出雲王朝史3-2、大国主の命王朝史考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝神話は、元出雲とスサノウ出雲の鼎立時代の次に両王朝を統一する大国主の命王朝を生む。大国主は数々の迫害を乗り越えてスサノウ王朝の王権を継承し、東西出雲王朝を統合する。ここでは、この時代の様子を確認する。大国主の命については別サイト「大国主の命考」で確認する。この御代の信仰、思想については「」で確認する。千家尊祀著「出雲大社」その他参照。

 2008.4.10日 れんだいこ拝


【全国「神無月」、出雲「神在月(かみありづき)」譚】
 10月の和風月名は「神無月」。全国の神様が出雲大社に集まり、諸国に神様がいなくなることから「神無月」になったというが有力である。神々が集まる出雲の地では旧暦10月を「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。神々が出雲大社に集まるのは、出雲大社の祭神、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が全国各地の神々を呼び寄せて、来年の重要事項について会議をするためといわれている。テーマは来年の天候や農作物の収穫、そして「縁結び」等々。

【スクナヒコナの登場譚】
 或る時、カンムスビ神の御子スクナヒコナ(少彦名神)の神が現われた。古事記に次のように記されている。
 「故大國主神坐出雲之御大之御前時。自波穗乘天之羅摩船而。内剥鵝皮剥。爲衣服。有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白不知」。
 カンムスビ神の御子スクナヒコナの神が、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾(みそさざい)の皮を剥いで着物にして御大(みほ)の御埼に現れた。クエ彦に確かめさせたところ、『カンムスビ神の子で、カンムスビ神の手の股からこぼれ落ちた子供である』と素性を証し、『葦原色許男の命と兄弟となってこの国を作り堅めなさいと仰せられやって来た』と伝えた。

 少彦名神について、醫祖天神という神名以外にも手間天神とか小天少彦名神とか天子様とか呼ばれている。少彦名神は少彦名神も高皇産霊の御子もしくは神皇産霊尊の御子とも云われている。この高皇産霊神と神皇産霊神については一般に高皇産霊神=皇室天皇系の神霊、神皇産霊神=出雲系の神霊と考えられている。少彦名神がどちらの系統なのかは重要なテーマとなる。少彦名神の神名について、高皇産霊(神皇産霊尊)の手の間から零れ落ちたので手間天神と呼ばれるようになったという。この手間天神から天満天神とも呼ばれるようになったと考えられる。この天満天神は日本建国の神というだけでなく疫病除けの神や醫祖(医薬の祖神)としても信仰されている。

 沙沙貴神社(近江国の滋賀県安土町)は古代の豪族、狭狭城山君の氏神。近江源氏につながり、源頼朝書「佐佐木大明神」の額がある。主祭神は少彦名神。神話の時代に少彦名神がササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から「ササキ神社」が始まったと伝えられている。副祭神は古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の祖神「大毘古神」(おおひこ)。仁徳天皇 「大鷦鷯尊」(おおささきのすめらみこと)。先代舊事紀大成経の鷦鷯本が秘蔵されていた神社だ。ちなみに鷦鷯=みそさざい 鳥のことである。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E136.8.14.72N35.8.0.747&l=10
 http://www.tokaido.co.jp/lab/makino/43misosazai01.htm

 スクナヒコナの神は、少彦名命、少名毘古那、須久那美迦微、少日子根などと表記される。古事記では「神皇産霊(かみむすびのかみ)神の御子」、日本書紀では「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子」と記されている。神皇産霊と高皇産霊の違いがはっきりしないので違いの意味が分からない。

 少彦名神は天之羅摩船(あめのかがみぶね)という船に乗って到来したという。天之羅摩船
とはいったい何なのか? 実際のところ少彦名神が海から来たのか空から降臨したのか良く分からない。自波穗というのは海の白波のことであり、これと船が対応するし、少彦名神が去った後に大物主神が海を照らし出して到来した神ということからも、同じく海から来た「稀人神まれびと」とされているが安易な断定は避けるべきかもしれない。古事記では少彦名神を出雲系といわれる皇産霊尊の子としているので天からの降臨では都合が悪かったのかもしれない。  

 少彦名神を祭祀する京都五條天神の宝船色紙では嘉賀美能加和宝船とある。この羅摩=嘉賀美=かがみであるが、ガガイモの実のサヤのことと云われている。ガガイモは芋ではないが漢方では滋養強壮と精力増強の効果があるということだ。もともとガガイモはカガミと呼ばれていたと考えられる。ガガイモの種には綿があり空を舞う。それに少彦名神と饒速日尊には高皇産霊尊の子供であり船で到来したという共通点がある。少彦名神と「ゑびす神」の関係。もともとの古来からのゑびす神は「蛭子ヒルコ神」のことである。故に蛭子ヒルコをゑびすとも読むようになった訳である。蛭子ヒルコとは海に流され岸に流れ着く「稀人神」であり蛭子神は海の恵みと航海の安全を与える神として信仰されている。ただこの時代の蛭子神の姿は今見られるような大鯛と釣り竿を担ぐ神ではない。さて他のゑびす神の候補に海からたどり着く神として少彦名神もいる。また出雲にて天津神に國を捧げる為に海に身を投げた伝説を持つ釣り好きな(少彦名神の神託を聞く巫である)事代主命をゑびす神として祀るところも多い。少彦名神は医薬に医酒に温泉の神であり岩に寄り付く神であるが姿は一寸法師の原型とも云われる。

 少彦名神は大國主命の「大」に対して「少」と識別されている。但し、それは大國主命の「大」に比較してのものであり、日本建国史の位置づけでは決して「少」に位置づけられる存在ではない。三輪神社に祀られる大物主神、少彦名神、大國主命の関係の解明が待たれる。 

 大国主は一柱で祀られていることも多いのに、少名彦は大国主やスサノオなどと一緒に祀られてることが多い。少名彦一柱だけの主祭神となっている社として壱岐国式内社国片主(くにかたぬし)神社がある。
 この少彦名神を信奉する一族がいくつかある。その一つは秦氏系。豊中市服部天神社、伊賀一宮の敢国神社などにその痕跡が残る。あと近江安土の沙沙貴神社で沙沙貴山君(狭狭城山君)が少彦名神を氏神と仰いでいる。つまり大彦命に始まる佐々木氏系で近江源氏に繋がることになる。また阿曇氏(安曇氏)は海人族であり志賀島の志賀海神社を元々の氏神社とするが祖の阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子であることもあり綿津見(わたつみ)の神を祭祀している。この綿津見の神であるが、わたつみとは海神(わたつみ)のことであり阿曇(安曇)より派生した言葉と考えられる。綿津見の神はつまり海の神ということを表しているのであるが、この海の神とはどういう系統を持つ神なのかということを考えたい。志賀島のすぐ隣には宗像氏がおり三女神を海運の守護として祭祀している。この宗像三女神は道主貴(みちのぬしのむち)とも呼ばれるがこの道主貴は筑後(久留米)の水沼君がもともと祭祀していたとも言われる。しかしながら天照大神と素盞鳴尊との誓約(うけひ)で生まれた三女神であれば直接的な海神とは言いがたい。ただ伊邪那岐命は三貴子の素盞鳴尊に海原を治めるように言っているからそこから派生しているのであろう。記紀によればイザナギが黄泉から帰って禊をした時に綿津見三神と同時に住吉三神も生まれている。この綿津見神の系統であるが日本書紀ではわたつみの神を少童命と記載している。この少童命と書いてわたつみと読ませている。少童命と少彦名神は繋がつていることが分かる。福岡県津屋崎あたりに少彦名神が多数祭祀されていて古代からの継承を感じさせる。

【オオナムヂとスクナヒコナの共同による出雲王朝形成譚】
 オオナムヂとスクナヒコナは力を合わせて天下を創り治めた。その後の出雲王朝の歩みが次のように伝えられている。
 以来、オオナムヂは、カンムスビ神の御子スクナヒコナの神と共に国造りに励み、内治を良くした。スクナヒコナの神は医薬・禁厭などの法を創めたと云われている。百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙るという。

 その善政ぶりが記紀に次のように記されている。
 「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)。
 「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。
 「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。

 オオナムヂは、武威をもちらつかせて全国平定に繰り出した。この時点で、原出雲王朝、スサノウ王朝を統合した地域が出雲王朝の直轄地域であった。ここより手始めに伯耆、因幡の国を征服して古代出雲を足固めし、続いて但馬、丹波、更に兵を進め播磨で韓の王子アメノヒヤリと戦って勝ち支配圏を拡げた。

 支配圏は更に「越の八口」まで進んだ。越とは、若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。八口の口とは「国」のことを云う。当時の越には八っの国々があった。これを治めたことになる。続いて、信濃、大和、紀伊まで連合国家的に傘下に収めた。更に奥州には「日高見国」もあった。こうして各地の豪族を平定し、まさに「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られる大国の主となり、大国主と称されることになった。これを仮に出雲王朝と云う。

【大国主の命の国土改造計画譚】
 大国主の命&スクナヒコナ共同統治による出雲王朝は、「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造計画に着手していった。これにより、縄文時代的採集経済から弥生式農耕経済へと転換し、葦原の中つ国を豊葦原の瑞穂国へと発展させていった。出雲風土記は大国主の神を呼ぶに、「天の下造らしし大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。丹後国風土記は逸文の中で「少日子命、粟を蒔きたまいしに、秀実りて離離りき。即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟島という」と記されている。神田明神は一の宮としてオオナムチ・オオクニヌシもニの宮としてスクナヒコナを御祀りしてる。

 【意多伎(おたき)神社
 島根県安来市稲生(いなり)町
 御祭神:大国魂神(大国主命)
 配祀神:大田神(猿田彦命)・日神荒魂
    神・倉稲魂命

  意多伎(おたき)神社は「飯生大明神」として古来より広い地域から信仰を集めている。鎮座地の意多伎山は、大国主命が国土開拓の為に降臨し自ら鍬、鋤を取って農耕を勧められた際、御滞在になられた所と云われている。御祭神の「大國魂神」は、大国主命の別称又は大国主命も含む「国土、大地の神」の尊称である。配祀神の「大田命」は不詳ながら、一説に猿田彦命が「福縁を授け衣食を守り給う時の尊称」とある。

 御由緒によれば「意多伎は於多倍(おたべ=物を食べる意味)で、食物を多布留(たふる)の義であり五穀の神、衣食住の守護神である」。附近の田んぼの中に大神が御飯を炊かれたと伝えられる「飯盛」という場所や耕作に使われた牛の霊を祀る「牛の森」。耕作の際に休息されたとされる場所もある。境内地は多くの石狐が祀られていて、稲荷神社の感あり。鎮座地も稲生(いなり)町で古地図には稲荷神社とあるようで以前は稲荷神社として祀られていた。旧松江藩からの崇敬も厚く、松平家より釣燈籠等の奉納があり、出雲国造、千家・北島両家もご参詣になられ奉納の儀が執り行なわれた。この地域は、出雲路幸神社、賀茂神社他京都と縁の深い神社が集落毎にあり、ここも京都の出雲郷がある所が愛宕(おたぎ=意多伎?)郡で、愛宕山から由来して、愛宕郡となったとの説もある。


【大国主の命&スクナヒコナの温泉開湯譚】
 四国には道後温泉等に少彦名神の足跡が認められる。山形の湯殿山も少彦名神を祭っている。

【大国主の命&スクナヒコナの疫病除け譚】
 京の疫病除け神社として祇園社と五條天神と由岐神社はいろいろな歴史が残っている。この京都五條天神は794年の桓武天皇の平安遷都に当たり大和国宇陀郡からの勧請といわれている。特に天皇の疫病の際には平癒祈願の役割を担い祭祀されていたようである。徒然草 第203段に次のように記されている。
 「勅勘の所に靫懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。 この事絶えて後、今の世には、封を著くることになりにけり」。 (徒然草の執筆は鎌倉時代の1330年8月から1331年9月頃といわれる)

 これは直接に五條天神と由岐神社に言及したものではないが天皇の疫病の際に天神に弓のケースである靫(ゆき)を懸ける習慣にならい天皇の不興をかって謹慎を言いつけられた家に靫が掛けられるとその家は封印されたとみなされ出入りが禁止された。こういう習慣は忘れ去られたほうがいいと吉田兼好は言っている。

【大国主の命&スクナヒコナの医薬研究譚】
 大国主の命&スクナヒコナは医薬の始祖でもある。「大国主の命&スクナヒコナ共同統治による出雲王朝下の医薬研究」は興味深い。これについては、「出雲王朝史8、出雲王朝御代の風俗(生活習慣、風習)考」に記す。
 大和神社の摂社(末社)の歯定神社。由緒によると少彦名神、大己貴命が祭神だった。ここは一般的には中山大塚古墳の御旅所坐神社または大和稚宮神社と云われている。
 三輪に参拝登山した後にすぐそばの素盞鳴神社。由緒書きには境内の素盞鳴神社、白山神社、薬師堂の由緒がそれぞれ書かれていて、そこの白山神社の項に「この地域は、古くから加賀白山の信仰も篤く白山大神を祀り、祭礼は氏神社と併せて祭祀しています。庚申、愛宕、金毘羅大権現は「歯定さん」といって歯痛に霊験あると信仰されています」記されているる。庚申、愛宕、金毘羅大権現をひとまとめにして歯定さんと言っている。
 「枇杷の種の薬効と少彦名神について」

 枇杷や梅の種の中にはアミグダリン(レートリル B17)という成分が含まれ癌の良薬と云われている。またこの効能としては免疫力を強め鎮痛殺菌作用があるとも云われており古来より薬として使われていた。少彦名神は薬神であるが、この種の作用は少彦名神由来と信じられ枇杷や梅の種を「天神さん」と呼んで大切に扱ってきた。後にシアンが強調され毒物として敬遠されるようになってしまう。梅の種は毒と言われて食べてはいけないものと教えられてきた。現在では種2~3個では科学変化で発生する青酸ガスも危険レベルにはならないことが分かっている。それどころか、良薬として癌予防に効能が非常に顕著であり健康食品としても薦められる。少彦名神の神霊が宿るとされる種の効能が見直されてきたことは喜ばしい限りである。他には少彦薬根(すくなひこなのくすね)の古名を持つ石斛(せっこく)がある。薬用にされることから記紀神話の医療神である少彦名命の名前がついたと言われている。花の開花時期は5月下旬から6月初旬であり、ピンクの花を咲かせる。石斛は現在絶滅の危機にさらされている。効能は健胃、強壮作用となっている。
 少彦名神から派生したゑびす名の夷草(エビスグサ)も薬草である。決明子(ケツメイシ)とも云われ近年は歌手クループ名で有名となった。決明は明を開くという意味があり、視力回復の効果があるといわれるが毒出し民間薬草であり主成分はアントラキノン誘導体などで肝臓の働きを強化する。
 少彦名神はゑびすさんとも呼ばれる。ゑびすさんの腹部には葉が三つ柏(カシワ)の神紋が付けられているものをよく見かける。「三つ蔓柏」紋は恵比寿紋と呼ばれている。日本で柏の葉といえば柏餅に使われることで知られている。古事記を読むと酒器として使われていることが分かる。天皇聞看豊明之日、於髪長比売令握大御酒柏、賜其太子(古事記中巻応神天皇)酒の神様といえば少彦名神でここからゑびす神に柏の神紋が付けられた可能性を感じていたが実は中国では柏は、日本でいうブナ科の落葉樹の柏とは全く違う植物であり柏と書いてハクと読みこの柏は薬草として用いられている。本草綱目には薬として「柏」の実や葉などを用いたことが記されている。なかでも「柏実」と「柏葉」はそれぞれ神農本草経と名医別録から記載されており、現代までずっと薬用され続けている。中国南方では荊楚歳時記の成立した六世紀頃にすでに「柏」を酒に浸して飲む習慣があったとの事である。中国においては、天子や大夫の椁(棺の外側を覆う枠)が「柏」で作られていたそうだ。「栢椁者謂為椁用柏也、天子栢、諸侯松、大夫栢、士雑木也」天子や大夫のみ柏が許されそれ以外の者では諸侯は松で士は雑木となっている。中国で言う柏は材に良い香りがありかつ腐敗しにくいという特徴がある。こうして邪気をはらい長寿をねがう習慣として民間で取り入れられ続けられていることは柏葉の香気や性質を好ましいもの、神秘的なものとして感じたということであろうと推測される。「柏」の薬効を信じ、神仙や不老長寿に憧れた人々が、さらに複雑な調合法で「柏」を薬用したという話もあるとのことだ。薬神の少彦名神と中国の薬草の柏(ハク)との繋がりがあったのではないかという気がする。伊賀國阿拝郡の式内社で伊賀の一宮である敢國神社には孝元天皇の皇子である大彦命と少彦名神が祀られている。ところで大彦と少彦との対比であるが、どういう繋がりがあったのか?あるいは単なる偶然か不思議である。大國主命と少彦名神が同時代とすると大彦命はかなり時代が下がる。しかし孝元天皇の皇子で長男の大彦と末子の開化天皇の間に、少名日子名建猪心命(すくなひこなたけいごころのみこと、少彦男心命) がいる。原田常治著の上代日本正史 P84の雀部臣系図にはその名が少彦名許士尊となっている。まさに大彦命と少彦名神が兄弟であるような記載とも感じられる。
 京都五條天神から大阪道修町に勧請した少彦名神が日本薬祖神として江戸時代に祭祀されるようになった。この道修町には江戸時代より漢方薬店が並んでいるが中国から輸入される漢方薬の箱の結びに「てぐす」が使われていた。この糸は半透明でまさに釣り糸にうってつけであった。それで大阪の薬問屋だった「広田屋」がテグス商として売り出したそうである。これは少彦名神の神徳だということで次第に漁民にも少彦名神信仰が広まりはじめる。この時に大鯛を釣りあげるゑびす神の原型が出来上がったようである。大鯛が異様に大きいのは少彦名神が小童神であることを表している。てぐすねを引いて待つは、魚が掛かる事を今か今かと待つ意。ヤママユガの幼虫から「てぐす」は作ったそうである。そしてこのヤママユガの一種にクスサン(ショウサン)という種がある。樟蚕と綴るが樟(楠)の木に巣食う蚕である。このクスサンより「てぐす」を作りだしている。これゆえに少彦名神=釣りの神=養蚕の神で神木が樟(楠)になったものと思われる。また樟ショウの読みがクスとなったのは、薬神としての少彦名神の薬の読みのクスリ又は、醫(医)の読みのクスシから転用された可能性も考えられる。樟脳は樟から取り出せるが樟脳が薬であることからクスとなった説もあるが樟脳は医薬としては毒性を持つので疑問である。大國主命とペアなのは少彦名神であるが、大國主命の子である事代主が巫として少彦名神の神託を受けていたと考える。宮中の御巫八神の一つにもなっている事代主であるが、事代主が天津神に出雲を捧げる為に海に沈んだ伝承にちなみ、海の荒れを鎮めることを事代主に願う信仰が宗像系の海の信仰や綿津見神や住吉の信仰とは別に生まれている。それで少彦名神がゑびす神と祭られると同時に事代主もゑびす神となっている。従ってゑびす神の単体神は蛭子神のことで七福神のうち「ゑびす大黒」のゑびす神は少彦名神で神徳は繁盛と豊漁。海の荒れを沈め航海安全を願うゑびす神は事代主神ということになる。
 大和神社の摂社(末社)の歯定神社。祭神 少彦名神・大己貴命。歯の神様といわれており社の前に鎮座する2個の磐座は犬歯と臼歯とも言われている。ただこの2個の磐座は少彦名神・大己貴命の二神のようにも見える。また奈良県橿原市慈明町の天神社境内 白山神社は「はんじょうさん」と呼ばれ歯の神様としての信仰がある。歯定神社の本当の祭神少彦名神なのか白山神のどちらなのかさらに調査していきたい。
 祇園の四条通りの西の楼門をくぐり八坂神社に入るとまず正面に疫神社がある。この疫神社にて祇園祭の締めくくりに疫神社夏越祓として茅野輪クグリが行われる。疫神社に祭られるのは蘇民将来となっている。しかしながらこの疫神社は八坂神社でもっとも神氣が強く不思議に思って由緒を調べてみた。もともとこの地には高句麗からの渡来人である八坂連が定住していたらしい。元慶元年(877)都下に疫病が流行した際に摂政右大臣藤原基経がこの八坂の地に祭られる「天神社」に疫病平癒祈願して霊験があったそうだ。この神社は別の文献では「役神社」となっている。藤原基経はこの霊験にいたく感動してこの地に居宅を寄進して観慶寺(かんぎょうじ)を建てている。文献では時代が1年錯誤するが南都の僧円如が貞観十八年(876)六月十四日に、この役神社の側に藤原基経の助力を得て、薬師・千手観音などの像を祀った堂宇を建立したのが八坂神社のはじめとも言われている。観慶寺(かんぎょうじ)は藤原基経に神の感応があったということで感神院とも呼ばれている。またこの行為を須達長者が釈迦のために造った祇園精舎に因んで祇園寺とよび、天神堂(役神社)は祇園社と呼ばれるようになったとのことである。そしてこの観慶寺は藤原氏だけあって興福寺の管轄となってゆく。基経は藤原長良と乙春との子であるが長良と難波連淵子との間に出来た異母兄弟に藤原淑子(ふじわらのしゅくし)がいる。この淑子は宇多天皇の平癒祈願のため887年に勅命を受け今の哲学の道にある大豊神社に医薬祖神の少彦名命を奉祀している。
 京都 北野天満宮と大将軍八神社
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.44.17.4N35.1.31.8&l=10

 大将軍社の疱瘡除け。もともと少彦名神も祭祀していたのではなかろうかと考えられる。少彦名神を祭祀していたから天満宮に変遷したのではなかろうか?
 大阪の道修町(どしょうまち)の少彦名神社
 安永九年(1780)十月、薬種中買仲間で組織する伊勢講が、京都五條天神社より分霊を道修町の奇会所に勧請し、神農氏とともに合わせ祀ったのがはじまりで比較的新しい神社であるが伊勢講の『尊社書』が資料館にあり参考になる。参考コピー文は次の通り。
 「当時、唐薬種だけではなく、国産和薬種も道修町の流通網に乗って全国に供給されていたため、安永9年(1780)、わが国の医薬の神である少彦名神(すくなひこなのかみ)の分霊を京都・五條天神宮(現・五條天神社)からお迎えし、薬種中買仲間の寄合所(現在の少彦名神社の位置)にお祀りするようになりました。その折の『少彦名神勧請式』の袋が、資料館展示室の2番目のショーケースに展示されています。この袋の表書きから、伊勢講の人々が慎み畏(かしこ)んで祭祀を奉仕していたことが分かります。この袋の中には少彦名神『尊社書』が入っており、伊勢講によって書かれたものです。それを解読すると次のようになります」。
 「少彦名神は本朝(日本)医薬の祖神なり。異朝(中国)にては神農氏を以って医薬の祖とす。紀南加田(和歌山市加太)に垂迹(すいじゃく-現れる)ありて粟嶋(あわしま)大明神と崇敬し、平安城(京都)松原通西洞院(にしのとういん)に鎮座まして五條天神宮と申して、天子不豫(ご病気)なるときは葛(かつら)の長く負う處の靱(ゆき-矢を入れる器)をこの神前に掛ける(平癒を祈る)。これ医の神たるをもってなり。除夜には諸人(もろびと)この御宮に詣でて、白朮(びゃくじつ―おけら;菊科の多年植物で食用・漢方薬の原料となる)を受けて載中(年中)疫を祓(はら)うなり。萬民その澤(たく-恩恵)を蒙らざる者なく、なかんずくこの薬肆(し)中買商売の輩(やから-薬種中買仲間)は尊敬いたし、朝夕真偽相改め大切に売買慎み、子孫の無窮を祈り奉るべく、この寄合所へ勧請申し、例年9月11日ご祭礼の式相勤め遣わし、益々仲間は神慮を恐れ奉り、誠心を盡くし、尊敬奉るべきものなり。 安永9年10月」。

【大国主の命&スクナヒコナの酒造譚】
  少彦名神は薬神、温泉神および疫神を追い払う力を持った神というだけでなく、酒の神ともいわれている。日本書紀仲哀天皇段で、神功皇后の子供の応神天皇が新羅を平らげて実質即位した時に、敦賀の気比大神と名替えの神事を行い、そこで酒宴を催した時、神功皇后は、「此の御酒は我が御酒非ず、酒の司、常世に坐す石立たす少名御神の神寿き、寿き狂ほし豊寿き寿き廻ほし、献り来し御酒ざぞ、あさ食せ、ささ」と歌って、酒を勧めている。少彦名神が酒神とされている。弘仁私記にも「少彦名神、是造酒神也」と記されている。

 京都と嵐山の松尾神社に祀る大山咋神も酒神として著名。三輪の大神も酒の神とされており大物主神に少彦名神が併祀されている。大山咋神は葛野県主(鴨氏)の祖神で、少彦名神と繋がりが深い。

 日本書紀では崇神天皇の段で大物主神にも酒神としての神格を与えている。冬12月20日、天皇は大田田根子命に大物主神を祀らせた。この日、活日は御酒を天皇にたてまつり、歌を詠んだ。「此の御酒は 我が酒非ず 倭成す 大物主の醸みし酒 幾久 幾久」。このように歌って神の宮で宴を開いた。宴が終わり諸大夫が歌った。「味酒(うまざけ) 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出て行かな 三輪の殿門を」。天皇も歌って言った。「味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を」。そして神の宮を開いて出てきた。この大田田根子命は三輪君らの祖先である。

【大国主の命とスクナヒコナの神の国づくり問答】
 或る時、オオナムヂはスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。
オオナムヂ  「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
スクナヒコナの神  「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」

 万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。
 「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」

【大国主の命とスクナヒコナの神の対立譚】
 大国主の命とスクナヒコナの神との間に多少の対立があった様子が播磨国風土記の神前(かんざき)郡の条で次のように伝えられている。
 「はに岡と号(なづ)くる所以は、昔、オオナムヂの命とスクナヒコナの命と相争いて、のりたまいしく、『はにの荷を担いて遠くへ行くのと、尿(くそ)下(ま)らずして遠くへ行くのと、この二つの事、いずれが能く為せむ』。オオナムヂの命のりたまいしく、『吾は尿下らずして遠くへ行かむ』。スクナヒコナの命のりたまいしく、『我ははにの荷を持ちて行かむ』。かく相争いて行でましき。数日経て、オオナムヂの命のりたまいしく、『吾は行きあえず』。即(やが)て坐(い)て、尿下りたまいき。その時、スクナヒコナの命、笑いてのりたまいしく、『然(しか)苦し』。また、そのはにをこの岡に投げうちましき。故、はに岡と号く。亦、尿下りたまいし時、小竹(ささ)、その尿を弾き上げて、衣に行(は)ねき。故、はじかの村と号く。そのはにと尿とは石と成りて今に亡(う)せず」。
(私論.私見)
 「大国主の命とスクナヒコナの神との間に多少の対立」をどう読むべきか。出雲王朝経営上の方針の違いがあったと読むべきであろう。但し、友誼的関係内のことであり敵対関係の逸話ではないように思われる。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命とアメノヒボコとの壮絶な戦い譚】
 大国主の命とアメノヒボコとの壮絶な戦い譚が播磨国風土記の揖保(いいぼ)郡、粒岡の条で次のように伝えられている。
 「粒丘(いいおか)と号(なづ)くる所以は、天日ぼこの命、韓国(からくに)より渡り来て、宇頭(うづ)の川底に到りて、宿処(やどり)を葦原の志挙(しこ)をの命に乞わししく、『汝は国主たり。吾が宿らむ処を得まく欲(おも)う』とのりたまいき。志挙、即ち海中を許しましき。その時、客(まれびと)の神、剣を以(も)ちて海水を撹(か)きて宿りましき。主(あるじ)の神、即ち客の神の盛(さかり)なる行(しわざ)を畏(かしこ)みて、先に国を占めむと欲して、巡り上りて、粒丘に到りて、飯(いいを)したまいき。ここに、口より粒落ちき。故、粒丘と号く」。

 播磨国風土記のしさはの郡、御方の里の条で次のように伝えられている。
 「御形(みかた)と号くる所以は、葦原の志許(しこ)をの命、天日ぼこの命と、黒土の志爾(しに)岳(だけ)に到りまし、各々、黒葛(つづら)三条(みかた)を以ちて、足に着けて投げたまいき。その時、葦原の志許(しこ)をの命の黒葛は、一条(ひとかた)は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫(やぶ)の郡に落ち、一条はこの村に落ちき。故、三条という。天日ぼこの命の黒葛は、、皆、但馬の国に落ちき。故、但馬の伊都志(いづし)の地を占めて在(いま)しき。ある人云えらく、大神、形見と為して、御杖をこの村に植(た)てたまいき。故、御形という」。
(私論.私見)
 大国主の命とアメノヒボコとの壮絶な戦い譚をどう理解すべきか。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【出雲王朝の政体の特質としての「神在月合議政治」譚】
 出雲王朝の合議制政治が次のように伝えられている。
 「毎年十月には、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、その間各地の神は不在となる。他国の神無月、出雲のは神在月と云う。これにより、出雲は、全国の神が出雲に集まり『神謀(はか)る地』と言い伝えられている」。
(私論.私見)
 「出雲王朝の政体の特質譚」は、出雲王朝が、葦原の中つ国の国津神の同盟の芯の位置にいたことを物語っている。族の祭政一致政治を踏まえた緩やかな自由連合国家として、寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたものと推測される。毎年十月は、全国会議を催したと云うことであろう。この「神在月合議政治」は、出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議していたのではないと思われる。これが日本のその後の権力体に伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。神在祭については「出雲神道、出雲大社考」で考察する。

 出雲王朝は、高天原王朝の如くな支配被支配の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳政的な政治を特質とする共同文化圏的な盟主的地位を保持していたことになる。出雲はこうして日本古代史の母なる原郷となった。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、謂れを知るべきだろう。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては古神道と云われるものである。これについては、「日本神道の発生史及び教理について」、「日本神道の歴史について」で考察する。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命の手腕考】
 大国主の命は、政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での国作りの神であり、日本の神々のなかのスーパースターである。出雲神話の主役で、全国の国津神の総元締みたいな存在である。英雄神としては、日本の素盞鳴尊やギリシア神話の英雄のように怪物退治といった派手なことはやっていないが、少彦名神とコンビを組んで全国をめぐって国土の修理や保護、農業技術の指導、温泉開発や病気治療、医薬の普及、禁厭の法を制定、といった数々の業績を残した偉大な神であることも知られている。大国主大神はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれました。それはすべてのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。

 オオナムチを主祭神、スクナヒコナと下照姫を配祀している播磨一の宮の伊和神社の由緒略記は次のように記している。
 「オオナムチの神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或いは医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。大神は播磨の国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨の国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里に至りまして、我が事業は終わった『オワ』と仰せられて鎮まりました。ここに於いて人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります」。

【大国主の命の政治思想考】
 「大国主神の道(出雲大社教)」が大国主の命の政治思想、人生教理を次のように伝えている。これを確認する。
 オオナムチノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの神像に見られる福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。

 大地は人間の生きていくうえに、欠くことの出来ない限りない生命を生み出し育むのであり、その意味で大地は「母なる大地」と呼ぶのにふさわしいのであるが、この大地が秘めている生成の力を、むかしから「ムスビ」という言葉であらわし、「産霊」という文字をこれにあてている。人間の生命も勿論、このムスビによって生まれ、そして育っていくという生命観を、日本人は独特な信仰として持っている。ムスビとは生成の意であり、ムスビのヒは、神秘なはたらき即ち霊威を意味する言葉である。いのちあるものを積極的に生成せしめるはたらきの根源に、この「ムスビ」の霊威を見ることができるとするのである。そしてこの神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える"えにし"を結んでいただけるのである。そこでこの神を仰いで「縁結びの神」と慕ってきたのである。

 オオクニヌシノカミは辛苦の道を厭われぬだけでなく、かえって、そこにあらわれる難難や迫害、危難や試練に堪え、神としての神がらを切磋されて「ムスビの神」と成られたのである。その愛は広く天下国家のためにみちびかれるのみではなく、厚く人ひとりひとりのうえにもうるおうのである。我執の多い凡夫のわれわれのうえに、この神の歩まれた道を考えるならば、人間は修錬によって本質を錬磨して、あらゆる苦難を克服する体験を積み重ねなければ、人に慕われるような人格を養うことは出来ない、ということを教えられているのである。生み生かされた人生を、たくさんの人びとと心と心とを互に睦び合いながら、幸福にすごさせていただくために、オオクニヌシノカミが身を以て示された道を、神習う道として、笑顔をもって明るく、強く歩みつづけさせていただきたいものである。

 この出雲の祖神は他の神々に見られない、極めて顕著な霊威をあらわされているのである。昔から各国々には「一の宮」が祭祀されているが、そこに祭祀されている神のほとんどが、出雲人が祖神と仰ぐオオクニヌシノカミか、またはその神統につながる神々である。


【スクナヒコナの神退場譚】
 スクナヒコナの神が退場する。日本書紀に次のように記されている。
 「その後に、スクナヒコナの神、行きて熊野の御崎に至りて、後に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しぬ。亦曰く、淡嶋(あわのしま)に至りて、栗茎(あわがら)に縁(のぼ)しかば、弾(はじ)かれ渡りまして常世郷に至りましきという」。

 丹後国風土記は逸文の中で次のように記している。
「少日子命、粟を蒔きたまいしに、秀実りて離離りき。即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟島という」。

 大洲市の少彦名神社では次のように伝承している。
 「肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの大洲市の少彦名神社である。少彦名命は医学・養蚕・酒造等の神様で県下は勿論のこと高知県、九州方面から参拝者も多い。命の神体を祀ってあるところは全国に多数あるが終焉の地は当地といわれている」。
 http://www.its-mo.com/y.htm?m=E132.34.44.607N33.30.12.386&l=9

 大彦命の後胤系の沙沙貴神社で少彦名神を氏神として祭祀している。少彦名神没後に搭乗するのが武内宿禰だが、武内宿禰は第八代孝元天皇の孫とも云われている。だとすると 武内宿禰は少名日子名建猪心命の子供である可能性がある。神功皇后の子供の応神天皇は武内宿禰との間にできた子供とする説があるが、だとすると神功皇后が各地で少彦名神に祈っているのも頷ける。熊本市の東の外れの沼山津に少彦名神を祭祀する竹内神社がある。
(私論.私見)
 スクナヒコナの神退場の寓意は何か。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝
  「少彦名神考察」が次のように記している。
 「少彦名神は日本神界では大國主命との国造りのあと姿を消したといわれ、今日、祭祀している神社も大半が天満宮に取ってかわられた経緯がある。しかしもともと天孫系でありながら大國主命に協力した国造りの神であり、国家安寧を願へばその験は比類無い神であれば、今一度その少彦名神の神霊を招魂し祈願することが日本国の未来に光をもたらすことになると筆者は信じている」。

【大トシの神登場譚】
 スクナヒコナの神が居なくなり、大国主の命が、このあとどの神と協力して国作りを進めたらよいかと思案する。これ以降、大国主の命の当時の名称「大己貴命」が「大己貴神」と敬称が変わる。この頃、次のように述べている。

 「そもそも葦原中国は本(もと)より荒芒(あら)びたり。岩や草木に至るまでことごとく能(よ)く強く暴(あら)し。然れども吾既に摧(くだ)き伏せて、和順(まつろ)わざる(従わない者)莫(な)し。今、この国を理(おさ)むるは、唯(ただ)し吾一身(ひとり)のみなり。それ吾と共に天下(あめのした)を理(おさ)むべき者は、果たしているのだろうか」(日本書紀神代上第八段一書第六)。


 大国主の命の嘆きが伝わり、古事記は次のように記している。「海をてらして依り来る神あり。これを大トシの神(大物主の神)と云う。大和の三輪山なるオオミワの神」。日本書紀も次のように記している。「神光海を照らして忽然に浮び来れる神は、オオクニヌシノカミの幸魂・奇魂であり、三輪山の神にほかならぬ」。大国主の命は以降、大トシの神(大物主の神)と共に国を経営して行った。

 「時に、神(あや)しき光海に照らして、忽ちに浮かび来る者あり。曰く、『もし吾在らずは、汝(いまし)何ぞ能くこの国を平(む)けましや。吾が在るに由りての故に、汝その大きに造る績(いたわり)を建つこと得たり』。この時、オオナムヂ神問いて曰く、『しからば汝はこれ誰ぞ』。対(こた)えて曰く、『吾はこれ汝が幸魂奇魂なり』。オオナムヂ神曰く、『しかなり。すなわち知りぬ。汝はこれ吾が幸魂奇魂なり。今何処(いずこ)にか住まむと欲(おも)う』。対えて曰く、『吾は日本国(やまとのくに)の三諸山(みもろのやま)に住まんと欲う』。故、即ち宮を彼処(かしこ)に営(つく)りて、就(ゆ)きて居(ま)しまさしむ。これ、大三輪の神なり」(日本書紀神代上第八段一書第六)。

(私論.私見)
 大トシの神とは何者か。大トシの神は大物主の神であるとされているが、大物主の神は大国主の命の別名ともみなせる。この辺りの考察を要する。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の大和の国旅立ち譚】
 古事記の伝えるところ、ヌナカワ姫の元から戻ってきた大国主対して、スセリ姫の嫉妬が激しかった云々と記している。大国主は次のように歌っている。これを仮に「大国主の命のぬば玉歌」と命名する。
 「ぬば玉の 黒き御衣(みけん)を まつぷさに取り装い 沖つ鳥 胸見る時 羽叩(たた)ぎも これは適(ふさ)わず。辺つ波 そに脱(ぬ)ぎ棄(う)て。翠(鴗、そに)鳥の 蒼(青)き御衣を まつぷさに取り装い 沖つ鳥 胸見る時 羽たたぎも こも適(ふさ)わず。辺つ波 そに脱ぎ棄て。山縣(県)に 蒔きしあたね(藍蓼)春(つ)き 染木が汁に 染(し)め衣(ころも)を まつぷさに取り装い 沖(奥)つ鳥 胸見る時 羽たたぎも こし宜(よろ)し。いとこやの 妹(いせ)の命 群島の 我が群れ往(い)なば 引け鳥の 我が引け往なば 泣かじとは 汝(な)は言うとも 山處(やまと、山処)の 一本(ひともと)薄(すすき) 項(うな)傾(かぶ)し 汝が泣かさまく 朝雨のさ霧に立たむぞ 若草の 妻の命(みこと) 事の語り言(ごと)も 是をば」。

 ぬば玉とは、アヤメ科多年草の檜扇(ひおうぎ)の種子を指し、黒々と丸い形をしている。「きらきらと光るミステリアスな黒」の意味があり、万葉集の枕詞で「ぬばたまの夜」、「ぬばたまの夢」などとして使われる。それらは「大国主の命のぬば玉歌」に掛けていると拝することができる。

 (ぬば玉のような黒い衣を礼装しても似合わない、波に流してしまおう。翡翠のような蒼い衣(沼河比売を暗喩)を装っても似合わない、波に流してしまおう。着慣れた山の畑の茜草で染めた赤い衣(須勢力比売を暗喩)が私には一番しっくりとなる。渡り鳥のように私が旅立ってしまったら、君は泣かないといっていても、きっと泣くのだろうな。それを思うと哀しくて霧のように溜息が出てしまう)

 大国主が、大和の国に向うべく旅支度を始めた。スセリ姫は、大国主に大御酒杯(おおみさかずき)を取らせて、立ち依り指挙げて、歌よみし歌。歌謡の詞書きとして「その夫の神わびて、出雲より倭の国(やまとのくに)に上りまさむとして、束装(よそひ)し立たす時に 片御手は御馬の鞍に繁け、片御足はその御鐙に蹈み入れて、歌よみしたまひしく」云々とある。愛する夫との永の別れになることを覚悟した痛切な恋歌となっている。

 「八千矛の 神の命や、吾が大国主 汝こそは 男に坐(いま)せば、うち廻る 島の埼(崎)々 かき廻る 磯の埼おちず、若草の 嬬(妻)持たせらめ。吾はもよ 女にしあれば、汝を除(置)て 男はなし。汝を除(置)きて 夫(つま)はなし。綾(文)垣の ふはやが下に、苧衾(蒸被、蚕衾) 柔やが下に、たく衾(栲被) さやぐが下に、沫雪の 若やる胸を 楮綱(たくづ)の 白き臂(腕) そ叩き(素手抱き) 叩きまながり(手抱き抜がり) 真玉手(出) 玉手差し纏(枕)き 股(百)長に 寝をし寝(な)せ。豊御酒 奉(たてまつ)らせ」。

 (あなたは男なので、お廻りになられる島の崎々、磯の崎々で若い妻を娶るのでせうが、私は女ですから、あなたの他に愛する者は居りません。どうぞあなたは旅先で彼女達と柔らかい暖かい布団でお休みになられませ。でも、何時までも心は私のところにあるとこの御酒を召して誓ってくださいませ)

 二人は互いが杯を交わし、手を首に掛け合って別れを惜しんだ。「かく歌ひて、すなはち盞結ひして、項繁けりて、今に至るまで鎮ります。こを神語といふ」とある。大国主は旅立ち、スセリ姫は留まり鎮座することになった。
(私論.私見)
 この逸話は重要である。僅かにこれだの記述であるが、大国主が大和の国に向ったことを示唆しているからである。このことは出雲王朝と河内王朝、三輪王朝との絡みを考える上で意味がある。この旅立ちの際にスセリ姫が詠った歌意を「正妻のスセリ姫が嫉妬激しく」なる解説があるが無用であろう。よほどの重大決心で大和へ向かおうとする夫の大国主に対する恋歌と受け取るべきであろう。大国主は艶福家で知られているが、正妻のスセリ姫との信頼が厚かったことを逆に教えると受け止めるべきであろう。

 2011.7.16日 れんだいこ拝
 れんだいこのカンテラ時評№1142  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月12日
 伝承真偽考、「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」考

 日本神話考証中に思ったことだが数多くの伝承が遺されている。記紀、古史古伝の伝承の数々の中には相反するものもあり、どれを択ぶのかが肝腎となる。しかし、これを正しく認識し受容しなければ史実が掴めない。例えて言えば、精子が子宮への着床を求めて膣内の様々な洞窟に迷う例に似ている。回り道をしようとも最終的には子宮へ辿り着くことで妊娠へと至る。伝承の選択にもそういう見識が要ると云うことである。これを仮に「伝承真偽論」と命名する。

 れんだいこには格別お気に入りの伝承がある。これを披露する。大国主の命の伝承は「いなばの白兎譚」を代表に数々あれど、正妻・スセリ姫との別れの遣り取りを記す「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」の条が一番気に入っている。実は、この歌は非常に重要な史実を証言している。これについては後で記す。

 出雲の国譲り後のことと推定されるが、大国主は、大和の国に向うべく旅支度を始め、この時、スセリ姫に次の歌を捧げている。詞書きとして「その夫の神わびて、出雲より倭の国(やまとのくに)に上りまさむとして、束装(よそひ)し立たす時に 片御手は御馬の鞍に繁け、片御足はその御鐙に蹈み入れて、歌よみしたまひしく」云々とある。原文は「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」に記す。
 (kodaishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/
ookuninushioutyoco.html


 「今となっては、ぬば玉のように黒い衣を着ても似合わない。故に脱ぎ棄てよう。翡翠のような蒼い衣(沼河比売を暗喩)を着ても似合わない。故に脱ぎ棄てよう。着慣れた山の畑の茜草で染めた赤い衣(スセリ姫を暗喩)を着るのが一番しっくりする。渡り鳥のように私が旅立ってしまったら、君は泣かないと云っていても泣くだろうな。それを思うと哀しい。私の気持ちは、朝雨のさ霧けぶる中を旅立つような思いである。これから先どうなるか決意あるのみである。歴史に殉ずる。お前との会話もこれきりになってしまった。未練は云うまい達者でな」。

 ぬば玉とは、アヤメ科多年草の檜扇(ひおうぎ)の種子を指し、黒々と丸い形をしている。「きらきらと光るミステリアスな黒」の意味があり、万葉集の枕詞で「ぬばたまの夜」、「ぬばたまの夢」などとして使われる。「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」が元歌であり、これに掛けているように思う。こたびの旅が永遠の別れになることを覚悟しているスセリ姫は、大国主の命の和歌を受け、大御酒杯(おおみさかずき)を取らせて次の歌を詠んでいる。この歌を味わおう。

 「八千矛の神にして私の夫、大国主の命よ。そなたは男なので、お廻りになられる島の崎々、磯の崎々で若い妻を娶るのでせうが、私は女ですから、あなたの他に愛する者は居りません。どうぞあなたは旅先で彼女達と柔らかい暖かい布団でお休みになられませ。私はあなたとの愛の日々を決して忘れません。今までの思い出を大事に暮らして行きます。あなたの御無事と幸運を祈念して、この御酒を捧げます」。

 恐らく衆人環視の中、恥ずかしがることもなく、二人は互いに杯を交わし、手を首に掛け合って別れを惜しんだ。「かく歌ひて、すなはち盞結ひして、項繁けりて、今に至るまで鎮ります。こを神語といふ」とある。大国主は大和へ旅立ち、スセリ姫は出雲に留まり鎮座することになった。れんだいこは、この伝承は実話なのではなかろうかと思っている。この歌を気に入る理由は、心底から信頼で結ばれている二人の愛情が滲み出ていることに感動するからである。こう解せず、スセリ姫の歌意を「嫉妬激しく」云々なる解説を付して得心する向きがあるがお粗末と云うしかない。

 ところで、「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」は、大国主が晩年、ヤマトの国に向ったことを証言している点で貴重過ぎる。この時期が国譲り後であるとするならば、大国主の命は国譲り後にヤマトに向かったことになる。れんだいこ史観によれば、出雲王朝はその後、三輪王朝を生み、その延長上に邪馬台国が見える。そういう絡みを考える上で、「大国主の命の大和への旅立ち譚」には重大な意味がある。

 れんだいこ史観の真骨頂なのだが、この時、大国主の命は、外航族の迫り来る襲来に対応すべく国津族の救国共同戦線の構築を期してヤマトへ向かったと読む。大国主の命のヤマト行脚行程は残されていないが、代わりに二ギハヤヒの命のそれが伝えられている。れんだいこの眼には、大国主の命と二ギハヤヒの命が重なってしようがない。これについては、今後いよいよ解明に向かうつもりである。

 もとへ。スセリ姫は、そういうよほどの重大決意で大和へ向かおうとする愛する夫の「止むにやまれぬ大和魂」を理解した上で、大国主の命に対する永遠の別れを受け止めている。スセリ姫の本歌は、その惜別の恋歌と受け取るべきであろう。大国主は艶福家で知られているが、それは当時の各地の国主豪族の娘との交合が須らく政治婚であったこと、正妻のスセリ姫との信頼がかくも厚かったことを教えていると受け止めている。

 jinsei/


【アワギヘワナサヒコ(阿波枳閉委奈佐比古)の命】(「江角 修一‎ ― 神社と歴史の広場」)

 出雲風土記にしか見えない神。阿波(徳島県)から来て、和名佐(松江市宍道町上来待和名佐)に鎮座した男神と解釈できるお名前。出雲風土記に見るアワギヘワナサヒコ(阿波枳閉委奈佐比古命)という神が、どこからか船を曳いてきて、据え置かれたものが山になった。その山を船岡山と呼ぶ。船岡山とは雲南市海潮にある山で、阿波枳閉委奈佐比古命(アワギヘワナサヒコ)を祀る船林社がある。どうしてこの神が貴船神社に祀られているのかは謎。





(私論.私見)

 大国主神
父/天之冬衣神(記)素戔嗚尊(紀:旧事紀)。母/刺国若比売(刺国大神女)(記)櫛名田比売(紀)諸説あり。子供/事代主命、建御名方神、他多数。
妃/須勢理毘売(后;須佐之男女)、稲羽之八上比売ーーー木俣神。沼河比売(越の国の女)ーーー建御名方神(先代旧事本紀)。多紀理毘売(須佐之男女)ーーー下光比売、阿遅鍬高日子神。神屋楯比売ーーー事代主神。鳥取神(八嶋牟遅神女)ーーー鳥鳴海神。
③日本書紀名;大国主神  別名;大物主神、(国作)大己貴命、葦原醜男、八千戈神
       大国玉神、顕国玉神、大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、            宇都志国玉神、大汝神、大倭神、大神神、ーーー>大黒天
④出雲に鎮まる国作り神話の主人公。
⑤古事記では、須佐之男の6世孫。日本書紀では、本書に大国主神の名はみえない。
大己貴神と記されている。
 一書 清之湯山主三名狭漏彦八嶋野の5世孫とある。
⑥大和坐国魂大神社(大和神社)の祭神。大和大三輪神社の祭神。
⑦イ、稲羽素兎神話、ロ、根の国神話、ハ、八千矛神神話、ニ、国作り神話
 ホ、国譲り神話、など出雲神話の主人公。
 イ)--ハ)は古事記のみ。
⑧出雲大社(杵築大社):島根県出雲市大社町杵築東
 祭神:大国主命
 大物主神
①父:不明(記)素戔嗚尊?(紀) 母:不明(記)不明(紀)
②記紀での記事
古事記
1)(神代)大国主が国作りする時、初めは少名毘古那神と一緒になって進めたが、後に少名毘古那神は、常世国に渡った。そこで大国主は、愁いて「私一人でどのようにしてこの国を作ることができるのか。どの神と私とでこの国を共に作るのか」と告げると、海を照らして寄ってくる神がいた。その神は「丁重に私の御魂を治めるならば、私が共に作りあげよう。もしそうでないなら国を作り上げることは難しいだろう」といった。大国主は「それならば、どのようにして祀り奉ればよろしいでしょうか」というと、「私を倭の青垣の東の山上に祀れ」と答えた。これが御諸山の上に鎮座している神である。
2)(神武天皇代)神武天皇が倭に入り新たに皇后を娶る記事
 三島溝杭の娘の「勢夜陀多々良比売は、その容姿が美しくそのため美和の大物主神が見て気に入ってその美人が大便をするときに,丹塗矢に化けてその大便をする厠の溝から流れ下って,その美人の陰部を突いた。そこでその美人は驚いて立ち、走って慌てふためいた。その矢を持ってきて床のそばに置くとたちまちに立派な男に変わり、すぐにその美人を妻として生んだ子が、名をホトタタラ伊須気余里比売といい,またの名をヒメタタライスキヨリヒメといいます。こういう訳でこの娘は神の御子というのです」。この娘との間に生まれた子供が2代綏靖天皇である。
3)(崇神天皇代)
 この天皇の御代に疫病などで人民が多く死んだ。天皇の夢に大物主が現れ「これは我が御心である。意富多々泥古に我が御魂を祀らせたならば、神の祟りも起こらず、国も安らかに治まるであろう」といった。そこで色々手を尽くして意富多々泥古を探したところ河内の美努村にその人を見つけ、差し出した。そこで天皇が「お前は誰の子か」と尋ねた。「僕は大物主大神が、スエツミミの娘イクタマヨリビメを妻として生んだ子の、名はクシミカタの子イヒカタスミの子タケミカズチの子僕はオオタタネコです」と答えた。そこで天皇は大いに喜び「天下は治まり、人民は栄えるだろう」といって、すぐにオオタタネコを神主として御諸山にオオミワ大神の魂を祀らせた。これにより疫病はことごとく止み国家は安らかに治まった。

 大物主と陶津耳の娘活玉依毘売の神婚譚の記事もある。
日本書紀
1)大己貴が少彦名を失って一人になってしまった。誰か私の国作りを手伝ってくれる者がいるだろうかと嘆いていたとき、神光海を照らして忽然と浮かんできたものがあった。「もし私がいなかったら国造りはできまい。私がいたからこそ国造りができたのだ」と。大己貴「あなたはどなたですか」と訊ねた。神は「われは汝の幸魂奇魂なり」と。大己貴「今どこに住みたいですか」と。神「われ日本国の三諸山に住みたいと思う」と。そこで言葉通りに宮をたてて住んでいただいたが、これが大三輪の神であり、その神の子は甘茂君、大三輪君である。
2)大国主神亦の名は大物主神亦は国作大己貴命ーーーと申す。
3)崇神天皇段
 飢饉、疫病などで反乱さえおこりかねない状態になった。倭迹迹日百襲姫に神懸かりして、「天皇よ心配はいらない。もしよく我を敬い祀ればすぐにも平和になりましょう」。天皇「こんなに教えてくださるのはどんな神か」。「我は倭国にいる神、名を大物主神という」。そこで天皇は言われた通りに祀ったが効果がなかった。天皇「まだ祭り方が悪いのか夢で教えて下さい」。その夜天皇の夢に「私は大物主神だ。もし吾が子、大田田根子を捜して吾を祀らせたら国はすぐに平和になり、外国も帰順してくるだろう」と。大田田根子を茅渟縣陶邑で見つけた。「お前は誰の子か」答えて「父を大物主神といい、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女なり」と。またいう「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」と。天皇大いに喜び大田田根子を大物主大神を主とした。これにより疫病も止み賑わいを取り戻した。

 倭迹迹日百襲姫と大物主の神婚譚の記事もある。
先代旧事本紀
1)事代主から大田田根子までの詳細(夫婦)系図が記されてある。)
2)神武紀
大物主神が三島溝杭の娘、「勢夜陀多良比売」と丹塗矢の神婚譚で生まれた「多々良伊須気余里売」が三輪山の麓狭井川で遊んでいるのを神武天皇が見初めてこれを正妃にした。
3)大己貴神、大国主、大物主は同一神としている。日本書紀と同じ。
 

 少名毘古那神(すくなびこな)
①父;神産巣日神(紀では、高皇産霊尊)母;不明
②子供;不明
③日本書紀名;彦名少命 別名;須久奈比古命
④大国主神とともに国土経営に尽力。
⑤父の手の俣より落ちこぼれた子(それ程小さな神)
⑥大国主と兄弟の契りを結んで国土経営に尽くし、その後常世国に渡った。
⑦温泉神、酒の神
⑨桜井市 大神神社。
 事代主神(ことしろぬし)
①父;大国主神 母;神屋楯比売命
②子供;五十鈴媛(神武天皇后:紀) 五十鈴依媛(綏靖天皇后:紀)
 妃;三島溝杭女玉櫛媛(紀)、天津羽羽命?  三島溝杭女活玉依姫(旧事)
③日本書紀名;事代主神  別名;八重言(事)代主神
④託宣をつかさどる大国主神の御子神。
⑤国譲り神話;大国主神が、伊那佐、小浜で天神より服従を迫られた時「僕は之白さじ。我が子八重言代主神、これ白すべし」と答えた。この時事代主神は、「御大の前」で鳥と遊び、魚捕りをしていたが、「恐し、この国は天津神の御子に立て奉らむ」と父に語り、その乗ってきた船を踏み傾けて,天の逆手を打って青葉の柴垣に変えて隠れてしまった。(美保神社、青柴垣神事)
⑥日本書紀;事代主神は、八尋熊鰐になって三嶋の溝織(クイ)媛(玉櫛媛)に通い、タタラ五十鈴媛命を生んだとある。綏靖、安寧天皇妃も子供、孫である。
 (古事記には、この記事なし)
 古事記では、大和での事績のほとんど記されてない人物。日本書紀では非常に重要な人物。先代旧事本紀では、大己貴神の子供であり、日本書記と同様な系譜とさらに大田田根子に続く詳しい系譜が記されてある。
⑦神功皇后紀にも「事代主神を祀れ」とある。
⑧大嘗祭8坐の一柱。
⑨天武紀「高市県主許梅」の神懸かり「吾は、高市社に居る名は事代主神なり。---」の記事。天皇の守り神的性格として登場。
⑩出雲国と結びついて語られるが、その出自が出雲国にあるか疑問。「出雲風土記」にはその名なし。
 
参考
・高市御県座鴨事代神社(奈良県橿原市雲梯町689)
式内社、旧村社 現在名:河俣神社
祭神:鴨八重事代主神
 
・鴨都波八重事代主神神社(奈良県御所市御所513)
旧県社、式内社
祭神:積羽八重事代主神
別名:下鴨社  三輪神社別宮
創祀:崇神朝に鴨積が葛木の地に奉祀
 
・高鴨神社(御所市鴨神1110)
旧名:高鴨阿治須岐詫彦根命神社 大神神社・大和国魂神社と同じ従二位の神階
明神大社、旧県社、式内社
祭神:味治須岐高彦根命
別名:高鴨社   自称全国鴨神社の総社
 
・葛木御歳神社(御所市東持田御歳山)
祭神:御歳神、高照姫(事代主神同母妹)
別名:中鴨社
 
・長柄神社(御所市名柄字宮271)
旧村社、式内社
祭神:下照姫(あかる姫)(味治須岐高彦根命の同母妹)
 建御名方神(たけみなかた)
①父;大国主神 母;不明 「先代旧事本紀」では母;高志沼河姫
②子供;不明
 妃;八坂刀売神(綿津見神女?)
③日本書紀名;不明
④諏訪大社に祀られる軍神。
⑤国譲り神話;建御雷之男の国譲り要求に力自慢のこの神だけは、承服せず、力競べを挑んだが敗れ、信濃諏訪湖に追いつめられついに降伏。諏訪に留まって他所には決して出ないことを誓い服従した。とされる。
⑥諏訪大社。上社(男神)下社(女神)が祀られた。