崇徳上皇の怨念

 

(最新見直し2007.10.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 


 2021.5.17日、「【日本三大怨霊の一人】崇徳天皇とはどんな人?不遇の生涯と妖怪の由来となった逸話を解説 」。
 崇徳天皇は平安時代後期の天皇であり、日本三大怨霊の1人です。その畏敬の念は長年続き、崩御から800年が経っても歴史に影響を与えてきました。長年に渡り恐れられた崇徳天皇ですが、生涯はあまりに悲しく、そして儚いものでした。今回は崇徳天皇の不遇の生涯と怨霊になった逸話について紹介します。

 1119年、平安時代後期、鳥羽天皇藤原璋子の第一皇子として崇徳天皇誕生。鳥羽天皇の父親白河法皇が存命で、実権を全て握っていた。1123年、5歳の時、祖父の白河法皇が院政を行う為、天皇に即位する。白河法皇は成長して反抗する鳥羽天皇を退位させ、僅か5歳の崇徳天皇を即位させた。その経緯から崇徳天皇は鳥羽上皇から嫌われるという複雑な環境で育つ。1129年、白河天皇が崩御し鳥羽上皇が院政を開始する。崇徳天皇はかつての鳥羽上皇のように実権なき天皇となった。藤原璋子も白河法皇が崩御すると立場が悪くなる。1133年頃、鳥羽上皇が藤原得子を寵愛し、1139年、躰仁が生まれる。1140年、崇徳天皇にも重仁という跡継ぎが誕生。重仁が将来天皇になれば、崇徳天皇は治天の君として院政を行えた。鳥羽天皇は躰仁に譲位するよう崇徳天皇に迫る。崇徳天皇は躰仁が自分の皇太子になるなら譲位しても良いと同意(治天の君になるには形式上でも息子が天皇という条件が必要な為)。1141年、躰仁親王が近衛天皇として即位し、崇徳天皇は上皇となる。鳥羽上皇は崇徳上皇との約束を破り、近衛天皇を崇徳上皇の皇太弟としてした為に、崇徳上皇は院政をする事ができなかった。この頃、得子を標的にした呪詛事件が頻発し、犯人が璋子という風説が流され、璋子は出家。同時に「崇徳天皇は白河法皇の子ども」という噂も流れ、鳥羽法皇は崇徳上皇を叔父子と呼んで忌み嫌った。1145年、璋子死去。鳥羽法皇(1142年に出家)は臨終の際に大声で泣いた。実の父親に嫌われ、母親の後ろ盾もなくなり、崇徳上皇は歌の世界に没頭するようになつた。

 1155年、近衛天皇が17歳で死去。 実子がいなかった為、後継者問題が起こる。この時点で候補は3人・重仁親王(崇徳上皇の子ども)・雅仁親王(鳥羽法皇の子ども)守仁親王(雅仁の子ども) 雅仁は今様に没頭しており鳥羽法皇からも「即位の器量ではない」と言われていた。父親を飛び越えて守仁が天皇になる事は前例がなかった為、重仁が有力とみなされていた。1155年、守仁が即位するまでの中継ぎとして、雅仁親王が後白河天皇として即位。崇徳上皇は院政をする機会を完全に逃した。

 1156年5月、鳥羽法皇が崩御。崇徳上皇は直前に見舞いに訪れたが鳥羽法皇は拒絶。
鳥羽法皇崩御後、「上
皇と左府(藤原頼長)が軍を派遣し、国家を傾けようとしている」
と風説が流れる。これは後白河天皇の側近信西の
策略によるもので、崇徳上皇は次第に追い詰められる。7月9日、崇徳上皇は、拘束の危険を感じて鳥羽田中殿を脱出し、自らが治天の君になる事を宣言。藤原頼長等の貴族、源為義平忠正等の武士が集まる。後白河天皇側も予兆を察知。陣を構え、藤原忠通源義朝平清盛らが集結。いわゆる保元の乱が勃発した。保元の乱は天皇家の後継者争いだけでなく、藤原摂関家や武士同士の争いも巻き込んだ。武士がいないとお家騒動すら解決出来ない事が判明し、武士の立場を大きく引き上げた。


 保元の乱で崇徳天皇側は敗北。後白河天皇との抗争に敗れ、上皇でありながら讃岐(香川県)に流罪となる。 天皇上皇の流罪は400年ぶりの事であり、崇徳上皇は京都の地を踏む事はなかった。保元物語によると崇徳上皇は讃岐の地で、仏教に傾倒する。戦死者の冥福を祈る為、五部大乗経という大変手間のかかる写本を作り上げ、朝廷に納めようとしたところ、後白河天皇は「呪いが込められているのでは」と拒否。崇徳上皇は激怒し舌を噛み切って「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と写本に書き込む。その怨みは生涯続き、髪も爪も切らず生きたまま天狗のような姿になった。

 
1164年、崇徳上皇崩御享年46歳)。棺から血が溢れてきたと云う。遺体を火葬した際、煙は天に登らず東に流れ、人々は上皇が京都に帰りたがっていると噂した。崇徳上皇は罪人として扱われていた為朝廷は葬儀を行わなかったた。時代が流れ、頼長の子息や保元の乱で流罪となっていた貴族達が帰京しても、朝廷から措置はなかった。天皇は崩御後に名前がつけられるのが、当初は「讃岐院」と蔑んだ名前で呼ばれている。

 崇徳上皇死去後、京都では様々な災害や情勢不安が起こる。人々は崇徳天皇の怨みによるものと考えるようになった。1176年頃になると後白河法皇の側近達が相次いで死去。翌年には大火事や鹿ケ谷の陰謀が起こり、社会の安定が崩れ出す。この頃から貴族の日記に「上皇の怨霊」の記事が頻発。後白河法皇は怨霊鎮魂の為に「讃岐院」から「崇徳院」と名前を改めた。結果的に朝廷は没落し、平清盛や源頼朝が台頭。1221年には後鳥羽上皇が武士の手により島流しになり、皇を取って民とし民を皇となさんという崇徳上皇の望みは達成された。それ以降崇徳
皇は怨霊として、日本の歴史に深く関わるようになった。鎌倉〜江戸にかけて朝廷が政治に関わる事が出来なか
ったのは、怨念によるものとされる。
時は幕末。孝明天皇が1867年1月に崩御され、睦仁(後の明治天皇)皇子が皇
位を受け継ぐ。700年振りに天皇が政治の場に返り咲いた。本来ならすぐに即位式があるところ、崇徳天皇の御霊を鎮魂する為、即位は1年後に行われている。それは崇徳上皇の御霊を京都に呼び戻す為であった。更に崩御後800年が経過した1964年。昭和天皇が香川県坂出市に勅使を遣わせて式年祭を行なっている。現在においても崇
徳上皇は怨霊として恐れられている。崇徳上皇は讃岐の地で京都を想い生活。病気も年々酷くなり、1162年には重仁親王も亡くなる不幸に見舞われます。

 
「保元物語」は1221年以降に成立した物語で、「今鏡」は1170年頃に成立した歴史書なので、今鏡の記載の方が崇徳上皇の晩年を正確に書いていると思われる。讃岐の地には今も崇徳上皇の伝承が残されている。崇徳上皇が散歩していると、お百姓さんが「天皇さん」と言っておにぎりを差し出した。崇徳上皇はそれを受け取り、自分の杖をお百姓さんに渡した。このエピソードからも崇徳上皇は朴訥で穏やかな人だと分かる。京都で怨霊と畏れられた崇徳上皇ですが四国では守り神とされている。承久の乱では土御門上皇が土佐に流されるが、途中で讃岐を訪れている。鎮魂の為に琵琶を弾いたところ、夢に崇徳上皇が現れ、京都の家族の守護を約束している。後に土御門上皇の血筋が天皇家となった。余談であるが土御門上皇は承久の乱には全く関与していない。父親の後鳥羽上皇達が流罪になったのに自分が京都にいるのは忍びないと自ら島流しを望んだ奇特な人でした。室町時代には管領の細川頼之が四国の守護になった際に、崇徳上皇の菩提を弔っている。頼之は四国平定に成功し、以降は崇徳上皇を守護神として祀つた。

 
平安時代と聞くと藤原道長の摂関政治を思い出すかもしれませんが、平安時代後期には摂関政治は衰退し、代りに上皇(天皇の地位を後継者に譲位した天皇)が天皇の代わりに政治を行う院政が始まった。院政が始まったのは1086年。白河天皇が堀河天皇に譲位して白河上皇になった時である。以降、鎌倉幕府が成立するまでは朝廷の政治は院政で行われる。ちなみに上皇が仏門に入ると法皇になる。皇室の当主として政務の実権を握った天皇や上皇の事を治天の君と云う。治天の君になるには条件が2つあり、1つ目は天皇を経験している事2つ目は現天皇の直系である事平安末期にはこの治天の君の座を奪い合う事で、朝廷内で壮絶な争いが起こった。

 怨霊とは自分が受けた仕打ちに対して恨みを持ち、祟りをする霊の事です。古代、地震や干ばつ等の自然災害や疫病は怨霊の仕業と考えられていた。平安時代になると厄災をもたらす怨霊を鎮め慰める為、怨霊信仰が広まっていた。歴史上多くの怨霊が伝承として伝わっているが、特に非業の死を遂げた平将門菅原道真崇徳天皇日本三大怨霊と呼ぶ。

 雨月物語

 江戸時代の読本。生き霊や獣の化身等が、登場人物達に様々な災いをもたらす短編集です。西行法師が崇徳上皇の陵墓に参拝した際に、崇徳上皇の亡霊が現れ、論争を繰り広げます。


 香川県には崇徳上皇にゆかりの深い建物や土地がたくさんあります。
 姫塚
 讃岐に流れた崇徳上皇に連れ添ったのは、重仁を産んだ兵衛佐局等の数人の女房、そして武士十数人のみ。崇徳上皇の世話をしたのは綾の局という現地女性。崇徳上皇は綾の局と1男1女をもうける。女児は幼くして亡くなり、その墓を姫塚と呼んでいる。住所 香川県坂出市西庄町411-3 尚この近くに長命寺という大規模な寺院があり、崇徳上皇が3年近くを過ごしたとされる。戦国時代の戦火や洪水で荒廃する。崇徳上皇はこの地を去る際に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」と柱に墨書きをした。この柱は戦火や洪水でも朽ちる事がなかった。

 鼓岡神社
 崇徳上皇が死去するまでの6年近くをこの地にある木の丸殿で過ごした。長命寺にいた頃よりも生活の制約は厳
しく、病も患った為に鬱屈した日々を送っていたようです。周辺には菊塚等の崇徳上皇ゆかりの遺跡が残されている
坂出市府中町乙5116

 菊塚

 綾の局もその女児も若くして亡くなるものの男児は生き残った。崇徳上皇は顕末と名付け、綾の局の父親綾高遠
にお与えになった。跡取りとして引き取られ、綾家に上皇の御落胤の血筋を伝えたとされる。顕末の墓は菊塚と呼ばれ、鼓岡神社のすぐ近くにある。史実は不明なものの、綾家は今も続いていめ。

 崇徳天皇陵(白峯御陵)

 崇徳上皇は崩御した後、四国八十八箇所の1つ白峯寺の隣で荼毘に付される。天皇家の御陵墓は京都近くに造営されるのが一般的であり、京から離れた地に葬られた天皇は僅か3人。当初は質素な陵墓があるのみだったが、西行法師や後鳥羽天皇等、多くの人々が慰霊を行った。江戸時代には荒れ果てるものの、高松藩主らにより修復が重ねられている。香川県坂出市青海町

 崇徳天皇御廟

 1184年、後白河法皇は保元の乱が起きた白河北殿の旧地に粟田宮を創建。崇徳上皇だけでなく藤原頼長や源為義の霊を祀った。粟田宮水害で被害を受ける度に建て直されているが、応仁の乱で荒廃する。現在も崇徳天皇御廟は存在しているが、こちらは応仁の乱後に光明院の僧・幸盛が再興したもの。京都府京都市東山区祇園町南側

 白峯神宮

 幕末に孝明天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため、讃岐から京都へ御霊を移す事を幕府に命じタ。孝明天皇は後に崩御した為、明治天皇がその意思を受け継ぐ。これが明治天皇の即位が遅れた理由になる。1873年、同じく流罪となっていた淳仁天皇も合祀された。ちなみにこちらは蹴鞠の宗家飛鳥井家の跡地に建てられた神社。蹴鞠の守護神精大明神も祀られており、スポーツ関係者も多く訪れる。700年振りに京都に戻ってきた崇徳上皇が穏やかに見守ってくれている。京都府京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地

 参考文献

・竹田恒泰/執筆した怨霊になった天皇

・井沢元彦/逆説の日本史4 中世鳴動編/ケガレ思想と差別の謎


 崇徳上皇は歌人としての素養があり、崇徳天皇時代から頻繁に歌会を開催。譲位後は更に和歌の世界に没頭している。鳥羽法皇が和歌に熱心ではなかった為、当時の歌会は崇徳上皇を中心に行われている。1144年、「詞花和歌集」の勅撰を命じる。清新な叙景歌に特徴があり、多くの名歌を詠んでおり、崇徳上皇の感性が伺える。

 瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
 (岩の水はぶつかって離れてしまうが、すぐに1つとなる。現世で結ばれなかった2人も来世では結ばれるでしょう)
 かきりありて 人はかたかた わかるとも 涙をたにも ととめてしかな
 (かぎりある命に分かれても、せめて涙は留めていよう)
 母が亡くなった時に忍んで歌ったもの。切なさが漂っている。
 夢の世に なれこし契り 朽ちずして さめむ朝に あふこともがな
 (夢のような世の中で交わした約束を成仏する前に果たしたい)
 有名な歌人、藤原俊成に自分が死ぬ前に遺言として歌ったもの。悪夢のような世の中から解放されたいという崇徳上皇の切ない気持ちが伝わってくる。
 僧侶の西行は、歌を通して崇徳上皇と親しい交友があった。もともと、西行は崇徳上皇の母の待賢門院に憧れていたという説がある。西行は崇徳上皇よりも一つ歳が上。西行は、保元の乱に敗れて仁和寺に拘束されていた崇徳上皇に身の危険もかえりみずに唯一会いに行った人物でもある。友人として崇徳上皇の霊を慰めている。崇徳上皇が亡くなって4年後、西行は崇徳上皇を供養するために建てられた寺の頓証寺を訪れている。頓証寺は、崇徳天皇が眠る白峯御陵のすぐ横にある白峰寺の境内の中にある。もともとこの頓証寺が発展して白峰寺になったという説がある。(白峰寺によると、平安時代初期に空海が創建したという)

 井沢元彦「『日本一の大魔王』崇徳上皇の怨念」
 最近、たまたま四国讃岐(香川県板出市)の崇徳上皇の御陵に参拝する機会があった。上田秋成が「雨月物語」の一編「白峯」に、この地を登場させたことは、余りにも有名であるが、その頃とは違って御陵のあたりは明るく整備されている。しかし上皇の遺骸が永遠の眠りについている墓のあたりは、昼なお暗く今にも化性の者が住んでいるようだ。「白峯」は歴史上の事実である西行法師の白峯御陵参拝に、崇徳院(上皇)の怨霊が現われるという虚構を付け加えた本邦屈指の怪談である。崇徳院はどのような怨念を抱いていたか、そしてそれはなぜ当時の人々に恐れられたのか。実は、日本の明治維新は崇徳院の「承認」のもとに行なわれた。近代以前、崇徳院は日本最大の霊威を持つ怨霊として、700年の長きにわたって恐れ続けられていたのである。

 孝明天皇が亡くなり、明治天皇が践祚したのは慶応三年(1887)年一月のことである。しかし、明治天皇は正式な即位をする前に、勅使として大納言源通富を遠く四国讃岐にある崇徳院の白峯御陵に派遣した。そして、院の命日にあたる八月二十六日に、その墓前で宣命(勅語)を読み上げさせたのである。長文にわたるので極一部を意訳すると、次のようになる。(明治)天皇の御言葉を白峯に眠られている崇徳院の霊にお伝えします。そもそも、過ぎし保元年間に、いまいましきことあり(保元の乱)、貴方様がこの讃岐に配流され御憤死されたことは、大変悲しいことでありました。ここにおいて、私(明治帝)は先帝(孝明帝)の御遺志を継いで、貴方様の為に、京の都に新しい宮(神社)を建立致しました。どうか長年の怨念をお捨てになって、この源通富が御先導致しますので京へお帰り下さい。そして、この後は天皇と朝廷をお守り下さい。また、最近、皇軍に反旗をひるがえしている陸奥・出羽の賊徒(会津藩や奥羽列藩同盟に属する諸藩)の鎮定と天下安穏の実現の御助力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 こうして崇徳院の霊が9月6日、700年ぶりに京へ帰る事になった。明治天皇の即位の礼は、なんとこの翌日慶応4年(1868)の八月二十七日に行われているのである。あらかじめ、この崇徳院の命日に宣命が読み上げられることと、その翌日に即位の礼が行なわれることは、予定されていたに違いない。「明治」と改元されたのはしかも崇徳院の霊が京都に帰還した翌々日の九月八日のことである。崇徳院の「承認」を経てから、正式な改元の儀式を行う事も決められていたのだろう。「王政復古」を行なうにあたって、朝廷はこれだけの配慮を、崇徳院の霊に対して行っている。どうして、そこまでする必要があるのか。

 崇徳院は平安末期の人、第75代の天皇陛下である。この天皇陛下はわずか5歳であった。そして23歳の若さで、父鳥羽上皇から、弟でわずか三歳の体仁親王への譲位を強要された。体仁は崇徳の異母弟で、鳥羽上皇は美福門院という女性の生んだ体仁親王が可愛いあまりに、崇徳を天皇の位から無理矢理追い払ったのである。これが近衛天皇陛下となる。ところが近衛天皇陛下はわずか十七歳で若死してしまった。当然、崇徳院は自分が再び天皇の座に返り咲くか、悪くても長子の重仁親王が位に就く事になると思っていた。ところが美福門院が邪魔をした。近衛の死は崇徳院の呪詛によるものだと、讒言したのである。鳥羽上皇は怒り崇徳院の復権のチャンスは消えた。ここに至って崇徳院はついに叛乱を決意した。左大臣藤原頼長、源為朝らを配下にして政権奪取を試みたのである。これが保元の乱である。だが企ては失敗に終わった。崇徳院は讃岐に配流される事になった。如何に叛乱を企てたとはいえ、上皇が流罪になるとは前代未聞のことである。奈良の昔平城上皇も同じ事をしたが、頭を丸めれば許してもらえたのである。崇徳院は望郷の念を抱きつつ、流罪地の讃岐で五部大乗経の写経をした。五部大乗経とは法華経、華厳経、大品般若経などの五つの極めて功徳のある経のことである。この経を院は京へ送り、寺へ納めようとした。ところが朝廷ではこれを拒否し、経を讃岐に送り返したのである。院は激怒した。そして指を喰い破って血を出し、其の血で経に誓文を書き付けた。「この経を魔道に廻向して、魔縁と成って遺恨を報ぜん」。この五部大乗経の大功力を全部悪いことに使う、そして魔縁(魔王)となって恨みを晴らす、というのである。更に院は誓いを立てた。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」。皇を取って民となす、とは革命の宣言である。天皇家を没落させ、天皇家以外の者をこの国の皇にするというのである。これは、それまでの日本で、国の根本の規範として認識されていた「天壌無窮の国体」に真っ向から異を唱えるものである。「天壌無窮」とは、皇室の祖先神天照皇大神が孫の瓊瓊杵尊をこの国に天下りさせる際、述べた言葉の中にある文言で、「豊葦原の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宝祚の盛えまさんこと、まさに天壌と窮りなかるべし」というものである。

 是の日本の、天皇家の根本規範というべきものに、一度は天皇の位に就いた者が正面切って呪いをかけたのである。この世に恨みを抱いて死んだ者といえば菅原道真や後醍醐天皇も思い浮かぶが、この人々は正面切って天皇家を呪ったわけではない。「天皇家を没落させる」と言い切ったのは崇徳院だけなのである。しかも、その呪いは奇しくも実現した。院の没後すぐに平家の政権が我が世の春を謳い、次に初めての本格的な武家政権である鎌倉幕府が成立した。そして、その幕府を倒そうとした後鳥羽上皇は、臣下であるはずの北条氏によって流罪にされた。崇徳院を流罪にしたのはあくまでも天皇家の意志である。しかし、後鳥羽院は初めて臣下の手によって流された。当に「民を皇となさん」の呪いが成就したのである。これ以後、何か悪いことが起こるとそれは崇徳院の怨霊の仕業だと、広く信じられた。「平家物語」と並んで近代以前に親しまれた「太平記」には、崇徳院が金色の鵄に変身し、大魔王会議の議長としてこの世を混乱に陥れようと画策する場面がでてくる。第二十七巻雲景未来記事の章である。金鵄となった崇徳院が後鳥羽院、後醍醐院たちと「天下を乱り候うべき評定にてある」のである。「太平記」講談の原型だから、文字の読めない人にも広く親しまれた。崇徳院が日本の第一の大魔王であることは、貴族階級から庶民に至るまでの常識だったのである。




(私論.私見)