皇統譜考

 (最新見直し2007.10.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇統譜に関して確認しておく。

 2007.10.7日 れんだいこ拝


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目次
太田龍の皇統譜考
歴代天皇一覧
陽成帝の退位考
崇徳上皇の怨念
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(私論.私見)

「日本一の大魔王」崇徳上皇の怨念  井沢元彦
 最近、たまたま四国讃岐(香川県板出市)の崇徳上皇の御陵に参拝する機会があった。
 上田秋成が「雨月物語」の一編「白峯」に、この地を登場させたことは、余りにも有名であるが、その頃とは違って御陵のあたりは明るく整備されている。しかし上皇の遺骸が永遠の眠りについている墓のあたりは、昼なお暗く今にも化性の者が住んでいるようだ。
 「白峯」は歴史上の事実である西行法師の白峯御陵参拝に、崇徳院(上皇)の怨霊が現われるという虚構を付け加えた本邦屈指の怪談である。
 崇徳院はどのような怨念を抱いていたか、そしてそれはなぜ当時の人々に恐れられたのか。
 実は、日本の明治維新は崇徳院の「承認」のもとに行なわれた。近代以前、崇徳院は日本最大の霊威を持つ怨霊として、700年の長きにわたって恐れ続けられていたのである(これを怨霊として考えて良いのか、それとも神が罪を問いているのかを考えた方がいいと思う。日本は神の国である。神の国であるから霊界の現象をはっきり出る場所である。要するに悪いことを行えば、悪い結果を表面に出させるのである。これは心に刻む必要がある。しかし、外国はそれほど表面に出ないと思う。何故なら神が存在しないからである。だから外国は悪魔崇拝者が増えるのである。それ故に弱い者虐めが増えるのである。それが共産主義である!忍)。
「ミカエル大王様のメッセージ
 わたしは主、あなた(日本人)の神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
 孝明天皇が亡くなり、明治天皇が践祚したのは慶応三年(1887)年一月のことである。しかし、明治天皇は正式な即位をする前に、勅使として大納言源通富を遠く四国讃岐にある崇徳院の白峯御陵に派遣した。そして、院の命日にあたる八月二十六日に、その墓前で宣命(勅語)を読み上げさせたのである。長文にわたるので極一部を意訳すると、次のようになる。

 (明治)天皇の御言葉を白峯に眠られている崇徳院の霊にお伝えします。そもそも、
 過ぎし保元年間に、いまいましきことあり(保元の乱)、貴方様がこの讃岐に配流さ
 れ御憤死されたことは、大変悲しいことでありました。ここにおいて、私(明治帝)
 は先帝(孝明帝)の御遺志を継いで、貴方様の為に、京の都に新しい宮(神社)を建
 立致しました。どうか長年の怨念をお捨てになって、この源通富が御先導致しますの
 で京へお帰り下さい。そして、この後は天皇と朝廷をお守り下さい。また、最近、皇
 軍に反旗をひるがえしている陸奥・出羽の賊徒(会津藩や奥羽列藩同盟に属する諸藩
 )の鎮定と天下安穏の実現の御助力を賜りますよう、お願い申し上げます。

(理解出来ない。孝明天皇陛下の遺志は、公武合体の政策であった。そして上で見た様に天皇中心に政治が出来るようになったから!忍).こうして崇徳院の霊が9月6日、700年ぶりに京へ帰る事になった。
 明治天皇の即位の礼は、なんとこの翌日慶応4年(1868)の八月二十七日に行われているのである。あらかじめ、この崇徳院の命日に宣命が読み上げられることと、その翌日に即位の礼が行なわれることは、予定されていたに違いない。「明治」と改元されたのはしかも崇徳院の霊が京都に帰還した翌々日の九月八日のことである。崇徳院の「承認」を経てから、正式な改元の儀式を行う事も決められていたのだろう。
「王政復古」(この言葉に騙されてしまった。これは革命である。なぜなら孝明天皇陛下が暗殺の可能性があるから。そして家茂にあたっても暗殺の可能性があるから。主君を殺して政治を取るならば革命というだろう!忍)を行なうにあたって、朝廷はこれだけの配慮を、崇徳院の霊に対して行っている。
 どうして、そこまでする必要があるのか。
 崇徳院は平安末期の人、第75代の天皇陛下である。この天皇陛下はわずか5歳であった。そして23歳の若さで、父鳥羽上皇から、弟でわずか三歳の体仁親王への譲位を強要された(理由無しの譲位の強要は革命を意味している!忍)。体仁は崇徳の異母弟で、鳥羽上皇は美福門院という女性の生んだ体仁親王が可愛いあまり(実は、崇徳上皇は白河上皇の皇子ではないかと噂されている。それが原因で鳥羽上皇に睨まれたのではないかと!忍)に、崇徳を天皇の位から無理矢理追い払ったのである。これが近衛天皇陛下となる。ところが近衛天皇陛下はわずか十七歳で若死してしまった。当然、崇徳院は自分が再び天皇の座に返り咲くか、悪くても長子の重仁親王が位に就く事になると思っていた。
 ところが美福門院が邪魔をした。近衛の死は崇徳院の呪詛によるものだと、讒言したのである。鳥羽上皇は怒り崇徳院の復権のチャンスは消えた(悪魔ダビデの謀略か!忍)。
 ここに至って崇徳院はついに叛乱を決意した。左大臣藤原頼長、源為朝らを配下にして政権奪取を試みたのである(この時、為朝の作戦を受け入れなくて、逆に襲われた!忍)。これが保元の乱である。だが企ては失敗に終わった。崇徳院は讃岐に配流される事になった。如何に叛乱を企てたとはいえ、上皇が流罪になるとは前代未聞のことである。奈良の昔平城上皇も同じ事をしたが、頭を丸めれば許してもらえたのである。
 崇徳院は望郷の念を抱きつつ、流罪地の讃岐で五部大乗経の写経をした。五部大乗経とは法華経、華厳経、大品般若経などの五つの極めて功徳のある経のことである。この経を院は京へ送り、寺へ納めようとした。
 ところが朝廷ではこれを拒否し、経を讃岐に送り返したのである。
 院は激怒した。
 そして指を喰い破って血を出し、其の血で経に誓文を書き付けた。

 「この経を魔道に廻向して、魔縁と成って遺恨を報ぜん」

 この五部大乗経の大功力を全部悪いことに使う、そして魔縁(魔王)となって恨みを晴らす、というのである。更に院は誓いを立てた。

 「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」

 皇を取って民となす、とは革命の宣言である。天皇家を没落させ、天皇家以外の者をこの国の皇にするというのである(そうかな。崇徳院は強制的に廃位されたから、革命だとは思わない。そして、其の後政権に就いたのは一応皇族の血を流れている清和源氏であるから。まして、上で書いたけれど、清和源氏は、本当は陽成源氏であり、陽成天皇陛下も強制的に廃位されたから、其の恨みが神は認めて単なる天誅であるともいえるのである!忍)。
 これは、それまでの日本で、国の根本の規範として認識されていた「天壌無窮の国体」に真っ向から異を唱えるものである。「天壌無窮」とは、皇室の祖先神天照皇大神が孫の瓊瓊杵尊をこの国に天下りさせる際、述べた言葉の中にある文言で、

 「豊葦原の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宝祚の盛えまさんこと、まさに
 天壌と窮りなかるべし」

というものである(この時に、稲穂を与えられたのである。意味は稲穂を中心に栄えるように云う事である。この井沢氏は書き入れていない!忍)。
 是の日本の、天皇家の根本規範というべきものに、一度は天皇の位に就いた者が正面切って呪いをかけたのである。
 この世に恨みを抱いて死んだ者といえば菅原道真や後醍醐天皇も思い浮かぶが、この人々は正面切って天皇家を呪ったわけではない。「天皇家を没落させる」と言い切ったのは崇徳院だけなのである。
 しかも、その呪いは奇しくも実現した。
 院の没後すぐに平家の政権が我が世の春を謳い、次に初めての本格的な武家政権である鎌倉幕府が成立した。そして、その幕府を倒そうとした後鳥羽上皇は、臣下であるはずの北条氏によって流罪にされた。崇徳院を流罪にしたのはあくまでも天皇家の意志である。しかし、後鳥羽院は初めて臣下の手によって流された。当に「民を皇となさん」の呪いが成就したのである。
 これ以後、何か悪いことが起こるとそれは崇徳院の怨霊の仕業だと、広く信じられた。
 「平家物語」と並んで近代以前に親しまれた「太平記」には、崇徳院が金色の鵄に変身し、大魔王会議の議長としてこの世を混乱に陥れようと画策する場面がでてくる。第二十七巻雲景未来記事の章である。金鵄となった崇徳院が後鳥羽院、後醍醐院たちと「天下を乱り候うべき評定にてある」のである。「太平記」講談の原型だから、文字の読めない人にも広く親しまれた。
 崇徳院が日本の第一の大魔王であることは、貴族階級から庶民に至るまでの常識だったのである(是れからは、藤原高子の怨念が付きまとうでしょう!忍)。