出雲王朝御代の医食同源考 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「出雲王朝御代の医食同源考」をものしておく。 2013.07.16日 れんだいこ拝 |
【出雲王朝時代の風俗考、米食以前の主食、副食について】 |
出雲王朝時代の風俗考、米食以前の主食、副食は次のように考えられる。 稲作による米食が主流となる以前の上古代より出雲王朝時代に至る人々の主食は、山の幸の実、野の幸の芋、海の幸の貝の組み合わせだったと思われる。山の幸系の実としては、クルミ、トチ、クリ、ドングリなどの堅果類森林食物が考えられる。野の幸系の芋としては、クズ、ワラビ、ヤマノイモ、ウバユリなどの野生植物群が考えられる。海の幸系の貝は池の物、河川の物、海の物が考えられる。 出雲王朝時代の人々はソバに代表される麺食と芋に象徴される団子食を併食していたと思われる。米とか麦はかなり後の食物である。米食、麦食が一般化する前まではソバ、芋がその地位にあったと思われる。麺食はソバに続いてうどんを生む。思うに現代人もソバを好むが原日本時代の主食だったことに関係しているように思われる。実際には「麺食と団子食の組み合わせもの」が主食だったと思われる。これらのことは、縄文人骨のコラーゲン分析により、「全般にクリ・クルミ・ドングリなど植物質食料への依存志向が予想以上に高い」ことが判明しており裏付けられる。 |
団子の起源と語源は次の通り。 日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃からと思われる。初期の団子はいわゆる「粢」(しとぎ)で、米、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)、豆、椚(くぬぎ)の実、楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子でした。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式です。 「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではないが、中国の「団子」(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説等々がある。串団子は室町時代頃に発生したと言われている。最初の頃は五個刺すのが基本で、明和年間に四個のものがはやったとされている。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺している。 |
当時の肉食は次の通り。肉食は狩猟食とも云われる。狩猟には、大型獣(恐竜)、中型獣(熊、鹿、猪)、小型獣(狸、狐、兎)、超小型獣(ムササビ、リス、ネズミ)、鳥類(キジ、カモ、アホウドリ)などがある。弓矢を中心とした猟がおこなわれた。縄文遺跡からは鹿と猪の骨が最も多く出土する。この二つが縄文人の主要な狩猟対象とされていたことが分かる。 |
当時の海産物は次の通り。三内丸山遺跡からは、汽水域(河口部など、淡水と海水がまじりあった塩分の少ない水がある区域)にも棲息する魚(ボラ)、沿岸回遊魚(イワシ、ブリ)、外洋性回遊魚(マグロ、メカジキ、ニシン、カツオ)、海棲哺乳類(クジラ、イルカ)などの骨が発掘されている。秋に結ぶ木の実を採集し、貯蔵することを中心としつつ、これを補完したのが、場所によって比重がことなっていたろうが、動物や魚であった。 |
当時の保存食は次の通り。交換で遠隔地から得た塩漬けや薫製・干し貝などの保存食もあった。残留脂肪酸を分析した結果、鹿児島県上野原遺跡で発見された煙道つきの連結土坑は、イノシシの薫製作りのためのものであり16基もあった。石川県真脇遺跡からは、イルカの骨が300体以上も発見されている。塩漬けにして交換にあてたものかもしれない。千葉県加曾利貝塚からは同じ貝が大量に発見されることから干し貝の加工所跡と推定されるところもある。 |
【出雲王朝時代の風俗考、米食について】 |
水田耕作が発達するのは縄文時代晩期まで待たなければならない。陸稲の栽培は思いのほか早く、岡山県の6000年前の朝寝鼻貝塚から縄文前期の稲、小麦、ハトムギのプラントオパールが発見されている。プラントオパールとはイネ科植物の葉にできるガラス質で、植物ごとに形状に違いがある。稲は日本には自生していなかった植物だから、誰かが持ち込み栽培されていたことしになる。但し、当初の陸稲はまだ生産力が低く耕作者に大きな富をもたらすことはなかったと解されている。 |
【出雲王朝時代の風俗考、手食&箸文化について】 |
食事を手食していたかどうかにつき、恐らくかなり早くから箸を使う習慣になっていたと思われる。証明しようがないが、野蛮的古代人手食論は為にするものであり、そういう論をする方が野蛮ではないかと思われる。古代人ではなく論の方が野蛮な見解であると思う。 |
【出雲王朝時代の風俗考、囲炉裏車座文化について】 |
特徴的なことは家族団らんで食べることが習わしであり、囲炉裏を車座に取り囲んでナベ料理に舌鼓を打ちながら会食するのが慣わしであった。今日でも居酒屋が隆盛しナベ料理が愛好されているが、これらは原日本時代来の会食風景である。あるいは結婚式や葬式での和やかな一族郎党の会食もその名残りと思われる。食事は一人でするのは味気なく、みんなと食べればおいしい気分なるのは、この時代より練られ獲得されたDNAではなかろうか。 |
【出雲王朝時代の風俗考、医食同源食事療法について】 |
原日本時代は「医食同源」的発想で食材を吟味していたことも銘記されねばならない。「山のもの」、「野のもの」、「海のもの」のそれぞれが、この「医食同源」的発想で研究され、食材化されていた。「山のもの」の代表例は、クルミ、クリ、トチ、ドングリ等の木の実、種、葉、幹、根、キノコ(木の子)山菜に及ぶ。「野のもの」の代表例は様々な野菜、草花、川魚に及ぶ。「海のもの」の代表例は魚、貝、藻、昆布に及ぶ。採集のみならず栽培もしていたと考えられる。栽培植物として根菜類の「大根」や「人参」、「牛蒡」、コンニャク、レンコン等々。ウリ科のウリ、ヒョウタン等々。他にもゴマ、アサ、ウルシなどが確認できる。畑作物としての麦類、豆類。食生活は豊かであったと知る必要がある。意外と云うか当たり前と云うべきか製塩により塩を摂取している。それぞれの季節に応じて山幸、野幸、海幸の旬のものが食されていた。これが日本料理として体系化される。「医食同源」の根本として「楽しくおいしく食べる」が基本となっていたように思われる。これらは貝塚に痕跡が残されており、これにより推定できる。大森貝塚が特に有名である。 今仮にお節(せち)料理を確認してみる。江戸時代のお節料理は四段重ねの重箱に入れられ、一の重箱には数の子、ごまめ、黒豆、叩きゴボウ、二の重箱にはカマボコ、きんとん、キンカン、三の重箱には甘ダイの西京漬け、ヒラメの昆布締め、フナの雀焼き、四の重箱にはヤツガシラ、レンコン、クワイ、シイタケ、タケノコの煮物などが盛り込まれていた。これらはいずれも縄文時代来の料理である。 当時の人たちにとって、自然にあるものの何一つ無用のものはなかった。当然並行して医の逆の毒味の研究もなされていたことになる。 |
【出雲王朝時代の風俗考、しょうがについて】 |
そうめん、ラーメン、うどん、スパゲッティ等の小麦麺類はのびたら食味が落ちますが、出汁にしょうがをいれると、小麦麺のうまさがしゃっきり引き立ちます。和の鉄人「いのちの出汁」の秘密は大和の国のショウガで決まり。もちろん小麦麺のもショーガ出汁で目茶旨くなりますよ。
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「★阿修羅♪ > 雑談専用40」の「会員番号4153番 日時 2013 年 6 月 11 日」投稿「なぜ日本食は世界で人気があるのか(国際派日本人養成講座)数世代、数百年かけて伝えられる技術と伝統がその原動力」。 | |
国際派日本人養成講座から 文責/伊勢雅臣 http://blog.jog-net.jp/201207/article_5.html |
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■1.世界に最も良い影響を与えている国-日本
2006(平成18)年に英国のBBC放送が、世界33カ国、約4万人を対象に世論調査を行った結果、「世界に良い影響を与えている国」としてトップに挙げられたのが日本だった。全体では肯定が55%、否定は18%だった。この調査は、その後、毎年実施され、日本はその後3年連続で「良い影響を与えている国」第1位を維持し、2009(平成21)年こそ4位に落ちたが、翌年は2位に返り咲くなど、世界のトップレベルを維持している。 |
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■2.大繁盛のミラノの寿司屋さん
海外でのこうした高い評価は一体どのように形成されているのだろう。外国の一般大衆が日本に対するイメージを持つ機会は、マスコミ報道、日本旅行、在留邦人との交流などいろいろありうるが、海外に展開されている日本料理もその一つだろう。たとえばミラノの中心部にある寿司屋。イタリア人の客たちは箸を器用に使って、いかにもうまそうに頬張っていた。 |
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■3.日本食レストランの「看板に偽りあり」 |
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■4.世界一の美食都市・東京
フランスの美食都市として有名なリヨンの日本人の経営する日本食レストラン。エビ天丼。ネタもタレも衣も見事で、シーフードの好きなフランス人にも十分アピールしている。パリの日本人の経営するラーメン屋。日本人はラーメンを中華料理だと思っているが、札幌ラーメン、博多とんこつ等々現代日本の各地で食べられるラーメンは、実は中国各地の中華料理ではまったく味わえないもので、今や純然たる日本料理と言って良い。餃子。カツ丼とサッポロビール、焼きそば、チャーハン。 |
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■5.東京が高い評価を受けた理由 『ミシュランガイド』の社長ジャン・リュック・ナレ氏は、韓国の『中央日報』のインタビューで、東京が高い評価を受けた理由を次のように述べた。[1,p34]
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■6.「専門性」と「数世代、数百年かけて伝えられる技術と伝統」
ナレ氏の「専門性」、および「数世代、数百年かけて伝えられる技術と伝統」という言葉に注目したい。ナレ氏が驚いたように、フレンチやイタリアンでは、得意な料理、名物料理はあっても、たとえばシーフード・スパゲッティだけで一流店になるということはありえない。それに比べれば、日本料理は寿司から鍋物、揚げ物、焼き物など、いろいろなジャンルがあり、鍋物一つとっても、さらに寄せ鍋、ちゃんこ鍋、うどんすき、すっぽん鍋等々に分化して、それぞれ一流の専門店があったりする。たとえば、京都の「大市」という店は、元禄年間から三百年以上にわたってすっぽん料理を作り続けてきた。鍋も何百年も使い込んでいるので、湯を沸かすだけでスッポンスープができるほどだと言う。これがナレ氏の言う「専門性」と「数世代、数百年かけて伝えられる技術と伝統」である。「大市」は極端な例にしても、親子数代にわたって寿司屋やうどん屋を続けてきた、という例はいくらでも見つかる。一つの専門にこだわり、数世代をかけて積み上げてきた技術と伝統こそが、日本料理を世界最高レベルに押し上げてきた秘密だと言える。 |
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■7.「いただきます」という神事 なぜ日本人はこのように専門性と歴史伝統へのこだわりを持っているのか。その秘密を史家の竹田恒泰氏は著書『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』の中で、「いただきます」という言葉から解明している。氏は「『いただきます』とは『あなたの命を頂きます』という意味であり、食材そのものに対する感謝の気持ちを表す言葉である」と述べている。[1,p47] 考えてみれば、食べ物は、肉にしろ、魚にしろ、野菜や穀物にしろ、すべてもとは生き物である。その生き物の命を頂いて、我々は日々生かされている。その事への感謝が「いただきます」に込められている。食事そのものが、日本人にとっては生命をいただく神聖なる儀式、「神事」なのである。わが国においては、農作物を育てる農作業も、それを食べ物として提供する料理も神事である。天皇が皇居の田で稲を育てられ、毎年の新穀を天照大神に差し上げる新嘗祭は、天皇が執り行われる最重要の神事の一つである。また伊勢神宮では、毎朝夕、米、水、酒、塩、海の幸、山の幸を差し上げるという日別朝夕大饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が、この1500年間絶えることなく続けられている。 |
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■8.「調理」という神事に携わる使命感
料理人は、食材の命をいただいて、それを食べ物にするという神事を行っている。自分は、そのような尊い神事を任されているという使命感が、たとえ無意識の中にでも潜んでなければ、何代にもわたって愚直においしいスッポン料理を追求するなどということはできない。調理が神事であるからこそ、いただいた食材の命を最大限生かしておいしい料理にしようと努力し、さらにはいただいた人の健康にも良い料理を提供したいという思いやりが働く。日本食がおいしく、かつ健康的だという特長は、多くの料理人が先祖から子孫へ、先輩から後輩に伝えられる伝統の中で、神事に携わる使命感を感じとって、愚直な努力を何世代も続けている所から来ている。こういう努力が積み重なって、いまや世界の人々に好かれるほどに、日本料理はおいしく健康的になったのである。日本料理に携わる人々が(それはかならずしも日本人に限らないが)、この日本の文化伝統をより自覚して取り組むことで、日本料理はさらに世界の人々に愛されていくだろうし、また、調理人のそのような生き方自体が海外の人々にも貴重な示唆を与えるだろう。そうなれば、わが国は国際社会に対して、ますます良い影響を与えていくだろう。 |
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■リンク■ a. JOG(574) 和食で作ろう、健やかニッポン b. JOG(640) しょうゆを世界の食卓に ~ 国際派日本企業キッコーマンの歩み日本の食文化の中心であるしょうゆが100ヶ国以上で受け入れられた道のり。 c. JOG(478) 世界に愛される"Japan Cool" ~ 『世界の日本人ジョーク集』から 自動車・家電、マンガ、アニメなど"Japan Cool" が世界の子どもや大人たちに愛されている。 |
(私論.私見)