斎藤茂吉の万葉秀歌考巻17、18、19、20

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日

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 2015.09.07日 れんだいこ拝


斎藤茂吉の万葉秀歌考巻17

巻第十七


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あしひきの山谷やまだに越えてづかさにいまくらむうぐひすのこゑ 〔巻十七・三九一五〕 山部赤人
 山部宿禰赤人やまべのすくねあかひと春※[#「嬰」の「女」に代えて「鳥」、U+9E0E、下-147-5]歌一首であるが、明人と書いた古写本もある(西本願寺本・神田本等)。「野づかさ」は野にある小高い処、野の丘陵をいう。「野山づかさの色づく見れば」(巻十・二二〇三)の例がある。一首は、もう春だから、うぐいす等は山や谷を越え、今は野の上の小高いところで鳴くようにでもなったか、というので、一般的な想像のように出来て居る歌だが、不思議に浮んで来るものがあざやかで、濁りのない清淡ともうべき気持のする歌である。それだから、家の内で鶯の声を聞いて、その声の具合でその場所を野づかさだと推量する作歌動機と解釈することも出来るし、そうする方が「山谷越えて」の句にふさわしいようにもおもうが、併しこの辺のことはそう穿鑿せんさくせずとも鑑賞し得る歌である。「ひさぎ生ふる清き河原に」の時にも少し触れたが、つまりあのような態度で味うことが出来る。巻十七の歌をずうっと読んで来て、はじめて目ぼしい歌に逢着ほうちゃくしたとおもって作者を見ると赤人の作である。赤人の作中にあっては左程でもない歌だが、その他の人の歌の中にあると斯くの如く異彩を放つ、そういう相待上そうたいじょうの価値ということをも吾等は知る必要があるのである。

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ゆき白髪しろかみまでに大君おほきみつかへまつればたふとくもあるか 〔巻十七・三九二二〕 橘諸兄
 聖武天皇の天平てんぴょう十八年正月の日、白雪が積って数寸に至った。左大臣橘諸兄たちばなのもろえが大納言藤原豊成ふじわらのとよなり及び諸王諸臣をて、太上天皇おおきすめらみこと(元正天皇)の御所に参候して雪をはろうた。時にみことのりあって酒をたま肆宴とよのあかりをなした。また、「汝諸王卿等いささか此の雪をしておのおのその歌を奏せよ」という詔があったので、それにこたえ奉った、左大臣橘諸兄の歌である。「降る雪の」は正月のめでたい雪にってこの語があるのだが、「白髪」の枕詞の格に用いた。「白髪までに」は白髪になるまでということで簡潔ないいかたである。「貴くもあるか」は、貴くかしこくありがたいというので、自身を貴く感ずるというのはやがて大君を貴み奉るその結果となるので、これも特有のいい方である。この歌は、謹んで作っているので、重厚なひびきがあり、結句の「貴くもあるか」が一首の中心句をなして居る。この時、紀朝臣清人きのあそみきよひとは、「天の下すでにおほひて降る雪の光を見れば貴くもあるか」(巻十七・三九二三)を作り、紀朝臣男梶おかじは、「山のかひそことも見えず一昨日をとつひも昨日も今日も雪の降れれば」(同・三九二四)を作り、大伴家持は、「大宮の内にもにも光るまでらす白雪見れど飽かぬかも」(同・三九二六)を作って居る。

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たまくしげ二上山ふたがみやまとりこゑこひしきときにけり 〔巻十七・三九八七〕 大伴家持
 大伴家持は、天平十九年春三月三十日、二上山の一首を作った、その反歌である。この二上山は越中射水いみず郡(今は射水・氷見両郡)今の伏木町の西北にそびゆる山である。もう一つの反歌は、「渋渓しぶたにの埼の荒磯ありそに寄する波いやしくしくにいにしへ思ほゆ」(巻十七・三九八六)というのであるが、この「たまくしげ」の歌は、ごうも息を張ることなく、ただ感を流露りゅうろせしめたという趣の歌である。「興に依りて之を作る」と左注にあるが、興のままに、理窟りくつで運ばずに家持流の語気で運んだのはこの歌をして一層なつかしく感ぜしめる。既に出した、大伴坂上郎女の歌に、「よの常に聞くは苦しき喚子鳥よぶこどり声なつかしき時にはなりぬ」(巻八・一四四七)とやや似て居るが、家持の方が単純で素直である。

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婦負めひすすきおしゆき宿やど今日けふかなしくおもほイはゆ 〔巻十七・四〇一六〕 高市黒人
 これは、高市連黒人たけちのむらじくろひとの歌だが、天平十九年に三国真人五百国みくにのまひといおくにという者が誦し伝えたのを、越中にいた家持が録しとどめたもので、「婦負の野」は、和名鈔わみょうしょうには禰比ネヒとあり、今でも婦負郡をネイグンといっている。婦負の野は現在射水郡小杉町から呉羽山にわたる間の平地だろうと云われている。黒人は人麿などと同時代の歌人だが、地名を詠込んであるのを見ると、越中まで来たと考えていいであろう。この一首で、「悲しく思ほゆ」の句が心をく。当時の※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)きりょの実際からこの句が来たからであろう。山部赤人の歌に、「印南野いなみぬ浅茅あさぢおしなべさ宿る夜の日長けながくあれば家し偲ばゆ」(巻六・九四〇)というのがあるが、此歌と関係あるとすると、黒人の此一首も軽々に看過出来ないこととなる。結句は原文「於毛倍遊」でオモハユとも訓んでいる。そうすれば、「おもはる」と同じで、「はろばろに於忘方由流可母オモハユルカモ」(巻五・八六六)、「かぢ取る間なく京師みやこ於母倍由オモハユ」(巻十七・四〇二七)等の例もあるが、四〇二七の「倍」は「保」とも書かれて居り、また「おもほゆ」の用例の方が大部分を占めている。

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珠洲すすうみに朝びらきしてれば長浜ながはまうらつきりにけり 〔巻十七・四〇二九〕 大伴家持
 大伴家持作。「珠洲郡より発船ふなでして治布ちふかへりし時、長浜湾ながはまのうらてて、月光を仰ぎ見て作れる歌一首」という題詞と、「右件みぎのくだりの歌詞は、春の出挙すいこに依りて諸郡を巡行す。当時属目しょくもくする所之を作る」という左注との附いている歌である。治布は治府即ち国府か(全釈)。左注の「出挙」は春、官の稲を貸すこと。「朝びらき」は、朝に船が港を出ることで、「世の中を何にたとへむ朝びらきにし船の跡なきごとし」(巻三・三五一)という沙弥満誓さみのまんぜいの歌があること既にいった如くである。この歌も、何の苦も無く作っているようだが、うちにこもるものがあり、調しらべものびのびとこだわりのないところ、家持の至りついた一つの境界きょうがいであるだろう。特に結句の、「月照りにけり」は、ただ一つ万葉にあって、それが家持の句だということもまた注目にあたいするのである。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻18

巻第十八


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あぶらひかりゆるかづら百合ゆりの花のまはしきかも 〔巻十八・四〇八六〕 大伴家持
 天平感宝てんぴょうかんぽう元年五月九日、越中国府の諸官吏が、少目さかん秦伊美吉石竹はたのいみきいわたけの官舎で宴を開いたとき、主人の石竹が百合の花をかずらに造って、豆器ずきという食器の上にそれを載せて、客人にわかった。その時大伴家持の作った歌である。結句の、「笑まはしきかも」は、美しく楽しくて微笑せしめられる趣である。美しい百合花をあらわすのに、感覚的にいうのも家持の一特徴だが、「あぶら火の光に見ゆる」と云ったのは、流石さすがに家持の物を捉える力量を示すものである。「我がかづら」といったのは、自分の分として頂戴ちょうだいした縵という意味である。

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天皇すめろぎ御代みよさかえむとあづまなるみちのくやま金花くがねはなく 〔巻十八・四〇九七〕 大伴家持
 大伴家持は、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥みちのく国よりくがねを出せる詔書をことほぐ歌一首ならびに短歌」を作った。長歌は百七句ばかりの長篇で、結構も言葉も骨折ったものであり、それに反歌三つあって、此は第三のものである。一首の意は、天皇(聖武)の御代は永遠に栄える瑞象ずいしょうとしてこのたびあずまの陸奥の山から黄金が出た、というので、それを金の花が咲いたと云った。この短歌は余り細かく気を配らずに一いきにいい、言葉の技法もまた順直だから荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれたたいをなしている。結句に「かも」とか「けり」とか「やも」とかが無く、ただ「咲く」と止めたのもこの場合はなはだ適切である。此等の力作をなすに当り、家持はらずらず人麿・赤人等先輩の作を学んで居る。
 続紀しょくきには、天平二十一年二月、陸奥みちのく始めて黄金をみついだことがあり、これは東大寺大仏造営のために役立ち、詔にも、開闢かいびゃく以来我国には黄金は無く、皆外国からのみつぎとして得たもののみであったのに、ちんが統治する陸奥の少田おた郡からはじめて黄金を得たのを、驚き悦びとうとびたもう旨が宣せられてある。また長歌には、「大伴の遠つ神祖かむおやの、其の名をば大来目主おほくめぬしと、ひ持ちて仕へしつかさ、海行かば水漬みづかばね、山ゆかば草むす屍、おほきみのにこそ死なめ、かへりみはせじと言立ことだて」(巻十八・四〇九四)云々とあるもので、家持は生涯の感激を以て此の長短歌を作っているのである。

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このゆるくもほびこりてとのぐもあめらぬかこころだらひに 〔巻十八・四一二三〕 大伴家持
 天平感宝元年うるう五月六日以来、ひでりとなって百姓が困っていたのが、六月一日にはじめて雨雲の気を見たので、家持は雨乞あまごいの歌を作った。此はその反歌で、長歌には、「みどり児の乳乞ちこうがごとく、あまつ水仰ぎてぞ待つ、あしひきの山のたをりに、の見ゆるあまの白雲、海神わたつみの沖つ宮辺みやべに、立ち渡りとのぐもり合ひて、雨も賜はね」云々とあるものである。「この見ゆる」の「この」は「彼の」、「あの」という意である。「ほびこり」は「はびこり」に同じく、「との曇り」は雲の棚びき曇るである。「心足らひに」は心に満足する程に、思いきりというのに落着く。一首は大きくゆらぐ波動的声調を持ち、また海神にも迫るほどの強さがあって、家持の人麿から学んだ結果は、期せずしてこの辺にあらわれている。

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ゆきうへれる月夜つくようめはなりておくらむしきもがも 〔巻十八・四一三四〕 大伴家持
 天平勝宝元年十二月、大伴家持の作ったもので、越中の雪国にいるから、「雪の上に照れる月夜に」の句が出来るので、こういう歌句の人麿の歌にも無いのは、人麿はこういう実際を余り見なかったせいもあるだろう。作歌のおもしろみは這般しゃはんうちにも存じて居り、作者生活の背景ということにも自然関聯かんれんしてくるのである。下の句もまた、越中にあって寂しい生活をしているので、都をおもう情と共にこういう感慨がおのずと出たものと見える。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻19

巻第十九


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はるそのくれなゐにほふももはなしたみち※嬬をとめ[#「女+感」、U+218B3、下-156-4] 〔巻十九・四一三九〕 大伴家持
 大伴家持が、天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑はるのその桃李花ももすもものはなを見て此歌を作った。「くれなゐにほふ」は赤い色に咲きえていること、「した照る道」は美しく咲いている桃花で、桃樹の下かげまで照りかがやくように見える、その下かげの道をいう。「橘のした照る庭に殿立てて酒宴さかみづきいますわが大君かも」(巻十八・四〇五九)、「あしひきの山下やましたひかる黄葉もみぢばの散りのまがひは今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)の例がある。春園に赤い桃花が満開になっていて、其処そこに一人の※嬬おとめ[#「女+感」、U+218B3、下-156-4]の立っている趣の歌で、大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。こういう一種の構成があるのだから、「いで立つをとめ」と名詞止にして、堅く据えたのも一つの新工夫であっただろう。そしてこういう歌風は時代的に漸次に発達したと考えられるが、家持あたりを中心とした一団の作者によって進展したものと考える方がよいようであるし、支那文学乃至美術の影響がようやく浸潤したようにおもえるのである。曹子建の詩に、「南国に佳人あり、容華桃李のごとし」の句がある。なおこういう感覚的な歌には、「なでしこが花見る毎にをとめ等がゑまひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風になび河傍かはび和草にこぐさのにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)などがあり、共に家持の歌だから、この桃の花の歌同様家持の歌の一傾向であったとい得るとおもう。

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はるまけてものがなしきにさけてぶきしぎにかむ 〔巻十九・四一四一〕 大伴家持
 天平勝宝二年三月一日、大伴家持が、「かけしぎを見て」作った歌である。一首の意は、春になって何となく憂愁をおぼえるのに、この夜更よふけに羽ばたきをしながら鴫が一羽鳴いて行った。あゝあの鴫はたれの田に住んでいる鴫だろうか、というのである。「誰が田にか住む」の一句は、恋愛情調にかようものだが、民謡的な一般性を脱して個的な深みが加わって居り、この細みある感傷は前にも云ったように、家持に至って味われる万葉の新歌境なのである。そして家持は娘子おとめなどと贈答している歌よりこういう独居的歌の方が出来のよいのは、心の沈潜によるたまものに他ならぬのである。
 この歌の近くに、「春まけてかく帰るとも秋風に黄葉もみづる山をざらめや」(巻十九・四一四五)、「夜くだちに寝覚めて居れば河瀬かはせこころもしぬに鳴く千鳥かも」(同・四一四六)という歌があり、共に家持の歌であるが、やはり同様の感傷の細みが出来て来ている。「山を超え来ざらめや」、「河瀬尋め」のあたりの語気は、中世紀の幽玄歌に移行するようでも、まだまだ実質を保って、空虚な観念に墜落していない。

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もののふの八十やそをとめまが寺井てらゐうへ堅香子かたかごはな 〔巻十九・四一四三〕 大伴家持
 大伴家持作、堅香子かたかご草の花をぢ折る歌一首という題詞がある。堅香子は山慈姑かたくりで薄紫の花咲き、根から澱粉でんぷんの上品を得る。寺に泉のくところがあって、そのほとりに堅香子の花が咲いている。これは単独でなく群生している。その泉に多くの娘たちが水を汲みに来て、清くとおる声で話しあう、それが可憐かれんでいかにも楽しそうである。物部もののふが多くの氏に分かれているので、「八十」の枕詞とした。此処の「八十をとめ」は、多くの娘たちということ、「まがふ」は、入りまじることだから、此処は入りかわり立ちかわり水汲みに来る趣である。これも前の桃の花の歌に同じく、我妹子にむかって情を告白するのでなく、若い娘等の動作にむかって客観的の美を認めて、それにほんのりした情をべているのである。こういう手法もまた家持の発明と解釈することが出来る。前にあった、「かはづ鳴く甘南備かむなび河にかげ見えて今か咲くらむ山振やまぶきの花」(巻八・一四三五)もまた名詞止だが、幾分色調の差別があるようだ。

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あしひきの八峰やつをきぎしなきとよむ朝けの霞見ればかなしも 〔巻十九・四一四九〕 大伴家持
 大伴家持作、暁に鳴くきぎしを聞く歌、という題詞がある。山が幾重にもたたまっている、その山中の暁にきじが鳴きひびく、そして暁の霧がまだ一面に立ちめて居る。その雉の鳴く山を一面にこめた暁の白い霧を見ると、うら悲しく身にむというのである。この悲哀の情調も、恋愛などと相関した肉体にせつなものでなく、もっと天然に投入した情調であるのも、人麿などになかった一つの歌境とうべきで、家持の作中でも注意すべきものである。「八岑やつお越え鹿しし待つ君が」(巻七・一二六二)、「八峰には霞たなびき、谿たにべには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く、畳まる山のことである。なお集中、「神さぶる磐根いはねこごしきみ芳野よしぬ水分みくまり山を見ればかなしも」(巻七・一一三〇)、「黄葉の過ぎにし子等とたづさはり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「朝鴉あさがらすはやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀すがた見れば悲しも」(巻十二・三〇九五)等の例があるが、家持のには家持の領域があっていい。
 この歌の近くに、「朝床に聞けば遙けし射水いみづ河朝ぎしつつうたふ船人」(巻十九・四一五〇)という歌がある。この歌はあっさりとしているようでただのあっさりでは無い。そして軽浮の気の無いのは独り沈吟の結果に相違ない。

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丈夫ますらををしつべしのちひとかたぐがね 〔巻十九・四一六五〕 大伴家持
 大伴家持作、慕勇士之名歌一首で、山上憶良やまのうえのおくらの歌に追和したと左注のある長歌の反歌である。憶良の歌というのは、巻六(九七八)の、「をのこやもむなしかるべき万代よろづよに語り継ぐべき名は立てずして」というのであった。憶良の歌は病牀にあって歎いたものだが、家持のは、父祖の功績をおもい現在自分の身上を顧みての感慨を吐露したものである。長歌には、「ますらをや空しくあるべき」という句が入ったり、「足引の八峰踏み越え、さしまくる心さやらず、後の代の語りつぐべく、名を立つべしも」という句が入ったり、かく憶良の歌を模倣しているのは、憶良の歌を読んで感奮したからであろう。
 一首の意は、大丈夫たるものは、まさに名を立つべきである。後代その名を聞く人々が、またその名を人々に語り伝えるように、そうありたいものだ、というのである。「がね」は、そういうようにありたいと希望をいい表わしている。「里人もひ継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや」(巻十二・二八七三)、「白玉を包みてやらば菖蒲あやめぐさ花橘にあへもくがね」(巻十八・四一〇二)等の例がある。なお笠金村かさのかなむらが塩津山で作った歌、「丈夫ますらを弓上ゆずゑふり起し射つる矢を後見む人は語り継ぐがね」(巻三・三六四)があって、家持はそれをも取入れて居る。つまり此一首は憶良の歌と金村の歌との模倣によって出来ていると謂ってもいい程である。家持は先輩の作歌を読んで勉強し、自分の力量を段々と積みあげて行ったものであるが、彼は先輩の歌のどういうところを取り用いたかを知るに便利で且つ有益なる歌の一つである。憶良の歌の、「空しかるべき」は切実な句であるが、それは長歌の方に入れたから、これでは「名をし立つべし」とした。憶良の歌に少し及ばないのは既にこの二句の差においてあらわれている。

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このゆきのこるときにいざかな山橘やまたちばなるもむ 〔巻十九・四二二六〕 大伴家持
 大伴家持が、天平勝宝二年十二月雪の降った日にこの歌を作った。山橘は藪柑子やぶこうじで赤い実が成るので赤玉ともいっている。一首は、この大雪が少くなった残雪のころにみんなして行こう。そして山橘の実が真赤に成っているのを見よう、というので、雪の中に赤くなっている藪柑子の実に感興を催したものである。「いざ行かな」と促した語気に、皆と共に行こうという、気乗のしたことがあらわれているし、「実の照るも見む」は美しい句で、家持の感覚の鋭敏を示すものである。なお、家持には、「のこりの雪にあへ照る足引の山橘をつとにつみな」(巻二十・四四七一)という歌もあって、山橘に興味を持っていることが分かる。この巻十九の歌の方がまさっている。

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韓国からくにらはしてかへ丈夫武男ますらたけを御酒みきたてまつる 〔巻十九・四二六二〕 多治比鷹主
 天平勝宝四年うるう三月、多治比たじひ真人鷹主たかぬしが、遣唐副使大伴胡麿宿禰こまろのすくねうまのはなむけして作った歌である。「行き足らはして」は遣唐の任務を充分に果してという意。「御酒」は、祝杯をあげることで、キは酒の古語で、「黒酒くろき白酒しろき大御酒おほみき」(中臣寿詞なかとみのよごと)などの例がある。この一首は、真面目に緊張して歌っているので、こういう寿歌のたいを得たものである。この歌で注意すべきは、「行き足らはして」の句と、「御酒たてまつる」という四三調の結句とであろう。この作者の歌はただ一首万葉集に見えている。

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あらたしきとしはじめおもふどちいれてればうれしくもあるか 〔巻十九・四二八四〕 道祖王
 天平勝宝五年正月四日、石上いそのかみ朝臣宅嗣やかつぐの家で祝宴のあった時、大膳大夫道祖王ふなとのおおきみが此歌を作った。初句、「あらたしき」で安良多之アラタシの仮名書の例がある。この歌は、平凡な歌だけれども、新年の楽宴の心境がく出ていて、結句で、「嬉しくもあるか」と止めたのも率直で効果的である。それから、「おもふどちい群れてをれば」も、心の合った親友が会合しているという雰囲気ふんいきめた句だが、簡潔で日本語のいい点をあらわしている。類似の句には、「何すとか君をいとはむ秋萩のその初花はつはなのうれしきものを」(巻十・二二七三)がある。

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はるかすみたなびきうらがなしこのゆふかげにうぐひすくも 〔巻十九・四二九〇〕 大伴家持
 天平勝宝五年二月二十三日、大伴家持が興に依って作歌二首の第一である。一首は、もう春の野には霞がたなびいて、何となくうら悲しく感ぜられる。その夕がたの日のほのかな光に鶯が鳴いている、というので、日の入った後の残光と、春野に「おぼほし」というほどにかかっているもやとに観入して、「うら悲し」と詠歎したのであるが、この悲哀の情をべたのは既に、人麿以前の作歌には無かったもので、この深くむ、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった。それには支那文学や仏教の影響のあったことも確かであろうが、家持の内的「生」が既にそうなっていたともることが出来る。「うらがなし」を第三句に置き休止せしめたのも不思議にいい。
「朝顔は朝露おひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」(巻十・二一〇四)、「夕影に来鳴くひぐらし幾許ここだくも日毎に聞けど飽かぬ声かも」(同・二一五七)などの例がある。なお、「醜霍公鳥しこほととぎすあかときのうらがなしきに」(巻八・一五〇七)は同じく家持の作だから同じ傾向のものとるべく、「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつうつしけめやも」(巻十五・三七五二)は狭野茅上娘子さぬのちがみのおとめの歌だから、やはり同じ傾向の範囲と看ることが出来、「うらがなし春の過ぐれば、霍公鳥いや敷き鳴きぬ」(巻十九・四一七七)もまた家持の作である。

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わが宿やどのいささ群竹むらたけかぜおとのかそけきこのゆふべかも 〔巻十九・四二九一〕 大伴家持
 同じく第二首である。「いささ群竹」はいささかな竹林で、庭の一隅いちぐうにこもって竹林があった趣である。一首は、私の家の小竹林に、夕がたの風が吹いて、かすかな音をたてている。あわれなこの夕がたよ、というので、これも後世なら、「あわれ」とでもいうところで、一種の寂しい悲しい気持である。この歌は結句で、「このゆふべかも」と名詞に「かも」をつづけているが、これも晩景を主としたいい方で、この歌の場合やはり動かぬものかも知れない。「つるばみの解洗ときあらぎぬのあやしくも殊に着欲きほしきこのゆふべかも」(巻七・一三一四)という前例がある。
 小竹に風の渡る歌は既に人麿の歌にもあったが、竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもので、中世紀の幽玄の歌も特徴があるけれども、この歌ほど具象的でないから、真の意味の幽玄にはなりがたいのであった。「梅の花散らまく惜しみ吾がそのの竹の林に鶯鳴くも」(巻五・八二四)は天平二年大伴旅人の家の祝宴で阿氏奥島おきしまの作ったものであるから此歌に前行して居り、「御苑生みそのふの竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ」(巻十九・四二八六)は此歌の少し前即ち一月十一日家持の作ったものである。
 鹿持雅澄かもちまさずみの古義では、「いささ群竹」を「いささかの群竹」とせずに、「五十竹葉群竹イササムラタケ」と解し、また近時沢瀉おもだか博士は「い笹群竹」と解し、「ゆざさの上に霜の降る夜を」(巻十・二三三六)の「ゆざさ」などの如く、「笹」のこととした。なお少しく増補するに、古今集物名ぶつめいに、「いささめに時まつ間にぞ日は経ぬる心ばせをば人に見えつつ」とあるのは、「笹」を咏込よみこむために、「いささめ」を用いた。但しこれは平安朝の例である。

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うらうらにれる春日はるび雲雀ひばりあがりこころかなしもひとりしおもへば 〔巻十九・四二九二〕 大伴家持
 同じく家持が天平勝宝五年二月二十五日に作ったものである。一首は、うららかに照らしておる春の光の中に、雲雀ひばりが空高くのぼる、独居して、物思うとなく物思えば、悲しい心がくのを禁じ難い、というので、万葉集の大部分の歌が対詠歌、相待そうたい的なうったえの歌であるのに、この歌は、不思議にも独詠的な歌である。歌に、「独しおもへば」というのがそれを証しているが、独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある。これも家持のいたり着いた一つの歌境であった。
 前言にもいった天平二年の旅人宅の歌に、山上憶良の、「春されば先づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日くらさむ」(巻五・八一八)には、ややこの歌と類似点があるが、それ以外のものの多くは恋愛情調で、対者(男女)を予想したものが多い、従って人間的肉体的なものが多い。然るにこの歌になると、すでにその趣がちがって、自然観入による、その反応としての詠歎になっている。
 巻十九(四一九二)の霍公鳥ならびに藤花を詠じた長歌に、「夕月夜かそけき野べに、遙遙はろばろに鳴く霍公鳥」とあるのもまた家持の作、「雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく」(巻二十・四四三四)も亦家持の作で、この方は巻十九のよりも制作年代が遅い(天平勝宝七さい三月三日)のは注意すべきである。なお、その三月三日には安倍沙美麿さみまろが、「朝ななあがる雲雀ひばりになりてしか都に行きてはや帰り来む」(同・四四三三)という歌を作っているが、やはり家持の影響とおもわれるふしがある。
 この歌の左に、「春日遅遅として、※(「倉+鳥」、第3水準1-94-67)※(「庚+鳥」、第3水準1-94-64)ひばり正にく。悽惆せいちうの意、歌にあらずば、はらひ難し。りて此の歌を作り、ちて締緒ていしよぶ」云々という文が附いている。※(「倉+鳥」、第3水準1-94-67)※(「庚+鳥」、第3水準1-94-64)雲雀ひばりませており、和名鈔でもそうだが、実はうぐいすに似た鳥だということである。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻20

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻20

巻第二十


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あしひきのやまきしかば山人やまびとわれしめしやまづとぞこれ 〔巻二十・四二九三〕 元正天皇
 大和国添上そふのかみ山村やまむら(今の帯解町辺)に行幸(元正天皇)あらせられた時、諸王臣に和歌を賦して奏すべしと仰せられた。その時御みずから作りたもうた御製である。(この御製歌は天平勝宝五年五月はじめて輯録しゅうろくされたから、孝謙天皇の御代になって居り、従って万葉集には元正天皇を先太上天皇おおきすめらみことと記し奉っている。そして此歌の次に舎人親王とねりのみここたえ奉った御歌が載って居り、親王は聖武天皇の天平七年に薨去せられたから、此行幸はそれ以前で元正天皇御在位中のことということになる。)
 一首の意は、ちんが山に行ったところが山に住む仙人どもがいろいろと土産みやげを呉れた。此等はその土産である、というので、この山裹やまづとというのは、山の仙人の持つようなものをぼんやりと聯想れんそうし得るのであるが、宣長は、「山づとぞ是とのたまへるは、即御歌を指して、のたまへる也」(略解)と云ったのは、「それ諸王卿等、宜しく和歌を賦して奏すべしと、即ち御口号に曰く」と詞書にある、その「御口号」をば直ぐ山裹と宣長が取ったからこういう解釈になったのであろう。併し山裹の内容はただ山の仙人に関係ある物ぐらいにぼんやり解く方がいいのではあるまいか。そこで下の舎人親王の「心も知らず」の句もくのである。舎人親王のこたえ御歌は、「あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人やたれ」(巻二十・四二九四)というので、前の「山人」は天皇の御事、後の「山人」は土産をくれた山の仙人の事であろう。そこで、「山に御いでになった陛下はもはや仙人でいらせられるから俗界の私どもにはもはや御心の程は分かりかねます。一体その山裹と仰せられるのは何でございましょう。またそれを奉った仙人というのは誰でございましょう」というので、御製歌をそのまま受けついで、軽く諧謔かいぎゃくせられたのであった。御製歌は、「山村」からの聯想で、直ぐ「山人」とつづけ、神仙的な雰囲気ふんいきをこめたから、不思議な清く澄んだような心地よい御歌になった。

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くれしげをほととぎすきてゆなりいまらしも 〔巻二十・四三〇五〕 大伴家持
 大伴家持が霍公鳥ほととぎすんだもので、鬱蒼うっそう木立こだちの茂っている山の上に霍公鳥が今鳴いている、あの峰を越して間も無く此処にやって来るらしいな、というので、気軽に作った独詠歌だが、流石さすがに練れていてうまいところがある。それは、「鳴きて越ゆなり」と現在をいって、それに主点を置いたかと思うと、おのずからそれに続くべき、第二の現在「今し来らしも」と置いて、一首の一番大切な感慨をそれにぐうせしめたところが旨いのである。霍公鳥の歌は万葉には随分あるが、此歌は平淡でおもしろいものである。家持の作った歌の中でも晩期のものだが、やや自在境に入りかかっている。

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つまにかきとらむいつまもが旅行たびゆあれは見つつしぬばむ 〔巻二十・四三二七〕 防人
 天平勝宝七歳二月、坂東ばんどう諸国の防人さきもり筑紫つくしに派遣して、先きの防人と交替せしめた。その時防人等が歌を作ったのが一群となって此処に輯録せられている。此歌は長下ながのしも郡、物部古麿もののべのふるまろという者の作ったものである。一首は、自分の妻の姿をも、画にかいて持ってゆく、そのく暇が欲しいものだ。遙々はるばると辺土の防備に行く自分は、その似顔絵を見ながら思出したいのだ、というので、歌は平凡だが、「我が妻も画にかきとらむ」という意嚮いこうが珍らしくもあり、人間自然の意嚮でもあろうから、此に選んで置いた。「父母も花にもがもや草枕旅は行くとも※(「敬/手」、第3水準1-84-92)ささごて行かむ」(巻二十・四三二五)も意嚮は似ているが、この方には類想のものが多い。また、「母刀自ははとじも玉にもがもやいただきて角髪みづらの中にあへかまくも」(同・四三七七)というのもある。

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大君おほきみみことかしこみいそ海原うのはらわたる父母ちちははきて 〔巻二十・四三二八〕 防人
 これも防人の歌で、助丁すけのよぼろ丈部造人麿はせつかべのみやつこひとまろという者が作った。一首は、天皇の命をかしこみ体して、船を幾たびも磯に触れあぶない思をし、また浪あらく立つ海原をも渡って防人に行く。父も母も皆国元に残して、というのであるが、かしこみ、触り、わたる、おきてという具合にやや小きざみになっているのは、作歌的修練が足りないからである。しかし此歌では、「磯に触り」という語と、「父母を置きて」という語に心をかれて取っておいた。この男は妻のことよりも「父母」のことが第一身にこたえたのであっただろう。また「磯に触り」の句は、「大船をぎの進みにいはに触りかへらばかへれ妹によりてば」(巻四・五五七)という例があるが、「磯ごとにあまの釣舟てにけり我船泊てむ磯の知らなく」(巻十七・三八九二)があるから、幾度も碇泊ていはくしながらという意もあるだろう。しかし「触り」に重きを置いて解釈してかまわない。一寸前にも云ったが、防人の歌に父母のことを云ったのが多い。「水鳥の立ちのいそぎに父母に物言ものはにて今ぞ悔しき」(巻二十・四三三七)、「忘らむと野行き山行き我来れど我が父母は忘れせぬかも」(同・四三四四)、「橘の美衣利みえりの里に父を置きて道の長道ながては行きがてぬかも」(同・四三四一)、「父母がかしらかきく在れていひし言葉ぞ忘れかねつる」(同・四三四六)等である。

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百隈ももくまみちにしをまたさら八十島やそしまぎてわかれかかむ 〔巻二十・四三四九〕 防人
 防人、助丁刑部直三野すけのよぼろおさかべのあたいみぬの詠んだ歌である。一首の意は、これまで陸路を遙々はるばると、いろいろの処を通って来たが、これからいよいよ船に乗って、更に多くの島のあいだを通りつつ、とおく別れて筑紫へ行くことであろうというので、難波から船出するころの歌のようである。専門技倆ぎりょう的に巧でないが、真率しんそつに歌っているので人の心をくものである。この歌には言語のなまりが目立たず、声調も順当である。

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蘆垣あしがき隈所くまどちて吾妹子わぎもこそでもしほほにきしぞはゆ 〔巻二十・四三五七〕 防人
 上総市原郡、上丁刑部直千国かみつよぼろおさかべのあたいちくにの作である。出立のまぎわに、あしの垣根のすみの処に立って、袖もしおしおとれるまで泣いた、妻のことが思出されてならない、というので、「蘆垣の隈所」というあたりは実際であっただろう。また、「泣きしぞ思はゆ」も上総の東国語であるだろう。或は前にも「おも倍由」というのがあったから、必ずしも訛でないかも知れぬが、「泣きしぞ思ほゆる」というのが後の常識であるのに、「ぞ」でも「思はゆ」で止めている。「しほほ」も特殊で、濡れる形容であろうが、また、「しおしおと」とか、「しぬに」とも通うのかも知れない。

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大君おほきみみことかしこみればきていひしなはも 〔巻二十・四三五八〕 防人
 上総周淮すえ郡、上丁物部竜もののべのたつの作。下の句は、「取り着きて言ひし子ろはも」というのだが、それがなまったのである。「我ぬ取り着きていひし子なはも」の句は、現実に見るような生々いきいきしたところがあっていい。当時にあっては今の都会の女などに比して、感動の表出が活溌で且つ露骨であったとおもうのは、抑制が社会的に洗練せられないからであるが、歌として却って面白いのが残っている。「道のべのうまらうれほ豆のからまる君をはかれか行かむ」(同・四三五二)も同じような場面だが、この豆蔓まめづるの方は間接に序詞を使って技巧的であるが、それでも、豆蔓のからまるところは流石さすがに真実でおもしろい。

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筑波嶺つくばねのさ百合ゆるはな夜床ゆどこにもかなしけいもひるもかなしけ 〔巻二十・四三六九〕 防人
 常陸那賀郡、上丁大舎人部千文おおとねりべのちぶみの作である。「夜床よどこ」をユドコと訛ったから、「百合ゆる」のユに連続せしめて序詞とした。併し、「筑波嶺のさ百合の花の」までは、ただの空想でなく郷土的実際の見聞をもととしたのが珍らしいのである。「かなしけ」は、「かなしき」の訛。一首の意は、夜の床でも可哀いい妻だが、昼日中でもやはり可哀かあいくて忘れられない、というので、その言い方が如何にも素朴直截ちょくせつで愛誦するにうべきものである。このいい方は巻十四の東歌に見るような民謡風なものだから、或はそういう既にあったものを書き記して通告したとも取れるが、若しこの千文ちぶみという者が作ったとすると、東歌なども東国の人々によって作られたことが分かり、興味もまた深いわけである。「旅行たびゆきに行くと知らずて母父あもしし言申ことまをさずて今ぞくやしけ」(巻二十・四三七六)の結句が、「悔しき」の訛で、「かなしき」を「かなしけ」と云ったのと同じである。

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あられ鹿島かしまかみいのりつつ皇御軍すめらみくさわれにしを 〔巻二十・四三七〇〕 防人
 前と同じ作者である。鹿島の神は、現在茨城県鹿島郡鹿島町に鎮座ちんざする官幣大社鹿島神宮で、祭神は武甕槌命たけみかづちのみことにまします。千葉県香取郡香取町に鎮座する官幣大社香取神宮(祭神経津主命ふつぬしのみこと即ち伊波比主命いわいぬしのみこと)と共に、軍神として古代から崇敬すうけい至ったものであった。防人さきもり等は九州防衛のため出発するのであるが、出発に際しまた道すがらその武運の長久を祈願したのであった。土屋文明氏によれば、常陸の国府は今の石岡町にあったから、そこから鹿島郡軽野を過ぎ、下総国海上郡に出たようだから、途中鹿島の神に参拝することが出来たのである。
 一首の意は、武神にまします鹿島の神に、武運をば御いのりしながら、天皇の御軍勢のなかに私は加わりまいりましたのでござりまする、というのである。
 結句の「を」は感歎の助詞で、それを以て感奮の心をめて結句としたものである。併ししこの「来にしを」を、「来たものを」、「来たのに」というように余言を籠もらせたと解釈するなら、「皇御軍のために我は来しますらをなるを、夜昼ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば心弱く顧せらるゝ事を云ひ残して含めるなるべし」(代匠記)か「鹿島の神に祈願こひいのり官軍すめらみいくさいでて来しものをいかでいみじき功勲いさをを立てずして帰り来るべしや」(古義)かのいずれにかになる。「あられ降り」を「鹿島」の枕詞にしたのは、あられが降ってかしましいから、同音でつづけた。カマカマシ、カシカマシ、カシマシとなったのだろうと云われて居る。こういう技巧も既に一部に行われていたものか、或はこの作者の発明か。

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ひなぐもり碓日うすひさかえしだにいもこひしくわすらえぬかも 〔巻二十・四四〇七〕 防人
 他田部子磐前おさたべのこいわさきという者の作。「ひなぐもり」は、日の曇り薄日うすびだから、「うすひ」の枕詞とした。一首は、まだようやく碓氷峠うすいとうげを越えたばかりなのに、もうこんなに妻が恋しくて忘れられぬ、というのであろう。当時は上野からは碓氷峠を越して信濃しなのに入り、それから美濃みの路へ出たのであった。この歌は歌調が読んでいていかにも好く、哀韻さえこもっているので此辺このへんで選ぶとすれば選に入るべきものであろう。「だに」という助詞は多くは名詞につくが、必ずしもそうでなく、「棚霧たなぎらひ雪も降らぬか梅の花咲かぬがしろに添へてだに見む」(巻八・一六四二)、「池のべの小槻をつきが下の細竹しぬな苅りそね其をだに君が形見に見つつ偲ばむ」(巻七・一二七六)等の例がある。

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防人さきもりに行くはひとるがともしさ物思ものもひもせず 〔巻二十・四四二五〕 防人の妻
 昔年さきつとし防人さきもりの歌という中にあるから、天平勝宝七歳よりもずっと前のものだということが分かる。またこれは防人の妻の作ったもののようである。一首は、見おくりの人だちのたちこんだ中に交って、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もなく、たずねたりする人を見るとうらやましいのです、というので、そういう質問をしたのは女であったことをも推測するに難くはない。まことに複雑な心持をすらすらと云ってけて、これだけのそつの無いものを作りあげたのは、そういう悲歎と羨望せんぼうの心とが張りつめていたためであろう。「物思ひもせず」と止めた結句も不思議によい。

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小竹ささのさやぐ霜夜しもよ七重ななへころもにませるろがはだはも 〔巻二十・四四三一〕 防人
 これも昔年の防人歌だと注せられている。一首は、笹の葉に冬の風が吹きわたって音するような、寒い霜夜に、七重もかさねて着る衣の暖かさよりも、恋しい女のはだの方が暖い、というので、膚を中心として、「膚はも」と詠歎したのは覚官的である。また当時の民間では、七重の衣という言葉さえうらやましい程のものであっただろうから、こういう云い方も伝わっているのである。この歌も民謡風で防人が出発する時の歌などに似ないこと、前に出した、「かなしけ妹ぞ昼もかなしけ」(巻二十・四三六九)の場合と同じである。ただの東歌に類した民謡をば、蒐集しゅうしゅうした磐余伊美吉諸君いわれのいみきもろきみが、進上されたままに防人の歌としたものであろう。

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雲雀ひばりあがるはるべとさやになりぬればみやこえずかすみたなびく 〔巻二十・四四三四〕 大伴家持
 これは家持作だが、天平勝宝七歳三月三日、防人さきもり※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)けんぎょうする勅使、ならびに兵部使人等、ともつどえる飲宴うたげで、兵部少輔大伴家持の作ったものである。一首は、雲雀ひばりが天にのぼるような、春が明瞭めいりょうに来たのだから、都も見えぬまでに霞も棚びいている、というので、調しらべがのびのびとして、苦渋が無く、清朗とでもいうべき歌である。「さやに」は清に、明かに、明瞭に、はっきりと、などの意で、この句はやはり一首にあっては大切な句である。なぜ家持はこういう歌を作ったかというに、その時来た勅使(安倍沙美麿さみまろ)が、「朝なさなあがる雲雀になりてしか都に行きてはや帰り来む」(巻二十・四四三三)という歌を作ったのでそれに和したものである。勅使の歌が形式的申訣もうしわけ的なので家持の歌も幾分そういうところがある。併し勅使の歌がまずいので、家持の歌が目立つのである。なお此時家持は、「ふふめりし花の初めに来しわれや散りなむ後に都へ行かむ」(同・四四三五)という歌をも作っているが、下の句はなかなかうまい。

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剣刀つるぎたちいよよぐべしいにしへさやけくひてにしそのぞ 〔巻二十・四四六七〕 大伴家持
 大伴家持は、天平勝宝八歳、「やからさとす歌」長短歌を作った。これは淡海真人三船おうみのまひとみふね讒言ざんげんによって、出雲守大伴古慈悲こじひが任を解かれた、古慈悲は大伴の一家で宝亀八年八月に薨じた者だが、出雲守をめさせられた時に家持がこの歌を作った。歌は句々緊張し、むしろ悲痛の声ということの出来る程であり、長歌には、「聞く人のかがみにせむを、あたらしき清きその名ぞ、おほろかに心思ひて、虚言むなことおやの名つな、大伴のうぢと名にへる、健男ますらをとも」というような句がある。この一首は、剣太刀つるぎたちをばいよいよますますはげげ、既に神の御代から、さやかに武勲の名望を背負い立って来たその家柄であるぞ、というので、「さやけく」は清く明かにの意である。この短歌は、長歌の方でいろいろ細かく云ったから、大要的に結論を云ったようなものだが、やはり句々が緊張していていい。大伴家の家運が下降の向きにある時だったので、ことに悲痛の響となったのであろう。この短歌も威勢のよいのと同時に底に悲哀の韻をこもらせているのはそのためである。

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現身うつせみかずなきなり山河やまかはさやけきつつみちたづねな 〔巻二十・四四六八〕 大伴家持
 大伴家持が、「病に臥して無常を悲しみ修道をほりして作れる歌」二首の一つである。「数なき」は、年齢の数の無いということ、年寿の幾何いくらもないこと、幾ばくも生きないことである。人間というものはそう長生をするものではない。よって、濁世を厭離えんりし、自然山川の清い風光に接見しつつ、仏道を修めねばならぬ、というのである。「道を尋ねな」と日本語流にくだいたのも、既に当時の人の常識になっていたともおもうが、なかなかよい。この歌には前途の安心あんじんを望むが如くであって、実は悲哀の心の方が深くみこんでいる。また仏教的の本性清浄観しょうじょうかんをただ一気にいっているようで、実は病痾びょうあを背景とする実感が強いのであるから、読者はそれを見のがしてはならない。この歌と並んで、「渡る日のかげにきほひて尋ねてな清きその道またもはむため」(巻二十・四四六九)という歌をも作っている。「わたる日の影に競ひて」は、日光のはやく過ぎゆくにも負けずに、即ち光陰を惜しんでの意。「またも遇はむため」は来世にも亦この仏果ぶっかに逢わんためという意で、やはり力づよいものを持っている。こういうものになると一種の思想的抒情詩であるからむずかしいのだが、家持は一種の感傷を以てそれを統一しているのは、既に古調から脱却せんとしつつ、なお古調のいいものを保持しているのである。

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いざどもたはわざな天地あめつちかためしくにぞやまと島根しまねは 〔巻二十・四四八七〕 藤原仲麿
 天平宝字元年十一月十八日、内裏だいりにて肆宴とよのあかりをしたもうた時、藤原朝臣仲麿の作った歌である。仲麿は即ち恵美押勝えみのおしかつであるが、橘奈良麿等が仲麿の専横をにくんで事をはかった時に、仲麿の奏上によってその徒党をたいらげた。その時以後の歌だから、「いざ子ども」は、部下の汝等よ、というので、「いざ子どもはやく日本やまとへ」(巻一・六三)、「いざ子どもへてぎ出む」(巻三・三八八)、「いざ子ども香椎の潟に」(巻六・九五七)等諸例がある。「たはわざなせそ」は、たわわざをするな、巫山戯ふざけたまねをするな、というので、「うちしなりてぞ妹は、たはれてありける」(巻九・一七三八)の例がある。一首は、ものどもよ、巫山戯たことをするなよ、この日本の国は天地の神々によって固められた御国柄であるぞ、というので、強い調子で感奮して作っている歌である。併し、「たはわざなそ」という句は、悪い調子を持っていて慈心じしんが無い。とげとげしくて増上ぞうじょう気配けはいがあるから、そこに行くと家持の歌の方は一段と大きくつ気品がある。「剣大刀つるぎたちいよよぐべし」や、「丈夫ますらをは名をし立つべし」の方が、同じく発奮でも内省的なところがあり、従って慈味がたたえられている。仲麿は作歌の素人しろうとなために、この差別があるともおもうが、抒情詩の根本問題は、素人しろうと玄人くろうとなどの問題などではない。よって此歌を選んで置いた。

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おほうみ水底みなそこふかおもひつつ裳引もびきならしし菅原すがはらさと 〔巻二十・四四九一〕 石川女郎
「藤原宿奈麿すくなまろ朝臣の妻、石川女郎いらつめ愛薄らぎ離別せられ、悲しみうらみて作れる歌年月いまだつまびらかならず」という左注のある歌である。宿奈麿は宇合うまかいの第二子、後内大臣まで進んだ。「菅原の里」は大和国生駒いこま郡、今の奈良市の西の郊外にある。昔は平城京の内で、宿奈麿の邸宅が其処そこにあったものと見える。一首は、大海の水底のように深く君をおもいながら、を長く引きらして楽しく住んだあの菅原の里よ、というので、こういう背景のある歌としてあわれ深いし、「裳引ならしし菅原の里」あたりは、女性らしい細みがあっていい。ただこういう背景が無いとして味えば、歌柄のやや軽いのは時代と相関のものであろう。

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初春はつはる初子はつね今日けふ玉箒たまばはきるからにゆらぐたま 〔巻二十・四四九三〕 大伴家持
 天平宝字二年春正月三日、孝謙天皇、王臣等を召して玉箒たまばはきを賜い肆宴とよのあかりをきこしめした。その時右中弁大伴家持の作った歌である。正月三日(丙子ひのえね)は即ち初子の日に当ったから「初子はつねの今日」といった。玉箒は玉を飾った箒で、目利草めどぎぐさ(蓍草)で作った。古来農桑を御奨励になり、正月の初子はつねの日に天皇御ずから玉箒を以て蚕卵紙をはらい、鋤鍬すきくわを以て耕す御態をなしたもうた。そして豊年を寿ことほぎ邪気を払いたもうたのちに、諸王卿等に玉箒を賜わった。そこでこの歌がある。現に正倉院御蔵の玉箒のかたわらに鋤があってその一に、「東大寺献天平宝字二年正月」と記してあるのは、まさに家持が此歌を作った時のすきである。「ゆらぐ玉の緒」は玉箒の玉をいた緒がゆらいで鳴りひびく、清くも貴い瑞徴ずいちょうとして何ともいえぬ、というので、家持も相当に骨折ってこの歌を作り、流麗りゅうれいな歌調のうちに重みをたたえて特殊の歌品を成就じょうじゅしている。結句は全くの写生だが、音を以て写生しているのはうまいし、書紀の瓊音※々けいおんそうそう[#「王+倉」、U+7472、下-183-13]などというのを、純日本語でいったのも家持の力量である。但し此歌は其時中途退出により奏上せなかったという左注が附いている。

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水鳥みづどりかもいろ青馬あをうま今日けふひとはかぎりしといふ 〔巻二十・四四九四〕 大伴家持
 同じく正月七日の侍宴(白馬の節会せちえ)の為めに、大伴家持が兼ねて作った歌だと左注にある。「水鳥の鴨の羽の色の」は「青」と云わんための序である。「青馬」は公事根源くじこんげんに、「白馬の節会をあるひは青馬の節会とも申すなり。其の故は馬は陽の獣なり。青は春の色なり。これによりて、正月七日に青馬を見れば、年中の邪気を除くという本文はべるなり」とある。馬の性は白を本とするといったから、当時アヲウマと云って、白馬を用いていたという説もあるが、私にはくわしい事は分からない。「限りなしといふ」とは、寿命がかぎり無いというのであるが、この結句は一首の中心をなすものであり、据わりも好いし、恐らく、これと同じ結句は万葉にはほかになかろうか。中味は、「今日見る人は」とこの句のみだが、割合に落着いていてい歌である。家持は、こういう歌を前以て作っていたということを正直に記してあるのも興味あり、このくらいの歌でも、即興的に口を突いて出来るものでないことは実作家の常に経験するところであるが、このあたりの家持の歌の作歌動機は、常に儀式的なもののみであるのも、何かを暗指しているような気がしてならない。「いふ」で止めた例は、「赤駒を打ちてさ引き心引きいかなるせな吾許わがり来むと言ふ」(巻十四・三五三六)、「渋渓しぶたにの二上山にわし子産こむとふさしはにも君が御為に鷲ぞ子生こむとふ」(巻十六・三八八二)があるのみである。

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池水いけみづかげさへえてきにほふ馬酔木あしびはなそで扱入こきれな 〔巻二十・四五一二〕 大伴家持
 大伴家持の山斎属目さんさいしょくもくの歌だから、庭前の景をそのままんでいる。「影さへ見えて」の句も既にあったし、家持苦心の句ではない。ただ、「馬酔木の花を袖に扱入こきれな」というのが此歌の眼目で佳句であるが、「引きぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入こきれつまばむとも」(巻八・一六四四)の例もあり、家持も「白妙の袖にも扱入れ」(巻十八・四一一一)、「藤浪の花なつかしみ、引き攀ぢて袖に扱入こきれつ、まばむとも」(巻十九・四一九二)と作っているから、あえて此歌の手柄ではないが、馬酔木あしびの花を扱入こきれなといったのは何となく適切なようにおもわれる。併し全体として写生力が足りなく、諳記あんきにより手馴れた手法によって作歌する傾向が見えて来ている。そしてそれに対して反省せんとする気魄きはくは、そのころの家持にはもう衰えていたのであっただろうか。私はまだそうは思わない。

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あらたしきとしはじめの初春はつはる今日けふゆきのいや吉事よごと 〔巻二十・四五一六〕 大伴家持
 天平宝字三年春正月一日、因幡いなば国庁に於て、国司の大伴家持が国府の属僚郡司等にあえした時の歌で、家持は二年六月に因幡守に任ぜられた。「新しき」はアラタシキである。新年に降った雪に瑞兆ずいちょうを託しつつ、部下と共に前途を祝福した、むしろ形式的な歌であるが、「の」を以て続けた、伸々のびのびとした調べはこの歌にふさわしい形態をなした。「いや吉事よごと」は、益々吉事幸福が重なれよというので、名詞止めにしたのも、やはりおのずからなる声調であろうか。また、「吉事よごと」という語を使ったのも此歌のみのようである。謝恵連の雪賦に、盈則呈於豊年云々の句がある。
 此歌は新年の吉祥歌であるばかりでなく、また万葉集最後の結びであり、万葉集編輯の最大の功労者たる家持の歌だから、特に選んで置いたのであるが、この「万葉秀歌」で、最初に選んだ、「たまきはる宇智の大野に馬なめて」の歌に比して歌品の及ばざるを私等は感ぜざることを得ない。家持の如く、歌が好きで勉強家で先輩を尊びへりくだって作歌を学んだ者にしてなおくの如くである。万葉初期の秀歌というもののいかなるものだかということはこれを見ても分かるのである。
 万葉後期の歌はかくの如くであるが、若しこれを古今集以後の幾万の歌にくらべるならば、これはまた徹頭徹尾くらべものにはならない。それほど万葉集の歌は佳いものである。家持のこの歌は万葉集最後のものだが、代匠記に、「そもそも此集、はじめニ雄略舒明両帝ノ民ヲ恵マセ給ヒ、世ノ治マレル事ヲ悦ビ思召ス御歌ヨリ次第ニのせテ、今ノ歌ヲ以テ一部ヲ祝ヒテヘタレバ、玉匣たまくしげフタミ相カナヘルしるしアリテ、蔵スところ世ヲ経テうせサルカナ」と云っている。




(私論.私見)