原水禁運動の歩み(5)、1980年代

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.24日

 これより前は、「原水禁運動の歩み(4)、1970年代」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「原水禁運動の歩み(5)、1980年代」を確認する。「原水禁運動の歩み(1)(ヒロシマ・ナガサキから原水禁運動の分裂まで)」、「原水禁運動の歩み(2)(原水禁国民会議の結成から統一大会前まで)」、「原水禁運動の歩み(3)(禁・協の統一行動からその崩壊まで)」、宮地健一「核・原子力問題にたいする共産党3回目の誤り(1)1963年→(2)1984年→(3)2011年運動・理論面での反国民的な分裂犯罪史」その他を参照する。

 2012.08.17日再編集  れんだいこ拝


【1980(昭和55)年】
(私論.私見) 
 この年、

【原水協と原水禁が共同闘争実行委員会を解散】
 1980年になると、原水協側が新しい動きを開始した。「統一行動」としての原水禁世界大会方式が次第に定着してくるのをみて原水協はあせりだしはじめたのだった。78年、79年の世界大会実行委員会は、国連軍縮特別総会(SSD-1、78年5月)への日本代表団を統一して派遣するために同盟も含めてつくられた、調整委員会をベースに帰国後発足したNGO懇談会を土台に構成され、世界大会を開催してきた。ところが、79年世界大会終了後、同実行委員会を解散するにあたって、混乱がひきおこされ、1980年2月19日には「幻」の「’79原水禁世界大会実行委員会」が開催されるという事態にまでいたり、80年世界大会の準備は大幅に遅れ、主催形式も大きく変更されることになったのである。

 「’79世界大会実行委員会」の解散のための実行委員会は、事務処理の遅れもあって79年中に開けず年をこえ、80年1月21日に開かれた。この実行委員会前に開かれた運営委員会で、(1)当日をもって実行委員会を解散する。(2)そのうえで速やかに80年世界大会準備のための組織をつくる、と確認していた。

 ところが、原水協・平和委員会は、「3・1ビキニデー」をも統一の実行委員会のもとで開くことをねらい(原水禁は3・1を各県で取り組む方針にしていた)、大会実行委員会の解散に反対し、同実行委員会での3・1集会の主催を主張しはじめた。これは、切れ目なく実行委員会を維持することで、統一の名のもとに原水禁の独自活動をしばろうとの意図がひそんでいた。運営委員会の全員一致で確認された解散方針について、実行委員会の席上で、共産党系の団体から反対の主張が繰り返され、議事が紛糾、事態収拾のため当日の議長団によって休会が宣せられた。運営委員会はあらためて協議した結果、確認の通り解散することを前提に、再開することのない「休会」となった。

 ところが、原水協・平和委員会は「休会」という表現を利用し、当日の議長団に働きかけ、議長名による「’79世界大会実行委員会」の召集を、何の相談もなく突然行なった。しかも召集の通知も選別して行われ、原水協・平和委員会に都合のよい運営を行なおうと策動したのである。

 だが、原水禁や労働団体が、この会議を承認しないという原則的態度をとったため、この大会実行委員会は公認されることなく、「幻」のものとなったが、原水協、平和委員会のこのようなルール破りの策動のため、80年世界大会の準備は大幅に遅れ、統一しての開催さえあやぶまれるにいたったのである。

 こうした市民5団体をまきこんでの「幻」の実行委員会の演出の一方、この年、日本原水協は、「1980年が原水協結成25周年にあたる」として、この夏に「独自集会」を開くことを決定した。これまで「統一集会」以外はまったく認めないと主張していた彼らの方針を公然と転換したのである。だが、これはある意味で当然の結果であった。

 原水協の「統一大会しか認めない」という主張が、そもそも非現実的であり、矛盾したものだったのである。原水協は、独自集会を公然と開くことを決めたことによって、彼らは自分たちの矛盾を認めざるをえなくなったのである。(この年以降、原水協は毎年「独自集会」を開いている)。

 原水協が独自大会を開くことと、2・19「実行委員会」の一方的開催による話し合いの停止によって、このままでは「世界大会」は開催不能となりかねない状況のなかで、地婦連や日青協は、「統一世界大会」を開催しようと必死の努力を開始する。やがて、この両団体の調整が実り、6月28日には、原水禁、原水協代表を含めた発起人集会が開かれるはこびとなった。この会議に出席した代表たちは、もはや前年まで採用してきた実行委員会方式は無理であると判断し、統一世界大会を準備するため運営委員会団体を中心とする「準備委員会」方式で運営することに踏み切ることになった。

 こうして、「統一世界大会」は、「大会準備委員会」の主催で開かれることになった。これ以降、世界大会は、この「準備委員会」方式で主催されることになったのである。さらに、「世界大会準備委員会」も、その年々の単年度の組織とすることとし、次年度の準備委員会の結成まで、切れ目なく協議ができるようにするため、「原水爆禁止連絡会」を構成することにしたのである。
 宮顕は、金子満広一人に“詰め腹を切らせ”統一戦線部長を解任した。平和問題担当後任は1980年以降、上田耕一郎になった。彼は、反核平和運動の高揚を前にして、原水協、平和委員会側の提案を受け入れ、金子・宮本方針を事実上完全否定する「原水協と原水禁の限定的持続共闘論」を提起し第1回方針転換を強行した。これによって、“上耕人気”は、(1)先進国革命理論、(2)新しい党組織論以外に、(3)反核平和運動分野でも高まった。宮本権威は、大衆運動分野でも“上耕人気”に脅かされるようになった。それらが、1982年の上田耕一郎・不破哲三という№3・2ら2人への奇怪な査問原因の一つとなった。

 3.23日、スウェーデン、2010年までに原発廃棄を決定。


 3月、沖縄県知事、「核燃料工場建設に反対する」と議会で表明。


 4.15日、フランス、ラ・アーグ再処理工場で電源完全喪失事故。


 4.26日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。6.24、10.24日も。


 5月、中華人民共和国、ICBM東風5の発射試験を南太平洋へ向けて行う。


 7.16日、ミクロネシアのパラオで世界初の非核憲法が成立。


 国連のワルトハイム事務総長が、1980年9月に第35回国連総会に提出した「核兵器の包括的研究」と題する報告書には次のように書かれていた。「必要なことは、自国の安全保障のよりどころを核兵器体系からもう一つの普遍的に受け入れられる体系に移す政治的意志を、すべての国のあいだで、遅すぎないうちに生み出す強力な世論の創出である」。

 核軍縮を核兵器を持つ国の政府の間の交渉にまかせておくことでは、消し核兵器が無くなることはないだろう。せいぜい互いの核戦力をバランスさせるにはどうするかといった程度の合意がなされるだけのことである。核兵器を廃絶させるには、核兵器よりずっと大きな力、世論の力・運動の力が必要なのである。


 11.4日、オレゴン州、原発新設禁止法成立。


 11月、フランス、SLBM・MSBS M-4の発射実験を行う。


 12.17日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 この年、中華人民共和国、IRBM東風4の配備を開始。


【1981(昭和56)年】
(私論.私見) 
 この年、

 5.28日、バヌアツ共和国ポートビラで核のない太平洋をめざす第一回太平洋労働組合会議、総評が代表団。太平洋労働組合フォーラムとよばれる調整委員会が設立。


 4月、中華人民共和国、初の原子力潜水艦「夏型(406号)」を進水。  


 6.7日、イスラエルが、イラクのOsirak原子力研究施設を爆破。


 8.9日、レーガン米大統領が、中性子爆弾製造再開を決定。


  9.14日 米国、戦略防衛システム会議開催。


 10月の国連軍縮週間ころから、ヨーロッパの各地で反核の運動が急激に燃え広がった。レーガン米大統領が「ヨーロッパの前線で戦術核兵器を撃ち合うような核戦争がありうる」と述べたいわゆるヨーロッパ限定核戦争の発言は、燃え広がる反核の炎をさらに激しくした。


 10.10日、ドイツのボンで三〇万人の反原発集会。


 10.10日、日本、国産プルトニウムで発電に成功。


 11.12日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 この年、日本原子力発電敦賀1号機原子炉の一般排水路から放射能が漏れる。中華人民共和国、ICBM東風5の配備を開始。米ソが欧州中距離核(INF)制限交渉を開始。


【1982(昭和57)年】
(私論.私見) 
 この年、

 3.12日、 「平和のための広島行動」始まる。


 4.25日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 4.30日、中華人民共和国、SLBM巨浪1の水中発射装置からの発射実験を行う。


 5.23日、「平和のための東京行動」始まる。


 6.7日、第二回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)にNGOとして原水禁も参加。


 6.12日、ニューヨークで120万人の大規模反核集会。1982.6月の第2回国連軍縮特別総会にあわせてニューヨークでは100万人を超す反核集会(6.7日)が開かれた。残念ながら議場の中での具体的な成果は乏しかったものの、1980年代前半の反核運動を象徴する取り組みとなった。

 1982年の反核運動の盛り上がりは、以前とはひと味違った新しい流れを感じさせるものであった。従来からの運動体だけではなく、法律家、文学者、科学者、音楽家、写真家など多様な階層の人々が様々な声明・宣言を出し、反核の動きに合流してきた。地方自治体でも多くの決議が行なわれた。運動のスタイルも、例えば反核家族宣言を出して回りに広げていく、高校生が自発的に学習会を組織する、グループごとに手紙を出すなど、音楽や映像を活用した集会など、草の根からの若々しいエネルギーが、新しい参加者を運動に引き入れ反核の波をつくりだすことにつながったといえる。「SSD2に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」は3000万人署名運動に取り組んだ。

 82年1年間で、政府に送られた意見書は1400通にのぼる(34道府県、303市、1050町村/決議を含む)。約3300の自治体のうち約半数が反核の意思表示をしたことになる。これらの意見書は内容的にも形式の上でも、かならずしも満足できるものではなかったが、なおかつ「公」の機関が市民の前でこうした反核を約束した意味は小さくない。.


 6.29日、ジュネーブで、米ソ戦略兵器削減交渉(START・Strategic Arms Reduction Talks=戦略兵器削減交渉)はじまる。


 7.23日、レーガン米大統領、中性子爆弾の製造追加を決定。


 9.26日、ニューカレドニアのヌメアで第二回太平洋労働組合会議。


 10.24日、「反核・軍縮・平和のための大阪行動」始まる。


 10.12日、中華人民共和国、ゴルフⅡ級潜水艦200号からSLBM巨浪1の発射実験に成功。


 11.11日、平戸市長、再処理工場誘致反対を表明。  


【1983(昭和58)年】
(私論.私見) 
 この年、

 3.23日、レーガン米大統領、SDI構想(通称StarWars 大気圏外で飛来するミサイルを迎撃する)を発表。


 4.22日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 7.11日、20年ぶりに統一して行う平和大行進の広島―長崎コースが広島を出発。


 1983年になると、事態が少し変わってきた。「統一行動」として原水禁世界大会もすでに7回の実績を積み重ねてきており、日常的な情勢に応じた、共通課題で諸行動をタイミングよく実行すべきだという気運も高まってきた。

 このようななかで9月、「’83原水禁世界大会準備委員会」を解散するにあたって、日常的な統一行動を行なえる組織をつくることが話題となった。1963年以来の貴重な経験を生かし、智恵を出し合うことが「作業グループ会議」に求められ、さまざまな案が検討された。結局、継続的行動ができるような組織として「原水禁運動連絡委員会」をつくることを全員一致で決めた。

 ところが、この確認を行なってから間もなく、原水協と平和委員会が、突然、「原水禁運動連絡委員会は困る」と申し入れてきた。いったんは合意した「連絡委員会」に突如として反対しはじめたのである。この背後には、共産党の介入が歴然とあった。

 日本共産党は、この「連絡委員会」ができると、名実ともに原水禁国民会議との統一行動を認めることになると判断し、「この方式は分裂の固定化になる」と主張しはじめたのである。かねてからの持論である「解散統一論」をまたもや持ちだしてきたのである。


 10.22日、西欧一〇ヵ国で反核街頭行動に二〇〇万人が参加。


 12月、米国、バーンウェル再処理工場の建設を中止。


 この年、米がパーシングⅡを西独へ配備。


【1984(昭和59)年】
(私論.私見) 
 この年、

【原水協が単独闘争化する】
 1984年になって日本共産党は、再び原水禁運動に露骨な介入をはじめることになった。2月、原水協、平和委員会、反安保・諸要求貫徹実行委員会の共産党系3団体が「トマホークくるな!国民運動連絡センター」をスタートさせた。トマホーク反対という国民的課題に対して、広範な国民の統一行動をめざすのではなく、共産党だけの団体を集めてセクト的な運動をしようとした。さすがに科学者会議はこれには参加しなかった。巡航核ミサイル・トマホーク搭載艦の日本寄港は、非核三原則への真っ向からの挑戦であり、これを許すか否かは、わが国の反核運動の最大の課題となりつつある。この重要な時期に、共産党は最もセクト的路線を全面に押しだしはじめた。

 3.30日、「’84原水禁世界大会準備委員会」が発足した。その直後から、赤旗(4月3日、4日)が、原水禁、総評を「分裂主義者」と非難し、一方的なキャンペーンを開始した。そこで主張されている基本的な組織論は、またしても「解散統一論」だった。大衆行動への政党による公然たる介入をも示すものであった。だが、このような暴論は一般社会で通用するはずもない。これでは、せっかく積み重ねられてきたこれまでの運動の統一や統一行動に水をかけるにすぎない。地婦連、日青協、生協連、婦人有権者同盟なども、共産党のこの独善的主張に反発しはじめた。世界大会準備委員会のまとめ役である地婦連の田中里子事務局長は、赤旗のこのキャンペーンに見かね共産党本部に「この大事な時期に、なぜ、運動の統一を妨げるような論文を出すのか」と申し入れをした。

 赤旗キャンペーンが強まれば強まるほど、原水協内部での対立と動揺も深まらざるをえない。原水協内でも、「現実派(共闘路線派)」は、余りにも露骨な共産党のセクト路線についていけず、反核の統一行動に期待をかけている。他方、共産党の指令のみに忠実な「セクト派(独自路線派)」は、党本部の「虎の威」をかりて、他団体の中傷とヒボウに明け暮れている。こうして、原水協内の「現実派」と「タカ派」との対立と葛藤が激しさをましていった。「解散統一論」は破綻しようとしている。  

 原水協では、草野理事長と吉田副理事長を一方的に解任、日本平和委員会でも森事務局長を更送するという事態が発生した。が、これは、幅広い原水禁運動を考える人たちへのパージであった。84年の年の夏に開催された世界大会は、大会に参加しようとする草野、吉田両氏を阻止しようとする原水協系の人たちによって大きく混乱した。

【日共党内で、宮顕・金子コンビが反核平和運動共同戦線派を粛清】
 1984年2月、市民団体が、反核平和運動の恒常的組織づくりを提案した。その運動のすべての団体が、それに賛成したが、金子・宮顕が反対した。上田耕一郎の賛成主張、説得工作により、党中央も賛成になった。これは、第2回方針転換であり、反核統一行動の展望を大きく開いたと、歓迎 された。ところが、宮顕は、そこで方針をまた逆転換させた。上田耕一郎を解任し、再度金子満広を統一戦線部長に据えた。そして、原水禁批判、総評“右転落”批判の赤旗論文を矢つぎばやに掲載した。そして、上田耕一郎や平和委員会・原水協内党員が推し進めた限定的持続共闘論を否定した。現実的可能性の低い組織統一優先の路線に戻った。金子・宮顕による、上記2回の転換を全面否定する第3回目の逆転換である。2回目の上田“方針転換”を支持し、反核平和運動の現場から盛り上がってきた統一意志と限定的持続共闘拡大にあくまで固執して、金子・宮顕“逆転換方針”に抵抗する党員は、ことごとく排除・粛清された。その粛清経過は以下の通りである。
6.1日  森賢一平和委員会事務局長に対し、「党中央決定である。平和委員会など大衆団体を一切辞めろ。自ら辞任した形にせよ」として、事務局長の辞任決意を迫った。それは、6月2日からの平和委員会全国大会の前日だった。小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長らは、彼から聞いて、彼への辞任強要は誤りとした。6.2日、大会で、森事務局長の辞任表明とともに、小笠原、長谷川2人も抗議の辞任表明をした。大会は、そんな“逆転換方針”の方こそ誤りとして、3人の辞任を承認しなかった。
6.9日 金子・宮本顕治らは、各都道府県レベルで、平和委員会内共産党グループを緊急招集し、“逆転換方針”支持派に大会代表を差し替えさせた。そして、“新代表”で固められた人事問題だけの二度目の大会を強行開催して3人とも辞任させた。県レベルで、辞任強要に反対する最初の大会代表数十人を、大会代表からも党からも排除した。

 森賢一を、平和委員会事務局長から辞任させた後で、彼は規律違反を犯していたとして権利停止処分にした。彼が、その「森一人だけに通告した党中央秘密指令」を、長谷川正安や吉田嘉清らに漏らしたのは、「党内問題を党外にもちだした」規律違反である、とした。森は、平和委員会内党グループ所属党員である。長谷川正安は、名古屋大学教職員・法学部支部所属党員であり、吉田嘉清は、原水協内党グループ所属党員である。森にとって、民主主義的中央集権制の「横断的交流禁止」組織原則に照らせば、他の2人は「党内」でなく、「党外」なのである。2人に党中央秘密決定を漏らした森の行為は、規約第2条8項違反の重大な規律違反として、彼を査問し、権利停止処分にした。そして、平和運動からの“永久追放処分”にもした。

 森賢一は、辞任したので権利停止処分だけで除名にはされなかった。しかし、平和運動一切からの事実上の“永久追放処分”にされた。彼は、出身地名古屋に帰って、めいきん生協アジア連帯室長などを経て、現在はアジア・ボランティア・ネットワーク東海事務局長をしている。そして、名古屋市と友好提携を結ぶ南京市と、市民レベルの交流を進めている。交流団を派遣し、南京大虐殺記念館近くに、中国語で「二度と過ちを犯さない」と書いた石碑を建てた。また、近い将来、「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」を南京市内で開くよう、南京市・総工会との約束を取り付ける等々の活動をしている。

6.21日

 吉田嘉清原水協代表理事に、「党中央決定である。代表理事と原水爆禁止世界大会準備委員を辞任せよ」と強要した。しかし、彼は、そのいずれの辞任も拒否した。原水協全国理事会は「原水協規約」で9人の代表委員が招集することになっていた。金子・宮本顕治は、赤松事務局長に指示して、「吉田解任目的」だけの全国理事会を招集せよ、と指示した。しかし、代表委員たちは、5月に全国理事会を開いたばかりなので、その必要はないと決定した。ところが、金子・宮本顕治の指令を受けて、赤松事務局長は、「代表委員名」を“騙(かた)って”全国理事会を招集した。その上、平和委員会での森辞任強要時と同じく、共産党ルートで全国党組織に緊急指令をし、金子・宮本逆転換路線支持=「吉田解任」賛成派に各都道府県理事を差し替えた。“その規約違反”の全国理事会は、吉田嘉清を解任した。

 その“からくり”に反対した代表委員草野信男、江口朴郎、小笠原英三郎、櫛田ふきら9人を、規約の「代表委員制度」廃止という第2の“からくり”を強行して、放逐した。

7.10日  原水爆禁止世界大会準備委員会運営委員会で、“規約違反”全国理事会で選出された運営委員・赤松原水協事務局長が大声で、運営委員を解任した吉田嘉清がこの場に出席しているのは認めないとして、吉田退場を大声で主張した。古在由重は「吉田君が退場になると、私も吉田君と同じ意見だから退場になる」と発言した。
8.9日

 日中出版社が『原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る』を緊急出版した。金子・宮本顕治らは、その出版を阻止しようと、様々な出版妨害活動を展開した。創価学会の言論・出版妨害事件とまったく同じ性質の出版妨害を、日本共産党が行なった。しかしその大がかりな工作は、妨害事実を日中出版社柳瀬宣久社長が、マスコミに公表したことにより、失敗した。彼らは、その出版は反党行為であると断定し、1985年、柳瀬社長と社員3人を査問し、全員を除名した。

9.26日  吉田嘉清が反党行為をしたとして、査問し、除名した。

 吉田嘉清らは、その後、「平和事務所」を設立し、「ぴーす・ぴあ」誌を発行し、国内での平和運動を続けている。それとともに、チェルノブイリ被爆者の救援と、現地で被爆治療に携わる医師たちへの支援運動をねばりづよく行なっている。2人や多くの活動家たちは、“金子・宮本式平和運動”から、強制排除されたが、“自立した、自主的反核平和運動”を展開している。

原水協事務局山下史は、自分の意志で辞任し、理事会もそれを承認した。金子・宮本指令により、代表委員放逐後の理事会は、その承認を取り消し、彼を懲戒免職とする決定をし、退職金支払いを拒否した。山下は、裁判に訴えた。東京地裁は、1985年1月、「懲戒免職の事由は認められない。申請人(山下)は退職金170万円の支払いを受ける権利がある。原水協はさしあたり120万円を支払え」とする仮処分の裁定を出した。しかし、党中央は、「その裁定を無視せよ」と指示した。原水協は“共産党直営大衆団体”として、いまなお支払っていない。

10 10月  金子・宮顕らは、古在由重が、提出した「離党届」の受け取りを拒否した。その上で、彼が「厳密にいえば分派活動」の規律違反を犯したとして、査問し、除籍した。

 この間、各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任をし、党から除籍をした。これらの反核平和運動内党員活動家にたいする金子・宮本式大粛清に怒って、草野信男代表委員をはじめ、多くの平和運動活動家が離党した。

 党中央は、「平和事務所」を分裂組織であるとして、その策動を絶対許さないとする方針を固めた。平和事務所が「暴力分子と密着した関係にある」とし、「原水爆禁止運動にたいする妨害・破壊・かく乱分子の根城である」と、くりかえし「赤旗」で批判キャンペーンをおこなった。「暴力分子と密着した関係」「妨害・破壊・かく乱分子」問題では、第一、吉田嘉清個人が東大駒場祭、早稲田大学祭に、講師で呼ばれた集会が「革マル」系だった。党中央は、“吉田は「平和事務所」を代表して彼らを激励した。よって「平和事務所」は、暴力分子と密着した関係にある”証拠とした。

 第二、平和事務所が企画して、一回だけ丸木美術館に、電車と路線バスで見学に行った。党中央は、“丸木夫妻は、滝田某をかくまった容疑で家宅捜査をうけ、また中核派を礼賛している札つきの人物である。さらに、くりかえし丸木美術館にバスツアーを行なった。よって「平和事務所」は、暴力分子と密着した関係にある”証拠とした。

 第三、草野信男が、1985年、市民団体の平和行進に参加した。市民団体は、彼の参加を禁止するはずもなかった。党中央は、赤旗大見出しで“平和行進にもぐりこむかく乱者草野信男。市民団体は認知せず”と載せた。これらは、金子・宮本顕治が「平和事務所の行動を尾行、張り込みせよ。批判キャンペーンの証拠を集めよ。それらを歪曲、ねつ造して赤旗記事にせよ」という指示にもとづく、でっち上げだった。金子・宮本顕治および党中央には、吉田・草野らがすることなすことすべて、さらにすすんで、彼らの存在自体を認めないとする考えがあった。

 (宮地・注)、「平和事務所」行動への党中央、「赤旗」記者による、執拗な尾行、張り込みの事実については、吉田嘉清が、共産党による私(宮地)への『尾行・張込み』HPへの返事で、証言している。宮地幸子『日本共産党が行う尾行・張り込み』

 金子・宮本顕治は、これら大粛清シリーズによって、「原水爆禁止運動の本流としての原水協」の独自性と権威を、立派に守り抜いた“反核平和運動の英雄的指導者”と自画自賛している。


 5.1日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 7月、フランス、移動型戦術核ミサイルHadesの開発を開始。


 11.22日、ドイツ、カルカー高速増殖原型炉SNR-300で、ナトリウム火災。


 12.9日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 12.26日、中華人民共和国宇宙工業省、ミサイル開発基本方針転換を決定。液体燃料から固体燃料へ転換。


この年、米が核つき巡航ミサイル「トマホーク」の太平洋艦隊配備を声明。


【1985(昭和60)年】
(私論.私見) 
 この年、

【原水協が「排除の論理」満展開運動】
 1985年、被爆40周年の原水禁世界大会を開催するにあたって、日本原水協と日本共産党は、草野、吉田両氏をはじめ、両氏を支持する人々を大会から排除するためには、これまで原水禁運動に関わってきた個人すべてを排除しても構わないという方針を打ち出し、市民団体もまた世界大会の開催を最優先にする方針をとり、こうした両者の間に挟まれて、結果的に原水禁も、個人を排除する世界大会に手をかす誤りをおかす結果になった。

 このような大会が混乱したのは当然といえよう。しかしそれは同時にこれまでの原水禁運動が追求してきた理念を放棄した大会でもあった。原水禁は、昨年のような大会の開催は、原水禁運動の自殺行為であり、二度と過ちを繰り返さないとの総括を行なったのである。

 私たちは、一切の核の廃絶された非核社会の実現をめざしているのであるが、その比較社会とは、たんに核がないだけでなく、差別や、抑圧や、貧困からも解放された社会と考える。それは今日の核が、現代社会のまさに人間性を切り捨てるパワーの象徴とみるからである。そしてこのような非核社会をめざす以上、そのための一つの手段(重要ではあっても)としての原水禁運動で、差別や抑制をつくりだすことはできないと考えるからである。

 昨年、市民団体といわれる地婦連や、日青協、生協連、日本被団協等は、大会実行委員会を呼びかけるにあたって、幅広い団体・個人を結集して実行委員会を構成すると、繰り返し主張しながら、原水協の反対の前に、その立場をずるずると後退させ、個人を排除した大会となってしまった。それは市民団体が、どのような非核社会をめざすのか、そのためにどのような原水禁運動を進めるのかという理念もないままに、世界大会の開催だけを自己目的にしてきた結果といえよう。もし昨年、市民団体が原水協の排除の論理に、毅然として反対していたならば、大会実行委員会から個人が排除されることはなかったのである。  

 4月21日に「核兵器廃絶運動連帯」が発足した。これは「地域に根ざした草の根をはじめ、さまざまな個人、団体がこれまでそれぞれの立場で、それぞれの手法により、核兵器廃絶と被爆者救援法のために努力してきました。これらの努力が思想・信条・宗教の違いをこえてゆるやかでも大きく一つにまとまり」「核兵器廃絶の一点」で大きく手をつなごうというもので、これまでに呼びかけ人を含めて、個人44人、団体30、自治体95が参加しており、多くの個人や新しい団体が参加しているほか、非核平和都市宣言を行なった自治体が多数参加してきているのが特徴であった。

 そして「連帯」が提唱して、7月31日から8月1日にかけて、「国際平和年のつどい」と「国際フォーラム」が開催された。これは「連帯」を英語でネットワークと呼ぶことが示すように、「連帯」のなかのさまざまな異なった意見、立場の人々が、核兵器廃絶のための積極的なイニチアシブを発揮し、運動の前進をはかろうということで、「連帯」が主催するのではなく、「連帯」に参加している有志によって企画された国際会議である。
 「連帯」の呼びかけ人に、元自民党の大石武一氏や核禁会議の磯村英一氏などが名を連ねていることを理由に、原水禁運動の新たな変質・分裂をもらたすものだとの中傷が、原水協と共産党から行なわれたが、むしろ過去2年間、核兵器廃絶の国際協定を求める署名運動だけに埋没し、さまざまな具体的課題をなおざりにしてきた原水協こそ、批判されなければならない。

 2.16日、ドイツで、バッカースドルフ再処理工場建設反対のデモ。3万人参加。


 5.9日、2年続いた統一平和行進が分裂。


 5.20日、中華人民共和国、道路移動型IRBM東風21の発射実験に成功。東風21連隊が創設される。


 8.2日、原水禁世界大会が広島市内での国際会議で開幕。中国が二〇年ぶりに正式参加。統一開催だが原水禁国民会議、総評系代表は大半欠席。


 8月、ソ連の原潜K-314、ウラジオストク近郊の軍需工場で燃料入れ替え中に爆発。炉心が溶融。


 8月、ソ連が核実験を停止。  


 9.13日、北海道知事、幌延高レベル廃棄物施設計画に反対を表明。


 10.15日、ソ連共産党中央委員会総会でペレストロイカ方針決定。


 10.25日、日本、高速増殖原型炉もんじゅを着工。


 10月、ソ連の原子力潜水艦が炉心溶融事故を起こす。


 11月、日本被団協、原爆犠牲者調査を実施。


 11.19日、スイスのジュネーブで、6年半ぶりに米ソ首脳会談が始まる。米国のレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長の初の顔合わせ。2日間の会談を終えた2人は共同声明で、両国の対話継続、近い将来の相互訪問を打ち出す。


 11.21日レーガン大統領は議会に「攻撃核兵器の50%削減で認識が一致した」と報告する。


 12.5日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 12月、北朝鮮、NPTに加盟。


 この年、南太平洋諸国の多国間同意により、南太平洋非核地帯条約成立。 この年、日本原子力研究所核融合実験炉JT-60の実験を開始。米ソが戦略核削減のための再交渉(START2)開始。


【1986(昭和61)年】
(私論.私見)
 この年、

 4月、ソ連の大型MIRV搭載ICBM・SS-18 SatanMOD5の発射テストで爆発。 


 4.26日、ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ発電所4号原子炉が大爆発を起こす。 4.28日ソ連政府、チェルノブイリ発電所の事故を公表。  


 4.30日、フィリピン、バターン原子力発電所の操業前廃棄を決定。 


 6.4日、ニュージーランド議会が核艦船の寄港禁止を含む反核法案を可決。


【原水協と原水禁が共同闘争を再分裂させる】

 この年、政治運動の確執から、原水爆禁止国民会議、日本原水協、各市民組織が対立し、反核運動は再度全面分裂を起こす。 6月以降、市民10団体(地婦連、日青協、被団協、生協連、婦人有権者同盟、主婦連、日本山妙法寺、草の実、宗教NGO、WILPF)は、5月、「市民団体平和サミット」として集まり、独自の平和行進、世界大会問題について協議を開始しについて話しあい、5月31日、「平和行進」を出発させた。

 6.10日、多くの市民団体から、昨年のあり方が正常なものではなかったと指摘され、その反省のうえに市民団体として「主体性をもって世界大会を計画し、他団体に呼びかけること」、市民団体として結集し、接着材の役割は果たさないことが申し合わされ、「誰でもが参加しやすく、理解できる大会」「幅広い世論にこたえられる大会」で一致した。

 6.15日、同会議は、「原水禁、原水協を含めた広範な団体、個人が参加できる統一された世界大会」を呼びかけると確認したが、昨年の大会についての市民団体の責任や、原水禁運動の今日のあり方など、基本的議論はおきざりのまま、世界大会の統一的開催の条件を、どう整えるかといった議論に集中することになった。

 市民団体は、主体性をもってのぞむとしながら禁・協を含む大会の統一的開催”を大前提にすることによって、自ら、禁、協の間にたって、接着材的役割を買ってでる結果をつくりだしたといえよう。日本原水協は、市民団体のこの動きに早くも16日、支持表明を行なった。

 市民団体は、6.21日、85年一番問題になった大会実行委員会の構成について、とにかく「77年の統一大会開催以来のすべての団体・個人に呼びかけ、実行委員会を構成する」ことで、一応の合意をえた。昨年の大会についての自己批判がないとはいえ、さまざまな団体の寄り集まりとしては、精一杯の方針であり、もしこの方針を市民10団体が貫くとしたら、それは昨年よりも大きく前進したのかもしれない。

 だがこうした市民団体の方針を伝え聞いた日本原水協は、「これまでは大会実行委員会のなかで、翌年の大会について議論してきた。市民団体が一方的に団体・個人に実行委員会の呼びかけを行なうのはルール違反である」と一転して市民団体の動きを抑える申し入れを行なった。日本原水協は77年以来……では具合が悪いのである。昨年の個人を排除した実行委員会を開催するなかで、今年の大会をどうするかを議論し、結論がでないままに、昨年と同様、時間切れをねらい、今年も個人を排除して、世界大会を開催しようと考えたのである。

 ここで市民団体にとって、問われたのは、市民団体としての自主性であり、原水禁運動の原則的な態度の確立であった。しかしこの申し入れをうけたとたん、日本被団協の代表や生協連の代表は、これまでの確認を反古にして、まず85年世界大会実行委員会を開催しそれをベースにして86年世界大会を構成しようと主張しはじめて、今度は市民10団体の間で対立をつくりだした。

 市民10団体は、これまで原水禁世界大会に関わってきた関係上、結束して行動することを確認していたが、ここにきて、はっきりと原水協の立場にたった団体と、あくまで市民団体の自主性を保とうという団体の違いが生じ、対立を生みだしたのである。その結果、確認事項は昨年と同じように、加速度的に後退をしはじめた。当初、「77年以来の、……に呼びかける」と確認したことが、「……に呼びかけること原則とする」に変化し、最後は「……をベースにする」と、あいまいな表現になったのである。原水協は、その中で、「85世界大会実行委員会」ベースとすることを主張しつづけ、そして日本被団協や生協連は、あくまで統一世界大会の開催をと主張しつつ、実際は原水協の立場を支持する姿勢をとり続けたのであった。

 しかし市民団体という以上、少なくとも多くの個人の連合、もしくは結集体と考えてよいだろう。その市民を名乗る団体が、不本意であろうとも、個人を排除した大会を開催したことに、なにひとつ自己批判もせずに、しかも原水協からの申し入れをうけたとたんに、またゆれ動くという状態では、もはや中立的と評される市民団体を名乗る資格はないといえよう。

 もちろんこれは、市民10団体全部にいってるのではない。昨年の事態を反省している団体もあり、だからこそ「77年以来、世界大会に関わってきた、すべての団体・個人による実行委員会」の結成という方針がでてきたといえる。原水禁国民会議はこの事態を予見して、7月10日に『86世界大会」問題に関する基本見解』を発表し、市民団体が、昨年の実行委員会の延長上に「86世界大会」を構想する以上、いかなる弁明や、条件が示されていようとも、その呼びかけに応えることはできないことを、明らかにした。

 原水禁としては、市民団体が市民団体として、今後とも原水禁運動の一翼を担うことを期待するのが故の批判である。市民団体は、7月11日、原水禁の「見解」をうけ、世界大会を断念し、独自の集会を考えようとの動きが強まった。しかし、なお努力すべきだとの主張の前に「85世界大会実行委」の開催の可能性が模索されはじめた。

 7.15日、16日と2日間にわたる市民団体会議は、別記の確認事項とともに、「85世界大会実行委」の事務局長、佐々木計3氏に対し、「85世界大会実行委員会問題について」ということで、開催の打診を依頼した。

 同日、総評定期大会が開催されており、総評議長のあいさつをうけて、統一労組懇系単産から、世界大会の開催に関しての「修正案」が提出された。

 7.17日、「85世界大会実行委員会」の開催は、全団体がそろわないとして、申し合わせ通り、開催しないということになり、市民団体は21日の会合で、独自集会を行なう議論へ移行することとなった。

 この結論を待っていたかのように、原水協は17日、午後3時から学士会館で、「86世界大会準備連絡会議」を開催するむねを一方的に市民団体および原水禁、総評などに電話連絡し、「86世界大会」と詐称した大会の準備に入った。このような一方的な動きに、総評は事務局長答弁で、「再び一緒にやることがあるかもしれないが、今年は統一した大会はできない」と答弁し、統一懇系労組から提出されていた修正案は否決された。

 市民団体もまた、8月5日に広島で独自大会を開催することに決めた。ここに集めった人々が自分たちの非核社会をどのようなものとして考えているのか、昨年来の私たちの問いかけに答えることを期待したい。運動の基本理念を否定してまで世界大会を開催したところで、運動の前進にはならないのである。

 1986.8.4日、日本被団協、日本生協連など10市民団体の「国際平和年'86市民平和大行進集結大会」、日本原水協の「原水爆禁止1986年世界大会」、原水禁国民会議の「被爆41周年原水禁大会」が広島市でそれぞれ始まる。9年ぶりに又も分裂大会となった。原水禁、原水協間に運動をめぐりきしみが出て、現在に至っている。

 1977年以来、原水禁、原水協、市民団体を中心に開催された世界大会は、1986年、被爆41周年目の記念日を前にして、決裂が決定的となった。残念ではあるが、運動の発展のためにはやむをえない。 原水協は、原水禁や総評に世界大会を開催する気がないといって、自分たちだけで世界大会を詐称して開催する方針を出した。しかし原水禁としては85年のような個人を排除するような大会だけは、絶対に開催するわけにはいかなかった。そのような大会を開いたところで、運動の前進には何の益するところもないと考えたからである。日本の原水禁運動は、その出発当初から、運動を支配しようとする政党との関係において、絶えず混乱を繰り返してきた。

 8.7日、長崎で一八ヵ国・地域から海外代表四四名が参加する「核被害者フォーラム」を開催。

 6.25日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 9月、ソ連の大型MIRV搭載ICBM・SS-18 SatanMOD5の飛行テスト中に爆発。


 9.26日、ニューヨークで第一回核被害者世界大会。


 10.3日、ソ連の原潜K-219がバミューダ沖でミサイルが爆発し火災、沈没。後、核兵器が行方不明に。


 10.11日、アイスランドのレイキャビクで米ソ首脳会談。


 10.25日、米国、原子力空母セオドア・ルーズベルト(CVN-71)就役。


 10月、米国エネルギー・商務委員会、放射線の人体実験を報告し、問題に。


 11.8日、中華人民共和国、輸出用に開発した道路移動型IRBM・M-9を空軍に採用し、東風15と命名。


 11.28日、米国、SALTⅡ条約の制限を越える131番目のALCM搭載B-52戦略爆撃機を配備。


 12.8日、米ソがINF(中距離核戦力)全廃条約に調印。


 12.16日、罪に問われていたアンドレイ・サハロフ、ソビエト科学アカデミーに復帰。


【1987(昭和62)年】
(私論.私見)
 この年、

 1.15日、米国、SLBMトライデントⅡの発射実験を行う。


 2.27日、英国、高速増殖原型炉PFRで蒸気発生器40本が破断。


 3.5日、フランス、高速増殖実証炉スーパーフェニックスで、20tのナトリウムが漏れる。


 4月、西側諸国で、核拡散防止のためのミサイル関連技術輸出規制(MTCR)が制定される。


 7.16日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。


 9.13日、ブラジルのゴイアニア市で、放射線被曝事故。


 11.30日、ベルギー、モルの再処理工場計画を断念する。


 12.8日、レーガンとゴルバチョフ会談により米ソがINF(中距離射程ミサイル核戦力)全廃条約に調印(1988.6.1発効)。


 この年、イラクがアル・フセイン弾道ミサイルを保有していることが判明。この年、中華人民共和国、遅れていた原子力潜水艦夏型の実戦配備を開始。 


【1988(昭和63)年】
(私論.私見) 
 この年、

 1.21日、ソビエト、クラスノダール原子力発電所の建設を中止。


 4.14日、アフガン和平協定締結。


 4月、イラク、アル・アッバス弾道ミサイルの発射実験を行う。


 4.23日、東京で「原発とめよう2万人行動」。


 5.12日、ソビエトの鉄道移動型大陸間弾道ミサイルSS-24 ScalpelのPavlogradエンジン工場で爆発事故。


 5.30日、ニューヨークで第三回国連軍縮特別総会。NGOとして原水禁も参加。


 6.25日、四国の伊方原子力発電所近くに米軍のヘリコプターが墜落。


 6月、中華人民共和国、道路移動型IRBM・M-9の発射実験を行う。


 9月、中華人民共和国、夏型原潜からSLBM巨浪1の発射実験を行う。


 12.9日、ベルギー、新規原発建設を放棄。


 この年、米国とイスラエル、対戦域ミサイルミサイルARROWの開発で合意。中華人民共和国、IRBM東風3の通常弾頭版をサウジアラビアに輸出。


【1989(昭和64)年】
(私論.私見)
 この年、

 1.6日、福島第二原発3号炉で再循環ポンプが破損。


 1月、レーガン米大統領、老朽化したハンフォード、フェルナード、マウンド、ロッキーフラッツの核兵器工場閉鎖を決定。


 3.21日、米国、SLBMトライデントⅡの発射実験に失敗する。


 4.7日、ソビエトの原潜K-278コムソモーレツが、ノルウェー沖で火災爆発を起こし沈没。42人が死亡。


 4.9日、六ヶ所村の反核燃行動に全国から一万一〇〇〇人が結集。


 5.22日、インド、アグニミサイルの実験に成功。


 5.31日、ドイツ、バッカースドルフ再処理工場を停止。


 6.6日、米国、ランチョセコの原子力発電所を閉鎖。


 10.31日、米国、原子力空母エイブラハム・リンカーン(CVN-72)就役。  


 10月、米国、INF条約により、西ドイツ配備をのぞく短距離道路移動型弾道ミサイルMGM-31A パーシングⅠを全てを破壊。  


 11.9日、ベルリンの壁崩壊。


 12.3日、イタリアのマルタで米ソ首脳会談。ブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領が東西冷戦の終結を宣言。東ヨーロッパの民主化の流れの中でソ連邦も崩壊していくことになる。


 12.18日、英国、米国のネヴァダで地下核実験 AQUEDUCT BARNWELL 実施。20~150kt。 この年、ソビエトの戦略ミサイル原潜タイフーン級6番艦が完成。同級潜水艦の建造は終了。 南アフリカ、核兵器開発を終了。リビア政府、中華人民共和国からM-9道路移動型IRBM140基を購入。


 これより後は、「原水禁運動の歩み(6)、1990年代」に記す。





(私論.私見)