第2部 「邪馬台国」比定諸説論争史(2)論争史

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「邪馬台国比定諸説論争史(2)論争史」を検証しておくことにする。この問題は、最高度の頭脳を寄せて解くパズルであり、歴史ロマンの最たるものと云えよう。ここに、「邪馬台国比定諸説論争史れんだいこガイダンス」を提供しておく。「邪馬台国大研究」、小林幹男「邪馬台国比定地全調査」(歴史読本「特集ここが邪馬台国だ」1974.9月号)その他を参照した。次第にれんだいこ言葉で書き換えて行くことにする。

 2007.8.20日再編集、2009.4.12日再編集 れんだいこ拝


【「日本書紀」神功皇后摂政紀】
 旧くは、「日本書紀」神功皇后摂政紀における三十九.四十.四十三年条の中で、卑弥呼を神功皇后に見立てたかの記述がなされており、これを初見とすることができる。魏志に曰くとして、「景初三年倭の女王が使いを送った」と記されている。
(私論.私見)
 その後幾つかの文献に邪馬台国関係の記事が散見されるが、いずれも倭人伝の簡単な紹介で、暗に卑弥呼は神功皇后であるとした日本書紀の受け売りの域を出ていない。

【卜部兼方「釈日本紀」】

 鎌倉時代に至って、卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、邪馬台国は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱え、幻の邪馬台国と大和朝廷の相関を探っている。

(私論.私見)
 問題は、「倭=ヤマト」の音をとったものであったにせよ、そのことが邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を意味しない。大和朝廷が、支配の都合上「倭=ヤマト」を僭称し続けたことも考えられよう。これを否定するには、大和=ヤマトと読める語義的解明をせねばなるまい。和をトと読むことができても、大をヤマと読むことができるのだろうか。まずヤマトなる発音があり、後世いつの時点かは分らないが大和と当て字し、以降通用してきていると考えるべきではなかろうか。且つ、大和は大同団結和睦の意味であり、極めて勝れた当て字なのではなかろうか。

【北畠親房「神皇正統記」】
 南北朝時代には、北畠親房(1293-1364)が、「神皇正統記」の中で「卑弥呼=神功皇后説」を主張する等の研究が散見される。後漢書に曰くとして、「邪馬堆」と記している(後漢書には、「邪馬台国」と記されている)。全体に「後漢書中心主義」で、この傾向が継承されていくことになる。
(私論.私見)
 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。

【京都五山・相国寺の禅僧が邪馬台国の位置を初めて論じる】

 京都五山・相国寺の禅僧・瑞渓周鵬(ずいけいしゅうほう)が、「善隣国宝記」(1466、文正元年)で、邪馬台国の位置を初めて論じる。


【頼三陽の関心】

 こうして、折に触れて邪馬台国の研究が為されていたようであるが、上記迄の研究と以降のそれを較べれば、邪馬台国研究の初歩的な考察に留まっている感があり、本格的な学問的研究としては、江戸時代になってから開始されることとなったといえる。江戸時代に至って、頼三陽が関心を見せている。


【松下見林、畿内大和説/「異称日本伝」】

 1688(元禄元)年、元禄時代の儒医にして国学者・松下見林(1637~1703年)が、「異称日本伝」の中で、後漢書倭伝全文を掲載した上で、「今按ずるに、邪馬台国は大和国なり。古に大養徳国というは、いわゆる倭奴国なり。邪馬台は大和の和訓なり」と述べている。「邪馬台」を「ヤマト」と読み、大和国(現、奈良県)を指すとした上で、卑弥呼を「気長足姫尊」(おきながたらしひめのみこと)と推定し、大和説の立場で考究を加えている。この「邪馬台=ヤマト=大和」観が継承されていくことになる。

 次いで、「今按ずるに、邪馬台の『壱』はまさに『台』に作るべし」との見解を述べている。つまり、魏志倭人伝原文は邪馬一国とあるのを邪馬台国の書き間違いとして受け取る。邪馬台国であれば大和国とも音訳語呂が合うとした訳である。この「壱→台の誤り観」も継承されていくことになる。

(私論.私見)
 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。

【新井白石、両説/「古史通或門」、「外国之事調書」】

 我が国における本格的な邪馬台国研究の先駆者は、江戸中期の儒学者にして6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)を補佐した新井白石(1657~1725年)である。1724(享保9)年、白石が仙台藩の佐久間洞巌(1652~1736)宛てに次のような手紙を記している。

 「魏志は実録に候。この如きのところが古学の益あることにて第一の要に候。日本紀州などは、はるかに後にこしらへたる候こと故に、大方一事ももっともらしきことはなきことに候」。

 新井白石は佐久間の立場を受け継ぎ、魏志倭人伝を信ずるに足りる歴史書と見なし論及するところとなった。倭人伝に記されている年代や官名、風俗等について精緻に考察し、白石以前の記事が倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると、はるかに科学的実証的な研究を行い、邪馬台国問題を学問の研究対象とさせた。白石の功績はここにある。

 1716(正徳6)年(1717、享保2年)、「古史通或門」(こしつうわくもん)を著わし、「倭女王卑弥呼と見へしは、日女子と申せし事を彼國の音をもてしるせしなるべし」、「魏志に倭女王奉獻の事の見へしは、神功皇后の御事とみへけり」とのべており、「卑弥呼=日女子=神功皇后」との認識を示した。

 白石はこの時、「魏志は実録に候」と述べ、魏志倭人伝に登場する邪馬台国へ至る諸国の地名比定を試みた。対馬国を対馬、一大国を壱岐、末盧国を肥前の国松浦郡(唐津市)、伊都国を筑前の国怡土郡(前原市)、奴国を筑前の国那珂郡(いまの博多・福岡市)、不弥国を筑前の国宇美(糟屋郡宇美町)に比定し、この比定がそのまま今日の定説にもなっている等において功を為している。ちなみに同書は、投馬国を備前鞆浦に比定した上で、「邪馬台国はすなわち今の大和国なり」と述べており、大和説の立場からの考究であったことが伺える。又、倭人伝に記されている年代や官名、風俗等についても考察し、白石以前の記事が倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると、はるかに科学的実証的な研究を行った。

 但し、白石は、晩年に至って「外国之事調書」において九州説に転じ、投馬国を肥後国玉名郡又は託麻郡、 邪馬台国を筑後国山門郡(現在の福岡県柳川市・みやま市)に比定するところとなった。結果的に、白石は大和説と九州説の両論を述べたことになり、大和説から九州説に転じているところに史的意味を持つ。最初は大和説を唱えますが、その後、『魏志倭人伝』の記述を重んじ、九州説に転じます。

 白石の「筑後国山門説」は、後世の邪馬台国研究に多大な影響を及ぼすこととなり、今日においても有力な説となっている。ここで留意すべきは、もともと松下見林が「邪馬台→ヤマト」を引き出すために音訳比定的に「邪馬台=ヤマト=大和」としたのを、「ヤマト」を一人歩きさせ、それを九州の地の「山門」に当てはめていることである。

 古田氏は、著書「『邪馬台国』は無かった」で、白石の邪馬台国研究に対して、1・後漢書中心主義、2・見林の「邪馬壱→邪馬台」観、3・見林の「邪馬台をヤマトと訓ずる」、4・このヤマトを7.8世紀以降出現した大和朝廷に充てる、5・当初「邪馬台国近畿説、6・後年「邪馬台国九州筑後説、7・詳細に地名比定を試み、その際「倭音訓読による同音地名による比定」に拠っていた。8・この方法論がその後の邪馬台国研究の土台となった、と評している。

(私論.私見)
 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。

【本居宣長、九州説/「馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)」】
 白石の後を受ける形で邪馬台国の研究に取り組んだのが本居宣長(1730~1801年)であった。1764(宝暦14、明和元)年、新井白石が世を去って5年後に生まれた本居は、「古事記伝」の執筆に着手し、間に「玉勝間」や「うひ山ぶみ」などの執筆も挟みつつ約35年もの歳月をかけて1798年寛政10)年、脱稿させた。1790(寛政2年)年から宣長没後の1822(文政5)年にかけて刊行された。宣長の「古事記伝」は、近世における古事記研究の頂点をなし、実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。

 1778(安永7)年、本居は、著書「馭戎概言」(ぎょじゅうがいげん、からおさめのうれたみごと)を著し、魏志倭人伝を解析した。特徴として、彼は白石ほどには原文を信用せず、独自な解釈を試みている。そういう意味で、「原文の記述を間違いだとする解釈法は本居宣長に始まった」とも云える。その中で距離・方位の問題を中心にして新たな考究を加え、九州説に立脚して考究を加えた。「その使いの経てきたりけん国々も、女王の都と思ひしも、皆筑紫のうちなりけり」と述べている。

 更に、「卑弥呼=神功皇后説」を否定し次のように述べている。
 概要「景初正始は、ともにかの国魏の年号にて、まことにかの姫尊(ひめみこと)の御世には当たれり。然れども、この時にかの国へ使いを遣わしたるよし記せるは、まことの皇朝(すめらみこと)の御使にはあらず、筑紫の南の方にて勢ひある熊襲などの類なりしものの、女王の御名の諸々の唐国にまで高く輝きませるをもって、その御使いと偽りて、私(ひそか)に遣わしたりし使いなり」。

 即ち、卑弥呼を九州の熊襲(くまそ)の女酋長ととらえ「熊襲偽僭説」を主張した。且つ、その卑弥呼が神功皇后の名を騙って魏に朝貢したとした。この「卑弥呼偽僭説」が鶴峰戌申(しげのぶ)の「襲国偽僭考」、明治の菅政友の「漢籍倭人考」、吉田東伍の「日韓古史断」等に影響を与えることになる。

 又、邪馬台国へ至る行程記述である「水行十日、陸行一月」の解釈につき、「梁書」の中で「陸行一月日」とあるのに着目し、これを引合いに出して、「一月とあるのは一日の誤りではないか」とする説を唱えた。又、その著「けん狂人」の中で、新井白石の魏志実録観に対して「非なることおほし」、「非なるをも皆実ならむと思ふはいと愚也」、「代々の史をかれこれ引合せて、こまかに考えれば、前後相違して合ざることおほく」等々、「魏志を鵜呑みにはできない」との立場を強調する立場に立った。その他邪馬台国論の骨格は、親房―見林―白石の観点を継承している。

 坂本太郎氏は、「本居宣長と国史学」 (本居宣長全集月報13)の中で次のように評している。
 「『馭戎慨言』は全篇を貫く尊内卑外の精神によって誤解される面もあるが、歴史事実の考證にかけてはすこぶる的確で、今日なお生命を持つ学説が見うけられる。有名な魏志倭人伝の耶馬臺国の九州説が立てられているのはこれであり、そこには不弥国を宇美に、投馬国を日向の妻に当てる説までが述べられている」。
(私論.私見)
 本居の功績は、邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を疑惑しているところにある。問題は、論拠として「卑弥呼=熊襲のたぐいの女酋偽僭説」を打ち出したが、これは却って卑弥呼-邪馬台国世界を矮小化している面がある。しかし、「邪馬台国と大和朝廷の直系的相関の疑惑」の功が大きいと捉えるべきだろう。ちなみに、本居は、「師の説に、な、なづみそ」(師の説に決して捉われるな)の名言を遺している。この明言こそ、本居の功績ではなかろうか。

【金印の発見】
 1784(天明4).2.23日、筑前の国那珂郡志賀島で、「漢委奴国王」と刻文のある金の印章が発見された。甚兵衛と云う名の農民が耕していた田畑で見つけ、黒田藩に届け出た。この時の届け出書が現存しており、甚兵衛の口上書とそれが間違いないと併記した庄屋武蔵、組頭吉三、勘蔵の名が記されている。この金印発見のいきさつについて諸説あり、甚兵衛の作人であった秀治、喜平の二人が発見したという説もある。発見当時、黒田藩はこれを儒学者達に鑑定させ、藩校修猷館の館長・教授達が数人がかりで出した結論は、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に没したが、志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。金印発見のニュースは、当時としては異例の早さで中央に伝わり、京都の国学者・藤貞幹(とうていかん)は、委奴は倭奴(いと)であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印であるとする説を発表した。大阪の上田秋成もこれを支持している。その後も様々な説が現れたが,落合直澄(1840~91)が明治二十年代に「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」という読み方をあみ出し、三宅米吉がこれを発表してからは、それがほぼ定説となった。現在は、金印は後漢書・光武帝本紀に書かれている「光武賜うに印綬を以てす」の一文にあるとおり、漢の光武帝が奴国の王に与えた印そのものであると理解されている。

【幕末期の諸研究】

 こうして今日の邪馬台国論争の骨子は、江戸時代に出された新井白石と本居宣長の説に、魏志倭人伝の解釈のあらゆる可能性の九割近くが出揃っていた感がある。

 1820(文政3)年、白石、宣長以後は邪馬台国について見るべき研究がなかったが、幕末の歴史学者・鶴峰戊信(しげのぶ、1788~1859年、豊後臼杵の神官の家に生まれた)が「襲国偽僭考」を著わした。鶴峰は「熊襲説」を主張し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とした。その際、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の墓を薩摩の国の可愛陵(えのみささぎ)としている。  

 1838年、伴信友(1773~1846))が、畿内大和説/「中外経緯伝草稿」を著わし、九州説に反論し大和説を述べた。「魏の使いが卑弥呼を姫子(ひめこ)と聞き誤ったもので、神功皇后のことである」としていた。女王国とは神后皇后の国を指しており、その都は大和辺りにあったとした。さらに、邪馬台国は大和の国の事だが、魏の使いは大和まで来ておらず、伊都国王あたりが応対しその伝聞で倭人伝が書かれているとした。

 1846(弘化3)年、近藤芳樹(1801~1880年、周防出身)が、九州説/「征韓起源」を著わし、熊襲が自分達の居住区を邪馬台と呼んでいたことを重視し、氏もまた「邪馬台国熊襲説」を述べた。但し、邪馬台国の比定地を「肥後菊池郡山門郷」と比定した。

(私論.私見)
 この頃、九州説、大和説の両論が対立し始めているが、問題は、1・引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探る伝統的観点と、2・本居説に与す卑弥呼-邪馬台国世界の矮小化のどちらかを継承しているところにある。

【明治初期】

【那珂通世の研究】

 明治時代の前半は、日本古代史研究においては邪馬台国問題よりも、古代の紀年すなわち年代の研究の方に人々の関心は集まった。

 1878(明治11)年、明治初年に神武紀元を修正した那珂通世(1851~1908年)が、九州説/「上世年紀元考」を著わし、次のように説いた。

 概要「古代史においては年代が 定まらない限り、いかに詳細な記録があったとしても、それを外国の歴史と対比させて研究したりすることはできない。まず我が国上古の年代をはっきり定めるべきである」。
 「卑弥呼の時代は神功皇后の時代とは合致せず、百年ばかりさかのぼる。従来言われてきた卑弥呼=神功皇后説は誤りである」。

 その上で九州説を採用し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とし、「邪馬台女王は南九州にいた熊曽の女酋である」との見解を披瀝した。

(私論.私見)
 これも同じで、問題は、本居説に与し、引き続き卑弥呼-邪馬台国世界を矮小化しているところにある。

【「紀年論争」】一八八八年に「日本上古史」を『文』誌上に発表して「紀元五百年ヨリ以前ノ日本史ハ存セズ」としたウィリアム・ジョージ・アストン。津田の発想もこの延長線上にある。

 1888(明治21)年、那珂道世は、更に詳細な論文「日本上古年代考」を著したが、この紀年論争に関係して、明治20年代は邪馬台国論争が華々しく展開された。特に卑弥呼は神功皇后であるや否やを巡って大論争が巻起こった。論争には、中村正直、久米邦武、阿部弘蔵、橘良平、津田真道、吉田東伍他数十名の学者達が参加している。 折から日本は、富国強兵の気運真っ直中である。神功皇后の征韓説は事実ではないという論文が出るとすぐさま国体を無視する ものであると反論が起き、三宅米吉が 「或一部ノ先生達ハ、年代ノ捜索ナドヲ好マレズ・・・・・・其ノ量見ノ甚狭キヲ惜シムナリ」 などと反論している。 

 1888(明治21)年、那珂説に対し各方面から異論が巻き起こった。ウイリアム・ジョージ・アストン(1841-1911年)、バーシル・ホール・チェンバレン(1850-1935年)と那珂道世の間で一大論争が行われ、以後多くの学者が論争に加わった。 後世これを「紀年論争」と呼んでいる。
久米邦武 卑弥呼=委奴国王
星野恒 卑弥呼=筑後山門にいた田油津媛の先祖
菅政友 「漢籍倭人考」で、本居宣長が邪馬台国を筑紫とした事を批判し邪馬台国を薩摩大隅と比定。
吉田東伍 菅政友の後を受け「日韓古史断」という大作を著し微細に邪馬台国問題を研究し、邪馬台国は熊襲の國都噌於城(今の宮崎県都城)であり、卑弥呼はその辺りの「日の御子」が大和の倭王と偽ったものであるとした。
那珂通世 吉田東伍の「日韓古史断」に影響を受け、那珂通世は『外交繹史』のなかで噌於郡は女王の都スル所であると強調した。これは、神武東遷後大和には皇朝が成立していたがその力はまだ九州には及んでおらず、神武天皇のふるさと高千穂の峰あたりの熊襲が魏と交流していたというものであり、記紀の内容を全面的に信用する立場からくる解釈であった。

 この時期、邪馬台国は断片的に取り上げられたりしたが、本格的に邪馬台国への行程記事に言及したり、風俗習慣をとりあげて多角的に邪馬台国を捉えようとする試みはまだ少なかった。

【橘良平が、畿内大和説/「日本紀元考概略」】
 1888(明治21)年、橘良平が、「日本紀元考概略」(「文」第1巻第12号)で、魏志倭人伝の殉葬記事に着目し、神功皇后の時代には殉葬が禁じられていたから、卑弥呼の死と墳塚の記事は、倭姫命を葬った時のことを記したと考えているとしている。

【明治中期】

【明治中期の諸研究】
 一連の論争の中で、邪馬台国問題研究は発展のきざしをみせていた。本格的に邪馬台国への行程記事に言及したり、風俗習慣をとりあげて多角的に邪馬台国を捉えようとする試みはまだ少なかったが、邪馬台国所在論争は次第に研究の歩みを進めながら、九州説が大勢をしめつつ邪馬台国はを大和朝廷とは関係のない熊襲の類であるとするのが一般的であった。これが明治時代中期までの流れとなる。
 1892(明治25)年、星野恒氏(1839ー1917年)が、九州説/「日本国号考」(「史学会雑誌」第3編第30、31号)で、那珂の「年代論」を取り入れ、「神功紀に所見する筑後山門県の土蜘蛛田油津媛(つちぐもたぶらつひめ)の先代こそが卑弥呼である」として、同女酋(じょしゅう)の居住していた地域を邪馬台国と比定し、「邪馬台国=筑後国山門郡説」を発表した。この「筑後山門郡説」は、従来の薩摩大隅説や肥後山門郷説を圧して今日の比定の大勢により近いものとなっている。
 同年、菅政友が、九州説/「漢籍倭人伝」を発表した。同書で、本居宣長が邪馬台国を筑紫としたことを批判し、邪馬台国を薩摩・大隅と比定している。つまり、「大隅薩摩説」を唱えた。彼は、倭人伝に現れる大人を酋長、下戸をその家来と初めて断じたことで知られる。 

 1893(明治26)年、吉田東吾(1864-1918年)が、九州説/著書「日韓古史談」の中で、「卑弥呼は熊襲の女酋である」として、「九州薩摩姫城説」を唱えた。吉田東伍は、菅政友の後を受け、九州説/「日韓古史断」という大作を著し微細に邪馬台国問題を研究したが、結論は、邪馬台国は熊襲の國都噌於城(今の宮崎県都城)であり、卑弥呼は其の辺りの「日の御子」が大和の倭王と偽ったものである、というものだった。

 この影響を受け、那珂通世は、「外交繹史」のなかで「噌於郡は女王の都スル所である」と強調した。これは、神武東遷後大和には皇朝が成立していたがその力はまだ九州には及んでおらず、神武天皇のふるさと高千穂の峰あたりの熊襲が魏と交流していたというものであり、古事記、日本書紀の内容を全面的に信用する立場からする解釈であった。

 1898(明治31)年、久米邦武は、卑弥呼を委奴国王であるとし、筑後国高良山上のいわゆる神籠石が発表されたことに着目して、「邪馬台国=筑紫の山門郡説」を唱えた。

 1908(明治41)年、「日本古代史」(早稲田大学出版部)を著し、「邪馬台国は奴国の南にあり」として柳川(福岡県)東方の清水山の北・山門村を邪馬台国の中心としている。ここへは、博多津より肥前(佐賀県)の岬津を回れば、凡そ十日で筑紫海岸に達することができ、そこより上陸すれば、「水行十日陸行一日」に一致するとしている。卑弥呼については、景行紀に見える八女(やめ)国の八女津媛を当て、八女国を邪馬台国の所在地としている。
(私論.私見)  
 星野説、菅説、吉田説、那珂説、久米説といろいろ取り沙汰されたが、基本的な構図は変わらず、1・引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探る伝統的観点と、2・本居説に与す卑弥呼-邪馬台国世界の矮小化のどちらかを継承しているところにある。

【明治後期】

【「内藤.白鳥論争」】

 1910(明治43)年、有名な「内藤.白鳥論争」が巻き起こり、「邪馬台国論争」にとって記念碑的な年となった。西の京都帝国大学教授内藤虎次郎は、「卑弥呼考」(芸文.5ー7月号)において邪馬台国畿内説を唱えたのに対し、東の東京大学教授・白鳥庫吉が「東亜の光」(6―7月号)に「倭女王卑弥呼考」を発表し、邪馬台国九州説(「筑後山門」説)を主張した。

 かくて、白鳥.内藤という東西史学の両巨頭による大向こうの論戦となった。これがいわゆる邪馬台国論争の新たな展開の発端となった。ちなみに、白鳥は、帝大卒業後、学習院教授となり、ドイツ留学を終えて帰国すると、帝大教授も兼任して、皇太子に国史や東洋史を進講、学界の中心的存在となり、数々の学説を発表、昭和の終戦直後に死去するまで、その影響力は強大であった。

 内藤湖南(虎次郎、1866ー1934)は、倭人伝の史料批判をはじめて本格的に行ったことで知られる。雑誌文芸「芸文」第1年-第4号に「卑弥呼考」を発表し、宣長以来の邪馬台国九州説を批判し畿内説を主張した。当然、白鳥説に真っ向から批判を加えることになった。 その論拠として、「邪馬一は邪馬台の訛なること、言うまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」とした上で、魏志より後の中国の隋書と北史に、「倭国は、……邪靡堆に都す。即ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」の記述を重視し、「随も今の大和が邪馬台國と看破した証拠である」とし邪馬台国大和(奈良県)説を唱えた。卑弥呼=倭姫(やまとひめ)説を唱えた上で、九州論者の多くが邪馬台国へ至る行程の「水行十日陸行一月」を、「水行十日陸行一日」に改めることの非をつき、「軽々シク古書ヲ改メンコトハ従ヒ難キ所ナリ」と述べ 、あくまで字句通りに受けとめるべきだとした。奴国から投馬国までと、投馬国から邪馬台国までの距離観に無理がないことや、邪馬台国七万余戸とする大国は辺境の筑紫より王畿の大和に求める方が穏当であり、当時の人口七万戸を擁する程の地域は大和地方以外に考えられず、「邪馬台国は大和朝廷と理解する外なく」との立場をとった。

 内藤は、卑弥呼を垂仁天皇の皇女で、天皇の命を受け、天照大神を祀る地を求め、伊勢の五十鈴川のほとりに宮をつくり、途中、大和から近江、美濃、伊勢を遍歴して、土豪より神戸、神田、神地を召し上げて神領とした「倭姫命」(やまとひめのみこと)、男弟を景行天皇に中てた。

 但し、方位については、「支那古書が方位を言うとき、東と南とを相兼ねるが常例である」、「倭人伝の材料提供者が航海中あるいは旅行中の方角錯誤によって、東が南となりしなり」として、東と南を一つにし、西と北とを一つにみるべきというように修正することを可として、不弥国以下の南とある記述を東の誤りとした。かく南を東と読み替えて、瀬戸内海を舟で東進後、投馬国を倭名抄の周防(すおう)国(山口県)佐婆郡玉祖郷(さばぐんたまのおや)に、邪馬台国を畿内に比定し大和朝廷の祖とした。

 内藤説の特徴は、これまでの大和説がヒミコを神功皇后に比定していたのに対して、ヤマトヒメが巫女として、天照大神に仕えていたという記.紀の伝承によって、「天照大神の教に随って、大和より近江.伊勢.美濃.尾張.丹波.紀伊.吉備を遍歴し、到る所に其の土豪より神戸.神田.神地を徴して神領とした」と主張した。

 「邪馬台国」の「壱か台か論」については、「邪馬壱は邪馬台の訛(なまり)なること、言うまでも無し。梁書、北史、隋書皆台に作れり」としており、「台」を受け入れている。見林説と異なるところは、史書を三典(梁書東夷伝、北史*国伝、、隋書*国伝)挙げているところが新しい。(なお、古田氏の「『邪馬台国』は無かった」では、それらはいずれも後漢書の記述を受けたものであり、正確を期しがたい、とある)

 内藤は、南を東と読み替えて、瀬戸内海を舟で東進後、山陽地方から陸路を1ヵ月ほどで邪馬台国=大和国に至ったとした。

 これに対して、白鳥庫吉(1865~1942)は、邪馬台国の問題を東アジア史の中に位置づけ、実証主義的方法で九州説を唱えた。魏志倭人伝原文に対し「魏の使者が虚偽の報告を作るに苦心せし文献である」と見なし倭人伝の史料的価値の高さを評価した上で、里程、日数、方位、地名を検討した上で、「『魏志』には古今に比類なき短里が使われている」とする里程計算に重きを置き、帯方郡(たいほうぐん、朝鮮半島中西部)から女王国へ至る「1万2000余里」から帯方郡、狗邪韓国、対馬、一支、末盧、伊都、奴、不弥国へ至る里程「1万700里」を差引き、不弥国から邪馬台国へ至る残り里数は「1千300余里」であり、魏志倭人伝で使われている1里を約100mと計算すれば南に約130kmになるとして九州説を採った。その際、「陸行一月」は「一日」の書き誤りであるとして、この推定を基に不弥国を太宰府付近、邪馬台国を九州北部(筑後の国山門郡あたり)に推定し、「肥後国内にあった筈である」(「邪馬台を肥後の内に置く」)と比定した。さらに狗奴国を九州南部に当たる熊襲の可能性を示唆した。強力に九州説を唱え次のように述べている。

 「魏志の示す所によりて之を推すときは、耶馬台国は不弥国より一千三百余里に当れば、女王国が大和にあらずして、九州の地域にあるべきは、亦論を待たず」。
 「後漢末より三国時代に互りて、倭国即ち九州全島は南北の二大國に分裂し、北部は女王国の所領とし、南部は狗奴国の版図として、両々相対峙し久しく相譲らざる形勢をなししなり」。
 「(耶馬台国の所在を)女王の都耶馬台国の位置は此の形勢に鑑み、又魏志に載する所の里数、日数及び行路の状況を参酌して、其全領域の西南部にありしこと、余輩の安んじて断言し得る所なり」。

 これ以降、距離比による邪馬台国の比定は九州説の不動の論拠となった。その九州説では行程記事の方角は全て正しいとする。戦後歴史学の原点となった津田左右吉もこの説の信奉者である。

 白鳥は又卑弥呼についても言及し、魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述と記紀の天照大御神の記述の酷似(天照大御神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の関係、高天原における天の安河(アマノヤスノカワ)の関係、 倭國の大乱等倭人伝の記述)と神話上の出来事がよく似通っていることを指摘し、古事記、日本書紀が太古からの何らかに注目し、それまでの論者が卑弥呼を神功皇后、土蜘蛛田油津姫、倭姫命などに推理してきていたのに対し。「神功皇后である可能性よりはむしろ神話上の天照大御神(アミテラスオオミカミ)に近い存在である」と述べている。更に、倭人伝に書かれた倭国の姿と記紀に描かれた高天原の状態は酷似すると論じ、「高天の原は邪馬台国を反映している」とした。この考え方は後に哲学者の和辻哲郎にも受け継がれ、邪馬台国東遷説へと発展する。記紀神話と魏志倭人伝との間の相関関係を主張する同様の考え方は、「まぼろしの邪馬台国」の著書宮崎康平、産能大学教授安本美典など多数の研究者に支持され、邪馬台国九州説を補強することになる。

 「邪馬台国」の「壱か台か論」については「台」を受け入れ、これを疑うところはなかった。白鳥は、自説に対する反省検討を怠らず、学会の論議の成り行きを注視し、晩年の1948(昭和23)年、「卑弥呼問題の解決」を著し、邪馬台国の所在を筑後国山門郡に求めている。
 二人は当時きっての歴史家であり、後の史学界にも大きな影響を与えた史家であるが、この時の二人の論争が、九州説と大和説という今日でも延々と続いている学問上の論争の発端となった。二人の説の発表後、直ちに邪馬台国問題について論陣がはられた。著名な歴史家、気鋭の研究者達がそれぞれ白鳥説、内藤説に共鳴したり批判を加えたりしたが、その論調には一つの特徴があった。それは、白鳥説、内藤説の論者達が東大派と京大派に色分けされたことであった。つまり、東大の学者達は白鳥説を支持して邪馬台国=九州説を、京大は内藤説の大和説(畿内説)を擁護した。これにより邪馬台国問題は東大と京大の戦いの様相を呈した。このバトルはその後長きに渡って影響を及ぼし、東大の学者には九州説論者が多く京大には畿内説論者が多いという今日でも見られる一つの傾向を生み出すこととなった。
 「内藤.白鳥論争」につき、考古学者の西谷正が次のように纏めている。
 「その後、20世紀に入って,明治43年(1910)に白鳥庫吉(1865~1942)が『倭女王卑弥呼考』(『東亜之光』5 –6・7)を、また、内藤虎次郎(1866~1934)が『卑弥呼考』(『芸文』1 – 2・3・4)をそれぞれ発表して、邪馬台国論争に新たな展開を見せることになった。白鳥は、倭人伝の史料的価値の高さを評価した上で、里程・日数・方位や地名を検討したが、その中で不弥国を太宰府付近に、そして、邪馬台国を肥後国の内に求め、さらに狗奴国を九州南部に当たる熊襲の可能性を示唆した。(中略) 内藤虎次郎は、倭人伝の史料批判をはじめて本格的に行ったことで知られる。その上で、宣長以来の邪馬台国九州説を批判するとともに、畿内説を主張した。ちなみに、その論拠として、中国の『隋書』と『北史』に、『倭国は、……邪靡堆に都す。即ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」と見える記事を、隋の時代には大和を邪馬台とみなしていた証とした。そして、奴国から投馬国までと、投馬国から邪馬台国までの距離観に無理がないことや、邪馬台国七万余戸とする大国は辺境の筑紫より王畿の大和に求める方が穏当であるとした。
(私論.私見)
 白鳥説は、本居説の矮小化から抜け出しているが、再び伝統的な「邪馬台国と大和朝廷の直系的相関」を探っただけで、本質的な論自体の進展はない。内藤説は、白鳥吸収説に対抗して大和説を打ち出したが、こちらも「邪馬台国と大和朝廷の直系的相関」を前提としての大和説であり、同じく本質的な論自体の進展はない。いわゆる「東大対京大の学閥論争」として注目を浴びたことで、その限りに於いて邪馬台国論の世間的関心を高めたところに功績が認められるように思われる。

【木村鷹太郎の「エジプト説」】

 1910(明治43).7月、バイロンの紹介やプラトン全集の翻訳などで知られていた哲学者で翻訳家の木村鷹太郎(1870ー1931年)が、「読売新聞」紙上に「東西両大学及び修史局の考証を駁す──倭女王卑弥呼地理に就いて」を発表した。同氏は、「邪馬台国=エジプト説」を唱え、内藤教授の「卑弥呼考」による邪馬台国=畿内説、白鳥教授の「倭女王卑弥呼考」による邪馬台国=北九州説の両説に真っ向から噛みついた。ここに三つ巴論争の原形が定まった。(「邪馬台国はエジプトにあった!?─木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説─」参照)

 木村鷹太郎のエジプト説は奇異な感じがするが、九州、近畿の両説の欠陥を激しく揶揄するところにおいては鋭いものがあり、今日の水準においてもなお精彩を放っているといえる。こうしてみれば、邪馬台国論争とは、当初より九州説と畿内説とその他異説との三つ巴の論争として捉えることが史学的であり、九州説と畿内説との二大論争かの如くに流布することは正確とはいい難く、問題ありと云えるであろう。

 木村は、九州説、畿内説のご都合主義的「原文読み替え」に異議を唱え、次のように批判した。

 「卑弥呼地理に関する彼等諸氏の考証此くの如くそれ散漫ならずんば、牽強附会にて、何等学術的考証と称するに足らず。要するに対馬、末廬、伊都或は邪馬台等の地名の日本のそれに似たるものあるに誘はれて前期の如き見事なる牽強附会説を出現したるものゝ如し」。
 「若し之をしも考証なりとせば嗚呼大学の専門史家なる者は天下の最大愚物と称すべき也」。

 その上で、「然り、卑弥呼地理は日本を謂へるものなりと雖『極東日本』の地理を謂へるものに非ずして、他の地理を謂へるものなり」として次のように推定した。

 「請ふ伊太利[イタリア]、希臘[ギリシア]、埃及[エジプト]及び亜拉比亜[アラビア]等の古代地図を披け、卑弥呼地理の説明は此に之を求めざる可からざるなり。余が日本古代史の地理は希臘、埃及、亜拉比亜等の地図を以って説明せざる可からずと唱道すると同時に、支那[シナ、中国]歴史の内にも亦西方地理の混入せるを想はずんばあらざるなり。其西方より植民し来れる支那人中、西方歴史地理を携え来りて、東洋に於て編纂せる史書中に之れを雑入したるは蓋[けだし]有り得べき事たるなり。魏史倭人伝の歴史地理の如きは正しく是れなり。然りと雖[いえども]其詳細は此に略す。

 倭人伝中の倭女王国とは、これ吾人日本人が太古欧亜の中央部に居を占め、伊太利(新羅)、希臘(筑紫)、亜拉比亜(伊勢)、波斯[ペルシア、現・イラン]、印度[インド]、暹羅[シャム、現・タイ]等は吾版図たりし時代を謂へるものなり」。

 即ち、概要「邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説が、倭人伝本文の地理上の方角、里数、日数、月数、地名等、殆どの部分を書き代えて、強いて日本の地理に合わせようとしたものであるのにたいして、木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説では、どこも訂正する必要もなければ、不自然な読み方をする必要もない。魏史倭人伝の語る地理が、矛盾なく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまる」(「邪馬台国論争100年の不毛」の「決着がつかない邪馬台国論争3」の「権威主義の弊害2」)と誇っている。

 こうして、魏志倭人伝は、地中海から東アジアに及ぶ広大な地域を支配していた時代の日本を記録したものであり、この記録を携えて西方から移民してきた中国人が、東洋で編纂された歴史書の中に、この記録を混入させたのが魏志倭人伝だと所論した。こうして次のように比定した(「木村説に基づく航路図」) (以上の行程を地図にしてみたので、参照されたい。)

帯方郡  ケルト人の国を指す。ケルト(Kelt)は「帯」を意味するギリシア語ケレト(Keletos)が語源である。ケルトは古代のドイツ、フランス一帯の称。魏志倭人伝の旅行者は現在のヴェネツィア付近から出発した。
韓国  ガラ(Galla=Gallia)[ガリア]すなわちイタリア北部の総称を指す。
狗邪韓国 くやかん  イタリア半島の南東部、カラブリア地方を指す。。カラブリアは「化粧」の意味で、そのギリシア語名はクジォ Xyo つまり狗邪(クジャ)である。
瀚海 かん  アンブラギア湾(ギリシア西岸)を指す。瀚(ハン)は「ワニ」の意で、神功皇后が西征の時出発した和珥津[わにつ]=ワニツア Vonitsa の所在地である。(神功皇后は第14代仲哀天皇の后で第15代応神天皇の母。「記紀」では朝鮮半島南東部にあった新羅を征伐したことになっているが、事実かどうか疑わしい。日本書紀では卑弥呼と同一人物とされている)
壱岐国 いき  アンブラギア湾の南方、リューキ(Leuci)島(レフカス島)を指す。
末廬国 まつろ  ギリシア、ペロポネソス半島の西北にあったアハヤ国のオエノエを指す。オエノエ(Oenoe)はラテン語でマツロ(Maturo)である。
伊都国 いと  マンチネヤ(マンティネイア)と推定できる。これは末廬の東南にある。 イツ(Ithys)は神を祭り斎く所の意。
奴国  ペロポネソス半島東部、アルゴリス国のアルゴス府を指す。「アルゴス」は船の意、船はギリシア語で「ナウ Naus 」と言い、これが「ヌ」となった。
不弥国 ふみ  アルゴリス国のハーミオネ(Hermione)府を指す。語尾を略せば「ハーミ」で、これが「フミ」になった。
投馬国 とうま  クレタ島を指す。不弥国の南にある。クレタ島の伝説にある怒牛タウロメノス Tauromenos がタウロマ、タウマと変化した。これがクレタ島の別名となった。(木村自身の書いた日本太古小史では以上のようになっているが、戸高一成氏による木村説の引用によれば、「クレタ島の首都はゴーチナで、その語源はゴルゴス Gorgos で悍馬(あばれ馬)を意味する。あばれ馬に人が乗ろうとするとすれば投げ出される、すなわち『投げる馬』である」という説になっている)
邪馬台国 やまたい  エジプト、スエズ付近を指す。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。
狗奴国 くぬ  邪馬台国の南を指す。エジプト南部のクネ Kumne(あるいはクメ Kumme)。垂仁天皇の行幸があった来目(くめ)の高宮の所在地である。

 なお、女王卑弥呼は神功皇后と同一人物であり、その橿日(かしひ)宮はギリシア北西岸のエピルスのカシオペアである。皇后の「征伐」した新羅とは、エトラスカン人(エトルリア人のこと)の国で、その首都はローマであった。日本書紀に出てくる新羅三王の名は、ローマのタークイヌス王家(タルクイニウス。ローマ王国(紀元前7~6世紀)の王家でエトルリア人。もちろん時代が合わない)の中の3王である。また、卑弥呼の後継者、壱与(いよ)はエジプトの伝説上の女王イオ Io である(イオはギリシア神話に出てくるニンフで、エジプトの女神イシスと同一視される)。

 「此に於いて東西両大学諸賢等の、堂々たる大論文は尽く反古と成り了り、鐚[びた]一文の価値だに無く、徒に日本の歴史家なる者の論理力なく、其所謂[いわゆる]考証なるものは、只是れ牽強附会に過ぎずして、且つ甚しき無学を表す所の記念として遺れることこそ墓なけれ。此くして彼等の考証は死亡せり」。

 木村は、かって日本人は「太古欧亜の中央部に居を占め」、「伊太利(新羅)、希臘(筑紫)、亜拉比亜(伊勢)、波斯、印度、暹羅等は吾版図たり」とも主張した。彼にとって、日本人とは、古代エジプト人にして古代ギリシア人にして、しかも古代ローマ人であり、かってアフリカ、ヨーロッパから東アジアに至る版図を支配していた優秀な民族であった。古事記や日本書紀の語る世界は全て全世界に拡大され、そこに登場する神々はことごとくギリシア神話の神々や聖書の登場人物と結びつけられた。木村は自らの歴史学を「新史学」と称し「旧史学」者たちを罵倒した。その壮絶な「新史学」の詳しい内容については、別稿「疑似歴史学事典/木村鷹太郎の「新史学」、木村鷹太郎の世界 ──『海洋渡来日本史』を読む」参照のこと。

(私論.私見)
 木村説は、これまでの邪馬台国論争の邪馬台国と大和朝廷の直系的相関説、本居的矮小説の欠陥を批判したところに功績が認められる。但し、邪馬台国=出雲王朝&アイヌ蝦夷王朝説に至らず、その代わりに西欧史観的エジプト説を唱えることで却って自滅している。

【橋本増吉の九州説/「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」】

 橋本増吉は、内藤・白鳥論争が開始された同年の1910(明治43)年、「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」(史学雑誌第21編第10、11、12号。1932年、「東洋史上より観たる日本上古史研究」所収)を発表し、内藤説を批判した。橋本は、卑弥呼の時代を崇神朝と考え、この時期には大和王朝の支配は筑紫に及んでおらず、北九州にあったと比定される奴国や伊都国を支配していた邪馬台国は大和ではなく九州と考えるべきとして、那珂通世の「上代紀年考」の所説を引用しながら、邪馬台国を大和、卑弥呼を倭姫命とする内藤説を批判し、久米邦武の筑後国山門説を支持した。


【喜田貞吉の折衷説】

 喜田貞吉は、卑弥呼は大和朝廷の傘下の九州の王であったが、魏志倭人伝の編者が卑弥呼の本拠地と大和朝廷のそれとを混同して不弥国のはるか南に邪馬台国をもってきたとする「折衷説」を唱えた。

 唯一の資料ともいえる「魏志倭人」伝の方位と里程を記載通りに追証していくと、それは九州でも畿内でもなく、はるか太平洋上に存在していたことになると述べ、邪馬台国論争が決着を見ない理由とした。事実、内田吟風の「沖縄説」.松本彦七郎の「ジャワ説」等は、そうした事情を背景に登場してきた。

(私論.私見)
 喜田説の問題は、邪馬台国問題の根幹である邪馬台国から大和王朝へ至る王統譜の解明に向かわぬまま、技術論的な解釈傾向を打ち出したことにある。これが新たな潮流となって今日まで及んでいる。

【山田孝雄の畿内大和説/「狗奴国考」】

 1910年、山田孝雄が「狗奴国考」(京華日報社)を著し、「魏使は伊都国にとどまり、伊都国以降の記述は伝聞」とする説を唱えた。方位については、南を東の誤りとし、山陰海岸沿いの日本海航路を推定し、投馬国を但馬、邪馬台国を後の大和国に比定した。邪馬台国と敵対していた狗奴国を毛野国とした。


【志賀島金印論争】
 白鳥・内藤論争の後を受け盛んに論評されるようになった邪馬台国問題だが、明治から大正にかけては 志賀島で発見された金印を巡っての論争が再発した。稲葉岩吉(1876ー1940)は、明治44年に著した論文の中で、落合直澄が唱え三宅米吉が広めた「漢の委の奴の国王」という金印の呼び方が誤りであるとした。この年、内藤虎次郎が発表した「倭面土=委奴=邪馬台=大和(これは全てヤマトと呼ぶ)」説に基づいて、委奴をヤマトと呼ぶべきだと主張した。大和説の援護射撃と受け取ることができよう。

 これに対して、喜田貞吉(1871ー1939)は、倭面土国は倭奴国と同じものであるという考えは、ただ発音が似ているというだけで何の歴史的な証明もないと反論した。二人は, 「稲葉君に質(ただ)す」、「喜田博士に答ふ」、「稲葉君の反問に答ふ」と論戦を繰り返 した。これとは別に、中山平次郎(1871ー1956)は、金印が倭国の大乱のあおりを受けて隠されたものである、という説を発表した。

【大正初期】

【津田左右吉の研究/九州説】
 1913(大正2)年、大正昭和にかけて日本書紀・古事記の研究に従事していた津田左右吉が「神代史の新しい研究」を発表した。同論文で、記紀の記述の多くが後世の朝廷で創作されたものであるとして、卑弥呼に関わる事件や人物を記紀の記述に結びつける研究傾向を批判した。その上で、邪馬台国の比定地について、邪馬台国の行程記事には使節の距離誇張があり、但し邪馬台国が奴国や不弥国の南方にあつたことは疑いないとして、地名から推して筑後国の山門郡とするのが穏当であろうとした。

 津田氏はその後、1919(大正8)年、「古事記及び日本書紀の新研究」、1924(大正13)年、「神代史の研究」、「古事記及日本書紀の研究」等々を著して、当時の学会に旋風を巻き起こした。これにより、学会の空気が記紀批判へと一変することになった。

【大正初期の諸研究】
 大正時代の邪馬台国研究の特徴は、「邪馬台国東遷説」の出現と考古学者の参加であった。

 1915(大正4)年、渡辺村男が、九州説/「邪馬台国卑弥呼と女山」(筑紫史談第7集)を著し、女王卑弥呼の都を筑後国山門郡女山と比定した。

【喜田貞吉の研究、九州説】
 1916(大正5)年、喜田貞吉も、「遺物遺跡上より見たる九州古代の民族に就いて」(史林1の3)の中で考古学的遺物について言及しており、卑弥呼の墓を北九州の円墳ではないかと述べている。

 1917(大正7)年、「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」(歴史地理第30巻第3、5、6号)を発表している。喜田は、考古学的遺物・遺跡と、魏志の記事から、倭人を朝鮮半島の一部から九州地方に住したものと考え、さらに魏志の記事は邪馬台国と大和朝廷を混同したきらいがあるとして、女王国への行程記事のうち、方位の南だけを採り、邪馬台国を星野恒に従い、筑後国山門郡とした。

 1917(大正6)年、喜田貞吉が、「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」(日本歴史地理学会)を刊行した。倭人を日本民族論の観点から論じ、卑弥呼は筑後国山門郡に居た大和朝廷傘下の九州の王であるとした。卑弥呼は九州の国々を代表して魏と通交した。魏志倭人伝の編者は卑弥呼の国と大和朝廷を混同して、邪馬台国をはるか遠くにもってきたと述べた。

【大宰府天満宮蔵本「翰苑」が発見される】
 1917(大正6)年、黒板勝美氏によって大宰府天満宮蔵本「翰苑」が発見された。「『翰苑』から」を参照する。「翰苑」の編纂者は張楚金である。これがどういう経緯で大宰府天満宮蔵本になっているのかは今後の調査に待つ。「翰苑」には誤字・脱字が多過ぎることなどから史書としての価値は低いとされているが、倭人及び邪馬台国に関する記述があるので注目しておくだろう。これを確認しておく。

 冒頭の標題に「憑山負海鎭馬臺以建都」とある。「山に憑り海を負いて馬臺に鎭す。以って都を建つ」と読み下されている。馬臺は邪が欠落したもので邪馬台国のことだと考えられている。「廣志曰く」として次の文がある。「邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰く、倭國東南陸行五百里、伊都國に到る、又南邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸數道里、略載を得ること可。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り、布帛は無く、革を以って衣と爲す、蓋し伊耶國也」。「邪届伊都、傍連斯馬」も同様の欠落が認められる。邪馬嘉国の嘉をどう見るべきか。臺と酷似しており嘉は臺の誤字とすれば邪馬台国のことだと考えられる。「翰苑」文には魏志倭人伝と異なり、奴国、不弥国、投馬国が見えないが、斯馬国、巴百支国、伊邪国が登場している。魏志倭人伝の斯馬国、已百支国、伊邪国のことだと考えられる。また「百女国以北、其の戸數道里、略載を得ること可」とあるが、倭人伝では「自女王国以北、其の戸数道里、略載を得ること可」となっている。「百」が「自」の誤字と考えられる。

【大正中期】

【和辻哲郎の九州説】
 1920(大正9)年、東京大学の哲学者和辻哲郎(1889~1960)が白鳥庫吉の九州説を踏襲し、「古代日本文化」を著した。同書の中で、邪馬台国九州説を唱え、古事記・日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致 を指摘している。更に和辻は、大和朝廷は邪馬台国の後継者であり、日本を統一する勢力が九州から来たのであり、その伝承が大和朝廷に残っていたのだと主張した。

 和辻は、伝承のみでなく、邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現、銅矛銅剣文化圏と神話との一致、即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について全く記事がないことなどにも言及し、神武東征を史実あるいは史実に近いものと考えた。この説は、主に東京大学の学者を中心に支持され発展し続けた。その後も東大教授のみならず、栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清、 榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎、井上光貞、森浩一、中川成夫、金子武雄、布目順郎、安本美典、奥野正男といった幅広い分野の学者達がこの立場に立っている。

 卑弥呼=天照大神説は、結局、邪馬台国東遷説に発展する。すなわち、九州にあった邪馬台国は、 その後、東に勢力を伸ばし、大和朝廷を打ち立てるというもので、記紀にいうところの 神武天皇の東征からの発想である。ただ、和辻哲郎は、日本の国家統一の機運を3世紀以降のこととしている。皇紀の年代観から完全に開放されているわけで、これは、考古学によるところが大きいのだろう。

 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。
(私論.私見)
 和辻説は、本居的迷妄から抜け出したところに意義が認められる。但し、「卑弥呼=天照大神、邪馬台国東遷説」へと歩を進めたことにより却って、伝統的な邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探めることになった。ここに功罪が合わせ鏡になっているように思われる。

【富岡謙蔵、高橋健自、梅原末治の畿内大和説】
 1920(大正9)年、富岡謙蔵が「古鏡の研究」を著し、考古学の立場から大和説を展開した。

 1921(大正10)年、高橋健自(1871ー1929)は考古学会の例会で次のように語って、考古学者も邪馬台国問題に大いに発言すべきであると主張した。
 「邪馬台国問題のようなものは,文献だけでいくら研究しても解決しない。当然我々考古学者が手をつけなければいけない問題であって、考古学的に考えないと到底解決には至らない」。

 そして、古屋清と富岡謙蔵(1871-1918年)の論文に触れている。

 大正10年、11年、富岡の弟子であった梅原末治が論文を発表し、師富岡の説を発展させ、九州北部の甕棺や銅剣・銅鉾文化と、畿内の銅鐸文化の違いについて述べ、考古学的には邪馬台国は畿内の大和にあったとした。  

 1922(大正11)年、山田孝雄が、「狗奴国考 古代東国文化の中心」(考古学雑誌第12巻第8、9、10、11号)を発表し、大和説を展開した。次のように述べている。
 概要「魏使は伊都国にとどまり、伊都国以降の記述は伝聞に過ぎないと考えられる。方位について、南とあるのは東の誤りである。山陰海岸沿いの航路で向かい、投馬国は但馬、敦賀から上陸1月で達する邪馬台国は今の大和国である」。 

 1922(大正11)年、三宅米吉が、「邪馬台国について」(考古学雑誌第12巻第11号)を発表し、大和説を展開した。次のように述べている。
 概要「不弥国より南行して邪馬台国に至るとあるが、南は東の誤りである。瀬戸内海航路を通っており、投馬国は鞆(広島県福山市)である。上陸地から邪馬台国に至るのに陸行1月とあるのは、1日の誤字である。延喜式の主計式に、大宰府への行程を陸路のほかに海路30日としており、これに拠れば、不弥国より水行く30日で行けたという邪馬台国は大和にあったと考えられる」。

 1922(大正11)年、豊田伊三美が、「邪馬台国論を読みて」(考古学雑誌第13巻第1号)を発表し、大和説を展開した。次のように述べている。
 概要「伊都国から後の方向、里程、国名の記事は、郡が伊都国で聞いたもので、また里程は、伊都国を起点としたものである。投馬国は但馬(兵庫県)に比定できる。投馬国も邪馬台国も九州から見れば東であるが、航路が相違していたものと想定し、投馬国へは山陰の海岸を進み、邪馬台国へは瀬戸内海を経て、中国地方の或る地点から1ヶ月で達したと考えられる」。 

 1923(大正12)年、梅原末治が、「考古学上より観たる上代の畿内」(考古学雑誌第14巻第1、2号)を発表し、大和説を展開した。次のように述べている。
 概要「墳制のもっとも古式なものが畿内にあり、外形の完備は、2、3世紀代であると認めて誤りがない。畿内文化が以前に対立していた北九州の文化をも併せた年代が、魏晋時代の3、4世紀の間にあるとし、この大和朝廷の墓制を表徴する文化の伝播は、わが国家の発展を示唆するものである」。

【大正後期】

【大正後期の諸研究】
 大正時代の終わり頃に提起された考古学的見地から見た邪馬台国論は、その遺跡遺物の多さから邪馬台国=大和説を唱える者が多かった。邪馬台国東征説の和辻哲郎に対して、高橋健自は、前方後円墳は日本独自の墳墓であり広く畿内に分布していることから、邪馬台国も畿内であったと推論できると主張した。

  これを契機に考古学の成果を基にした研究があいついで発表される。坪井九馬三「支那古地理志の解釈について」、中山太郎、笠井新也、山田孝男、三宅米吉、白鳥庫吉、豊田伊三美といった論者達が、考古学関係の雑誌を中心に次々と自説を発表した。

【高橋健自の大和説】
 1922(大正11)年、高橋健自が「考古学上より観たる邪馬台国」(日本考古学会)を発表し、卑弥呼の時代が古墳時代であるとする前提から、畿内に成立した古墳が東西に伝搬すること、前漢鏡が北九州、後漢三国六朝時代の鏡及びその模造鏡が近畿に集中しているとして、「文化的に見て邪馬台国が大和たるべきを推断」した。考古学者の観点から邪馬台国大和説を裏付けた。

 次のように述べている。
 概要「邪馬台国は日本の首都であり、文化の中心点である。卑弥呼の時代は、高大な墳墓が造営された時代であり、この古墳は大和及び畿内に成立し、九州や関東地方に伝播したものである。漢魏時代に属すべき鏡及びその模造鏡が、最も盛んに近畿地方に発見されており、文化的に見て、邪馬台国が大和たるべきである」。

【笠井新也の畿内大和説/「卑弥呼=倭トトヒモモソ姫の命」説】
 1922(大正11)年、考古学者・笠井新也(1884~1956)が「邪馬台国は大和である」(日本考古学会の考古学雑誌第12巻第7号)を著し、「卑弥呼の時代は崇神の時代で、崇神の姑(おば)である倭トト日百襲姫(やまとととひももそひめ)の命が卑弥呼であり、マキムク古墳群の中にある箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と述べ最も論理的に大和説を説き始めた。これは、現在でも大和説論者に多くの継承者がいることでその洞察力が窺える。笠井は、邪馬台国当時は大和朝廷がすでに日本を統一しており、その政治的な勢力・文化的な影響は九州勢力をも支配していたとする。魏志倭人伝の方位記事に対しては、東を南と誤記していると解し、山陰沿岸航路を利用して、投馬国を出雲に比定し、敦賀から上陸、陸行く1月にして達する邪馬台国は倭国であるとした。

 次のように述べている。
 概要「邪馬台国の位置推定には、地名、遺跡、行路行程の一致が必要である。邪馬台なる地名が大和に当てられるのはもっとも妥当であり、遺跡は、地形及び古墳文化の研究が大和を格好の比定地としている」。

 続いて、1923(大正12)年、「卑弥呼時代における畿内と九州との文化的並に政治的関係」、1924(大正13)年、「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」を著わす。上記3編は、18年後の昭和17年(1942)、続編・「卑弥呼の冢墓(ちょうぼ)と箸墓(はしはか)」と共に笠井新也の名を不朽のものとした。

 次のように評されている。
 「そして卑弥呼は倭姫命であるという新説を提出した。白鳥と内藤との間にはそれぞれの説をめぐっての論戦があったが、白鳥説を補強するかたちで邪馬台国九州説に関する論陣を張ったのは橋本増吉であり、他方、内藤説を支持しながら卑弥呼を倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)に比定し、その墓は奈良県桜井市箸中にある箸墓(はしはか)古墳であるとしたのが笠井新也であった。この間、富岡謙蔵や梅原末治らの銅鏡、および考古学的遺物からみた邪馬台国への言及があって邪馬台国大和説は大きく膨らんだ」。
(私論.私見)
 笠井説の意義は、出雲王朝系の倭トト日百襲姫の命を卑弥呼としたことにより、邪馬台国と大和朝廷の関係を異系なものとして捉える機会を提供したところにある。問題は、笠井氏が、伝統的な邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。これは矛盾であるが、当人はどのように受け止めていたのであろうか。
 「鳥居龍蔵と徳島の仲間たち」は次のように記している。 
 鳥居龍蔵は、1888年、坪井正五郎の来徳を機に、徳島の仲間たちと「徳島人類学材料取調仲間」を組織し活動を始めた。しかし、1892年12月、龍蔵が一家をあげて東京に移住した後、徳島の仲間たちの活動は次第に停滞するようになった。その後の徳島の考古が研究を担ったのが笠井新也である。笠井新也は1884年美馬郡脇町に生まれた。脇町中学校を卒業後に、国学院に入学、同大学高等師範部国語漢文歴史科を首席で卒業。徳島県立高等女学校教諭、徳島県立脇町中学校教諭、徳島県史蹟名勝天然記念物調査会委員など歴任。1956年、71才の生涯を終えた。笠井新也は、徳島の考古学研究分野で数多くの業績を残したほか、邪馬台国研究においても卑弥呼の墓[箸墓説]を唱えるなど注目すべき業績を残した。このほど、笠井家に未発表原稿や研究ノート、日記などが一括で保存されていたことが判明した。そのなかには、鳥居龍蔵が1922年に発掘した徳島城山貝塚についての詳細な発掘記録もある。多くの研究業績を残した笠井新也について今まであまり取り上げられることはなかったが、大量に残された遺稿や研究ノートを紹介しながら新たな笠井新也像を語ることにしたい。

【橋本増吉の反大和説】
 橋本増吉はこれらの大和説に対抗し、高橋健自の考古学重視を批判した。「歴史学者があまりに識見のみで発言するのも問題だが、考古学者が遺物に固執してその解釈に依存するのも事実を見えなくする」などと述べて、考古学的な見地の幾つかに疑問を提示した。即ち、前方後円墳の成立は考古学者の言うように製作年代が判明している訳ではない、畿内の銅鐸文化が九州文化よりも古いと云う確証など何もない、とかの批判を投げた。

 これに対し梅原末治が反論したが、さらに橋本の反撃を受け沈黙した。橋本は、本来邪馬台国問題は魏志に記された記録上の問題であって、 現在の考古学者は記録など無視し考古学の成果しか見ていない、もし考古学の成果を歴史解釈に用いるのであれば、 それはその成果が確立不動のもので、何処にも異論のないものでなければならない。又、考古学者も、社会学・民族 心理学・人類学・土俗学・言語学・史学等の諸科学と相協力して真理に到達すべきである、と説いた。 この橋本の反撃は、考古学者達に遺跡遺物のみで判断していた態度を反省させたと、後に井上光貞も指摘している。
(私論.私見)
 橋本説の問題は、他者の作法を批判しても、王統譜や所在地比定の問題に何らかの前進寄与せねばならないところ、如何なるものを提起したかというところにある。

【昭和初期】

【梅原末治「鑑鏡の研究」】
 1925年、梅原末治が、「鑑鏡の研究」(大岡山書店)を刊行し、鏡の資料作成を徹底し、一部に同ハン鏡の存在を認め、鏡の伝世や銘文解釈を行った。

昭和初年の頃の諸研究

【安藤正直が九州説「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」】
 1927(昭和2)年、安藤正直が「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」を著し、伊都国起点説を主張した。魏志倭人伝にいう所の奴国以下邪馬台国までの行程・方角は伊都国を起点としているというものである。これは以前にも豊田伊三美が唱えていたが安藤が大系化した。即ち、不弥国へは伊都国から東百里、奴国へは伊都国から東南百里、投馬国へは伊都国から南水行二十日、そして邪馬台国へは伊都国から南へ水行十日、陸行一月ということになる。安藤氏はこれにより、邪馬台国を熊本県下益城郡佐俣(さまた)であると比定し、その理由として邪馬台の音が[ざまた]か[さまた]でなければならないとした。

【志田不動麿、畿内大和説「邪馬台国方位考」】
 安藤が「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」を発表したその年に、志田不動麿は「邪馬台国方位考」(史学雑誌第38編第10号)を著し、史学雑誌に発表した。邪馬台国へ至る行程記述を「もし水行ならば十日、もし陸行ならば一月」との並列式読み取り解釈法を提起した。志田は安藤の方位解釈に異を唱え、邪馬台国大和説を主張した。次のように述べている。
 概要「魏志は末ラ国より伊都国、伊都国より奴国への方位を東南としているが、実際は東北である。この記録と実際との差異を黙殺して樹立したのが九州説である。また、いかに交通不便の古とはいえ、博多方面より筑後の野に至るまで月余を費やす要があろうか。『南至邪馬台国』も東の誤記である。『水行十日、陸行1月』は『水行すれば十日、陸行すれば1月を要す』と解するべきである。投馬国は鞆の港、女王国は大和である。列記された21カ国は、九州沿岸より瀬戸内海の南北地域(中国、四国)及び畿内を中心とする地域に及ぶべきで、『其南有狗奴国』とあるのは邪馬台国の南と解すべきで、熊野に比定したい」。

 同年、白鳥庫吉は「倭女王卑弥呼問題は如何に解決せらるべきか」を発表した。白鳥は、倭人伝の記述に現れる勾玉等の産物に着目し、この記述は真珠であり昔から真珠は九州で多く採れるものであると述べた。
(私論.私見)
 問題は、この頃より、王統譜の解明が抜け落ちたまま所在地比定に終始し始めたところにある。以下、同様であるので繰り返さない。

【太田亮の津田説批判】
 太田亮(1884ー1956)は、「邪馬台国の発生と其崩潰」を公表した。 邪馬台国を熊本県菊池郡山門郷に比定し、その理由を邪馬台は[やまと]であるからとし、神武東征によりその呼び名が近畿の大和に残ったとした。太田は、神武東征などの神代の話を事実でないとする最近の説が、古事記日本書紀等のもつ資料的価値を破壊してしまったと述べて、津田左右吉の記紀批判に対抗した。太田の説は津田旋風の風潮を諫めようとするものであった。

【「生口論争」】
  昭和3年から5年にかけて、今日「生口論争」と呼ばれる一大論争が巻き起こる。 1928(昭和3).9月に、中山平次郎は、「考古学雑誌」に「魏志倭人伝の生口」を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈 したが、明くる年の1月、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から 贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。

  この後、二人の間で毎月のように生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎(生没年不詳)が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔(1867-1934年)がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎(1864-1947年)は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。 直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており 奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。

【唯物史観史学の登場】
 日本に於けるマルクス主義的唯物史観史学そのものの成立は、1927(昭和2)年の野呂栄太郎(1900-1934)の「日本資本主義発達史」に始まる。その後、古代史 の分野でもこの史観に基づく論文が続々と発表される。早川次郎(1906ー1937)の「大化改新の研究」は邪馬台国問題をこの 立場から取り上げた最初の研究として知られる。禰津正志、渡部義通、伊豆公夫らが後に続き、これらの唯物史観史学者たちの邪馬台国位置論は大和説に大きく傾いていた。
 1930(昭和5)年、末松保和が発表した二つの論文「太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文に就いて」と「魏志倭人伝解釈の変遷-投馬國を中心として-」(青丘学叢第2号)が幕開けとなり、唯物史観史学が始まった。末松は、邪馬台国研究史に着目し大和説に加担した。次のように述べている。
 概要「倭人伝の全文をありのままに解すれば、近畿説の読み方の方がより合理的である。考古学から見ると、大和に北九州をも含む体勢の確立した年代が、3世紀末より遡ることだけは、今のところ動かない。考古学からすれば、魏志の邪馬台国は大和でなければならない。日本古典との対照は今後の研究に俟つとして、倭人伝そのものだけについて考えて、邪馬台国大和の説に加担する」。

 末松は、概要「生口問題は、奴隷・捕虜の問題、財産所有形態の問題、生産技術の問題に発展すべきである」、「このような考察には畏友羽仁五郎から受けた刺激と暗示が大であった」と述べている。

 末松の後を受けた研究は、橋本増吉、伊藤徳男、田村専之助らが引き継いだ。こちらは、邪馬台国九州説が専らであった。しかしこれらの史観と関係なしに邪馬台国大和説もどんどん発表された。稲葉岩吉、肥後和男、梅原末治、志田不動麿、大森志郎、笠井新也、藤田 元治らが論文を著し、邪馬台国問題と大和朝廷の研究を行った。
(私論.私見)
 唯物史観史学の登場は、日本史研究に於ける新しい研究方向を出現させることになった。ここに意義が認められる。しかしながら、邪馬台国論に於いて、何ほどか寄与せしめたというものはない。

【大戦期の閉塞状況】
 時代は、古代史研究を大っぴらに行えないような環境に突入していた。昭和9年、10年ごろの日本史研究論文には「XXXXXXXXX」で伏せられた部分が実に多い。渡部義通は、自身の著書の検閲についてこう語って いる。
 「それにしても、いま漸くにして世の光に浴し得たものは、見る如く、惨然たる傷痍に損なわれ、殊に後半は、校了の後に至り、文章の 数行乃至数十行を削除して片影を止めず、文脈の全く巡り難きところさへ数カ所に亘っている。本書の生みの親として、この不幸なカタワ児を見るの苦痛は然ることながら、かかるものを真摯な研究者や読者に提供せねばならぬ苦痛には一層忍び難いものがある」(邪馬台国研究史8より)。

 戦前の史学研究には多くの障害が存在していた。下手に論文を発表すると、検閲や不敬罪どころか非国民と呼ばれた時代であり、為にiずいぶんと不自由な学問分野となった。
 1931(昭和6)年、中山平次郎が「邪馬台国及び奴国に関して」(考古学雑誌第21巻第5号)を発表し、畿内大和説を展開した。しかし、後に九州筑後説に転じている。

 1937(昭和12)年、稲葉岩吉が「魏志倭人伝管見」を著し、畿内大和説を展開した。

【津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究」発刊と蓑田胸喜の提訴】
 1939(昭和14)年、早稲田大学教授であった津田左右吉が、「古事記及び日本書紀の研究」、「神代史の研究」など4著を岩波書店より出版した。皇紀二千六百年の紀元節の前日の1940(昭和15)年2.10日、津田の「古事記及び日本書紀の研究」が発禁処分に付された。1940(昭和15)年3月、右翼の蓑田胸喜が、津田左右吉の著書4冊を「皇室の尊厳を冒涜するものである」とする訴訟をしていた件に関し起訴した。1942(昭和17年)5月、東京刑事地方裁判所の非公開法廷で禁錮3か月・執行猶予2年の有罪判決が出され結審した。当時皇紀2600年祭が行われたころであり、「天皇は、神聖にしておかすべからず」の象徴となった。これにより、日本の古代史の研究はほぼ停止した状態でその後も続く。

【大戦期の閉塞状況その後】
 1940(昭和15)年、田中勝蔵が「『倭』の字に就いて」を著し、筑後郡山門郡ないし肥後国菊池郡の山門郷を比定した。

 1943(昭和18)年、市村さん次郎「支那の文献に現われたる日本及び日本人」。筑後国のヤマトに比定した。  

 1943(昭和18)年、藤田元春「魏志倭人伝の道里について」(刀江書院)を著し、畿内大和説を展開した。




(私論.私見)