出雲王朝史3、大国主の命王朝史考 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).1.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
出雲王朝神話は、元出雲とスサノウ出雲の鼎立時代の次に両王朝を統一する大国主の命王朝を生む。大国主は数々の迫害を乗り越えてスサノウ王朝の王権を継承し、東西出雲王朝を統合する。ここでは、この時代の様子を確認する。大国主の命については別サイト「大国主の命考」で確認する。この御代の信仰、思想については「」で確認する。千家尊祀著「出雲大社」その他参照。 2008.4.10日 れんだいこ拝 |
【オオナムヂの素姓譚】 |
後の大国主の命になるオオナムヂの素姓を確認しておかなければならない。オオナムヂをスサノオの直系の子息とみなしたり、6世の代の孫とされている書き物もあるが却って混乱する。れんだいこ独眼流史観によれば、後のスサノウ王権継承譚からも判明するようにオオナムヂをスサノウの子孫と看做すよりは、元出雲系の在地の神々の子孫と理解すべきではなかろうか。史書の記述よりも神話の方が正確に伝承していることもあるという好例だろう。 一説に、国引き神話の主人公であるヤツカミヅオミツノ(略称「オミツノ」)が、フノズノの娘のフテミミをめとって生んだ子がアメノフユキヌ。アメノフユキヌが、サシク二オオの娘のサシク二ワカ姫をめとって生んだ子がオオナムヂとされている。これによれば、「オミツノ」の孫がオオナムヂと云うことになる。仮に、世代、血脈的にこの系譜が間違いにしても、この系譜上の出自であることは間違いないように思われる。 |
【いなばの白兎譚】 | |
スサノオ時代に続く神話として「いなばの白兎譚」がある。記紀神話におけるオオナムヂ初登場の逸話である。
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オオナムヂ=大穴持命。イナバ=因幡、稲羽。ヤガミ姫=八上比売。ホウキ=伯耆国(現在の島根県と比定されている)。キサ貝姫=。うむ貝姫=。 | |
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「いなばの白兎譚」の前段は、元出雲内の政争の存在と、後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの人品骨柄の物語譚であろう。もう一つ、オオナムヂの医師的能力が語られている。兎とワ二の駆け引き譚は、隠岐の島、因幡の国、伯耆の国の歴史的繋がりをも暗喩している裏意味もあると思われる。
後段は、元出雲の族長達が絶世の美女イナバの国のヤガミ姫争奪競争で、オオナムヂが選ばれたことを伝えることで、オオナムヂが将来性豊かな力量の持主であったことを示唆している。「オオナムヂのイナバの国のヤガミ姫との結婚譚」は、オオナムヂが八十神(やそがみ)と争った結果、少なくともイナバの国ひいては原出雲(東出雲)王朝の王権相続権を手に入れたことを寓意しているのではなかろうか。かく確認したい。 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝 |
【根の国神話(ねのくにしんわ)兄弟達のオオナムヂ迫害譚その1】 | |||||
オオナムヂのその後の元出雲(東出雲)王朝内の他の王族達との抗争が次のように伝えられている。
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【根の国神話(ねのくにしんわ)兄弟達のオオナムヂ迫害譚その2】 | |
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【根の国神話(ねのくにしんわ)兄弟達のオオナムヂ迫害譚その3】 | ||
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木の国=紀の国(現在の和歌山県の紀伊国に比定されている)。オオヤ彦神=大屋毘古神で五十猛神ともいう。スサノヲの命=須佐之男命。根の堅州(かたす)国。 | ||
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ここで、オオナムヂが「大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難した」ことが注目される。木の国(紀伊)は、スサノオの子「五十猛命」(いたけのみこと)の伝承がある。日本書紀の神代一書の四は次のように記している。
日本書紀の神代一書の四は次のように記している。
これによると、スサノオの御代に於いて既に出雲王朝と紀伊国の繫がりが確認できることになる。 |
【オオナムヂのスサノオ王権継承譚】 | |
オオナムヂは、原出雲内で苦心惨憺しつつも次第に頭角を現していく。そのオオナムヂは、出雲西域のスサノウ系出雲王朝の嫡女・スセリ姫(須世理姫、
須勢理毘売)の命と結婚することにより後押しを得る。スサノヲはオオナムヂの能力を測る為に様々な試練を与えた。最初の試練は「蛇がたくさんいる寝室」だった。スセリ姫は「蛇が襲ってきたら、この領巾(ひれ)を三回降れば大丈夫」と言い、呪力を持った布を渡した。これでオオナムヂは無事に一つ目の試練をクリアした。
次は「ムカデとハチがたくさんいる寝室」だった。これもスセリ姫の計らいでクリアした。スサノヲは、与えた試練を次々にクリアするオオナムヂに対し、次は広い野原に向かって矢を放ち、
「あの矢を拾ってこい」と命じた。オオナムヂが野に入るとスサノヲは野原に火を放った。オオナムヂは「もはやこれまで」と諦めかけると、ネズミが現れ「中はほらほら、外はすぶすぶ」と告げ、地面の下に空洞があることを知らせた。オオナムヂが足元をドスンと踏むと空洞があった。その中でどうにか炎をやり過ごし助かった。そのネズミはスサノヲが放った矢を探してきてくれた。それを知らないスセリ姫は、オオナムヂが死んだと思い、泣きながら葬儀の準備をしていた。スサノヲも「これでさすがに死んだだろう」と思っていた。そのとき、オオナムヂが手に矢を持って現れた。スサノヲは今度はオオナムヂを広い寝室に招き「ワシの頭のシラミを取れ!」と命じた。スサノヲの頭にはシラミではなくムカデがいっぱいいた。またまたスセリ姫が現れ、ムクの実と赤土を渡した。オオナムヂはこれを口に含んで吐き出しを繰り返した。これを見たスサノヲはムカデを口の中で噛み潰していると勘違いし感心した。心を許したのか、眠気に勝てなかったスサノヲはそのまま眠っ。
眠りこけるスサノヲを見たオオナムヂは、 「ここぞチャンス!」とばかりにスサノヲの長い髪を部屋の大きな柱に結びつけ、大きな岩で入口を塞ぎ、スセリ姫を背負い逃げだした。その手にはスサノの宝物の太刀、弓矢、琴を持っていた。「やれやれこれで逃げ出せた」と安心したその時、手にしていた琴が木にあたり、大きな音が鳴り響いた。
この音を聞いたスサノヲは慌てて飛び起きたが、柱に結びつけられた髪が邪魔で追いかけられなかった。その間にどんどん逃げるオオナムヂ、髪を解いて追いかけるスサノヲ。
地上との境まで追いかけたスサノヲは、オオナムヂに向かってこう叫んだ。『お前が奪った太刀と弓矢で兄弟神を追い払い、スセリ姫と結婚し大きな宮殿を建てて住め!』。スサノヲは遂にオオナムヂに、この大国の大王になれといい、試練に打ち勝った娘婿と認めた」。 この経緯が次のように記されている。これを仮に「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」と命名する。
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スセリ姫=須勢理昆賣。葦原シコ男=葦原色許男。 | |
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「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」は、オオナムヂがスサノオ王朝の嫡女・スセリ姫と恋仲になり、スサノウの繰り出す数々の試練を乗り越え、遂にスセリ姫と王権神器を手に入れたことを物語っている。こうしてオオナムヂがスサノオ王権を継承し、出雲統一王朝を創始していくことになったことを伝えている。これを仮に出雲王朝と命名する。先行する東部の原―元出雲王朝、西部のスサノウ王朝と区別する必要がある時には仮に出雲統一王朝叉はオオナムヂ出雲王朝と命名する。 興味深いことは、スサノオの娘スセリ姫がスサノオとの初対面で恋に落ちたことである。これは、オオナムヂがよほど男ぶりが良かったことを暗喩している。次に、スサノウ王朝の神器が「生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、天の詔琴(あまののりごと)」であったことをも教えている。次に、スサノウが逃げるオオナムヂを追って辿り着いたところを「ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)」と記していることである。「ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)」とは、イザナギが黄泉の国へ逝ったイザナミを訪ね逃げ帰ったところでもある。これは偶然の奇遇だろうか。重要な事が隠喩されていると思うが分からない。 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝 |
【オオナムヂの出雲王朝創始譚】 | |||
スサノウ系出雲王朝の支援を得たオオナムヂは元出雲を平定し、これにより出雲統一王朝を創始する。この経緯が次のように伝えられている。
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【ヤガミ姫の傷心譚】 |
スセリ姫より先にオオナムヂと結ばれていたヤガミ姫はオオナムヂの子を身ごもったいた。臨月が近づいたので、愛しのオオナムヂに会うため因幡国から出雲国を訪れた。旅の道中、宍道湖を船で渡る際に山あいに湯気が立ち昇るのを見つけた姫は、そこに温泉があることを知った。 その湯が日本三美人の湯の一つ「湯の川温泉」である。この湯に浸かり、長旅の疲れを癒された姫はいっそう美人神になられたと伝えられている。しかし、出雲国に来るとオオナムヂはスセリ姫と暮していた。先妻のヤガミ姫は嫉妬深い性格のスセリ姫を恐れ因幡国へ戻りかけた。その帰りの道中に産気づき出産した。その御子神は木の俣にかけて差し挟んで因幡に帰ってしまった。この子の名をキノマタの神と呼び、またの名をミヰの神ともいう。 愛する旦那と我が子を手放し、身も心も疲れ果てた姫は再び湯の川温泉の湯に浸かられ、傷ついた心と身体を癒された。この時、詠んだ句が次の通り。『火の山の ふもとの湯こそ 恋しけれ 身を焦がしても 妻とならめや』」。 |
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先妻のヤガミ姫がスセリ姫を恐れていたことも興味深い。 |
【オオナムヂの様々な名前譚】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オオナムヂは色々な名前を持った。次の通りである。それらは、オオナムヂのそ れぞれの面を語っている。 |
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【オオナムヂの様々な名前譚】 |
日本書紀の一書には、「大国主命、またの名を大物主神、または国作大己貴命と号す。または葦原醜神という。または大国玉神という。または顕国玉神という」とある。 |
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「オオナムヂの様々な名前譚」は、オオナムヂの様々な顔を伝えている。葦原シコヲ神は醜男であっとも男前であっとも記されているが、英雄色を好む好色であったさまを伝えている。八千矛神とは軍神であったことを伝えている。ウツクシ国玉神は、出雲王朝の勢威を拡張したことを伝えている。大国玉神は出雲王朝を見事に大国化させたことを伝えている。オオクニ主の命はズバリそのものであろう。大物主神は、大和王朝との絡みで出て来る名前である。大国様は七福神に出て来る。
2011.7.17日再編集 れんだいこ拝 |
【大国主の命の艶福家ぶり、政略結婚譚】 | ||||||||||||||||||
大国主の命が各地豪族の娘との政略結婚で支配権を拡げていったことが伝えられている。最初の妻の八上姫との間に木俣神をもうけているが、正妻須世理姫との間には子供を設けていない様子である。しかし、諸国の豪族の姫との間に多くの子供をもうけており、日本書紀一書には「その御子すべて一百八十一(モモソヤハシラアマリヒトハシラ)の神ます」と記されている。艶福家ぶりを発揮しており、出雲の縁結びの神として祀られる所以でもある。これを確認しておく。
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マタマツクタマノムラ姫の命=。ヤヌノワカ姫の命=。アヂシキタカヒコネ=阿遅志貴高日子根の命。カムヤタテ姫=神屋楯姫。タケミナカタ=多建御名方。 | ||||||||||||||||||
こうして、オオナムヂは次々と政略結婚し、子供を生んでいった。旧事本紀は次のように記している(「大国主の命」)。
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神話に於ける結婚とは、政略結婚による豪族間の同盟を物語っているものと思われる。政略結婚は、結婚政策で版図を広げたという意味と同時に極力武力によらなかったことを隠喩しているとも考えられる。これも叉日本政治の原型と云えよう。 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝 |
【大国主の命のウガノアヤト姫(宇賀の綾門日女)求婚譚】 | |
「江角 修一」氏の「神社と歴史の広場」の「大国主命の妻を訪ねる旅の宇賀神社の御由緒」参照。
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【大国主の命のヌナカワ(沼河)姫との結婚譚】 | ||||
高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫は成長するにつれその美しさと優れた才能が噂されるようになり、彼女を讃える歌や詩が生まれるほどだった。「翡翠勾玉」で身を飾り美しい歌や舞を通じて人々を魅了し続け、いつしか「翡翠のヌナカワ姫」と呼ばれるようになっていた。その名声がオオナムヂ(古事記/大国主、八千矛神)の耳に届いた。オオナムヂは彼女の美しさと才能を聞き、或る時、越の国に行き、ヌナカワ姫に屋外から次のように求愛する。両者の交情風景は麗しい。
ヌナカワ姫は、いまだ戸を開けず、内から歌って聞かせた。
「かれその夜は合はさずて、明日の夜御合したまひき」。こうしてヌナガワ姫を娶してミホススミの命を生み、ミホススミの命は美保の郷に住むことになった。建御名方神(タケミナカタ)もこの姫から生まれた。 |
【ヒスイ考】 | |
新潟の糸魚川周辺には、ヌナカワ姫の誕生地とされる場所や、ヌナカワ姫を祭神とする神社が、集中している。ヌナカワ姫は、「沼名河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」(万葉集)とあるように玉とつながっている。ここでいう玉とは糸魚川の代表的な宝石であるヒスイと考えられている。ヌナカワ姫はタケミナカタの母親である。出雲の国譲りの際、大国主と事代主は同意したが、タケミナカタは最後まで抵抗した。しかし、タケミカヅチとの力比べに次第に劣勢となり諏訪の地に逃げ込んだ。勝負はつかず膠着化し始め、タケミカヅチは諏訪より出ないことを条件に和睦した。その後の諏訪地域は、先住の洩矢の神とタケミナカタを軸にした独自の祭祀体制を長きにわたって維持し続けた。タケミナカタを祭神とする諏訪神社は日本でも六番目に数の多い神社で、その分布は新潟県927社、長野県386社で、この2県が3位の山梨県131社以下を大きく引き離している。
タケミナカタの母親のヌナカワ姫の聖域は、新潟の糸魚川周辺に集中している。糸魚川は、フォッサマグナの糸魚川・静岡構造線上にあり、タケミナカタの聖地/諏訪は、日本列島を南北に分断する中央構造線と、糸魚川・静岡構造線が交わる場所である。ヒスイは日本でこの場所にしか産出しない。ヒスイの生成は謎が多いが、低温で高圧そして熱水の豊かな場所で生成すると考えられている。糸魚川周辺地域がヒスイの産地となっているのには地政学的な必然があるように思われる。「糸魚川ヒスイ」は古代、北海道から沖縄、そして朝鮮半島まで貴重な玉として流通している。単なる祭祀道具や装飾道具としてだけでなく地域と地域を結ぶ紐帯として用いられていた。縄文時代に同じように各地に流通していた黒曜石の場合は、実用道具として加工されたものが非常に多いし、神津島、隠岐、八ヶ岳、姫島など産地がいくつもあるが、ヒスイの産地は一地域限定である。但し、奈良時代になって突然、歴史から消えている。奈良時代は古事記や日本書紀の神話が創造された時であり、律令制に基づく国家運営が行われた時期にあたる。ヒスイと関わりの深いヌナガワ姫の子、タケミナカタが国譲りに最後まで抵抗する存在として古事記に描かれたのが奈良時代である。この時代にヒスイが表舞台の歴史から消えたことになる。但し産出しなくなったわけではなく、中世には原産地周辺で漬物石や屋根の葺石として実用的に使われていた。 |
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時川氏康フェイスブック「《翡翠勾玉と越国=高志国について」参照
日本産のヒスイを、日本の工房で加工した物とされる。北海道の美々4号遺跡・ヲフキ遺跡、青森県の三内丸山遺跡・亀ヶ岡遺跡、新潟県の糸魚川の長者ヶ原遺跡・寺地遺跡、長野県の離山遺跡などから出土しており、縄文中期(BC5000年)頃から作られていた。特に長者ヶ原遺跡や寺地遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっている。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、縄文人が広い範囲で交易していた事実を示すと考えられている。本項では、新潟県糸魚川市とその周辺におけるヒスイの生成と地学的見地、そして利用の歴史などについて取り上げる。糸魚川市近辺で産出されるヒスイは、5億2000万年前に生成された。長い時間を経て、原産地周辺ではヒスイを利用する文化が芽生えた。その発祥は、約7000年前の縄文時代前期後葉までさかのぼることができる。これは世界的にみても最古のもので、同じくヒスイを利用したことで知られるメソアメリカのオルメカ文化(約3000年前)とマヤ文明(約2000年前)よりはるかに古い起源をもつ。
ヒスイ文化は原産地である糸魚川を中心とする北陸地方で著しい発展を見せた。ヒスイ製の玉類などは、その美しさと貴重さゆえに威信財(いしんざい)として尊ばれた。ヒスイ製品の完成品や原石類は縄文時代、弥生時代から古墳時代を通じて近隣地域だけではなく、西は九州・沖縄、北は青森や北海道、さらには海を越えた朝鮮半島にまで広く流通した。奈良時代になるとヒスイの文化は急激に衰退していき、やがて完全に姿を消した。その後は「日本にはヒスイが産出しない」という説が出るほど、糸魚川産のヒスイの存在は忘れ去られていた。 1935(昭和10)年、約1200年の時を隔ててヒスイが糸魚川で再発見された。以後の考古学的調査や科学的分析などを集積した結果、縄文時代以降に日本で利用されたヒスイはそのすべてが糸魚川産であることが明らかになった。2016(平成28)年、日本鉱物科学会はヒスイを「国石」として選定している。 ヒスイは、主としてヒスイ輝石(化学組成: NaAlSi2O6)で構成される石であり、中でも美しいものは宝石として利用されてきた。ヒスイは、産出量と品質、そして利用されてきた歴史の古さと地域の広さから、日本で産出される宝石類の中でも最も重要なものである。
日本では糸魚川を含めて2018年の時点で12か所のヒスイ産地が確認されているが、中でも新潟県糸魚川市とその周辺のヒスイ産地は縄文時代から利用されてきたという歴史がある。そのうち美しいヒスイを産するのは、糸魚川を除けば若桜(鳥取県若桜町角谷)、戸根渓谷(長崎県長崎市琴海町)、大屋(兵庫県養父市)である。ただし糸魚川以外の地域で産するヒスイは、利用された形跡が見当たらない。ヒスイ輝石の比重は3.2と、比較的密度が大きい石である。またモース硬度は6.5から7と、宝石の中では比較的硬度は低めであるが、微細結晶が絡み合う構造を持つヒスイ輝石は壊れにくさ、割れにくさという点では宝石の中でも上位に位置する。
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「阿波の翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)考」参照。 | |
異説として「友行安夫の御倉玉(みくらのたま)を知れば、天照大神が海に向かって投げた「勾玉」(くぎょく)の歴史が見えて来る!」がある。これを確認しておく。
■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰 友行安夫(記)
世界最大級のウェブ新名所!写真数4,000以上記載「阿波翡翠デジタル博物館開設」!
https://webjp.xsrv.jp/ajgallery/index.cgi |
(私論.私見)