斎藤茂吉の万葉秀歌考巻8、9、10

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日

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 2015.09.07日 れんだいこ拝


斎藤茂吉の万葉秀歌考巻8

巻第八


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石激いはばし垂水たるみうへのさわらびづるはるになりにけるかも 〔巻八・一四一八〕 志貴皇子
 志貴皇子しきのみこよろこびの御歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もうわらびが萌え出づる春になった、よろこばしい、というのである。「石激いはばしる」は「垂水たるみ」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做みなし得る。「垂水たるみ」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下たきしもより滝上たきかみの感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、こうでイハバシルとんだ。なお、類聚古集るいじゅうこしゅうに「石灑」とあるから、「いはそそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルとみ、全体の調子から、やはり垂水たるみをば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍げきたんの特色を保存したいのである。
 この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板へいばんおちることなく、細かい顫動せんどうを伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見しきさの小河を今見ればいよよさやけくなりにけるかも」(巻三・三一六)、「妹として二人作りし吾が山斎しま木高こだかく繁くなりにけるかも」(巻三・四五二)、「うちのぼる佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(巻八・一四三三)、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「萩が花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも」(巻十・二二八〇)、「竹敷のうへかた山はくれなゐ八入やしほの色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)等で、皆一気に流動性を持った調べを以て歌いあげている歌であるが、万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、はんをいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でもすぐれており、万葉集中の傑作の一つだとっていいようである。
 大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津せっつ豊能とよの郡の垂水たるみ播磨はりま明石あかし郡の垂水たるみの両説がある。若し地名だとしても、垂水即ち小滝を写象の中に入れなければ此歌は価値が下るとおもうのである。次に此歌に寓意ぐういを求める解釈もある。「此御歌イカナル御懽有テヨマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモヨマセ給ヘルハ、もし帝ヨリ此処ヲ封戸ふごニ加へ賜ハリテ悦バセ給ヘル。蕨ノ根ニ隠リテカヾマリヲレルガ、春ノ暖気ヲ得テ萌出ルハ、実ニ悦コバシキたとへナリ。御子白壁王不意ニ高御座ミクラノボラセ給ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追尊セラレ給ヒ、皇統今ニ相ツヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ」(代匠記)といい、考・略解りゃくげ・古義これに従ったが、やや穿鑿せんさくに過ぎた感じで、むしろ、「水流れ草もえて万物の時をうるを悦び給へる御歌なるべし」(拾穂抄しゅうすいしょう)の簡明な解釈の方が当っているとおもう。なお、「石走いはばしる垂水の水のしきやし君に恋ふらく吾がこころから」(巻十二・三〇二五)という参考歌がある。

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神奈備かむなび伊波瀬いはせもり喚子鳥よぶこどりいたくなきそこひまさる 〔巻八・一四一九〕 鏡王女
 鏡王女かがみのおおきみの歌である。鏡王女は鏡王かがみのおおきみむすめ額田王ぬかだのおおきみの御姉に当り、はじめ天智天皇の御寵おんちょうを受け、後藤原鎌足ふじわらのかまたりの正妻となった。此処ここ神奈備かむなび竜田たつたの神奈備で飛鳥あすかの神奈備ではない。生駒いこま郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある。それが伊波瀬の森である。喚子鳥よぶこどりは大体閑古鳥かんこどりの事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋しい心が増すばかりだから、というのである。
「いたく」は、強く、熱心に、度々、切実になどともほんし得、口語なら、「そんなに鳴くな」ともいえる。喚子鳥の声は、人にうったえて呼ぶようであるから、その声を聞いて自分の身の上に移して感じたものである。この聯想れんそうから来る感じは万葉の歌に可なり多いが、当時の人々は何時いつにかう無理なく表現し得るようになっていたのだろう。人麿の、「夕浪千鳥が鳴けば」でもそうであった。それだから此歌でも、現代の読者にまでそう予備的な心構えがなくも受納うけいれられ、く単純な内容のうちに純粋な詠歎のこえを聞くことが出来るのである。王女は額田王の御姉であったから、額田王の歌にも共通な言語に対する鋭敏がうかがわれるが、額田王の歌よりももっと素直で才鋒さいほうの目だたぬところがある。また時代も万葉上期だから、そのころの純粋な響・語気を伝えている。巻八(一四六五)に、藤原夫人ふじわらのぶにんの、「霍公鳥ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を五月さつきの玉にくまでに」があるが、女らしい気持だけのものである。また、やはり此巻(一四八四)に、「霍公鳥ほととぎすいたくな鳴きそひとりゐて宿らえぬに聞けば苦しも」という大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめの歌があるが、「吾が恋まさる」の簡浄かんじょうな結句には及ばない。これは同じ女性の歌でももはや時代の相違であろうか。

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うちなびはるきたるらしやまとほ木末こぬれきゆく見れば 〔巻八・一四二二〕 尾張連
 尾張連おわりのむらじの歌としてあるが、伝不明である。一首は、山のあいの遠くまで続く木立に、きのうも今日も花が多くなって見える、もう春が来たというので、「咲きゆく」だから、次から次と花が咲いてゆく、時間的経過を含めたものだが、其処に読者を迷わせるところもなく、ゆったりとした迫らない響を感じさせている。そして、春の到来に対する感慨が全体にこもり、特に結句の「見れば」のところに集まっているようである。「木末の咲きゆく」などという簡潔ないいあらわしは、後代には跡をった。それは、幽玄とか有心うしんとか云って、深みを要求していながら、歌人の心の全体が常識的に分化してしまったからである。

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はるすみれみにとわれをなつかしみ一夜ひとよ宿にける 〔巻八・一四二四〕 山部赤人
 山部赤人の歌で、春の原にすみれみに来た自分は、その野をなつかしく思って一夜宿た、というのである。全体がむつかしくない、赤人的な清朗な調べの歌であるが、菫咲く野に対する一つの係恋けいれんといったような情調を感じさせる歌である。即ち極く広義の恋愛情調であるから、説く人によっては、恋人のことを歌ったのではないかと詮議せんぎするのであるが、其処そこまで云わぬ方がかえっていい。また略解は「菫つむは衣すらむ料なるべし」とあるが、これも主要な目的ではないであろう。本来菫を摘むというのは、可憐な花を愛するためでなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである。和名鈔わみょうしょうの菫菜で、爾雅じがに、※[#「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B、下-6-6]之滑也。疏可食之菜也とあるによって知ることが出来る。しかし此処は、「春日野に煙立つ見ゆ※嬬をとめ[#「女+感」、下-6-7]らし春野の菟芽子うはぎ採みて煮らしも」(巻十・一八七九)という歌のように直ぐ食用にして居る野菜として菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其処に恋人などの関係があるにしても、それは奥にひそめる方が鑑賞の常道のようである。
 この歌で、「吾ぞ」と強めて云っていても、赤人の歌だから余り目立たず、「野をなつかしみ」といっても、余り強く響かず、従って感情を強いられるような点も少いのだが、そのうちには少し甘くて物足りぬということが含まっているのである。赤人の歌には、「かたをなみ」、「野をなつかしみ」というような一種の手法傾向があるが、それが清潔な声調で綜合そうごうせられている点は、人の許す万葉第一流歌人の一人ということになるのであろうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。巻七(一三三二)に、「磐が根のこごしき山に入りめて山なつかしみ出でがてぬかも」という歌があり、これは寄山歌だからこういう表現になるのだが、むしろ民謡風にらくなもので、赤人の此歌とくらべれば赤人の歌ほどには行かぬのである。また、巻十(一八八九)の、「吾が屋前やど毛桃けももの下に月夜つくよさし下心したごころよしうたて此の頃」という歌は、譬喩ひゆ歌ということは直ぐ分かって、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味うと赤人の歌の好いところもおのずから分かるわけである。なお、赤人の歌には、この歌の次に、「あしひきの山桜花ならべてく咲きたらばいと恋ひめやも」(巻八・一四二五)ほか二首があり、清淡でこまかいあじわいであるが、結句は、やはり弱い。なお、「恋しけば形見にせむと吾が屋戸やどに植ゑし藤浪いま咲きにけり」(同・一四七一)があり、これを模して家持やかもちが、「秋さらば見つつしのべと妹が植ゑし屋前やど石竹なでしこ咲きにけるかも」(巻三・四六四)と作っているが、共に少し当然過ぎて、感に至り得ないところがある。赤人の歌でも、「今咲きにけり」が弱いのである。なお参考句に、「春の野に菫を摘むと、白妙の袖折りかへし」(巻十七・三九七三)がある。

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百済野くだらぬはぎ古枝ふるえはるつとりしうぐいすきにけむかも 〔巻八・一四三一〕 山部赤人
 山部赤人の歌で、春到来の心を詠んでいる。百済野は大和やまと北葛城きたかつらぎ百済くだら村附近の原野である。「萩の古枝」は冬枯れた萩の枝で、相当の高さと繁みになったものであろう。「春待つと居りし」あたりのいい方は、古調のいいところであるが、旧訓スミシ・ウグヒスであったのを、古義では脱字説を唱え、キヰシ・ウグヒスとんだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないようであるが、いたずらに興奮せずに、気品を保たせているのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になったが、選んで来て印をつけると、自然こういう結果になるということは興味あることで、もっと先きの巻に於ける家持の歌の場合と同じである。

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かはづ甘南備河かむなびがはにかげえていまくらむ山吹やまぶきはな 〔巻八・一四三五〕 厚見王
 厚見王あつみのおおきみの歌一首。厚見王は続紀しょくきに、天平勝宝てんぴょうしょうほう元年に従五位下を授けられ、天平宝字てんぴょうほうじ元年に従五位上を授けられたことが記されている。甘南備河かむなびがわは、甘南備山が飛鳥あすか雷丘いかずちのおか)か竜田たつたかによって、飛鳥川か竜田川かになるのだが、それが分からないからいずれの河としても味うことが出来る。一首は、かわず河鹿かじか)の鳴いている甘南備河に影をうつして、今頃山吹の花が咲いて居るだろう、というので、こだわりの無い美しい歌である。
 此歌が秀歌として持てはやされ、六帖や新古今に載ったのは、流麗な調子と、「かげ見えて」、「今か咲くらむ」という、幾らか後世ぶりのところがあるためで、これが本歌ほんかになって模倣せられたのは、その後世ぶりが気に入られたものである。「逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒」(拾遺・貫之つらゆき)、「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」(金葉集)等の如くに、その歌調なり内容なりが伝播でんぱしている。この歌は、全体としてはやや軽いので、実際をいえば、このくらいの歌は万葉に幾つもあるのだが、この種類の一代表として選んだのである。参考歌に、「安積香あさか山影さへ見ゆる山井やまのゐの浅き心を吾がはなくに」(巻十六・三八〇七)がある。

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平常よのつねくはくるしき喚子鳥よぶこどりこゑなつかしきときにはなりぬ 〔巻八・一四四七〕 大伴坂上郎女
 大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめが、天平てんぴょう四年三月佐保さおいえで詠んだ歌である。普段には、身につまされてむしろ苦しいくらいな喚子鳥の声も、なつかしく聞かれる春になった、というので、奇もなく鋭いところもないが、季節の変化に対する感じも出ており、春の女心に触れることも出来るようなところがある。「時にはなりぬ」だけで詠歎えいたんのこもることはすでにいった。佐保の宅というのは、郎女いらつめの父大伴安麿やすまろの宅である。「春日なる羽易はがひの山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるはたれ喚子鳥」(巻十・一八二七)、「答へぬにな喚びとよめそ喚子鳥佐保の山辺をのぼくだりに」(同・一八二八)、「卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥ほととぎす佐保の山辺に来鳴きとよもす」(巻八・一四七七)等があって、佐保には鳥の多かったことが分かる。

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なみうへゆる児島こじまくもがくりあな気衝いきづかしあひわかれなば 〔巻八・一四五四〕 笠金村
 天平五年春うるう三月、入唐使(多治比真人広成たじひのまひとひろなり)が立つ時に、笠金村かさのかなむらが贈った長歌の反歌である。一首は、あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のように、遠く雲がくれに見えなくなって、いよいよお別れということになるなら、嗚呼ああ吐息といきかれることだ、悲しいことだ、というのである。此処でも、「波の上ゆ見ゆる」と「ゆ」を使っている。児島は備前児島だろうという説があるが、序の形式だから必ずしも固有名詞とせずともいい。「気衝いきづかし」は、息衝いきづくような状態にあること、溜息ためいきかせるようにあるというので、いい語だとおもう。「味鴨あぢの住む須佐すさの入江のこものあな息衝いきづかし見ずひさにして」(巻十四・三五四七)の用例がある。訣別けつべつの歌だから、やや形式になり易いところだが、海上の小島を以て来てその気持を形式化から救っている。第四句が中心である。

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神名火かむなび磐瀬いはせもりのほととぎすならしのをか何時いつ来鳴きなかむ 〔巻八・一四六六〕 志貴皇子
 志貴皇子の御歌。磐瀬いわせもりは既にいった如く、竜田町の南方車瀬にある。ならしのおかは諸説あって一定しないが、磐瀬の杜の東南にわたる岡だろうという説があるから、一先ひとまずそれに従って置く。この歌は、「ならしの丘に何時か来鳴かむ」と云って、霍公鳥ほととぎすの来ることを希望しているのだが、既に出た皇子の御歌の如く、おおどかの中におごそかなところがあり、感傷にいんせずになお感傷を暗指あんじしている点は独特の御風格というべきである。他の皇子の御歌とくらべるから左程に思わぬが、そのあたりの歌を読んで来ると、やはり選は此歌に逢着ほうちゃくするのである。此歌は一首に三つも地名が詠込よみこまれている。「朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ」(巻十・一九四〇)の例があるが、民謡風だから「個」の作者が隠れて居り、それだけ呑気のんきである。この近くにある、「もののふの磐瀬のもりの霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(巻八・一四七〇)でも内容が似ているが、これも呑気である。

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夏山なつやま木末こぬれしじにほととぎすとよむなるこゑはるけさ 〔巻八・一四九四〕 大伴家持
 大伴家持おおとものやかもち霍公鳥ほととぎすの歌であるが、「夏山の木末のしじ」は作者のたところであろうが、前出の、「山の際の遠きこぬれ」の方がうまいようにもおもう。「こゑの遙けさ」というのが此一首の中心で、現実的な強味がある。この巻(一五五〇)に、湯原王ゆはらのおおきみの、「秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙けさ」も家持の歌に似ているが、家持の歌のまさっているのは、実際的のひびきがあるためである。然るに巻十(一九五二)に、「今夜このよひのおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遙けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。併し、「夏山の木末の繁に」といって生かしているのを後代の吾等は注意していい。「しじに」は槻落葉つきのおちばにシゲニとんでいる。

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ゆふされば小倉をぐらやま鹿しか今夜こよひかず寝宿いねにけらしも 〔巻八・一五一一〕 舒明天皇
 秋雑歌ぞうか崗本おかもと天皇(舒明じょめい天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろうというのである。いつも妻をもとめて鳴いている鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寝いねの意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くしてうるおいがあり、豊かにしてたるまざる、万物を同化包摂ほうせつしたもう親愛の御心の流露りゅうろであって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。第四句で、「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにしてせまらざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句にいとの如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、いうにいわれぬ歌調となったものである。「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもうので、その説明をしたい念願を持っていたが、実際に当ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一体こんいったいの境界にあってこまごましい剖析ぼうせきをゆるさないからであろうか。
 此歌の第三句、旧板本「鳴鹿之」となっているから、訓は「ナクシカノ」である。然るに古鈔本(類・神・西・温・矢・京)には、「之」の字が「者」となって居り、また訓も「ナクシカハ」(類・神・温・矢・京)となって居るのがある。注釈書では既に拾穂抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作者、点云、ナクシカハ。別校本或同此。幽斎本之作者、点云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、「ナクシカハ」の訓に従うようになったが、古今六帖には、「鳴く鹿の」となって居り、又幽斎本では鳴鹿者と書いて、「ナクシカノ」と訓んで、また旧板本は鳴鹿之であるから、「ナクシカノ」という訓も古くからあったことが分かる。もっとも、「鳴鹿之」は巻九巻頭の、「臥鹿之」の「之」にって直したとも想像することも出来るが、兎も角長い期間「鳴く鹿の」として伝わって来ている。今となって見れば、「鳴く鹿」の方は、「今夜」と続いて、古調に響くから、「鳴く鹿は」の方が原作かも知れないけれども、「鳴く鹿の」としても、充分味うことの出来る歌である。
 なお、一寸ちょっと前言した如く、巻九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜こよひは鳴かずねにけらしも」という歌がっていて、二つとも類似歌であるがどちらが本当だかつまびらかでないから、かさねて載せたという左注がある。併し歌調から見て、雄略天皇御製とせば少し新し過ぎるようだから、先ず舒明天皇御製とした方が適当だろうという説が有力である。なお小倉山であるが、「白雲の竜田の山の、滝の上の小鞍をぐらの峯」(巻九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、朝倉宮近くであるから、今の磯城しき郡朝倉村黒崎に近い山だろうということも出来る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、しも行幸でもあって竜田の小鞍峯あたりでの吟咏ぎんえいとすると、小倉山考証の疑問はおのずから冰釈ひょうしゃくするわけであるけれども、「今夜は鳴かず」とことわっているから、ふだんにその鹿の声を御聞きになったことを示し、従って崗本宮近くに小倉山という名の山があったろうと想像することとなるのである。

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今朝けさあさかりがねきつ春日山かすがやまもみぢにけらしがこころいたし 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子
 穂積皇子ほづみのみこの御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉もみじしたであろうか。身にみて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女たじまのひめみことの御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。いずれにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸やどの浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘くせまる御語気がある。

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あき穂田ほだかりがねくらけくにのほどろにもわたるかも 〔巻八・一五三九〕 聖武天皇
 天皇御製とあるが、聖武しょうむ天皇御製だろうと云われている。「秋の田の穂田を」までは序詞で、「刈り」と「雁」とに掛けている。併しこの序詞は意味の関聯があるので、却って序詞としては巧みでないのかも知れない。御製では、「くらけくに夜のほどろにも鳴きわたるかも」に中心があり、闇中あんちゅうの雁、暁天に向う夜の雁を詠歎したもうたのに特色がある。「夜のほどろ我がいでてくれば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ」(巻四・七五四)等の例がある。

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夕月夜ゆふづくよこころしぬ白露しらつゆくこのには蟋蟀こほろぎくも〔巻八・一五五二〕 湯原王
 湯原王ゆはらのおおきみ蟋蟀こおろぎの歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々しおしおとする、というのである。後世の歌なら、助詞などが多くてたるむところであろうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあいだに、間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調をまっとうしている。「心もしぬに」は、直ぐ、「白露の置く」に続くのではなく、寧ろ、「蟋蟀鳴く」に関聯しているのだが、そこが微妙な手法になっている。いずれにしても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。

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あしひきのやま黄葉もみぢば今夜こよひもかうかびゆくらむ山川やまがはに 〔巻八・一五八七〕 大伴書持
 大伴書持ふみもちの歌である。書持は旅人の子で家持の弟に当る。天平十八年に家持が書持の死を痛んだ歌を作っているから大体その年に死去したのであろう。此一首は天平十年冬、橘宿禰奈良麿たちばなのすくねならまろの邸で宴をした時諸人がきそうて歌をんだ。皆黄葉もみじを内容としているが書持の歌い方がややおもむきことにし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、「今夜こよひもか浮びゆくらむ」と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙ちせつのようなところがあって、何時いつか私の心をいたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂いわゆる万葉的常套じょうとうを脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜あいせきしている。そして天平十年が家持やかもち二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる。
 書持の兄、家持が天平勝宝二年に作った歌に、「夜くだちに寝覚ねさめて居れば河瀬かはせこころもしぬに鳴く千鳥かも」(巻十九・四一四六)というのがある。この「河瀬尋め」あたりの観照の具合に、「浮びゆくらむ」と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によって発育した歌境だかも知れない。

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大口おほくち真神まがみはらゆきはいたくなりそいへもあらなくに 〔巻八・一六三六〕 舎人娘子
 舎人娘子とねりのおとめの雪の歌である。舎人娘子の伝は未詳であるが、巻二(一一八)に舎人皇子とねりのみここたえ奉った歌があり、大宝二年の持統天皇参河みかわ行幸従駕の作、「丈夫ますらを猟矢さつやたばさみ立ち向ひ射る的形まとかたは見るにさやけし」(巻一・六一)があるから、持統天皇に仕えた宮女でもあろうか。真神まがみの原は高市郡飛鳥にあった原で、「大口の」は、狼(真神)の口が大きいので、真神の枕詞とした。
 この歌は、独詠歌というよりも誰かに贈った歌の如くである。そして、持統天皇従駕じゅうが作の如くに、儀容を張らずに、ありの儘に詠んでいて、贈った対者に対する親愛の情のあらわれている可憐な歌である。「家もあらなくに」の結句ある歌は既に記した。

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沫雪あわゆきのほどろほどろにけば平城なら京師みやこおもほゆるかも 〔巻八・一六三九〕 大伴旅人
 大伴旅人おおとものたびとが筑紫太宰府にいて、雪の降った日にみやこおもった歌である。「ほどろほどろ」は、沫雪あわゆきの降った形容だろうが、沫雪は降っても消え易く、重量感からいえば軽い感じである。厳冬の雪のように固着の感じの反対で消え易い感じである。そういう雪を、ハダレといい、副詞にしてハダラニともいい、ホドロニと転じたものであろうか。「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一に云う、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」とあるから、「はだらに」、「ほどろに」同義に使ったもののようである。また、「吾背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに」(同・二三二三)とあり、軽く消え易いように降るので、分量の問題でなく感じの問題であるようにおもえる。沫雪は消え易いけれども、降る時には勢いづいて降る。そこで、旅人の此歌も、「ほどろほどろに」と繰返しているのは、旅人はそう感じて繰返したのであろうから、分量の少い、薄く降るという解釈とは合わぬのである。特に「零りけば」であるから、単に「薄い雪」をハダレというのでは解釈がつかない。また、「はだれ降りおほひなばかも」(同・二三三七)の例も、薄く降るというよりも盛に降る心持である。そこで、ハダレは繊細に柔かに降り積る雪のことで、ホドロホドロニは、そういう柔かい感じの雪が、勢いづいて降るということになりはしないか。ホドロホドロと繰返したのは旅人のこの一首のみで、模倣せられずにしまった。
 この一首は、前にあった旅人の歌同様、線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮調子うわちょうしでなく真面目まじめな歌いぶりである。細かくふるう哀韻を聴き得ないのは、憶良おくらなどの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做みなし得るであろう。

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吾背子わがせこ二人ふたりませば幾許いくばくかこのゆきうれしからまし 〔巻八・一六五八〕 光明皇后
 藤皇后とうこうごう光明こうみょう皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原不比等ふひとの女、神亀元年二月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまい、天平宝字四年六月崩御せられた。御年六十。この美しく降った雪を、若しお二人で眺めることがかないましたならば、どんなにかおうれしいことでございましょう、というのである。く尋常に、御おもいの儘、御会話の儘を伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、「うれしからまし」の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味い得るということの、多幸を私等はおもわねばならぬのである。「見ませば」は、「草枕旅ゆく君と知らませば」(巻一・六九)、「悔しかも斯く知らませば」(巻五・七九七)、「夜わたる月にあらませば」(巻十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシという助動詞の将然段に条件づけた云い方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらいの意であろうか。くわしいことは専門の書物にゆずる。なお「あしひきの山よりせば」(巻十・二一四八)も参考になろうか。ウレシという語も、「何すとか君をいとはむ秋萩のその初花のうれしきものを」(同・二二七三)などの用法と殆ど同じである。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻9

巻第九


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巨椋おほくら入江いりえとよむなり射部人いめびと伏見ふしみ田居たゐかりわたるらし 〔巻九・一六九九〕 柿本人麿歌集
 宇治河にて作れる歌二首の一つで、人麿歌集所出の歌である。巨椋おおくらの入江は山城久世郡の北にあり、今の巨椋おぐら池である。「射部人いめびと」は、鹿猟の時に、隠れ臥して弓を射るから、「伏」につらねて枕詞とした。「高山の峯のたをりに、射部いめ立てて猪鹿しし待つ如」(巻十三・三二七八)の例がある。一首の意は、いま巨椋おおくらの入江に大きい音が聞こえている。これは群雁が伏見の水田の方に渡ってゆく音らしい、というので、「入江とよむなり」と、ずばりと云い切って、雁の群れ立つその羽音と鳴声とをめているのも古調のいいところである。そして、ういう使い方は万葉にも少く、普通は、鳴きとよむ、ぎとよむ、鳥が音とよむ等、或は「山吹の瀬のとよむなべ」(巻九・一七〇〇)、「藤江の浦に船ぞとよめる」(巻六・九三九)ぐらいの用例である。それも響、動をトヨムと訓むことにしての例である。そうして見れば、「入江響むなり」の用例は簡潔でたくみなものだと云わねばならない。この句は旧訓ヒビクナリであったのを、代匠記で先ず注意訓をして「響ハトヨムトモ読ベシ」と云い、略解りゃくげから以降こう訓むようになったのである。調べが大きく、そして何処かに鋭い響を持っているところは、或は人麿的だとうことが出来るであろう。ついでに云うと、この歌の、「田居に」の「に」は方嚮ほうこうをも含んでいる用例で、「小野をぬゆ秋津に立ちわたる雲」(巻七・一三六八)、「京方みやこべに立つ日近づく」(巻十七・三九九九)、「山の辺にい行く猟師さつをは」(巻十・二一四七)等の「に」と同じである。

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夜中よなかけぬらしかりきこゆるそらつきわたゆ 〔巻九・一七〇一〕 柿本人麿歌集
 弓削皇子ゆげのみこたてまつった歌三首中の一つで、人麿歌集所出である。一首は、もう夜が更けたと見え、雁の鳴きつつとおる空に、月も低くなりかかっている、というので、「月わたる」は、月が段々移行する趣で、傾きかかるということになる。ありの儘に淡々といい放っているのだが、決してただの淡々ではない。これも本当の日本語で日本的表現だということも出来るほどの、流暢りゅうちょうにしてなお弾力を失わない声調である。先学せんがくはこの歌にも寓意を云々うんぬんし、「弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし」(代匠記初稿本)、「いかで早く御恩沢を下したまへかし。と身のほどを下心に訴るならむ」(古義)等と云うが、これだけの自然観照をしているのに、寓意寓意といって、官位の事などを混入せしめるのは、歌の鑑賞の邪魔物である。

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うちたをり多武たむ山霧やまきりしげみかも細川ほそかはなみさわげる 〔巻九・一七〇四〕 柿本人麿歌集
 舎人皇子とねりのみこに献った歌二首中の一首で、「※(「てへん+求」、第4水準2-13-16)手折」をウチタヲリと訓むにつき未だ精確な考証はない。「打手折撓うちたをりたむ」という意から、同音の、「多武たむ」に続けた。多武峰は高市郡にある、今の塔の峯、談山たんざん神社のある談山たんざんである。細川は飛鳥川の支流、多武峰の西にあって、細川村と南淵村の間を過ぎて飛鳥川に注いでいる。一首の意は、多武の峰に雲霧しげく風が起って居るのか、細川の瀬に波が立って音が高い、というのである。
 こういう自然観入は、既に、「弓月ゆつきが岳に雲たちわたる」の歌でも云った如く、余程鋭敏に感じたものと見える。そして人麿歌集所出の歌だから、恐らく人麿の作であろう。なおこの歌の傍に、「ぬばたまの夜霧よぎりは立ちぬ衣手ころもで高屋たかやの上に棚引くまでに」(巻九・一七〇六)という舎人皇子の御歌がある。「衣手を」を、枕詞として「たか」に続けたのは、タク(カカグ)という意だろうという説がある。高屋は地名であろうが、その存在は未詳である。この御歌の調べ高いのは、やはり時代的関係で人麿などを中心とする交流のためだかも知れない。この歌にも寓意を考え、「此歌上句ハ佞人ねいじんナドノ官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニたとへ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルヲ喩フル歟」(代匠記)等というが、こういう解釈の必要は毫も無い。

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御食みけむかふ南淵山みなぶちやまいはほにはれる斑雪はだれのこりたる 〔巻九・一七〇九〕 柿本人麿歌集
 弓削皇子ゆげのみこに献った歌一首という題があり、人麿歌集所出の歌である。「御食みけむかふ」は、御食みけに供える物の名に冠らせる詞で、此処の南淵山みなぶちやまに冠らせたのは、蜷貝みながいか、御魚みなかのミナの音にってであろう。当時は蜷貝を食用としたから、こういう枕詞が出来たものである。南淵山は高市郡高市村字冬野から稲淵にかけた山である。
 一首の意は、南淵山を見ると、巌の上に雪が残っておる、これはさきごろ降った春の斑雪はだれであろう、というので、叙景の歌で、こういう佳景を歌に詠んで、皇子に献じたもので、寓意などは無かろうのに、先学等は「下心したごころあるべし」などと云って、寓意を「皇子の御恩光にもれしを訴るやうによみて献れるにや、さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや」(古義)と云々しているのは、学者等の一つの迷いである。この歌は叙景歌として、しっとりと落着いて、重厚にして単純、清厳せいげんとも謂うべき一首の味いである。「巌には」の「には」、「降れる斑雪か」の「か」のあたりに、かすかにいきを休めてしずかな感情をたたえ、結句の、「消え残りたる」は、迫らない静かなゆらぎを持った句で、清厳の気は大体ここに発している。
 この歌は、結局原本、「削遺有」とあるので、旧訓チルナミ・タレカ・ケヅリ・ノコセルであったのを、真淵の考で、千蔭の説により、「削」は「消」だとして、フレルハダレカ・キエノコリタルと訓んだ。この真淵の訓以前は、甚だしく面倒な解釈をしていたので、無理が多くて、一首の妙味を発揮することの出来なかったものである。作者と南淵山との位置関係は、「弓削皇子ノオハシマス宮ヨリ南淵山ノマヂカク指向ヒテ見ユル」(代匠記)ところであったかとおもう。

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ちたぎちながるるみづいはよどめるよどつきかげゆ 〔巻九・一七一四〕 作者不詳
 芳野宮に行幸あった時の歌だが、その御代も不明だし作者もまた不明である。一首の意は、いきおいよくたぎって流れて来た水が、一旦巌石に突当って、其処に淵をなしている。その淵に月影が映っている、というので、水面の月光を現に見て居る光景だが、その水面の説明をも加えている。淵の出来ている具合と、激流との関係をも叙しているから、全体が益々ますます印象明瞭となった。前半を直線的に云い下したから、「淀める淀」と云って曲線的にめている。以前この「淀める淀」という繰返しを気にしたが、或はこれが自然的な技法なのかも知れないし、それから「水の磐に触り」の「の」などもやはり、「の」が最も適切な助詞として受取るべきもののようである。結句もまた落付いていて大家の風格を持ったものである。此歌と一しょにある一首は、「滝の上の三船みふねの山ゆ秋津あきつべに来鳴きわたるはたれ喚子鳥よぶこどり」(巻九・一七一三)というのだが、これも相当な作で、恐らく藤原宮時代のものであろうか。真淵などもこの二首を人麿作ではなかろうかとさえ云っているほどである。

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楽浪ささなみ比良山風ひらやまかぜうみけばつりする海人あまそでかへる見ゆ 〔巻九・一七一五〕 柿本人麿歌集
 槐本歌一首とあるもので、槐本えにすのもとは柿本の誤写で人麿の作だろうという説がある。一首の意は、近江おおみ楽浪ささなみ比良ひら山を吹きおろして来る風が、湖水のうえに至ると、釣している漁夫の袖の翻るのが見える、という極く単純な内容であるが、張りある清潔音の連続で、ゆらぎの大きい点も人麿調を聯想せしめるし、人麿歌集出の歌だから、先ず人麿作と云っていいものであろう。この歌の上の句ほどの程度の、諧調音でも吾々が作るとなれば、なかなか容易のわざではない。

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泊瀬河はつせがはゆふわた我妹子わぎもこいへかなどに近づきにけり 〔巻九・一七七五〕 柿本人麿歌集
 舎人皇子とねりのみこに献った歌二首中の一つで、人麿歌集に出でたものである。「門」をカナドと訓んだのは、「金門かなとにし人の来立てば」(巻九・一七三九)等の例にったので、「金門かなと」で単に「門」という意味に使っている。一首の意味は、恋歌で、恋しい女の家に近づいた趣だが、快い調子を持って居り、伸々のびのびと、無理なく情感を湛えている点で、選ぶとせば選ばれる歌である。ただ舎人皇子に献った歌だというので、何か寓意を考え、「此歌モ亦下意アル歟。君ガ恩恵ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、たとヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムトちぎリタラムニ、泊瀬川ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ来テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟」(代匠記)等と詮索しがちであるが、これは何かの機に作ったもので、自分でも稍出来の好い歌だというので、皇子に献ったものででもあろうか。さすれば、普通の恋歌として味っていいわけである。泊瀬川はつせがわは長谷の谿たにを流れ、遂に佐保川に合する川である。

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旅人たびびと宿やどりせむしもらばぐくめあめ鶴群たづむら 〔巻九・一七九一〕 遣唐使随員の母
 天平五年夏四月、遣唐使(多治比真人広成たじひのまひとひろなり)の船が難波を出帆した時、随行員の一人の母親が詠んだ歌である。長歌は、「秋萩を妻鹿こそ、一子ひとりごに子たりといへ、鹿児かこじもの吾が独子ひとりごの、草枕旅にし行けば、竹珠たかだましじき垂り、斎戸いはひべ木綿ゆふでて、いはひつつ吾が思ふ吾子あこ真幸まさきくありこそ」(巻九・一七九〇)というのである。
 この短歌の意は、私の一人子ひとりごが、遠く唐に行って宿るだろう、その野原に霜が降ったら、天の群鶴よ、翼を以ておおうて守りくれよ、というのである。この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫する意だが、転じて養育することとなった。史記周本紀に、「飛鳥其翼を以て之を覆薦ふせんす」の例がある。「武庫の浦の入江の渚鳥すどり羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし」(巻十五・三五七八)、「大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみもちて行かましものを」(同・三五七九)があり、新羅しらぎに行く使者等の歌だから同じような心持があらわれている。なお、「あま飛ぶや雁のつばさの覆羽おほひば何処いづく漏りてか霜のりけむ」(巻十・二二三八)の例がある。
 母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想れんそうするし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、ごうもこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑こぎが無く不安が無く、子をおもうための願望を、ただその儘に云いあらわし得たのである。しかし、歌調は天平に入ってからの他の歌とも共通し、概して分かりよくなっている。

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潮気しほけたつ荒磯ありそにはあれどみづぎにしいも形見かたみとぞし 〔巻九・一七九七〕 柿本人麿歌集
「紀伊国にて作れる歌四首」という、人麿歌集出の歌があるが、その中の一首である。「行く水の」は、「過ぎ」に続く枕詞。「過ぐ」は死ぬる事である。一首の意は、潮煙の立つ荒寥こうりょうたるこの磯に、亡くなった妻の形見と思って来た、というのだが、句々緊張して然かも情景ともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(四七)の人麿作、「真草苅る荒野にはあれど黄葉もみぢばの過ぎにし君が形見かたみとぞ来し」というのと類似しているから、その手法傾向の類似によって、此歌も亦人麿作だろうと想像することが出来るであろう。巻二(一六二)に、「塩気しほけのみかをれる国に」の例がある。
 他の三首は、「黄葉もみぢばの過ぎにし子等とたづさはり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「古に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟くろうしがたを見ればさぶしも」(同・一七九八)、「玉津島たまつしま磯の浦回うらみ真砂まさごにもにほひて行かな妹が触りけむ」(同・一七九九)というので、いずれも哀深いものである。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻10

巻第十


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ひさかたのあめ香具山かぐやまこのゆふべかすみたなびくはるつらしも 〔巻十・一八一二〕 柿本人麿歌集
 春雑歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したような趣である。少くも歌調からいえば遠望であるが、香具山は低い山だし、実際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない。併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから、現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ。それから、「この夕べ」とことわっているから、はじめて霞がかかった、はじめて霞が注意せられた趣である。春立つというのは暦の上の立春というのよりも、春が来るというように解していいだろう。
 この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈きっくつでなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった。併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが、万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである。

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子等こらけのよろしき朝妻あさづま片山かたやまぎしにかすみたなびく 〔巻十・一八一八〕 柿本人麿歌集
 人麿歌集出。朝妻山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。「片山ぎし」は、その朝妻山のふもとで、一方は平地に接しているところである。「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが、朝妻という山の名は、いかにも好い、なつかしい名の山だというので、この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう。この歌も一気に詠んでいるようで、ゆらぎのあるのは或は人麿的だとっていいだろう。気持のよい、人をして苦を聯想せしめない種類のもので、やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである。
 この歌と一しょに、「巻向の檜原ひはらに立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある。これは、上半を序詞とした恋愛の歌だが、やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で、ただ口の先の技巧ではないようである。それが、「おほ」という、一方は霞がほんのりとかかっていること、一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので、此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから、此処ここに置いてあじわうことにした。

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春霞はるがすみながるるなべに青柳あをやぎえだくひもちてうぐひすくも 〔巻十・一八二一〕 作者不詳
 春雑歌、作者不詳。春霞が棚引きわたるにつれて、鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので、春の霞と、えそめる青柳と、鶯の声とであるが、鶯が青柳をくわえるように感じて、その儘こうあらわしたものであろうが、まことに好い感じで、細かい詮議せんぎの立入る必要の無いほどな歌である。併し、少し詮議するなら、はやくも萌えそめた柳を鶯が保持している感じである。柳の萌えに親しんで所有する感じであるが、鶯だからついばんで持つといったので、「くひもつ」は鶯にかかるので、「鳴く」にかかるのではない。また、ただ鶯といわずに、青柳の枝をくわえている鶯というのだから、写象もその方が複雑で気持がよい。その鶯がうれしくて鳴くというのである。詮議すればそうだが、それを単純化してかく表わすのが万葉の歌の一つの特色でもあり、佳作の一つとうべきである。この歌と一しょに、「うちなびく春立ちぬらし吾が門の柳のうれに鶯鳴きつ」(巻十・一八一九)があるが、平凡で取れない。また、「うち靡く春さり来れば小竹しぬうれ尾羽をはうちりて鶯鳴くも」(同・一八三〇)というのもあり、これも鶯の行為をこまかく云っている。鶯に親しむため、「尾羽うち触り」などというので、「枝くひもちて」というのと同じ心理に本づくのであろう。

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はるさればくれ夕月夜ゆふづくよおぼつかなしも山陰やまかげにして 〔巻十・一八七五〕 作者不詳
 作者不詳。春になって木が萌え茂り、またそれが山陰であるので、そうでなくとも光のうすい夕月夜が、一層薄くほのかだという歌である。巧みでないむしろ拙な部分の多い歌であるが、「おぼつかなしも」の句に心ひかれて此歌を抜いた。「このよひのおぼつかなきに霍公鳥ほととぎす」(巻十・一九五二)の例がある。

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春日野かすがぬけぶり※嬬等をとめら[#「女+感」、下-35-10]春野はるぬ菟芽子うはぎみてらしも 〔巻十・一八七九〕 作者不詳
 菟芽子うはぎは巻二の人麿の歌にもあった如く、和名鈔わみょうしょう薺蒿せいこうで、今の嫁菜よめなである。春日野は平城ならの京から、東方にひろがっている野で、その頃人々は打連れて野遊に出たものであった。「春日野の浅茅あさぢがうへに思ふどち遊べる今日は忘らえめやも」(巻十・一八八〇)という歌を見ても分かる。この歌で注意をひいたのは、野遊に来た娘たちが、嫁菜を煮て食べているだろうというので、嫁菜などは現代の人は余り珍重しないが、当時は野菜の中での上品であったものらしい。なごやかな春の野に娘等を配し、それが野菜を煮ているところを以て一首を作っているのが私の心をいたのであった。

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百礒城ももしき大宮人おほみやびといとまあれやうめ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしてここにつどへる 〔巻十・一八八三〕 作者不詳
「百礒城の」は大宮にかかる枕詞で、百石城ももしき即ち、多くの石を以て築いた城という意で大宮の枕詞とした。一首の意は、今日は御所に仕え申す人達も、おひまであろうか、梅花を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしにして、此処の野に集っていられる、というので、長閑のどかな光景の歌である。「大宮人はいとまあれや」の「は」は、一寸ちょっと聞くと、御役人などというものはひまなものであるだろう、というように取れるが、実はそういう意味でなく、現在大宮人の野遊を見て推量したのだから、「今日は御役人は暇があるのか」ぐらいに解釈すべきところで、奈良朝の太平豊楽を讃美する気持が作歌動機にあるのである。

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春雨はるさめころもいたとほらめや七日なぬからば七夜ななよじとや 〔巻十・一九一七〕 作者不詳
 これは、女から男にやった歌の趣で、あなたは春雨が降ったので来られなかったと仰しゃるけれど、あのくらいの雨なら、そんなに衣がれ通るという程ではございますまい。そういう事なら、若し雨が七日間降りつづいたら、七晩とも御いでにならぬと仰しゃるのでございますか、というのである。女が男に迫る語気まで伝わる歌で、如何にもきびきびと、才気もあっておもしろいものである。こういう肉声をさながら聴き得るようなものは、平安朝になるともう無い。和泉式部いずみしきぶがどうの、小野小町がどうのと云っても、もう間接な機智の歌になってしまって居る。

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はなをか霍公鳥ほととぎすきてさわたきみきつや 〔巻十・一九七六〕 作者不詳
 問答歌で、この歌は問で、答歌は「聞きつやと君が問はせる霍公鳥ほととぎすしぬぬにれてゆ鳴きわたる」(巻十・一九七七)というのであるが、問の方がやはりうまく、答の方は「鳴きわたる」などを繰返しているが、余程劣るようである。問答歌で、相手があるのだから、「君は聞きつや」で好いはずだが、こう単純にはなかなか行かぬものである。また、「の花の咲き散るをかゆ」と云って印象を鮮明にしているのも、技巧がなかなかうまいのである。「岳ゆ」の「ゆ」は、「より」の意で、「鳴きてさ渡る」という運動してゆく語に続いている。「咲き散る」という云いあらわし方も、時間を含めたもので、咲くのもあり散るのもあるからであるが、簡潔で旨い。「梅の花咲き散るそのにわれ行かむ」(同・一九〇〇)、「秋萩の咲き散る野べの夕露に」(同・二二五二)等の例がある。普通は、「梅の花わぎへの苑に咲きて散る見ゆ」(巻五・八四一)という具合に、「て」の入っているのが多い。

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真葛原まくずはらなびく秋風あきかぜ吹くごとに阿太あた大野おほぬはぎはなる 〔巻十・二〇九六〕 作者不詳
「阿太の野」は、今の吉野、下市町の西に大阿太村がある。その附近一帯の原野であっただろう。くず生繁おいしげっているのをなびかす秋風が吹く度毎に、阿太の野の萩が散るというのだが、二つとも初秋のものだし、一方は広葉のひるがえるもの、一方はこまかい紅い花というので、作者の頭には両方とも感じが乗っていたものである。それを、「吹く毎に」で融合させているので、穉拙ちせつなところに、却って古調の面目があらわれて居る。特に、「阿太の大野の萩が花散る」の、諧調音はいうに云われぬものである。

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秋風あきかぜ大和やまとゆるかりがねはいやとほざかるくもがくりつつ 〔巻十・二一二八〕 作者不詳
「大和へ越ゆる」であるから、大和に接した国、山城とか、紀伊とか、或は旅中にあって、遠く大和の方へ行く雁を見つつ詠んだものであろう。空遠く段々見えなくなる光景で、家郷をおもう情がこもっているのである。初句の、「秋風に」という云い方は、簡潔で特色のあるものだが、後世こういう云い方が繰返されたので陳腐ちんぷになった。やはりこの巻(二一三六)に、「秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし」というのがあるが、この方は声を聞いて、「雲がくるらし」と推量しているので、伝誦のあいだに変化して通俗的に分かりよくなったものであろう。即ち二一三六の方が劣るのである。

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あさにゆくかりごとくものおもへかもこゑかなしき 〔巻十・二一三七〕 作者不詳
 作者不明。初句、旧訓ツトニユク、古鈔本中、ケサ又はアサと訓んだのがある。いま朝早く、飛んで行く雁の鳴く声は、何となく物悲しい。彼等もまた私のように物思ものおもいしているからだろう、というのである。どういう物思かというに、妻恋つまこいをして、妻を慕いつつ飛んで行くという気持で、自分の心持を雁に引移して感じて居るのである。この歌の、「朝に」は時間をあらわすので、「あさに出で見る毎に」(巻八・一五〇七)、「朝な夕なにかづくちふ」(巻十一・二七九八)等の「に」と同じい。「物念へかも」は疑問の「かも」である。そう大した歌でないようでも、惻々そくそくとした哀韻があって棄てがたい。「鳴く音は」、「声の悲しき」で重複しているようだが、前はやや一般的、後は実質的で、他にも例がある。旅人たびとの歌に、「湯の原に鳴く葦鶴あしたづはわが如くいもに恋ふれや時分かず鳴く」(巻六・九六一)というのがある。

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やまにい猟夫さつをおほかれどやまにもにもさを鹿しかくも 〔巻十・二一四七〕 作者不詳
 作者不明。野にも山にもしきりに牡鹿おじかが鳴いている。山のべに行く猟師は随分多いのだが、というので、猟師は恐ろしいものだが、それでも妻恋しさにあんなに鳴いているという、哀憐のこころで詠んだもので、西洋的にいうと、恋の盲目とでもいうところであろうか。そのあわれが声調のうえに出ている点がよく、第三句で、「多かれど」と感慨をめている。結句の、「鳴くも」の如きは万葉に甚だ多い例だが、古今集以後、この「も」を段々嫌って少くなったが、こう簡潔につめていうから、感傷の厭味いやみおちいらぬともうことが出来る。この歌の近くに、「山辺には猟夫さつをのねらひかしこけど牡鹿をじか鳴くなり妻のり」(巻十・二一四九)というのがあるが、この方は常識的に露骨で、まずいものである。

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秋風あきかぜさむくなべ屋前やど浅茅あさぢがもとに蟋蟀こほろぎくも 〔巻十・二一五八〕 作者不詳
「吹くなべ」は、吹くに連れてという意味なること、既に云った。この歌はすでに選出した、「夕月夜ゆふづくよ心もしぬに白露のおくこの庭に蟋蟀こほろぎ鳴くも」(巻八・一五五二)に似ているが、「浅茅がもとに」というのが実質的でいいから取って置いた。結句の「も」は「さを鹿鳴くも」の「も」に等しい。万葉にはこの種類の歌がなかなか多いが皆相当なものだというのは、実質的で誤魔化ごまかさぬのと、奥に恋愛の心をひそめているからであるだろう。

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秋萩あきはぎえだもとををに露霜つゆじもさむくもときはなりにけるかも 〔巻十・二一七〇〕 作者不詳
 初冬の寒露のことをツユジモと云った。宣長は玉勝間たまかつまで単にツユのことだと考証しているが、必ずしもそう一徹にめずに味うことの出来る語である。萩の枝がしなうばかりに露の置いたおもむきで、そう具体的に眼前のことを云って置いて、そして、「寒くも時はなりにけるかも」と主観を云っているが、感の深い云い方であるのは、「も」、「は」などの助詞を持っているからである。

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九月ながつき時雨しぐれあめれとほり春日かすがやまいろづきにけり 〔巻十・二一八〇〕 作者不詳
 この歌も伸々のびのびとして、息をふかめて歌いあげて居る。「時雨のあめにれ通り」の句がこの歌を平板化から救って居るし、全体の具合から作者はこう感じてこう云って居るのである。「君が家の黄葉もみぢの早くりにしは時雨の雨に沾れにけらしも」(巻十・二二一七)という歌があるが平板でこの歌のように直接的なずばりとしたところがない。また「霍公鳥ほととぎすしぬぬにれて」(同・一九七七)等の例もあり人間以外のれた用例の一つである。結句の「色づきにけり」というのは集中になかなか例も多く、「時雨の雨なくしれば真木まきの葉もあらそひかねて色づきにけり」(同・二一九六)もその一例である。

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大坂おほさかれば二上ふたがみにもみぢ流る時雨しぐれりつつ 〔巻十・二一八五〕 作者不詳
 大坂は大和北葛城きたかつらぎ郡下田村で、大和から河内かわちへ越える坂になっている。二上山が南にあるから、この坂を越えてゆくと、二上山辺の黄葉が時雨に散っている光景が見えたのである。「もみぢ葉ながる」の「ながる」は水の流ると同じ語原で、流動することだから、水のほかに、「沫雪ながる」というように雪の降るのにも使っている。併し、水の流るるように、幾らか横ざまに斜に降る意があるのであろう。「天の時雨の流らふ見れば」(巻一・八二)、「ながらふるつま吹く風の」(同・五九)を見ても、雨・風にナガルの語を使っていることが分かる。「二上に」と云って、「二上山に」と云わぬのもこの歌の一特色をなしている。

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かど浅茅あさぢいろづく吉隠よなばり浪柴なみしばのもみぢるらし 〔巻十・二一九〇〕 作者不詳
吉隠よなばり浪柴なみしば」は、大和磯城しき郡、初瀬はせ町の東方一里にあり、持統天皇もこの浪芝野なみしばぬのあたりに行幸あらせられたことがある。自分の家の門前の浅茅が色づくを見ると、もう浪柴の野の黄葉が散るだろうと推量するので、こういう心理の歌が集中なかなか多いが、浪柴の野は黄葉の美しいので名高かったものの如く、また人の遊楽するところでもあったのであろう。そこでこの聯想も空漠くうばくでないのだが、私は、「浪柴の野のもみぢ散るらし」という歌調に感心したのであった。そして、「もみぢ散るらし」という結句の歌は幾つかあるような気がしていたが、実際当って見ると、この歌一首だけのようである。

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さを鹿しかつまやま岳辺をかべなる早田わさだらじしもるとも 〔巻十・二二二〇〕 作者不詳
 早稲田わさだだからもうみのっているのだが、牡鹿おじかが妻喚ぶのをあわれに思って、それを驚かすに忍びないという歌である。それをば、「霜は降るとも」と念を押して、あわれに思うとか、同情してとかいう、主観語の無いのをも注意していい。岡辺という語は、「竜田路たつたぢ岳辺をかべの道に」(巻六・九七一)、「岡辺なる藤浪見には」(巻十・一九九一)等の例にある。こういう人間的とも謂うべき歌は万葉には多い。人間的というのは、有情非情に及ぼす同感が人間的にあらわれるという意味である。

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おもはぬに時雨しぐれあめりたれど天雲あまぐもれて月夜つくよさやけし 〔巻十・二二二七〕 作者不詳
 思いがけず時雨が降ったけれど、いつのまにか天雲が無くなって、月明となったというだけのものであるが、言葉がいかにも精煉せいれんせられているようにおもう。それも専門家的の苦心惨憺さんたんというのでなくて、尋常じんじょうの言葉で無理なくすらすらと云っていて、これだけ充実したものになるということは時代のたまものといわなければならない。

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さを鹿しか入野いりぬのすすき初尾花はつをばないづれのときいもまかむ 〔巻十・二二七七〕 作者不詳
 この歌は、「いづれの時か妹が手まかむ」だけが意味内容で、何時になったら、恋しいあの児の手をいて一しょに寝ることが出来るだろうか、という感慨をらしたものだが、上は序詞で、鹿の入って行く入野、入野は地名で山城乙訓おとくに郡大原野村上羽に入野神社がある。その入野のすすき初尾花はつおばなと、いずれであろうかと云って、いずれの時かと続けたので、随分うるさいほどな技巧をらしている。こういう凝った技巧は今となっては余り感心しないものだが、当時の人は骨折ったし、読む方でも満足した。併しこの歌で私の心を引いたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手纏かむ」の句にあったのである。聖徳太子の歌に、「家にあらば妹が手かむ草枕旅にこやせるこの旅人たびとあはれ」(巻三・四一五)があった。

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あしひきのやまかもたか巻向まきむくきし子松こまつにみゆきる 〔巻十・二三一三〕 柿本人麿歌集
 巻向まきむくは高い山だろう。山のふもとがけに生えている小松にまで雪が降って来る、というので、巻向は成程なるほど高い山だと感ずる気持がある。「きし」は前にもあったが、川岸などの岸と同じく、山と平地との境あたりで、なだれになっているのを云うのである。「山かも高き」というような云い方は既に幾度も出て来て、常套じょうとう手段の如き感があるが、当時の人々は、いつもすうっとそういう云い方に運ばれて行ったものだろうから、吾々もそのつもりで味う方がいいだろう。「岸の小松にみ雪降り来る」の句を私は好いているが、小松は老松ではないけれども相当に高くとも小松といったこと、次の歌がそれを証している。

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巻向まきむく檜原ひはらもいまだくもゐねば子松こまつうれ沫雪あわゆき流る 〔巻十・二三一四〕 柿本人麿歌集
 巻向の檜林ひのきばやしは既に出た泊瀬はつせの檜林のように、広大で且つ有名であった。その檜原に未だ雨雲が掛かっていないに、近くの松のこずえにもう雪が降ってくる、という歌で、「うれゆ」の「ゆ」は、「ながる」という流動の動詞に続けたから、現象の移動をあらわすために「ゆ」と使った。消え易いだろうが、勢いづいて降ってくる沫雪の光景が、四三調の結句でよくあらわされている。この歌は人麿歌集出の歌だから、恐らく人麿自身の作であろう。

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あしひきの山道やまぢらず白橿しらかしえだもとををにゆきれれば 〔巻十・二三一五〕 柿本人麿歌集
 これも人麿歌集出で、「山道も知らず」は道も見えなくなるまで盛に雪の降る光景だが、近くにある白橿しらかしの樹の枝のたわむまで降るのを見ている方が、もっと直接だから、そういう具合にひどく雪が降ったというのを原因のようにして、それで山道も見えなくなったと云いあらわしている。前に人麿の、「矢釣山やつりやま木立こだちも見えず降りみだる」(巻三・二六二)云々の歌があったが、歌調に何処かに共通の点があるようである。この一首は、或本には三方沙弥みかたのさみの作になっているという左注がある。

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背子せこいまいまかとれば沫雪あわゆきふれりにはもほどろに 〔巻十・二三二三〕 作者不詳
「庭もほどろに」は、「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一云、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」となって居るから、ハダラニ、ホドロニ同義であろう。既に旅人たびとの歌のところで解釈した如く、柔かく消え易いような感じに降ったのをハダラニ、ホドロニというのであって、ただ「うっすらと」というのとは違うようである。「ハダレ霜」と熟したのも、消ゆるという感じと関聯している云いあらわしであろう。またハダラニ、ホドロニの例は、単に雪霜の形容であろうが、対手あいておもい、慕い、なつかしむような場合に使っているのは注意すべきで、これも消え易いという特色から、おのずから其処に関聯かんれんせしめたものであろうか。この一首も、女が男の来るのを、今か今かと思ってしばしば家から出て見る趣であるが、男が来ずに、夜にもなり、庭には、うら悲しいような、消え易いような、柔かい雪が降っている、というのである。どうしても、この「ほどろに」には、何かを慕い、何かを要求し、不満をたそうとねがうような語感のあるとおもうのは、私だけの錯覚であろうか。「今か今か」と繰返したのも、女の語気が出ていてあわれ深い。
 巻十二(二八六四)に、「吾背子を今か今かと待ち居るに夜のけぬればなげきつるかも」。巻二十(四三一一)に、「秋風に今か今かとひも解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ」がある。

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はなはだもけてなみち五百小竹ゆざさうへしもを 〔巻十・二三三六〕 作者不詳
五百小竹ゆざさ」は繁った笹のことで、五百小竹いおささの意だと云われている。もう繁った笹に霜が降ったころです、こんなに夜更よふけにお帰りにならずに、暁になってからにおしなさい、といって、女が男の帰るのを惜しむ心持の歌である。全体が民謡風で、万人のうたうのにもかなっているが、はじめは誰か、女一人がこういうことを云ったものであろう、そこに切にひびくものがあり、愛情の纏綿てんめんを伝えている。女が男の帰るのを惜しんでなるべく引きとめようとする歌は可なり万葉に多く、既に評釈した、「あかときと夜烏よがらす鳴けどこのをかの木末こぬれのうへはいまだ静けし」(巻七・一二六三)などもそうだが、万葉のこういう歌でも実質的、具体的だからいいので、後世の「きぬぎぬのわかれ」的に抽象化してはおもしろくないのである。




(私論.私見)