邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).9.27日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、邪馬台国研究のもう一つの意義について確認しておく。 2008.10.30日 れんだいこ拝 |
【邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について】 |
邪馬台国研究のもう一つの意義について確認しておく。「邪馬台国比定諸説論争史(1)概括」、「邪馬台国比定諸説論争史(2)論争史」でも説き分けたが、邪馬台国論には異論のつかない箇所がない。僅か2千文字の解釈を廻って、これほど喧々諤々される学科は他には見当たるまい。そういう性格を持つ邪馬台国研究は、「歴史的」邪馬台国論とは別に「論証的」邪馬台国論の意義をも持つとみなすのが、れんだいこ見解である。案外、邪馬台国研究の後者の面での意義が疎かにされている。 れんだいこは、邪馬台国研究に新局面を開きつつあると自負しているが、邪馬台国の比定を確かなものにする意義よりも、邪馬台国比定に向かうプロセスの論証能力の方に、より大きな価値を見出している。これを仮に「邪馬台国論証力」と命名すると、これを磨くことが同時に他の課題の推敲にも役立つ万能刀のような気がしている。これを逆に云えば、「邪馬台国論証力」を磨かない者による他の課題への論証は、「邪馬台国論証力」の乏しさに相応しく粗末なものにならざるを得ない、あるいは他の課題に於いて論証能力の低い者が邪馬台国論証に精出してみても、他の課題に於ける低い論証力の焼き直しにしかならない、そう思っている。 そういう意味で、論証能力を鍛えねばならない職業にある者、例えば政治家とか司法家とか一言居士者には格好の教材として邪馬台国研究がある、こう云いたい訳である。これらの立場にある者が邪馬台国研究に向かわないのは、宝の山捜しを自らネグレクトしている気がしてならない。それは俗に、勿体ないと云う。何時の世も、責任ある立場の者は、一級の頭脳で立ち向かわねば責任を御せない。現代政治の貧困は、二等、三等頭脳で御しているところに起因しているのではあるまいか。そうであるなら、そういう者は普段より邪馬台国研究で頭脳を磨いておかねばならない。ここに、邪馬台国研究に向かわざるをえないゆえんがある。 他にも格好教材がある。れんだいこが推奨するのは、宮顕リンチ事件、ロッキード事件である。この二例は、邪馬台国研究と違って或る特定の事件を廻る真偽判定である。故に焦点が定まっている。但し、相反する見解がそれぞれ伽藍のごとくに形成されており、判断力と論証力なしには結論に辿りつけない。それぞれが最終的な見解に至るには、いろんな情報の中から一つ一つ真偽を見定めつつ最終的な或る結論に辿りつかねばならない。その間の論証は、他のいろんな教材よりも群を抜いて難しく内容が濃いものとなっている。故に、志ある者は探索に向かわねばならない。この種の難題は他にもホロコースト、南京大虐殺、百人斬り、従軍慰安婦等々の事件がある。 もとへ。そのようにして鍛えた論証能力を持ってすれば、他の教材を解く際に大いに役に立つ。それは、山の頂上の登った者が登山の行程を顧みて批評する技に等しい。そういう意味で、我々は、難題中の難題と思われる課題にこそ思索を凝らさねばならない。思えば、数学者が難解定理に挑む姿は同じなのではなかろうか。だがしかし、世の相は、これと反対のことばかりしている気がしてならない。一度たりとも論証能力を磨いたことのない連中が、いろんなところに首を突っ込みピンボケ評論しまくり書き散らかしている。そういうものに肩書がつくから、世間の人は信用して、他愛のない説に振り回されている気がしてならない。その式のものが定説、通説となっているから、そういう定説、通説を幾ら学んでも賢くならない。否却ってバカになると云った方が良いかもしれない。 ご丁寧なことに、そういう定説、通説愛好論者に限って著作権棒を振り回す癖がある。妙に相関しており、これも論証すれば辻褄が合っている。ところが、彼らが力説するところの関係著作権法を読んでみれば、本来は「引用転載につき条件付きで可」と規定しているものを、現代強権著作権論派は、「事前通知、事前承諾、要対価制」へと捻じ曲げていることが分かる。そもそも己の知の偏狭さを解き放つべく知的営為に向かえば良いものを、そういう努力をネグレクトして、さほどでもない書き物を勿体ぶって振り回し、「盗られた盗られた」とバカ騒ぎにうつつを抜かすのを得意としている。そういう結果が回り回って知の貧困化へ道を開くことを承知しながら、敢えて「法以上の規制」へと向かわんとしている。漬ける薬のない手合いということになる。 そこには著作権利権鉱脈が横たわっており、この金鉱のまばゆさに脳が眩んでいるのだろうか。れんだいこには解せない。現代強権著作権論派の著作権理論は、論証能力を高める上での邪道理論でしかない。かようなものに染まるに応じて我々の論証能力は堕ちて行くことになる。世の中が早く「強権著作権論の迷蒙」に気づいて抜け出して欲しいと思う。 再度もとへ。この混迷の時代、価値観が多様と云えば聞こえの良いものの実は単に価値基準の喪失でしかない時代の知の貧困に抗すべく、我々は、論証能力を高めることに向かいたい。それは、一人では叶わない。弁証法的知的発展は、対話弁証法によってこそ最も効果が高い。つまり、共々で知のレベルを上げて行くことが望まれている。これによって時代を切り開いていくことが望まれている。その為の格好教材として邪馬台国研究、宮顕リンチ事件、ロッキード事件がある。まずは、そのどれかを究めてほしいと思う。こういうことも云っておきたかったので記しておく。 云い足りなかったので補足するが、邪馬台国研究は恐らく最高の知的研鑽教材である。これほどのものは滅多にお目にかかれるものではない。歴史上、多くの者が現に邪馬台国研究に踏み行ったが、その功績の出来不出来は別として、邪馬台国研究の魅力を本能的に知っていたのではなかろうか。奇しくも、れんだいこは、本サイトのトップのイントロで次のように記している。「邪馬台国論の道に踏み入れば入るほどミステリーを深める。れんだいこは今も持論をもたない。しかるに何故に拘るのか。敢えて言えば、思考を鍛えてくれるからであるとも云える。ああでもないこうでもないの宝庫であり、然るに卑弥呼の魅力が頭から離れない。恐らく他の方も同じような思いであろう。つまり、邪馬台国論はある種の中毒性で持って我々の脳を捉える。害がなければ良いことではなかろうか」。 2009.12.22日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評bP104 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 2月13日 |
邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続 邪馬台国研究のもう一つの意義について確認しておく。これが最新の気づきである。「邪馬台国論、同論争の歴史的意義について」で、邪馬台国研究の意義について、邪馬台国と大和朝廷との皇統譜の解明と邪馬台国が存在していた紀元3世紀頃の日本の国体国勢状況を明らかにすることを確認した。「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について」で、「邪馬台国論証力」による論証能力練磨による果実を確認した。 実は、邪馬台国研究にはもう一つの大きな意味がある。それは、紀元3世紀頃の邪馬台国までに形成されていた「原日本の解明」である。このことが如何に重要なことであるのかは、「原日本」がその後の日本史に脈々と今日まで続いていることにある。これにより、祖国日本論を唱える場合に、邪馬台国時代までの原日本と邪馬台国滅亡後の大和王朝時代以降のいわば新日本との識別をせずんば適切を得ないことになっている。このことがさほど重要視されておらず、為に祖国日本論上に於いて多大な混乱を招いているように見受けられる。そういう意味でも実践的な課題となっている。 思うに、戦前の皇国史観とは、祖国日本論上、「原日本」を邪として蔑視し、大和王朝時代以降の「新日本」を正として形成した偏狭な国体論にしてイデオロギーではなかったか。皇国史観は、とかく問題のある日本書紀を絶対教義とし、こちらもとかく問題のある古事記を相対教義とし、この記紀二書を核として他書の都合の良い部分だけを抽出して構築した独特の歴史観ではなかったか。特に、幕末維新、明治維新来の政争で最終的権力者となった長州閥を主とする国際金融資本帝国主義傀儡派による絶対主義的天皇制の確立、これによる好戦主義の御用史学として持て囃されたのではあるまいか。 そうとするなら、戦後史学は、皇国史観を崩壊させ、代わりに皇国史観が押しとどめていた大和王朝前の日本史解明に向かうべきであった。それにより、日本史内の原日本と新日本の内争と拮抗調和、あるいは同化と非同化を見つめての祖国日本論の形成に向かうべきであった。ところが、実際に為したことは、皇国史観を崩壊させたが、同時に祖国日本論そのものをも流産させてしまった。代わりに持ち込まれたのが国際金融資本帝国主義イデオロギーであるネオシオニズムに基づくいわゆる自由礼賛思想であり進歩史観であり、戦争と革命史観であった。それらに興味を持たない者には例えて言えば財テク処世法とでも云える経済ものハウツーのおしゃぶりおもちゃを持たせた。これにより、戦後日本人は、学んでも決して役に立たない情報過多のみの骨格のない無国籍型の歴史通経済通人間に化せられ今日に至っている。 ここまで書けば、邪馬台国研究のもう一つの意義としての新しい祖国日本論の必要が分かろう。日本の国体、日本の精神、日本の情緒、日本の感性、日本の伝統、日本の所作作法を尋ね、現代における日本人としてのアイデンティティを持つ国際人を養成せねばならない。このことが如何に重要かは、現代政治、現代政治家の貧相を見れば分かろう。日本の歴史を知らない、日本史の背骨を持たない政治家に日本の将来を託すことの無謀さが分かろう。饒舌虚言しかはびこらないのも道理ではなかろうか。 最後に「原日本」解明の意義を付け加えておく。「原日本」は、大和王朝以前の更なる昔の日本である。その日本が、歴史をはるかに遡(さかのぼ)る故に未開の野蛮な日本であったと見なしてはならない。国際金融資本帝国主義の進歩史観テキストによればそうなるが、史実はさにあらず。「原日本」は、現代科学の物差しとは秤が違う故に単純な比較はできないが、我々が考えている以上に高度であり、合理的であり、何より今風の言葉で云えば地球環境と親和的共生的であった。或る意味で、現代人より相当賢い精神性の高い、開明的にして高度な文明社会を創っていたと窺うことさえ可能なのではなかろうか。れんだいこには、国際金融資本帝国主義の狡知の方がよほど未開で野蛮にして閉鎖的悪循環的な生態を示していると見なしている。 そういうことを確認する意味もある。地球環境の危機局面を打開する知恵を授かると云う意味もある。世界一言語とも評せる日本語を生み出した知恵がある。その他その他「原日本」が持つ豊饒な良さをもっと知らねばならない。いろんな思いを込めて、日本のふるさとを訪ねるべきではなかろうか。 「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について」 (kodaishi/yamataikokuco/furutaronco/ yamataikokuronco/igico/igico2.html) |
(私論.私見)