太田龍の皇統譜考

 (最新見直し2014.9.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、太田龍の皇統譜考を確認しておく。

 2007.10.7日 れんだいこ拝


【太田龍の皇統譜考】
 皇統譜に関して、「太田龍の時事寸評」の「長島銀蔵著『皇統正史』に関する寸評2つ「皇統正史」の著者、長島銀蔵とはどんな人物だったのか」を転載しておく。
 万世一系としての連綿たる皇統譜が云われるが、古代天皇史を別にしても、室町時代の南北朝抗争史から見えてくるのは、血統の断絶である。逆に云えば、血統は断絶しながらも天皇制は維持され今日まで存続していることになる。現代は、これをどう観るかが問われている。

 南北朝対立時代を検証する。室町時代に南北朝の抗争が始まったが、後醍醐天皇は南朝であり、この皇統は、現在の熊澤正照王(寛道王)まで続いている。足利幕府は、北朝を擁立した。しかし足利義満が北朝の血統を全殺させ、足利義満とその息子貞成親王の血統が北朝となった六代将軍足利義教の時代に、南朝系の血統を根絶せよ、との方針を打ち出し、根絶やしにしようとする迫害政策を採り続けた。足利義満とそのあとの時代に、北朝の血統は絶え、足利義満の血統が北朝と成った、してみれば、そのあとの北朝天皇は足利系天皇朝である、ということになる。明治天皇が、公式発表の如く、北朝孝明天皇の皇太子とするなら、足利系天皇の系譜ということになる。

 南朝は、応仁の乱の頃までは健在であったが、その後地下に潜り、熊澤系、三浦系、大室系となり、その系統は明治大正昭和まで生き延びている。
これは、長島銀蔵著「皇統正史」(昭和41年)に、詳しく述べられてある、とのことである。

 
熊澤大然尊憲王は、明治四十一年、十一月二日、第一回の上奉文を明治天皇に上奉した。熊澤大然尊憲王の上奉文が各界に伝わると、大きな波紋を引き起こし、遂に国会に於る大問題と成り、明治天皇は、明治十年に「大政紀要」を出版されて、南朝正統を裁決された。時の桂内閣は瓦解した。更に、明治十年元老院発行纂輯の御系図では、貞成親王の父は不詳、と明記してある。しかし、明治天皇が間もなく崩御されて、そのために、南朝熊澤天皇問題は事実上封印されてしまった、と。 

 太田龍&船井幸雄共著「日本人が知らない人類支配者の正体」219Pは次のように記している。
 南北朝時代の天皇は北朝(持明院統)と南朝(大覚寺)との間で、しばらくの間交互に選ばれましたが、南朝の第99代の後亀山天皇が、嵯峨の大覚寺に於いて、北朝の第6代・後小松天皇(1377-1433)に神器を譲り、皇統100代となり、南北朝の内乱は終わり、以後ずっと北朝が天皇の位を維持し続けます。孝明天皇は北朝系の伏見宮家の血統にあたります。北朝系の第3代天皇・崇光天皇の皇子・栄仁(よしひと)親王(1351-1416)が伏見宮の始祖です。明治維新以後に創設された宮家は、ほとんど伏見宮家の系統です。現在の天皇家も伏見宮家の系統なのです。

 「太田龍の時事寸評」の№683(2003.8.28日付け)「三種の神器についての北畠親房以来の致命的に危険な謬論を超克しなければならない」 を転載しておく。

 「文藝春秋」平成十五年九月号、四百六十六頁以下。立花隆「東條が心酔した平泉澄(さとし)の皇国史観 - 私の東大論(49)」ここに、平泉澄(さとし)が、北畠親房の「神皇正統記」を国史の典拠とした経緯が書かれて居る。北畠親房は、南北朝時代、南朝こそ正統の皇室であることを論証するために、三種の神器(鏡、玉、剣)を持ち出した。つまり、三種の神器を保持して居る南朝天皇にこそ、正統の皇位あり、と言う。もう一つの論拠、天孫降臨の神勅については、ここでは省略する。三種の神器についての北畠親房の説は根本的におかしい。しかし、その誤謬である理由を完膚なきまでに論証した人は、苗代清太郎である。苗代著では、古事記神代巻、天孫降臨の段。かがみ つるぎ たま。いずれも、もともと、漢字で表現された、モノの名として、出てくるのではない、と言う。この三つのことばは、家族共同体、民族共同体、国家共同体を作り上げて行くための、基礎となる思想と論理を表現したことたまである、とする。そして、その思想と論理をモノに託して、漢字の鏡、剣、玉、とする。古いやまとことばのことたまは、庶民の中では、ずっと後代になっても、大切に保存された。しかし、漢文にかぶれたインテリ権力者は、早くから、やまとことばを忘れた。従って、やまとことばで書いてある古事記の内容を、彼らは理解することが出来ない。南北朝時代の北畠親房には、やまとことばは皆目分らない。要するに、既に、日本人ではなくなって居る。北畠親房は、中国かぶれした、非日本人である。こう言う阿呆な人物の本を、国史の最大の典拠とは、笑止千万。更に、北畠親房の「神皇正統記」の精神を継承する、「大日本史」。これが、実は、中国の一番悪いところにかぶれたニセモノ日本史、以外の何物でもない。中国の一番悪いところとは何を意味するか。これはここでは省略する。(了)

 「太田龍の時事寸評」の№683(2003.8.29日付け)「苗代清太郎編「苗代清七回想伝」(昭和五年刊)」 を転載しておく。

 苗代清太郎国学の調査研究を進めて行くと、その第一前提として、苗代清太郎(明治三十七年 - 昭和五十八年)の伝記的知識が必須となる。ところが、「萬象の根元」(昭和三十一年)以降の戦後の著作には、明治三十七年大阪府生れそれから茨木中学校卒業、國學院大学卒業(昭和二年)、とあるのみで、その中味は何も分らない。大阪府(今の)箕面(みのう)市に生まれて、國學院大学を卒業するまでのことを知りたい。と念じて居たところ、このほど、昭和五年、苗代清太郎編苗代清七回想伝と言う、ガリ版(謄写版)印刷の貴重な文書を閲覧する機会を得た。苗代清七、とは、苗代清太郎先生の父上。この清七回想録で興味深いところは、日露戦争当時の状況である。日本軍が満州の陸戦で勝ち、日本海海戦で大勝すると、新聞の論調にも煽り立てられて、日本国民は、ウラルまで取れ、少なくともバイカル湖以東のシベリアを日本が取ることは自明、そして、ロシアから数十億の賠償金を取れ、と言った気分であったと言う。従って、ロシアとの講和条約の条件が公表されたときに、日本国民は、ただただ、呆然とした、と、清七回想録には述べられて居る。この「条件」とは、(1)南樺太を日本領に。(2)賠償金はなし。(3)朝鮮独立の保障。(4)旅順大連港は日本管理。(5)満州についてはロシアが若干、後退する。と言ったものである。苗代清七の長男、清太郎が出生したのは、まさにこの日露戦争の時代である。それにしても、当時の日本の新聞、そして新聞の論調を形成する日本のインテリ階級の軽佻浮薄なること、お話しにならない。しかし、ここでは、この件は省略する。日本の西洋かぶれインテリは西洋帝国主義の毒に、骨の髄まで、犯されて居る。この時代に生まれた苗代清太郎が、どのように学び、生長して行くか、いかなる思いで、國學院大学に進学することにしたのか。興味のあるところである。更に、続報する。(了)







(私論.私見)