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ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも 〔巻十・一八一二〕 柿本人麿歌集
春雑歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したような趣である。少くも歌調からいえば遠望であるが、香具山は低い山だし、実際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない。併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから、現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ。それから、「この夕べ」とことわっているから、はじめて霞がかかった、はじめて霞が注意せられた趣である。春立つというのは暦の上の立春というのよりも、春が来るというように解していいだろう。
この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈でなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった。併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが、万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである。
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子等が名に懸けのよろしき朝妻の片山ぎしに霞たなびく 〔巻十・一八一八〕 柿本人麿歌集
人麿歌集出。朝妻山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。「片山ぎし」は、その朝妻山の麓で、一方は平地に接しているところである。「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが、朝妻という山の名は、いかにも好い、なつかしい名の山だというので、この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう。この歌も一気に詠んでいるようで、ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂っていいだろう。気持のよい、人をして苦を聯想せしめない種類のもので、やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである。
この歌と一しょに、「巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある。これは、上半を序詞とした恋愛の歌だが、やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で、ただ口の先の技巧ではないようである。それが、「おほ」という、一方は霞がほんのりとかかっていること、一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので、此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから、此処に置いて味うことにした。
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春霞ながるるなべに青柳の枝くひもちて鶯鳴くも 〔巻十・一八二一〕 作者不詳
春雑歌、作者不詳。春霞が棚引きわたるにつれて、鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので、春の霞と、萌えそめる青柳と、鶯の声とであるが、鶯が青柳をくわえるように感じて、その儘こうあらわしたものであろうが、まことに好い感じで、細かい詮議の立入る必要の無いほどな歌である。併し、少し詮議するなら、はやくも萌えそめた柳を鶯が保持している感じである。柳の萌えに親しんで所有する感じであるが、鶯だから啄んで持つといったので、「くひもつ」は鶯にかかるので、「鳴く」にかかるのではない。また、ただ鶯といわずに、青柳の枝を啄えている鶯というのだから、写象もその方が複雑で気持がよい。その鶯がうれしくて鳴くというのである。詮議すればそうだが、それを単純化してかく表わすのが万葉の歌の一つの特色でもあり、佳作の一つと謂うべきである。この歌と一しょに、「うち靡く春立ちぬらし吾が門の柳の末に鶯鳴きつ」(巻十・一八一九)があるが、平凡で取れない。また、「うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽うち触りて鶯鳴くも」(同・一八三〇)というのもあり、これも鶯の行為をこまかく云っている。鶯に親しむため、「尾羽うち触り」などというので、「枝くひもちて」というのと同じ心理に本づくのであろう。
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春されば樹の木の暗の夕月夜おぼつかなしも山陰にして 〔巻十・一八七五〕 作者不詳
作者不詳。春になって木が萌え茂り、またそれが山陰であるので、そうでなくとも光のうすい夕月夜が、一層薄くほのかだという歌である。巧みでない寧ろ拙な部分の多い歌であるが、「おぼつかなしも」の句に心ひかれて此歌を抜いた。「この夜のおぼつかなきに霍公鳥」(巻十・一九五二)の例がある。
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春日野に煙立つ見ゆ※嬬等[#「女+感」、下-35-10]し春野の菟芽子採みて煮らしも 〔巻十・一八七九〕 作者不詳
菟芽子は巻二の人麿の歌にもあった如く、和名鈔に薺蒿で、今の嫁菜である。春日野は平城の京から、東方にひろがっている野で、その頃人々は打連れて野遊に出たものであった。「春日野の浅茅がうへに思ふどち遊べる今日は忘らえめやも」(巻十・一八八〇)という歌を見ても分かる。この歌で注意をひいたのは、野遊に来た娘たちが、嫁菜を煮て食べているだろうというので、嫁菜などは現代の人は余り珍重しないが、当時は野菜の中での上品であったものらしい。和かな春の野に娘等を配し、それが野菜を煮ているところを以て一首を作っているのが私の心を牽いたのであった。
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百礒城の 大宮人は 暇あれや 梅を 頭してここに 集へる 〔巻十・一八八三〕 作者不詳
「百礒城の」は大宮にかかる枕詞で、百石城即ち、多くの石を以て築いた城という意で大宮の枕詞とした。一首の意は、今日は御所に仕え申す人達も、お閑であろうか、梅花を 頭にして、此処の野に集っていられる、というので、長閑な光景の歌である。「大宮人は暇あれや」の「は」は、一寸聞くと、御役人などというものは暇なものであるだろう、というように取れるが、実はそういう意味でなく、現在大宮人の野遊を見て推量したのだから、「今日は御役人は暇があるのか」ぐらいに解釈すべきところで、奈良朝の太平豊楽を讃美する気持が作歌動機にあるのである。
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春雨に衣は甚く通らめや七日し零らば七夜来じとや 〔巻十・一九一七〕 作者不詳
これは、女から男にやった歌の趣で、あなたは春雨が降ったので来られなかったと仰しゃるけれど、あのくらいの雨なら、そんなに衣が沾れ通るという程ではございますまい。そういう事なら、若し雨が七日間降りつづいたら、七晩とも御いでにならぬと仰しゃるのでございますか、というのである。女が男に迫る語気まで伝わる歌で、如何にもきびきびと、才気もあっておもしろいものである。こういう肉声をさながら聴き得るようなものは、平安朝になるともう無い。和泉式部がどうの、小野小町がどうのと云っても、もう間接な機智の歌になってしまって居る。
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卯の花の咲き散る岳ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや 〔巻十・一九七六〕 作者不詳
問答歌で、この歌は問で、答歌は「聞きつやと君が問はせる霍公鳥しぬぬに沾れて此ゆ鳴きわたる」(巻十・一九七七)というのであるが、問の方がやはり旨く、答の方は「鳴きわたる」などを繰返しているが、余程劣るようである。問答歌で、相手があるのだから、「君は聞きつや」で好い筈だが、こう単純にはなかなか行かぬものである。また、「卯の花の咲き散る岳ゆ」と云って印象を鮮明にしているのも、技巧がなかなか旨いのである。「岳ゆ」の「ゆ」は、「より」の意で、「鳴きてさ渡る」という運動してゆく語に続いている。「咲き散る」という云いあらわし方も、時間を含めたもので、咲くのもあり散るのもあるからであるが、簡潔で旨い。「梅の花咲き散る苑にわれ行かむ」(同・一九〇〇)、「秋萩の咲き散る野べの夕露に」(同・二二五二)等の例がある。普通は、「梅の花わぎへの苑に咲きて散る見ゆ」(巻五・八四一)という具合に、「て」の入っているのが多い。
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真葛原なびく秋風吹くごとに阿太の大野の萩が花散る 〔巻十・二〇九六〕 作者不詳
「阿太の野」は、今の吉野、下市町の西に大阿太村がある。その附近一帯の原野であっただろう。葛の生繁っているのを靡かす秋風が吹く度毎に、阿太の野の萩が散るというのだが、二つとも初秋のものだし、一方は広葉の翻えるもの、一方はこまかい紅い花というので、作者の頭には両方とも感じが乗っていたものである。それを、「吹く毎に」で融合させているので、穉拙なところに、却って古調の面目があらわれて居る。特に、「阿太の大野の萩が花散る」の、諧調音はいうに云われぬものである。
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秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲がくりつつ 〔巻十・二一二八〕 作者不詳
「大和へ越ゆる」であるから、大和に接した国、山城とか、紀伊とか、或は旅中にあって、遠く大和の方へ行く雁を見つつ詠んだものであろう。空遠く段々見えなくなる光景で、家郷をおもう情がこもっているのである。初句の、「秋風に」という云い方は、簡潔で特色のあるものだが、後世こういう云い方が繰返されたので陳腐になった。やはりこの巻(二一三六)に、「秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし」というのがあるが、この方は声を聞いて、「雲がくるらし」と推量しているので、伝誦のあいだに変化して通俗的に分かりよくなったものであろう。即ち二一三六の方が劣るのである。
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朝にゆく雁の鳴く音は吾が如くもの念へかも声の悲しき 〔巻十・二一三七〕 作者不詳
作者不明。初句、旧訓ツトニユク、古鈔本中、ケサ又はアサと訓んだのがある。いま朝早く、飛んで行く雁の鳴く声は、何となく物悲しい。彼等もまた私のように物思しているからだろう、というのである。どういう物思かというに、妻恋をして、妻を慕いつつ飛んで行くという気持で、自分の心持を雁に引移して感じて居るのである。この歌の、「朝に」は時間をあらわすので、「朝に日に出で見る毎に」(巻八・一五〇七)、「朝な夕なに潜くちふ」(巻十一・二七九八)等の「に」と同じい。「物念へかも」は疑問の「かも」である。そう大した歌でないようでも、惻々とした哀韻があって棄てがたい。「鳴く音は」、「声の悲しき」で重複しているようだが、前は稍一般的、後は実質的で、他にも例がある。旅人の歌に、「湯の原に鳴く葦鶴はわが如く妹に恋ふれや時分かず鳴く」(巻六・九六一)というのがある。
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山の辺にい行く猟夫は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも 〔巻十・二一四七〕 作者不詳
作者不明。野にも山にもしきりに牡鹿が鳴いている。山のべに行く猟師は随分多いのだが、というので、猟師は恐ろしいものだが、それでも妻恋しさにあんなに鳴いているという、哀憐のこころで詠んだもので、西洋的にいうと、恋の盲目とでもいうところであろうか。そのあわれが声調のうえに出ている点がよく、第三句で、「多かれど」と感慨を籠めている。結句の、「鳴くも」の如きは万葉に甚だ多い例だが、古今集以後、この「も」を段々嫌って少くなったが、こう簡潔につめていうから、感傷の厭味に陥らぬとも謂うことが出来る。この歌の近くに、「山辺には猟夫のねらひ恐けど牡鹿鳴くなり妻の眼を欲り」(巻十・二一四九)というのがあるが、この方は常識的に露骨で、まずいものである。
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秋風の寒く吹くなべ吾が屋前の浅茅がもとに蟋蟀鳴くも 〔巻十・二一五八〕 作者不詳
「吹くなべ」は、吹くに連れてという意味なること、既に云った。この歌は既に選出した、「夕月夜心もしぬに白露のおくこの庭に蟋蟀鳴くも」(巻八・一五五二)に似ているが、「浅茅がもとに」というのが実質的でいいから取って置いた。結句の「も」は「さを鹿鳴くも」の「も」に等しい。万葉にはこの種類の歌がなかなか多いが皆相当なものだというのは、実質的で誤魔化さぬのと、奥に恋愛の心を潜めているからであるだろう。
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秋萩の枝もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも 〔巻十・二一七〇〕 作者不詳
初冬の寒露のことをツユジモと云った。宣長は玉勝間で単にツユのことだと考証しているが、必ずしもそう一徹に極めずに味うことの出来る語である。萩の枝が撓うばかりに露の置いた趣で、そう具体的に眼前のことを云って置いて、そして、「寒くも時はなりにけるかも」と主観を云っているが、感の深い云い方であるのは、「も」、「は」などの助詞を持っているからである。
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九月の時雨の雨に沾れとほり春日の山は色づきにけり 〔巻十・二一八〇〕 作者不詳
この歌も伸々として、息をふかめて歌いあげて居る。「時雨のあめに沾れ通り」の句がこの歌を平板化から救って居るし、全体の具合から作者はこう感じてこう云って居るのである。「君が家の黄葉の早く落りにしは時雨の雨に沾れにけらしも」(巻十・二二一七)という歌があるが平板でこの歌のように直接的なずばりとしたところがない。また「霍公鳥しぬぬに沾れて」(同・一九七七)等の例もあり人間以外の沾れた用例の一つである。結句の「色づきにけり」というのは集中になかなか例も多く、「時雨の雨間なくし零れば真木の葉もあらそひかねて色づきにけり」(同・二一九六)もその一例である。
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大坂を吾が越え来れば二上にもみぢ葉流る時雨零りつつ 〔巻十・二一八五〕 作者不詳
大坂は大和北葛城郡下田村で、大和から河内へ越える坂になっている。二上山が南にあるから、この坂を越えてゆくと、二上山辺の黄葉が時雨に散っている光景が見えたのである。「もみぢ葉ながる」の「ながる」は水の流ると同じ語原で、流動することだから、水のほかに、「沫雪ながる」というように雪の降るのにも使っている。併し、水の流るるように、幾らか横ざまに斜に降る意があるのであろう。「天の時雨の流らふ見れば」(巻一・八二)、「ながらふるつま吹く風の」(同・五九)を見ても、雨・風にナガルの語を使っていることが分かる。「二上に」と云って、「二上山に」と云わぬのもこの歌の一特色をなしている。
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吾が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野のもみぢ散るらし 〔巻十・二一九〇〕 作者不詳
「吉隠の浪柴の野」は、大和磯城郡、初瀬町の東方一里にあり、持統天皇もこの浪芝野のあたりに行幸あらせられたことがある。自分の家の門前の浅茅が色づくを見ると、もう浪柴の野の黄葉が散るだろうと推量するので、こういう心理の歌が集中なかなか多いが、浪柴の野は黄葉の美しいので名高かったものの如く、また人の遊楽するところでもあったのであろう。そこでこの聯想も空漠でないのだが、私は、「浪柴の野のもみぢ散るらし」という歌調に感心したのであった。そして、「もみぢ散るらし」という結句の歌は幾つかあるような気がしていたが、実際当って見ると、この歌一首だけのようである。
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さを鹿の妻喚ぶ山の岳辺なる早田は苅らじ霜は零るとも 〔巻十・二二二〇〕 作者不詳
早稲田だからもう稔っているのだが、牡鹿が妻喚ぶのをあわれに思って、それを驚かすに忍びないという歌である。それをば、「霜は降るとも」と念を押して、あわれに思うとか、同情してとかいう、主観語の無いのをも注意していい。岡辺という語は、「竜田路の岳辺の道に」(巻六・九七一)、「岡辺なる藤浪見には」(巻十・一九九一)等の例にある。こういう人間的とも謂うべき歌は万葉には多い。人間的というのは、有情非情に及ぼす同感が人間的にあらわれるという意味である。
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思はぬに時雨の雨は零りたれど天雲霽れて月夜さやけし 〔巻十・二二二七〕 作者不詳
思いがけず時雨が降ったけれど、いつのまにか天雲が無くなって、月明となったというだけのものであるが、言葉がいかにも精煉せられているようにおもう。それも専門家的の苦心惨憺というのでなくて、尋常の言葉で無理なくすらすらと云っていて、これだけ充実したものになるということは時代の賜といわなければならない。
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さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ 〔巻十・二二七七〕 作者不詳
この歌は、「いづれの時か妹が手まかむ」だけが意味内容で、何時になったら、恋しいあの児の手を纏いて一しょに寝ることが出来るだろうか、という感慨を漏らしたものだが、上は序詞で、鹿の入って行く入野、入野は地名で山城乙訓郡大原野村上羽に入野神社がある。その入野の薄と初尾花と、いずれであろうかと云って、いずれの時かと続けたので、随分煩いほどな技巧を凝らしている。こういう凝った技巧は今となっては余り感心しないものだが、当時の人は骨折ったし、読む方でも満足した。併しこの歌で私の心を引いたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手纏かむ」の句にあったのである。聖徳太子の歌に、「家にあらば妹が手纏かむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ」(巻三・四一五)があった。
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あしひきの山かも高き巻向の岸の子松にみ雪降り来る 〔巻十・二三一三〕 柿本人麿歌集
巻向は高い山だろう。山の麓の崖に生えている小松にまで雪が降って来る、というので、巻向は成程高い山だと感ずる気持がある。「岸」は前にもあったが、川岸などの岸と同じく、山と平地との境あたりで、なだれになっているのを云うのである。「山かも高き」というような云い方は既に幾度も出て来て、常套手段の如き感があるが、当時の人々は、いつもすうっとそういう云い方に運ばれて行ったものだろうから、吾々もそのつもりで味う方がいいだろう。「岸の小松にみ雪降り来る」の句を私は好いているが、小松は老松ではないけれども相当に高くとも小松といったこと、次の歌がそれを証している。
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巻向の檜原もいまだ雲ゐねば子松が末ゆ沫雪流る 〔巻十・二三一四〕 柿本人麿歌集
巻向の檜林は既に出た泊瀬の檜林のように、広大で且つ有名であった。その檜原に未だ雨雲が掛かっていないに、近くの松の梢にもう雪が降ってくる、という歌で、「うれゆ」の「ゆ」は、「ながる」という流動の動詞に続けたから、現象の移動をあらわすために「ゆ」と使った。消え易いだろうが、勢いづいて降ってくる沫雪の光景が、四三調の結句でよくあらわされている。この歌は人麿歌集出の歌だから、恐らく人麿自身の作であろう。
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あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば 〔巻十・二三一五〕 柿本人麿歌集
これも人麿歌集出で、「山道も知らず」は道も見えなくなるまで盛に雪の降る光景だが、近くにある白橿の樹の枝の撓むまで降るのを見ている方が、もっと直接だから、そういう具合にひどく雪が降ったというのを原因のようにして、それで山道も見えなくなったと云いあらわしている。前に人麿の、「矢釣山木立も見えず降りみだる」(巻三・二六二)云々の歌があったが、歌調に何処かに共通の点があるようである。この一首は、或本には三方沙弥の作になっているという左注がある。
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吾が背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに 〔巻十・二三二三〕 作者不詳
「庭もほどろに」は、「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一云、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」となって居るから、ハダラニ、ホドロニ同義であろう。既に旅人の歌のところで解釈した如く、柔かく消え易いような感じに降ったのをハダラニ、ホドロニというのであって、ただ「薄すらと」というのとは違うようである。「ハダレ霜」と熟したのも、消ゆるという感じと関聯している云いあらわしであろう。またハダラニ、ホドロニの例は、単に雪霜の形容であろうが、対手を憶い、慕い、なつかしむような場合に使っているのは注意すべきで、これも消え易いという特色から、おのずから其処に関聯せしめたものであろうか。この一首も、女が男の来るのを、今か今かと思って屡家から出て見る趣であるが、男が来ずに、夜にもなり、庭には、うら悲しいような、消え易いような、柔かい雪が降っている、というのである。どうしても、この「ほどろに」には、何かを慕い、何かを要求し、不満を充たそうとねがうような語感のあるとおもうのは、私だけの錯覚であろうか。「今か今か」と繰返したのも、女の語気が出ていてあわれ深い。
巻十二(二八六四)に、「吾背子を今か今かと待ち居るに夜の更けぬれば嘆きつるかも」。巻二十(四三一一)に、「秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ」がある。
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はなはだも夜深けてな行き道の辺の五百小竹が上に霜の降る夜を 〔巻十・二三三六〕 作者不詳
「五百小竹」は繁った笹のことで、五百小竹の意だと云われている。もう繁った笹に霜が降ったころです、こんなに夜更にお帰りにならずに、暁になってからにおしなさい、といって、女が男の帰るのを惜しむ心持の歌である。全体が民謡風で、万人の唄うのにも適っているが、はじめは誰か、女一人がこういうことを云ったものであろう、そこに切にひびくものがあり、愛情の纏綿を伝えている。女が男の帰るのを惜しんでなるべく引きとめようとする歌は可なり万葉に多く、既に評釈した、「あかときと夜烏鳴けどこのをかの木末のうへはいまだ静けし」(巻七・一二六三)などもそうだが、万葉のこういう歌でも実質的、具体的だからいいので、後世の「きぬぎぬのわかれ」的に抽象化してはおもしろくないのである。 |