日本神道の歴史4、出雲神道、出雲大社考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本神道は、国譲り政変以降、高天原王朝の伊勢神道と出雲王朝の出雲神道の二派に分かれ、両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。特徴的なことは、諸外国のそれと違い、暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになんる。

 2008.4.7日 れんだいこ拝


【出雲大社創建譚】
 古事記の日本神話―国譲り譚によれば、大国主が出雲王朝を明け渡し、引退する旨表明した際、その代償として、私の住む所として相応しい壮大な宮殿を造ってくれるのなら国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょうと告げ、これが了承されて造営されたのが出雲大社の始まりであるという。当初は、多芸志(たぎし)のお浜(現在どの辺りか不明)に殿舎を造り、水戸神(みなとのかみ、河口を掌る神)の孫に当たる櫛八玉神(くしやたまのかみ)が御*(みけ)を奉る等、神事を司った。次のように記されている。
 「これの我が*(き)れる火は、高天原には神産巣日御祖命(かみむすびのみおやのみこと)の、登陀流天(とだるあめ)の新巣(にいす)のすすの、八挙(やつか)垂るまで焼き挙げ、地の下は、底津石根(そこついわね)に焼き凝らして、*(たく)縄の千尋(ちひろ)縄打ち延(は)え、釣為し海人(あま)の、口大(くちおお)の尾翼鱸(おはたすずき)、佐和佐和邇(さわさわに)、控(ひ)き依せ騰(あ)げて、打竹(さきたけ)の、登遠遠(とおお)登遠遠邇、天の真魚*(ぐい)、献(たてまつ)る」。

 出雲風土記の出雲郷の条に次のように記されている。
 「ヤツカミヅオミツヌの神の国引き給いし後に天下造らしし大神の宮奉えまつらんとして諸々の皇神たち宮処に参集いて杵築きたまいき」。

 以降、出雲王朝の末裔は出雲大社の神主、氏子として生き延びていくことになる。これを仮に「国譲り譚その10」とする。 以上の10コマを「国譲り譚」と云う。日本書紀には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと、天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造となり、出雲王朝支配の代官として派遣されたとある。こうして出雲国造が登場し、現在まで継承されている。


 その後、出雲神道として息づいていくことになる。出雲神道には次のような特徴が認められる。
 「こうして、大国主は引退し、出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に神聖な神殿を造り、クシヤ玉神が身の回りの世話をすることになった。出雲大社は精神界に生き延び、縁結びの神として信仰されていくことになった。特徴的なことは、伊勢神宮系が二拝・二拍手・一礼のところ、宇佐八幡宮と共に二拝・四拍手・一礼を作法としている。又、軒下にかかるしめ縄は、伊勢神宮系とは逆に締めており、長さ13m、最大太さ8m、重さ5トン、2万6千束のわら束を使った日本一巨大しめ縄を飾っている。

 出雲大社社伝によれば、出雲国造のアメノホヒの命が、出雲大社宮の祭主となった時、熊野大神の櫛ミケヌの命から火きり臼、火きり杵を授かり、以来同様に代々一世一代の神火相続儀式となる火継ぎ神事が執行されている」。
 クシヤタマ神=櫛八玉神。
(私論.私見)
 「出雲大社譚」は、大国主が出雲大社の祭神として生き延びたことを明らかにしている。天穂日命の子孫が出雲国造が祭祀を司るが、この出雲国造神道と大国主の命系の出雲神道がどう対立し、その後融合するのかも確認したい。興味深いことは、出雲王朝はいわば地下に潜ったが、その後の政治経済文化に陰に陽に影響を及ぼし、日本歴史の裏面を形成していくことである。ここを見ないと、日本政治の特質が何も分からないことになる。

 2008.4.6日 れんだいこ拝

【出雲大社考】
 宍道湖西部の斐伊川と神門川流域の沖積平野で発達した西出雲は、暴れ川でもあった両河川と格闘しながらも弥生中期以降、地域勢力を中心にキツキの神(出雲大社)を守護神として小国を形成してきた。

【出雲大社の建築様式考、祭神考】
 神社建築には「大社造」と「神明造」と云う大きく分けて2つの形式がある。他にも流造、八幡造、住吉造、春日造など様々あるが全てこの2つの建築様式から発展している。神明造(しんめいづくり)は伊勢神宮に代表される建築様式である。屋根が平になった側に入口が付いているため「平入り」(ひらいり)と呼ばれる。お米などの穀物を保管する倉庫から発展した建築様式であり部屋内に柱などの障害物がない。御神座はお部屋の真ん中に置かれ、入口と相対している。大社造(たいしゃづくり)は出雲大社に代表される建築様式である。入口は屋根が妻になった側に付いているため「妻入り」と呼ばれる。住居から発展した建築様式である。屋根を伝い落ちてくる雨水が、建物に出入りする人にかからないようにするため妻入りが採用されたと考えられている。御神座は寝床の位置の奥に置かれ、入口との間に間仕切り壁がある。神社や神棚は一般的に東か南を向いているが、出雲大社の御本殿入口は南を向いている為、御神体は西向きになっている。1番古い大社造は神魂神社である。ここは王家の住居だったといわれている。大社造はのちに大鳥造へと進化発展して、より神殿に相応しい形となった。(「江角修一‎/神社と歴史の広場」参照)
 不思議なことに、出雲大社の建立につき、出雲風土記にはわずかしか触れられていない。且つ国譲りの代わりに大きな社を建ててもらったとは書いていない。祭神の大国主命にしても出雲で祀っている神社は他にはほとんどない。スサノオを祀る神社は全国に分布しているが、大国主を祀る神社の数は比べものにならないほど少ない。但し、大国主命は多くの別名を持っており、その名の神を祀っている神社は存在する。

 出雲大社は大国主大神を主祭神として祀る出雲国出雲郡の名神大社で同国一宮。御祭神の大国主大神については、国史の神代記に詳細がみえるが、出雲国風土記では大穴持命、又は所造天下大神大穴持命とされている。中世、出雲の国引き、国造りの神を素戔嗚尊としていた時期があり、素戔嗚尊が主神として祀られていたが、寛文年間の出雲国造家による神仏分離策で、記紀の記載に沿って再度主神を大国主大神に復した歴史がある。


 
本殿の御神座とされる大国主命は、拝殿正面に対して横向きで且つ西方を向いている。正殿に大国主(大己貴尊)、左殿に多紀理姫命、右殿に正妻の須世理姫命を祀っている。瑞垣内東西に三摂社あり、本殿を中央に東に御向社と天前社、西に筑紫社がある。この三社の順序は昔から筑紫社、御向社、天前社となっていて、しかも社殿の基礎工事や建築資材は筑紫社が最も丁寧であり、美材を以てこれにあてている。本殿を通り越したところにはスサノオを祀る素鵞(そが)社が存在する。こうなると、参拝者は大国主命ではなくスサノオを拝んでいることになる。ソガと言えば蘇我氏を連想する。実際、大化の改新で暗殺された蘇我入鹿(そがのいるか)がこの社で歌を詠んだとされる。これによると、蘇我氏が出雲王朝と深い関係があったことになる。通説は渡来系とされているので、この辺りの解析を要する。蘇我氏を出雲系と了解すると、仏教導入の際に崇神派の物部氏と数蘇我氏が受仏論争、抗争を引き起こした経緯が分からなくなる。物部氏論、蘇我氏論の再考が促されることになる。大社の西は稲佐の浜である。

 この社は、八雲山から突き出た大きな磐座(いわくら)を背負うように建てられている。もともとは、この岩磐および八雲山が崇拝されていた所に、出雲大社は建てられたとのいわれもあるようだ。よく知る地元の人は、この社をぐるりと回るという。

【出雲大社の威容】
 出雲大社の建立につき、古事記は次のように記している。
 「高皇産霊神、天照大神が、大国主神の為に出雲の多芸志の小浜に底津石根(そこついわね)の宮柱太しり、高天原に氷木(千木)たかしりて造らせしめ給う」。

 日本書紀は次のように記している。
 「千尋のたく縄を以って百八十紐(ももやそむすび)に結い、柱は高く太く、板は広く厚くしてこの社を造った」。

 平安時代の源為憲著「口遊(くちずさみ)」(970(天禄元)年頃成る。源為憲が、為光の子の松雄の教科書として起草したもので、教養として承知しておくべき文句などを乾象・時節以下一九門に分ち記している)に、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」という言葉が記されている。原文は次の通りである。
 「居處門 三曲(略)雲太。和二。京三。謂大屋誦。今案。雲太。謂出雲國城築明神ゝ殿。在出雲郡。和二。謂大和國東大寺大佛殿。在添上郡。京三。謂大極殿八省」。

 井沢元彦氏は著書「逆説1 古代黎明編」(文庫版)のP177で次のように解説している。(「雲太、和二、京三」参照)
 「雲太とは出雲太郎の略で、これは出雲大社のこと。和二とは大和二郎で大和(奈良県)にある東大寺大仏殿。京三とは京三郎で京都の大極殿(御所の中心の建物)のことだ。つまり、これは日本の三大建築物を、大きい順に、所在地を姓として『太郎・二郎・三郎』で表したものなのだ。出雲大社は日本最大の建築物だったのである」。

 「雲太、和二、京三」は当時の建造物の大きさを語ったもので、雲太は出雲太郎のことで出雲大社、和二は大和二郎で東大寺大仏殿、京三は京都三郎のことで平安京大極殿を意味している。出雲、大和、京都の順に記されており、「建造物の大きさ」のみならず都の移動と云う裏意味も込められているようにも窺われる。

 ところで、出雲大社本殿は、高さ16丈(1丈は役.03m、約48m)、あるいは32丈(約97m)もあったと云い伝えられており、かってはデタラメと相手にされなかったが、この伝承の正しさが立証された。2000(平成12)年、出雲大社改築のための地下室工事に先駆けた発掘調査で、11世紀から13世紀(平安時代から鎌倉時代)頃の地層から、1本の柱材の太さが1m35cm、これを3本組み合わせ、合計で3mになる巨大木柱が姿を現した。出雲国造家(こくぞうけ)の千家(せんげ)家に伝わる「金輪御造営指図」(かなわおんぞうえいさしず)に描かれていた図面通りであった。更に発掘を進めた結果、本殿の中心に位置する心御柱と東南部の側柱が発見され、測量してみると、かっての本殿が横に長い長方形という、他に例のない特異な社殿形をしていたことも判明した。この形は、「金輪御造営指図」の正方形をした設計図とも違い、新たな謎を生んでいる。

 出雲大社は、現在の本殿が建立されるまでに数次建て替えられている。1031(長元4)年から1235(嘉禎元)年の約200年間に6回も倒れ、その都度遷宮が繰り返され、再建されている。発見された巨大木柱群は、1248(宝治2)年に造営された本殿柱であったことが判明した。現在の本殿は、1744(延享4)年の造営である。
(私論.私見)
 国譲り譚は、出雲王朝が高天原王朝に政権を譲り、辛うじて出雲大社信仰で生き延びていく事になったことを明らかにしている。出雲大社はその後、大国主の命伝説と共に原日本人の精神界に大きな影響を与え続けていくことになった。出雲大社の威容はこれを証していることになる。

 2008.4.6日 れんだいこ拝

【出雲大社系神道の伊勢神宮系との違い】
 出雲大社系神道では、伊勢神宮系のそれと何もかもがあべこべになっている。出雲大社の巨大な注連縄(しめなわ)は、縄の縒(よ)りかたが世間一般の神社の縒りかたと正反対になっている。「ヒツギの神事」も違う。伊勢神宮系は、「日継ぎ」の神事を行う。それに対して、出雲大社では、祖神・天穂日命(あめのほひの命)の霊を継いで「火継ぎ」の神事を行う。暦法で、旧暦の十月は神無月(かんなづき)であるが、出雲では「神在月」(かみありづき)と云う。日本中の神様が、この時出雲に集まっていた故事から来ていると云う。古墳も違う。大和には前方後円墳が見られるが、出雲では前方後方墳となっている。
 明治23年4月に40歳で来日し、8月に英語教師として松江中学に赴任し、松江に1年3ヶ月滞在したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本に魅せられ、神話の地・出雲を重視した日本研究に生涯を捧げた。日本印象記の中で次のように述べている。
 「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」。

 また、ハーンは、杵築というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べている。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べている。

 ハーンは、大橋川に掛かった松江大橋が間近に見える富田旅館で二ヶ月間滞在した。その富田旅館から見た、橋と川岸の早朝の様子を描写した文(「神の首都・・・松江」)は、生活に組み込まれた当時の日本人の宗教生活を実に良く描いている。これを確認しておく。
 「庭先の川端から手を拍つ音が起こって来る。対岸の埠頭の石段を下りる男女が見える。銘々が帯に小さな青い手拭いを挟んでいて顔と手を洗い口を漱ぐ。これは神道の祈りを捧げる前に必ず行なう潔斎である。それから顔を朝日に向け四たび手を拍って拝む。白色の長い高い橋の上からも、他の柏手の音が反響の如くに出でてくる。あの異様な形の船の上から、手も足も裸の漁師が黄金色した東雲の空を拝んでいるのだ。もはや柏手の音が増して殆ど鋭い音の連発となった。それは人々が皆な 朝日-お日さま-天照大神を拝んでいるからだ。朝日に向かってだけ手を拍つ者もあるが、大概は西の出雲大社へ向かってもそうする。顔を東西南北へ次々に向けて群神の名を微唱するものさえ随分ある。天照大神を拝した後で一畑山の高峰を眺めて盲人の眼を開き給う薬師如来の大伽藍のある所に向かい仏教の様式に随って掌を合せながら軽く擦るものもある。・・・・。手を拍つ音がやんで1日の仕事が始まり出す。カラカラと下駄の音が段々高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、どうしても忘れられない」。

【出雲大社の御本殿横にある摂社考】
 「神社と歴史の広場」の「江角 修一」氏の出雲大社考を参照する。

 出雲大社の御本殿横にある摂社。出雲大社の御本殿には垣根が二重に張り巡らされている。第一の垣根は八足門によって封じられており、その御本殿瑞垣内に天前社、御向社、筑紫社の3社が並んでいる。このお社は全て大国主命の妻だとされているが不可思議なことがありすぎる。第二の垣根は御本殿を取り囲み、妻たちのお社と隔離されている。そしてこの垣根は楼門によって封じられており、出雲大社宮司しか中に入ることを許されない。どんなに特別な参拝客であっても、天皇陛下であっても中に入ることは許されない。 中に入れるのは60年に一度の遷宮の時だけ。御本殿瑞垣外に、式内社・出雲神社(素鵞社)などが鎮座している。
  【天前社(あまさきしゃ)】
 別名/神魂伊能知比売神社(かみむすびいのちひめのかみのやしろ、式内社)。参拝者から見ると右手側、つまり下手側に位置しているお社。(※神道では一般的に右手側を上手、左手側を下手と扱うが、出雲大社は逆に左手側が上手となる) ご祭神は、蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)、蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)の二柱(ふたはしら)。どちらも貝の神様である。この二柱の女神は、大国主命が因幡の国に妻問いに行かれた際、八十神に恨まれ命を狙われ、一旦は命を落とすことになった。ところが、母の必死の願いを聞き届けた神魂(カミムスビ)によって二柱の女神が遣された、見事に大国主命を蘇生させた。この功によりお社にされて祀られている。
  【御向社(みむかいのやしろ)】
 別名/大神大后神社(おおかみおおきさきのかみのやしろ、名神大社)。ご祭神は、大国主命の正妻「須勢理姫」。須佐之男命(すさのお)の娘である。 古事記では須勢理姫の誕生についても、誰が須勢理姫の母神なのかについても記述していない。 須佐之男命の御子と言うこと以外は全て謎である。大国主命を「大神」と尊称でお呼びしているので、大神大后となる。
 【筑紫社(つくしのやしろ)】
 別名/神魂御子神社(かみむすびみこのかみのやしろ、式内社)。ご祭神は多紀理姫(たきりひめ)。この神は天照大御神と須佐之男命の誓約によって生まれた女神で、古事記によると須佐之男命が持っていた十拳の剣から生まれた女神である。「神魂御子」というお社名が謎である。 多紀理姫をなぜ神魂の御子であると言っているのか? 神魂御子の謎を解くカギは朝山神社のご祭神にあると推理できる。 朝山神社のご祭神は真玉着玉之邑日女命(またまつくたまむらひめのみこと)。出雲風土記に神魂の御子だとはっきり記載されている。「大国主命はこの姫を娶り、毎朝お通いになった。だからこの地を朝山という」とも書かれている。この姫はいったい誰なのか?
 【命主社(いのちぬしのやしろ)】

 出雲大社摂社/命主社(いのちぬしのやしろ)は出雲大社の境内、北島国造館を東に抜けた所に鎮座する。御祭神は造化の三神のひと柱「神皇産霊神」(かみむすびのかみ)。大国主神が八十神の計略によって猪と偽った焼石を受け止められ難に遭われた際、蚶貝比売命、蛤貝比売神を遣わし大国主神の命を助けられた神とされている。御本殿裏に、銅矛や勾玉が出土した真名井遺跡があり、鎮座地から少し東に行った所に真名井の清水がある。この湧水は島根の名水百選にも選ばれており、出雲大社の古伝新嘗祭に使われる。古伝新嘗祭は、出雲大社の祭事の中でも特に重要な神在月の11月23日に執り行われる一般に言われる新嘗祭が、お米を供える儀式に加え歯固めの儀という儀式が行われ、真名井の清水から取り出した小石を使う。樹齢千年という椋の木がある。元々は巨岩の前に建てられていることから古代の磐座(いわくら)が神社に発展したと考えられる。

 【三歳社(みとせのやしろ)】
 事代主神が主祭神として祀られる出雲大社の摂社で、出雲國出雲郡の式内社である神大穴持御子神社の比定社です。出雲国風土記にみえる企豆伎社の中の一社とされている。現在はお詣りに行けるようになっているが、八雲山自体が元々禁足地だった。八雲山の登攀口にあり、かっては祭祀場だったのかもしれない。毎年一月三日に福迎神事が行われ福柴と福茅が授与される。

【大穴持御子玉江神社考】
 大穴持御子玉江神社は島根県出雲市大社町修理免鎮座。下照比売命を御祭神として祀る出雲国出雲郡の式内社で、出雲大社の境外摂社のひとつ。出雲国風土記では企豆伎社の一社とされており、現在は乙)社と呼ばれています。下照比売命は、大国主大神と多紀理比売命との間に生まれた御子神で、後に、高天原から国土奉献の使者として天降られた天若日子神の妃となられている。

【若宮神社考】
 若宮神社。島根県松江市玉湯町布志名。御祭神、由緒/不明。御神紋/亀甲に一。

 「布自奈大穴持神社」について、古文書に「境内社に若宮神社あり」とある。「若宮神社」は境内外社として各社に祀られている。1・基本的には本宮の摂・末社として主祭神の御子を祀る社。2・本宮の主祭神の分霊を勧請した社。3・非業の死を遂げた霊を慰め鎮める為に祀った社。4・神事の奉仕の際に亡くなられた方を哀れんで祀った社などの社である。

 島根県松江市玉湯町布志名の若宮神社が「布自奈大穴持神社」の元境内社とすれば、「布自奈社=布自奈大穴持神社」で、御祭神が須佐之男命→大穴持命へ。「同布自奈社=布自府神社(境内社)」で、御祭神が大穴持命→事代主命へといつの時代にか変更されており、「布自奈大穴持神社」との関係の奥深い社であることが伺える。

【出雲井神社】
 出雲大社の近く(真名井の清水を更に東に向かう)と島根県出雲市大社町修理免鎮座の出雲井神社がある。出雲大社の境外摂社のひとつである。ひっそりと佇む祭神はクナトの大神。幸神三神が斉の神、障の神、塞の神、岐の神などの神、道祖神と様々な名で各地で祀られている。村や集落の入り口のお地蔵様もサイノカミかもしれない。道切りや勧請縄も同じ役目なので元は一緒なのかなとも思う。歴史の深さを感じる神様です云々。
 岐神は、黄泉津平坂で伊弉冉命から逃げる伊弉諾命が投げられ杖から化生した神とされている。大国主大神が国を譲られた際、大国主大神の命によって経津主神に従い諸国平定に力を尽くされた神とされている。この出雲井神社を代々守ってきたのが富家とされており、本来出雲神族が祀った神社は出雲大社ではなく、この出雲井神社であったという説がある。御社殿の背後には磐座がある。

【稲佐の浜、因佐(いなさ)神社】
 八百万の神々は琴引山を目指して来られ、神戸川を下って神戸川沿いにある朝山神社に立ち寄られる。次に海へ出て稲佐の浜に向かう。
 島根県出雲市大社町、記紀にもみえる国譲りの舞台である稲佐の浜、弁天島。旧暦十月十日には、出雲に集まる全国の神々がこの稲佐の浜から上陸されると伝わっており、現在も神迎の神事が行われている。弁天島は、その名の通りかつては弁財天がまつられていたが現在は豊玉毘古命が祀られている。
 島根県出雲市大社町杵築北鎮座の因佐(いなさ)神社です。建御雷神を御祭神として祀る出雲国出雲郡の式内社で、出雲大社の境外摂社。すぐ近くに大国主大神と建御雷神の国譲りの交渉の場となった屏風岩がある。現在は一般に速玉社と呼ばれている。

【恵曇神社】
 恵曇神社惠曇町の惠曇神社ト畑垣恵曇神社ト 同町内に二社あり、「恵杼毛社」を巡り論社となっていたが、惠曇町の惠曇神社が式内に比定され、(畑垣)恵曇神社ガ郷社となっていル。(畑垣)恵曇神社ハ島根県松江市鹿島町佐陀本郷 、御祭神/磐坂日子命。天文年間(1535~1555)の建立と伝えられていル。出雲國風土記記載の「恵杼毛社」ニハ、国内をご巡行になった磐坂日子命(素盞嗚尊の御子神)が、「ここは地域が若々しく端正で美しい。土地の外見が絵鞆(えとも:絵に描いた鞆(弓を射るときに左手首の内側に付ける装身具))のようだ。私の宮をここに造り、祭り仕えよ」と仰有られたことから地名が名付けられたトイウ。境内地後方に、その時に命が腰掛けられたと伝えられる「蔵王さん」とよばれる巨石が祀られていル。御祭神の「磐坂」は「磐境」と同義であり、御神体そのものでともいわれていル。

 神在月になると八百万の神々は、「出雲國総社・六所神社」にお集まりになル。龍蛇神様(背黒海蛇)の先導で、ゑづみ津の濱(同町の古浦地区辺り)にお着きになリ、「恵曇神社」デ休息されてから佐太神社に向かわれると伝えられていル。

【出雲大社参拝経路考】
 第1番、出雲大社。第2番、鰐淵寺。第3番、一畑寺(薬師)。第4番、佐太神社。第5番、月照寺。正式参拝ルートは、二の鳥居→祓社→下り参道→三の鳥居→松の参道→四の鳥居→拝殿→八足門→東十九社→釜社→素鵞社→西の拝所→氏社→西十九社...。参道、神苑にホトトギスの鳴き声が響き渡っている。その後、神楽殿から境内を出て、神謀りの会議場・上ノ宮→下ノ宮→因佐神社を経て、 稲佐の浜の弁天島(豊玉毘古命)参拝で帰路に着く。

【出雲國 神仏 霊場】

 第1番、出雲大社。第2番、鰐淵寺。第3番、一畑寺(薬師)。第4番、佐太神社。第5番、月照寺。


【出雲大社の遷宮考】
 フリーランスライター福島朋子の2015.4.11日付けブログ「出雲大社の遷宮から考える日本の森林資源と建築技術の継承について」。
 2013年に平成の大遷宮を行った出雲大社。新しくふき替えられた屋根が眩しい。全国の寺社の中でも巨大神殿を誇り、本殿のその高さは約24m、大屋根の面積で言えば180坪という破格の大きさだ。お話を伺った島根県立古代出雲歴史博物館 専門学芸員の岡 宏三氏。「遷宮は単なる祭事ではなく、日本の森林資源の課題にも深く結びつく」と鋭い視点を投げかける。出雲大社境内遺跡から出土した、鎌倉時代に造営された本殿の柱と推定される「宇豆柱」。杉の大木3本を1組みにし、合わせた直径は3mにもなる。出雲大社大屋根ぼ檜皮(ひわだ)の実物。平成の大遷宮時に撤去されたものの一部が展示されている。この厚みをみても、総数64万枚を揃える苦労がしのばれる。
 造営ではなく、修繕遷宮が意味するもの

 2013年に平成の大遷宮を行った出雲大社。伊勢神宮の遷宮も重なり注目を集めたのは記憶に新しいところだろう。しかし同じ遷宮といっても、両社には違いがある。まず、伊勢神宮が20年に一度遷宮を行うのに対し、出雲大社は60年に一度。伊勢神宮が左右の敷地に交互に社殿を新たに造営するのに対し、出雲大社では社殿の造営ではなく修繕に留まる。遷宮までの間隔が長いこと、そして造営ではなく修繕というのは、古代の建築技術の継承にどのように影響しているのだろうか? さらに、実際に出雲大社の遷宮にまつわる話を聞いてみると、日本が抱える森林資源の問題に直結していることにも気づかされる。今回は、出雲大社の「遷宮」について島根県立古代出雲博物館にお話を伺った。そこから日本古来の建造物や建築技術の継承を考えてみる。

 巨大神殿を誇る出雲大社だからこその苦悩

 出雲大社の「遷宮」を考えるときに、まず頭に入れておかなければならないのは、出雲大社の「巨大さ」だ。本殿のその高さは約24m、大屋根の面積で言えば180坪という破格の大きさだ。本殿には当然ながら入ることはできず、拝殿や周囲の垣根越しにしか様子を伺い知ることはできない。しかし、その垣根越しに見る情景だけでも、その高さ、大きさには圧倒される。筆者も何度か出雲大社を訪れたことがあるが、いつも驚かないように心の準備をしていても、やはり本殿を目の当たりにすると予想を裏切るその大きさに感嘆するばかりだ。現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、1809年(文化六年)、1881年(明治14年)、1953年(昭和二十八年)の三度の修繕の後、2013年の平成の大遷宮に伴う修繕が加えられたものだ。出雲大社の遷宮も、元々は「修理」のみならず建て替えの造営を行っていたが、1744年以降造営は行われていない。また、修繕の遷宮も昭和の遷宮から平成の遷宮の間は60年を守っているが、それ以前は70年余りが経過している。なぜ、造営が途絶え、また修繕でも一定の間隔で行えなかったのか? 島根県立古代出雲歴史博物館 専門学芸員の岡 宏三氏は、出雲大社の遷宮の歴史はその巨大さゆえの「森林資源確保との闘い」だったと説明する。「2000年から2001年にかけて、出雲大社境内から13世紀前半頃(鎌倉時代)と推定される巨大な柱が出土されました。直径約1.35mの巨木を3本組にして1つの柱とするものです。こうした巨木の柱の樹齢を考えると、天然・植林によっても異なりますが、ここまで成長するには天然ならば300年~400年近く、植林であっても200年かかります」。本殿の造営には、もちろん柱だけではなく、ハリやその他の部材に使う木材も必要になる。そのため、こうした巨木が相当数必要になる。現在ではこれほどの木材が入手困難なのはもちろんのことだが、歴史を紐解くと、既に平安末期には資源の調達に苦悩していた記録が残されているそうだ。「1110年の記録には、“出雲大社にほど近い稲佐の浜に、全長30m・直径2.1mの巨木など100本あまりが漂着し、それを出雲大社造営の用材としたが、それでも部材が不足した”といった内容の記載が見られます。また現存の本殿よりも1つ前の遷宮時、1667年(寛文七年)には造営が行われましたが、肝心の柱材が見つかりませんでした。そこで、苦肉の策で使われたのが他県の霊山の御神木です。但馬国妙見山(兵庫県養父市)は名高い霊山として知られ、木の枝を1本拾っても祟りがあると恐れられていたため巨木が存在していたのです。当時妙見山を管理していた日光院に事情を話すと、出雲大社のためならば妙見の神慮にもかなうだろうと、特別に伐採の許可がおりたのです」。その後、現在の社殿の造営時、1744年の遷宮でも同じ手法がとられ、石見当麻山などの霊山から巨木が調達されている。しかしいつまでもこうした対応が可能なわけでもなく、それ以後は修理遷宮へと形を変えていったのだという。

 60年遷宮がもたらす技術継承の難しさ

 こうして出雲大社の遷宮は、造営ではなく、修繕の形へと変遷してくる。2013年の平成の大遷宮では、「大屋根の檜皮(ひわだ)の吹き替え」を中心とした修繕が行われた。簡単に大屋根の修理といっても、その実現には多くの人々の協力と並大抵ではない努力が必要とされる。「檜皮とは、文字通り檜(ひのき)の皮ですが、表の硬い皮を一度剥いで、再生してきた柔らかな薄皮を指します。専門の技術が必要なのはもちろんのことですが、原材料を揃えるのが一苦労です。全国各地の寺社で使われる檜皮が概ね二尺五寸(約75センチ)であるのに対し、出雲大社本殿で使用されるのは、三尺(約90センチ)、三尺五寸(約105センチ)、四尺(約120センチ)という特別なもの。しかも平成の大遷宮で必要とされた枚数は64万枚。それこそ遷宮の何年も前から周到な準備がなされ、兵庫、岡山などの山林から集められました」。現在では既に「造営」の遷宮は森林資源の枯渇から実現できないのだが、屋根の吹き替えだけでも、これだけの苦労が伴う。また、伊勢神宮の20年遷宮と比較しその3倍ともなる60年周期を目指した遷宮は、スパンの長さから技術継承という面でも苦労が多いという。「前回、昭和の遷宮の経験者は存命者であってもすでに80歳を超えています。なかなか聞き取り調査を行っても全貌が見えてこない。そのため、平成の大遷宮時には、過去の文献などを総ざらいして研究し、また実際に屋根を剥がした際の構造などを検証することで先人の知恵をつなごうとしているのです」。こうした検証から、昭和の遷宮では行われなかった技術の復活例も平成の大遷宮では見受けられる。それが「ちゃん塗り」と呼ばれる千木や勝男木の塗装だ。防腐剤の役割を担う塗装なのだが、これまで材料の配合などは分かっていなかった。今回は従来の塗装を赤外線分光分析などで科学的に解明し、試験を繰り返して製法を確定させ、明治以前の様式を実現させている。

 一世一代の文化事業を次世代につなぐ

 また平成の大遷宮では、2009年には本殿大屋根を覆う檜皮が剥ぎ取られ、580平方メートルという膨大な骨組みがあらわになった。ここでも、文献では知りえない技術の検証が必要とされた。一般的な寺社建築がすのこ状の下地を使うのに対し、ここでは下地板が二重に形成されていた。上部の下地は通風を考えたすのこ状のもので、下部の下地は雨水を外に流すための溝が掘られていたという。「こうした細部の構造は、これまで図面に残っていたわけではなく、現物をみてはじめてわかることが多くありました。平成の大遷都では次世代に向け、科学的な見地も含めて技術復活、継承に努めたのです」。檜皮ぶきの作業も、全国で数々の有名社寺のふき替えを手がける岡山の工務店が主導で行ったが、通常の二尺五寸のサイズよりも大幅に長いサイズを扱うため、使用するくぎの数も多くなり、きちんと工夫をして打たないときれいにふくことができなかったという。こうした出雲大社独自の技術継承を行うため、今回の遷宮ではさまざまな寸法を綿密に記録したほか、次世代に向けてビデオや写真といった記録も残す努力がなされている。

 遷宮が語る、自然との共存

 もちろん、将来の遷宮のための部材の確保に向けた長期的な取り組みもなされている。広島県三次市では、出雲大社の氏子たちによる檜皮となる檜の植林が行われた。1ヘクタールあたり300本を目安として、総本数600本~900本の植林を予定されている。しかしこれも現状では十分とは言えない。植林からの採取が見込まれる檜皮は3~4トン。本殿屋根の1割にも届かない。また、初回採取目標の設定は100年後であり、次回60年後に遷宮をするとすれば、そこには間に合わない。今後、将来を見据えた施策が必要とされているが、遷宮というのは、ただ修繕活動を行うその期間だけではなく、気の遠くなるような時間と労力があってはじめて成し遂げられるものなのだ。「遷宮というのは、長い年月と多方面にわたる多くの人々の協力と結束、かつ世の中が平和でなければ成し遂げられないものです。さらに、そこには森林資源が守られていることが絶対条件となります。日本は森林資源の枯渇という面で危機的な状況にあります。これをどう将来的に改善していくのか。遷宮は単なる祭事として側面だけではなく、我々が自然に謙虚に向かいあい、守り伝えて行かなければ、わが国独特の文化を継承できないことを示唆するものだと思うのです」。かつて、神社には本殿は存在していなかったといわれる。古代の人々が畏怖の念を持って崇めたのは山々だった。山そのもの、自然そのものが信仰の対象になったのだ。遷宮はその意味でも我々に原初を忘れず、日々の生き方を顧みさせるきっかけを与えてくれるものなのかもしれない。




(私論.私見)

◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(五) (10/15)
◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四) (10/13)
◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(三) (10/12)
◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二) (10/10)