出雲王朝史3、大国主の命王朝史考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).1.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝神話は、元出雲とスサノウ出雲の鼎立時代の次に両王朝を統一する大国主の命王朝を生む。大国主は数々の迫害を乗り越えてスサノウ王朝の王権を継承し、東西出雲王朝を統合する。ここでは、この時代の様子を確認する。大国主の命については別サイト「大国主の命考」で確認する。この御代の信仰、思想については「」で確認する。千家尊祀著「出雲大社」その他参照。

 2008.4.10日 れんだいこ拝


【オオナムヂの素姓譚】
 後の大国主の命になるオオナムヂの素姓を確認しておかなければならない。オオナムヂをスサノオの直系の子息とみなしたり、6世の代の孫とされている書き物もあるが却って混乱する。れんだいこ独眼流史観によれば、後のスサノウ王権継承譚からも判明するようにオオナムヂをスサノウの子孫と看做すよりは、元出雲系の在地の神々の子孫と理解すべきではなかろうか。史書の記述よりも神話の方が正確に伝承していることもあるという好例だろう。

 一説に、国引き神話の主人公であるヤツカミヅオミツノ(略称「オミツノ」)が、フノズノの娘のフテミミをめとって生んだ子がアメノフユキヌ。アメノフユキヌが、サシク二オオの娘のサシク二ワカ姫をめとって生んだ子がオオナムヂとされている。これによれば、「オミツノ」の孫がオオナムヂと云うことになる。仮に、世代、血脈的にこの系譜が間違いにしても、この系譜上の出自であることは間違いないように思われる。

【いなばの白兎譚】
 スサノオ時代に続く神話として「いなばの白兎譚」がある。記紀神話におけるオオナムヂ初登場の逸話である。
 「出雲には八十神(やそがみ)と云われる在来の族長がいた。或る時、その族長達が絶世の美女と名高い因幡(イナバ)の国の八上比売命(ヤガミ姫の命)を嫁に貰い受ける旅に出た。後に大国主となるオオナムヂは荷物係りとして伴をすることになった。オオナムヂは大きな袋を背負わされた為、随分後からついていくことになった。兄弟達がイナバの国の気多岬に着いた時、海岸で毛をむしられ赤裸になって泣いている兎に出くわした。海水を浴びて風辺りの良い丘で寝ておればよいと教え、兎は云われるままにしたところ、傷口がヒリヒリと痛み出し悶絶する破目になった。

 そこに、重い荷物を持ったオオナムヂが通りかかった。訳を尋ねると、兎は次のように語った。私は、向こうのおきの島に住んでいたが、いつもこちら側に来てみたいと思っていた。ところが海は広過ぎて渡ることができないので一計を案じて海に住むワニ(鮫)に声をかけ、兎の仲間とワニの仲間の数比べしよう、ついては因幡国の気多岬まで一列並ぶようにと提案した。騙されたと知らないワニが並び、兎がその上をワニの数を数えながらピョンピョンと飛び始めた。あと少しで陸に上がれるとした時に、ついうれしくなって「しめしめ、これは上手く騙せた」と漏らした。これを聞きつけた一番最後に居たワニが兎を捕まえ、すっかり皮を剥いでしまった。

 陸へ上がって泣いているところを先ほど通られた神様の言いつけ通りにしたところ痛みが余計にひどくなって困っておりますと訴えた。オオナムヂは、それは余計に痛くなる。すぐに真水で体を洗い、ガマの花を摘んで、その上に寝転ぶが良いと教え、手伝った。兎は痛みが取れ、毛が生えてきた。すっかり元通りになった白兎は、『あなたは心が一番やさしい。ヤガミ姫はあなた様を慕うことになるでせう。オオナムヂ様が必ず立派な神様になるでせう』と予言した。白兎の予言通り、ヤガミ姫は、他の族長達の求婚に対して、『私は、あなた方の求愛の言葉はお受けできません。オオナムヂ様に嫁ぎたいと思います』と述べた。こうして、オオナムヂがヤガミ姫を射止め結婚することになった。オオナムヂは、イナバの白兎を助け、ヤガミ姫と結婚したことで名声を高めた」。
 オオナムヂ=大穴持命。イナバ=因幡、稲羽。ヤガミ姫=八上比売。ホウキ=伯耆国(現在の島根県と比定されている)。キサ貝姫=。うむ貝姫=。
(私論.私見)
 「いなばの白兎譚」の前段は、元出雲内の政争の存在と、後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの人品骨柄の物語譚であろう。もう一つ、オオナムヂの医師的能力が語られている。兎とワ二の駆け引き譚は、隠岐の島、因幡の国、伯耆の国の歴史的繋がりをも暗喩している裏意味もあると思われる。 後段は、元出雲の族長達が絶世の美女イナバの国のヤガミ姫争奪競争で、オオナムヂが選ばれたことを伝えることで、オオナムヂが将来性豊かな力量の持主であったことを示唆している。「オオナムヂのイナバの国のヤガミ姫との結婚譚」は、オオナムヂが八十神(やそがみ)と争った結果、少なくともイナバの国ひいては原出雲(東出雲)王朝の王権相続権を手に入れたことを寓意しているのではなかろうか。かく確認したい。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【根の国神話(ねのくにしんわ)兄弟達のオオナムヂ迫害譚その1】
 オオナムヂのその後の元出雲(東出雲)王朝内の他の王族達との抗争が次のように伝えられている。
 「ヤガミ姫の命とオオナムヂが結ばれたことを知った兄弟神(八十神)たちは嫉妬し、出雲への帰り道「伯伎(ハハキ)の国(伯耆国)の手間の山本」(ホウキの国の手間の山のふもと)でオオナムヂを殺そうとした。で、いつも通りオオナムに命令した。『この山に大きな赤い猪がおる。私たちが山から紅い猪を追い落とすので、お前は下で待ちうけ捕まえなさい』。ところが、実際に落とされたのは、大きな石を火の中で真っ赤に焼いた焼け石だった。これを手を広げて待ち受けたオオナムヂは岩に押し潰され、大火傷をして気を失った。これが最初の受難となる。 サシクニワカ姫=刺国若比売。キサ貝姫=貝比売。
 オオナムヂの母サシクニワカ姫の命(刺国若比命)が泣き泣き天に昇って神産巣日(カミムスヒ)の命に訴えて願ったところ、赤貝の神・キサ貝姫(蚶貝比売)と蛤の神・ウム貝姫(蛤貝比売、ウムギ)の二柱の女神が遣わされ駆けつけてきた。赤貝の化身であるキサ貝姫は、貝殻を削って粉にした。これをオオナムヂに塗って体を岩からはがした。ハマグリの化身であるウム貝姫は、ハマグリを絞った汁を粉に混ぜ合わせ、母乳のようになるまで練り上げ、それを清水井の水でさらに練り、これをった薬をオオナムヂの体に何度も塗りつけると、元の麗しい姿となって息を吹き返した。オオナムヂは奇跡的に回復した」。
(私論.私見) 「兄弟達のオオナムヂ迫害譚」考その1
 「兄弟達のオオナムヂ迫害譚」は、後に原出雲王朝を支配することになるオオナムヂの頭角出世が並大抵でなかったことを伝えている。オオナムヂに対する治療の下りは、原出雲王朝時代の医療先進国ぶりをも伝えている。注目すべきは、「オオナムヂの母サシクニワカ姫がカミムスヒの神に願った」とあることである。これは、オオナムヂの母がサシクニワカ姫であること、サシクニワカ姫とカミムスヒが同盟関係にあることを伝えている。

 次に、キサ貝姫、ウム貝姫の献身ぶりである。これは、キサ貝姫の一族、ウム貝姫の一族がオオナムヂを後援していたことを寓意している。「佐太神社考」で確認するが、キサカヒメ命(支佐加比売命)は御祖のカミムスビ命(神魂命)の御子として「嶋根の郡加賀の潜戸譚」に登場する重要神である。加賀の潜戸で佐太大神が誕生している。してみれば、オオナムヂがキサ貝姫、ウム貝姫に助けられたなる寓意は、佐太大神系がオオナムヂの窮地を救い支援したと云うことを暗喩していることになる。

 次に、オオナムヂが「大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難」したとあることで、木の国が縁戚関係にあることを見て取るべきだろう。そのオオヤ彦神のつてで「スサノウのいる根の堅州(かたす)国」へ行くことになったのも興味深い。これは、スサノウの西出雲王朝が「根の堅州(かたす)国」であることを教えている点でも意義深い。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝
 【赤猪岩(アカイイワ)神社】
 鳥取県西伯郡南部町寺内
 主祭神:大国主命
 配祀神:刺国若比売命(サシクニワカヒメ)・素戔嗚尊・稲田姫命
 大穴牟遅神(大国主命)が兄弟神たち(八十神)に騙され、焼けた大岩を抱いて命を落すが、母神と二柱の女神の力で生き返った「再生の地」とされている。境内地内にその岩を埋め、岩で蓋を重ね封印したとされる場所がある。町内の要害山山頂にあった赤猪神社と現在地に創建された久清神社が、大正九年(1920)に合祀され現在の赤猪岩神社となっている。

【根の国神話(ねのくにしんわ)兄弟達のオオナムヂ迫害譚その2】
 「オオナムヂが生き返ったことを知った兄弟神たちの迫害と虐め(イジメ)が続いた。或る時、大木を切り裂き、割れ目を楔で留めていた中にオオナムヂが誘い込まれた。入った途端に楔が抜かれ、挟まれたオオナムヂは気を失った。これが二度目の受難となる。この時も、オオナムヂの母が救い出した」。

【根の国神話(ねのくにしんわ)兄弟達のオオナムヂ迫害譚その3】
 「このままでは命が危ないと、大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難した。ところが、兄弟の迫害とイジメが更に続き、木の国まで追いかけ引き渡せと脅した。これが三度目の受難となる。ここも安全でないと悟ったオオヤ彦神は、スサノウのいる根の堅州(かたす)国へ行くよう申し渡した」。
木の国=紀の国(現在の和歌山県の紀伊国に比定されている)。オオヤ彦神=大屋毘古神で五十猛神ともいう。スサノヲの命=須佐之男命。根の堅州(かたす)国。
(私論.私見) 「兄弟達のオオナムヂ迫害譚」考その3
 ここで、オオナムヂが「大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難した」ことが注目される。木の国(紀伊)は、スサノオの子「五十猛命」(いたけのみこと)の伝承がある。日本書紀の神代一書の四は次のように記している。
 「五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。けれども韓地に植えないで、すべて持ち帰って、筑紫からはじめて、大八洲の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命を名付けて、有功の神とする。紀伊国においでになる大神はこの神である」。

 日本書紀の神代一書の四は次のように記している。
 「素戔嗚尊がいわれるのに、『韓郷の島には金銀がある。もしわが子の 治める国に、舟がなかったらよくないだろう』と。そこで髯を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木に なった。眉の毛は樟になった。そしてその用途をきめられて、いわれるのに、『杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木によい。槙は現世の国民の寝棺を造るのによい。そのため沢山の木の種子を皆な播こう』と。この素戔嗚尊の子を名づけて五十猛命という。妹の大屋津姫命。次に柧津姫命。この三柱がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある」。

 これによると、スサノオの御代に於いて既に出雲王朝と紀伊国の繫がりが確認できることになる。

【オオナムヂのスサノオ王権継承譚】
 オオナムヂは、原出雲内で苦心惨憺しつつも次第に頭角を現していく。そのオオナムヂは、出雲西域のスサノウ系出雲王朝の嫡女・スセリ姫(須世理姫、 須勢理毘売)の命と結婚することにより後押しを得る。スサノヲはオオナムヂの能力を測る為に様々な試練を与えた。最初の試練は「蛇がたくさんいる寝室」だった。スセリ姫は「蛇が襲ってきたら、この領巾(ひれ)を三回降れば大丈夫」と言い、呪力を持った布を渡した。これでオオナムヂは無事に一つ目の試練をクリアした。 次は「ムカデとハチがたくさんいる寝室」だった。これもスセリ姫の計らいでクリアした。スサノヲは、与えた試練を次々にクリアするオオナムヂに対し、次は広い野原に向かって矢を放ち、 「あの矢を拾ってこい」と命じた。オオナムヂが野に入るとスサノヲは野原に火を放った。オオナムヂは「もはやこれまで」と諦めかけると、ネズミが現れ「中はほらほら、外はすぶすぶ」と告げ、地面の下に空洞があることを知らせた。オオナムヂが足元をドスンと踏むと空洞があった。その中でどうにか炎をやり過ごし助かった。そのネズミはスサノヲが放った矢を探してきてくれた。それを知らないスセリ姫は、オオナムヂが死んだと思い、泣きながら葬儀の準備をしていた。スサノヲも「これでさすがに死んだだろう」と思っていた。そのとき、オオナムヂが手に矢を持って現れた。スサノヲは今度はオオナムヂを広い寝室に招き「ワシの頭のシラミを取れ!」と命じた。スサノヲの頭にはシラミではなくムカデがいっぱいいた。またまたスセリ姫が現れ、ムクの実と赤土を渡した。オオナムヂはこれを口に含んで吐き出しを繰り返した。これを見たスサノヲはムカデを口の中で噛み潰していると勘違いし感心した。心を許したのか、眠気に勝てなかったスサノヲはそのまま眠っ。 眠りこけるスサノヲを見たオオナムヂは、 「ここぞチャンス!」とばかりにスサノヲの長い髪を部屋の大きな柱に結びつけ、大きな岩で入口を塞ぎ、スセリ姫を背負い逃げだした。その手にはスサノの宝物の太刀、弓矢、琴を持っていた。「やれやれこれで逃げ出せた」と安心したその時、手にしていた琴が木にあたり、大きな音が鳴り響いた。 この音を聞いたスサノヲは慌てて飛び起きたが、柱に結びつけられた髪が邪魔で追いかけられなかった。その間にどんどん逃げるオオナムヂ、髪を解いて追いかけるスサノヲ。 地上との境まで追いかけたスサノヲは、オオナムヂに向かってこう叫んだ。『お前が奪った太刀と弓矢で兄弟神を追い払い、スセリ姫と結婚し大きな宮殿を建てて住め!』。スサノヲは遂にオオナムヂに、この大国の大王になれといい、試練に打ち勝った娘婿と認めた」。

 この経緯が次のように記されている。これを仮に「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」と命名する。
 「オオナムヂは、オオヤ彦神の教えに従い、時に木の根を潜り、時に木々の間を走り抜けて、兄弟の監視網から逃れ、ようやくスサノウの居る根の国に辿り着いた。門を叩いた時迎えに出てきたスサノオの娘スセリ姫と目を交わした瞬間恋に落ちた。スセリ姫がスサノオの前に連れて行くと、オオナムヂをじろりと見て葦原シコ男だと評した。その意味するところ、好色男という意味と思われる。スサノオはオオナムヂの器量を見定めようとして次から次へと試練を与えていった。

 その日、スサノオが泊められた部屋にはヘビが一杯いた。オオナムヂは、部屋一杯にうごめくヘビの群れに驚きおののいたが、部屋には外からカギをかけられていた。そこへ、スセリ姫が現れ、窓から霊布を投げ込んだ。その布を拾って、迫りくるヘビ達に布をかざし三回ふると、ヘビがピタリと止まり襲い掛からなくなった。その晩はぐっすり眠った。

 ヘビに噛まれて死んだと思っていたオオナムヂが生きていることに驚いたスサノオは、今度はムカデとハチがいる部屋に連れて行った。スサノオが立ち去った後に、今度もスセリビメがやってきて霊布を渡してくれた。今度も無事朝を迎えることができた。

 またしても元気な姿を見せるオオナムヂに対して、部屋に閉じ込めるのでは殺害できないと思ったスサノオは、今度は外に連れ出した。『今からワシが撃つナリカブラ(鳴鏑)を拾って来い!』と命じられたオオナムヂが鳴りカブラを探している間に、スサノオが平野一面に火を放った。オオナムヂが気づいた時には辺り一面火の海になっていた。その時、ネズミがやってきて、『内はホラホラ、外はスブスブ』と告げて居なくなった。オオナムヂがネズミの逃げた方を追いかけると穴に落ちた。オオナムヂが穴の中に入った瞬間に頭上に火が襲いかかった。草原の火が過ぎ去ったのを見て地上に上がろうとした時、ネズミがスサノオの放った鳴りカブラを持ってきた。今度こそオオナムヂが死んでしまったと思ったスセリ姫は、葬式の道具を持って平野で泣いていた。そこへ、オオナムヂが鳴りカブラを持ってやってきた。

 スサノオは今度は広くて大きな部屋に連れて行き、わしの頭のシラミを取れと命じた。スサノオの頭には髪の毛に多くのムカデが絡み付いていた。困惑するオオナムヂに、スセリ姫がムクの木の実とハニ(赤土)を手渡し、ムクの実を噛み砕いて、ハニを口に含んで吐き出してくださいと伝えた。オオナムヂが言われた通りにすると、頭にいるムカデを噛み砕いて吐き出していると勘違いしたスサノオは得心してそのまま眠ってしまった。

 オオナムヂは、眠ったスサノオの髪の毛をとって、その部屋の垂木に結びつけた。部屋の戸口を大岩で塞いだ後、スセリ姫に一緒に逃げようと誘った。二人は、スサノオの宝物である生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、天の詔琴(あまののりごと)の宝物を持って、オオナムヂがスセリ姫を背負って逃げた。その時、天の詔琴が木に触れて音を鳴らし、大地を揺るがす大音響にはっと目を覚ましたスサノオが気づいて追った。

 スサノオがヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)にたどり着いたときには、オオナムヂは既にはるかかなたに逃げおおせていた。追いつけないと悟ったスサノオは、オオナムヂに大声で伝えた。『お前が持っていった生太刀、生弓矢でお前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払え! そして、お前が大国主の神(大国主神)となって、わしの娘のスセリ姫を正妻として迎え、宇迦(うか)の山のふもとに社を建て、千木の屋根を天まで届かせろ』。それは、スサノウがオオナムヂを認めたことを意味していた」。
 スセリ姫=須勢理昆賣。葦原シコ男=葦原色許男。
(私論.私見)
 「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」は、オオナムヂがスサノオ王朝の嫡女・スセリ姫と恋仲になり、スサノウの繰り出す数々の試練を乗り越え、遂にスセリ姫と王権神器を手に入れたことを物語っている。こうしてオオナムヂがスサノオ王権を継承し、出雲統一王朝を創始していくことになったことを伝えている。これを仮に出雲王朝と命名する。先行する東部の原―元出雲王朝、西部のスサノウ王朝と区別する必要がある時には仮に出雲統一王朝叉はオオナムヂ出雲王朝と命名する。

 興味深いことは、スサノオの娘スセリ姫がスサノオとの初対面で恋に落ちたことである。これは、オオナムヂがよほど男ぶりが良かったことを暗喩している。次に、スサノウ王朝の神器が「生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、天の詔琴(あまののりごと)」であったことをも教えている。次に、スサノウが逃げるオオナムヂを追って辿り着いたところを「ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)」と記していることである。「ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)」とは、イザナギが黄泉の国へ逝ったイザナミを訪ね逃げ帰ったところでもある。これは偶然の奇遇だろうか。重要な事が隠喩されていると思うが分からない。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【オオナムヂの出雲王朝創始譚】
 スサノウ系出雲王朝の支援を得たオオナムヂは元出雲を平定し、これにより出雲統一王朝を創始する。この経緯が次のように伝えられている。
 スサノオの課した試練を次々に克服して、スサノオの娘のスセリ姫と結ばれたオオナムヂがスサノオ王権を継承し、これまで執拗な排撃を繰り返していた兄弟神をスサノオの指示通りにスサノオの太刀と弓矢で坂のすそに追い伏せ、川の瀬に追い払い、兄弟神を平伏させた。兄弟神は家来となり、ここに出雲王朝が創始された。オオナムヂはスセリ姫を出雲の国に連れてきた。
(私論.私見)
 「オオナムヂの出雲王朝創始譚」は、スサノウ王権を手にしたオオナムヂ出雲王朝のその後の歩みを伝えている。それによると、元出雲王朝をも支配し、こうして統一出雲王朝を創ったことが判明する。  

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【ヤガミ姫の傷心譚】

 スセリ姫より先にオオナムヂと結ばれていたヤガミ姫はオオナムヂの子を身ごもったいた。臨月が近づいたので、愛しのオオナムヂに会うため因幡国から出雲国を訪れた。旅の道中、宍道湖を船で渡る際に山あいに湯気が立ち昇るのを見つけた姫は、そこに温泉があることを知った。 その湯が日本三美人の湯の一つ「湯の川温泉」である。この湯に浸かり、長旅の疲れを癒された姫はいっそう美人神になられたと伝えられている。しかし、出雲国に来るとオオナムヂはスセリ姫と暮していた。先妻のヤガミ姫は嫉妬深い性格のスセリ姫を恐れ因幡国へ戻りかけた。その帰りの道中に産気づき出産した。その御子神は木の俣にかけて差し挟んで因幡に帰ってしまった。この子の名をキノマタの神と呼び、またの名をミヰの神ともいう。 愛する旦那と我が子を手放し、身も心も疲れ果てた姫は再び湯の川温泉の湯に浸かられ、傷ついた心と身体を癒された。この時、詠んだ句が次の通り。『火の山の ふもとの湯こそ 恋しけれ 身を焦がしても 妻とならめや』」。

(私論.私見)
 先妻のヤガミ姫がスセリ姫を恐れていたことも興味深い。

【オオナムヂの様々な名前譚】
 オオナムヂは色々な名前を持った。次の通りである。それらは、オオナムヂのそ
れぞれの面を語っている。
おほなむち(ぢ)
大己貴神 古語拾遺
大穴牟遅神
大汝命 播磨国風土記
大国主神の若い頃の名前。言い替えれば本名。「オオ」は「大」、「ナ」は
土地又は国、「ムチ」は貴人を意味する。即ちオオナムヂは「大きな土地持
ちの貴人」と云う意味になる。
おおなもち
大名持神
大穴持命 延喜式
あしはらしこを
葦原醜男 日本書紀
葦原色許男神
スサノウが命名した名前。シコヲは、強い男の意で、武神としての性格を表
す。醜男とも色男とも解される。
やちほこ
八千矛神 古事記
日本書紀
矛は武力の象徴で、武神としての性格を持つ名前。
ひろほこたまのかみ
広矛魂神 日本書紀
うつしくにたまのかみ
宇都志国玉神
顕国玉神 日本書紀
国を作った神としての尊称。
おほくにたまのかみ
大国玉神 古語拾遺
大国を治める帝王の意。
おおくにぬし
大国主神
国を作った神、大国を治める帝王の意としての尊称。
おおものぬし
大物主神 日本書紀
10 あめのしたつくらししおほかみ
所造天下大神 出雲国風土記
11 くにつくりおほなむち
国作大己貴命 播磨国風土記
12 くにつくりししおおかみ
国作之大神 延喜式
13 くにかためししおおかみ
国堅大神 播磨国風土記
14 おおとこぬしのかみ
大地主神 古語拾遺
15 くしみかたまのかみ
櫛甕魂神 延喜式
16 いわおほかみ
伊和大神 播磨国風土記
17 かくりごとしろしめすおおかみ
幽冥主宰大神
幽冥事知食大神
18 いづものおおかみ
出雲大神 日本書紀
19 いづものみかげのおおかみ
出雲御陰大神 播磨国風土記
20 きづきのかみ
杵築神 文徳実録
21 だいこくさま
大黒様
七福神の一つ。

【オオナムヂの様々な名前譚】

 日本書紀の一書には、「大国主命、またの名を大物主神、または国作大己貴命と号す。または葦原醜神という。または大国玉神という。または顕国玉神という」とある。
(私論.私見)
 「オオナムヂの様々な名前譚」は、オオナムヂの様々な顔を伝えている。葦原シコヲ神は醜男であっとも男前であっとも記されているが、英雄色を好む好色であったさまを伝えている。八千矛神とは軍神であったことを伝えている。ウツクシ国玉神は、出雲王朝の勢威を拡張したことを伝えている。大国玉神は出雲王朝を見事に大国化させたことを伝えている。オオクニ主の命はズバリそのものであろう。大物主神は、大和王朝との絡みで出て来る名前である。大国様は七福神に出て来る。  

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命の艶福家ぶり、政略結婚譚】
 大国主の命が各地豪族の娘との政略結婚で支配権を拡げていったことが伝えられている。最初の妻の八上姫との間に木俣神をもうけているが、正妻須世理姫との間には子供を設けていない様子である。しかし、諸国の豪族の姫との間に多くの子供をもうけており、日本書紀一書には「その御子すべて一百八十一(モモソヤハシラアマリヒトハシラ)の神ます」と記されている。艶福家ぶりを発揮しており、出雲の縁結びの神として祀られる所以でもある。これを確認しておく。
 イナバの国随一の八上姫(ヤガミ)姫。その子は木俣(きまた)の神。
 スサノウの娘のスセリ姫の命。
 出雲の郡宇賀の郷でアヤト姫。
 神門の郡の朝山の郷でマタマツクタマノムラ姫の命
 八野(やの)の郷ではヤヌノワカ(八河江)姫の命。その子は速甕之多気佐波夜遅奴美神。
 八嶋牟遅の神の娘(鳥取姫、青沼馬沼押姫)。その子は鳥鳴海の神(日名照額田毘道男)(布忍富鳥鳴海神)。
 陶津耳の命の娘の活玉依(いくたまより)。活玉前玉姫神との間に美呂浪神。
 高皇産霊の尊の娘の三穂津姫。
 宗像の三女神の中の多紀理(タキリ)姫。その子が味鋤高彦根神(アヂシキタカヒコネの命、賀茂大神)、高姫神(下照姫神)。アジスキタカヒコの御子はタキツヒコで、滝の神であり、雨乞いに応える水の神様。
 宗像の辺津宮の高津姫の神。
 神屋楯(カムヤタテ)姫。その子が事代主の命。
 高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫。その子が建御名方神(タケミナカタの命)。
 三嶋のセヤタタラ姫。その子がホトタタライススキ姫の命(姫タタライスケヨリ姫)。
 伊許知邇神。その子が国忍富神。
 前玉姫。その子が甕主日子神。
 比那良志姫。その子が多比理岐志麻流美神。
 若尽女神。その子が天日腹大科度美神。
 遠津待根神。その子が遠津山岬多良斯神。
 マタマツクタマノムラ姫の命=。ヤヌノワカ姫の命=。アヂシキタカヒコネ=阿遅志貴高日子根の命。カムヤタテ姫=神屋楯姫。タケミナカタ=多建御名方。
 こうして、オオナムヂは次々と政略結婚し、子供を生んでいった。旧事本紀は次のように記している(「大国主の命」)。
 先娶 坐宗像奥都嶋神田心姫命、生一男一女 兒味鋤高彦根神 坐倭国葛上郡高鴨社 云捨篠社 妹下照姫命 坐倭国葛上郡雲櫛社

 次娶 坐邊都宮高降姫神、生一男一女 兒都味齒八重事代主神 坐倭国高市郡高市社 亦云甘奈備飛鳥社 妹高照姫大神 坐倭国葛上郡御歳神社

 次娶 坐稲羽八上姫 生一兒 兒御井神 亦云木俣神

 次娶 高志沼河姫 生一男 兒建御名方神 坐信濃国諏方郡諏方神社
(私論.私見)
 神話に於ける結婚とは、政略結婚による豪族間の同盟を物語っているものと思われる。政略結婚は、結婚政策で版図を広げたという意味と同時に極力武力によらなかったことを隠喩しているとも考えられる。これも叉日本政治の原型と云えよう。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命のウガノアヤト姫(宇賀の綾門日女)求婚譚】
 「江角 修一」氏の「神社と歴史の広場」の「大国主命の妻を訪ねる旅の宇賀神社の御由緒」参照。
 大国主命の求婚(プロポーズ)を断って、逃げ隠れした挙句、黄泉の国へ隠れたウガノアヤト姫(宇賀の綾門日女)譚が遺されている。アヤト姫(綾門日女)は宍道町の宇賀神社に祀られている。宇賀神社は別名を犬垣神社とも呼ばれる。「当社は大國主之大神親猟の犬垣たるを以って地名となす。主神/宇賀廼綾止女命にして、地名も宇賀之女なるを誤訓の岡之目と違えり。 古来、大森神社の境外末社の上列であった」とある。この辺りの地名の岡の目は、宇賀之女の当て字地名のようである。アヤト姫は神ムスビの娘で、由緒正しきお家の令嬢と云う。大国主命の求婚に対して、山々を逃げ隠れ、最後は黄泉の穴へ隠れたと伝えられている。宇賀神社の御本殿の社殿は出雲系の大社造りに、大和系の女千木。御神紋は二重亀甲に木瓜紋。

 【宇賀神社へのアクセス】
 https://goo.gl/maps/6Rr1aMbTQNQxaveN8

 アヤト姫の名前の前に宇賀(うか)とついていることにつき、出雲風土記は次のように記している。「所造天下大神命(大国主命)が神魂命の御子である綾門日女命(あやとひめのみこと)に求婚された。その時 綾門日女命は承諾せずに、逃げ隠れなさった。大国主命が、伺い求められたがこの郷である。だから、宇加(うか)という」。

 宇賀神社にはもう一つの大事なキーワードが見える。それは宇迦や倉稲のウカという読みに関係する。これは稲荷神社の御祭神である宇迦之御魂・倉稲魂命(うかのみたま)を指している。宇賀神社の本殿裏には稲荷神社の特徴である狐穴が開いている!。この事実は次の二つの可能性を示唆する。1.出雲風土記に由来する宇賀と、稲荷神の宇迦を混同してしまった。2.綾門日女命の本当のお姿は稲荷神。この場合にはウカノミタマはスサノオの御子であること、男神であることなどが大きな問題となる。


【大国主の命のヌナカワ(沼河)姫との結婚譚】
 高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫は成長するにつれその美しさと優れた才能が噂されるようになり、彼女を讃える歌や詩が生まれるほどだった。「翡翠勾玉」で身を飾り美しい歌や舞を通じて人々を魅了し続け、いつしか「翡翠のヌナカワ姫」と呼ばれるようになっていた。その名声がオオナムヂ(古事記/大国主、八千矛神)の耳に届いた。オオナムヂは彼女の美しさと才能を聞き、或る時、越の国に行き、ヌナカワ姫に屋外から次のように求愛する。両者の交情風景は麗しい。
 「八千矛の神の名(命)は八島国 妻纏(枕)きかねて 遠々し。高志の国に賢し女をありと聞かして、麗し女をありと聞こして、さ婚ひに在(あ)り立たし 婚ひにあり通はせ、大刀が緒もいまだ解かずて、襲をもいまだ解かね、嬢子(乙女)の寝すや板戸を押そぶらひ 吾が立たせれば引こづらひ 吾立たせれば、青山に鵼は鳴きぬ。さ野つ鳥 雉子は響(どよ)む 庭つ鳥 鶏は鳴く。心痛(うれた)くも 鳴くなる鳥か。この鳥もうち止めこせね。いしたふや 天馳使、事の語り言(ごと)も 是(こ)をば」。
 (八島国を治め八千矛の神名を持つ私は、同盟の証として諸国の国姫と誼を通ずるべく国中を訪れている。遠い高志の国に賢く、美しい乙女がいると聞き、契ろうとこうしてやってきた。太刀の紐も付けたまま、被衣も付けた旅装束のまま駆けつけたが、あなたは会ってもくれない。乙女の眠る寝室の前で、私は板戸を押し、引き揺すって立っている。あなたは戸を締めきったままだ。そのうち緑濃い山では鵺(ぬえ)が鳴いてしまった。野では雉も鳴き騒ぎ、庭では鶏も夜明けを告げて鳴いている。あぁいかにせん。いろいろ伝え話し合いたいことがある。鳥たちよ、私のこの思いを伝える語り部となっておくれ)

 ヌナカワ姫は、いまだ戸を開けず、内から歌って聞かせた。
 「八千矛の神の命。萎(ぬ)え草の女にしあれば、吾が心 浦渚の鳥ぞ。今こそは吾鳥にあらめ。後は汝鳥にあらむを、命は な殺(死)せたまひそ いしたふや 天馳使、事の語り言(ごと)も。こをば。青山に日が隠らば、ぬばたまの夜は出でなむ。朝日の咲(笑)み栄え来て、楮綱(たくづの)の白き腕 沫雪の 若やる胸を そ叩き(素手抱き) 叩きまなかり(手包き抜きまながり) 真玉手 玉手差し纏(枕)き 股(百)長に 寝は宿(寝)さむを。あやに な恋い聞こし。八千矛の神の命。事の語り言(ごと)も 是(こ)をば」。
 (八千矛の神の命様。私など、なよなよした草のような弱い女。浜辺の千鳥のようなもので、今は我がまま鳥でいるものの、やがてあなたに抱かれる鳥になるのですから、お焦りなされるな。青山に日が隠れ、暗闇になったらおいでください。朝日のような笑顔でおいでなさい。真っ白に輝く腕で、雪のようなこの白い胸をじかに抱きしめ、なでさすり、抱き交わし、私の玉のような手を枕に差し、足を並べて尽きぬ共寝を致しませう。だから、余り恋焦がれなさりませぬよう。八千矛の神の命様、その時ゆっくり語り合いませう)

 「かれその夜は合はさずて、明日の夜御合したまひき」。こうしてヌナガワ姫を娶してミホススミの命を生み、ミホススミの命は美保の郷に住むことになった。建御名方神(タケミナカタ)もこの姫から生まれた。

【ヒスイ考】
 新潟の糸魚川周辺には、ヌナカワ姫の誕生地とされる場所や、ヌナカワ姫を祭神とする神社が、集中している。ヌナカワ姫は、「沼名河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」(万葉集)とあるように玉とつながっている。ここでいう玉とは糸魚川の代表的な宝石であるヒスイと考えられている。ヌナカワ姫はタケミナカタの母親である。出雲の国譲りの際、大国主と事代主は同意したが、タケミナカタは最後まで抵抗した。しかし、タケミカヅチとの力比べに次第に劣勢となり諏訪の地に逃げ込んだ。勝負はつかず膠着化し始め、タケミカヅチは諏訪より出ないことを条件に和睦した。その後の諏訪地域は、先住の洩矢の神とタケミナカタを軸にした独自の祭祀体制を長きにわたって維持し続けた。タケミナカタを祭神とする諏訪神社は日本でも六番目に数の多い神社で、その分布は新潟県927社、長野県386社で、この2県が3位の山梨県131社以下を大きく引き離している。

 タケミナカタの母親のヌナカワ姫の聖域は、新潟の糸魚川周辺に集中している。糸魚川は、フォッサマグナの糸魚川・静岡構造線上にあり、タケミナカタの聖地/諏訪は、日本列島を南北に分断する中央構造線と、糸魚川・静岡構造線が交わる場所である。ヒスイは日本でこの場所にしか産出しない。ヒスイの生成は謎が多いが、低温で高圧そして熱水の豊かな場所で生成すると考えられている。糸魚川周辺地域がヒスイの産地となっているのには地政学的な必然があるように思われる。「糸魚川ヒスイ」は古代、北海道から沖縄、そして朝鮮半島まで貴重な玉として流通している。単なる祭祀道具や装飾道具としてだけでなく地域と地域を結ぶ紐帯として用いられていた。縄文時代に同じように各地に流通していた黒曜石の場合は、実用道具として加工されたものが非常に多いし、神津島、隠岐、八ヶ岳、姫島など産地がいくつもあるが、ヒスイの産地は一地域限定である。但し、奈良時代になって突然、歴史から消えている。奈良時代は古事記や日本書紀の神話が創造された時であり、律令制に基づく国家運営が行われた時期にあたる。ヒスイと関わりの深いヌナガワ姫の子、タケミナカタが国譲りに最後まで抵抗する存在として古事記に描かれたのが奈良時代である。この時代にヒスイが表舞台の歴史から消えたことになる。但し産出しなくなったわけではなく、中世には原産地周辺で漬物石や屋根の葺石として実用的に使われていた。
 時川氏康フェイスブック「《翡翠勾玉と越国=高志国について」参照
 日本産のヒスイを、日本の工房で加工した物とされる。北海道の美々4号遺跡・ヲフキ遺跡、青森県の三内丸山遺跡・亀ヶ岡遺跡、新潟県の糸魚川の長者ヶ原遺跡・寺地遺跡、長野県の離山遺跡などから出土しており、縄文中期(BC5000年)頃から作られていた。特に長者ヶ原遺跡や寺地遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっている。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、縄文人が広い範囲で交易していた事実を示すと考えられている。本項では、新潟県糸魚川市とその周辺におけるヒスイの生成と地学的見地、そして利用の歴史などについて取り上げる。糸魚川市近辺で産出されるヒスイは、5億2000万年前に生成された。長い時間を経て、原産地周辺ではヒスイを利用する文化が芽生えた。その発祥は、約7000年前の縄文時代前期後葉までさかのぼることができる。これは世界的にみても最古のもので、同じくヒスイを利用したことで知られるメソアメリカのオルメカ文化(約3000年前)とマヤ文明(約2000年前)よりはるかに古い起源をもつ。

 ヒスイ文化は原産地である糸魚川を中心とする北陸地方で著しい発展を見せた。ヒスイ製の玉類などは、その美しさと貴重さゆえに威信財(いしんざい)として尊ばれた。ヒスイ製品の完成品や原石類は縄文時代、弥生時代から古墳時代を通じて近隣地域だけではなく、西は九州・沖縄、北は青森や北海道、さらには海を越えた朝鮮半島にまで広く流通した。奈良時代になるとヒスイの文化は急激に衰退していき、やがて完全に姿を消した。その後は「日本にはヒスイが産出しない」という説が出るほど、糸魚川産のヒスイの存在は忘れ去られていた。

 1935(昭和10)年、約1200年の時を隔ててヒスイが糸魚川で再発見された。以後の考古学的調査や科学的分析などを集積した結果、縄文時代以降に日本で利用されたヒスイはそのすべてが糸魚川産であることが明らかになった。2016(平成28)年、日本鉱物科学会はヒスイを「国石」として選定している。
ヒスイは、主としてヒスイ輝石(化学組成: NaAlSi2O6)で構成される石であり、中でも美しいものは宝石として利用されてきた。ヒスイは、産出量と品質、そして利用されてきた歴史の古さと地域の広さから、日本で産出される宝石類の中でも最も重要なものである。
 日本では糸魚川を含めて2018年の時点で12か所のヒスイ産地が確認されているが、中でも新潟県糸魚川市とその周辺のヒスイ産地は縄文時代から利用されてきたという歴史がある。そのうち美しいヒスイを産するのは、糸魚川を除けば若桜(鳥取県若桜町角谷)、戸根渓谷(長崎県長崎市琴海町)、大屋(兵庫県養父市)である。ただし糸魚川以外の地域で産するヒスイは、利用された形跡が見当たらない。ヒスイ輝石の比重は3.2と、比較的密度が大きい石である。またモース硬度は6.5から7と、宝石の中では比較的硬度は低めであるが、微細結晶が絡み合う構造を持つヒスイ輝石は壊れにくさ、割れにくさという点では宝石の中でも上位に位置する。
 「阿波の翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)考」参照。
 異説として「友行安夫の御倉玉(みくらのたま)を知れば、天照大神が海に向かって投げた「勾玉」(くぎょく)の歴史が見えて来る!」がある。これを確認しておく。

 「御倉玉」(みくらのたま)は、古代日本で信仰された天皇の神宝(しんぽう)の一つで、皇位継承や豊穣などの祈りに用いられたとされています。御倉玉は、伝説によると、天照大神が海に向かって投げた三つの玉のうちの一つで、最も神格が高く、日本の皇室に伝わる「三種の神器」の一つに数えられています。御倉玉にまつわる神話によると、綾瀬比売命(あやせひめのみこと)が、天照大神から授かった御倉(みくら)に、「御倉稲」(みくらいね)と共に封印されていた御倉玉を守る役目を与えられたとされています。また、御倉玉には、邪悪な者に触れられると凶事が起こるという伝承もあり、神聖なものとして扱われてきました。

 「翡翠勾玉」(ひすいこうぎょく)とは、古代日本で作られた「勾玉」(くぎょく)の一種で、「翡翠」(ひすい)と呼ばれる緑色の宝石でできていることからその名が付けられました。御倉玉は、伝説によると天照大神が海に向かって投げた三つの玉のうちの一つであり、他の二つは草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とされています。御倉玉は、皇位継承や豊穣などの祈りに用いられ、日本の皇室に伝わる三種の神器の一つに数えられています。日本神話に登場する神/伊邪那岐命(いざなぎのみこと)からでした。伝承によると、伊邪那岐命は、天の浮橋を渡って地上に降り、海中に棲む海神を退治する際に、身につけていた勾玉を海神に奪われてしまいました。その後、勾玉を手に入れたイザナギ命は、その勾玉を岩戸を開けるための鍵として使い、天照大御神を岩戸から引き出し、天と地を分けるという出来事が起こったとされています。この勾玉が「御倉玉の原型」であるとする説もあるため、イザナギ命が与えたという。御倉玉がイザナギ命から天照大御神に渡されたという伝承も残されている。この伝承によれば、イザナギ命が冥界を訪れた際に、自分の目から涙が滴り落ち、その涙が御倉玉となったとされています。そして、イザナギ命はこの御倉玉を天照大御神に贈り、天照大御神はそれを三種の神器の一つとしたとも伝わっています。


 ※これらの「古代阿波国物語」の記事等は、尼崎の「友行神社」周辺を開祖した「先祖友行」の「文書(もんじょ)」から代々受け継がれた口伝を元に記事にしております。
 ■四国・徳島邪馬台国研究学会
 邪馬台国学研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰 友行安夫(記)
 世界最大級のウェブ新名所!写真数4,000以上記載「阿波翡翠デジタル博物館開設」!
 
https://webjp.xsrv.jp/ajgallery/index.cgi

【佐伯剛/氏の「古代出雲(1)」、「古代出雲(2)」、「古代出雲(3)」その他参照】
 佐伯剛/氏の「古代出雲(1)」、「古代出雲(2)」、「古代出雲(3)」その他をれんだいこ的に参照し、同意できるカ所を抜き書きしておく。
 出雲大社は、国内の祭祀秩序の重要な聖域となっているが、重要なことは、かの時に、穴道湖の西に位置するなぜこの場所に出雲大社という聖域が設置されたかである。神話の中で、出雲大社の祭神であるオオクニヌシは、国譲りの代償として「天日隅宮」と呼ばれる大きな社の造営をしてくれるよう求め、これが出雲大社となる。出雲大社の神職の祖はアメノホヒとされ、この神はアマテラス神の子神として位置付けられる。

 出雲大社の隣に、摂社の命主社(いのちのぬしのやしろ)がある。造化三神の一柱の神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られているが、巨岩の前に建てられており、古代の磐座が聖域だったと考えられる。社の前には、推定樹齢1000年といわれるムク(椋)の巨木がある。1665年、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、古代の祭祀道具の銅戈(どうか)と硬玉製勾玉が発見された。銅戈は北部九州産、勾玉は新潟県糸魚川産の可能性が高く、北部九州、北陸と交流があったことを物語っている。その歴史は出雲大社が築かれた時代よりもはるかに古い。

 出雲は、ヤマト王権VS出雲勢力として語られ、出雲政権がヤマト王権に打倒された。最終的に譲りを余儀なくされた。最後まで抵抗したのは、諏訪大社の祭神となるタケミナカタである。ところで、世界史的に見れば、打倒された側の神が、オオクニヌシのように大切に祀り続けられている例は珍しい。現代でも日本各地にオオクニヌシをはじめとする出雲系とされる聖域は数多くあり、アマテラスやタケミカヅチなどの天孫系とされる神社よりも地元との結びつきが強く溶け込んでいる。神話の中のオオクニヌの「国つくりの物語」は、スクナヒコとの協働も含め、明らかに産業化の過程を示している。国譲りによって、オオクニヌシは消えてしまうわけではなく、その存在感を維持し続け、時々、疫病などの祟り神として現れる。その祟りを鎮めるのは、たとえばオオタタネコ。この神は、オオクニヌシもしくは事代主という出雲系の神を祖に持ち、「須恵器」に象徴される新技術の使い手である。
 「出雲」は3エリアに分かれる。中海の東の米子市から大山周辺と、中海と穴道湖のあいだの松江周辺、そして穴道湖の西で出雲大社が鎮座する地域。穴道湖西地域には、もう一箇所、驚くべき聖域がある。それは荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡である。荒神谷遺跡では385本もの銅剣と、その場所からわずか7mのところに銅鐸6個と銅矛16本がまとめて埋められていた。一つの聖域から出土した青銅器の数は日本一である。また、ここから南東に3kmほどの加茂岩倉遺跡からは39個もの銅鐸がまとめて出土し、一箇所から出土した銅鐸の数で日本一である。この二つの青銅器埋納の聖域には不可思議な共通点があり、それぞれの場所から出土した青銅器に「×」印が刻まれている。この印がある青銅器は日本でこの場所だけである。 「×」印が何を象徴しているのか謎である。銅剣は、主に九州を中心として使われていた祭祀道具で、銅鐸は、近畿を中心に東は東海、西は中国四国地方の中央部あたりまで使われていた祭祀道具だったのだが、出雲の加茂岩倉遺跡から出土した青銅器が、日本の他地域から出土した青銅器と同じ型から製造されたものが数種類あることがわかっている。同じ型から作られた青銅祭祀道具の意味するところは、両地域での交流があった可能性だが、他の地域から、わざわざこの場所に持ってきて埋納した可能性も考えられる。

 荒神谷遺跡は、1983年、田んぼのあぜ道で一片の須恵器をひろった事がきっかけとなり、周辺を詳しく調査している段階における大発見だった。須恵器というのは、西暦5世紀になってから普及した硬い土器製品で、食べ物や酒をもって祭祀に使われ、古墳の中から数多く出土している。荒神谷遺跡は古墳時代の集落跡であり、そこから弥生時代の祭祀道具が大量に出土した。弥生時代の集落の上に、古墳時代の集落が築かれた可能性も否定できない。九州圏の祭祀道具である銅剣と、近畿圏の祭祀道具である銅鐸が、九州と近畿の中間地点の出雲地方に整然と大量に並べて埋納されているのは謎である。

 古い時代の異形のコスモロジーを象徴する聖域が穴道湖の西側に存在している。出雲大社と荒神谷遺跡から7kmほどの中間地点にある西谷墳墓群である。2世紀末から3世紀、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての大古墳群で、その数は32基を数える。この古墳群の特徴は、弥生時代に作られた6基の四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は、島根から鳥取、広島の山間部、および北陸にかけて特徴的に分布する古墳である。その中でも巨大なものが、この西谷墳墓群に集中している。3号墳の被葬者が横たわる木棺内は大量の水銀朱が敷きつめられており、厚さ2〜3cm、総量は10kgと推計されている。また、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上と、コバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。発見された200を超える土器のなかには、各地の前方後円墳においても用いられた吉備の特殊器台・特殊壺が存在し、さらに、四隅突出型墳丘墓の分布と重なる北陸地方との関係が伺える土器が多い。西谷古墳群のすぐそばに斐伊川が流れており、この上流部が奥出雲で、良質な砂鉄の産地である。

 数年前、徳島の若杉山遺跡で、弥生時代に遡る水銀朱(辰砂)の採掘跡が発見されている。

 島根県の出雲地方は、大陸から日本に渡ろうとした時に、流れ着いてしまう場所である。大陸からは九州が最も近いが、対馬海流の潮流は強く、朝鮮半島の南から船に乗っても、潮の成り行きに任せれば島根にたどり着く。朝鮮半島の真ん中から北部であれば、九州にたどり着くこと自体が難しく、山陰から若狭や北陸の方が上陸地になりやすい。四隅突出型古墳の解せないところは、同じ日本海側でも丹後には存在しないことだ。丹後には、弥生時代に栄えた痕跡が明らかであるにもかかわらず。弥生時代、出雲と北陸を海を通じて交流していた勢力がいたが、その勢力は、丹後の勢力と異なるコスモロジーだったということになる。


 弥生時代、出雲と丹後に共通する祭祀道具も見つかっており、それは、宗像土笛だ。宗像市の中心部にある弥生時代の光岡遺跡から、宗像土笛というココヤシ笛をルーツとする笛の完全形が出土している。この笛は、北九州の宗像地域から関門地域周辺地域と、出雲と、丹後半島という限定された場所から出土している祭祀道具と考えられていて、この特徴的な笛のルーツであるココヤシ笛が、壱岐島の​​原の辻遺跡から出土している。この土笛が出土した場所として、東の端が、丹後半島の竹野であり、島根県では、松江市のタテチョウ遺跡や、西川津遺跡から出土している。出雲地方に特徴的な四隅突出型古墳が存在しない丹後に、出雲地方と共通する宗像土笛が存在する。この事実から、弥生時代、同じ出雲地方で、海上交通と関係する勢力であっても、異なるコスモロジーを持つ勢力が共存していたことが考えられる。四隅突出型古墳は、朝鮮半島、とくに高句麗との関係を指摘する専門家もいる。
 記紀で描かれる「出雲のオオクニヌシ」の物語は、島根県の出雲地方ではなく、鳥取県の東端を流れる千代川と、鳥取県の西端にそびえる大山の西を流れる日野川流域のあいだが舞台となっている。オオクニヌシが国造りを始める前に出会ったのがヤガミヒメだが、ヤガミは、鳥取の八上郡とされ、ここには万代寺遺跡という縄文早期から平安時代まで栄えた複合遺跡がある。この場所は、因幡の様々な河川が流れ込む千代川にそったところで、さらに山陰道と山陽道を結ぶ連絡道の「因幡道」が通る古代の交通の要所だった。

 ここから千代川を15km遡ったところの智頭枕田遺跡は、縄文時代から平安時代の遺跡としては九州を除いて西日本では最大である。ヤガミヒメは、この地域の巫女だった。オオクニヌシに対して、ヤガミヒメと結ばれることを預言する素兎においては、白兎海岸が伝承地として知られている。八上郡にも伝承が残り、万代寺遺跡の近くに白兎神社が鎮座する。この地の伝承では、兎は、アマテラス大神の道案内をするのだが、月読神の御神体とされている。日本の伝統的な美術や工芸の図像に波兎文様がある。波の上を兎が跳ね飛んでいる図像だが、謡曲「竹生島」では「月、海に浮かんで、兎も波を走る」と表現され、月に照らされて揺らめく波のつながりを波の上を渡る兎と喩えている。因幡の素兎の物語で、ワニの背中を渡る兎とは、このイメージをさらに抽象化したものだろう。月読神というのは、浦島太郎の祖にも位置付けられており、海人との関わりが深い神であり、それは、海人にとって、月の影響を受ける潮の干満を読むことが重要だからだ。

 ヤガミヒメを娶ったオオクニヌシの物語は、鳥取県の東から西の大山の麓へと移る。この場所で、ヤガミヒメがオオクニヌシと結ばれた。このことに腹を立てた八十神によって、オオクニヌシは2度に渡って殺される。1度目は真っ赤に焼けた大岩で、2度目は大樹によって。しかし、なんとか母の介在によって再生し、紀国に逃げたことになっている。オオクニヌシは、八十神の異母兄弟という位置付けの八十神の荷物持ちである。つまり、オオクニヌシは、格的には少し劣っていたことになる。そのオオクニヌシは、巨岩や大樹といった縄文時代からの神威で試される。オオクニヌシの死と再生の聖域は、鳥取県西伯郡の赤猪岩神社周辺だが、この地域にある殿山古墳は、全長108mで、鳥取と島根では北山古墳(110m)に次いで大きい。ここから北に3kmほど日野川流域に青木遺跡と福市遺跡があり、主に弥生時代後半から奈良時代まで続く集落遺跡で、100棟におよぶ住居跡が、そのままの形で発掘されるという全国的にも珍しい巨大遺跡である。

 青木遺跡は縄文時代の遺物も確認されている。2016年、4基の四隅突出型墳丘墓が確認された。これが現時点では最古の四隅突出型墳丘墓と見られ、従来の認識が覆される事態となった。というのは、四隅突出型墳丘墓というのは、広島の山間部、島根の出雲地方から鳥取の大山周辺、そして北陸にだけ築かれた特徴ある墳丘墓だが、これまでの学説では、最古のものは広島の山間部の三次盆地に築かれたものとされていた。大山の北麓の麦晩田遺跡にも、古い四隅突出型墳丘墓が数多く築かれ、後に穴道湖の西、出雲の王家の谷と呼ばれる西谷墳墓群で、かなり巨大なものが築かれているので、なぜ、広島の三次が、出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓のルーツになっているのかが謎だった。しかし、今回の発見で、鳥取と島根のあいだの日野川流域、オオクニヌシの死と再生の舞台となっている地域が、そのルーツということになる。出雲地方に特徴的な四隅突出型墳丘墓のルーツがあり、さらに、山陰で最大級の前方後円墳の殿山古墳がある場所が、オオクニヌシの死と再生の舞台であるというのは、何を象徴しているのか?

 大山の北麓に、麦晩田遺跡という日本最大の弥生遺跡がある。巨大環濠集落として知られる佐賀県の吉野ケ里遺跡の3倍以上の大きさを誇る。日本各地に、弥生時代の集落跡が残るが、この妻木晩田遺跡ほど素晴らしい眺望に恵まれた場所はない。美しい弧を描く美保湾が遺跡から見下ろせる。水田耕作を営みの基本にしていた弥生時代の集落は、低地帯に築かれることが多いが、弥生時代の後半、高地性集落が築かれるようになり、これは敵との戦いに備えたものと説明される。妻木晩田遺跡もまた、高地性集落ということになるのだが、これほど大規模なものは珍しい。現地の印象としては、縄文時代の遺跡のロケーションに似ており、発掘調査からも、狩猟や漁労に関する遺物が多く出土しており、この集落の住民が、周辺の森でクリなどの木の実を採集し、鹿や猪を狩り、海や川で魚介類を得ていたことと考えられている。遺跡内では、水田や畑などの遺構は発見されていないが、住居跡や貯蔵蔵などから炭化米などが見つかっているため、周辺の平地や谷部などで米作りを行っていたようだ。いずれにしろ、敵からの攻撃に備えた高地性集落というより、他地域の縄文時代の集落跡が似たような丘陵地に多く見られることから、麦晩田遺跡の住人は、縄文時代の営みの延長上の暮らしを、この丘陵地で行っていたのではないだろうか。さらに、この遺跡から、隠岐の黒曜石や、讃岐のサヌカイトで作られた道具や、北九州で多く見られるガラス玉が出土した。土器は、西瀬戸内海、兵庫県から鳥取のかけての日本海側地方の特徴を持ったものが見つかっている。また、鉄器類も膨大に見つかっており、中には大陸性のものも確認されているが、一つの遺跡から出土した鉄製品は、日本最大である。麦晩田遺跡の住民は、水上交通によって各地と結ばれていたのだ。また、美保湾を見下ろせる絶景の場所に、洞ノ原墳墓群があり、ここには、四隅突出型墳丘墳が、比較的大きなものが5基ほど、さらに一辺1~2mの小さなものも含め11基ほど見つかっているが、これらは西暦1世紀から2世紀にかけて作られたもので、四隅突出型古墳のなかでは、上に述べた青木遺跡もののとさほど変わらない古さだ。しかし、この場所での営みは、約300~350年間にわたって続いていたが、3世紀後半、古墳時代が始まる時、突然、終焉を迎えた。その理由は、明らかになっていない。それまで、この場所にある墳丘墓は、木棺で埋葬されていたが、大小の石を組み合わせた石棺に遺体を収める台形型の古墳が登場した時を最後に、この場所での人の営みの痕跡は消えたのだ。古墳時代に入ると、人々は、この海に面した絶景の丘陵地を捨てた。しかし、大山の西麓、日野川流域では、青木遺跡や福市遺跡のように、奈良時代まで栄えているし、山陰最大級の殿山古墳が築かれ、古墳時代後期の5世紀後半から6世紀後半には、向山古墳群が築かれている。
 麦晩田遺跡は、弥生時代最大の遺跡であるにもかかわらず、稲作を中心にした集約農業の集落ではなく、縄文時代から続く狩猟や漁労、森で採取する木の実なども食糧源とする粗放農業が暮らしを支えていた。敵からの攻撃に備えるための丘陵地というよりは、生活環境として、それが望ましかったのではないか。しかし、縄文時代と明らかに違うのは、豊富な鉄器製品をはじめとする様々な技術革新だった。麦晩田遺跡というのは、縄文文化に、新しい産業力が重なった世界だった。だとすると、それは、国造りを始める前のオオクニヌシが、ヤガミヒメと結ばれた状態と重なってくる。

 オオクニヌシは、2度に渡る死と再生を経て、八十神から逃げるために紀国に行き、さらに追ってきた八十神から逃れて根の堅州国に向かい、そこで、スセリビメと出会い、その父スサノオからの試練を乗り越え、再び出雲に戻って、はじめて「大国主」となる。それまでは葦原色許男神である。その後、スサノオから授かった太刀と弓矢で八十神を退け、スセリビメを正妻にして、新宮を建てて住み、国づくりを始めた。この時、ヤガミヒメは、大国主のもとを去ってゆく。大岩や大樹の力を前に無力だった葦原色許男神が、太刀と弓矢を備えた大国主となって国造りを始める。スクナビコナのような医薬とか酒造りという新しい知識文化の普及に貢献する神が加わってくる。
 麦晩田遺跡は、日本最大の弥生遺跡で、これまで出土した遺物だけでも膨大だが、まだ発掘調査は10分の1程度でしかなく、今後の発見で従来の歴史観が覆される可能性がある。

 歴史探究においては、江戸時代の本居宣長たち国学者や、明治以降、折口信夫、谷川健一、宮本常一など様々な先人がいる。この人たちの業績はかけがえのないものだが、彼らが探究していた時と現代では考古学的発見の厚みがまったく異なっている。だから、先人の業績を鵜呑みにするわけにはいかず、考古学的な成果に基づいて、歴史を見直していく必要がある。しかし、考古学という実証主義は、非常に重要であるものの、証拠によって思考の幅が狭められてしまうという欠点がある。そして、新たな証拠発見によって、それまでの説が簡単に覆されてしまうし、かつて起きたように証拠の捏造さえ起こりうる。

 昨日の記事の出雲特有の四隅突出型墳丘墓にしても、長年、そのルーツが広島の三次盆地であることの謎をめぐる議論が尽きなかったが、近年、大山の西麓の日野川流域にある青木遺跡で最古の四隅突出型墳丘墓が発見されたことで、論点がガラリと変わることになる。青木遺跡の近くにある巨大遺跡の麦晩田遺跡の存在が、あらためて重要な意味を持ってくるようになるだろう。

 この麦晩田遺跡の発見も近年のことだ。この場所は、1995年から1998年にかけて、ゴルフ場建設を初めとする大規模リゾートの開発計画に伴って調査が行われた際に発見された。そして、観光客誘致を行いたい自治体は、遺跡と開発の併存案を打ち出したが、開発企業の京阪グループは、遺跡とリゾートの併存はありえないと、意見が分かれた。最終的に、京阪が買い取った土地を税金によって買い取ることで決着し、鳥取県によって保存・整備が図られることになった。現在、この広大な遺跡内は入場料も無料だが、素晴らしいロケーションであり、近くに住んでいれば毎日でも訪れたい場所だ。人工的な公園よりも、はるかに心身に良い影響を与えるだろう。この麦晩田遺跡という歴史の重要物が、我々の手元に残ったのは、この地の開発が、西暦2000年頃だったことが大きいと思う。というのは、この30年ほど日本経済は停滞しているのだが、そのお陰で開発のスピードが遅くなり、かつてのような強引さがなくなった。土器が一つ出てきたら丁寧に周辺を調査する。そのうち、どんどん広がって、数年間、開発がストップしているうちに、巨大都市のような遺跡が発見されたということが、近年、増えている。京都の隣の亀岡市でも、驚くべき広大な古代都市遺跡の存在がわかった。これが、戦後の高度経済成長の時代なら、そうはならない。東京オリンピック前の高速道路や新幹線の工事の際、土器が出てきたくらいで工事をストップさせるわけがない。当時は、1年とか3年は、ものすごく貴重な時間であり、工事を遅れさせることの責任問題の方が、出てきた土器を隠すことよりも重かった。開発の遅れは、その企業の仕事が無くなることを意味しただろうが、今は、土器発見を闇に葬ったことを現場の作業員がSNSに投稿するだけで、その企業に対する社会的制裁は大きく、それこそが責任問題となって、会社の存亡にも関わってくる。




(私論.私見)