋書倭人伝に記された。司馬炎は武帝(在位265~290)と名乗る。

 280年、西晋が内紛の続く呉を併合した。こうして、司馬炎により三国の動乱に終止符が打たれ中国が再び統一された。後の東晋(317~420年)に対してこれを西晋(265~316年)と云う。

 魏.晋のこの時代には、中国北.西部の「五胡」と呼ばれる異民族の勢力も伸張した。五胡は、「凶奴、けつ、鮮卑、てい、羌」の五族を云う。

 「晋書」 は、四夷傳東夷伝と帝紀・武帝紀に倭、邪馬台国についての記述がある。この時代、陳寿の「三国志」が著される。

 266年、(西晋.泰始2)春、又は11月、倭の女王壱与は再び使者を派遣。西晋に朝貢。倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。前年の使者はまだ帰国していない。夏頃、泰始元年の使者が帰国。魏が滅ぼされたことを知って怒り、壱与は中国との交流を断つ。 

 「晋書武帝紀」11月5日、春の使者が洛陽到着。「倭人来たりて方物を遣ず」。 

 270~280年、大和朝廷の祖先(ホノニニギ尊)が、侵入してきた秦氏を破り、高千穂から海岸部へ下がって日向を支配(天下り)。鹿児島県の笠沙まで勢力伸張。

 280年、西晋が呉を滅ぼし統一帝国が成立した。しかし,西晋には七王の乱などがあって混乱する。 

 284年、新羅で儒礼尼師今が即位(「新羅本紀」)。  

 287年、倭人が侵入。(壱与が新羅王家交代に反発)以後、294年まで倭人の侵入続く。

 289(太康10)年、「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」と記している。

 壱与は大彦を北海道、建沼河別を東海道に派遣。両者は会津まで進軍し所領を広げる。
 
 299年、壱与死す?
 3世紀後半~4世紀初、この頃、日本列島の各地に四隅突出型方墳など地域色の強い墓制があらわれ、古墳発生への胎動がみられた。また前方後円墳的な墳丘を構築するものがあらわれた。畿内から瀬戸内海沿岸にかけて古墳が出現する(岡山県湯迫車塚.兵庫県吉島古墳.京都府元稲荷古墳.同椿井大塚山古墳.奈良県箸墓古墳など)(鳥取.西桂見墳丘墓、大阪.加遺跡、千葉.神門四号墳) 

 奈良盆地東部の三輪山のふもと近くに祭祀色の濃い大集落を形成し、九州から東海、関東にいたる地域と交流をもった。(奈良纏向石塚古墳、奈良纏向遺跡) その後三輪山のふもとに巨大な前方後円墳が出現した。石室は大阪の芝山の玄武岩をはこんでつくった。(箸墓古墳)。奈良盆地には、箸墓古墳を 始め、崇神陵景行陵など多くの大型前方後円墳が集中している。

 奈良盆地に桜井茶臼山古墳.メスリ山古墳.崇神陵古墳.景行陵古墳など大王クラスの大型前方後円墳が集中する。長大な竪穴式石室を埋葬施設とする。副葬品として、呪術的な鏡.玉.剣.石製品のほか鉄製農工具がみられる。特殊器台形土器.壷形土器から發達した円筒埴輪が盛行する。弥生土器の流れをくむ土師器が畿内地方でつくられ、しだいに各地に普及する。福岡県沖ノ島でさかんに祭祀が行われる(平安時代のはじめ頃までつづく) 器材埴輪.家形埴輪が現われる。日本列島ではこの頃、畿内に古代国家生まれた。朝鮮加羅の渡来集団。古墳時代が始まつたのもこの頃。加羅系渡来集団は、北部九州からやがて瀬戸内海沿岸を経て、畿内に本拠を占め、 四世紀中頃には奈良盆地の纏向の地に王都を置く古代国家を建設することになる。

 倭の始祖王は、日本書紀 に「御肇国天皇』と書かれている崇神と思われる。纒向遺跡は卑弥呼ないしは崇神の王都であり、墓は年代.位置.規模からみて纒向の地にある巨大前期前方後円墳の箸墓古墳と推定される。倭国は、東日本の一部と西日本の小王国、および、加羅地域の小王国からなる大きな連合王国であり、卑弥呼ないしは崇神を始祖王とする畿内の王国がその盟主国であったとみられる。記紀と「宋書」から崇神王朝の系譜を復元すると、崇神ー垂仁ー景行ー讃ー珍ー済ー 興となる。

 この頃の政権を「ワ族」と云うのではあるまいか。天皇族とは「異種族」である。「ワ族」は卑弥呼-トヨ時代後に「倭の五王」に征服されたのかも知れぬ。あるいは卑弥呼-トヨ政権の側の王かも知れぬ。いずれにせよ、「倭の五王」は「武」の時代で終り、次はいよいよ 天皇族が覇権を掌握することになる。これに伴い、後年、倭は日本と改称することになる。

 初めてわが国の国王として国際に登場したのは、卑弥呼である。その前には、徐福や出雲の権力者そしてエミシなどの存在が考えられるけれども、やはり卑弥呼が第一位であろう。卑弥呼は純粋の「カタカナ人」であり、その「カタカナ言葉」、所謂、平田篤胤の「やまとことば」で呼称されていたと思われる。その「ヒミコ」を「卑弥呼」と漢字で表音記録されたのが「魏志倭人伝」ということである。ヒミコからイヨの時代までは、まだカタカナ言葉が国の言葉であったのであろう。そこへ「漢字国人」がカタカナ国を統一し「日本国」を誕生させたということになるのだろう。この「ヒミコ.イヨ」というカタカナ国から「神武」の漢字国に変化したこと、ここが政治的には「王朝交代」ということになるのである。欠史八代は「ヒミコ」が代表するカタカナ国であり、それから「神武」が代表する「日本国」へと交替した。「カタカナ国」と「日本国」とは、かくのごとく別種の一大政変だったと思われる。





(私論.私見)