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秋の田の穂のへに霧らふ朝霞いづへの方に我が恋やまむ 〔巻二・八八〕 磐姫皇后
仁徳天皇の磐姫皇后が、天皇を慕うて作りませる歌というのが、万葉巻第二の巻頭に四首載っている。此歌はその四番目である。四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃八田皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。
一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが叶わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。
「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に碇おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。
この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。他の三首も皆佳作で棄てがたい。
君が行日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五) 斯くばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを (同・八六) 在りつつも君をば待たむうち靡く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七)
八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には軽太子が伊豫の湯に流された時、軽の大郎女(衣通王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。
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妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを 〔巻二・九一〕 天智天皇
天智天皇が鏡王女に賜わった御製歌である。鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原鎌足の嫡妻となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。(後紀大同三年、平群朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。)
一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。
「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。若しそうだと、歌は平凡になる。或は通俗になる。ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。声調は天皇一流の大きく強いもので、これは御気魄の反映にほかならないのである。「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。
この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は審かでない。また天武天皇の十二年に、王女の病篤かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。
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秋山の樹の下がくり逝く水の吾こそ益さめ御思よりは 〔巻二・九二〕 鏡王女
右の御製に鏡王女の和え奉った歌である。
一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。
「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり誤魔化さない写生がある。それから、「われこそ益さめ御思よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の口吻が出ているところに注意せねばならない。特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か遜ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈った歌、「玉くしげ覆ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)の方は稍気軽に作っている点に差別がある。併し「君が名はあれど吾が名し惜しも」の句にやはり女性の口吻が出ていて棄てがたいものである。
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玉くしげ御室の山のさなかづらさ寝ずは遂にありがつましじ 〔巻二・九四〕 藤原鎌足
内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女に答え贈った歌であるが、王女が鎌足に「たまくしげ覆ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)という歌を贈った。櫛笥の蓋をすることが楽に出来るし、蓋を開けることも楽だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。
「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、玉匣をあけて見んというミから御室山のミに続けた。或はミは中身のミだとも云われて居る。御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。博士はカツと清んで訓んでいる。ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。「いや遠く君がいまさば有不勝自」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも依勝益士」(巻七・一三五二)等の例がある。
鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に押つけないところなども微妙でいい。「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。「生けるもの遂にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ遂に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。
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吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり 〔巻二・九五〕 藤原鎌足
内大臣藤原卿(鎌足)が采女安見児を娶った時に作った歌である。
一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。
「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。
この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。そこで注釈家の間に寓意説、例えば守部の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾レ安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を慥かに聞せんとて也。然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の巧も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊要)の如きがある。けれどもそういう説は一つの穿ちに過ぎないとおもう。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。
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わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 〔巻二・一〇三〕 天武天皇
天武天皇が藤原夫人に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女、五百重娘で、新田部皇子の御母、大原大刀自ともいわれた方である。夫人は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市郡飛鳥村小原の地である。
一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。
天皇が飛鳥の清御原の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。
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わが 岡の 神に 言ひて 降らしめし 雪の 摧し 其処に 散りけむ 〔巻二・一〇四〕 藤原夫人
藤原夫人が、前の御製に和え奉ったものである。 神というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の 神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の御揶揄に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。
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我が背子を大和へ遣ると小夜更けてあかとき露にわが立ち霑れし 〔巻二・一〇五〕 大伯皇女
大津皇子(天武天皇第三皇子)が窃かに伊勢神宮に行かれ、斎宮大伯皇女に逢われた。皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の関係にある。
一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に鶏鳴露とあるが、鶏鳴(四更丑刻)は午前二時から四時迄であり、また万葉に五更露爾(巻十・二二一三)ともあって、五更(寅刻)は午前四時から六時迄であるから、夜の更から程なく暁に続くのである。そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。
大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌を謀ったのが露われて、朱鳥元年十月三日死を賜わった。伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。「わが背子」は、普通恋人または夫のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。親しんでいえば同一に帰着するからである。「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が活いている。名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この吾子を韓国へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。
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二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越えなむ 〔巻二・一〇六〕 大伯皇女
大伯皇女の御歌で前の歌の続と看做していい。一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな風にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成ナラズモ覚束ナク、又ノ対面モ如何ナラムト思召御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。
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あしひきの山の雫に妹待つとわれ立ち沾れぬ山の雫に 〔巻二・一〇七〕 大津皇子
大津皇子が石川郎女(伝未詳)に贈った御歌で、一首の意は、おまえの来るのを待って、山の木の下に立っていたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、というのである。「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。宣長の「足引城」説が平凡だが一番真に近いか。「足は山の脚、引は長く引延へたるを云。城とは凡て一構なる地を云て此は即ち山の平なる処をいふ」(古事記伝)というのである。御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。
右に石川郎女の和え奉った歌は、「吾を待つと君が沾れけむあしひきの山の雫にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。
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古に恋ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴きわたり行く 〔巻二・一一一〕 弓削皇子
持統天皇が吉野に行幸あらせられた時、従駕の弓削皇子(天武天皇第六皇子)から、京に留まっていた額田王に与えられた歌である。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、杜鵑の啼く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。
一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、弓弦葉の御井のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。
「古」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に情緒充足し何とも言えぬ句である。そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く稀であることを知って置く方がいい。「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁にして静和な響をたたえている。
額田王は右の御歌に「古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和えている。皇子の御歌には杜鵑のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。
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人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる 〔巻二・一一六〕 但馬皇女
但馬皇女(天武天皇皇女)が穂積皇子(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向のよれる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃かに穂積皇子に接せられたのが露われた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽く。特に皇女が皇子に逢うために、秘かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。
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石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか 〔巻二・一三二〕 柿本人麿
柿本人麿が石見の国から妻に別れて上京する時詠んだものである。当時人麿は石見の国府(今の那賀郡下府上府)にいたもののようである。妻はその近くの角の里(今の都濃津附近)にいた。高角山は角の里で高い山というので、今の島星山であろう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川の岸に出たもののようである。
大意。石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。
角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。
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小竹の葉はみ山もさやに乱れども吾は妹おもふ別れ来ぬれば 〔巻二・一三三〕 柿本人麿
前の歌の続きである。人麿が馬に乗って今の邑智郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名越をし、備後にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。
大意。今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき乱れていても、わが心はそれに紛れることなくただ一向に、別れて来た妻のことをおもっている。
今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも拘わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗に歌っているから軽妙に滑って行かないのである。
第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「ササの葉はみ山もサヤにサヤげども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは寧ろ、「ササの葉はミヤマもサヤにミダレども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が精しいのである。サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不二妄開示一」、古訓老子の、「不レ知レ常妄作シテ凶ナリ」等をば、参考とすることが出来る。即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄溯らせることは無理である。また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも毫も鑑賞に差支はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも優さっている。併しミダレドモと訓むならばもっとよいのだから、私はミダレドモの訓に執着するものである。(本書は簡単を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。)
巻七に、「竹島の阿渡白波は動めども(さわげども)われは家おもふ廬悲しみ」(一二三八)というのがあり、類似しているが、人麿の歌の模倣ではなかろうか。
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青駒の足掻を速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける 〔巻二・一三六〕 柿本人麿
これもやはり人麿が石見から大和へのぼって来る時の歌で、第二長歌の反歌になっている。「青駒」はいわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体黒馬とおもって差支ない。白馬だという説は当らない。「足掻を速み」は馬の駈けるさまである。
一首の意は、妻の居るあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている青馬の駈けるのが速いので、妻のいる筈の里も、いつか空遠く隔ってしまった、というのである。
内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。恋愛の悲哀といおうより寧ろ荘重の気に打たれると云った声調である。そこにおのずから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は細々したことを描写せずに、真率に真心をこめて歌うのがその特徴だから内容の単純化も行われるのである。「雲居にぞ」といって、「過ぎて来にける」と止めたのは実に旨い。もっともこの調子は藤原の御井の長歌にも、「雲井にぞ遠くありける」(巻一・五二)というのがある。この歌の次に、「秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱れそ妹があたり見む」(巻二・一三七)というのがある。これも客観的よりも、心の調子で歌っている。それを嫌う人は嫌うのだが、軽浮に堕ちない点を見免してはならぬのである。この石見から上来する時の歌は人麿としては晩年の作に属するものであろう。
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磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む 〔巻二・一四一〕 有間皇子
有間皇子(孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、蘇我赤兄に欺かれ、天皇に紀伊の牟婁の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留守に乗じて不軌を企てたが、事露見して十一月五日却って赤兄のために捉えられ、九日紀の温湯の行宮に送られて其処で皇太子中大兄の訊問があった。斉明紀四年十一月の条に、「於レ是皇太子、親間二有間皇子一曰、何故謀反、答曰、天与二赤兄一知、吾全不レ解」の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞に処せられた。御年十九。万葉集の詞書には、「有間皇子自ら傷しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。
一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。
無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を吐出すというようなことをせず、御自分をその儘素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂っていいほどである。作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に堕ることが無いのである。
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家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 〔巻二・一四二〕 有間皇子
有間皇子の第二の歌である。「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって飯笥のことである。そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。
一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。
前の御歌は、「真幸くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通 旅の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直にあらわしているのが、やがて普通の 旅とは違ったこととなったのである。写生の妙諦はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。
中大兄皇子の、「香具山と耳成山と会ひしとき立ちて見に来し印南国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「嬬を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯る客観的荘厳を成就せられた。
皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、長忌寸意吉麿)、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(同・一四五、山上憶良)、「後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも」(同・一四六、人麿歌集)等がある。併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。また、穂積朝臣老が近江行幸(養老元年か)に供奉した時の「吾が命し真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切実にひびかない。
「椎の葉」は、和名鈔は、「椎子和名之比」であるから椎の葉であってよいが、楢の葉だろうという説がある。そして新撰字鏡に、「椎、奈良乃木也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し尽している。また「遅速も汝をこそ待ため向つ峰の椎の小枝の逢ひは違はじ」(巻十四・三四九三)と或本の歌、「椎の小枝の時は過ぐとも」の椎は思比、四比と書いているから、楢ではあるまい。そうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。「片岡の此向つ峯に椎蒔かば今年の夏の陰になみむか」(巻七・一〇九九)も椎であろうか。そして此歌は詠レ岳だから、椎の木の生長のことなどそう合理的でなくとも、ふとそんな気持になって詠んだものであろう。
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天の原ふりさけ見れば大王の御寿は長く天足らしたり 〔巻二・一四七〕 倭姫皇后
天智天皇御不予にあらせられた時、皇后(倭姫王)の奉れる御歌である。天皇は十年冬九月御不予、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したもうたから、これは九月か十月ごろの御歌であろうか。
一首の意は、天を遠くあおぎ見れば、悠久にしてきわまりない。今、天皇の御寿もその天の如くに満ち足っておいでになる、聖寿無極である、というのである。
天皇御不予のことを知らなければ、ただの寿歌、祝歌のように受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願い、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切実な悲しみが潜むと感ずるのである。特に、結句に「天足らしたり」と強く断定しているのは、却ってその詠歎の究竟とも謂うことが出来る。橘守部は、この御歌の「天の原」は天のことでなしに、家の屋根の事だと考証し、新室を祝う室寿の詞の中に「み空を見れば万代にかくしもがも」云々とある等を証としたが、その屋根を天に準えることは、新家屋を寿ぐのが主な動機だから自然にそうなるので、また、万葉巻十九(四二七四)の新甞会の歌の「天にはも五百つ綱はふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ」でも、宮殿内の肆宴が主だからこういう云い方になるのである。御不予御平癒のための願望動機とはおのずから違わねばならぬと思うのである。縦い、実際的の吉凶を卜する行為があったとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、そういう行為は現在伝わっていないから分からぬ。私は、歌に「天の原ふりさけ見れば」とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する旧説の方が却って原歌の真を伝えているのでなかろうかと思うのである。守部説は少し穿過ぎた。
この歌は「天の原ふりさけ見れば」といって直ぐ「大王の御寿は」と続けている。これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たように取れるかも知れぬが、これはそういうことではあるまい。此処に常識的意味の上に省略と単純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出来るところなのである。この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大学本がこう訓み、近くは略解がこう訓んで諸家それに従うようになったものである。
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青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも 〔巻二・一四八〕 倭姫皇后
御歌の内容から見れば、天智天皇崩御の後、倭姫皇后の御作歌と看做してよいようである。初句「青旗の」は、下の「木旗」に懸る枕詞で、青く樹木の繁っているのと、下のハタの音に関聯せしめたものである。「木幡」は地名、山城の木幡で、天智天皇の御陵のある山科に近く、古くは、「山科の木幡の山を馬はあれど」(巻十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云った。天皇の御陵の辺を見つつ詠まれたものであろう。右は大体契沖の説だが、「青旗の木旗」をば葬儀の時の幢幡のたぐいとする説(考・檜嬬手・攷證)がある。自分も一たびそれに従ったことがあるが、今度は契沖に従った。
一首の意。〔青旗の〕(枕詞)木幡山の御墓のほとりを天がけり通いたもうとは目にありありとおもい浮べられるが、直接にお逢い奉ることが無い。御身と親しく御逢いすることがかなわない、というのである。
御歌は単純蒼古で、徒らに艶めかず技巧を無駄使せず、前の御歌同様集中傑作の一つである。「直に」は、現身と現身と直接に会うことで、それゆえ万葉に用例がなかなか多い。「百重なす心は思へど直に逢はぬかも」(巻四・四九六)、「うつつにし直にあらねば」(巻十七・三九七八)、「直にあらねば恋ひやまずけり」(同・三九八〇)、「夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに」(巻十二・二九五九)などである。「目には見れども」は、眼前にあらわれて来ることで、写象として、幻として、夢等にしていずれでもよいが、此処は写象としてであろうか。「み空ゆく月読男ゆふさらず目には見れども寄るよしもなし」(巻七・一三七二)、「人言をしげみこちたみ我背子を目には見れども逢ふよしもなし」(巻十二・二九三八)の歌があるが、皆民謡風の軽さで、この御歌ほどの切実なところが無い。
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人は縦し思ひ止むとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも 〔巻二・一四九〕 倭姫皇后
これには、「天皇崩じ給ひし時、倭太后の御作歌一首」と明かな詞書がある。倭太后は倭姫皇后のことである。
一首の意は、他の人は縦い御崩れになった天皇を、思い慕うことを止めて、忘れてしまおうとも、私には天皇の面影がいつも見えたもうて、忘れようとしても忘れかねます、というのであって、独詠的な特徴が存している。
「玉かづら」は日蔭蔓を髪にかけて飾るよりカケにかけ、カゲに懸けた枕詞とした。山田博士は葬儀の時の華縵として単純な枕詞にしない説を立てた。この御歌には、「影に見えつつ」とあるから、前の御歌もやはり写象のことと解することが出来るとおもう。「見し人の言問ふ姿面影にして」(巻四・六〇二)、「面影に見えつつ妹は忘れかねつも」(巻八・一六三〇)、「面影に懸かりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等の用例が多い。
この御歌は、「人は縦し思ひ止むとも」と強い主観の詞を云っているけれども、全体としては前の二つの御歌よりも寧ろ弱いところがある。それは恐らく下の句の声調にあるのではなかろうか。
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山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく 〔巻二・一五八〕 高市皇子
十市皇女が薨ぜられた時、高市皇子の作られた三首の中の一首である。十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は額田女王、弘文天皇の妃であったが、壬申の戦後、明日香清御原の宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲レ幸二斎宮一、卜レ之、癸巳食レ卜、仍取二平旦時一、警蹕既動、百寮成レ列、乗輿命レ蓋、以未レ及二出行一、十市皇女、卒然病発、薨二於宮中一、由レ此鹵簿既停、不レ得二幸行一、遂不レ祭二神祇一矣とある。高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。御墓は赤穂にあり、今は赤尾に作っている。
一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いている山の泉の水を、汲みに行こうとするが、どう通って行ったら好いか、その道が分からない、というのである。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬという心が含まれている。
作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いているさまを一つの写象として念頭に浮べているので、謂わば十市皇女と関聯した一つの象徴なのである。そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有様を「道の知らなく」と云っても、感情上毫しも無理ではない。併し、常識からは、一定の山清水を指定しているのなら、「道の知らなく」というのがおかしいというので、橘守部の如く、「山吹の立ちよそひたる山清水」というのは、「黄泉」という支那の熟語をくだいてそういったので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないというように解するようになる。守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はそういう意図を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらわれたものを第一義とせねばならぬから、おのずから私の解釈のようになるし、それで感情上決して不自然ではない。
第二句、「立儀足」は旧訓サキタルであったのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。その他にも異訓があるけれども大体代匠記の訓で定まったようである。ヨソフという語は、「水鳥のたたむヨソヒに」(巻十四・三五二八)をはじめ諸例がある。「山吹の立ちよそひたる山清水」という句が、既に写象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれで押とおして行って味えば、この歌の優れていることが分かる。古調のいい難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての関聯を鑑賞すべきである。なぜこの歌の上の句が切実かというに、「かはづ鳴く甘南備河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花」(巻八・一四三五)等の如く、当時の人々が愛玩した花だからであった。
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北山につらなる雲の青雲の星離りゆき月も離りて 〔巻二・一六一〕 持統天皇
天武天皇崩御の時、皇后(後の持統天皇)の詠まれた御歌である。原文には一書曰、太上天皇御製歌、とあるのは、文武天皇の御世から見て持統天皇を太上天皇と申奉った。即ち持統天皇御製として言伝えられたものである。
一首は、北山に連ってたなびき居る雲の、青雲の中の(蒼き空の)星も移り、月も移って行く。天皇おかくれになって万ず過ぎゆく御心持であろうが、ただ思想の綾でなく、もっと具体的なものと解していい。
大体右の如く解したが、此歌は実は難解で種々の説がある。「北山に」は原文「向南山」である。南の方から北方にある山科の御陵の山を望んで「向南山」と云ったものであろう。「つらなる雲の」は原文「陣(陳)雲之」で旧訓タナビククモノであるが、古写本中ツラナルクモノと訓んだのもある。けれども古来ツラナルクモという用例は無いので、山田博士の如きも旧訓に従った。併しツラナルクモも可能訓と謂われるのなら、この方が型を破って却って深みを増して居る。次に「青雲」というのは青空・青天・蒼天などということで、雲というのはおかしいようだが、「青雲のたなびく日すら霖そぼ降る」(巻十六・三八八三)、「青雲のいでこ我妹子」(巻十四・三五一九)、「青雲の向伏すくにの」(巻十三・三三二九)等とあるから、晴れた蒼天をも青い雲と信じたものであろう。そこで、「北山に続く青空」のことを、「北山につらなる雲の青雲の」と云ったと解し得るのである。これから、星のことも月のことも、単に「物変星移幾度秋」の如きものでなく、現実の星、現実の月の移ったことを見ての詠歎と解している。
面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を尊敬し愛誦している。「春過ぎて夏来るらし」と殆ど同等ぐらいの位置に置いている。何か渾沌の気があって二二ガ四と割切れないところに心を牽かれるのか、それよりももっと真実なものがこの歌にあるからであろう。自分は、「北山につらなる雲の」だけでももはや尊敬するので、それほど古調を尊んでいるのだが、少しく偏しているか知らん。
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神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も有らなくに 〔巻二・一六三〕 大来皇女
大津皇子が薨じ給うた後、大来(大伯)皇女が伊勢の斎宮から京に来られて詠まれた御歌である。御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。皇子は朱鳥元年十月三日に死を賜わった。また皇女が天武崩御によって斎王を退き(天皇の御代毎に交代す)帰京せられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日だから、皇女は皇子の死を大体知っていられたと思うが、帰京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただろう。
一首の意。〔神風の〕(枕詞)伊勢国にその儘とどまっていた方がよかったのに、君も此世を去って、もう居られない都に何しに還って来たことであろう。
「伊勢の国にもあらましを」の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。第三句に、「あらましを」といい、結句に、「あらなくに」とあるのも重くして悲痛である。
なお、同時の御作に、「見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)がある。前の結句、「君もあらなくに」という句が此歌では第三句に置かれ、「馬疲るるに」という実事の句を以て結んで居るが、、この結句にもまた愬えるような響がある。以上の二首は連作で二つとも選っておきたいが、今は一つを従属的に取扱うことにした。
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現身の人なる吾や明日よりは二上山を弟背と吾が見む 〔巻二・一六五〕 大来皇女
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと云はなくに 〔巻二・一六六〕 同
大津皇子を葛城の二上山に葬った時、大来皇女哀傷して作られた御歌である。「弟背」は原文「弟世」とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに従った。同母兄弟をイロセということ、古事記に、「天照大御神之伊呂勢」、「其伊呂兄五瀬命」等の用例がある。
大意。第一首。生きて現世に残っている私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもって見て慕い偲ぼう。今日いよいよ此処に葬り申すことになった。第二首。石のほとりに生えている、美しいこの馬酔木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。
「君がありと云はなくに」は文字どおりにいえば、「一般の人々が此世に君が生きて居られるとは云わぬ」ということで、人麿の歌などにも、「人のいへば」云々とあるのと同じく、一般にそういわれているから、それが本当であると強めた云い方にもなり、兎に角そういう云い方をしているのである。馬酔木については、「山もせに咲ける馬酔木の、悪からぬ君をいつしか、往きてはや見む」(巻八・一四二八)、「馬酔木なす栄えし君が掘りし井の」(巻七・一一二八)等があり、自生して人の好み賞した花である。
この二首は、前の御歌等に較べて、稍しっとりと底深くなっているようにおもえる。「何しか来けむ」というような強い激越の調がなくなって、「現身の人なる吾や」といって、諦念の如き心境に入ったもののいいぶりであるが、併し二つとも優れている。
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あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも 〔巻二・一六九〕 柿本人麿
日並皇子尊の殯宮の時、柿本人麿の作った長歌の反歌である。皇子尊と書くのは皇太子だからである。日並皇子尊(草壁皇子)は持統三年に薨ぜられた。
「ぬばたまの夜わたる月の隠らく」というのは日並皇子尊の薨去なされたことを申上げたので、そのうえの、「あかねさす日は照らせれど」という句は、言葉のいきおいでそう云ったものと解釈してかまわない。つまり、「月の隠らく惜しも」が主である。全体を一種象徴的に歌いあげている。そしてその歌調の渾沌として深いのに吾々は注意を払わねばならない。
この歌の第二句は、「日は照らせれど」であるから、以上のような解釈では物足りないものを感じ、そこで、「あかねさす日」を持統天皇に譬え奉ったものと解釈する説が多い。然るに皇子尊薨去の時には天皇が未だ即位し給わない等の史実があって、常識からいうと、実は変な辻棲の合わぬ歌なのである。併し此処は真淵が万葉考で、「日はてらせれどてふは月の隠るるをなげくを強むる言のみなり」といったのに従っていいと思う。或はこの歌は年代の明かな人麿の作として最初のもので、初期(想像年齢二十七歳位)の作と看做していいから、幾分常識的散文的にいうと腑に落ちないものがあるかも知れない。特に人麿のものは句と句との連続に、省略があるから、それを顧慮しないと解釈に無理の生ずる場合がある。
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島の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず 〔巻二・一七〇〕 柿本人麿
人麿が日並皇子尊殯宮の時作った中の、或本歌一首というのである。「勾の池」は島の宮の池で、現在の高市郡高市村の小学校近くだろうと云われている。一首の意は、勾の池に放ち飼にしていた禽鳥等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なお人なつかしく、水上に浮いていて水に潜ることはないというのである。
真淵は此一首を、舎人の作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。例えば、「島の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君坐さずとも」(巻二・一七二)、「御立せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで」(同・一八〇)など、内容は類似しているけれども、何処か違うではないか。そこで参考迄に此一首を抜いて置いた。
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東の滝の御門に侍へど昨日も今日も召すこともなし 〔巻二・一八四〕 日並皇子宮の舎人 あさ日照る島の御門におぼほしく人音もせねばまうらがなしも 〔巻二・一八九〕 同
日並の皇子尊に仕えた舎人等が慟傷して作った歌二十三首あるが、今その中二首を選んで置いた。「東の滝の御門」は皇子尊の島の宮殿の正門で、飛鳥川から水を引いて滝をなしていただろうと云われている。「人音もせねば」は、人の出入も稀に寂れた様をいった。
大意。第一首。島の宮の東門の滝の御門に伺候して居るが、昨日も今日も召し給うことがない。嘗て召し給うた御声を聞くことが出来ない。第二首。嘗て皇子尊の此世においでになった頃は、朝日の光の照るばかりであった島の宮の御門も、今は人の音ずれも稀になって、心もおぼろに悲しいことである、というのである。
舎人等の歌二十三首は、素直に、心情を抒べ、また当時の歌の声調を伝えて居る点を注意すべきであるが、人麿が作って呉れたという説はどうであろうか。よく読み味って見れば、少し楽でもあり、手の足りないところもあるようである。なお二十三首のうちには次の如きもある。
朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭く涙やむ時もなし(巻二・一七七) 御立せし島の荒磯を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(同・一八一) あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも(同・一八八)
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敷妙の袖交へし君玉垂のをち野に過ぎぬ亦も逢はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿
この歌は、川島皇子が薨ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに献った歌である。川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に懸る枕詞である。「袖交へし」のカフは波行下二段に活用し、袖をさし交して寝ることで、「白妙の袖さし交へて靡き寝し」(巻三・四八一)という用例もある。「過ぐ」とは死去することである。
一首は、敷妙の袖をお互に交わして契りたもうた川島皇子の君は、今越智野(大和国高市郡)に葬られたもうた。今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。
この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。そこで一首がしっとりと充実して決して申訣の余所余所しさというものが無い。第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。
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零る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに 〔巻二・二〇三〕 穂積皇子
但馬皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷流涕して作られた歌である。皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。吉隠は磯城郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること勿れというのに従っておく。「塞なさまくに」は塞をなさんに、塞となるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。
一首は、降る雪は余り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を遮って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。
皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事の職にあられた。御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。
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秋山の黄葉を茂み迷はせる妹を求めむ山道知らずも 〔巻二・二〇八〕 柿本人麿
これは人麿が妻に死なれた時詠んだ歌で、長歌を二つも作って居り、その反歌の一つである。この人麿の妻というのは軽の里(今の畝傍町大軽和田石川五条野)に住んでいて、其処に人麿が通ったものと見える。この妻の急に死んだことを使の者が知らせた趣が長歌に見えている。
一首は、自分の愛する妻が、秋山の黄葉の茂きがため、その中に迷い入ってしまった。その妻を尋ね求めんに道が分からない、というのである。
死んで葬られることを、秋山に迷い入って隠れた趣に歌っている。こういう云い方は、現世の生の連続として遠い処に行く趣にしてある。当時は未だそう信じていたものであっただろうし、そこで愛惜の心も強く附帯していることとなる。「迷はせる」は迷いなされたという具合に敬語にしている。これは死んだ者に対しては特に敬語を使ったらしく、その他の人麿の歌にも例がある。この一首は亡妻を悲しむ心が極めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。「求めむ」と云ってもただ尋ねようというよりも、もっと覚官的に人麿の身に即したいい方であるだろう。
なお、人麿の妻を悲しんだ歌に、「去年見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる」(巻二・二一一)、「衾道を引手の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」(同・二一二)がある。共に切実な歌である。二一一の第三句は、「照らせれど」とも訓んでいる。一周忌の歌だろうという説もあるが、必ずしもそう厳重に穿鑿せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。「衾道を」はどうも枕詞のようである。「引手山」は不明だが、春日の羽易山の中かその近くと想像せられる。
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楽浪の志我津の子らが罷道の川瀬の道を見ればさぶしも 〔巻二・二一八〕 柿本人麿
吉備津采女が死んだ時、人麿の歌ったものである。「志我津の子ら」とあるから、志我津即ち今の大津あたりに住んでいた女で、多分吉備の国(備前備中備後美作)から来た采女で、現職を離れてから近江の大津辺に住んでいたものと想像せられる。「子ら」の「ら」は親愛の語で複数を示すのではない。「罷道」は此世を去って死んで黄泉の国へ行く道の意である。
一首は、楽浪の志我津にいた吉備津采女が死んで、それを送って川の瀬を渡って行く、まことに悲しい、というのである。「川瀬の道」という語は古代語として注意してよく、実際の光景であったのであろうが、特に「川瀬」とことわったのを味うべきである。川瀬の音も作者の心に沁みたものと見える。
この歌は不思議に悲しい調べを持って居り、全体としては句に屈折・省略等も無く、むつかしくない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういう場合に人麿がこの采女の死に逢ったのか、或は依頼されて作ったものか、そういうことを種々問題にし得る歌だが、人麿は此時、「あまかぞふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき」(巻二・二一九)という歌をも作っている。これは、生前縁があって一たび会ったことがあるが、その時にはただ何気なく過した。それが今となっては残念である、というので、これで見ると人麿は依頼されて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のようでもあり、人麿は自ら感激して作っていることが分かる。
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妻もあらば採みてたげまし佐美の山野の上の宇波疑過ぎにけらずや 〔巻二・二二一〕 柿本人麿
人麿が讃岐狭岑島で溺死者を見て詠んだ長歌の反歌である。今仲多度郡に属し砂弥島と云っている。坂出町から近い。
一首の意は、若し妻が一しょなら、野のほとりの兎芽子(よめ菜)を摘んで食べさせようものを、あわれにも唯一人こうして死んでいる。そして野の兎芽子はもう季節を過ぎてしまっているではないか、というのである。
タグという動詞は下二段に活用し、飲食することである。人麿はこういう種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か恋人でもあるかのような態度で作歌して居る。それゆえ軽くすべって行くようなことがなく、飽くまで人麿自身から遊離していないものとして受取ることが出来るのである。
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鴨山の磐根し纏ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ 〔巻二・二二三〕 柿本人麿
人麿が石見国にあって死なんとした時、自ら悲しんで詠んだ歌である。当時人麿は石見国府の役人として、出張の如き旅にあって、鴨山のほとりで死んだものであろう。
一首は、鴨山の巌を枕として死んで居る吾をも知らずに、吾が妻は吾の帰るのを待ち詫びていることであろう、まことに悲しい、という意である。
人麿の死んだ時、妻の依羅娘子が、「けふけふと吾が待つ君は石川の峡に(原文、石水貝爾)交りてありといはずやも」(巻二・二二四)と詠んで居り、娘子は多分、角の里にいた人麿の妻と同一人であろうから、そうすれば「鴨山」という山は、石川の近くで国府から少くも十数里ぐらい離れたところと想像することが出来る。そこで自分は昭和九年に「鴨山考」を作って、石川を現在の江川だと見立て、邑智郡粕淵村の津目山を鴨山だろうという仮説を立てたのであったが、昭和十二年一月、おなじ粕淵村の大字湯抱に「鴨山」という名のついた実在の山を発見した。これは二つ峰のある低い山(三六〇米)で津目山より約半里程隔っている。この事は「鴨山後考」(昭和十三年「文学」六ノ一)で発表した。
この歌は、謂わば人麿の辞世の歌であるが、いつもの人麿の歌程威勢がなく、もっと平凡でしっとりとした悲哀がある。また人麿は死に臨んで悟道めいたことを云わずに、ただ妻のことを云っているのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかというに、真淵は和銅三年ごろだろうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時ではなかろうかと空想した。さすれば真淵説より数年若くて死ぬことになるが、それでも四十五歳ぐらいである。 |