陽成帝の退位考 |
(最新見直し2007.10.7日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
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「鬼信仰の原点は、藤原家が鬼信仰して、九鬼信仰を行った事(中臣系列)」その他を参照する。王統譜史上、「元慶八年二月、陽成天皇陛下の廃帝問題」がある。これを確認しておく。 貞明親王(後の陽成天皇)は、貞観11年2月、生後2ヶ月半で皇太子に冊立された。時の太政大臣、後に摂政として輔弼していた藤原良房と基経による摂政・関白政治時代のことで、強制的に廃位させられた。光孝天皇が後継として擁立された。光孝天皇陛下が、自分の子孫を天皇陛下にさせない為に、自分の子孫を臣籍に降ろした事がある。その臣籍から皇位付いたのが次の天皇陛下である宇多天皇陛下である。明治以降、官の公式の資料集は宇多天皇陛下から始まっている。 元慶8年における陽成天皇の廃位については、少ないながら種々な史料が遺されている。その中にあって最も基本的な史料は、「三代実録」に散見する関係記事である。但し、編纂者達は、上皇に対する大きな憚りがあった。陽成天皇の退位事件について、『禁省の事秘にして、外人知ることなし』という風に事件の真相を隠蔽する記述に骨を折っており、眼光紙背に徹する熟読が要請される。 政治の実権を掌握し、天皇を傀儡化する為に良房が案出した秘策は、当然、基経によって継承された。基経自らも、娘の頼子を清和天皇の後宮に納れ、頼子が皇子女を産む見込みがないと知るや、妹の佳珠子を後宮に送り込んでいる。良房の娘で、清和天皇を産んだ明子は、皇太后、ついで太皇太后に祭り上げられている。貞観18年11月、清和天皇は皇太子に位を譲り、基経に『幼主を保輔し、天使の政を摂行』せしめた。元慶四年十二月、陽成天皇は、臨終の清和上皇の命によって基経を太政大臣に任じた。元慶六年正月二日、陽成天皇が紫宸殿において元服された時、太政大臣で摂政の任にあった基経は、御冠を執って陛下に加えたし、またこの儀式において主役を演じた。更に彼は、同月七日、参議以上の上卿を率いて内裏に参り、御元服の祝辞を奉呈したことであった(『三代実録』)。これは、基経と高子の間に和解が成り立ち、一応、協調的体制が存した事実を指証するものである。 一体、養父の良房から秘策を伝授されていた基経は、政権を確保する為には、娘を後宮に納れ、かくして生まれた皇子を皇太子、ついで天皇に立てねばならぬことを知悉していた。そこで彼は、素早く頼子を清和天皇の女御とし、頼子が不妊と知るや、妹の佳珠子を同じ天皇の後宮に送り込んだ。後年になって基経は、温子を宇多天皇の女御とした。彼にとっては、実妹であろうと、これらは全て政権獲得の為の道具であった。そうした方針を堅持する基経であってみれば、当然彼は、元服を済ませた陽成天皇陛下に娘を配そうと企図したに相違ない。良房が文徳天皇の治世の末に太政大臣となり、清和天皇の貞観八年に、人民にして始めて摂政に任じられたのは、断じて棚牡丹式の幸運ではなかった。そこには心血を注いだ数々の陰謀(『承和の変』の時の恒貞親王の廃太子と『応天門の変』による藤原良相の失脚!忍)があり、平然として娘を攻略の手段に使う非常さがあり、それに幸運が絡んだのである。良房が必死になって獲得した勢威は、幸にも養子の基経に伝えられはしたものの、なんと言ってもまだ日も浅く、基経がもし一歩を誤れば、一家の勢力は失墜し、政治は天皇親政に逆転する可能性が多分にあった。そして陽成天皇に関しては、母后を後盾として親政に断行する懼れが強かった。基経は、萌芽の間に禍根を断とうとして、陽成天皇の廃位を決意し、実行に移したのであろう。要するに、基経による陽成天皇の廃位は、基経のあくどい政権慾に根ざすものと推断される。云々。 |
(私論.私見)