日本神道の歴史4、出雲神道、出雲大社考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本神道は、国譲り政変以降、高天原王朝の伊勢神道と出雲王朝の出雲神道の二派に分かれ、両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。特徴的なことは、諸外国のそれと違い、暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになんる。 2008.4.7日 れんだいこ拝 |
【出雲大社創建譚】 | |||
古事記の日本神話―国譲り譚によれば、大国主が出雲王朝を明け渡し、引退する旨表明した際、その代償として、私の住む所として相応しい壮大な宮殿を造ってくれるのなら国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょうと告げ、これが了承されて造営されたのが出雲大社の始まりであるという。当初は、多芸志(たぎし)のお浜(現在どの辺りか不明)に殿舎を造り、水戸神(みなとのかみ、河口を掌る神)の孫に当たる櫛八玉神(くしやたまのかみ)が御*(みけ)を奉る等、神事を司った。次のように記されている。
出雲風土記の出雲郷の条に次のように記されている。
以降、出雲王朝の末裔は出雲大社の神主、氏子として生き延びていくことになる。これを仮に「国譲り譚その10」とする。 以上の10コマを「国譲り譚」と云う。日本書紀には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと、天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造となり、出雲王朝支配の代官として派遣されたとある。こうして出雲国造が登場し、現在まで継承されている。 その後、出雲神道として息づいていくことになる。出雲神道には次のような特徴が認められる。
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クシヤタマ神=櫛八玉神。 | |||
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「出雲大社譚」は、大国主が出雲大社の祭神として生き延びたことを明らかにしている。天穂日命の子孫が出雲国造が祭祀を司るが、この出雲国造神道と大国主の命系の出雲神道がどう対立し、その後融合するのかも確認したい。興味深いことは、出雲王朝はいわば地下に潜ったが、その後の政治経済文化に陰に陽に影響を及ぼし、日本歴史の裏面を形成していくことである。ここを見ないと、日本政治の特質が何も分からないことになる。 2008.4.6日 れんだいこ拝 |
【出雲大社考】 |
(「古代出雲王国-スサノオの光と影-27スサノオゆかりの神社7出雲大社」その他参照)
出雲大社は島根県出雲市大社町杵築東に鎮座している。最初の創建の時期、場所は分からない。確認できるのは、716(元正天皇の霊亀2)年、古事記が書き終わった4年後、書紀編纂の最終段階とみられる時期に完成している。大国主の命が亡くなったのはBC103年頃とみられることからすれば約8百年後の創建となる。その7年前の709(和銅2)年にも、京都府亀岡市に出雲大神宮を建てている。記紀編纂の最中に天照大神を祀る伊勢神宮を、そして大国主の命を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営したことになる。 出雲大社は、我が国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきた。歴史上特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきた。古くから民衆の間に広く知られ、参拝者も多く、伊勢神宮と天下の人気を二分していた。南北朝以後は神仏習合により、寺院の守護、豊饒を司る大黒天と集合され、財福の神、縁結びの神として信仰されるようになり「ダイコクサマ」として親しまれている。古代より杵築大社と呼ばれ、延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され名神大社に列している。神階は867(貞観9)年に正二位まで昇った。江戸時代には社領五千石を有していた。1871(明治4)年、出雲大社と改称し官幣大社に列格した。大正時代に勅祭社となり、現在は神社本庁の別表神社となっている。現在も、天皇家の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。 出雲大社の祭神は大国主大神であるが、1666(寛文6)年、毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とあり、この当時には祭神が素戔嗚尊とされていたとみられる。神紋は二重亀甲に有の字。千家(出雲国造)紋は二重亀甲に剣花菱。 |
宍道湖西部の斐伊川と神門川流域の沖積平野で発達した西出雲は、暴れ川でもあった両河川と格闘しながらも弥生中期以降、地域勢力を中心にキツキの神(出雲大社)を守護神として小国を形成してきた。 |
【出雲大社の建築様式考、祭神考】 |
神社建築には「大社造」と「神明造」と云う大きく分けて2つの形式がある。他にも流造、八幡造、住吉造、春日造など様々あるが全てこの2つの建築様式から発展している。神明造(しんめいづくり)は伊勢神宮に代表される建築様式である。屋根が平になった側に入口が付いているため「平入り」(ひらいり)と呼ばれる。お米などの穀物を保管する倉庫から発展した建築様式であり部屋内に柱などの障害物がない。御神座はお部屋の真ん中に置かれ、入口と相対している。大社造(たいしゃづくり)は出雲大社に代表される建築様式である。入口は屋根が妻になった側に付いているため「妻入り」と呼ばれる。住居から発展した建築様式である。屋根を伝い落ちてくる雨水が、建物に出入りする人にかからないようにするため妻入りが採用されたと考えられている。御神座は寝床の位置の奥に置かれ、入口との間に間仕切り壁がある。神社や神棚は一般的に東か南を向いているが、出雲大社の御本殿入口は南を向いている為、御神体は西向きになっている。1番古い大社造は神魂神社である。ここは王家の住居だったといわれている。大社造はのちに大鳥造へと進化発展して、より神殿に相応しい形となった。(「江角修一/神社と歴史の広場」参照) |
不思議なことに、出雲大社の建立につき、出雲風土記にはわずかしか触れられていない。且つ国譲りの代わりに大きな社を建ててもらったとは書いていない。祭神の大国主命にしても出雲で祀っている神社は他にはほとんどない。スサノオを祀る神社は全国に分布しているが、大国主を祀る神社の数は比べものにならないほど少ない。但し、大国主命は多くの別名を持っており、その名の神を祀っている神社は存在する。 出雲大社は大国主大神を主祭神として祀る出雲国出雲郡の名神大社で同国一宮。御祭神の大国主大神については、国史の神代記に詳細がみえるが、出雲国風土記では大穴持命、又は所造天下大神大穴持命とされている。中世、出雲の国引き、国造りの神を素戔嗚尊としていた時期があり、素戔嗚尊が主神として祀られていたが、寛文年間の出雲国造家による神仏分離策で、記紀の記載に沿って再度主神を大国主大神に復した歴史がある。 本殿の御神座とされる大国主命は、拝殿正面に対して横向きで且つ西方を向いている。正殿に大国主(大己貴尊)、左殿に多紀理姫命、右殿に正妻の須世理姫命を祀っている。瑞垣内東西に三摂社あり、本殿を中央に東に御向社と天前社、西に筑紫社がある。この三社の順序は昔から筑紫社、御向社、天前社となっていて、しかも社殿の基礎工事や建築資材は筑紫社が最も丁寧であり、美材を以てこれにあてている。本殿を通り越したところにはスサノオを祀る素鵞(そが)社が存在する。こうなると、参拝者は大国主命ではなくスサノオを拝んでいることになる。ソガと言えば蘇我氏を連想する。実際、大化の改新で暗殺された蘇我入鹿(そがのいるか)がこの社で歌を詠んだとされる。これによると、蘇我氏が出雲王朝と深い関係があったことになる。通説は渡来系とされているので、この辺りの解析を要する。蘇我氏を出雲系と了解すると、仏教導入の際に崇神派の物部氏と数蘇我氏が受仏論争、抗争を引き起こした経緯が分からなくなる。物部氏論、蘇我氏論の再考が促されることになる。大社の西は稲佐の浜である。 この社は、八雲山から突き出た大きな磐座(いわくら)を背負うように建てられている。もともとは、この岩磐および八雲山が崇拝されていた所に、出雲大社は建てられたとのいわれもあるようだ。よく知る地元の人は、この社をぐるりと回るという。 |
【出雲大社の威容】 | ||||
出雲大社の建立につき、古事記は次のように記している。
日本書紀は次のように記している。
平安時代の源為憲著「口遊(くちずさみ)」(970(天禄元)年頃成る。源為憲が、為光の子の松雄の教科書として起草したもので、教養として承知しておくべき文句などを乾象・時節以下一九門に分ち記している)に、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」という言葉が記されている。原文は次の通りである。
井沢元彦氏は著書「逆説1 古代黎明編」(文庫版)のP177で次のように解説している。(「雲太、和二、京三」参照)
「雲太、和二、京三」は当時の建造物の大きさを語ったもので、雲太は出雲太郎のことで出雲大社、和二は大和二郎で東大寺大仏殿、京三は京都三郎のことで平安京大極殿を意味している。出雲、大和、京都の順に記されており、「建造物の大きさ」のみならず都の移動と云う裏意味も込められているようにも窺われる。 ところで、出雲大社本殿は、高さ16丈(1丈は役.03m、約48m)、あるいは32丈(約97m)もあったと云い伝えられており、かってはデタラメと相手にされなかったが、この伝承の正しさが立証された。2000(平成12)年、出雲大社改築のための地下室工事に先駆けた発掘調査で、11世紀から13世紀(平安時代から鎌倉時代)頃の地層から、1本の柱材の太さが1m35cm、これを3本組み合わせ、合計で3mになる巨大木柱が姿を現した。出雲国造家(こくぞうけ)の千家(せんげ)家に伝わる「金輪御造営指図」(かなわおんぞうえいさしず)に描かれていた図面通りであった。更に発掘を進めた結果、本殿の中心に位置する心御柱と東南部の側柱が発見され、測量してみると、かっての本殿が横に長い長方形という、他に例のない特異な社殿形をしていたことも判明した。この形は、「金輪御造営指図」の正方形をした設計図とも違い、新たな謎を生んでいる。 出雲大社は、現在の本殿が建立されるまでに数次建て替えられている。1031(長元4)年から1235(嘉禎元)年の約200年間に6回も倒れ、その都度遷宮が繰り返され、再建されている。発見された巨大木柱群は、1248(宝治2)年に造営された本殿柱であったことが判明した。現在の本殿は、1744(延享4)年の造営である。 |
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国譲り譚は、出雲王朝が高天原王朝に政権を譲り、辛うじて出雲大社信仰で生き延びていく事になったことを明らかにしている。出雲大社はその後、大国主の命伝説と共に原日本人の精神界に大きな影響を与え続けていくことになった。出雲大社の威容はこれを証していることになる。 2008.4.6日 れんだいこ拝 |
【出雲大社系神道の伊勢神宮系との違い】 | ||
出雲大社系神道では、伊勢神宮系のそれと何もかもがあべこべになっている。出雲大社の巨大な注連縄(しめなわ)は、縄の縒(よ)りかたが世間一般の神社の縒りかたと正反対になっている。「ヒツギの神事」も違う。伊勢神宮系は、「日継ぎ」の神事を行う。それに対して、出雲大社では、祖神・天穂日命(あめのほひの命)の霊を継いで「火継ぎ」の神事を行う。暦法で、旧暦の十月は神無月(かんなづき)であるが、出雲では「神在月」(かみありづき)と云う。日本中の神様が、この時出雲に集まっていた故事から来ていると云う。古墳も違う。大和には前方後円墳が見られるが、出雲では前方後方墳となっている。 | ||
明治23年4月に40歳で来日し、8月に英語教師として松江中学に赴任し、松江に1年3ヶ月滞在したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本に魅せられ、神話の地・出雲を重視した日本研究に生涯を捧げた。日本印象記の中で次のように述べている。
また、ハーンは、杵築というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べている。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べている。 ハーンは、大橋川に掛かった松江大橋が間近に見える富田旅館で二ヶ月間滞在した。その富田旅館から見た、橋と川岸の早朝の様子を描写した文(「神の首都・・・松江」)は、生活に組み込まれた当時の日本人の宗教生活を実に良く描いている。これを確認しておく。
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【出雲大社の御本殿横にある摂社考】 |
「神社と歴史の広場」の「江角 修一」氏の出雲大社考を参照する。 出雲大社の御本殿横にある摂社。出雲大社の御本殿には垣根が二重に張り巡らされている。第一の垣根は八足門によって封じられており、その御本殿瑞垣内に天前社、御向社、筑紫社の3社が並んでいる。このお社は全て大国主命の妻だとされているが不可思議なことがありすぎる。第二の垣根は御本殿を取り囲み、妻たちのお社と隔離されている。そしてこの垣根は楼門によって封じられており、出雲大社宮司しか中に入ることを許されない。どんなに特別な参拝客であっても、天皇陛下であっても中に入ることは許されない。 中に入れるのは60年に一度の遷宮の時だけ。御本殿瑞垣外に、式内社・出雲神社(素鵞社)などが鎮座している。 |
【天前社(あまさきしゃ)】 |
別名/神魂伊能知比売神社(かみむすびいのちひめのかみのやしろ、式内社)。参拝者から見ると右手側、つまり下手側に位置しているお社。(※神道では一般的に右手側を上手、左手側を下手と扱うが、出雲大社は逆に左手側が上手となる) ご祭神は、蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)、蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)の二柱(ふたはしら)。どちらも貝の神様である。この二柱の女神は、大国主命が因幡の国に妻問いに行かれた際、八十神に恨まれ命を狙われ、一旦は命を落とすことになった。ところが、母の必死の願いを聞き届けた神魂(カミムスビ)によって二柱の女神が遣された、見事に大国主命を蘇生させた。この功によりお社にされて祀られている。 |
【御向社(みむかいのやしろ)】 |
別名/大神大后神社(おおかみおおきさきのかみのやしろ、名神大社)。ご祭神は、大国主命の正妻「須勢理姫」。須佐之男命(すさのお)の娘である。 古事記では須勢理姫の誕生についても、誰が須勢理姫の母神なのかについても記述していない。 須佐之男命の御子と言うこと以外は全て謎である。大国主命を「大神」と尊称でお呼びしているので、大神大后となる。 |
【筑紫社(つくしのやしろ)】 |
別名/神魂御子神社(かみむすびみこのかみのやしろ、式内社)。ご祭神は多紀理姫(たきりひめ)。この神は天照大御神と須佐之男命の誓約によって生まれた女神で、古事記によると須佐之男命が持っていた十拳の剣から生まれた女神である。「神魂御子」というお社名が謎である。 多紀理姫をなぜ神魂の御子であると言っているのか? 神魂御子の謎を解くカギは朝山神社のご祭神にあると推理できる。 朝山神社のご祭神は真玉着玉之邑日女命(またまつくたまむらひめのみこと)。出雲風土記に神魂の御子だとはっきり記載されている。「大国主命はこの姫を娶り、毎朝お通いになった。だからこの地を朝山という」とも書かれている。この姫はいったい誰なのか? |
【命主社(いのちぬしのやしろ)】 |
出雲大社摂社/命主社(いのちぬしのやしろ)は出雲大社の境内、北島国造館を東に抜けた所に鎮座する。御祭神は造化の三神のひと柱「神皇産霊神」(かみむすびのかみ)。大国主神が八十神の計略によって猪と偽った焼石を受け止められ難に遭われた際、蚶貝比売命、蛤貝比売神を遣わし大国主神の命を助けられた神とされている。御本殿裏に、銅矛や勾玉が出土した真名井遺跡があり、鎮座地から少し東に行った所に真名井の清水がある。この湧水は島根の名水百選にも選ばれており、出雲大社の古伝新嘗祭に使われる。古伝新嘗祭は、出雲大社の祭事の中でも特に重要な神在月の11月23日に執り行われる一般に言われる新嘗祭が、お米を供える儀式に加え歯固めの儀という儀式が行われ、真名井の清水から取り出した小石を使う。樹齢千年という椋の木がある。元々は巨岩の前に建てられていることから古代の磐座(いわくら)が神社に発展したと考えられる。 |
【三歳社(みとせのやしろ)】 |
事代主神が主祭神として祀られる出雲大社の摂社で、出雲國出雲郡の式内社である神大穴持御子神社の比定社です。出雲国風土記にみえる企豆伎社の中の一社とされている。現在はお詣りに行けるようになっているが、八雲山自体が元々禁足地だった。八雲山の登攀口にあり、かっては祭祀場だったのかもしれない。毎年一月三日に福迎神事が行われ福柴と福茅が授与される。 |
【大穴持御子玉江神社考】 |
大穴持御子玉江神社は島根県出雲市大社町修理免鎮座。下照比売命を御祭神として祀る出雲国出雲郡の式内社で、出雲大社の境外摂社のひとつ。出雲国風土記では企豆伎社の一社とされており、現在は乙)社と呼ばれています。下照比売命は、大国主大神と多紀理比売命との間に生まれた御子神で、後に、高天原から国土奉献の使者として天降られた天若日子神の妃となられている。 |
【若宮神社考】 |
若宮神社。島根県松江市玉湯町布志名。御祭神、由緒/不明。御神紋/亀甲に一。
「布自奈大穴持神社」について、古文書に「境内社に若宮神社あり」とある。「若宮神社」は境内外社として各社に祀られている。1・基本的には本宮の摂・末社として主祭神の御子を祀る社。2・本宮の主祭神の分霊を勧請した社。3・非業の死を遂げた霊を慰め鎮める為に祀った社。4・神事の奉仕の際に亡くなられた方を哀れんで祀った社などの社である。 島根県松江市玉湯町布志名の若宮神社が「布自奈大穴持神社」の元境内社とすれば、「布自奈社=布自奈大穴持神社」で、御祭神が須佐之男命→大穴持命へ。「同布自奈社=布自府神社(境内社)」で、御祭神が大穴持命→事代主命へといつの時代にか変更されており、「布自奈大穴持神社」との関係の奥深い社であることが伺える。 |
【出雲井神社】 |
出雲大社の近く(真名井の清水を更に東に向かう)と島根県出雲市大社町修理免鎮座の出雲井神社がある。出雲大社の境外摂社のひとつである。ひっそりと佇む祭神はクナトの大神。幸神三神が斉の神、障の神、塞の神、岐の神などの神、道祖神と様々な名で各地で祀られている。村や集落の入り口のお地蔵様もサイノカミかもしれない。道切りや勧請縄も同じ役目なので元は一緒なのかなとも思う。歴史の深さを感じる神様です云々。 |
岐神は、黄泉津平坂で伊弉冉命から逃げる伊弉諾命が投げられ杖から化生した神とされている。大国主大神が国を譲られた際、大国主大神の命によって経津主神に従い諸国平定に力を尽くされた神とされている。この出雲井神社を代々守ってきたのが富家とされており、本来出雲神族が祀った神社は出雲大社ではなく、この出雲井神社であったという説がある。御社殿の背後には磐座がある。 |
【稲佐の浜、因佐(いなさ)神社】 |
八百万の神々は琴引山を目指して来られ、神戸川を下って神戸川沿いにある朝山神社に立ち寄られる。次に海へ出て稲佐の浜に向かう。 |
島根県出雲市大社町、記紀にもみえる国譲りの舞台である稲佐の浜、弁天島。旧暦十月十日には、出雲に集まる全国の神々がこの稲佐の浜から上陸されると伝わっており、現在も神迎の神事が行われている。弁天島は、その名の通りかつては弁財天がまつられていたが現在は豊玉毘古命が祀られている。 |
島根県出雲市大社町杵築北鎮座の因佐(いなさ)神社です。建御雷神を御祭神として祀る出雲国出雲郡の式内社で、出雲大社の境外摂社。すぐ近くに大国主大神と建御雷神の国譲りの交渉の場となった屏風岩がある。現在は一般に速玉社と呼ばれている。 |
【恵曇神社】 |
恵曇神社ハ惠曇町の惠曇神社ト畑垣の恵曇神社ト
同町内に二社あり、「恵杼毛社」を巡り論社となっていたが、惠曇町の惠曇神社が式内に比定され、(畑垣)恵曇神社ガ郷社となっていル。(畑垣)恵曇神社ハ島根県松江市鹿島町佐陀本郷 、御祭神/磐坂日子命。天文年間(1535~1555)の建立と伝えられていル。出雲國風土記記載の「恵杼毛社」ニハ、国内をご巡行になった磐坂日子命(素盞嗚尊の御子神)が、「ここは地域が若々しく端正で美しい。土地の外見が絵鞆(えとも:絵に描いた鞆(弓を射るときに左手首の内側に付ける装身具))のようだ。私の宮をここに造り、祭り仕えよ」と仰有られたことから地名が名付けられたトイウ。境内地後方に、その時に命が腰掛けられたと伝えられる「蔵王さん」とよばれる巨石が祀られていル。御祭神の「磐坂」は「磐境」と同義であり、御神体そのものでともいわれていル。 神在月になると八百万の神々は、「出雲國総社・六所神社」にお集まりになル。龍蛇神様(背黒海蛇)の先導で、ゑづみ津の濱(同町の古浦地区辺り)にお着きになリ、「恵曇神社」デ休息されてから佐太神社に向かわれると伝えられていル。 |
【出雲大社参拝経路考】 |
第1番、出雲大社。第2番、鰐淵寺。第3番、一畑寺(薬師)。第4番、佐太神社。第5番、月照寺。正式参拝ルートは、二の鳥居→祓社→下り参道→三の鳥居→松の参道→四の鳥居→拝殿→八足門→東十九社→釜社→素鵞社→西の拝所→氏社→西十九社...。参道、神苑にホトトギスの鳴き声が響き渡っている。その後、神楽殿から境内を出て、神謀りの会議場・上ノ宮→下ノ宮→因佐神社を経て、
稲佐の浜の弁天島(豊玉毘古命)参拝で帰路に着く。
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【出雲國 神仏 霊場】 |
第1番、出雲大社。第2番、鰐淵寺。第3番、一畑寺(薬師)。第4番、佐太神社。第5番、月照寺。 |
【出雲大社の遷宮考】 | ||
フリーランスライター福島朋子の2015.4.11日付けブログ「出雲大社の遷宮から考える日本の森林資源と建築技術の継承について」。
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(私論.私見)