斎藤茂吉の万葉秀歌考巻14、15、16

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日

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 2015.09.07日 れんだいこ拝


斎藤茂吉の万葉秀歌考巻14

巻第十四


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夏麻なつそ海上潟うなかみがたおきふねはとどめむさふけにけり 〔巻十四・三三四八〕 東歌
 この巻十四は、いわゆる「東歌あずまうた」になるのであるが、東歌は、東国地方に行われた、概して民謡風な短歌を蒐集しゅうしゅう分類したもので、従って巻十・十一・十二あたりと同様作者が分からない。併し、作者も単一でなく、中には京から来た役人、旅人等の作もあろうし、京に住んだことのある遊行女婦うかれめのたぐいも交っていようし、或は他から流れこんだものが少しく変形したものもあり、京に伝達せられるまで、(折口博士は、大倭宮廷に漸次に貯留せられたものと考えている。)幾らか手を入れたものもあるだろう。そういう具合に単一でないが、大体から見て東国の人々によって何時いつのまにか作られ、民謡として行われていたものが大部分を占めるようである。従って巻十四の東歌だけでも、年代は相当の期間が含まれているものの如く、歌風は、大体訛語かごを交えた特有の歌調であるが、必ずしも同一歌調で統一せられたものではない。
夏麻なつそひく」はなつあさを引く畑畝はたうねのウネのウからウナカミのウに続けて枕詞とした。「海上潟」は下総しもうさ海上うなかみ郡があり、即ち利根とね川の海に注ぐあたりであるが、この東歌で、「右一首、上総国かみつふさのくにの歌」とあるのは、いにしえ上総にも海上郡があり、今市原郡に合併せられた、その海上うなかみであろう。そうすれば東京湾にのぞんだ姉ヶ崎附近だろうとせられて居る。一首の意は、海上潟の沖にあるのところに、船をめよう、今夜はもうけてしまった、というのである。単純素朴で古風な民謡のにおいのする歌である。「船はとどめむ」はただの意嚮いこうでなく感慨が籠っていてそこで一たび休止している。それから結句を二たび起して詠歎の助動詞で止めているから、下の句で二度休止がある。此歌は、伸々のびのびとした歌調で特有な東歌ぶりと似ないので、略解りゃくげなどでは、東国にいた京役人の作か、東国から出でて京に仕えた人の作ででもあろうかと疑っている。また巻七(一一七六)に、「夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず」というのがあって、上の句は全く同一である。この巻七の歌も古い調子のものだから、どちらかが原歌で他は少し変化したものであろう。巻七の歌も「※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅にて作れる」の中に集められているのだから、東国での作だろうと想像せられるにより、二つとも伝誦せられているうち、一つは東歌として蒐集せられたものの中に入ったものであろう。二つ較べると巻七の方が原歌のようでもある。
 この歌の次に、「葛飾かつしかの真間の浦廻うらみぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」(巻十四・三三四九)という東歌(下総国歌)があるのに、巻七(一二二八)に、「風早の三穂の浦廻を傍ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」という歌があって、下の句は全く同じであり、風早の三穂は風早を風の強いことに解し、三穂を駿河するがの三保だとせば、どちらかが原歌で、伝誦せられて行った近国の地名に変形したもので、巻七の歌の方が原歌らしくもある。しかし、此等の東歌というのも、やはり東国で民謡として行われていたことは確かであろう。仙覚抄せんがくしょうに、「ヨソヘヨメル心アルベシ」云々とあるのは、民謡的なものに感じての説だとおもう。

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筑波嶺つくばねゆきかもらるいなをかもかなしきろがにぬさるかも 〔巻十四・三三五一〕 東歌
 常陸国ひたちのくにの歌という左注が附いている。一首の意は、白く見えるのは筑波山にもう雪が降ったのか知ら、いやそうではなかろう、可哀かあいい娘が白いぬのを干しているのだろう、というほどの意で、「否をかも」は「否かも」で「を」は調子のうえで添えたもの、文法では感歎詞の中に入れてある。「相見ては千歳やぬるいなをかも我やしか念ふ君待ちがてに」(巻十一・二五三九)の「否をかも」と同じである。古樸こぼくな民謡風のもので、二つの聯想れんそうむしろ原始的である。それに、「降れる」というところを「降らる」となまり、「乾せる」というところを「乾さる」と訛り、「かも」という助詞を三つも繰返して調子を取り、流動性進行性の声調を形成しているので、一種の快感を以て労働と共にうたうことも出来る性質のものである。「かなしき」は、心のせつに動く場合に用い、此処では可哀かあいくて為方しかたのないという程に用いている。「児ろ」の「ろ」は親しんでつけた接尾辞で、複数をあらわしてはいない。この歌はなかなか愛すべきもので、東歌の中でもすぐれて居る。
 ニヌは原文「爾努」で旧訓ニノ。仙覚抄でニヌとみ、こうでニヌと訓んだ。ぬのの事だが、古鈔本中、「」が「」になっているもの(類聚古集るいじゅうこしゅう)があるから、そうすれば、キヌと訓むことになる。即ちきぬとなるのである。

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信濃しなぬなる須賀すが荒野あらのにほととぎすこゑきけばときぎにけり 〔巻十四・三三五二〕 東歌
「すがの荒野」を地名とすると、和名鈔わみょうしょうの筑摩郡苧賀ソガ郷で、あずさ川と楢井ならい川との間の曠野こうやだとする説(地名辞書)が有力だが、他にも説があって一定しない。元は普通名詞即ち菅の生えて居る荒野という意味から来た土地の名だろうから、此処は信濃の一地名とぼんやり考えても味うことが出来る。一首の意は、信濃の国の須賀の荒野に、霍公鳥ほととぎすの鳴く声を聞くと、もう時季が過ぎて夏になった、というのである。霍公鳥の鳴く頃になったという詠歎えいたんで、この季節の移動を詠歎する歌は集中に多いが、この歌は民謡風なものだから、何か相聞的な感じが背景にひそまっているだろう。「秋萩の下葉の黄葉もみぢ花につぐ時過ぎ行かばのち恋ひむかも」(巻十・二二〇九)、次に評釈する、「このくれの時移りなば」(巻十四・三三五五)、「わたつみの沖つ繩海苔なはのり来る時と妹が待つらむ月は経につつ」(巻十五・三六六三)、「恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物ふ時に来鳴きとよむる」(同・三七八〇)等の心持を参照すれば、此歌の背後にある恋愛情調をも感じ得るのである。つまり誰かを待つという情調であろう。そして信濃国でこういう歌が労働のあいまなどに歌われたものであろう。民謡だから自分等のうたう歌に地名を入れるので、他にも例が多く、必ずしも※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅にあって詠んだとせずともいいであろう。「アラノ」(安良能)といって「アラヌ」(安良努)と云わなかったのは、この歌ではアラノと発音していたことが分かる。一種の地方なまりであっただろう。この歌の調子はほかの東歌と似ていないが、こういう歌をも信濃でうたっていたと解釈すべきで、共に日本語だから共通していてごうもかまわぬのである。賀茂真淵かものまぶちが、この歌を模倣して、「信濃なる菅の荒野を飛ぶわしつばさもたわに吹くあらしかな」とんだが、未だ万葉調になり得なかった。「吹く嵐かな」などという弱い結句は万葉には絶対に無い。

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あまはら富士ふじ柴山しばやまくれときゆつりなばはずかもあらむ 〔巻十四・三三五五〕 東歌
 これは駿河国歌で相聞として分類している。「天のはら富士の柴山木のくれの」までは「くれ」(夕ぐれ)に続く序詞で、空にそびえている富士山の森林のうす暗い写生から来ているのである。一首の意は夕方に逢おうと約束したから、こうして待っているがなかなか来ず、このまま時が移って行ったら逢うことが出来ないのではないか知らん、というので、この内容なら普通であるが、そのあたりで歌った民謡で、富士の森林を入れてあるし、ウツリ(移り)をユツリとなまっていたりするので、東歌として集められたものであろう。この歌の、「時移りなば」の句は、時間的には短いが、その気持は、前の「信濃なる」の歌を解釈する参考となるものである。取りたてていう程の歌でないが、「妹が名も吾が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺たかねの燃えつつわたれ」(巻十一・二六九七)などと共に、富士山を詠みこんでいるので注意したのであった。

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足柄あしがら彼面此面をてもこのもわなのかなるしづみあれひもく 〔巻十四・三三六一〕 東歌
 相模国さがむのくに歌で、足柄は範囲はひろかったが、此処は足柄山とぼんやり云っている。「彼面此面をてもこのも」は熟語で、あちらにもこちらにもというのであろう。下に、「筑波嶺つくばねのをてもこのもに」(三三九三)という例があり、東歌的なまりの口調である。巻十七(四〇一一)の長歌で家持が、「あしひきのをてもこのもに鳥網となみ張り」云々うんぬんと使ったのは、此歌の模倣で必ずしも都会語ではなかっただろう。「かなる間しづみ」はよく分からない。代匠記では鹿鳴間沈カナルマシヅミで、鹿の鳴いて来る間に屏息へいそくして待っている意に取ったが、或は、「か鳴る間しづみ」で、わなに動物がかかって音立てること、鳴子なるこのような装置でその音響を知ることで、「か鳴る」の「か」は接頭辞であろう。その動物のかかる問、じっと静かにして、息をこらしてということになるであろう。
 一首の意は、「かなる間しづみ」までは序詞で、いろいろとうるさいうわさなどが立つが、じっとこらえて、こうしてお前とおれは寝るのだよ、というのである。代匠記に、「シノビテ通フ所ニモ皆人ノふしシヅマルヲ待テ児等モ吾モ共ニ下紐解トナリ」と云っている。結句の、八音の中に、「児ろあれ紐解く」即ち、可哀い娘とおれとがお互に着物の紐を解いて寝る、という複雑なことを入れてあり、それが一首の眼目なのだから、調子がつまってなだらかにびていない。それに上の方も順じて調子がやはり重く圧搾あっさくされているが、全体としては進行的な調子で、労働歌の一種と感ずることが出来る。恐らく足柄山中の樵夫きこりなどの間に行われたものであっただろう。調子も古く感じ方材料も古樸こぼくでおもしろいものである。
荒男あらしをのい小箭をさ手挾たばさみ向ひ立ちかなるしづみ出でてとが来る」(巻二十・四四三〇)は「昔年さきつとし防人さきもりの歌」とことわってあるが、此歌にも、「かなる間しづみ」という語が入っている。併し此語は巻十四の歌語を踏まえて作ったものと看做みなすことも出来るから、この語の原意は巻十四の方にあるだろう。なお、「はろばろに家を思ひ負征箭おひそやのそよと鳴るまで、歎きつるかも」(巻二十・四三九八)、「この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも」(巻十三・三二七〇)がある。

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がなしみさ鎌倉かまくら美奈みな瀬河せがはしほつなむか 〔巻十四・三三六六〕 東歌
 相模国歌で、「みなの瀬河」は今の稲瀬川で坂の下の東で海に入る小川である。一首は、恋しくなってあの娘の処に寝に行くが、途中の鎌倉のみなのせ川に潮が満ちて渡りにくくなっているだろうか、というのである。「潮満つなむか」は、「潮満つらむか」のなまりである。内容は古樸な民謡で取りたてていう程のものではないが、歌調が快く音楽的に運ばれて行くのが特色で、こういう独特の動律どうりつで進んでゆく歌調は、人麿の歌などにも無いものである。例えば、「玉裳の裾に潮みつらむか」(巻一・四〇)でもこう無邪気には行かぬところがある。また、「まがなしみらくはしけらくさらくは伊豆の高嶺たかね鳴沢なるさはなすよ」(三三五八或本歌)などでも東歌的動律だが、この方には繰返しが目立つのに、鎌倉の歌の方はそれが目立たずに快い音のあるのは不思議である。

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武蔵野むさしぬ小岫をぐききざしわかにしよひよりろにはなふよ 〔巻十四・三三七五〕 東歌
「岫」は和名鈔わみょうしょうに山穴似袖云々といっているが、小山にほらなどがあって雉子の住む処を聯想せしめる。雉が飛立つので、「立ち別れ」に続く序詞とした。「逢はなふよ」は「逢わず・よ」「逢わぬ・よ」、「逢わない・よ」である。一首の意は、あの晩に別れたきり、いまだに恋しい夫にわずに居ります、という女の歌であるが、結句のなまりと、「よ」なども特殊なものにしている。東歌には、結句に、「鳴沢なるさはなすよ」などもあり、他に余りない結句である。この歌の結句は、「崩岸辺あずへから駒のあやはども人妻ひとづまろをまゆかせらふも」(巻十四・三五四一)(目ゆかせざらむや)のに似ている。一首全体として見れば、武蔵野と丘陵と雉の生活と、別れた夫を慕う心と合体がったいして邪気の無い快い歌を形成している。

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鳰鳥にほどり葛飾かづしか早稲わせにへすともかなしきをてめやも 〔巻十四・三三八六〕 東歌
 下総国の歌。鳰鳥(かいつぶり)は水にかずくので、葛飾かずしかのかずへの枕詞とした。葛飾は今の葛飾かつしか区一帯。「にえ」は神に新穀を供え祭ること、即ち新嘗にいなめの祭をいう。「にへ」はにえで、「にひなめ」は、「にへのいみ」(折口博士)の義だとしてある。一首の意は、今はたとい葛飾で出来た早稲の新米を神様に供えてお祭をしている大切な、身をきよくしていなければならない時であっても、あのいとしいお方のことですから、むなしく家の外に立たせては置きませぬ、というので、「その愛しき」の「その」は憶良の歌にもあった、「そのかの母も」(巻三・三三七)の場合と同じである。軽く「あの」ぐらいにとればいい。それにしても、自分の恋しいあのお方ということを、「そのかなしきを」という、簡潔でぞくぞくさせる程の情味もこもりいる、まことにうまい言葉である。農業民謡で、稲扱いねこきなどをしながら大勢して歌うこともまた可能である。

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信濃路しなぬぢいま墾道はりみち刈株かりばねあしましむなくつ 〔巻十四・三三九九〕 東歌
 信濃国歌。「今の墾道はりみち」は、まだ最近の墾道というので、「新治にひばりの今つくるみちさやかにも聞きにけるかも妹が上のことを」(巻十二・二八五五)が参考になる。一首の意は、信濃の国の此処ここの新開道路は、未だ出来たばかりで、木や竹の刈株があってあぶないから、踏んで足を痛めてはなりませぬ、吾が夫よ、くつをお穿きなさい、というのである。履は藁靴わらぐつであっただろう。これも、旅人の気持でなく、現在其処そこにいても、「信濃路は」といっていること、前の、「信濃なる須賀の荒野に」と同じである。山野を歩いて為事しごとをする夫の気持でやはり農業歌の一種とていい。「かりばね」は「苅れる根を言ふべし」(略解)だが、原意はよく分からぬ。近時「刈生根かりふね」の転(井上博士)だろうという説をたてた。私の郷里では足を踏むことをカックイ・フムといっている。

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こひはまさかもかな草枕くさまくら多胡たこ入野いりぬのおくもかなしも 〔巻十四・三四〇三〕 東歌
 上野国かみつけぬのくに歌。「多胡」は上野国多胡たこ郡。今は多野たの郡に属した。「草枕」を「多胡」の枕詞としたのは、タビのタに続けたので変則の一つである。垂水之水能早敷八師タルミノミヅノハシキヤシ(巻十二・三〇二五)で、ハヤシのハとハシキヤシのハに続けたたぐいである。「入野」は山の方へ深く入りこんだ野という意味であろう。「まさか」は「まさか」で、まさしく、現に、今、等の意に落着くだろう。「梓弓あづさゆみすゑはし知らず然れどもまさかは君にりにしものを」(巻十二・二九八五)、「しらがつく木綿ゆふは花物ことこそは何時いつまさかも常忘らえね」(同・二九九六)、「伊香保ろのそひ榛原はりはらねもころに奥をな兼ねそまさかし善かば」(巻十四・三四一〇)、「さ百合ゆりゆりも逢はむと思へこそ今のまさかうるはしみすれ」(巻十八・四〇八八)等の例がある。一首の意は、自分の恋は、いまげんにこんなにも深く強い。多胡の入野のように(序詞)奥の奥まで相かわらずいつまでも深くて強い、というのである。「まさかも」、それから、「おくも」と続いており、「かなし」を繰返しているが、このカナシという音は何ともいえぬ響を伝えている。民謡的に誰がうたってもいい。多胡郡に働く人々の口から口へと伝わったものと見えるが、甘美でもあり切実の悲哀もあり、不思議にも身にみるいい歌である。この歌は男の歌か女の歌か、略解も古義も女の歌として居り、「夫の旅別の其際そのきはもかなし、わかれて末に思はむも悲しといふ也」(略解)とあるが、かえって男の歌として解しやすいようでもある。併しこういうのになると、男でも女でも、その境界を超えたひびきがあり、無論作者がどういう者だろうかなどという個人を絶してしまっている。

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上毛野かみつけぬ安蘇あそ真麻まそむらむだれどかぬをどかがせむ 〔巻十四・三四〇四〕 東歌
 上野国歌。「安蘇」は下野しもつけ安蘇郡であろうが、もとは上野こうずけに入っていたと見える。この巻に、「下毛野しもつけぬ安素あその河原よ」(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかっていたことが分かる。「真麻まそむら」は、真麻まあさむれで、それを刈ったものを抱きかかえて運ぶから、「むだき」に続く序詞とした。一首の意は、真麻むらの麻の束をきかかえるように(序詞)可哀いお前を抱いて寝たが、飽きるということがない、どうしたらいいのか、というのである。これも農民のあいだに伝わったものであろうが、序詞も無理でなく、実際生活を暗指あんじしつつ恋愛情緒れんあいじょうしょを具体的にいって、少しもみだらな感をともなわず、ねたましい感をも伴わないのは、全体が邪気じゃきなくこころよいものだからであろう。それにはアドカ・アガセムというなまりも手伝っているらしく思われるけれども、単にそれのみでなく、「あどか吾がせむ」という切実な句が此歌の価値を高めているからであろう。この句は万葉に「あどせろとかもあやにかなしき」(巻十四・三四六五)の例があるのみで、ほかは、「家に行きて如何にか吾がせむ枕づく嬬屋つまやさぶしく思ほゆべしも」(巻五・七九五)、「斯くばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ人目繁くて」(巻四・七五二)、「今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむるすべのなさ」(巻十七・三九二八)等の例があるのみである。東歌の中でも私はこの歌を愛している。

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伊香保いかほろのやさかのゐでぬじあらはろまでもさをさてば 〔巻十四・三四一四〕 東歌
「やさかのゐで」は八坂という処にあった河水をたたえ止めた堰(いぜき・せき・つつみ)であろう。八坂は今の伊香保温泉の東南に水沢という処がある、其処だろうと云われている。一首の意は、伊香保の八坂のせきに虹があらわれた(序詞)どうせあらわれるまでは(人に知れるまでは)、お前と一しょにこうして寝ていたいものだ、というのであるが、これも「さ寝をさ寝てば」などと云っても、不潔を感ぜぬのみならず、河の井堰いぜきの上に立った虹の写象と共に、一種不思議な快いものを感ぜしめる。虹の歌は万葉集中此一首のみだからなお珍重すべきものである。虹は此歌では、努自ヌジと書いてあるが、能自ノジ禰自ネジ爾自ニジ等と変化した。古事記に、「うるはしとさ寝しさ寝てば苅薦かりごもの乱れば乱れさ寝しさ寝てば」という歌謡があり、この巻にも、「河上かはかみ根白ねじろ高萱たかがやあやにあやにさ寝さ寝てこそことにしか」(三四九七)というのがあって参考になる。「あらはろまで」は、「顕るまで」のなまりで、こういう訛もまた一首の鑑賞に関係あらしめている。虹の如き鮮明な視覚写象と、男女相寝るということとの融合は、単に常識的合理な聯想に依らぬ場合があり、こういう点になると古代人の方が我々よりも上手うわてのようである。

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下毛野しもつけぬみかものやま小楢こなら目細まぐはろはたむ 〔巻十四・三四二四〕 東歌
下毛野しもつけぬ安蘇あそ河原かはらいしまずそらゆとぬよこころれ 〔巻十四・三四二五〕 東歌
 下野歌を二つ一しょに此処に書いた。第一の歌、「みかも」は、延喜式えんぎしきの都賀郡三鴨駅、今、下都賀郡、岩舟駅の近くにある。下野の三鴨の山に茂っている小楢の葉の美しいように、美しく可哀かあいらしいあの娘は、誰の妻になって、食事の器を持つだろう、御飯の世話をするだろう、というのだが、やはりつまりはおれの妻になるのだということになる。疑問に云っているがつまりは自らに肯定する云い方である。古代民謡は、ただ悲観的に反省し諦念ていねんしてしまわないのが普通だからである。それからこの小楢の如く美しいというのは、楢の若葉の感じである。結句多賀家可母多牟タカケカモタムは、「手カケカモタム」(仙覚抄)、「高キカモタムニテ、高キハ夫ナリ。夫ハ妻ノタメニハ天ナレバ高キト云ヘリ」(代匠記)等と解したが、大神真潮おおみわのましおが、誰笥歟将持タガケカモタムの意に解し、古義で紹介した。「香具山は畝火をしと」の解と共に永久不滅である。但し、拾穂抄しゅうすいしょうに既に、「誰がか持たむ」の説があるが、「笥」までは季吟きぎんも思い及ばなかったのである。
 第二の歌は、前にあった安蘇と同じ土地で、そこの河である。安蘇河の河原の石も踏まず、空から飛んでお前のところにやって来たのだ、何が何だか分からず宙を飛ぶような気持でやって来たのだから、これ程おもうおれにお前の気持をいって呉れ、というので、「空ゆと来ぬ」が特殊ないい方で、今の言葉なら、「宙を飛んで来た」ぐらいになる。巻十二(二九五〇)に、「吾妹子が夜戸出よとで光儀すがた見てしよりこころそらなりつちは踏めども」も、足が地に着かず、宙を歩いているような気持をあらわしている。
 こういう歌は、当時の人々は楽々と作り、快く相伝えていたものとおもうが、現在の吾々は、ただそれを珍らしいと思うばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小楢の若葉の日光に透きとおるような柔かさと、女の膚膩ふじの健康な血をとおしている具合とを合体せしめる感覚にも感心せしめられるし、「誰が笥か持たむ」という簡潔で、女の行為が男に接触する程な鮮明を保持せしめているいい方も、石も踏まずとことわって、さて虚空を飛んで来たという云い方も、一体何処にこういう技法力があるのだろうとおもう程である。ただもともと民謡だから、全体が軽妙に運ばれたもので、そこが個人的独詠歌などと違う点なのである。

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すず早馬駅はゆまうまや堤井つつみゐみづをたまへな妹が直手ただてよ 〔巻十四・三四三九〕 東歌
 雑歌。「早馬駅はゆまうまや」は、早馬はやうまを準備してあるうまやという意。「堤井」は、湧いている泉を囲った井で、古代の井はおおむねそれであった。一首の意は、鈴の音の聞こえる、早馬のいる駅(宿場)の泉の水は、どうか美しいあなたの直接の手でむすんで飲ましてください、というのである。この歌も、早馬を引く馬方などの口でうたわれたものか、少くともそういう場処が作歌の中心であっただろう。そして駅にはいにしえもかわらぬ可哀かあいい女がいただろうから、そこで、「妹が直手ただてよ」という如き表現が出来るので、実にうまいものである。「直手よ」の「よ」は「より」で、直接あなたの手からというのである。いずれにしても快い歌である。

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おもしろきをばなきそ古草ふるくさ新草にひくさまじりひはふるがに 〔巻十四・三四五二〕 東歌
 こころよいこの春の野を焼くな。去年の冬枯れた古草にまじって、新しい春の草が生えて来るから、というので、「生ふるがに」は、生うべきものだからというぐらいの意である。「おもしろし」も今の語感よりも、もっと感に入る語感で、万葉で※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、下-120-6]怜の字を当てているのを以ても分かる。こころよい、なつかしい、身にみる等とほんしていい場合が多い。※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、下-120-7]怜を「あはれ」とも訓むから、その情調が入っているのである。この歌の字面はそれだけだが、この歌は民謡で、野の草を哀憐あいれんする気持の歌だから、引いて人事の心持、古妻ふるづまというような心持にも聯想れんそうが向くのであるが、現在の私等はあっさりと鑑賞して却って有益な歌なのかも知れない。

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いねけばかが今宵こよひもか殿との稚子わくごりてなげかむ 〔巻十四・三四五九〕 東歌
かがる」は、ひびのきれることで、アカガリ、アカギレともいう。「殿の稚子わくご」は、地方の国守とか郡守とか豪族とかいう家柄の若君をいうので、歌う者はそれよりも身分のいやしい農婦として使われている者か、或は村里の娘たちという種類のおもむきである。一首の意は、稲をいてこんなにひびの切れた私の手をば、今夜も殿の若君が取られて、可哀そうだとおっしゃることでしょう、御一しょになる時にお恥しい心持もするという余情がこもっている。内容がやや戯曲的であるから、いろいろ敷衍ふえんして解釈しがちであるが、これも農民のあいだに行われた労働歌の一種で、農婦等がこぞってうたうのに適したものである。それだから「殿の若子わくご」も、この「我が手」の主人も、たれであってもかまわぬのである。ただこの歌には、身分のいい青年に接近している若い農小婦の純粋なつつましい語気が聞かれるので、それで吾々は感にたえぬ程になるのだが、よく味えばやはり一般民謡の特質に触れるのである。併しこれだけの民謡を生んだのは、まさに世界第一流の民謡国だという証拠しょうこである。なおこの巻に、「都武賀野つむがぬに鈴がおときこゆ上志太かむしだの殿の仲子なかち鳥狩とがりすらしも」(三四三八)というのがあって、一しょにして鑑賞することが出来る。「仲子」は次男のことである。

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あしひきの山沢人やまさはびと人多ひとさはにまなといふがあやにかなしさ 〔巻十四・三四六二〕 東歌
「足引の山沢人の」までは「人さはに」に続く序詞で、山の谿沢たにさわに住んで居る人々、樵夫きこりなどのたぐいをいう。「まなといふ児」は、可哀かあいいと評判されている娘ということである。そこで一首は、山沢人だち(序詞)おおぜいの人々が美しい可哀いと評判しているあの娘は、私にはこの上もなく可哀い、恋しい、というのである。この歌も普通と違ったところがある。自分の恋しているあの娘は人なかでも評判がいいというので内心喜ぶ心持もあり、人なかで評判のいい娘を私も恋しているので不安で苦しくもあるという気持もあるのである。山間にすみついて働く人々の中にこういう民謡があったものと見える。「多麻河にさら手作てづくりさらさらになにぞこの児のここだかなしき」(巻十四・三三七三)、「高麗錦こまにしきひもけてるがろとかもあやにかなしき」(同・三四六五)、「垣越くへごしに麦小馬こうまのはつはつに相見し児らしあやにかなしも」(同・三五三七)等の例がある。

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植竹うゑたけもとさへとよでてなば何方いづしきてかいもなげかむ 〔巻十四・三四七四〕 東歌
「植竹の」は竹林のことで、竹の根本ねもとから「本」への枕詞とした。家じゅう大騒ぎして私が旅立ったら、妻はさぞ歎き悲しむことだろう、というので、代匠記以来、防人さきもりなどに出立の時の歌ででもあろうかといっている。この巻に、「霞ゐる富士の山傍やまびに我が来なば何方いづち向きてか妹が歎かむ」(三三五七)の例がある。この歌を私はかつて、女と言い争うか何かして、あらあらしく騒いで女の家を立退たちのおもむきに解したことがある。即ち植竹の幹の本迄響くように荒々しく怒って立退くあとで、妹を可哀くおもって反省した趣にしたのであった。そして、「背向そがひしく今しくやしも」(巻七・一四一二)などをも参照にしたのであったが、今回は契沖以下の先輩の注釈書に従うことにしたけれども、必ずしも防人出立とせずに、民謡的情事の一場面としても味うことが出来るのである。

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麻苧あさをらを麻笥をけふすさまずとも明日あすせざめやいざせ小床をどこに 〔巻十四・三四八四〕 東歌
 麻苧あさおの糸を娘がんでいるのにむかって男がいいかける趣の歌で、「ら」は添えたものである。「ふすさに」は沢山たくさんの意。巻八(一五四九)にある、「なでしこの花ふさ手折り吾は去なむ」の「ふさ」、巻十七(三九四三)にある、「我背子がふさ手折りける」の「ふさ」も同じ語であろうか。一首は、麻苧をそんなに沢山おけつむがずとも、また明日が無いのではないから、さあ小床おどこに行こう、というのである。「いざせ」の「いざ」は呼びかける語、「せ」は「」で、この場合は行こうということになる。「明日きせざめや」を契沖は、「明日着セザラメヤ」といたが、それよりも「明日来せざらめや也。明日来といふは、すべて月日の事を来歴きへゆくと言ひて、明日の日の来る事也」という略解りゃくげ(宣長説)の穏当を取るべきであろう。これも田園民謡で、直接法をしきりに用いているのがおもしろく、特に結句の「いざ・せ・小床に」というのはただの七音の中にこれだけ詰めこんで、調子を破らないのは、なかなかうまいものである。

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もち山若やまわかかへるでの黄葉もみづまでもとどかふ 〔巻十四・三四九四〕 東歌
「児持山」は伊香保温泉からも見える山で、渋川町の北方にそびえている。一首は、あの子持山の春のかえでの若葉が、秋になって黄葉もみじするまでも、お前と一しょに寝ようと思うが、お前はどうおもう、というので、誇張するというのは既に親しんでいる証拠でもあり、その親しみが露骨でもあるから、一般化し得る特色をつのである。「汝はどか思ふ」と促すところは、会話の語気そのままであるので感じに乗ってくるのである。「吾をぞも汝にすとふ、汝はいかにふや」(巻十三・三三〇九)という長歌の句は、この東歌に比して間が延びて居るように感ずるのである。

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たかくもわれさへにきみきなな高峰たかねひて 〔巻十四・三五一四〕 東歌
 高い山に雲が着くように、私までも、あなたに着きましょう、あなたを高い山だとおもって、というので、何か諧謔かいぎゃくの調のあるのは、親しみのうちに大勢してうたえるようにも出来ており、民謡特有の無遠慮な直接性があるのである。高峰を繰返してもいるが、結句の「高峰ともひて」には親しい甘いところがあっていい。

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おもわすれむしだくにはふくもつつしぬばせ 〔巻十四・三五一五〕 東歌
 あなたが旅にあって、しも私の顔をお忘れになるような時は、国にあふれて立つ雲の峰を御覧になっておもい出して下さいませ、というので、これは寄雲恋というように分類しているが、雲の峰を常に見ているのでこういう聯想になったものであろう。この誇張らしいいいかた諧謔かいぎゃくでない重々しいところがあるので感が深いようである。この歌の次の、「対馬つしま下雲したぐもあらなふかむにたなびく雲を見つつ偲ばも」(巻十四・三五一六)は、男の歌らしいから、防人さきもりの歌ででもあって、前のは防人の妻ででもあろうか。なお、「面形おもがたの忘れむしだ大野おほぬろにたなびく雲を見つつ偲ばむ」(同・三五二〇)も類似の歌であるが、この「国溢り」の歌が一番よい。なお、「南吹き雪解ゆきげはふりて、射水がはながる水泡みなわの」(巻十八・四一〇六)、「射水いみづがは雪解はふりて、行く水のいやましにのみ、たづがなくなごえのすげの」(同・四一一六)の例もあり、なお、「君が行く海辺の宿に霧立たばが立ち嘆く息と知りませ」(巻十五・三五八〇)等、類想のものが多い。

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昨夜きそこそはろとさ宿しかくもうへたづ間遠まどほおもほゆ 〔巻十四・三五二二〕 東歌
「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」は「間遠く」に続く序詞であるから、一首は、あの娘とは昨晩寝たばかりなのに、だいぶ日数が立ったような気がするな、というので、こういう発想は東歌でないほかの歌にもあるけれども、「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」は、なかなかの技巧である。

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防人さきもりちしあさけの金門出かなとで手放たばなしみきしらはも 〔巻十四・三五六九〕 東歌・防人
 未勘国いまだかんがえざるくに防人の歌。「金門かなと」は既にあったごとく「かど」である。「手放れ」は手離で、別れることだが、別れに際しては手を握ったことが分かる。これは人間の自然行為で必ずしも西洋とは限らぬ。そこで、此処は、「た」は添辞とせずに、「手」に意味を持たせるのである。併しそれは字面の問題で、実際の気持はわかれを惜しむことで、そこで、「泣きし児らはも」がくのである。これは、君命を帯びて辺土の防備に行くのだが、その別を悲しむ歌である。これも彼等の真実の一面、また、「大君のにこそ死なめのどには死なじ」も真実の一面である。全体がめそめそばかりではないのである。

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あし夕霧ゆふぎりちてかもさむゆふべをばしぬばむ 〔巻十四・三五七〇〕 東歌・防人
 これも防人の歌で、葦の葉に夕霧が立って、そこに鴨が鳴く、そういう寒い晩には、というので、具象的にいっている。そして、「汝をば偲ばむ」というのだから、いまだそういう場合にのぞまない時の歌である。東歌の歌調に似ない巧なところがあるから、幾らか指導者があったのかも知れない。併しもとの作はやはり防人さきもり本人で、哀韻の迫ってくるのはそのためであろう。「あしべゆく鴨の羽交はがひに霜ふりて寒き夕は大和やまとしおもほゆ」(巻一・六四)という志貴皇子の御歌に似ている。

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 東歌の選鈔せんしょうは大体右の如くであるが、東歌はなお特殊なものは幾つかあり、秀歌という程でなくとも、注意すべきものだから次に記し置くのである。
らくはたまのばかり恋ふらくは富士の高嶺たかね鳴沢なるさはごと (巻十四・三三五八)
足柄あしがり土肥とひ河内かふちに出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに (同・三三六八)
入間道いりまぢ大家おほやが原のいはゐづら引かばぬるぬるにな絶えそね (同・三三七八)
我背子わがせこどかもいはむ武蔵野のうけらが花の時無きものを (同・三三七九)
筑波嶺にかが鳴くわしのみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (同・三三九〇)
小筑波のろに月立つくたし逢ひだ夜はさはだなりぬをまた寝てむかも (同・三三九五)
伊香保ろのそひ榛原はりはらねもころに奥をな兼ねそまさかしかば (同・三四一〇)
上毛野かみつけぬ伊奈良いならの沼の大藺草おほゐぐさよそに見しよは今こそまされ (同・三四一七)
たきぎる鎌倉山の木垂こだる木をまつとが言はば恋ひつつやあらむ (同・三四三三)
うらも無く我が行く道に青柳あおやぎの張りて立てればものつも (同・三四四三)
草蔭の安努あぬな行かむとりし道阿努あぬは行かずて荒草立あらくさだちぬ (同・三四四七)
どほくの野にも逢はなむ心なく里の真中みなかに逢へるせなかも (同・三四六三)
佐野さぬ山に打つや斧音をのとの遠かどももとか子ろがおもに見えつる (同・三四七三)
諾児汝うべこなわぬに恋ふなもつくぬがなへ行けばこふしかるなも (同・三四七六)
橘の古婆こばのはなりが思ふなむ心うつくしいであれは行かな (同・三四九六)
河上かはかみ根白高萱ねじろたかがやあやにあやにさ宿てこそことにしか (同・三四九七)
岡に寄せ我が刈るかや狭萎草さねがやのまことなごやろとへなかも (同・三四九九)
安斉可潟あせかがた潮干のゆたに思へらばうけらが花の色に出めやも (同・三五〇三)
青嶺あをねろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこの頃 (同・三五一一)
一嶺ひとねろに言はるものから青嶺あをねろにいさよふ雲のよそり妻はも (同・三五一二)
夕さればみ山を去らぬ布雲にぬぐもあぜか絶えむと言ひし児ろはも (同・三五一三)
沼二つ通は鳥が巣がこころ二行ふたゆくなもとはりそね (同・三五二六)
妹をこそあひ見にしか眉曳まよびきの横山ろの鹿ししなすおもへる (同・三五三一)
垣越くへごしに麦食むこうまのはつはつに相見し子らしあやにかなしも (同・三五三七)
青柳のはらろ川門かはとに汝を待つと清水せみどは汲まず立所たちどならすも (同・三五四六)
たゆひ潟潮満ちわたる何処いづゆかもかなしきろが吾許わがり通はむ (同・三五四九)
塩船しほぶねの置かれば悲しさ寝つれば人言ひとごとしげしかもむ (同・三五五六)
なやましけ人妻ひとづまかもよぐ船の忘れは為無せないやひ増すに (同・三五五七)
の児ろと宿ずやなりなむはた薄裏野すすきうらぬの山につく片寄かたよるも (同・三五六五)


斎藤茂吉の万葉秀歌考巻15

巻第十五


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あをによし奈良ならみやこにたなびけるあま白雲しらくもれどかぬかも 〔巻十五・三六〇二〕 作者不詳
 新羅しらぎに使に行く入新羅使以下の人々が、出帆の時にはわかれを惜しみ、海上にあっては故郷をおもい、時には船上に宴を設けて「古歌」を吟誦した。その古歌幾つかがまとまって載っているが、此歌もその一つで雲を詠じた歌だと注してある。一首は、奈良の都の上にたなびいて居る、天の白雲の豊大な趣を讃美した歌であるが、作者も分からず、どういう時にんだものかも分かっていない。ただ雲を詠んだものとして、豊かな大きい調子があるので吟誦にも適し、また奈良の家郷をしのぶのにふさわしいものとして選ばれたものであろう。この新羅使は天平八年であるが、その時にもうこの歌の如きは古調に響いたのであったのかも知れない。此処に、人麿作五つばかり幾らか変化しつつ載って居り、左注でその事を注意しているところを見ると、この歌も、上の句の、「あをによし奈良の都に」の句は変化したもので、原作は、「奈良の都に」などでなく、山のうえとか海上とか、或は序詞などで続けたものか、そういうものだったかも知れない。いずれにしても、「天の白雲見れど飽かぬかも」の句は形式的な感じもあるが、なかなかよいものである。

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わたつみのうみでたる飾磨河しかまがはえむ日にこそこひまめ 〔巻十五・三六〇五〕 作者不詳
 この歌も新羅使の一行が、船上で「古歌」として吟誦したもので、恋の歌と注してある。「飾磨しかま河」は播磨はりまで、今姫路市を流れる船場川だといわれている。巻七(一一七八)の或本歌に、「飾磨江しかまえは漕ぎ過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」とあるのも同じ場処であろう。一首の意は、海にそそぐ飾磨川の流は絶ゆることは無いが、若し絶ゆることがあったら、はじめて俺の恋はまるだろう、というので、「ひさかたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾が恋ひ止まめ」(巻十二・三〇〇四)をはじめ同じ結句の歌は数首ある。そして此程度の歌ならば、他の巻には幾らもあると思うが、当時既に古歌として取扱った歌として、また、第二句「海にいでたる」の句の穉拙ちせつ愛すべき特色とを以て選出して置いた。

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百船ももふねつる対馬つしま浅茅山あさぢやま時雨しぐれあめにもみだひにけり 〔巻十五・三六九七〕 新羅使
 新羅使の一行が、対馬つしま浅茅浦あさじのうら碇泊ていはくした時、順風を得ずして五日間逗留とうりゅうした。諸人の中でなげいて作歌した三首中の一つである。浅茅浦は今俗に大口浦といっている。モミヅは其頃行四段にも活用しそれをまた行に活用せしめた。「もみだひにけり」は時間的経過をも含ませている。歌は平凡で取立てていうほどではないが、実際に当って作ったという争われぬ強みがあるので、読後身にむのである。

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天離あまざかひなにもつきれれどもいもとほくはわかれ来にける 〔巻十五・三六九八〕 新羅使
 前の歌の続きであるが、五日滞在のうちには時雨しぐれも晴れて月の照った夜もあったのであろう。「鄙にも月は照れれども」という句に哀韻があるのは、都の月光という相対的な感じもあり、いつのまにか秋になった感じもあり、都の月光と相愛の妻との関係などもあって、そういう哀韻を伴うのであろうか。此歌とても特に秀歌というものではないが、不思議に心をひくのは、実地の作だからであろう。人麿の歌に、「去年こぞ見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる」(巻二・二一一)がある。

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竹敷たかしきのうへかたやまくれなゐ八入やしほいろになりにけるかも 〔巻十五・三七〇三〕 新羅使(大蔵麿)
 一行が竹敷たかしき浦(今の竹敷港)に碇泊した時の歌が十八首あるその一つで、小判官大蔵忌寸麿おおおくらのいみきまろの作である。「うへかた山」は上方うえかた山で今の城山であろう。「八入の色」は幾度も染めた真赤な色というのである。単純だが、「くれなゐの八入やしほの色」で統一せしめたから、印象鮮明になって佳作となった。「くれなゐの八入やしほの衣朝な朝なるとはすれどいや珍しも」(巻十一・二六二三)がある。この時の十八首の中には、大使阿倍継麿あべのつぎまろが、「あしひきの山下やましたひかる黄葉もみぢばの散りのまがひは今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)、副使大伴三中みなかが、「竹敷たかしきの黄葉を見れば吾妹子わぎもこが待たむといひし時ぞ来にける」(同・三七〇一)、大判官壬生宇太麻呂みぶのうだまろが、「竹敷の浦廻うらみ黄葉もみぢわれ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ」(同・三七〇二)という歌を作って居り、対馬娘子つしまのおとめ玉槻たまつきという者が、「もみぢ葉の散らふ山辺やまべぐ船のにほひにでて出でて来にけり」(同・三七〇四)という歌を作ったりしている。天平八年夏六月、武庫浦むこのうらを出帆したのが、対馬つしまに来るともう黄葉が真赤に見える頃になっている。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じているのは、単に歌の上の詩的表現のみでなったことが分かる。対馬でこの玉槻という遊行女婦うかれめなどは唯一の慰めであったのかも知れない。この一行のある者は帰途に病み、大使継麿のごときは病歿している。また新羅との政治的関係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき一聯いちれんの歌である。帰途に、「天雲のたゆたひ来れば九月ながつき黄葉もみぢの山もうつろひにけり」(同・三七一六)、「大伴の御津みつとまりに船てて立田の山を何時か越えかむ」(同・三七二二)などという歌を作って居る。

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あしひきの山路やまぢえむとするきみこころちてやすけくもなし 〔巻十五・三七二三〕 狭野茅上娘子
 中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもりが、罪を得て越前国に配流された時に、狭野茅上娘子さぬのちがみのおとめの詠んだ歌である。娘子の伝はつまびらかでないが、宅守と深く親んだことは是等一聯の歌を読めば分かる。目録に蔵部女嬬にょじゅとあるから、低い女官であっただろう。一首の意は、あなたがいよいよ山越をして行かれるのを、しじゅう心の中に持っておりまして、あきらめられず、不安でなりませぬ、という程の歌である。「君を心に持つ」は貴方をば心中に持つこと、心に抱き持つこと、恋しくて忘れられぬこと、あきらめられぬことというぐらいになるが、「君を心に持つ」と具体的に云ったので、親しさが却って増したようにおもわれる。「吾妹子わぎもこに恋ふれにかあらむ沖に住むかも浮宿うきねの安けくもなし(なき)」(巻十一・二八〇六)、「今は吾は死なむよ吾妹逢はずしておもひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)等、用例は可なりある。

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きみみち長路ながてたたほろぼさむあめもがも 〔巻十五・三七二四〕 狭野茅上娘子
 同じく続く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰たぐりよせてそれをたたんで、焼いてしまう天火てんかでもあればいい。そうしたならあなたを引きもどすことが出来ましょう、という程の歌で、強く誇張していうところに女性らしい語気と情味とが存じている。娘子おとめは古歌などをも学んだ形跡があり、文芸にも興味を持つ才女であったらしいから、「天の火もがも」などという語も比較的自然に口より発したのかも知れない。そして、「焼き亡ぼさむ天の火もがも」という句は、これだけを抽出してもなかなか好い句である。天火てんかは支那では、劫火ごうかなどと似て、思いがけぬところに起る火のことを云って居る。史記孝景本記に、「三年正月乙巳天火※(「各+隹」、第3水準1-93-65)陽東宮大殿城室」とあり、易林に「天火大起、飛鳥驚駭」とある如きである。しかしその火が天に燃えていてもかまわぬだろう。いずれにしても「あめ」とくだいたのは好い。なお娘子には、「天地の至極そこひうちにあが如く君に恋ふらむ人はさねあらじ」(巻十五・三七五〇)というのもある程だから、情熱を以て強く宅守に迫って来た女性だったかも知れない。また贈答歌を通読するに、宅守よりも娘子の方がたくみである。そしてその巧なうちに、この女性の息吹いぶきをも感ずるので宅守は気乗きのりしたものと見えるが、宅守の方が受身という気配けはいがあるようである。

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あかねさす昼は物思ものもひぬばたまの夜はすがらにのみし泣かゆ 〔巻十五・三七三二〕 中臣宅守
 これは中臣宅守なかとみのやかもり娘子おとめに贈った歌だが、この方は気がかない程地味で、骨折って歌っているが、娘子の歌ほど声調にゆらぎが無い。「天地の神なきものにあらばこそふ妹に逢はずしにせめ」(巻十五・三七四〇)、「逢はむ日をその日と知らず常闇とこやみにいづれの日まであれ恋ひ居らむ」(同・三七四二)などにあるように、「天地の神」とか、「常闇」とか詠込んでいるが、それほど響かないのは、おとなしい人であったのかも知れない。

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かへりけるひときたれりといひしかばほとほとにき君かと思ひて 〔巻十五・三七七二〕 狭野茅上娘子
 娘子おとめ宅守やかもりに贈った歌であるが、罪をゆるされて都にお帰りになった人が居るというので、嬉しくて死にそうでした、それがあなたかと思って、というのであるが、天平十二年罪をゆるされて都に帰った人には穂積朝臣老ほづみのあそみおゆ以下数人いるが、宅守はその中にはいず、続紀しょくきにも、「不赦限」とあるから、此時宅守が帰ったのではあるまい。この「ほとほと死にき」をば、あやうしの意にして、胸のわくわくしたと解する説もあり、私も或時あるときにはそれに従った。併し、「天の火もがも」を肯定するとすると、「ほとほと死にき」を肯定してもよく、その方が甘く切実で却っておもしろいと思って今回は二たびそう解釈することとした。この歌は以上選んだ娘子の歌の中では一番よい。
「ほとほとしにき」は、原文「保等保登之爾吉」であって、「ホトホトシニキハ、驚テ胸ノホトバシルナリ」(代匠記精撰本)というのが第一説で、古義もそれに従った。鈴屋答問録すずのやとうもんろくに、「ほと」は俗言の「あわ(は)てふためく」の「ふた」に同じいとあるのも参考となるだろう。それから、「ほとんどしにたりとなり。うれしさのあまりになるべし」(拾穂抄しゅうすいしょう)は第二説で、「殆将死なり。あまりてよろこばしきさまをいふ」(考)、「しにきは死にき也」(略解)。古事記伝、新考、新訓等もこの第二説である。集中、「君を離れて恋に之奴倍之シヌベシ」(巻十五・三五七八)があるから、「之爾」を「死に」と訓んで差支のないことが分かる。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻16

巻第十六


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はるさらば※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしにせむとひしさくらはなりにけるかも 〔巻十六・三七八六〕 壮士某
 むかし桜子さくらこという娘子おとめがいたが、二人の青年にいどまれたときに、ひとりの女身にょしんを以て二つの門に往きかのあたわざるを嘆じ、林中に尋ね入ってついに縊死いしして果てた。二人の青年がそれを悲しみ作った歌の一つである。桜子という娘の名であったから、桜の花の散ったことになして詠んだ、取りたてていう程のものでない、妻争い伝説歌の一つに過ぎないが、素直すなおに歌ってあるので見本として選んで置いた。この伝説は真間まま手児名てこな葦屋あしや菟原処女うなひおとめの伝説などと同じ種類のものである。「かざしにせんとは、我妻にせんとおもひしと云心也」(宗祇抄そうぎしょう)とある如く、また桜児という名であったから、「散りにけるかも」と云った。

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ことしあらば小泊瀬山をはつせやま石城いはきにもこもらばともになおも吾背わがせ 〔巻十六・三八〇六〕 娘子某
 むかし娘がいたが、父母に知らせずひそかに一人の青年に接した。青年は父母の呵嘖かしゃくを恐れて、やや猶予のいろが見えた時に、娘が此歌を作って青年に与えたという伝説がある。「小泊瀬山」の「を」は接頭詞、泊瀬山、今の初瀬はせ町あたり一帯の山である。「石城いはき」は石で築いたかくで此処は墓のことである。この歌も普通の歌で、男がぐずぐずしているのに、女が強くなる心理をあらわしたものである。前の歌は実徳の上からいえば、貞になり、これもまた貞の一種になるかも知れない。親をもいて男に従うという強い心に感動せられて伝説が成立すること、他の歌の例を見ても明かである。「な思ひ、我が背」の口調は強いが、女らしい甘い味いがある。毛詩に、「死則同セム穴」とあるのは人間共通の合致がっちであるだろう。

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安積山あさかやま影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾がはなくに 〔巻十六・三八〇七〕 前の采女某
 葛城王かずらきのおおきみ陸奥国みちのくのくにに派遣せられたとき、国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒って折角せっかくの御馳走にも手をつけない。その時、かつ采女うねめをつとめたことのある女が侍していて、左手にさかずきを捧げ右手に水を盛った瓶子へいしを持ち、王のひざをたたいて此歌を吟誦したので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、という伝説ある歌である。葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄たちばなのもろえが皇族であった時の御名は葛城王であったから、そのいずれとも不明であるが、時代からいえば天武天皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であってもかまわぬのである。また、「さきの采女」という女も、かつて采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女とする必要もないわけである。「安積あさか山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云われている。木立などが美しく映っている広く浅い山の泉の趣で、上の句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬというに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡として伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、遊行女婦うかれめは作歌することが一つの款待かんたい方法であったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していいだろうか。この一首の言伝いいつたえが面白いので選んで置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。伝説の文の、「右手持水、撃之王膝」につき、種々の疑問を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。

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寺寺てらでら女餓鬼めがきまをさく大神おほみわ男餓鬼をがきたばりてまはむ 〔巻十六・三八四〇〕 池田朝臣
 池田朝臣いけだのあそみ(古義では真枚まひらだろうという)が、大神朝臣奥守おおみわのあそみおきもりに贈った歌である。一首の意は、寺々に居る女の餓鬼どもは大神おおみわ男餓鬼おとこがきを頂戴してその子を生みたいと申しておりますよ、というので、大神奥守は痩男やせおとこだったのでこの諧謔かいぎゃくが出たのであろう。「寺々の女餓鬼」というのは、その頃寺院には、画だの木像だのがあって、三悪道の一なる餓鬼道を示したものがあったと見える。前に、「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづく如し」(巻四・六〇八)とあったのを参考すれば、木像のようにおもわれる。何れにせよ、この諧謔が自然流露の感じでまことにうまい。古今集以後ならば俳諧歌はいかいか滑稽歌こっけいかとして特別扱をするところを、大体の分類だけにして、特別扱をしないのは、万葉集に自由性があっていい点である。また、当時は仏教興隆時代だから、餓鬼などということを人々は新事物として興味を感じていたものであっただろう。ウマハムはウマムという意でウマフという四段活用の動詞である。

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ほとけつく真朱まそほらずはみづたまる池田いけだ朝臣あそはなうへ穿れ 〔巻十六・三八四一〕 大神朝臣
 これは大神朝臣おおみわのあそみが池田朝臣にむくいた歌である。「真朱まそほ」は仏像などを彩色するとき用いる赤の顔料で、朱(丹砂、朱砂)のことである。「水たまる」は池の枕詞に使った。応神紀に、「水たまるよさみの池に」の用例がある。また池田の朝臣の鼻は特別に赤かったので、この諧謔の出来たことが分かる。前には餓鬼のことをいったから、此歌でも仏教関係の事物を持って来た。前の歌も旨いが、この歌も諧謔の上乗じょうじょうである。

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法師ほふしらがひげ剃杭そりぐひうまつなぎいたくなきそ法師ほふしなからかむ 〔巻十六・三八四六〕 作者不詳
 僧侶にからかった歌で、鬚がいい加減に延びた、今無精鬚ぶしょうひげというのをとらえて、それを「剃杭」といって、そのくいに馬をつないでも、ひどく引っぱるなよ、法師が半分になってしまうだろうから、というのである。この歌の結句は、原文、「僧半甘」と書いてあり、旧訓ナカラカモ。拾穂抄・代匠記・考も同訓である。代匠記初稿本に、「なからにならんといふ心なり」、考に「法師引かされ半分にならんと云」と解し、略解でホフシ・ナカラカムとみ(古義同訓)、「なからは半分の意にて、なからにならんと戯れ言ふ也」と解した。然るに、古義が報じた一説に「法師は泣かむ」と訓んだのもあり、黒川春村はホフシ・ナカナム、と訓み、敷田年治ホフシハ・ナカムと訓み、井上(通泰)博士はホフシ・ナゲカムと訓んだ。近時新注釈書はホフシハ・ナカムの訓を採用して殆ど定説になろうとしている。
 けれども、「法師は泣かむ」では諧謔歌かいぎゃくかとしては平凡でつまらぬ。そこで、「法師なからかむ」と訓み、代匠記初稿本や考の解釈の如く、「半分になってしまうだろう」と解釈する方が一番適切のようにおもえる。そんならどうしてこういう動詞が出来たかというに、「なから」という名詞を「なからかむ」と活用せしめたので、あたかも「まくら」という名詞を、「まくらかむ」と活用せしめたのと同じである。しからば、なからき・なからく等の活用形があるはずだろうといわんが、其処が滑稽歌こっけいかの特色で、普通使わない語を用いたのであっただろう。それゆえ、この歌にこたえた、「檀越だむをちかもな言ひそ里長さとをさらが課役えつきはたらばなれなからかむ」(巻十六・三八四七)という歌の例と、万葉にただ二例あるのみである。この応え歌は、「檀那だんなよ、そう威張りなさるな、若し村長さんが来て、税金や労役の事でせめ立てるなら、あなたも半分になってしまいましょう。どうです」というので、二つとも結句は、「なからかむ」でなくては面白くない。またいずれの古鈔本も「半甘」で、他の書き方のものはない。愚案は、昭和十三年一月アララギ、童馬山房夜話参看。

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かど千鳥ちどりしばきよきよ一夜ひとよづまひとに知らゆな 〔巻十六・三八七三〕 作者不詳
 もう門のところには、千鳥がしきりに鳴いて夜が明けました。あなたよ、起きなさい。私がはじめてお会したあなたよ、人に知られぬうちにお帰りください。原文には、「一夜妻」とあるから、男の歌で女に向って「一夜妻」といったようにも取れるが、全体が男を宿めた女の歌という趣にする方がもっと適切だから、そうすれば、「一夜づま」ということになる。この歌は民謡風な恋愛歌で作者不明のものだから、無名歌としてかかげているのである。「千鳥しば鳴く起きよ起きよ」のところはたくみつ自然である。「一夜夫」と解するのは考・古義の説で、「妻はかり字、ツマ也。初て一夜逢し也」(考)とあるが、これは遠く和歌童蒙抄わかどうもうしょうの説までさかのぼり得る。あとは多く「一夜妻」説である。「人ノ妻ヲ忍ビテアリケルニ」(仙覚抄)、「一夜妻はかりそめに女を引き入れて逢ひしなり」(新考)云々うんぬん




(私論.私見)