邪馬台国論、同論争の歴史的意義について |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2008.11.1日、映画「まぼろしの邪馬台国」が全国一斉に放映される。内容は、昭和40年代に邪馬台国ブームを巻き起こした「まぼろしの邪馬台国」の著者にして盲人の宮崎康平氏の邪馬台国探求の旅史のようである。監督・堤幸彦、主演・吉永小百合、竹中直人。これを機会に、れんだいこの邪馬台国論をもう一ひねりしておく。 2008.10.30日 れんだいこ拝 |
【邪馬台国論の意義についてその1】 |
紀元3世紀頃の日本の国状を記した史書に魏志倭人伝がある。同書には邪馬台国と女王卑弥呼についての詳述が為されている。他方、日本の自前の国史は7世紀に編纂された「記・紀」から始まる。ところが、この「記・紀」に不思議なことに邪馬台国の記述がない。女王卑弥呼についても僅かに神功皇后のくだりに出て来るぐらいで抹殺されている。これは何故か。その理由は不明である。考えられることは、魏志倭人伝がそもそも今日の日本に繋がる歴史を記述したものでないのか、何らかの理由で伏せられているのか、のどちらかであろう。 れんだいこは、「何らかの理由で伏せられている」と読む。その理由までは分からない。云えることは、中国の三国志時代つまり曹操、劉備、孫権、諸葛孔明等々錚々たる人士が活躍していたあの時代に、日本では邪馬台国女王卑弥呼が遜色ない存在振りを示していたことである。魏志倭人伝には、この卑弥呼の特異な能力、日本の国勢図、風俗習慣、法律、社会組織等々が格調高く且つ簡潔に述べられており、極めて意義が高い史書となっている。しかし、それは中国の史書に記載されているだけで、日本の史書には対応する記述が出てこない。オカシなことである。 今日、日本という国家の破局、破滅、溶解が視野に入りつつある。この時、魏志倭人伝を相聞し、古里を訪ねるようにして故事来歴を紐解き、我が国の最も古い時期の日本の国家創世記を知ることは貴重と覚える。綿々と続いてきたこの歴史のうちの何を失ってはならないのか、それを一人一人が胸に治めることが必要なのではなかろうか。「古きを尋ねて新しきを知る」の言葉通りである。 2003.9.11日 れんだいこ拝 |
【邪馬台国論の意義についてその2】 | |
邪馬台国の研究は「日本古代史上の最大の謎(ミステリー)」であり「古代史ロマンの華」である。在野の研究者・奥野正男氏は著書「邪馬台国発掘」の中で次のように述べている。
こういう有り様だからして、在野史家(郷土史家、小説家、宗教家、私学者)が自説を堂々と開陳できる魅惑的な分野となっている。結論として、今日なお甲論乙駁飛び交う論議のただ中にあり、あまたの頭脳を投入しているにもかかわらず解明にはほど遠い学問領域であると踏まえたい。 一説に「新井白石に始まり安本美典で終わった研究史」と云い為す向きもあるが、違う。「邪馬台国研究の決定打は未だない」とすべきであろう。当然、「邪馬台国論争は終わった」だの「邪馬台国論争終結宣言」なる言はすべきでない。れんだいこに云わせれば、れんだいこの新邪馬台国論の登場により新たな段階に入ったのであり、それはまだ「緒に就いたばかり」と云うのが正しい。 その原因は、魏志倭人伝の約二千文字(正しくは1984文字)の記述そのものに内在している。どうすればこれだけ様々の解釈が可能になる記述を為し得るのかと驚嘆するばかりの多義的文言で書かれている。これについては意図的に筆法的書き方が為されているとみなす向きもある。確かに、その解読は、奥深く入り込めば込むほど迷宮入りしてしまう不思議なパズルとなっている。 東西の帝国大学の碩学歴史学者の頭脳をしても解けず、かの高名な推理作家である松本清張あるいは高木彬光、盲目詩人・宮崎康平をしても如何ともし難たかった。逆に云えば、そういう文言ないしは筆法のせいで、この二千文字から何を如何に読み取るのか、未だ各人の自由に任されているとも云える。これまでどれほど「創造」的な読み取りが現れてきたか微笑を禁じえない。それを思えば、邪馬台国論は我々の思考を鍛えてくれる格好素材と云えるかも知れない。れんだいこはいつしかそのことに気づき、歴史学的探究心に加えて論理学的興味をも抱き始め今日なお抱き続けているのではなかろうか。 魏志倭人伝の多義的文言、筆法的書き方は今更どうしようもなかろう。それを踏まえてどう学問するのかが問われている。考古学的に実証していく方法と史料的に考証していく方法とが常道であろうが、どちらの方法にせよ学問的な裏づけを積み重ねて、一つづつの事象を確認していくのが相応しかろう。しかしながら、邪馬台国研究の実際は学閥的に左右されたり、郷土愛的な先入観を第一義にしてみたり、観点に特許を導入して他の論者の介入を斥けてみたりの凡そ非学問的学問作法論法が横行している。 もう一つ大事な方法がある。それは、考古学的実証にせよ史料的考証にせよ、研究成果の共有と解釈方法そのものを共同構築していくことが肝要ではなかろうか。勿論、異説を許容しつつの共認化を求めねばなるまい。邪馬台国研究のお粗末さは、この面が積み木崩しされてしまっており生産的になっていないことにある。いわばお互いが得手勝手に自己の信ずる見解を披露するばかりで、論を蓄積して焦点を精密化するという研究作法が定着していない。人文科学の世界のことである故にある程度は仕方ないにせよ、それにしても度が過ぎているように思えるのは私だけだろうか。これらから気づくことは、従来の邪馬台国論の論争の仕方そのものが問題なしとはなしえないように思われるが如何であろうか。 驚くことに魏志倭人伝約二千文字の解釈において、異説を内包しない通説は見当らないというのが現状である。通説はあるが通説に留まり、極端に云ってどの部分一つとっても定説がない。時に奇抜な着想で在野の研究史家が続々と登場してはいるが珍説の域を出ない。邪馬台国の研究に大きな進歩をもたらした様子も見受けられない。こうしたことの原因に、先ほど指摘したように積み上げた努力をお互いが獲得しようとしない独りよがり作法が横たわっていることを考えざるを得ない。 邪馬台国論の場合、解釈の分かれそうなケ所のどの部分を採ってみても、通説が異説を退けるには足りない範疇においてしか通用していない。こうした場合の便宜として折衷説も飛び出すけれども、事がそれで解決する訳でもない。真偽を質す実証精神のないままに諸説が喧騒し続けているというのが実際である。こうした場合、通説側からは異説を斥ける論証が為されるべきであり、異説を無視したまま通説を語り続ける態度が果たして学術的であろうか。 有名な白鳥−内藤論争にしたって単に並置された説に留まっており、それぞれのどの部分までが一致しており、どこから先に見解が分かれることになっているのかの検証が為されていない。あたかも講座派的な学閥上の争いに取り込まれてしまった観がある。なるほど著名な推理作家の手によっても解明し得ない世界のことであるから、結論を急ぐ訳には行かないというのが実際のところではある。但し、私は、論争の仕方によってはもっと進展が見られる局面もあるのではなかろうかと思っている。 暫く、諸説分かれるところを取上げて見る。邪馬台国論の比定上の最大の関門は、邪馬台国の所在地である。このことに誰しも異存はあるまい。巷間、「九州説.畿内説」の二大説で流布されるが、「九州説.畿内説.その他諸説」の三すくみの鼎立状態で推移しているという認識こそ正しいのではなかろうか。にも関わらず二大説としてのみ流布されている。この辺りからして研究者の恣意的な驕りとそれによる歪みを見てとることができよう。方位にせよ、里程にせよ、諸国の比定地にせよ、女王卑弥呼の見立てにせよ、共通の認識を探ろうとする努力が乏しいまま甲論乙論が得手勝手に論駁されている。 驚くことに、邪馬台国の比定地は百ケ所を越えており、九州は北から中央、南の各県、奄美大島、沖縄の地まで推定されている。四国説も登場してきている。中国地方では出雲、吉備説がある。畿内においては河内、大和、熊野、琵琶湖、丹波、丹後等々。その他国内各地の例えば信州諏訪、房総、越後等々が散見する。更に、国内に止まらず韓国、フイリッピン、ジャワ、スマトラのアジア各地から中近東のエジプト説まである。果ては「邪馬台国はなかった説」となる。 これだけ各地に比定されておりながら相互に何らの検証を為さないということは学問的作法として相応しくないのではなかろうか。それぞれの説にはそれぞれの根拠があってのことと思われるが、倭人伝その他各史書との記述上の整合性を確認しあい、諸説を支える根拠について議論し、成果を抽出できるならば共有し合うべきではなかろうか。 特に、九州・畿内の二大説以外の諸説の場合には、その比定地を支える根拠に首肯し難い面も見られるが、二大説の欠陥については鋭く指摘している場合が多い。特に、大杉氏の四国山上説の場合かなり精緻に言及しており、聞くべきところが多い。とすれば、二大説を唱える者は、諸説の比定地を無視するだけではなく、指摘された二大説の欠陥について正確に反論すべきではなかろうか。こうした相互検証のないままに諸説が諸説として喧騒されるだけの事態は学問的には異様なのではなかろうか。 邪馬台国へ至る行程を確認してみよう。対馬国の比定については現在の対馬で何人も異存なかろうと思えるが、子細については対馬の上島.下島の両島を指すのか片方の島を云うのかについて議論が定まっていない。一支国を壱岐島に比定するには異存は見られないが、一支国の支は大と記述されることもあり、どちらかが書き誤りなのかそれぞれ根拠をもっているのかについても詮議半ばである。ここまではまだしも、この後更にややこしくなる。通説は、末盧国を松浦半島の唐津市辺りに、伊都国を糸島半島の旧怡土郡辺りに、奴国を博多市辺りに比定しており、ここまでは確かなこととして論を進める者が多いが然りとすべきだろうか。この通説に疑義を挟み込む異説も多く、この異説は無視されるには棄て難い有力過ぎる根拠に支えられていたりする。 そこから先の不弥国、投馬国、邪馬台国の比定となると百家争鳴状況にある。れんだいこも判然としない。これだけ各地で提唱されながら、お互いの主張の根拠を確かめ合う姿勢が乏しい。いわば随意にお勝手にという姿勢であろうが、こうした姿勢が真摯に学問的であろうか。諸国の比定ばかりではない。方位にせよ、長里短里を問う里程にせよ、邪馬台国か邪馬一国かの「台一論争」にせよ、女王卑弥呼の見立てにせよ、共通の認識を探ろうとする努力が乏しいまま甲論乙論が得手勝手に論駁されている。もう少しお互いの根拠を確かめ合いながら議論を詰めていくべきではなかろうか。人文科学系の場合には絶対の真理というものは定めにくいのであるから、双論併記の上で一つ一つ断をくだしていく作法がいるのではなかろうか。 奇妙なことに、邪馬台国と女王国と他の倭の諸国との関係についてさえ解釈が一定していない。このこと自体は倭人伝全体の文章解釈により為しえるのであるから難しいことではないと思われるが認識の混乱が横行している。つまり、邪馬台国と女王国と倭との関係において数学式の「≧、≦、=」さえ定まっていないということである。こうしたことの論議が為されないままに議論百出させ続けて見ても、学問上の成果は覚束ないと云うべきではなかろうか。整合的理解を進めることを惜しんではならない。都合の悪い部分を史料の誤りとしてすぐに切り捨てるのではなく、倭人伝に内在する論理性を重視しながら整合させる努力を試みることが大切ではなかろうか。 私は、本書執筆に当り、上述の問題意識から邪馬台国論に取り組もうと思う。従って、通説、異説を盛り込みながら自身の見解を対置させ、まるでジグソーパズルを解くようにして迷路からの脱出を試みたいと思う。その際の基準は、これまでの邪馬台国研究のうち定着させるべき成果の確定であり、少なくともここまでは詮索可能と為し得る点につき印しを打っていくことである。これより先はどうしても私見によらざるを得ず、この点については読者のご容認を頂けるものと思う。こうして獲得された成果に対しては、その成果の上にたって論を積み上げていったらどうなるのであろうか。このことに挑戦したのが本書である。十分とはいかないものの、作法としては学界に大いなる貢献を為すものと確信している。 もう一つ提言しておきたい。西欧宗教のユダヤ―キリスト教聖書には研究上、一節ごとにbェ付されている。これにより番号でどの文句かが共認できるようになっている。邪馬台国研究も、魏志倭人伝二千文字の文節毎に見出し番号をつけ、更に一文毎に個別番号をつけてはどうだろうか。これを提案しておきたい。 2003.8.24日再編集、2011.8.06日再編集 れんだいこ拝 |
【邪馬台国論の意義についてその3】 | |
邪馬台国論争の構図上の第二の関門は、邪馬台国及び女王卑弥呼と「記紀神話」との相関にある。国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚と邪馬台国との関わりが分からない。よって、その真相解明が急がれている。「記紀神話」は、天津神系譜を正統とする天皇伝説を縦糸として、在地の国津神系譜との抗争ないしは和睦の歴史を綿々と連ねているが、邪馬台国及び女王卑弥呼がそのどちらの系譜に列なっているのかを解析せねばならない。
高城氏の各論との整合性は措くとして、この構図に同感である。 更に云えば、邪馬台国を国津神系譜で捉える視点も魅力的である。出雲政権及び畿内の国津神系譜のナガスネヒコ政権と邪馬台国との絡みはどう了解されるのであろうか。これまで無数といってよいほど邪馬台国が考証されて来た割には曖昧模糊の感じが否めない。 卑弥呼を神功皇后や天照大神と同一視して天津神系譜で捉えるのが通説のようにも思えるが解せない。それならそれで邪馬台国と対立していた狗奴国をどう捉えるのかという問題に言及せねばならない。狗奴国も又天津神系譜で捉えられることが多い。しかしながら国津神系譜で捉えた方が自然の読みであるように思われる。更に初代天皇(ハツクニシラスメラミコト)として知られる神武天皇又は崇神天皇伝説はどちらとどう絡むのであろうか、これも解析せねばならない。これらに思いを馳せれば次々と知りたい衝動が生まれてくる。 れんだいこは、日本古代史上の政変とそれによるその後の歴史への影響は、今に至る日本的DNAの原基を為しているように思っている。そういう意味で、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚、邪馬台国譚の考察は非常に重要であるように感じている。これまで無数といってよいほど古代史が考証されて来た割には、肝腎要めのこれらとの関係が曖昧模糊なままな気がする。邪馬台国の比定地論争は、これら「日本古代史の秘密」に関係して論ぜられるべき筈であるが、この観点からの論が深められていない。してみれば、邪馬台国の研究はまだ緒に就いたばかりと云うべきではなかろうか。 既に明察の士も居られようが、邪馬台国研究のこの情況は、まさしく日本マルクス主義のそれと酷似している。邪馬台国研究の質の出藍は、マルクス主義のそれをも生み出すという相関関係にある。そういう意味から、邪馬台国研究の意義を位置づけることも可能であろう。一事万事というから。以上、記しておく。 2003.8.24日再編集、2011.8.06日再編集、2013.3.29日再編集 れんだいこ拝 |
【邪馬台国論の意義についてその4】 | ||||||||||||
現在、れんだいこは、上記の問題意識からかなり歩を進めて「れんだいこの新邪馬台国論」を打ち出すまでになっている。今のところ全く認められていないが、知る人ぞ知るで、ひとたび「れんだいこの新邪馬台国論」を味わった者には、れんだいこ立論の関門を経由しない邪馬台国論の味気なさを思い知らされることになろう。比定地論争の喧騒さえ児戯っぽく感じることになろう。今や、「れんだいこの新邪馬台国論」の門をくぐり、この説を更に補強するなり批判するなり覆すなりの学究こそが望まれていると自負している。人文系学問にノーベル賞のようなものがあるとすれば、「れんだいこの新邪馬台国論」は受賞する資格があるとさえ思っている。少なくとも稲門卒としては、母校から津田史学賞ぐらいのものは貰っても迷惑はかけまいにと思っている。誰か推挙してくれふふふ。
邪馬台国は、上記四説のどちらなのかという王統譜の究明にこそ核心的な意義が認められるというべきである。そのいずれの場合においても、大和朝廷は畿内に発生した訳であるから地勢的には畿内が焦点となる。邪馬台国の比定を廻って三分される畿内説.九州説、その他説は、当然のことながら以上の緊張関係を廻って論争されていることが念頭において意義づけられていなければならない。 なお、興味深いことは、この王統譜の解明は、史実上の意義に止まらないことである。邪馬台国から大和朝廷に至る政変は、権力の質的な大変化をも招来した歴史的一大事件であったことにより、恐らく我らが祖先の遺伝子にくっきりと情報が刻み込まれており、この情報は、はるけく今日現代にまでわが国の政治状況、経済、文化への影響が認められ、つまり日本国民の精神的政治的特質を形成しており、諸般の歴史的因果にまで影響を及ぼし続けていることが推測できると思われる。そうであるが故に、邪馬台国論争は単に古代のロマンを追うに止まらない。極めて現代的な課題を衣装しているテーマでもあり続けているということにもなるのである。 |
2023.9.25日、歴史人編集部/水谷千秋「【日本古代史ミステリー】古代日本を統治した「大和王権」と「邪馬台国」に関連性はあったのだろうか?」。(歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より)
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【邪馬台国−卑弥呼の史上抹殺の秘密考】 |
2008.10.30日現在、れんだいこはふと気づいた。邪馬台国の所在地について特定することは未だに困難である。れんだいこは、恐らく畿内大和地ではなかろうかと推測するが、他の比定地を断固として斥けるほどの確証は持たない。そういう訳で、ここでは所在地論争をひとまず措いて、邪馬台国が何ゆえ史上抹殺されたのかの詮索に向かうことにする。この視点から逆照射することにより、所在地が見えて来るような気がするからである。 これにつき次のように考えている。邪馬台国は、大和王朝以前にかって存在したアイヌ蝦夷王朝の興亡史と関係しているのではなかろうか。卑弥呼女王率いる邪馬台国は、縄文時代以来を彩るアイヌ蝦夷王朝の最後の精華なのではなかったか。外航族がアイヌ蝦夷王朝を打倒し大和王朝を樹立した。記紀神話がその正統性を記した為に、先行して存在していたアイヌ蝦夷王朝が意図的に抹殺され、故に卑弥呼女王率いる邪馬台国封印に向かわざるを得なかった。つまり、卑弥呼女王率いる邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝と深く関わっているのではなかろうか。こう考えると、新たな視野が開けてきそうな気がする。 なぜ、こう観ずるのかというと、個々の論証は割愛するが、魏志倭人伝の記す邪馬台国の政情と風俗習慣が、どう見ても縄文系のそれであるからである。となると、邪馬台国は、縄文時代の国情に於いて位置づけられなければならないのではなかろうか。となると、この時代を牛耳っていたアイヌ蝦夷王朝こそが究明されねばなるまい。この王朝が、東北の地に日高見国として存在していたことは知られている。しかし、畿内にも存在していた時期があったのではなかろうか。あるいは四国の阿波かも知れぬ。というか、沖縄までも含む原日本がアイヌ蝦夷王朝共同体だつたのではなかろうか。 ところが、畿内説にせよ四国説にせよ、従来の学問は、邪馬台国と大和王朝を同一系政体、即ち邪馬台国を大和王朝の先行国家として直系的に捉える為に、数々の無理な推断が横行しているように見受けられる。そうではなくて、アイヌ蝦夷王朝の政権体が畿内大和か四国の阿波に存在していたとして、これとは全く異系の天孫族を僭称する外航族が来襲し、最終的に大和王朝を創建した。大和王朝は、国譲りせしめた出雲王朝の協力派を抱き込みながら、王朝の基盤固めに勤しみ、他方で邪馬台国を精華とするアイヌ蝦夷王朝の痕跡を抹殺して行ったのではなかろうか。これが、邪馬台国論を難しくさせている根本要因なのではなかろうか。今のところ、この観点は披瀝されていない。それは荒唐無稽故と云うより存外核心を突き過ぎている故ではなかろうか。そもそも学問と云うのは周辺部分を触って良しとする政治の風下に立つ学風があるから。 このれんだいこ説によると、邪馬台国の卑弥呼はアイヌ蝦夷王朝の女王として独立の勢力圏を樹立し、古代史上の動乱期を巧みに操舵した。時は、外航族の渡来系侵略軍が日本列島を襲い始め、弥生文化なるものをもたらしつつあった。邪馬台国の卑弥呼は、この期間を数十年に亙って政権運営し、孤高のアイヌ蝦夷王朝を保持したのではなかったか。アイヌ蝦夷王朝は、卑弥呼生没前後、苛烈な動乱に巻き込まれた。その動乱過程で長老と化していた卑弥呼が没し、トヨが後継するが、卑弥呼時代の如くに操舵することはできなかった。時は既に外航族渡来系侵略軍の主導する弥生時代に入りつつあり、縄文時代を象徴するアイヌ蝦夷王朝は斜陽化する以外になかった。 このトヨの時代のアイヌ蝦夷王朝と出雲王朝が深く関わっているのではなかろうか。アイヌ蝦夷王朝と出雲王朝は、女王権力系のアイヌ蝦夷王朝、男王権力系の出雲王朝と云う点で質が違うので区別されるべきだろう。恐らく、出雲王朝が国譲り政変で高天原王朝系を僭称する外航渡来族に支配権を奪われ、出雲王朝がアイヌ蝦夷王朝と合従連衡する。そこへ外航渡来族が頃合い良しとして天孫降臨し、九州の地から東征に向かう。これが神武天皇東征譚であり、大和王朝建国譚へと至る。大和王朝は高天原王朝論を編み出し、これを正統とすることでアイヌ蝦夷王朝下の各部族国家に恭順を促して行った。遂に国譲り政変時に恭順した出雲王朝内の事代主派を取り込み、サルタ彦派も呼応し、大和王朝建国の流れが加速した。こうして渡来系外航族と在地系国津族の連合政権が発足する下地ができた。 この間、国譲り政変時に渡来系外航族にまつろわなかった勢力として出雲王朝内タケミナカタ派が存在した。この派は鬼族として追討された。アイヌ蝦夷王朝内の蝦夷、土蜘蛛族も追討された。鬼族、蝦夷、土蜘蛛族が、まつろわぬ族として徹底的に排除討伐されて行く過程で、同化帰順した派と転戦抗戦派に分かれた。転戦抗戦派は全国に散り、その主力は次第に北へ東へ逃げ延びた。これを追って討伐したのが新大和王朝の阿倍比羅夫−坂上田村麻呂に至る征服史となるのではなかろうか。 もとへ。邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝時代の連合政権内の最高政権政体なのではなかろうか。とすると、記紀神話から辿ろうとしても所詮無理な話しということになる。邪馬台国論を究めんとするなら、アイヌ蝦夷王朝史に分け入るべきではなかろうか。出雲王朝譚はその入り口であり、その入り口に辿り着こうとしない史学の現状では遠く及ばないと云うべきではなかろうか。この指摘は、興味のない者にはどうでも良い話に過ぎず、興味ある者にはそれなりの反応が生まれて良い衝撃推理の筈である。後は諸賢に任せることにする。 2008.10.30日、2009.4.11日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評483 | れんだいこ | 2008/10/30 |
【れんだいこの新邪馬台国考】 2008.11.1日、映画「まぼろしの邪馬台国」が間もなく全国一斉放映される。内容は、昭和40年代に邪馬台国ブームを巻き起こした「まぼろしの邪馬台国」の著者にして盲人の宮崎康平氏の邪馬台国探求の旅史のようである。監督・堤幸彦、主演・吉永小百合、竹中直人。これを機会に、れんだいこの邪馬台国論をもう一ひねりしておく。 邪馬台国論の意義について確認しておく。紀元3世紀頃の日本の国状を記した中国の魏の史書に通称「魏志倭人伝」が遺されている。同書は邪馬台国と女王卑弥呼について詳述している。他方、日本の自前の国史は7世紀に編纂された「記・紀」から始まるが、奇妙なことにこの「記・紀」には邪馬台国の記述が全くない。女王卑弥呼についても僅かに神功皇后のくだりに出て来るぐらいで抹殺されている。古史古伝各書にさえ出てこない。 これは何故か。その理由は不明であるがここが詮索されねばならないのではなかろうか。考えられることは、魏志倭人伝の記述する邪馬台国がそもそも今日の日本列島上のできごとではなく、これに繋がる歴史を記述したものではないという場合と、何らかの理由で伏せられていると云うことのどちらかであろう。さて、どちらの判断を選択するべきか。 れんだいこは、「何らかの理由で伏せられている」と読む。その理由までは分からなかった。云えることは、中国の三国志時代つまり曹操、劉備、孫権、諸葛孔明等々錚々たる人士が活躍していたあの時代に、日本では邪馬台国女王卑弥呼が遜色ない存在振りを示していたことである。魏志倭人伝には、この卑弥呼の特異な能力、日本の国勢図、風俗習慣、法律、社会組織等々が格調高く且つ簡潔に述べられており、極めて意義が高い史書となっている。ところが、繰り返すが、それは中国の史書に記載されているだけで、日本の史書には対応する記述が出てこない。オカシナことである。 今日、日本という国家の破局、破滅、溶解が視野に入りつつある。この時、魏志倭人伝を相聞し、古里を訪ねるようにして故事来歴を紐解き、我が国の最も古い時期の日本の国家創世記を知ることは貴重と覚える。綿々と続いてきたこの歴史のうちの何を失ってはならないのか、それを一人一人が胸に治めることが必要なのではなかろうか。「古きを尋ねて新しきを知る」の言葉通りである。 邪馬台国論争の意義について確認する。以下の観点の打ち出しは、目下れんだいこの独眼流となっている。この観点が広く認められれば、邪馬台国論争は一層内容豊かなものになるであろう。れんだいこに云わせれば、邪馬台国論争の核心は、邪馬台国の所在地を野次馬的に凡百の処々に比定することにあるのではない。又、3世紀頃の日本の国体国勢状況を明らかにするという意義に止まるのではない。これらに終始するならば片手落ちと云える。 この論争の歴史的な責務は、魏志倭人伝乃至その他各史書により明らかにされる紀元3世紀頃の倭国の国体状況としての邪馬台国及び女王卑弥呼及びその他諸国の存在と、後に「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる大和王朝建国神話との整合性を探査することにある。わが国の最初の王制国家として認められる大和朝廷との絡みの解明と言い替えても良い。 つまり、プレ大和朝廷としての邪馬台国及びその連合国家の存在を、大和王朝とどう絡ませるのか。次のように案が分かれる。1・直系説(邪馬台国を大和朝廷の【直系】先行国家として了解するのか)、2・亜系説(大和王朝は邪馬台国と対立していた狗奴国が創出するのか。この場合は【亜系】先行国家として了解することになる)、3・異系説(邪馬台国、狗奴国いずれもが新興国家としての大和朝廷に滅ぼされた側なのか。この場合は邪馬台国を【異系】の先行国家として了解することになる)。4・他系説(邪馬台国と大和王朝には歴史的なつながりが認められないのか、この場合は邪馬台国を【他系】の先行国家として了解することになる)。 邪馬台国論は、上記4説のどちらが歴史の真相なのかという王統譜の究明にこそ核心的な意義が認められるというべきである。そのいずれの場合においても、大和朝廷は畿内に発生した訳であるから地勢的には畿内が焦点となる。邪馬台国の比定を廻って三分される畿内説.九州説、その他説は、当然のことながら以上の緊張関係を廻って論争されるべきで、かく意義づけられなければならない。ところが、実際には、この緊張を欠いた邪馬台国論が横行している。 邪馬台国と大和王朝の関係如何と云う王統譜の究明は、実践的には「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる建国神話に対する認識の差となって表れる。直系.亜系の場合には、畿内説の立場に立てば神話的な色彩を強めることになり、九州説に立つと史実的な色彩を増すという構図になる。異系の場合には、畿内説、九州説のどちらに立とうとも史実的な色彩を増す。他系の場合には実践的な変化を蒙らない。 王統譜問題を通俗的に概略すれば、「記.紀」神話において古代の神々が天津神系と国津神系とに二分されていることに鑑みて、邪馬台国はどちらの神々の系譜に列なる国家であったのかという問題とも言い替えることができる。肝心のここのところを究明しようとする緊張感のないままに論を拡散させることは、いたずらなミステリーの意味しかもたないことになるであろう。 この王統譜の解明は史実上の意義に止まらない。邪馬台国から大和朝廷に至る政変は、日本史上の権力移行の質的な大変化を招来した歴史的一大事件であったことにより、この時のドキュメント委細が恐らく我らが祖先の遺伝子にくっきりと情報として刻み込まれており、この情報は、はるけく今日現代までわが国の政治状況、経済、文化への影響が認められ、つまり国民性の特質を形成してきており、諸般の歴史的な因果にまで影響を及ぼしている。かく推測できると思われる。そうであるが故に、邪馬台国論争は単に古代のロマンを追うに止まらない。極めて現代的な課題を衣装しているテーマでもあり続けているということにもなる。 長くなったが、これからが本題である。2008.10.30日、れんだいこはふと気づいた。邪馬台国の所在地論争はひとまず措いておくことにしよう。れんだいこは未だに確定できないから。それはそれとして、邪馬台国が何ゆえ史上抹殺されたのかにつき正面から詮索すべきではなかろうか。かく論を構える必要を感じた。 これにつき、れんだいこは、古代史のあれこれを渉猟するうちに、大和王朝以前に縄文系アイヌ蝦夷王朝がかって存在したと考えるべきで、邪馬台国はアイヌ蝦夷王朝の興亡史と関係しているのではなかろうかと気づいた。大和王朝が結果的に平和的連合部族国家として存在していたアイヌ蝦夷王朝を暴力的に打倒し、記紀神話がその正統性を記した為に、先行して存在していたアイヌ蝦夷王朝史を批判的にすら採り上げて記すことができず、故にむしろ意図的故意に抹殺されたのではなかろうか。 卑弥呼女王率いる邪馬台国は、日本列島上に連綿と続いてきていたアイヌ蝦夷王朝の最後の精華なのではなかったのか。記紀による卑弥呼女王率いる邪馬台国抹殺は必然的にアイヌ蝦夷王朝封印に向かわざるを得なかった。つまり、これを逆に云えば、卑弥呼女王率いる邪馬台国は、アイヌ蝦夷側の王朝であり、少なくとも深く関わっているのではなかろうか。こう考えると、新たな視野が開けてきそうな気がする。 今のところ、この観点は誰からも披瀝されていない。正確に云えば、れんだいこは知らない。それは荒唐無稽故と云うより存外核心を突き過ぎている故ではなかろうか。そもそも学問と云うのは周辺部分を触って良しとする、政治の風下に立つ学風があるから。魏志倭人伝で仄聞される当時の日本の政体、風俗風習は、弥生文化で跡づけるより縄文文化に近いのではなかろうか。というかそのものではなかろうか。 このれんだいこ説によると、邪馬台国の卑弥呼は、アイヌ蝦夷王朝の末裔女王として独立の勢力圏として樹立し、古代史上の動乱期を巧みに操舵した。時は、渡来系の高天原王朝侵略軍が日本列島を襲い始め、弥生文化なるものをもたらしつつあった。邪馬台国の卑弥呼は、この期間を数十年に亙って綿って政権運営し、弥生文明の良きところも消化吸収しながら孤高のアイヌ蝦夷王朝を保持したのではなかったか。 アイヌ蝦夷王朝たる邪馬台国は、卑弥呼生没前後、当然の如く動乱に巻き込まれた。壹與が後継するが、卑弥呼時代の如くに操舵することはできなかった。時は既に渡来系来航族侵略軍の主導する弥生時代に入りつつあり、縄文時代を象徴するアイヌ蝦夷王朝は斜陽化する以外になかった。 もう一つ。この壹與の時代のアイヌ蝦夷王朝と出雲王朝が深く関わっているのではなかろうか。アイヌ蝦夷王朝と出雲王朝は、女王権力系のアイヌ蝦夷王朝、男王権力系の出雲王朝と云う点で質が違うので区別されるべきだろう。恐らく女王指揮下のアイヌ蝦夷王朝は騒乱時代を生き延び得ず滅び、代わって政権が出雲王朝に引き継がれ、その出雲王朝が数十年の抗争を経て国譲り政変で最終的に高天原王朝に支配権を奪われる。 その高天原王朝が追って天孫降臨し、九州の地からうまし国として知られる畿内へ向けて東征に向かう。これが神武天皇東征譚であり、大和王朝建国譚へと至る。大和王朝は、高天原王朝を正統としながら、国譲り政変で恭順した出雲王朝内事代主派を取り込むことに成功する。ここに渡来系来航族と在地系国津族の連合政権発足の道が敷かれることになった。その完結が皇紀元年となる。 ところで、この連合政権大和王朝にまつろわなかった勢力として出雲王朝内タケミナカタ派が考えられる。この派はその後、鬼族として追討される。アイヌ蝦夷派も然りで、蝦夷叉は土蜘蛛族として追討される。こうして、鬼族、蝦夷、土蜘蛛族は、まつろわぬ分子として徹底的に排除討伐されて行く。この過程で、同化帰順した派と転戦し抗戦し続けた派に分かれる。抗戦派は全国に散り、その主力は次第に東へ北へ逃げ延びた。これを追って討伐したのが大和王朝の阿倍比羅夫−坂上田村麻呂に至る征服史なのではなかろうか。 さて、話を戻す。邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝系の話なのではなかろうか。とすると、高天原王朝系の正統ぶりを記す記紀神話から辿ろうとしても所詮どだい無理な話ということになる。邪馬台国論を究めんとするなら、アイヌ蝦夷王朝史に分け入るべきではなかろうか。出雲王朝譚はその入り口であり、その入り口に辿り着こうとしない史学の現状では遠く及ばないと云うべきではなかろうか。 この指摘は、興味のない者にはどうでも良い話に過ぎず、興味有る者にはそれなりの反応が生まれて良い衝撃推理の筈である。後は諸賢に任せることにする。 2008.10.30日 れんだいこ拝 |
【史書が語る邪馬台国史上抹殺】 | ||
新唐書日本伝は次のように記している。
ある古書に曰く、として次のような記述がある。
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Re::れんだいこのカンテラ時評560 | れんだいこ | 2009/04/11 |
【邪馬台國論争終結宣言させない宣言】 阿修羅の歴史02版で、山形明郷氏の「邪馬台國論争終結宣言」(星雲社、1995.5月初版)なる書と栃木県婦人ペンクラブ会長の吉田利枝書評が紹介されていた(「『邪馬台國論争 終結宣言』 邪馬台国は日本にはなかった…」)。れんだいこの観点と異なるのでコメントしておく。れんだいこは読んでいないので書評を参照しながら論評する。 「著者・山形明郷氏は、在野の古代東アジア史研究家である」。在野という意味では、れんだいこも同じである。「この著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である」。こういう書評に出くわすと、れんだいこも読みたくなる。しかし、れんだいこの処女作にも、こういう書評が欲しいな。 結びは、「まさに著者・山形明郷氏ならではの蘊蓄に彩られた峻厳・明晰の一大論証であり、余りにも長歳月に跨った紛々の論争に、鮮烈な「終結」を宣した我が国古代史界希有の大書である」とある。これは読まんといかんかな。 しかし、気になるのは内容である。◆ 古代朝鮮・楽浪・前三韓の所在地は、旧満州であった(現在の朝鮮半島ではなかった)◆ 卑弥呼の正体は、遼東侯公孫氏の係累であった(日本の卑弥呼ではなかった)◆ 倭の所在地は、古代「韓」半島であった(日本ではなかった)を骨子として「邪馬台國論争終結宣言」へと導いているようである。 こうなると、れんだいこの立論と全く対立していることになる。れんだいこは、邪馬台国研究はこれからであり、今までのそれは緒についたばかりと認識している。よって、「邪馬台國論争終結宣言させない宣言」をしたい。どちらの認識が正しいのだろうかと云うことになる。 ちなみに、れんだいこは、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説を唱えようとしている。邪馬台国は大和王朝によって滅ぼされたのであり、よって記紀から抹殺され封印され、痕跡さえ破壊尽されたとみなしている。九州説なり大和説なりその他説は、所在地論争で対立しているように見えて、邪馬台国の延長上に直系的な大和王朝を捉えようとしている点で同じ視点であり、この視点からは真相が見えないと仮説している。 記紀記述に於いて封殺されている大和王朝以前の日本の実相を捉え直すことが研究課題となっているのであり、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説の視点は始まったばかりであり、どういう展開を見せるのか見当もつかない豊穣な沃野が待ち受けているとみなしている。つまり、どう見てもこれからの研究である。四角四面コチコチの著作権狂いの学会人の頭脳では解けまい。在野が開拓する以外あるまい。そう云うときに終結宣言されたら堪らない。早分かりも困る。これが云いたいのでコメントしておく。 邪馬台国考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/yamataikokuco.htm) れんだいこの邪馬台国論 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/rendaiconoyataikokuron.htm) 2009.4.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)