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夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜ふけにけり 〔巻十四・三三四八〕 東歌
この巻十四は、いわゆる「東歌」になるのであるが、東歌は、東国地方に行われた、概して民謡風な短歌を蒐集分類したもので、従って巻十・十一・十二あたりと同様作者が分からない。併し、作者も単一でなく、中には京から来た役人、旅人等の作もあろうし、京に住んだことのある遊行女婦のたぐいも交っていようし、或は他から流れこんだものが少しく変形したものもあり、京に伝達せられるまで、(折口博士は、大倭宮廷に漸次に貯留せられたものと考えている。)幾らか手を入れたものもあるだろう。そういう具合に単一でないが、大体から見て東国の人々によって何時のまにか作られ、民謡として行われていたものが大部分を占めるようである。従って巻十四の東歌だけでも、年代は相当の期間が含まれているものの如く、歌風は、大体訛語を交えた特有の歌調であるが、必ずしも同一歌調で統一せられたものではない。
「夏麻ひく」は夏の麻を引く畑畝のウネのウからウナカミのウに続けて枕詞とした。「海上潟」は下総に海上郡があり、即ち利根川の海に注ぐあたりであるが、この東歌で、「右一首、上総国の歌」とあるのは、古え上総にも海上郡があり、今市原郡に合併せられた、その海上であろう。そうすれば東京湾に臨んだ姉ヶ崎附近だろうとせられて居る。一首の意は、海上潟の沖にある洲のところに、船を泊めよう、今夜はもう更けてしまった、というのである。単純素朴で古風な民謡のにおいのする歌である。「船はとどめむ」はただの意嚮でなく感慨が籠っていてそこで一たび休止している。それから結句を二たび起して詠歎の助動詞で止めているから、下の句で二度休止がある。此歌は、伸々とした歌調で特有な東歌ぶりと似ないので、略解などでは、東国にいた京役人の作か、東国から出でて京に仕えた人の作ででもあろうかと疑っている。また巻七(一一七六)に、「夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず」というのがあって、上の句は全く同一である。この巻七の歌も古い調子のものだから、どちらかが原歌で他は少し変化したものであろう。巻七の歌も「 旅にて作れる」の中に集められているのだから、東国での作だろうと想像せられるにより、二つとも伝誦せられているうち、一つは東歌として蒐集せられたものの中に入ったものであろう。二つ較べると巻七の方が原歌のようでもある。
この歌の次に、「葛飾の真間の浦廻を榜ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」(巻十四・三三四九)という東歌(下総国歌)があるのに、巻七(一二二八)に、「風早の三穂の浦廻を傍ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」という歌があって、下の句は全く同じであり、風早の三穂は風早を風の強いことに解し、三穂を駿河の三保だとせば、どちらかが原歌で、伝誦せられて行った近国の地名に変形したもので、巻七の歌の方が原歌らしくもある。併し、此等の東歌というのも、やはり東国で民謡として行われていたことは確かであろう。仙覚抄に、「ヨソヘヨメル心アルベシ」云々とあるのは、民謡的なものに感じての説だとおもう。
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筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布乾さるかも 〔巻十四・三三五一〕 東歌
常陸国の歌という左注が附いている。一首の意は、白く見えるのは筑波山にもう雪が降ったのか知ら、いやそうではなかろう、可哀いい娘が白い布を干しているのだろう、というほどの意で、「否をかも」は「否かも」で「を」は調子のうえで添えたもの、文法では感歎詞の中に入れてある。「相見ては千歳や去ぬる否をかも我や然念ふ君待ちがてに」(巻十一・二五三九)の「否をかも」と同じである。古樸な民謡風のもので、二つの聯想も寧ろ原始的である。それに、「降れる」というところを「降らる」と訛り、「乾せる」というところを「乾さる」と訛り、「かも」という助詞を三つも繰返して調子を取り、流動性進行性の声調を形成しているので、一種の快感を以て労働と共にうたうことも出来る性質のものである。「かなしき」は、心の切に動く場合に用い、此処では可哀いくて為方のないという程に用いている。「児ろ」の「ろ」は親しんでつけた接尾辞で、複数をあらわしてはいない。この歌はなかなか愛すべきもので、東歌の中でもすぐれて居る。
ニヌは原文「爾努」で旧訓ニノ。仙覚抄でニヌと訓み、考でニヌと訓んだ。布の事だが、古鈔本中、「爾」が「企」になっているもの(類聚古集)があるから、そうすれば、キヌと訓むことになる。即ち衣となるのである。
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信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く声きけば時過ぎにけり 〔巻十四・三三五二〕 東歌
「すがの荒野」を地名とすると、和名鈔の筑摩郡苧賀郷で、梓川と楢井川との間の曠野だとする説(地名辞書)が有力だが、他にも説があって一定しない。元は普通名詞即ち菅の生えて居る荒野という意味から来た土地の名だろうから、此処は信濃の一地名とぼんやり考えても味うことが出来る。一首の意は、信濃の国の須賀の荒野に、霍公鳥の鳴く声を聞くと、もう時季が過ぎて夏になった、というのである。霍公鳥の鳴く頃になったという詠歎で、この季節の移動を詠歎する歌は集中に多いが、この歌は民謡風なものだから、何か相聞的な感じが背景にひそまっているだろう。「秋萩の下葉の黄葉花につぐ時過ぎ行かば後恋ひむかも」(巻十・二二〇九)、次に評釈する、「このくれの時移りなば」(巻十四・三三五五)、「わたつみの沖つ繩海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ」(巻十五・三六六三)、「恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来鳴き響むる」(同・三七八〇)等の心持を参照すれば、此歌の背後にある恋愛情調をも感じ得るのである。つまり誰かを待つという情調であろう。そして信濃国でこういう歌が労働のあいまなどに歌われたものであろう。民謡だから自分等のうたう歌に地名を入れるので、他にも例が多く、必ずしも 旅にあって詠んだとせずともいいであろう。「アラノ」(安良能)といって「アラヌ」(安良努)と云わなかったのは、この歌ではアラノと発音していたことが分かる。一種の地方訛であっただろう。この歌の調子はほかの東歌と似ていないが、こういう歌をも信濃でうたっていたと解釈すべきで、共に日本語だから共通していて毫もかまわぬのである。賀茂真淵が、この歌を模倣して、「信濃なる菅の荒野を飛ぶ鷲の翼もたわに吹く嵐かな」と詠んだが、未だ万葉調になり得なかった。「吹く嵐かな」などという弱い結句は万葉には絶対に無い。
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天の原富士の柴山木の暗の時移りなば逢はずかもあらむ 〔巻十四・三三五五〕 東歌
これは駿河国歌で相聞として分類している。「天のはら富士の柴山木の暗の」までは「暮」(夕ぐれ)に続く序詞で、空に聳えている富士山の森林のうす暗い写生から来ているのである。一首の意は夕方に逢おうと約束したから、こうして待っているがなかなか来ず、この儘時が移って行ったら逢うことが出来ないのではないか知らん、というので、この内容なら普通であるが、そのあたりで歌った民謡で、富士の森林を入れてあるし、ウツリ(移り)をユツリと訛っていたりするので、東歌として集められたものであろう。この歌の、「時移りなば」の句は、時間的には短いが、その気持は、前の「信濃なる」の歌を解釈する参考となるものである。取りたてていう程の歌でないが、「妹が名も吾が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ」(巻十一・二六九七)などと共に、富士山を詠みこんでいるので注意したのであった。
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足柄の彼面此面に刺す羂のかなる間しづみ児ろ我紐解く 〔巻十四・三三六一〕 東歌
相模国歌で、足柄は範囲はひろかったが、此処は足柄山とぼんやり云っている。「彼面此面」は熟語で、あちらにもこちらにもというのであろう。下に、「筑波嶺のをてもこのもに」(三三九三)という例があり、東歌的訛の口調である。巻十七(四〇一一)の長歌で家持が、「あしひきのをてもこのもに鳥網張り」云々と使ったのは、此歌の模倣で必ずしも都会語ではなかっただろう。「かなる間しづみ」はよく分からない。代匠記では鹿鳴間沈で、鹿の鳴いて来る間に屏息して待っている意に取ったが、或は、「か鳴る間しづみ」で、羂に動物がかかって音立てること、鳴子のような装置でその音響を知ることで、「か鳴る」の「か」は接頭辞であろう。その動物のかかる問、じっと静かにして、息をこらしてということになるであろう。
一首の意は、「かなる間しづみ」までは序詞で、いろいろとうるさい噂などが立つが、じっとこらえて、こうしてお前とおれは寝るのだよ、というのである。代匠記に、「シノビテ通フ所ニモ皆人ノ臥シヅマルヲ待テ児等モ吾モ共ニ下紐解トナリ」と云っている。結句の、八音の中に、「児ろ吾紐解く」即ち、可哀い娘と己とがお互に着物の紐を解いて寝る、という複雑なことを入れてあり、それが一首の眼目なのだから、調子がつまってなだらかに伸びていない。それに上の方も順じて調子がやはり重く圧搾されているが、全体としては進行的な調子で、労働歌の一種と感ずることが出来る。恐らく足柄山中の樵夫などの間に行われたものであっただろう。調子も古く感じ方材料も古樸でおもしろいものである。
「荒男のい小箭手挾み向ひ立ちかなる間しづみ出でてと我が来る」(巻二十・四四三〇)は「昔年の防人の歌」とことわってあるが、此歌にも、「かなる間しづみ」という語が入っている。併し此語は巻十四の歌語を踏まえて作ったものと看做すことも出来るから、この語の原意は巻十四の方にあるだろう。なお、「はろばろに家を思ひ出、負征箭のそよと鳴るまで、歎きつるかも」(巻二十・四三九八)、「この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも」(巻十三・三二七〇)がある。
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ま愛しみさ寝に吾は行く鎌倉の美奈の瀬河に潮満つなむか 〔巻十四・三三六六〕 東歌
相模国歌で、「みなの瀬河」は今の稲瀬川で坂の下の東で海に入る小川である。一首は、恋しくなってあの娘の処に寝に行くが、途中の鎌倉のみなのせ川に潮が満ちて渡りにくくなっているだろうか、というのである。「潮満つなむか」は、「潮満つらむか」の訛である。内容は古樸な民謡で取りたてていう程のものではないが、歌調が快く音楽的に運ばれて行くのが特色で、こういう独特の動律で進んでゆく歌調は、人麿の歌などにも無いものである。例えば、「玉裳の裾に潮みつらむか」(巻一・四〇)でもこう無邪気には行かぬところがある。また、「ま愛しみ寝らく愛けらくさ寝らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ」(三三五八或本歌)などでも東歌的動律だが、この方には繰返しが目立つのに、鎌倉の歌の方はそれが目立たずに快い音のあるのは不思議である。
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武蔵野の小岫が雉立ち別れ往にし宵より夫ろに逢はなふよ 〔巻十四・三三七五〕 東歌
「岫」は和名鈔に山穴似レ袖云々といっているが、小山に洞などがあって雉子の住む処を聯想せしめる。雉が飛立つので、「立ち別れ」に続く序詞とした。「逢はなふよ」は「逢わず・よ」「逢わぬ・よ」、「逢わない・よ」である。一首の意は、あの晩に別れたきり、いまだに恋しい夫に逢わずに居ります、という女の歌であるが、結句の訛と、「よ」なども特殊なものにしている。東歌には、結句に、「鳴沢なすよ」などもあり、他に余りない結句である。この歌の結句は、「崩岸辺から駒の行こ如す危はども人妻児ろをまゆかせらふも」(巻十四・三五四一)(目ゆかせざらむや)のに似ている。一首全体として見れば、武蔵野と丘陵と雉の生活と、別れた夫を慕う心と合体して邪気の無い快い歌を形成している。
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鳰鳥の葛飾早稲を饗すとも其の愛しきを外に立てめやも 〔巻十四・三三八六〕 東歌
下総国の歌。鳰鳥(かいつぶり)は水に潜くので、葛飾のかずへの枕詞とした。葛飾は今の葛飾区一帯。「饗」は神に新穀を供え祭ること、即ち新嘗の祭をいう。「にへ」は贄で、「にひなめ」は、「にへのいみ」(折口博士)の義だとしてある。一首の意は、今は縦い葛飾で出来た早稲の新米を神様に供えてお祭をしている大切な、身を潔くしていなければならない時であっても、あの恋しいお方のことですから、空しく家の外に立たせては置きませぬ、というので、「その愛しき」の「その」は憶良の歌にもあった、「そのかの母も」(巻三・三三七)の場合と同じである。軽く「あの」ぐらいにとればいい。それにしても、自分の恋しいあのお方ということを、「その愛しきを」という、簡潔でぞくぞくさせる程の情味もこもりいる、まことに旨い言葉である。農業民謡で、稲扱などをしながら大勢して歌うこともまた可能である。
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信濃路は今の墾道刈株に足踏ましむな履著け我が夫 〔巻十四・三三九九〕 東歌
信濃国歌。「今の墾道」は、まだ最近の墾道というので、「新治の今つくる路さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを」(巻十二・二八五五)が参考になる。一首の意は、信濃の国の此処の新開道路は、未だ出来たばかりで、木や竹の刈株があってあぶないから、踏んで足を痛めてはなりませぬ、吾が夫よ、履をお穿きなさい、というのである。履は藁靴であっただろう。これも、旅人の気持でなく、現在其処にいても、「信濃路は」といっていること、前の、「信濃なる須賀の荒野に」と同じである。山野を歩いて為事をする夫の気持でやはり農業歌の一種と看ていい。「かりばね」は「苅れる根を言ふべし」(略解)だが、原意はよく分からぬ。近時「刈生根」の転(井上博士)だろうという説をたてた。私の郷里では足を踏むことをカックイ・フムといっている。
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吾が恋はまさかも悲し草枕多胡の入野のおくもかなしも 〔巻十四・三四〇三〕 東歌
上野国歌。「多胡」は上野国多胡郡。今は多野郡に属した。「草枕」を「多胡」の枕詞としたのは、タビのタに続けたので変則の一つである。垂水之水能早敷八師(巻十二・三〇二五)で、ハヤシのハとハシキヤシのハに続けたたぐいである。「入野」は山の方へ深く入りこんだ野という意味であろう。「まさか」は「正か」で、まさしく、現に、今、等の意に落着くだろう。「梓弓すゑはし知らず然れどもまさかは君に縁りにしものを」(巻十二・二九八五)、「しらがつく木綿は花物ことこそは何時のまさかも常忘らえね」(同・二九九六)、「伊香保ろの傍の榛原ねもころに奥をな兼ねそまさかし善かば」(巻十四・三四一〇)、「さ百合花後も逢はむと思へこそ今のまさかも愛しみすれ」(巻十八・四〇八八)等の例がある。一首の意は、自分の恋は、いま現にこんなにも深く強い。多胡の入野のように(序詞)奥の奥まで相かわらずいつまでも深くて強い、というのである。「まさかも」、それから、「おくも」と続いており、「かなし」を繰返しているが、このカナシという音は何ともいえぬ響を伝えている。民謡的に誰がうたってもいい。多胡郡に働く人々の口から口へと伝わったものと見えるが、甘美でもあり切実の悲哀もあり、不思議にも身に沁みるいい歌である。この歌は男の歌か女の歌か、略解も古義も女の歌として居り、「夫の旅別の其際もかなし、別て末に思はむも悲しといふ也」(略解)とあるが、却って男の歌として解し易いようでもある。併しこういうのになると、男でも女でも、その境界を超えたひびきがあり、無論作者がどういう者だろうかなどという個人を絶してしまっている。
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上毛野安蘇の真麻むら掻き抱き寝れど飽かぬを何どか吾がせむ 〔巻十四・三四〇四〕 東歌
上野国歌。「安蘇」は下野安蘇郡であろうが、もとは上野に入っていたと見える。この巻に、「下毛野安素の河原よ」(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかっていたことが分かる。「真麻むら」は、真麻の群で、それを刈ったものを抱きかかえて運ぶから、「抱き」に続く序詞とした。一首の意は、真麻むらの麻の束を抱きかかえるように(序詞)可哀いお前を抱いて寝たが、飽きるということがない、どうしたらいいのか、というのである。これも農民のあいだに伝わったものであろうが、序詞も無理でなく、実際生活を暗指しつつ恋愛情緒を具体的にいって、少しもみだらな感を伴わず、嫉ましい感をも伴わないのは、全体が邪気なく快いものだからであろう。それにはアドカ・アガセムという訛も手伝っているらしく思われるけれども、単にそれのみでなく、「何か吾がせむ」という切実な句が此歌の価値を高めているからであろう。この句は万葉に「あどせろとかもあやに愛しき」(巻十四・三四六五)の例があるのみで、ほかは、「家に行きて如何にか吾がせむ枕づく嬬屋さぶしく思ほゆべしも」(巻五・七九五)、「斯くばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ人目繁くて」(巻四・七五二)、「今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむ為るすべのなさ」(巻十七・三九二八)等の例があるのみである。東歌の中でも私はこの歌を愛している。
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伊香保ろのやさかの堰に立つ虹の顕ろまでもさ寝をさ寝てば 〔巻十四・三四一四〕 東歌
「やさかの堰」は八坂という処にあった河水を湛え止めた堰(いぜき・せき・つつみ)であろう。八坂は今の伊香保温泉の東南に水沢という処がある、其処だろうと云われている。一首の意は、伊香保の八坂の堰に虹があらわれた(序詞)どうせあらわれるまでは(人に知れるまでは)、お前と一しょにこうして寝ていたいものだ、というのであるが、これも「さ寝をさ寝てば」などと云っても、不潔を感ぜぬのみならず、河の井堰の上に立った虹の写象と共に、一種不思議な快いものを感ぜしめる。虹の歌は万葉集中此一首のみだからなお珍重すべきものである。虹は此歌では、努自と書いてあるが、能自、禰自、爾自等と変化した。古事記に、「うるはしとさ寝しさ寝てば苅薦の乱れば乱れさ寝しさ寝てば」という歌謡があり、この巻にも、「河上の根白高萱あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出にしか」(三四九七)というのがあって参考になる。「顕ろまで」は、「顕るまで」の訛で、こういう訛もまた一首の鑑賞に関係あらしめている。虹の如き鮮明な視覚写象と、男女相寝るということとの融合は、単に常識的合理な聯想に依らぬ場合があり、こういう点になると古代人の方が我々よりも上手のようである。
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下毛野みかもの山の小楢如す目細し児ろは誰が笥か持たむ 〔巻十四・三四二四〕 東歌
下毛野安蘇の河原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ 〔巻十四・三四二五〕 東歌
下野歌を二つ一しょに此処に書いた。第一の歌、「みかも」は、延喜式の都賀郡三鴨駅、今、下都賀郡、岩舟駅の近くにある。下野の三鴨の山に茂っている小楢の葉の美しいように、美しく可哀らしいあの娘は、誰の妻になって、食事の器を持つだろう、御飯の世話をするだろう、というのだが、やはりつまりはおれの妻になるのだということになる。疑問に云っているがつまりは自らに肯定する云い方である。古代民謡は、ただ悲観的に反省し諦念してしまわないのが普通だからである。それからこの小楢の如く美しいというのは、楢の若葉の感じである。結句多賀家可母多牟は、「手カケカモタム」(仙覚抄)、「高キカモタムニテ、高キハ夫ナリ。夫ハ妻ノタメニハ天ナレバ高キト云ヘリ」(代匠記)等と解したが、大神真潮が、誰笥歟将持の意に解し、古義で紹介した。「香具山は畝火を愛しと」の解と共に永久不滅である。但し、拾穂抄に既に、「誰が家か持たむ」の説があるが、「笥」までは季吟も思い及ばなかったのである。
第二の歌は、前にあった安蘇と同じ土地で、そこの河である。安蘇河の河原の石も踏まず、空から飛んでお前のところにやって来たのだ、何が何だか分からず宙を飛ぶような気持でやって来たのだから、これ程おもう俺にお前の気持をいって呉れ、というので、「空ゆと来ぬ」が特殊ないい方で、今の言葉なら、「宙を飛んで来た」ぐらいになる。巻十二(二九五〇)に、「吾妹子が夜戸出の光儀見てしよりこころ空なり地は踏めども」も、足が地に着かず、宙を歩いているような気持をあらわしている。
こういう歌は、当時の人々は楽々と作り、快く相伝えていたものとおもうが、現在の吾々は、ただそれを珍らしいと思うばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小楢の若葉の日光に透きとおるような柔かさと、女の膚膩の健康な血をとおしている具合とを合体せしめる感覚にも感心せしめられるし、「誰が笥か持たむ」という簡潔で、女の行為が男に接触する程な鮮明を保持せしめているいい方も、石も踏まずとことわって、さて虚空を飛んで来たという云い方も、一体何処にこういう技法力があるのだろうとおもう程である。ただもともと民謡だから、全体が軽妙に運ばれたもので、そこが個人的独詠歌などと違う点なのである。
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鈴が音の早馬駅の堤井の水をたまへな妹が直手よ 〔巻十四・三四三九〕 東歌
雑歌。「早馬駅」は、早馬を準備してある駅という意。「堤井」は、湧いている泉を囲った井で、古代の井は概ねそれであった。一首の意は、鈴の音の聞こえる、早馬のいる駅(宿場)の泉の水は、どうか美しいあなたの直接の手でむすんで飲ましてください、というのである。この歌も、早馬を引く馬方などの口でうたわれたものか、少くともそういう場処が作歌の中心であっただろう。そして駅には古もかわらぬ可哀い女がいただろうから、そこで、「妹が直手よ」という如き表現が出来るので、実にうまいものである。「直手よ」の「よ」は「より」で、直接あなたの手からというのである。いずれにしても快い歌である。
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おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生ひは生ふるがに 〔巻十四・三四五二〕 東歌
こころよいこの春の野を焼くな。去年の冬枯れた古草にまじって、新しい春の草が生えて来るから、というので、「生ふるがに」は、生うべきものだからというぐらいの意である。「おもしろし」も今の語感よりも、もっと感に入る語感で、万葉で※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、下-120-6]怜の字を当てているのを以ても分かる。こころよい、なつかしい、身に沁みる等と翻していい場合が多い。※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、下-120-7]怜を「あはれ」とも訓むから、その情調が入っているのである。この歌の字面はそれだけだが、この歌は民謡で、野の草を哀憐する気持の歌だから、引いて人事の心持、古妻というような心持にも聯想が向くのであるが、現在の私等はあっさりと鑑賞して却って有益な歌なのかも知れない。
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稲舂けば皹る我が手を今宵もか殿の稚子が取りて嘆かむ 〔巻十四・三四五九〕 東歌
「皹る」は、皹のきれることで、アカガリ、アカギレともいう。「殿の稚子」は、地方の国守とか郡守とか豪族とかいう家柄の若君をいうので、歌う者はそれよりも身分の賤しい農婦として使われている者か、或は村里の娘たちという種類の趣である。一首の意は、稲を舂いてこんなに皹の切れた私の手をば、今夜も殿の若君が取られて、可哀そうだとおっしゃることでしょう、御一しょになる時にお恥しい心持もするという余情がこもっている。内容が斯く稍戯曲的であるから、いろいろ敷衍して解釈しがちであるが、これも農民のあいだに行われた労働歌の一種で、農婦等がこぞってうたうのに適したものである。それだから「殿の若子」も、この「我が手」の主人も、誰であってもかまわぬのである。ただこの歌には、身分のいい青年に接近している若い農小婦の純粋なつつましい語気が聞かれるので、それで吾々は感にたえぬ程になるのだが、よく味えばやはり一般民謡の特質に触れるのである。併しこれだけの民謡を生んだのは、まさに世界第一流の民謡国だという証拠である。なおこの巻に、「都武賀野に鈴が音きこゆ上志太の殿の仲子し鳥狩すらしも」(三四三八)というのがあって、一しょにして鑑賞することが出来る。「仲子」は次男のことである。
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あしひきの山沢人の人多にまなといふ児があやに愛しさ 〔巻十四・三四六二〕 東歌
「足引の山沢人の」までは「人さはに」に続く序詞で、山の谿沢に住んで居る人々、樵夫などのたぐいをいう。「まなといふ児」は、可哀いと評判されている娘ということである。そこで一首は、山沢人だち(序詞)おおぜいの人々が美しい可哀いと評判しているあの娘は、私にはこの上もなく可哀い、恋しい、というのである。この歌も普通と違ったところがある。自分の恋しているあの娘は人なかでも評判がいいというので内心喜ぶ心持もあり、人なかで評判のいい娘を私も恋しているので不安で苦しくもあるという気持もあるのである。山間に住ついて働く人々の中にこういう民謡があったものと見える。「多麻河に曝す手作さらさらに何ぞこの児のここだ愛しき」(巻十四・三三七三)、「高麗錦紐解き放けて寝るが上に何ど為ろとかもあやに愛しき」(同・三四六五)、「垣越しに麦食む小馬のはつはつに相見し児らしあやに愛しも」(同・三五三七)等の例がある。
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植竹の本さへ響み出でて去なば何方向きてか妹が嘆かむ 〔巻十四・三四七四〕 東歌
「植竹の」は竹林のことで、竹の根本から「本」への枕詞とした。家じゅう大騒ぎして私が旅立ったら、妻は嘸歎き悲しむことだろう、というので、代匠記以来、防人などに出立の時の歌ででもあろうかといっている。この巻に、「霞ゐる富士の山傍に我が来なば何方向きてか妹が歎かむ」(三三五七)の例がある。この歌を私は嘗て、女と言い争うか何かして、あらあらしく騒いで女の家を立退く趣に解したことがある。即ち植竹の幹の本迄響くように荒々しく怒って立退くあとで、妹を可哀くおもって反省した趣にしたのであった。そして、「背向に寝しく今しくやしも」(巻七・一四一二)などをも参照にしたのであったが、今回は契沖以下の先輩の注釈書に従うことにしたけれども、必ずしも防人出立とせずに、民謡的情事の一場面としても味うことが出来るのである。
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麻苧らを麻笥に多に績まずとも明日来せざめやいざせ小床に 〔巻十四・三四八四〕 東歌
麻苧の糸を娘が績んでいるのに対って男がいいかける趣の歌で、「ら」は添えたものである。「ふすさに」は沢山の意。巻八(一五四九)にある、「なでしこの花ふさ手折り吾は去なむ」の「ふさ」、巻十七(三九四三)にある、「我背子がふさ手折りける」の「ふさ」も同じ語であろうか。一首は、麻苧をそんなに沢山笥に紡がずとも、また明日が無いのではないから、さあ小床に行こう、というのである。「いざせ」の「いざ」は呼びかける語、「せ」は「為」で、この場合は行こうということになる。「明日きせざめや」を契沖は、「明日着セザラメヤ」と解いたが、それよりも「明日来せざらめや也。明日来といふは、凡て月日の事を来歴ゆくと言ひて、明日の日の来る事也」という略解(宣長説)の穏当を取るべきであろう。これも田園民謡で、直接法をしきりに用いているのがおもしろく、特に結句の「いざ・せ・小床に」というのはただの七音の中にこれだけ詰めこんで、調子を破らないのは、なかなか旨いものである。
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児もち山若かへるでの黄葉まで寝もと吾は思ふ汝は何どか思ふ 〔巻十四・三四九四〕 東歌
「児持山」は伊香保温泉からも見える山で、渋川町の北方に聳えている。一首は、あの子持山の春の楓の若葉が、秋になって黄葉するまでも、お前と一しょに寝ようと思うが、お前はどうおもう、というので、誇張するというのは既に親しんでいる証拠でもあり、その親しみが露骨でもあるから、一般化し得る特色を有つのである。「汝は何どか思ふ」と促すところは、会話の語気その儘であるので感じに乗ってくるのである。「吾をぞも汝に依すとふ、汝はいかに思ふや」(巻十三・三三〇九)という長歌の句は、この東歌に比して間が延びて居るように感ずるのである。
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高き峰に雲の着く如す我さへに君に着きなな高峰と思ひて 〔巻十四・三五一四〕 東歌
高い山に雲が着くように、私までも、あなたに着きましょう、あなたを高い山だとおもって、というので、何か諧謔の調のあるのは、親しみのうちに大勢してうたえるようにも出来ており、民謡特有の無遠慮な直接性があるのである。高峰を繰返してもいるが、結句の「高峰ともひて」には親しい甘いところがあっていい。
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我が面の忘れむ時は国溢り峰に立つ雲を見つつ偲ばせ 〔巻十四・三五一五〕 東歌
あなたが旅にあって、若しも私の顔をお忘れになるような時は、国に溢れて立つ雲の峰を御覧になっておもい出して下さいませ、というので、これは寄レ雲恋というように分類しているが、雲の峰を常に見ているのでこういう聯想になったものであろう。この誇張らしいいい方は諧謔でない重々しいところがあるので感が深いようである。この歌の次の、「対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲ばも」(巻十四・三五一六)は、男の歌らしいから、防人の歌ででもあって、前のは防人の妻ででもあろうか。なお、「面形の忘れむ時は大野ろにたなびく雲を見つつ偲ばむ」(同・三五二〇)も類似の歌であるが、この「国溢り」の歌が一番よい。なお、「南吹き雪解はふりて、射水がはながる水泡の」(巻十八・四一〇六)、「射水がは雪解溢りて、行く水のいやましにのみ、鶴がなくなごえの菅の」(同・四一一六)の例もあり、なお、「君が行く海辺の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ」(巻十五・三五八〇)等、類想のものが多い。
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昨夜こそは児ろとさ宿しか雲の上ゆ鳴き行く鶴の間遠く思ほゆ 〔巻十四・三五二二〕 東歌
「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」は「間遠く」に続く序詞であるから、一首は、あの娘とは昨晩寝たばかりなのに、だいぶ日数が立ったような気がするな、というので、こういう発想は東歌でないほかの歌にもあるけれども、「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」は、なかなかの技巧である。
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防人に立ちし朝けの金門出に手放れ惜しみ泣きし児らはも 〔巻十四・三五六九〕 東歌・防人
未勘国防人の歌。「金門」は既にあったごとく「門」である。「手放れ」は手離で、別れることだが、別れに際しては手を握ったことが分かる。これは人間の自然行為で必ずしも西洋とは限らぬ。そこで、此処は、「た」は添辞とせずに、「手」に意味を持たせるのである。併しそれは字面の問題で、実際の気持は別を惜しむことで、そこで、「泣きし児らはも」が利くのである。これは、君命を帯びて辺土の防備に行くのだが、その別を悲しむ歌である。これも彼等の真実の一面、また、「大君の辺にこそ死なめ和には死なじ」も真実の一面である。全体がめそめそばかりではないのである。
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葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲ばむ 〔巻十四・三五七〇〕 東歌・防人
これも防人の歌で、葦の葉に夕霧が立って、そこに鴨が鳴く、そういう寒い晩には、というので、具象的にいっている。そして、「汝をば偲ばむ」というのだから、いまだそういう場合にのぞまない時の歌である。東歌の歌調に似ない巧なところがあるから、幾らか指導者があったのかも知れない。併しもとの作はやはり防人本人で、哀韻の迫ってくるのはそのためであろう。「葦べゆく鴨の羽交に霜ふりて寒き夕は大和しおもほゆ」(巻一・六四)という志貴皇子の御歌に似ている。
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東歌の選鈔は大体右の如くであるが、東歌はなお特殊なものは幾つかあり、秀歌という程でなくとも、注意すべきものだから次に記し置くのである。
さ寝らくはたまの緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢の如 (巻十四・三三五八)
足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに (同・三三六八)
入間道の大家が原のいはゐづら引かばぬるぬる吾にな絶えそね (同・三三七八)
我背子を何どかもいはむ武蔵野のうけらが花の時無きものを (同・三三七九) 筑波嶺にかが鳴く鷲の音のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (同・三三九〇) 小筑波の嶺ろに月立し逢ひだ夜は多なりぬをまた寝てむかも (同・三三九五) 伊香保ろの傍の榛原ねもころに奥をな兼ねそまさかし善かば (同・三四一〇)
上毛野伊奈良の沼の大藺草よそに見しよは今こそまされ (同・三四一七)
薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ (同・三四三三) うらも無く我が行く道に青柳の張りて立てればもの思ひ出つも (同・三四四三) 草蔭の安努な行かむと墾りし道阿努は行かずて荒草立ちぬ (同・三四四七) ま遠くの野にも逢はなむ心なく里の真中に逢へる夫かも (同・三四六三)
佐野山に打つや斧音の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる (同・三四七三)
諾児汝は吾に恋ふなも立と月の流なへ行けば恋しかるなも (同・三四七六) 橘の古婆のはなりが思ふなむ心愛しいで吾は行かな (同・三四九六)
河上の根白高萱あやにあやにさ宿さ寐てこそ言に出にしか (同・三四九七) 岡に寄せ我が刈る草の狭萎草のまこと柔は寝ろとへなかも (同・三四九九)
安斉可潟潮干の緩に思へらば朮が花の色に出めやも (同・三五〇三)
青嶺ろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこの頃 (同・三五一一)
一嶺ろに言はるものから青嶺ろにいさよふ雲のよそり妻はも (同・三五一二) 夕さればみ山を去らぬ布雲の何か絶えむと言ひし児ろはも (同・三五一三) 沼二つ通は鳥が巣我がこころ二行くなもと勿よ思はりそね (同・三五二六) 妹をこそあひ見に来しか眉曳の横山辺ろの鹿なす思へる (同・三五三一)
垣越しに麦食むこうまのはつはつに相見し子らしあやに愛しも (同・三五三七) 青柳のはらろ川門に汝を待つと清水は汲まず立所平すも (同・三五四六) たゆひ潟潮満ちわたる何処ゆかも愛しき夫ろが吾許通はむ (同・三五四九)
塩船の置かれば悲しさ寝つれば人言しげし汝を何かも為む (同・三五五六)
悩しけ人妻かもよ漕ぐ船の忘れは為無な弥思ひ増すに (同・三五五七)
彼の児ろと宿ずやなりなむはた薄裏野の山に月片寄るも (同・三五六五)
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