「有事法制3法案」を表とするなら、その裏案として「メディア規制3法案」も上程されようとしている。「メディア規制3法案」とは、@・「個人情報保護関連法案」、A・「人権擁護法案」、B・「青少年有害社会環境対策基本法案」のことを云う。俗に「巨悪スキャンダル防止法」と認識できるようである。
戦後憲法は、市民社会における市民活動の是認を様々に保障してきた。国家権力がそれらに立ち入らないことを戦後民主主義の大原則としてきた。今、この法理が壊されようとしている。「表現の自由に対抗する人権の保護」を謳い文句にして、国民生活を隅々まで監督官庁下に置き直そうとしている。そういう意味で、戦後の大衆的市民社会が危機に瀕していると云える。
しかし、当局とは狡猾なものである。表向きは、「放送機関、新聞社、通信社、その他の報道機関」に対しては配慮を見せ、適用除外としているようだ。そうなると、下級的な出版社やフリージャーナリスト、インターネット空間での情報の遣り取り等が狙い打ちされるのだろう。こうなると従来、「国家権力は報道規制、取材の中身に立ち入らないよう配慮」してきたが、業としての継続反復者たる上級機関には特権を与え、素人の参入に対しては高い障壁を造ろうとしているやに見える。いわばギルド化であろうが、問題は、特権者が腐敗したら、もはや我が社会にはまともな批判が存在し得なくなることにあろう。その心配は無いのか。現にあるではないか。
この「メディア規制3法案」と、「日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解(1197.11月)」を重ね合わせると、大衆的市民社会の言論及び表現の自由はほぼ封殺されることになるであろう。こうなるといっそのこと、「日本の各政党のホームページ上の著作権に関する統一見解」も出して、著作権を振り回して言論圧殺に回れば良かろう。かくて今や当局とメジャーマスコミによる知の独占が完結されようとしているが、こうなると21世紀の今後はお先マっ暗と云わざるを得まい。この道はいつか辿った滅びの道である。社会が特権化し、相互検証が出来なくなった時、その空隙を埋めるのは超法規権力である。戦前は天皇制が立ち現れた。戦後は一時GHQ権力が担った。今後は恐らくあの裏権力が登場してくるのだろう。
ということは、直接的にそうなるかどうかは別にして我らが社会にもアフガンのパレスチナの悲劇が繰り返される可能性さえ見えてきた、と云えるだろう。意味するところは、ゲリラ化しかないということである。
こうした世相作りの立役者中曽根-小泉ラインの放逐以外、この不安から逃れる術は無い。それにしても、この連中の底なしの売国奴ぶりはどこから生まれるのだろう。その動機にまで興趣がそそられるが、こういう勢力となして協調なぞ有り得ようか。
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