大国主の命考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).10.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本神話史上最大のスーパースターが大国主の命である。このことが案外知られていない。れんだいこも気付いたばかりなので皆なが知らないのも致し方ない。ここで、その大国主の命論を書きつけておく。日本の国体を云うのなら、北一輝に聞かせたかったが、大国主の命政治論抜きに語るのは無謀ではなかろうか。北一輝の国体論にこの視点がありせば、れんだいこは北一輝神社を創建し毎日柏手を打つと思う。

 「ウィキペディア大国主」、「
大国主命」、「大国主神」その他を参照する。

 2011.07.20日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№953 れんだいこ  投稿日:2011年 7月18日
 【大国主の命論その1、皇国史観に代わる新国体論の必要性考】

 ここで、「れんだいこの大国主の命論」をものしておく。このところのれんだいこの関心は犬養毅論で始まり5.15事件へ、5.15事件から2.26事件へ、2.26事件から北一輝論へ、北一輝論がはるけき出雲王朝論へ、出雲王朝論が大国主の命論へと向かわせている。この流れは、れんだいこには内的必然性がある。

 戦前の皇国史観は、記紀神話に基づいて出雲王朝を貶しつつ神武東征から始まる大和王朝創始譚を是とする建国神話を基底に据えている。これによる日本の国体論を構築している。これが絶対主義的天皇制賛美のイデオロギーとなっている。先の大東亜戦争の敗戦がそういう皇国史観を解体した。それは良いととして問題が残されている。

 戦後の歴史教育は、皇国史観の否定と共に日本の古代史解明を疎かにした気配が認められる。邪馬台国論争のみが盛んで関心を引き付けるものの、肝腎な天皇制論、国体論については却って無知蒙昧になっている。マルクス主義の祖国性を抜きにした国際主義がこれを左から促進したと思われる。これにより、日本古代史に分け入るのは一部の歴史研究家のみであり、多くの者は関心さえ寄せない風潮を作りだすことになった。それが証拠に周辺の者に尋ねてみるがよい、殆どちんぷんかんぷんの手合いばかりだろう。

 れんだいこは違うと思う。敗戦により戦前的規制が取り払われた意義は、徒な天皇制賛美に向かう皇国史観と決別する絶好機会となるべきであった。それは古代史から遠ざかるべきではなく、本来のもっと豊饒な日本建国史、民族史の研究に水路を開くべきだった。このことは即ち出雲王朝論、先住民アイヌ史の解明に向かうことを必至とする。

 しかしながら、そういう機会を手にした戦後も、戦前同様に出雲王朝論を抹殺し続けている。これは何を意味するのだろうか。れんだいこが普通に読んでも、記紀神話でさえかなりの分量で出雲王朝の先行的存在を記している。いわゆる古史古伝、出雲風土記となると更に精緻に出雲王朝史を書きつけている。古代史のかくも精緻な文書が残されていることは日本の誉れであり宝であり、もっと大事にせねばなるまい。

 これを前提にして日本政治史上最大の「国譲り政変」が意義を持つ訳で、この流れを無視するのは無謀と云うべきだろう。記紀神話研究者が殊更に出雲王朝を抹殺してきた研究なるものは、よほど愚昧なものでしかない。この連中は恐らく裏筆法が理解できない天然粗脳なのではなかろうか。難しく書き云うのは正体が粗脳故かも知れない。

 この方面の研究をなおざりにするところに国体論の毀損が始まる。「国体論の毀損がひいては政治の貧困がもたらされる要因である」と考えるのが、れんだいこ史観である。付言すれば、国体論とは国家の連綿史を解き明かすもので、皇国史観はその変種のものでしかない。そういう皇国史観の否定と共に国体論まで滅却するのは「赤子をたらいごと流す」愚挙に等しい。普通、これを本末転倒と云う。

 国体論の滅失毀損は国家及び民族のアイデンティティの喪失であり亡国の始まりである。皇国史観の否定は皇国史観的国体論の否定に留まるべきで、新たな国体論の始まりを要請している。にも拘わらず新たな国体論の構築に向かわない戦後の歴史研究は去勢されたものでしかない。去勢された歴史観がなぜイケナイのかと云うと、家の土台足る基礎と同じ意味で、国の土台足る国体論を曖昧にするならば、その咎で国家及び民族の基盤が揺らぐことになるからである。即ち、多くの売国奴を生み出す道を開くからである。こう確認すべきではなかろうか。

 「国体論の毀損がひいては政治の貧困がもたらされる要因である」所以はここにある。目下の政治状況と戦後以来の国体論の毀損は、一見関係ないように思われるが大いに関係がある。戦前に於ける北一輝の国体論の称揚はこの意味で真っ当な指摘であった。だがしかし、北一輝の国体論は国体論の重要性を指摘した点では炯眼であったが、その国体論の中身は粗雑なものであった。皇国史観をそのままに受け入れていることに難がある。北一輝の諸論の限界性がここに認められる。

 れんだいこ史観に映ずるのは、2000年来の自公政権政治も2009政権交代による民主党の鳩山―菅政権政治の日本の歴史に対する素養の余りにもな軽薄さである。一言で云えば国体論がない。この貧層さが、連綿と練られ今日まで営々と造りあげられてきている国としての日本及び民族をいとも安易に衰亡の道へ誘っていると思わざるを得ない。このような貧相な政治家が大量輩出、登用され政権を御していることの危うさが危惧されねばならない。一々誰彼を挙げないが菅政権のその種の人材登用は異常である。

 2011.7.18日 れんだいこ拝

 jinsei/

 れんだいこのカンテラ時評№954 れんだいこ  投稿日:2011年 7月18日
 【大国主の命論その2、日本政治再生指針考】

 国体論は国際金融資本帝国主義論と相関している。これを逆に云えば、国体論の忘却は国際金融資本帝国主義論の未熟さと比例していると云うことでもある。現代世界が国際金融資本帝国主義に牛耳られており、第二次世界大戦後、世界の各地で民族独立が果たされたものの、世界各国は相も変わらずと云うか却って国際金融資本による金融支配の受難に遭っている。

 この現実に抗して、世界史的にそれぞれの在地土着の政治がこの勢力との丁々発止の政治が要請されている時、日本はアジアでただ一人嬉々として彼らの支配の下に日本の国家と民族の運命を委ねようとしている。その姿は異常であり、お笑いであり、無能であり、明らかに政治犯罪である。トラック競技で云えば既に一周もに周も遅れて競り合っているに過ぎない。

 垣間見えるのは、この国の政治当局者の我一身の立身出世と引き換えに為す売国奴精神である。率先して売国奴としてのエージェント活動を請負うことで権力中枢に登用されることを願い、念願通りに登用されるや否や偉そうにふるまい、横柄な物言いをし始め、権力を乱用し、うたかたの春の夢に興じては用済みにされ次から次へと役者が代わっている。その姿に浅ましい貧相な精神を嗅ぎ取るのは、れんだいこだけはあるまい。

 この現象を思う時、戦後日本が忘却してきた日本国体論の再構築が今こそ必要ではなかろうかとするのが、れんだいこ史観である。こういう売国政治は1980年初頭の中曽根政権の誕生と共に始まった。転換点が1970年代半ばからのロッキード事件であった。これにより在地土着系の鉄の同盟を誇った田中派―大平派の政府自民党内二大勢力がはがい締めされ、代わって売国奴系の福田派―中曽根派が主流派に転じ、以来30年間亡国政治に耽ってきた。

 
これにより、さしもの戦後日本も、それまでの世界史的に稀なる復興と発展の勢いが止まり、今やとめどない財政悪化、各種税率の高負担を両翼として死の苦悶に追いやられようとしている。これに軍事負担増、原発負担増がのしかかり現代日本が安売り丸投げされようとしている。

 この政治の最大功労者は中曽根、小泉、菅である。マスコミはこぞって中曽根、小泉を褒めそやして来た。そうすることで自身が登用されてきたと云う売文性がみられる。彼らは、目下の菅派のよほど素っ頓狂な政治に対しても、これを擁護し与野党連携の翼賛政治の必要を説いている。これほどバカげた論調はあるまいが遠の昔から文筆責任と云う感覚がない。昨日は鬼畜米英を唱え、翌朝には民主主義のペンを振ったのはつとに知られた話である。こういう文筆屋が最近はテレビに出てくるので顔が知られることになったが、案に違わずどの御仁も知性的ではない。単に世渡り上手の物書きのはしくれである生態を知らせているばかりである。この仕組みの裏で日本の国力がますます低下しつつあることが許し難い。

 2011.3.11日、三陸巨大震災は地震、津波、原発事故の三拍子揃った前代未聞の大災害となった。菅政権は自衛隊十万人出動を始め、計画停電、被災民への移動を制限する原油供給カットで対応した。原発事故に対しては真相を隠蔽し、日本人放射能汚染ストロングマン説を唱えつつ大丈夫論を鼓吹し続けた。これにより原発被災民は生体モルモットと化した。

 連日大騒ぎを演出したが、いざやっていることはかっての災害救援と比較しても却ってお粗末な対応ぶりを晒し続けている。先のソ連のチェルノブイリ原発事故以上の世界が唖然とする不始末対応をし続けている。事故に対する対応がロクにできぬうちから原発続投論を唱え、そのバカさ加減が明らかになると原発停止論を唱えたり引っ込めたり、その場しのぎの思い付きで政治遊びに耽っている。現代日本は、これに特段の違和感を持たないまま現在まで安穏に経緯していると云う形容し難い政治の不祥事を続けている。


 こういう政治のあれこれを逐一採り上げて批判してもキリがない。次から次へと問題が起っており、要するに一事万事の法理により全てがデタラメのまま現に推移している。故に、れんだいこの日本政治史綴りは意欲をなくしお手上げになっている。事態の深刻さは、自公政権、民主党の鳩山―菅政権と続く国際金融資本帝国主義身売り派によっては何も解決しない。菅派の中から誰がポスト菅を相続しようとも、事態がますます悪化するのは火を見るより明らかである。

 少なくとも、菅派政権時代に冷や飯を食わされてきた対極の側からの人材登用による新政権の下でなくては何も期待できない。日本の再生は、この水路よりのみ始まる。ところが、この水路を阻止せんとして反動勢力が束になって策動し続けており、為に日本の政治は何とも中途半端な、何をしているのか分からない朝令暮改を繰り返している。しかし、このバランスはいつか崩れる。我々は何としてでも反動勢力即ち国際金融資本派の阻止線を食い破り、真の人民大衆目線の政権を打ち立てねばならない。

 その日が近づきつつあるのか遠のきつつあるのか予断を許さない。事態は刻々変化しており、世界の政治状況も然りである。この潮の流れにより持久戦にシフトするのか急戦に転ずるのかが変わる。まもなく真価が問われる事態が生起しようが、我々にその能力があるだろうか。その前に我々の政治頭脳を整序しておかねばならないと思う。我々は何を求めて、どう事態を切り開いていくのか、針路をどこに据えるべきか等々を人民大衆的にクリヤーにしておかねばならないと心得る。


 個々の政策は別に論ずるとして、ここでは、戦前の皇国史観で曇らされ、戦後の歴史教育で消されている国譲り政変前の出雲王朝論、中でも大国主の命時代に精力的に推し進められた気宇壮大な日本改造政治を確認することにより、日本の真の国体論を獲得しておこうと思う。

 これについては、大田龍・氏の生前に話し合っておきたかったところである。大田氏には出雲王朝論の観点はなく代わりに飛騨王朝論を唱えていたと記憶する。しかし話し合えば大田氏なら容易に合点し得たと思っている。なぜなら、大田氏の論考は出雲王朝論に後ひと押しのところまで進みつつあったから。ゆっくりと話し合う機会がないまま大田氏は逝ったが、誰かが受け継がねばならない研究課題である。こう構えるのががれんだいこ史観である。駄弁か炯眼か、これを確認して欲しい。

 2011.7.18日 れんだいこ拝


 jinsei/

れんだいこのカンテラ時評№955  れんだいこ 投稿日:2011年 7月19日
 【大国主の命論その3、大国主の命と田中角栄論】

 れんだいこは格別に田中角栄を高く評価している。立花史観と日共史観に被れた者からすれば唾棄すべき観点であろうが、それは長年の巧妙な情報操作によって植え付けられたものであると了解しているので歯牙にもかけない。田中角栄のどこが何が凄いのか。それは、田中角栄が意図的か偶然の賜物なのかは別にして、時空2000年を超えて大国主の命政治を再現したところにあると見立てている。角栄の秘書・早坂氏はスサノウの命に例えたが、それは出雲王朝史に対する生半可さによるもので、正確には大国主の命とするべきであろう。

 そういう目で見れば、角栄の出自が越後であり、北一輝もそうであり、その越後が出雲王朝と格別に深い誼の土地柄であるからして因縁を感じる。かの地には出雲王朝頭脳が息づき、その伝統によって両者に出雲王朝頭脳が憑衣したと考えられる。付言しておけば、日本史上時に天才が現れるが、共通して出雲王朝頭脳が底バネになっていると思える節があることが興味深い。世界に称賛される日本とは、その内容を精査すれば漠然とした日本ではなく、出雲王朝頭脳及び精神、その文化伝統に対してであることに気づかねばならない。これが日本の原ふるさとであり、それほどお陰を受けていると思えば良い。


 出雲王朝頭脳とは、東出雲王朝の主たるヤツカミズオミヅの命の「国引き」、西出雲王朝の主たるスサノウの命の国土経営、大国主の命への政権移譲、両王朝統一の大国主の命の国土経営、国譲り等々の経緯に表れた世界最高レベルの政治頭脳及び思想及び文化伝統を云う。日本歴史の半分は、この出雲王朝頭脳により作られていると云っても過言ではない。そういうものとして受け止めてもらいたい。ここでは大国主の命に特化させて、その手腕を確認したい。如何に多方面に於いて日本に有益な役割を果たしているかが納得できよう。

 その大国主の命の政治のあれこれに言及して見ても、時代が違うのでさほどピンとこない。そこで、田中角栄の政治そのものが大国主の命政治の現代版であったと仮託させて、これを検証することで大国主の命政治を髣髴(ほうふつ)とさせてみたい。少しユニークな大国主の命政治論であり、書いているれんだいこが苦笑せざるを得ない。

 角栄は、政治の最初を土木、住宅、道路、水利事業より始めている。これを議員立法で処理している。角栄が直接手掛けた生涯の議員立法が33法、間接的に関与したものまで合わせると数え切れない。優に100法を超える。この記録は未だに破られない。と云うか、今日びの政治家には歴史の検証に堪え得るような議員立法を手掛ける能力そのものがない。

 現首相の菅が角栄批判を政治の原点とするとか、官僚批判で正義ぶるのは勝手だが、角栄の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。凡そ軽薄言辞を得意としているが、この点こそが真に角栄と対極的である。角栄は、陳情政治を肯定し、且つできることできないことを瞬時に仕分けし、できないことはその場で断り、できると約束したことは精力的且つ用意周到に根回しし政治家としての責任を全うした。よほど真っ当な政治であったと回顧すべきだろう。

 もとへ。大国主の命が東西出雲王朝の統合を経て最初に為したのが、土木、道路、水利、住宅事業等の建設省関係の仕事であったと思えば良い。角栄が次に為したのが、郵政省関係の仕事であり、テレビ時代の到来を見据え「民放テレビ36局の一括予備免許の一挙認可」を為し遂げている。大国主の命も又、当時における情報伝達手段の開拓に勤しんだと思えば良い。角栄は次に厚生省関係の健保問題解決、社会福祉問題に取り組んでいる。大国主の命も又当時の健保問題、社会福祉問題に取り組んだと思えば良い。以下同様であるので繰り返さない。

 角栄は次に大蔵省関係の予算づくりに精出している。これにより高度経済成長の財源的基礎を舵取りした。毎次の国家予算書に企業のバランスシートを読む如くに目を配り、日本を優良企業に育てるべく指導し抜いた。この功績が注目されていないが、角栄政治の偉業である。大蔵大臣の時、「山一證券倒産の危機からの救済」に尽力している。赤字国債発行に対しては憲法に則り厳禁している。税収の原資を法人活動の旺盛化に求め、中小零細企業を育成保護した。現下の政治とは全く逆であることが分かる。


 文部省関係の大学管理立法「大学臨時措置法」の成立に尽力し、学問の府のあるべき姿を保全した。これは、今から思えば折からの学園バリストの流行に対する止むを得ない措置であったであろう。通産省関係の日米繊維交渉に尽力している。前任の宮沢通産相では何ららちがあかなかったが、今後の他の輸出産業の保護を考慮しつつの英断であった。いずれも当時の懸案事項を手際よく纏めているところに値打ちがある。

 次に、首相時代になってからであるが、外務省関係の日中友好条約、国交回復交渉、日ソ平和・北方領土返還交渉、中東政策、諸国友好外遊「自主全方位外交」、新潮流外交に尽力している。高齢化社会時代到来を見据えて社会福祉政策を措置している。今日これを放漫支出と評する学者が多いが、それはその後の政策の放漫であって、かの時点での角栄の政策はむしろ炯眼と評すべきだろう。

 当時のインフレ経済に対応して労働者側の人件費の大幅増で対処している。これが消費、貯蓄に繫がり日本経済を一挙に活性化させることになった。この時代ほど人民大衆が生き生きと働いた時代はない。最後に、ロッキード事件で刑事被告人に追いやられ、その傍らで中曽根政権が推し進めようとしている国鉄民営化に反対する堂々たる論文を放っている。こういう角栄政治の源流であり手本が大国主の命政治であり、当時に於ける英明政策を次から次へと施策したと思えば良い。


 特筆すべきは、角栄が内治の成功ばかりではなく外治に於いても成功し、世界の首脳と五分以上に渡り合っていることであろう。一事万事の原則で云えば何ら不思議ではない。内治を御し得る者が外治をも御し得るのであり、逆は逆である。大国主の命も又出雲王朝外交を堂々と展開し、成功裏に治めたものと推定できる。その政治は、角栄同様ハト派的なものであり戦争よりは経済的交流で絆を深めることに重点を置いていたものと思われる。分かり易く云えば、戦後憲法が詠う国際協調、諸国親善に精出したと思えば良い。軍事的指導者としても有能であったであろうが、和戦両様の構えで出雲王朝の経営に勤しんだのは想像に難くない。その概要は次章で確認することにする。

 こういう政治を善政と云う。確認すべきは、出雲王朝時代、そういう善政が確かに行われていたと云うことである。これが大和王朝建国前の日本史の史実である。最高権力者である命が、その政治責任を十全に果たし、一族郎党、家臣を心服させ、人民大衆を国家の宝として保護育成し「民のかまどの煙の上り」を思いやっていたということである。為政者が「民のかまどの煙の上り」に配慮する政治は、この時代にひな型が作られ、大和王朝の御代になっても受け継がれ、その後の日本政治の原点となったと云う点でも見逃せられない。この話がウソかマコトか、次にこれを確認する。

 2011.7.19日 れんだいこ拝

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№956 れんだいこ 投稿日:2011年 7月19日
 【大国主の命論その4、出雲王朝政治考】

 東出雲王朝の王権を争い熾烈な抗争を続けていた若き日の大国主の命は、この頃の名を、「おほなむち」(大己貴神、大汝命、大名持神)と云う。「ナ」が土地という意味であることを考えると既に相当の領地を相続経営していたことになる。その大国主の命は、「いなばの白兎譚」で寓意されている如く、東出雲王朝の八十神(やそがみ)とイナバの国のヤガミ(八上)姫の妻取り合いで勝利している。

 次に、「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」で寓意されている如く、西出雲王朝のスサノウの嫡女・スセリ(須世理、 須勢理)姫にも一目ぼれされ、スサノウによる幾度の試練をも乗り越え遂に西出雲王朝の王権を手に入れている。これにより、大国主の命は東西出雲王朝を統合し、一大出雲王朝を創始して行くことになった。

 よほど男ぶりが良かったのであろう、「あしはらしこを」(葦原色許男神、葦原醜男)とも命名されている。「しこを」とは、「強い男」の意で、これを良く評価する側は「色許男」と当て字し、悪く評する側は「醜男」と当て字している。大国主の命は、その日本一の有能色男ぶりで各地の豪族との同盟関係構築に成功している。合戦止むを得ない場合には合戦を、和睦できる場合には豪族の息女と交合する方法で処しているように窺える。嬬恋歌が残されているが、和歌の堪能者でもあった様子が伝わる。


 これはいわゆる政略結婚であるが、その背景には和戦的意味合いがあったと思われる。政略結婚の原義はこういう豪族間の閨閥同盟にあり、次第に単に両家の結びつきへと意義が広がったものと思われる。この伝統は世界共通のものであり、特段に珍しいものではない。大国主の命の政略結婚として有名なものは、ヤガミ(八上)姫、スセリ(須世理、 須勢理)姫の他に出雲の郡宇賀の郷のアヤト姫、神門の郡の朝山の郷でマタマツクタマノムラ姫、八野(やの)の郷ではヤヌノワカ姫、宗像の三女神の中の多紀理(タキリ)姫、神屋楯(カムヤタテ)姫、八河江姫、前玉姫、比那良志姫、活玉前玉姫、青沼馬沼押姫、若尽女神、もっとも有名なところとして高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫が挙げられる。

 この頃の大国主の命の立ち働きに対して「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」と記されている。この時代の大国主の命を形容して「やちほこの神」(八千矛神)と称されている。矛は武力の意であるからして、八千矛とは獅子奮迅の武力を振っていたことを寓意していよう。

 事実、大国主の命は東西出雲王朝を平定し、続いて全国平定に繰り出していた。伯耆、因幡の国を征服して古代出雲を足固めし、但馬、丹波、更に兵を進め播磨で韓の王子アメノヒヤリと戦って勝ち支配圏を拡げた。支配圏は更に「越の八口」まで進んだ。越とは、若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。八口の口とは「国」のことを云う。続いて、信濃、大和、紀伊まで連合国家的に傘下に収めた。更に奥州には「日高見国」もあった。こうして各地の豪族を平定し、まさに名実共の大国主の命となっている。出雲風土記は大国主の命を呼ぶに、「天の下造らしし大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。このようにして形成された当時の王朝を仮に「大出雲王朝」と命名する。

 
大国主の命が精力的に王朝経営している時、強力な助っ人としてカンムスビ神の御子スクナヒコナ(少彦名)の神が現われ、以降両者は力を合わせて天下を創り治めた。出雲王朝に反目的な記述に終始している日本書紀にして次のように記されている。「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」。記述の出典は分からないが「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」と記されているとのことである。

 出雲王朝は、「鉄と稲」による農耕革命を推進し、当時に於ける国土改造計画に着手していった。これにより、縄文時代的採集経済から弥生式農耕経済へと転換させ、「葦原の中つ国」を「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国」へと発展させていった。出雲王朝は大国主の命の御代になって、政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面で躍進しており、そういう意味で大国主の命はまさに国作りの神であり、全国の国津神の総元締であると云う具合で、日本の神々のなかのスーパースターとなっている。英雄神としては、スサノオ尊やギリシア神話の英雄のように怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナ(少彦名)の神とコンビを組んで全国をめぐって国土の土木事業、農業技術、温泉開発に精出し、病気治療、医薬の普及、禁厭の法の制定といった数々の業績を残している。

 両者の興味深い掛けあい談議が記録されている。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神に次のような問うている。「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。スクナヒコナの神答えて「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。この遣り取りに対して、万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」。

 出雲王朝政治の特質は合議制にあった。毎年十月、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、諸事取り決めした。これを「神謀(はか)り」と云う。この間、各地の神は不在となるので和暦では10月を神無月と云う。但し出雲では神在月となる。出雲王朝は、この「神在月合議政治」により自由連合国家を形成していたと推定できる。これは、出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。

 並行して、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行う神道を確立して行った。特に、全国の八百万(やおよろず)の神が集う際に行われる神在祭が一大イベント化していた。即ち、出雲王朝時代に於いて日本式の祭政一致型政治が完成されていたと思いたい。留意すべきは、仮に午前中に寄り合い評定式で真剣に談じ合い、並行して神道行事を祀り、一服したところで盛大に祭ると云ういわば政治と宗教の有機的関係を見事に構築していたことであろう。これを日本の政治の型として確認しておきたい。この風習が今日でも町内会政治に残っていると窺いたい。

 次章で確認するが、出雲王朝の国譲り後、高天原王朝派が大和王朝を創建する。その大和王朝時代の政治の質を出雲王朝時代のそれと比較して見る時、大和王朝政治が支配被支配の度を強め、対比的に出雲王朝時代は徳政的な政治を特質としていたことが分かる。大国主の命は、支配権力を振るうよりは共同文化圏的な盟主的地位を良しとして、権力を善用していたのではなかろうか。出雲王朝には伝統的な共同体和合政治の型が見られる。その出雲王朝が国譲りで消滅し、大和王朝がいわゆる支配被支配政治に乗り出して以降、出雲王朝の御代が日本の母なる原郷となった。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、その謂れを知るべきだろう。

 ちなみに、大和王朝は、高天原王朝派の神道に出雲王朝神道を加えた別系の神道を生み出した。社を豪勢にして格式を尊ぶ神道である。出雲王朝神道では社は重視せず山そのもの川そのものと云う具合に自然そのものを信仰対象としていた。そういう違いが認められる。これにより、かっての出雲王朝時代の神道は出雲神道として識別せられねばならないことになる。更に云えば、出雲王朝神道も、大国主の命時代の神道とそれ以前の神道に違いが認められるので、大国主の命時代の神道を出雲神道と云うならば、それ以前の神道を出雲古神道と呼ぶべきかも知れない。


 その出雲王朝神道の極意は「御魂の理」にあるように思われる。それは、御魂を「和魂」(にきみたま。和を表象する)、「幸魂」(さきみたま。幸を表象する)、「奇魂」(くしみたま。奇を表象する)、「荒魂」(あらみたま。武を表象する)に分け、局面に応じて御魂の威力を使い分け、そのつど相応しい霊力を呼ぶ神事を執り行う。いわば言霊思想を基底に据えている。絶対教義はなく、局面に応じて融通無碍に処する法を確立している。「御魂の理」は個々人の生活の作法にも応用され、やがて七福神信仰へと発展する。政治に使われた場合には、和魂で徳治主義、幸魂で産業振興、奇魂で奇瑞、不思議を、荒魂で武断政治を御することになる。この「御魂の理政治」が日本政治の原型とも云えよう。

 出雲王朝はこれに則った政治を執り行っていたように思われる。こういう構造を持つ出雲王朝神道は、世界の宗教と比べて高度に洗練されているところにも特徴がある。自然の摂理に合わせた共生、社会の摂理に合わせた和合と云う環境適合型のものであり、21世紀が要請する政治宗教の質を先取りしている感がある。そういう質を持つ出雲神道は出雲の地、その地縁の地の神社を通してのみならず修験道信仰の中にも取り入れられ生き延びて行くことになったと思われる。

 2011.7.19日 れんだいこ拝

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№957  れんだいこ  投稿日:2011年 7月19日
 【大国主の命論その5、国譲り考前篇】

 よりによってこの大国主の命の時代、天下の形勢は風雲急を告げつつあった。大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが恐らく韓半島経由と思われる高天原王朝が来襲せんとしていた。高天原王朝を天孫族、出雲王朝他日本の先住民族を国津族と云う。

 高天原王朝は、どういう経緯によってかは定かではないが次のように意思統一している。「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している。中でも大国主率いる出雲が強大国である。豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が治めるべき地として相応しい。天壌無窮の地なり。出雲に使者を派遣せよ」。日本書紀は次のように記している。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ我が子孫の王たるべき地なり。宜(よろ)しく皇孫をして統治に当たらせるべし。行牟(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんことを。まさに天壌無と窮り無けむ(天壌無窮なるべし)」。

 この宣言が、「天壌無窮の神勅」と云われるものである。高天原王朝はかく出雲王朝の君臨する「豊葦原の瑞穂国」に白羽の矢を立て支配権を譲るよう迫っていた。皇国史観は、この「天壌無窮の神勅」を是として大和王朝創建の始まりとしている。出雲王朝側からすれば迷惑千万な話しでしかないが、神話上の史実である。

 当然、高天原王朝のこの動きは、大国主の命の治める出雲王朝にも伝わった筈である。大国主の命は、この非常事態に賢明懸命に対処している。これより「国譲り騒動譚」が始まる。日本古代史の、と云うより日本史上の最大政変勃発である。これに匹敵する史実は、鎌倉時代の蒙古襲来、戦国時代のバテレン上陸、江戸幕末の黒船来航、戦後の連合国軍進駐であろうが、それまでの支配政権がごそっと交代したと云う重みにおいては、この時の国譲り騒動に優るものはない。

 記紀が示す「国譲り騒動譚」をいつ頃の時代に想定すべきか。れんだいこは、紀元3世紀に所在していたとされる邪馬台国前の紀元1世紀前後の頃、中国の後漢時代と想定している。「後漢書東夷伝倭伝」は、朝鮮半島で、紀元105年、高句麗が遼東6県を侵した頃から184年までの80年間、倭国分裂大乱が記録されている。魏志倭人伝にも「その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」とある。

 その後、卑弥呼が王に共立され、この御代に邪馬台国が創建されている。魏志倭人伝に次のように記されている。「年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻なし。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし」。れんだいこは、「国譲り騒動譚」は、これに関わる政変の前段階の史実だったのではなかろうかと考えている。この辺りは今後の研究課題である。

 この説を補強する筋の話として、日本書紀には国譲り直前の次のような逸話を記している。「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。これが後に大物主の神登場の伏線となっているように思われる。

 大国主の命の大和行きは正妻スセリ姫との「ぬば玉歌」でも確かめられる。これは、大国主の命が大和の国に向うべく旅支度を始め、いざ立たんとする時に、大国主の命が詠い、スセリ姫が返歌した「永遠の別れを惜しむ嬬恋歌」と解するべきであろう。通説は、スセリ姫の返歌の一句「吾はもよ 女にしあれば、汝を除(置)て 男は無し。汝を除(置)きて 夫(つま)は無し」に着目しスセリ姫の嫉妬深さが窺われる歌と解しているがナンセンスであろう。それはそれとして、この歌は、史学的に「大国主の命の大和行き」を記していることに意味がある。

 この二つの神話は、出雲王朝と大和の三輪王朝との歴史的繋がりを伝えていることに意味がある。古事記は「依り来る神」の項で大国主の命の言葉として「吾をば倭の青垣の東の山の上に拜き奉れ」、日本書紀は「大三輪の神」の項で「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」を記している。ちなみに、三輪山宮は現在も奈良県桜井市の三輪山を御神体として大神神社として祀られている。現在、三輪山の麓にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかとして脚光を浴びつつある。れんだいこ史観によれば、出雲王朝と三輪王朝は深い繫がりがある。現代史学は次第にこのことを明らかにしつつあるように思える。但し、両王朝が高天原王朝により滅ぼされ、史実から封殺された側の哀しい歴史の物語を持つことまで確認し得ていないように思われる。皇国史観は、これを隠蔽する側の史観であり、これを幾ら学んでも歴史の裏真実には辿り着けない。そういう仕掛けが加えられている。

 もとへ。高天原王朝は何度も使者を送り失敗させられる。最初は「言向和平」(ことむけやわす)談判から始まった。一番手使者としてアマテラスの息子のアメノオシホミミの命が送られ、大国主が治めている葦原中国へ向かおうと天の浮橋を渡った。しかし、それから先は抵抗が強く進むことができなかった。次に、アマテラスの息子のアメノオシホヒの命を派遣する。しかし、アメノオシホヒの命は、大国主に靡いてしまい、3年たっても復命しなかった。

 第三陣の使者としてアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を派遣する。この時、初めてアメノマカコ弓とアメノハハ矢を援軍として同行させている。大国主の命は、ウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせ、アメノワカ彦はシタテル姫の美しさにみとれ、これを妻として住まい始めた。こうして又も篭絡された。8年たっても復命しなかった。高天原王朝の使者がアメノワカ彦の元に派遣され詰問した。問答の結果、アメノワカ彦は射殺された。


 
ここまでの流れを仮に「高天原王朝の出雲王朝攻略失敗譚」と命名する。「高天原王朝の出雲王朝攻略失敗譚」は、高天原王朝の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。留意すべきは、高天原王朝の使者は何故に籠絡されたかであろう。思うに、大国主の命との問答で、出雲王朝政治の理想に被れたのではなかろうか。問題はなぜ被れたかである。れんだいこは、出雲王朝政治の思想的にも実務的にも高度な政治が確立されていた故にではないかと推理している。使者は、出雲王朝に惚れ、山紫水明にして上下相陸み合い暮らしする素晴しき共同体を護ろうとし、それ故に戦争ではなく和平の道を探ろうとしたのではないかと推理している。その裏に大国主の命の得意とする政略結婚政策が有効に機能していたとも思われる。

 高天原王朝は、第四陣としてイツノヲハバリ神の息子のタケミカヅチ軍を送る。フツヌシ神も同行する。アメノトリ船神をそえて葦原中つ国へ遣わしたとあるので今度は大軍で押し駆けたと云うことになる。今度の軍使は篭絡されることを厳に戒められ、端から降伏するかさもなくば戦争によって決着させるとの決意で向った。これが最後の切り札となった。タケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの談判をする。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいて武威を示した。

 緊迫したこの雰囲気の中で次のような問答が交わされた。タケミカヅチ「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。 大国主「私達は、今まで農業を主として平和な共同体を築いてきた。ここで戦争をすると勝敗は別として元も子もなくなる。私はそれを憂う。国譲りの申出については、子供達が反対しなければ私は従う。私の一存では行かない。我が子が返答することになるでせう」。タケミカヅチ「子供たちの誰が権限を持っているのか」。大国主「事代主(コトシロ主)とタケミナカタの二人です。事代主は文をタケミナカタは武を受け持っております。その二人の了承を取り付けてください」。

 この談判によれば、大国主の命は即答を避け、判断を文人頭の事代主と軍人頭のタケミナカタに委ねたことが分かる。この二人が大国主の命の御子であったと記されているが、それはどうでもよい。肝腎なことは、この二人が政権後継者として№1、2に位置していたことを見て取るべきだろう。これを仮に「イナサの浜での直談判譚」と命名する。

 2011.7.19日 れんだいこ拝

 jinsei/

 れんだいこのカンテラ時評№958  れんだいこ投稿日:2011年 7月19日
 【大国主の命論その6、国譲り考中篇】

 高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判の結果、舞台は文人頭の事代主(コトシロ主)と軍人頭のタケミナカタとの談判に移った。古事記は事代主の対応を次のように記している。「この時、事代主は、美保の崎にいた。アメノトリ船が向かい連れて来た。タケミカヅチが、大国主の命に対して述べたと同じことを伝えると、『かしこまりました。この国は、アマテラス様の御子に奉りましょう』と云い残して、拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた(「天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき」)。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」。

 事代主は、後々に七福神の恵比寿様として奉られることになる。これを仮に「事代主の談判譚」と命名する。

 事代主は、苦衷の末「国譲り」に応じた。同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのかは両説ある。後の史実で確認するのに、事代主は、大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表となった可能性がある。鴨族が遠祖を出雲王朝とするのか大和葛城地方の土着豪族とするのかは分からない。鴨族には高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。


 いずれにせよ、事代主派は闘いを避けることにより、国譲り後の大和王朝政権の一角に食い込むことになったのではなかろうか。「事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」は、新王朝での登用の約束談合による手打ちを寓意しているように窺う。

 事代主及びその系譜及び子孫はその後、大和王朝内で出雲王朝系の代表として一角を占め、次第に頭角を現し、特に大和王朝神道の確立に寄与した形跡が認められる。高天原王朝の神道司祭派と相提携しあるいは隠然と対立しつつイニシアチブを争った形跡が認められる。要するに、そうやって生き延びたと云うことであろう。あぁ歴史は何と奥深いものであるか。

 文人頭の事代主が戦いを避けたのに対し、軍人頭のタケミナカタは応戦した。タケミナカタは、古事記では「建御名方神」、続日本後紀では「南方刀美神」、延喜式神名帳は「南方刀美」と記している。大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供と云われる。タケミナカタは承知できないとして応じなかった。次のような問答が交わされた。両者とも「タケ」なので確認しづらいので外して確認する。ミナカタ「人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。ミカヅチ「そうだ。この国をもらい受けに来た」。ミナカタ「そんな理不尽が許されると思うのか」。ミカヅチ「これはアマテラス様のご命令だ」。ミナカタ「ならば一戦交えるのみ」。

 こうして談判は決裂し、戦闘することになった。神話では、二人の力比べが始まり相撲をとったことになっている。これが史上に出て来る相撲の起源とも云われる。ミナカタがミカヅチの手を握り投げようとしたところ、ミカヅチの腕から先がツララになり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、ミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。次に、ミカヅチが同じようにミナカタの手を握ると、易々と手を握りつぶした上に、そのままミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、ミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩しているように思われる。


 力競べに負けたミナカタの軍勢は、追いかけてくる高天原王朝勢と戦いながら出雲から能登へ、そして科野(しなの、信濃)の国の洲羽海(すわの海、諏訪湖)まで逃げた。この時、現地の豪族の洩矢の神(もれりの神)が抵抗し、敗れて降伏したとの伝承がある。引き入れる派と反対する派が居たということであろう。これをミカヅチが追撃し、両者は再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したミカヅチと形勢不利を認めたミナカタは、手打ちすることになった。1・ミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。2・アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認める。双方これを受け入れ和議がなった。以降、ミナカタはヤサカトメの命(八坂刀売命)を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まった。これを仮に「タケミナカタの談判譚」と命名する。

 この神話は、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応ぜず、各地で戦闘を続け諏訪国に逃げ、決着つかず高天原王朝のタケミカヅチ優勢のままで両者が手打ちしたことを明らかにしている。この手打ちも日本政治の原型の一つである。これについては次章でも触れる。

 ちなみに、この神話により諏訪大社も出雲大社系譜であることが分かる。但し、諏訪大社は下社、上社に分かれている。これはタケミナカタ派が逃げ込んできたことと関係しているものと思われる。タケミナカタ派の逃亡ルーツも興味深い。出雲から能登へ行ったと云うことは能登に支持基盤があったことを意味しよう。同様に信濃の諏訪に向かったことも然りで、出雲王朝時代の連合国家の一つだったと思われる。タケミナカタ派は事代主派と違う生き方で生き延びたことが分かり興味深い。


 この下りは以上の如く簡略に記すが、神話故に荒唐無稽と云うものでもあるまい。案外と史実を書き記しているのではなかろうか。但し、寓意交りと時の政権の正統性を裏付ける側から記述するのが正史の常であるのでご都合主義的な脚色を免れ難い。これをどう理解し読み直すかが問われているのではなかろうか。いずれにせよ、皇国史観なるものの薄っぺらさを読み解かねばなるまい。その皇国史観を嫌悪してあるいは荒唐無稽さを笑って、その結果何も知らないのは却って良くないのではなかろうかと思う。

 2011.7.19日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№959 れんだいこ  投稿日:2011年 7月19日
 【大国主の命論その7、国譲り考後篇】

 いよいよ大詰めである。こうしてタケミカヅチは事代主とタケミナカタの双方を平定し、大国主の命との最後の談判が行われることになった。次のようなやり取りだった。タケミカヅチ「お前が申し出た二人の子は、アマテラス様の御子の命令に従うと申した。改めて問う、お前はどうなんだ」。大国主「子供が従うことになった以上私も、葦原中国を献上しアマテラスの支配に任せよう。但し、顕事の政治の世界からは身を引くが、幽事の神道の司祭者として生き延びることを保証して貰いたい。私どもが創始した母里の国を献上する代わりに、私の住む地が神領地として安堵され、そこに宮殿を建て、私どもが大事にして来た祭祀を行いたい。それさえ保障されるなら国譲りすることを約束する」。

 タケミカヅチ「その願い聞き届けよう」。大国主「もう一つ。我が王朝の有能な子供たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆なが倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。タケミカヅチ「承った」。これを仮に「国譲り最後の談判譚」と命名する。

 
大国主は、出雲の祭祀を司る広矛を差し出した。タケミカヅチは、高ミムスビの神に大国主の命の国譲り条件の申し出を伝えた。高ミムスビの神は、「勅」(みことのり)を発し、「今、汝が申すことを聞くに、深くその理有り」と了承した。次のような条件を付した。「1・汝は政治から手を引き、神事のみを司る。2・汝が住む天日隈宮の造営を認める。但し、高天原が送るアメノホヒの命が祭祀を司る。3・汝は国つ神と婚交せず、我が娘ミホツ姫を妻とせよ」。玉虫色のまま双方が条件を飲み、こうして政治支配権が出雲王朝から高天原王朝へ移った。出雲王朝が高天原王朝の軍門に屈し、且つ出雲王朝派はしぶとく生き残ったともみなせよう。

 いずれにせよ、国譲りは理不尽なものであった。その理不尽に徒に戦うのではなく、半ば抗戦し半ば和睦することで一定の勢力を温存し、お国の行く末を未来の歴史に託した。この判断のしなやかさが大国主の命の秘策であったのかも知れない。事実、出雲王朝の御代の影がその後の高天原王朝から出自する大和王朝の御世に付き纏っていくことになる。大和王朝の治世は、高天原派だけでは何事も進まなかった。必然、出雲派の協力が促され、相協力することで大和王朝史を綴っていくことになった。出雲王朝は、「眼には見えぬ幽り世の世界から、その霊威をあらわす」ことで隠然とした影響力を持ち続けていくことになった。

 但し、政治は残酷である。高天原派は内応した出雲派をもってり抵抗する出雲派を駆逐すると云う策謀を廻らし各地の平定戦に向かっている。しかしながら総じて言えば、高天原派と出雲派即ち天孫族と国津族は互いの至らないところを補いながら日本政治を舵取りして行った気配が認められる。こういうことが重なりあいながら国造り展開するのが日本史である。この流れが日本史の底流であり、ここを理解しないと何も見えなくなる。


 皇国史観は、この経緯に対して余りにも記紀神話の作為的記述に依拠し過ぎている。記紀神話の執筆者が裏筆法で出雲王朝の確固たる存在とその善政ぶりと幽事の世界への移行、その郷愁を伝えていると云うのに。皇国史観は、このキモの部分に対して余りにも粗雑な理解のままに天孫族の日本平定を鼓舞し過ぎている。その結果として偏狭な絶対主義的天皇制を作り上げ、そのイデオロギーで日本帝国主義の朝鮮、台湾、中国大陸侵略を聖戦化して行くことになった。これを陰に陽に後押ししたのが当時の国際金融資本である。当然、この策謀は今日も続いている。

 ところで、古代史上最大の政変「高天原王朝と出雲王朝の国譲り」は、他国のそれと比べて明らかに著しい違いが認められる。それは、決戦的絶滅戦争ではないということである。武闘と和議の二面作戦で最終的に手打ち和議し、勝者が敗者を徹底的には攻め滅ぼさないという特徴が認められる。この和合融和方式が日本政治史の原型となり、その後の日本政治史の至るところに立ち現われている。

 この「硬軟両様、手打ち、和合融和」と云う日本政治の質は現代に至るまで底流となって流れ続けており、日本が育んだ政治財産であると自覚すべきであろう。この所作は政治のみならず我々の生活諸事をも規制している。故に今後もこの型で処理して行くことになるだろう。これを称賛こそすれ卑下するには及ばない。


 思えば、聖徳太子の「和の政治」も日本政治のこの型を受け継いでいる。明治維新の五カ条の五誓文然り。これが日本政治のDNAになっている。日本政治には西欧的な(もっと云えばユダヤ的な)決戦的絶滅戦争型政治は馴染まないし馴染む必要もなかろう。むしろ、この日本政治の型を尊重していくことの方が望まれていると窺うべきではなかろうか。

 これを逆に云えば、「硬軟両様、手打ち、和合融和」と反する政治の型、例えば小泉政権時代の郵政政局での反対派絶滅政策、刺客騒動なぞは日本政治の型ではないということになる。小泉のDNAが日本人離れしていることを窺えば良い。菅の党内を二分する小沢派の冷遇人事も同様のものである。組閣人事の要諦からは有り得ない。菅のDNAが日本人離れしていることを窺えば良い。このところ、こういう日本政治の型でない手法が流行っており、マスコミが囃している。背後に教唆する者が居ると窺うべきだろう。

 もとへ。日本神話にはこういう日本の型が随所でメッセージされている。これを学ばないのであれば、単なる神話にしか過ぎないであろう。事実は、神話にことよせて随所に叡智をちりばめている故にギリシャ神話然り、愛読されるべき筋のものではなかろうか。戦後教育が、この辺りの素養教育を放棄したことが、今日の大量の軽薄政治家を増産しているのではあるまいか。菅派の政治家に共通して云えることは、こういう日本的政治の型に余りにも無知過ぎることである。日本人の顔をした実は身も心も国際金融資本に売り渡した売国亡国人ばかりである。政権に就かせてはいけない人士が大挙して巣くっているおぞましい姿である。


 これを如何にせんか。本稿はこれを解き明かすのが眼目であった。その為に新たな国体論を求めて書き始めた。解き明かせたかどうかは分からない。要するに、我々が求める国体論とは、遠の昔の倭国日本の政体から説き起こし、出雲王朝政体、国譲り後の大和王朝政体、その後の両者の掛け合いが続きながらはるけき今日まで至っている政体、これらを遠望する際に滲み出てくるものを探り出すべきであろう。それを国体として認め、大事に育み継承することが責務ではなかろうか。この自覚を持ち各々随所で処するべしとするのを国体論と云うのではなかろうか。

 2011.7.19日 れんだいこ拝

 jinsei/


【大国主の命論その7、その出自論】
 一般に伝説上の人物は、実在した者の伝説(甲)、複数の人物の複合伝説(乙)、架空上の人物の伝説(丙)、この三つに分かれると思う。且つその人物に対する虚像、虚言(丁)も存在する。大国主は、甲乙丙の三説ともある。私見では、出雲王朝時代の大国主を「実在した者の伝説(甲)」、三輪王朝時代の大国主を「複数の人物の複合伝説(乙)」と捉えたい。当然ながら「その人物に対する虚像、虚言(丁)」を排し実像、実言に迫りたい。

 大国主の出自を確認しておこうと思うが不思議なほどに文献に出てこない。これについては判明次第に書きつけておくことにする。史料がない場合には、伝説、逸話、遺跡等から推理推定するしか方法がない。そういう意味で、伝説、逸話の「因幡の白うさぎ譚」を参照する。

 大国主は稲葉(因幡)国からも八上(やがみ)姫后を迎えた。その出身地(鳥取県河原町曳田)には、延喜式内社で八上(やがみ)姫神社と呼ばれたことのある●売沼(めぬま)神社が鎮座し、八上(やがみ)姫命を祭神としている。八上(やがみ)姫は、豪族・曳田家の娘だった。社の南方に古墳があるが、被葬者は曳田家の人だと言われる。その一族は豪族として永く栄えたものと思われる。島根県斐川郡斐川町の●「湯の川温泉」では、八上(やがみ)姫が、ここの湯に入ったと伝えられ、それで「美人の湯」の名前がついたと言う。斐川町直江には、●御井神社が鎮座していて、祭神は八上(やがみ)姫がお生みになった木俣(きまた)姫(下照したてる姫)となっている。その姫は、「安産の守り神」として崇拝されている。社の西方には、彼女が産湯に使ったとて言われる井戸がある。下照(したてる)姫は、伯耆国のタテハヅチの嫁になった。伯耆一宮の倭文(しとり)神社(鳥取県湯梨浜町宮内)には、この夫婦神が祭られた。社の名は下照(したてる)姫が人々に、倭文(しとり)織りを教えたことに依る。





(私論.私見)