原水禁運動の歩み(3)、1960年代

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).8.16日

 これより前は「原水禁運動の歩み(2)、1950年代
」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは「原水禁運動の歩み(3)、1960年代」を検証する。

 2012.08.17日再編集  れんだいこ拝


【1960(昭和35)年】
(私論.私見) 
 この年、フランスが核実験に成功し、米ソ英仏が核保有国となった。宮顕系日共による「原水禁運動への政治の持込み」が強まり、対立が激化した。

 1.16日、第六回原水爆禁止世界大会広島開催について原水禁広島協議会、広島市などが検討にはいる。政府、自民党の原水協批判、地域団体の消極化などから慎重論が台頭。


 1.19日、日米新安全保障条約調印。


【フランスも核実験に入る】
 2.13日、フランスが最初の原爆実験をアルジェリアのサハラ砂漠で実施。

 2月、アイゼンハワー米大統領、部分的核実験禁止条約を提案。


 5.5日、米国の偵察機U2、ソビエト上空で撃墜される。


 8.1日、民社党の原水爆禁止運動全国代表者会議で「第二原水協」の組織化を決める。


【原水禁運動内が非和解的になる】

 8・8日、東京で第6回原水爆禁止世界大会。この時、60年安保で穏健日和見主義戦術を取り批判を浴びた共産党が突如左翼性を気取り始め、宮顕綱領の「二つの敵論」、「反米・反帝論」をあらゆる分科会、分散会で全面展開し、「平和の敵を明らかにするよう」迫った。「このため原水爆問題や被爆者問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈した」とある。原水禁運動の組織的危機は深まってゆくばかりとなった。

 原水禁運動の発祥といえる署名運動は「特定の党派ではなく、あらゆる立場の人々を結ぶ全国民の運動」(杉並アピール)だったが、60年初頭のこの頃より次第に政党の主導権争いなどが表面化してくる。

【1961(昭和36)年】
(私論.私見) 
 この年、米ソの核開発と実験が進んだ。ソ連の核実験への抗議を廻って、日共が「アメリカは悪核、ソ連は善核」論を打ち出したため社共の対立が非和解的に進行し始め、第7回原水爆禁止世界大会が混乱した。

 1.3日、米国とキューバ国交断絶。


 2.1日、米国、ICBMミニットマンⅠミサイル実験。


 2.24日、米国、ICBMアトラスEの発射に成功。


 4.12日、ソビエト、ヴォストークロケットで有人宇宙飛行(ガガーリン少佐)に成功。


 4月、ソ連がICBM・R-9(SS-8 Sasin)の飛行試験を行う。


 5.5日、米国、弾道ロケットレッドストーンで、有人宇宙船「フリーダム」を打ち上げ(アラン・シェパード飛行士)。いわゆる「マーキュリー計画」。


【ソ連の核実験に対する社共の対立発生】
 6月、日本共産党は、アカハタでソ連の「ベルリン危機」を理由にするソ連の核実験に対しこれを擁護し、「綺麗な核実験だ」と主張し始めた。これに対し、社会党を始めとする諸団体は「核実験は国によって汚い、綺麗はない」と反発し、内部論争が深化し、この対立が1965(昭和40)年の原水協、原水禁、その他分裂に向かうことになる。これが日本の原水爆禁止運動混乱の発端となった。

 6.10日、日本原水協の有力メンバー全国地域婦人連絡協議会(700万人)と日本青年団協議会(430万人)が「原水協は独善的な方をとっている」と声明。


【日本共産党のソ連における原子力の平和利用支持の「原子力問題にかんする決議」】

 7月、日本共産党の「原子力問題にかんする決議」は次の通り。

 「原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利に結びついている。原子力のもつ人類のあらゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらには社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している」。

 8.13日、ベルリンの壁建設開始。


【第7回原水爆禁止世界大会が大混乱】
 8.14日、第7回原水爆禁止世界大会が開かれた。この時共産党系諸団体が、綱領に基く「二つの敵論」の見地から「1・平和の敵・アメ帝打倒、2・中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、3・軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ」と主張した。

 これに対し、社会党やその他の団体は、「1・原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。2・党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。3・一致できない活動は、各団体の独自行動で補強せよ」という意見を述べ、共産党方針と真っ向から対立した。

 日共系は、あらゆる分科会、分散会で「平和の敵を明らかにする」ことを迫った。このため原水爆問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈した。党派に属しない人びとのひんしゅくをかった。結局、共産党系の多数決によって、「核戦争政策を進める勢力と決然と対立するべきときがきた」との宣言を採択、「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」と決議した。

 第7回原水爆禁止世界大会は波乱のうちに閉幕した。社会党、総評、日本青年団協議会、地婦連の4団体が執行部に対し不信任を声明した。こうした混乱は、当時の中央・地方を問わず原水禁運動内に広がった。戦後はまだ10年余しかたっていない時期で早くも、原水禁運動内が分裂し始めた。運動の民主的運営についての経験不足が原因であったにしても、左派運動の能力の露呈であったであろう。

【民社党系が核兵器廃絶・平和建設国民会議を結成】
 8.15日、民社党・同盟系労組などが脱退して「核兵器禁止平和建設国民大会」を東京で開催、核兵器禁止平和建設国民会議(現・核兵器廃絶・平和建設国民会議)を結成した。

 1961年以後、アメリカの戦略思想はマクナマラ、テイラーの柔軟反応戦略に転換する。ドミニカ民主主義革命の弾圧、ベトナム民族解放闘争の弾圧戦争はこのあらわれであるが、それは、ゲリラの強化には報復のレベルアップをもって対処するという危険なエスカレーションの論理を内包するものであり、事実ベトナム侵略戦争も小型熱核兵器使用の一歩手前までエスカレートしている。


 8.30日、ソ連が「ベルリン危機」を理由にした一連の大型水爆実験を開始し(セミパラチンスクとノバヤゼムリヤ上空で核実験を再開)、これが原水爆禁止運動混乱の発端となった。


【ソ連の核実験に対する日共の態度】
 日本共産党はこの核実験を支持し大々的なキャンペーンを繰り広げた。アカハタは連日、ソ連の核実験の正しさの論証にこれ努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。9.9日付けアカハタ号外は、次のように述べている。
 概要「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないように打電し、原水協でさえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」。

 同日の野坂議長談は次のように述べている。

 「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という手段に訴えるのはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かすというのはこのことです』」。

 9.16日付けアカハタは次のように述べている。

 「この措置(ソ連の実験)を断固支持する立場に立っている。われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」。

 9.15日、米国がネバダで核実験を再開。9.16、10.1、10.10、10.29、12.3、12.10、12.13、12.17、12.22日も。


 10月、ソ連が50メガトン水爆実験を強行した。9.1、9.4、9.5、9.6、9.9、9.10、9.11、9.12、9.13、9.14、9.16、9.17、9.18、9.20、9.21、9.22、9.26、10.1、10.2、10.4、10.6、10.8、10.11、10.12、10.17、10.19、10.20、10.23、10.25、10.27、10.30、10..31、11.1、11.2、11.3、11.4日も。


 8月30日、ソ連が核実験再開を発表、10月には50メガトン水爆実験を強行した。ソ連の核実験に対する対応をめぐって原水協はソビエト政府に抗議せよとする社会党、総評系と、抗議に反対する共産党とが対立した。


 米国原子力委員会が、ケネディ大統領に核兵器と核実験について報告。  


 11.15日、「核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議、松下正寿議長)」が発足することになる。歴史的意味は、「原水禁運動の左傾化を嫌う趣旨の反核運動の登場」ということになる。


 11.24日、国連総会、核兵器使用禁止決議。


 11.25日、米国、攻撃型原子力空母エンタープライズ就役。


【1962(昭和37)年】
(私論.私見) 
 この年、米ソの核実験が続いた。この間、社共の代理抗争が露骨に持ち込まれ、日本原水協が分裂した。キューバ危機が発生し、米ソ戦争勃発の瀬戸際に立った。米国のケネディー大統領は「対キューバ海上封鎖」に踏み切り、ソ連のフルシチョフ首相が「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ことを条件にしてキューバのミサイルを撤去することで封鎖が解かれ危機が回避された。

 米国の動き。1.9日、ネヴァダ地下で核実験実施。1.18、1.30、2.8、2.9、2.15、2.19、2.23、2.24、 3.1、3.5、3.6、3.8、3.15、3.28、3.31、4.5、4.6、4.12、4.14、4.21、4.27、5.7、5.10、 5.12、5.19、5.25、5.31、6.1、6.6、6.9、6.13、6.21、6.27、6.28、6.30、7.6、7.7、 7.11、7.13、7.14、7.17、7.27、8.24も。4.25日、クリスマス諸島でB-52から投下する核実験実施。4.27、5.2、5.8、5.9、5.11、5.12、5.14、5.19、 5.25、5.27、6.8、6.9、6.10、6.12、6.15、6.17、6.19、6.22、6.27、6.30、7.10、7.11日も。


 ソ連の動き。2.2日、セミパラチンスクの地下トンネルで、核実験を実施。8.1日、セミパラチンスク、ノバヤゼムリヤ上空で、核実験を実施。8.3、8.4、8.5、8.7、8.10.8.18、8.20、 8.21、8.22、8.23、8.25、8.27、8.31も。


【社共の代理抗争が露骨に持ち込まれる】
 こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の四団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。この改革案について中央、地方で6ケ月にわたる討議がかさねられて行った。

 3月、全国理事会で、120対20という圧倒的多数で、次のような「原水禁運動」の基本原則を決定した。 「原水爆禁止運動は、原水爆の製造・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この立場にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。

 しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を「原水禁運動をしばりつけ、しめつけるもの」として否定し、無効を主張しつづけた。そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台にはならなくなってしまった。

 こうした情勢のなかで原水禁第8回世界大会を迎えることになる。社会党系は、「1・いかなる国の核実験にも反対する。2・真実を究明し、核戦争の根源をとりのぞく」ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。

 ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し、「1・平和の敵・アメ帝の打倒、2・社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、3・軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争」を原水協の中心課題とせよ」と主張しはじめた。

 社会党は「いかなる国の核兵器にも反対」と主張し、日本共産党はいわゆる社会主義国の原爆は「破邪の剣」であり、「米帝国主義こそ核戦争の根源であり、日本やアジアから追い出せ」だと主張した。いわゆる「いかなる問題」で、主導権争いが激化していった。かくて原水爆禁止日本協議会、ソビエトの核実験に肯定的な共産党系と、全面反対の社会党系が対立が決定的となった。
 日本共産党の上田耕一郎(後の副委員長)が「極度に侵略的な戦略を完成しようとする米国の核実験に対して、ソ連が防衛のための核実験を行うことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない」と核抑止論を展開した。

【原水禁運動が原水協と原水禁に分裂】 
 8.4日、第8回原水爆禁止世界大会本会議が東京で開幕。海外11ヵ国86人を含め約1万人が参加。

 大会の最中の二日目8.5日朝、ソビエトはノバゼムリヤで40メガトン級の核実験を再開し又も核実験を行なう。原水禁世界大会に日を合わせて水爆実験をやるという無神経ぶりだった。「1962年には、技術的な見地からは無用な核爆発の実験がなされることになったので、サハロフはこの計画の犯罪的な性質を悟って、阻止のために数週間にわたり必死の努力をした。実験の前日にはフルシチョフに電話をかけて実験とり止めを要請したがすでに爆弾搭載機は実験予定地に出発した後だった」(『みすず』)とある。だがこの間にもパグウオッシュ会議に結集した科学者たちは、“地上のいかなる地点で行なう核実験も技術的に探知できるから、速やかに核実験停止条約を締結せよ”と結論を下し、各国政府に働きかけを行なっていた。

 これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥った。社会党系代表と共産党系代表が再び昨年と同じ衝突を起したが、多数によって「抗議しない」ことになった。社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、一切決議しないまま流会することとなった。結局大会は混乱のままに終った。日本原水協の機能は完全にマヒするにいたった。

 8・6日午前、第8回原水禁世界大会は、この日が最終日だった。ソ連への抗議声明を握りつぶされた事に怒った社会党が全役員の大会引き上げを示唆した。日本共産党、ソ連や中共からの外国代表団が、ソ連核実験抗議声明について反対したためだった。当時、原水協は共産党系と社会党系で役員の勢力争いをしていた。朝日新聞にすら「運営は秘密主義」「まるで組合大会」と揶揄されるほど、原水禁運動は政治の狭い枠の醜い争いの場と化していた。

 午後3時30分、台東体育館での原水禁大会で、社会党、総評がソ連への抗議の緊急動議を提出した。午後9時5分、安井郁議長が全会一致できない動議は採択できないとして、社会党、総評は大会を退場、午後10時に閉会した。「実験反対」とアメリカだけでなくソ連へも抗議すべきだとする社会党の声に、ソ連の核実験には目をつぶるべきだとする日本共産党は「席に戻れ」と罵声を浴びせ、会場の1万人の一部は乱闘になった。社会党、総評など11団体が次のように声明した。
「今度の大会はソ連の核実験に何の意思表示もできない状態で終わった。大会の基調報告は『いかなる国のいかなる理由を問わず核実験に反対である』ことを述べている。大会の実態を極めて遺憾だと考える。原水爆禁止の幅広い国民運動を再建するために新たな決意をもって対処する」。

 原水協の広島大会は2300人が参加した。ソ連への抗議声明をめぐって、ソ連・中国・北朝鮮の代表らがソ連への抗議はまかりならんと退場する一幕もあり、午後5時30分に終了している。この社共の原水禁運動をめぐる政治的な主導権争いは、「ソ連の核は防衛的な核」という言葉に代表されるように、日本の平和運動が政治に従属したものであるのをまざまざと見せつけた。アメリカの核実験には猛抗議をしても、ソ連のそれには目をつぶる日本共産党の欺瞞が浮き彫りになった。


 9.2日、ソ連がノバヤゼムリヤで核実験を実施。9.8、9.15、9.16、9.18、9.19、9.21、9.22、9.24、9.25、9.27、9.28、10.7、10.9、10.10、10.13、10.14、10.20、10.22、10.27、10.28、10.29、10.30、10.31、11.3、11.4、11.5、11.11、11.13、11.14、11.17、11.24、11.26、12.1、12.18、12.20、12.22、12.23、12.24、12.25日も。


 9.6日、米国がネヴァダの地下で核実験実施。9.14、9.20、9.29、10.5、10.12、10.18、10.19、10.27、11.9、11.15、11.27、12.4、12.7、12.12、12.14日も。10.18日ジョンストン島でB-52から投下する核実験実施。10.20、10.26、10.27、10.30、11.1、11.3、11.4日も。


 9月、国産1号炉JRR-3臨界。


 10.16日、キューバがミサイル基地を建設していることが発覚し、キューバ危機が発生した。キューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前のところまでいった。1959年にカストロによる革命が成功して以来、キューバは反米・社会主義政策を採り、ソ連・中国に接近していた。


 10.17日、英国、ドーンレイ高速増殖原型炉発電開始。


【キューバ危機発生】
 アメリカとキューバの国交は断絶していたが、10.22日、ソ連がミサイル基地を建設しており、ソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見したアメリカはこれを阻止するために、ケネディー大統領は「対キューバ海上封鎖」を宣言し、10.24日、米国はキューバの海上封鎖に踏み切った。こうしてキューバ危機が発生した。

 ソ連はこれに抗議したが、ケネディ大統領はミサイル基地撤去を頑として主張し、それなしには核戦争も辞せずという、いわば「最後通牒」を発したのだった。キューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前となった。世界各地ではこの行為に激しい抗議の声がまき起こった。バートランド・ラッセルはケネディ、フルチショフ、ウ・タント国連事務総長に電報をうち続け、核戦争勃発の危機性を訴えた。

 米大統領ケネディーとソ連首相フルシチョフの数度に亘る協議の結果、10.28日、フルシチョフが「アメリカのキューバ不可侵を信頼して、攻撃用兵器を撤収する」と言明、「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ということを条件にしてキューバのミサイルを撤去することになった。これにより封鎖が解かれ危機が回避されることになった。この時もしもフルチショフが強気にでれば直ちに核戦争になったであろう。

 後日、ジョン・サマビルはこう書いている。
「ケネディ大統領の国家安全保障会議執行委員会(EXCOMM)は、『もしソ連がキューバのミサイル基地を撤去するか、破壊してしまうかするのでなければ、直ちにソ連に対して開戦する』ことを決めたのだった。……その決定を行なった人たちは、この最後通牒にソ連が同意するなどとは毛頭期待せず、また、戦争がもたらす結果についても、はっきりと知っていたにもかかわらず、なおそれをやったということである。言葉を変えていえば、決定を行なった人々の明らかに予見していたことは、恐らくソ連は抗戦するであろうし、またその戦争が、必ずや世界規模での核戦争となり、人類は事実上抹殺し去られるだろうとの見通しであった」と。(ジョン・サマビル『人類危機の13日間』岩波新書)。

 結局、フルチショフの妥協によって危機はからくも回避された。人類は死の淵に落ちることを逃れた。

 12.3日、社会党・総評など10団体が中心の「原水爆禁止と平和のための国民大会」が広島市で開幕。基調報告で共産党の原水禁運動を非難し、社会党の積極中立論を強調。


 この年、水上経済同友会代表幹事「発電コストを下げるためにプルトニウムの軍事利用も辞せず」と発言。米国、原子力貨客船サバンナ号を就航。この年、核実験禁止を訴えたライナス・ポーリング、ノーベル平和賞受賞。


 湯川秀樹らの主催で、第1回科学者京都会議が開催される。


【1963(昭和38)年】
(私論.私見) 
 この年、日本原水協の分裂事態を収拾する為、「2.21声明」が出された。ところが、日共党中央はこれを拒否し、再び分裂事態に陥った。「すべての国の核実験に反対」を廻って、推進する社会党と反対する共産党の対立が増幅し、原水爆禁止世界大会開催が社会党ー総評系を排除したまま開催された。米英ソ連3ケ国が部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印した。これを廻って、日本原水禁運動は又も対立した。

【「2.21声明」】
 2.21日、日本原水協が常任委員会を開き、社会党系と共産党系の間で運動統一へ向け妥協が成立。この担当常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、1・いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる。2・社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ。3・多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる。ことを骨子とした「2.21声明」を決定、安井理事長が声明した。これと同時に実務的「協定事項」を確認した。 

 2.8日、米国のネヴァダエリアの地下で核実験実施。2.15、2.213.1、3.15、3.29、4.5、4.10、4.11、4.2 4、5.9、5.17、5.22、5.29、6.5、6.14、6.25日も続行。


【「すべての国の核実験に反対」を廻って社共の対立が続く】
 2.28日、3.1ビキニ集会に先だって日本原水協が静岡市で全国常任理事会を開き、「すべての国の核実験に反対」を3.1日のビキニ・デー宣言に入れるかどうか討議したが、社会党と共産党が再び対立。共産党系団体出身の常任理事が「2.21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。

 この背景には次のような事情があった。日本原水協の担当常任理事には当然日共党員も入っており、最初はこの「2.21声明」に賛成していたが、この決定を日共本部に報告するや、党中央はこれを拒否した。この日共本部の決定により、大衆団体内部で決められたことがいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理は常に日共の党派の論理に従属しなくてはならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをもたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるをえない。

 3.1日、安井郁理事長が担当常任理事総辞職を宣言。


 3.1日、ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれた。


【「3者申合せ」】

 原水禁運動の分裂は必至とみられたが、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。社、共、総評の「3者会談」が数回にわたって行われ、その結果、「2.21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「3者申合せ」を確認した。


 4.26日、日本学術会議、原子力潜水艦寄港反対を声明。


 6.20日、米国とソビエト、ホットライン設置で同意し調印。キューバ危機は、核保有国の権力者に危機意識を植えつけずにはおかなかった。米ソ両首脳は「核戦争を絶対に起こしてはならない、そのためには米ソが協調しなければならない」ことを認識し、米ソが偶発戦争防止をも保証する直通通信(ホットライン)協定(ホワイトハウスとクレムリンをホットラインで結び、米ソ両首脳が突発的な緊急事態が発生したときには、直ちに協議が行えるようにした)を締結することになり、やがて部分的核実験停止条約の締結を決意するにいたる(1963.8月調印)。以後、「K・K時代」(KennedyとKhrushchovの頭文字)と呼ばれる米ソ間の協調が進み、平和共存路線が定着した。


【原水爆禁止世界大会開催を廻る動き】
 6.21日、前日の「担当常任理事会」」を経て「第60回常任理事会」が開かれ、「3者申合せ」を骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。

 ところが日本共産党は、6.21日のアカハタで「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない」(内野統一戦線部長談)を発表、さらに7.5日のアカハタには、「3者申合せ」を真っ向から否定する論文を掲載した。

 こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる・・・」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれたが、日共はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会を開くことは困難になってきた。

 安井理事長の「1・いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。2・各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。3・各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める」といういわゆる「安井提案」が出されたが、「いかなる……」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。

 会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと代表動員をかけ、大会場で多数の力で「いかなる・・・」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むべくもなかった。

 原水禁運動の分裂は決定的となる。すなわち、「いかなる・・・」問題、部分核停条約の評価、大会の規模などをめぐる、社共の対立点の話し合いがつかぬまま、大会の準備、執行は広島原水協に白紙委任されたが、総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、社会党、総評は突如不参加を通告、別個に「原水禁運動を守る大会」を開くことになった。このため広島原水協も大会運営を日本原水協に返上、9回大会はふたたび日本原水協の手でひらかれることになった。

【米国、英国、ソビエトの3ヶ国、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印】
 7.15日、米国、英国、ソ連の3ヶ国、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印(同年10.10日、発効)。この条約は正式には「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」(Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere,in outer Space and under Water)、略称「部分的核実験停止条約」(Partial Test Ban Treaty)と云う。

 この条約の意義は、それまでの大気圏での核実験が「人類に悪影響をおよぼす」ことに留意して今後大気圏での実験を禁止するというところにあった。米英ソ3国がこれを結んだが、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発していくことになる。

 ソ連のこの条約締結の評価を廻ってソ連共産党と日本共産党が対立していくことになる。ソ連共産党が条約賛成を各国共産党に要求して回り、党中央はこれに同意しない動きを見せた。このことから双方の激しい非難の応酬が展開されていくことになった。原水爆禁止運動もこれで紛糾していくことになる。

 7.29日、アカハタ主張、「部分的核兵器実験停止条約について」を発表。


【第9回原水爆禁止世界大会が社共対立の煽りを受け分裂】
 8.2-7日、広島市で第9回原水爆禁止世界大会が開かれたが、大会は「いかなる国の核実験にも反対」かどうかをめぐって紛糾した。党中央は、幹部会員松島治重を現地広島に送り込んで、中国支持の立場から指導を開始した。共産党が「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核はその防衛の武器だ」との観点から「いかなる国の核実験にも反対に反対」している。

 8.3日、日共が幹部会声明で、部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。党として初めて中ソ論争に対する「中国寄り」の見解を表明した。「部分的核停条約の成立を平和への前進とみなす意見は、世界と日本の人民の認識を大きく誤らせるもの」、「我が国においては、『いかなる国の核実験にも反対する』という立場と、部分的核停条約を支持するという立場とは、同じ思想と同じ政治的立場に根ざしている。我々はこのような見解に断固反対する」と宣言していた。

 国際会議で部核をめぐり中ソ激論となった。党中央が中共代表団を支持し、社会党.総評系はこれを認めず、途中で退場し脱退となった。かくて原水禁運動は分裂することになった。この分裂の責任を廻って、宮顕-不破系は今日なお詭弁を弄して居直り続けている。日本最大の平和運動を分裂に追いこんだのは明らかに日共の政治主義的な立ち回りであった。その結果、この原水禁運動の分裂は、党中央のその後の中国路線の強化と合わせて、日本母親大会や安保共闘会議にも重大な影響を与えていくことになった。

 総評、社会党と立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、総評、社会党系代議員の欠席(当初からか途中からか不明)のまま、事実上、「共産党系」を中心とした集会となった。「原水禁運動の基本原則」、「2.21声明」を内容とした「森滝議長報告」は無視され、この運動の歴史的成果として生まれた「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。全学連学生が慰霊碑前を占拠。こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第9回世界大会の分裂により、まったくその統一機能を失うにいたった。
(私論.私見) 原水禁運動を分裂原因考
 一大国民運動に発展した原水禁運動を分裂させた原因は、共産党と社会党の運動引き回し、その主導権をめぐる不当介入にあった。これを詳細に見れば、分裂の主要原因は、「ソ連核実験は死の灰もほとんど出さない防衛的な核実験」だとするソ中両党代表団の主張に隷従し、そのままを押し付けようとした日本共産党側にあったことは明白であろう。

【部分核停条約を、ソ連・アメリカ・イギリスが調印】
 1963年8月5日、部分核停条約を、ソ連・アメリカ・イギリスが調印した。

 日本共産党は、地下核実験を除外した部分核停条約を全面否定し、なんの評価もしなかった。地下核実験以外を停止させる部分的前進を一定の歴史的成果と見ないで、部分核停条約→地下核実験をも含む全面核停条約でなければ反対すると大キャンペーンを展開した。

【社会党・総評系が広島市内で独自集会】
 8・6日、社会党・総評系が広島市内で独自集会。7000人参加。この大会終了後、この大会に参加した団体、個人によって大会決議執行のための「大会実行委員会」がつくられ、これが発展して「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成されていくことになる。

 日本原水協内の社会党系と共産党系勢力は、ソ連の核実験をめぐり「いかなる国の核実験にも反対」とする社会党と「防衛的立場の社会主義国の核実験を帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」とする共産党のあおりを受けて対立。以降、社会党系は独自集会を開くことになり、1965年には社会党・総評系が「原水爆禁止日本国民会議(原水禁)」を結成することになる。

【「部分的核実験停止条約」を廻る対立発生】
 部分的核実験禁止条約(PTBT)調印前後、米ソ英の三国は核実験を停止していた。1958年にまずソ連が核実験の一方的停止を発表し、次いでアメリカ・イギリスがソ連に追随したことによる。な核実験の停止に至るまでには、アメリカのノーベル物理学賞受賞者のライナス・ポーリング博士を中心とするアメリカ、ヨーロッパの科学者と、米国務省との間の約2年間にわたる激しい論争があった。

 ポーリング博士らは、これまでの大気圏核実験によって、多くの人たちがガンや白血病に患る恐れがあり、すぐにも核実験を停止すべきだと訴えていた。この論争は、ヨーロッパの科学者をまきこんで、米国務省との間に大きな論争となり、結局、米国務省は論争に完敗した。核実験による影響が無視できないという、国際的な世論を背景に1958年から停止されていた核実験を、1961.8月、ソ連が突如として再開すると発表した。

 ソ連の核実験再開声明は、核実験全面禁止から、核兵器廃絶を実現しようと考えていた世界の人々の希望を打ち砕くものであり、また核実験による白血病などの危険を考えるならば、絶対に認められないことであった。しかもこの年の原水禁世界大会では「最初に核実験を開催する国は、人類の敵として糾弾されるであろう」というアピールが採択されていた。

 この時、日本共産党の政治的セクト主義が、最も露骨に運動に持ち込まれた。日共は、ソ連の核実験を支持せよ方針を打ち出した。核実験に反対する運動から出発した「日本原水協」は、ソ連の核実験に反対の態度をとることができないという、まことに奇妙な、しかし深刻な混乱に陥った。日本共産党はアカハタの号外で、「例え死の灰の問題があろうとも、大の虫を生かすために、共産党員はソ連の核実験を支持するように」と主張した。

 このような核実験による死の灰を無視する立場は、そもそも日本の原水禁運動とは、およそ無縁の運動なのである。(そしてこの大気中に拡散する、微量の死の灰の影響を無視してきた結果、日本原水協はその後、原発から漏れる放射能物質について語ることができず、反原発運動にも取り組めないことになる)

 日共は、ソ連の核実験を支持し大々的なキャンペーンを展開した。アカハタは連日、ソ連の核実験の正しさの論証に努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。1961.9.9日アカハタ号外は次のように記している。
 概要「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないよう打電し、原水協さえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」。

 9.9日付けアカハタは、次のような野坂議長談を発表している。
 「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という非常手段に訴えることはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かす』というのはこのことです」。

 「死の灰の危険を小の虫、ソ連の核実験を大の虫」とする」野坂談話は党内で大宣伝された。当時の愛知県名古屋中北地区常任委員・宮地健一氏が次のように証言している。

 「当時、その一つが、ソ連核実験と「死の灰」有無問題だった。中北地区委員長・准中央委員は、野坂議長談を誇張・歪曲し、宮本顕治・上田耕一郎による「死の灰がほとんど出ない、きれいな核実験」との歪曲した秘密口コミ報告を披露した。また、「上田同志は、アメリカの死の灰はどす黒く汚れているが、ソ連のそれは白く美しい。社会主義国の核爆弾は防衛目的で安全」と発言したとも披露した。愛知県の共産党員は、野坂・上田らが断言するからには、社会主義ソ連の科学技術は「死の灰」をほとんど出さないという高度な科学技術レベルになったのかと信じた。なぜ、そんなデマ理論を信じたのか。一つは、社会主義ソ連の科学技術にたいする信仰である。レーニンが創設したソ連は理想国家だった。もう一つは、上耕の理論レベルへの人気があった。不破哲が言ったとしても、信用されなかったであろう。さらには、野坂参三が、1945年以来のソ連NKVDスパイだったとは誰も知らなかった。レーニン信仰者の私も、野坂・上田ねつ造デマを愚かにも、かつ、罪深くにも信じ切った。そして、それを党内外に大宣伝し、「いかなる国の核実験反対」国民や代表団に敵対した。私は、ブロック活動者会議やあらゆる細胞会議で、この口頭秘密報告を宣伝し、広めた。その点で、私も原水禁運動・原水協を分裂させた愛知県の犯罪専従の一人になった。その野坂・上田ねつ造「きれいな核実験」デマは、愛知県・名古屋市の共産党組織だけでなく、全党的に宣伝されたと考える。上田耕一郎発言は、さまざまなブログ・掲示板に載っている。それは、この発言が全国的規模で党内外に宣伝された証拠にもなっている。ただし、文書による証拠はない」。

 9.1日、全国から10万の参加者を集めて横須賀・佐世保で第12次全国統一運動が挙行された。但し、これが事実上最後の社共共闘となり、破産した。


【日本共産党がソ連の核実験再開支持声明】
 9.16日付けアカハタは、「われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」と力説していた。ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の核実験)を断固支持する立場にたっていた。日本原水協の会議は連日のようにソ連核実験をめぐる議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒした。

 共産党は、「いかなる国の核実験にも反対」という国民的な要求を軽視し、「2つの敵論」を教条的に押しつけることで、日本最大の平和運動を分裂に追いこんだ。その結果もたらされた大混乱のなかで、地婦連、日青協などが原水禁運動から離れ、また私たちも原水禁運動の再生をめざして、「いかなる国の原水爆にも反対する」立場にたった運動組織、原水禁国民会議を結成したのである。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが「人類の敵」としての糾弾はしなかった。この対立が「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって表面化していった。これに対して、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発した。

  9.30日、大阪で「日本の非核武装と完全軍縮のための関西平和集会」(扇町プール)が開催され、三万人が集まる。第9回原水禁世界大会の分裂によって、原水禁運動の相入れない路線は明確となったが、このような状況のなかで原水禁運動を再建しようとする動きはまず関西からはじまった。大阪軍縮協をはじめとする関西各県の原水禁の共催で漕ぎ着けたものであった。この集会は国際的な支持もあり、バートランド・ラッセル、バナールなどからもメッセージがよせられた。広島県原水協からも代表が参加し、約3万名を結集する大衆集会となった。


 10.15日、日本共産党7中総は「部分核停条約を支持しない」と多数決で決定した。反対は神山・中野で、保留が志賀・鈴木だった。(『七十年・年表』177頁)。


 10.26日、日本原子力研究所の動力試験炉JPDR発発電(原子力の日)。


 11月、米国国家安全保障会議、「ソ連との戦争における管理と終結」を作成。


 11月、ケネディが暗殺された。


 この年、東海村の日本原子力研究所に最初の発電実験原子炉JPDRが完成。


【1964(昭和39)年】
(私論.私見) 
 この年、日本原水禁運動の分裂が続き、衆議院本会議での「部分核停条約」採決で、社会党賛成、日共反対、志賀派が造反した。中国が核実験に成功し、米ソ英仏に続いて核保有国となった。

【総評、社会党系が独自集会】
 第9回大会に参加しなかった総評・社会党など13団体は、「原水禁運動を守る連絡会議(原水連)」をつくって独自の活動を計画、日本原水協は残存した担当理事だけで運営をはかる結果となり、この年の「3.1ビキニ集会」で分裂を決定的なものとした。

 1964年の3.1ビキニ集会は、日本宗平協、日本平和委員会、日本原水協の3者によって当初から一方的に計画された結果、総評、社会党系も独自集会を開くこととなり、しかもそれは全国規模的における代表の争奪戦が展開するなかで行なわれた。共産党系機関誌『アカハタ』の連日にわたる総評・社会党・静岡県評に対する中傷、誹謗は、目をおおうものがあり、3.2日開かれた「総評・社会党全国合同代表者会議」は、「原水禁運動を正常化するため、独自の組織で活動を展開する」ことを確認しあった。


【原水爆被災三県連絡会議発足】
 3.27日、「原水爆被災三県連絡会議」が発足。広島、長崎、静岡の三県の原水協事務局長会議で決まる。「いかなる国のどんな核実験にも反対する」が基調。これが母体となって1965.2.1日、原水爆禁止日本国民会議が誕生していくことになる。  

 すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器を含む軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第3に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようなキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題であることを明らかにしつつ行動に取り組む、 というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴をえた。

【「原水禁運動の正常化のための被爆地からの呼びかけ」】
 4.7日、このような状況を憂えた広島、長崎、静岡の3被爆地原水協から「原水禁運動の正常化のための被爆地からの呼びかけ」が発表された。これは「最近3ケ年ほど運動の混迷と停滞、さらに昨年の第9回大会を契機とする運動の亀裂は、被爆地としてたえがたいものである」という立場から出された切実なものであった。

 またこの呼びかけは「ここ2、3年来の原水禁運動が、日本共産党の支配介入によって混乱と対立状態におかれ、当然なすべき日常活動も行なえず、春になれば3.1、夏になれば8.6と、たんに人集めの行事をどう行なうかだけに関心がもたれ、それすらも満足に行なえない状態」に対する基本的な「運動の転換」を提起したものであった。

 すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器を含む軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第3に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようなキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題であることを明らかにしつつ行動に取り組む、 というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴をえた。

 4.9日、全国地域婦人団体連絡協議会、日本青年団協議会が日本原水協に脱退届。


 5.13日、日共は、「部分核停条約」に反対を公表した。


【衆議院本会議で「部分核停条約」採決で、社会党賛成、日共反対、日共の志賀派が造反】
 5.15日、衆議院本会議に「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、共産党は反対の立場に立った。党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。この時ソ連のミコヤン第一副首相が傍聴していた。

 本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。部分核停条約に対する態度は、「地下核実験を除外しているなどの点でまだ不十分なものだが、大気圏内外と水中の核実験を禁止しており、従って少なくとも核実験による放射能汚染によるこれ以上の被害をくいとめ、また際限のない核兵器開発競争を抑制する点で日本と世界の全ての人民の利害にかなっている」としていた。

 5.15日夜、党本部に中委幹部会員.中央書記局員.中央統制監査委員.国会議員団を含む緊急幹部会が開かれた。志賀の出席を求めて、査問が始まった。袴田がいきりたった。16日再度の緊急幹部会が開かれ、志賀の欠席のまま、党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定し、17日あかはた紙面に発表した。

 ソ連モスクワ放送.プラウダは志賀を支持。中共 北京放送は反志賀を声明した。中国で療養中の宮顕は、志賀問題の知らせを聞くや、予定 を切り上げ早早に帰国の途についた。この間参議院議員鈴木市蔵も反党の動きを示した。志賀、鈴木市蔵(参議院議員)、中野重治(作家)、佐多稲子(作家)らは「日本のこえ」を結成した。志賀は部落解放運動とのつながりが強く、解放同盟の中からも志賀と行動を共にする人たちがいたことから、日共は攻撃の矛先を解放同盟にも向けるようになる。

【宮本顕治が中国から帰国、志賀・鈴木の除名を決定】
 5.18日、中国での3カ月間療養から急遽帰国した宮本顕治は、志賀・鈴木の除名を決定した。日本共産党は、従来、被爆国の政党として、当然ながら「いかなる国の核実験にも反対」との路線をとっていた。しかし、ソ連の核実験が起きるやいなや、反国民的隷従路線に大転換した。その理屈は、アメリカ帝国主義の核実験・核開発と社会主義国家の核実験を峻別し、アメリカの核開発は非難・糾弾するが、社会主義の核実験は防衛的で、防衛的な核実験だとする詭弁だった。そして、上田耕一郎は、その先頭に立って、大キャンペーンを展開し始めた。その反国民的隷従路線に大転換して以降、上田耕一郎は、(1)ソ連の核実験支持の言動、(2)部分核停条約反対の言動、(3)中国の核実験を支持した言動、(4)原水爆禁止世界大会において、「いかなる国の核実験にも反対」スローガンを否定し、「ソ連・中国の核実験は防衛的な実験だから支持せよ」と主張した。この時期、副委員長・常任幹部会員上田耕一郎とは、ウソ詭弁に満ちた分裂理論創作・宣伝をした最悪の党内外犯罪者だった。

【幹部会員鈴木市蔵の造反】
 5.20日、幹部会員鈴木市蔵は、この日の幹部会と翌日の5.21日の8中総において、「核停条約と4・17スト問題にたいする私の意見」を、7中総に続いて発言した。鈴木「意見書」全文は、『日本共産党史-私の証言』(日本出版センター、1970年、絶版)に載っている。部分核停条約に賛成する論旨は、上記の被爆国日本国民の立場・評価とほぼ同一だった。彼は、参議院で部分核停条約に賛成投票をした。

 6.20日、日本原水協が浜井広島市長、森滝市郎日本被団協理事長ら10人を除名。


 7.14日、共産党系の広島県被団協が大会。県被団協が分裂。


 7.17日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。9.25日も。


 8月、3県連の提唱によって開催された「原水爆禁止、被爆者救援、核武装阻止、軍備全廃を世界に訴える広島・長崎大会」が開かれ、原水禁運動の正常化を願う国内外の諸努力の支持のもと、広島に2万、長崎に1万2000の代表を結集して開かれた。そこには各地域、職場の代表、65ケ国、12国際団体の海外代表が参加して盛大に開催され、原水禁運動の正常な基盤をつくりあげることができた。


 8.4日、ジョンソン大統領、トンキン湾事件を口実に北ベトナムを報復爆撃(「ベトナム・トンキン湾事件」)。


 8.28日、日本、米原子力潜水艦の日本寄港を承認。


【中国が核実験行う】
 10.16日、中華人民共和国(中国)が核兵器生産に乗り出し、新疆ウイグル自治区のロプノール湖でIRBM東風2の発射実験を行う。これにより、米ソ英仏+中国が核保有国となった。フランス、インドがこれに続く。中華人民共和国声明は次の通り。

 一九六四年十月十六日十五時、中国は一個の原子爆弾を爆発させ、成功裏に第一回核実験をおこなった。これは、中国人民が、国防力を強化し、アメリカ帝国主義の核恐かつ、核威かく政策に反対する闘争のなかでかちとった大きな成果である。自国の防衛は、いかなる主権国家にとっても剥奪することのできない権利である。世界平和の擁護は、平和を愛するすべての国家の共同の責任である。日ましに増大するアメリカの核威かくに直面して、中国は、じっと手をこまねいていることはできない。中国が核実験を行い、核兵器を開発するのは、せまられて、よぎなくするものである。

 中国政府は一貫して核兵器の全面禁止、完全廃棄を主張してきた。もし、この主張が実現されていたなら、中国はもともと核兵器を開発する必要がない。しかし、われわれのこの主張は、アメリカ帝国主義のがん固な抵抗をうけた。中国政府は、早くから次のように指摘してきた。一九六三年七月、米、英、ソ三国がモスクワで調印した部分的核実験停止条約は、世界人民を愚ろうする大ペテンである。この条約は、三大核保有国の核独占の地位をかため、平和を愛するすべての国家の手足をしばろうとするものである。この条約は、中国人民、全世界人民に対するアメリカ帝国主義の核威かくを弱めないばかりか、返ってこれを強める、と。当時、アメリカ政府は、なんらかかくすことなく、この条約に調印することは、アメリカが地下核実験をせず、核兵器を使用、製造、貯蔵、輸出、拡散しないことを意味するものではけっしてないと声明した。ここ一年あまりの事実も、このことを十分に証明している。

 この一年あまり、アメリカはすでにおこなってきた核兵器の基礎のうえにたつ各種核兵器の製造を止めたことはなかった。アメリカはさらに完ぺきにしようとして、ここ一年あまりの間に何十回にもわたって地下核実験をおこない、その生産する核兵器をいっそう完全なものにしてきている。アメリカ原子力潜水艦の日本「寄航」は、日本人民、中国人民、アジア各国人民に直接の脅威をあたえている。アメリカはいわゆる多角核戦力を通じて、核兵器を西ドイツの報復主義者たちの手にまで、拡散し、ドイツ民主共和国と、東ヨーロッパの社会主義諸国の安全を脅かしている。アメリカの潜水艦は核弾頭をつけたポラリスミサイルをのせて、台湾海峡、バックボ湾、地中海、太平洋、インド洋、大西洋に出没し、いたるところで平和愛好国、すべての帝国主義、新旧植民地主義とたたかう国ぐにの人民の脅かしている。このような状況のもとで、アメリカが一時的に大気圏内核実験をおこなわないという見せかけの現象があるからといって、世界人民に対するアメリカの核恐かつと核威かくが、すでに存在しなくなったと考えることは、どうしてできるだろうか。

 周知の通り、毛沢東同志には、原子爆弾ははりこの虎である、という名言がある。これまでもわれわれはそう考えて来たし、今でもやはりわれわれはそう考えている。中国が核兵器を開発するのは、核兵器の万能を信じて、核兵器を使用しようとしているからではない。まったく、その反対に、中国が核兵器を開発しているのは、ほかでもなく、核大国の核独占を打ち破り、核兵器を消滅するためである。

 中国政府はマルクス・レーニン主義に忠実であり、プロレタリア国際主義に忠実である。われわれは人民を信じている。戦争の勝敗を決定するものは人間であって、いかなる兵器でもない。中国の運命は、中国人民によって決定され、世界の運命は、世界各国人民によって決定されるのであって、核兵器によって決定されるのではない。中国が核兵器を開発しているのは防御のためであり、アメリカのひきおこす核戦争の脅威から中国人民をまもるためである。中国政府はおごそかに宣言する。中国はいかなる時、いかなる状況のもとでも、決して最初に核兵器を使用することはないであろう、と。

 中国人民は全世界のすべての被抑圧民族、被抑圧人民の解放闘争を断固として支持する。各国人民は、自分の闘争にたより、相互に支援し合うことで、かならず勝利をかちとることができる、とわれわれは確信する。中国が核兵器をその手に握ったことは、現在闘争をおこなっている各国の革命的人民に対する大きな激励であり、世界平和を守る事業に対する巨大な貢献である。核兵器の問題について、中国は冒険主義のあやまりを犯すこともなければ、また降伏主義のあやまりを犯すこともないであろう。中国人民は信頼できる人民である。

 平和を愛好する国家と人民のすべての核兵器の停止を求める善意の願望を、中国政府はよく理解している。しかしますます多くの国々がアメリカ帝国主義とその一味の核兵器独占が強まれば強まるほど、核戦争の危険が増大することを理解してきている。彼らがもち、あなたが持っていなければ、かれらはますますいばりちらす。かれらに反対する人々も、またもつようになってしまえば、かれらはそんなにいばりちらすことはなくなり、格恐かつ、核威かくの政策もそれほどきき目がなくなり、核兵器の全面禁止、完全廃棄の可能性が増大するであろう。われわれは、核戦争は永久に発生することのないよう心から希望する。平和を愛好する全世界のすべての国家と人民が共に努力し、闘争を堅持しさえすれば、核戦争は防止することができる、とわれわれは確信する。

 中国政府は世界各国政府に対して丁重に次のように提案する。世界各国首脳会議を開いて、核兵器の全面禁止、完全廃棄の問題を討議する。各国首脳会議はその第一歩として、核兵器の保有国ときわめて近い将来核兵器を保有する可能性のある国家が、核兵器を使用しないこと、つまり、核兵器を持たない国に対して核兵器を使用しないこと、非核武装地帯に対して核兵器を使用しないこと、そして相互の間でも核兵器を使用しないことを保証する義務を負う、そのような調停に達するべきである。もしすでに大量の核兵器を保有している国家が核兵器を使用しないというこの点すら保証できないとしたら、核兵器をまだ保有していない国家にかれらの平和への誠意を信じて、可能なそして必要な防衛措置をとらないようどうして期待することができるだろうか。

 中国政府はこれまでと変わることなく、国際的な話し合いを通じて、核兵器を全面的に禁止し、完全に廃棄する崇高な目標の実現を促すためあらゆる努力をはらうものである。その日が来るまでは、中国政府と中国人民は国防を強化し、祖国を防衛し、世界平和を擁護するため確固として変わることなく自分の道をあゆむものである。われわれは確信する。核兵器が人間が作ったものであり、人間は、かならず核兵器を消滅することができる、と。


 10.26日、日本国産の動力試験炉が臨界に達する。


【日共の岩間参議院の参議院予算委員会での発言】
 10.30日、日共参議院議員・岩間正男が参議院予算委員会で次のような発言している。
 「このたびの核実験によって少なくとも次のような大きな変化が起こっております。これは私の一つの把握をもってしてもこれだけのことは言える。まず第一に、世界の核保有国が五カ国となった。ことに世界の四分の一の人口を持つ社会主義中国が核保有国になったことは、世界平和のために大きな力となっている。元来、社会主義国の核保有は帝国主義国のそれとは根本的にその性格を異にし、常に戦争に対する平和の力として大きく作用しているのであります。その結果、帝国主義者の核独占の野望は大きく打ち破られた。これが第一」([JCP-Watch!]掲示板2002.9.16日 火河渡氏の「原水禁運動に関する歴史の偽造 」

 11月、ソビエト、赤の広場の軍事パレードで、IRBM・SS-5 Skeanが公開される。


 12.18日、米国、ネヴァダの地下で核実験実施。


【1965(昭和40)年】
(私論.私見) 
 この年、米ソの核実験が続く中、社会党・総評系の「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成された。これにより、日本の原水禁運動は、原水協と原水禁の二本立てで推進されることになった。ベトナム戦争が始まった。

 1.15日、ソ連がセミパラチンスクBalapan実験場の地下で核実験実施。


 1月、井伏鱒二、「新潮」に「黒い雨」の連載を開始。翌年9月まで。


【原水爆禁止日本国民会議が結成される】
 2.1日、社会党・総評などが東京・電通会館で「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)の結成大会が開かれた。総評、中立労連、社青同、日本婦人会議など13団体と地方代表4000人が参加。代表委員には太田薫・総評議長、森滝市郎氏、浜井広島市長ら6氏。事務局長に伊藤満広島大教授が選出された。

 原水禁は、1965.2.1日の結成にあたり、過去の運動の苦しい経験にかんがみ、運動の正常化とゆるぎない基礎をつくるため、「原水禁運動の基本原則」を確立したのである。この基本原則は、1962.3月につくられた「基本原則」ならびに、1963.2月の「2.21声明」の精神を生かし、「広島・長崎大会」の基調をもとに、運動の諸教訓を生かしてつくられたものである。

 「原水爆禁止運動の基本原則(要旨)」は次の通りである。
 この運動は広島、長崎、ビキニの被爆原体験に基礎をおく。
 いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対する。
 この運動は平和憲法の理念を基礎とし、原水爆の禁止と完全軍縮が、社会体制の異なる国家間の平和共存のもとに達成できるという立場にたつ。
 この運動は思想、宗教、政党政派をこえ、あらゆる階層の団体や個人を結集する広範な国民運動であり、誰もが参加できる民主的運動であるから、社会体制の変革を目的とする運動とは性格を異にし、特定政党に従属するものではない。
 この運動は参加団体の性格を尊重し、各団体の合意によって統一行動を組み団結しこれを行うとともに、それぞれの団体の特徴を生かした独自行動を認めあう。そしてこの運動が関連する諸問題をとりあげ、取り組む場合は、すべての国の原水爆禁止、完全軍縮の立場にたち、参加団体の意見を尊重して行なう。

【ベトナム戦争で米軍機による北爆が開始】
 2・7日、 ベトナム戦争で米軍機によるべトナム北爆開始。アメリカのベトナム北爆が開始された1965年以降、世界の反戦平和運動の焦点はここに集中され、アメリカのベトナム侵略を阻止することが緊急な課題となった。しかしこの間も世界各国の核開発競争は継続しており、フランスも「独自の核抑止戦略」をつくるというドゴーリズムによって核ミサイルの開発を急いできた。核兵器とともに核エネルギーの「平和利用」が無視できない環境破壊の要素として登場してきた。「核の時代」はいよいよ人類全体を飲み尽くそうとしていたのであった。

 次のように記されている。
 「ベトナム戦争は、究極的には熱核戦争に至る可能性を含むものであるが、戦争の段階的拡大に馴化された大衆にとっては、熱核戦争ではなくドロ沼的局地戦争ととらえられるがゆえに、単に“原水禁”を空語するような運動は、もはや無意味なものとしてしかうつらないし、事実、原水禁の特殊性を強調するあまり“原水禁”に一義的に比重をおく思考は、核戦争にいたらないベトナム戦争なら認めてしまうことにもなりかねない。そうした傾向は運動を形骸化させるものであり、原水爆に反対するわれわれはなによりもまず、戦争そのものに反対するという基本的観点から運動を再生させていく必要がある」。

 2.14日、米国がネヴァダで核実験実施。


 9.10日、米英国がネヴァダで地下核実験実施。


 11月、ソ連が赤の広場の軍事パレードで、道路移動型ICBM・SS-X-15 Scroogeを披露する。ただし配備されず。


 12.5日、米海軍空母タイコンデロガのA-4E艦載機、水爆を搭載したまま沖永良部島近海で墜落。


 この年、米国、対弾道ミサイルミサイルXLIM-49Aナイキジュースの配備を開始。この年、マクナマラ米国防長官、確証破壊戦略を発表。


【1966(昭和41)年】
(私論.私見) 
 この年、第12回原水禁世界大会が東京で開催され、中ソ対立が持ち込まれた。

 1.17日、米軍の4発の水爆を搭載したB-52戦略爆撃機が、スペインのPalomares近郊で墜落。通常火薬に点火。


 4.25日、米国、ミニットマンⅡ中隊発足。1基1.2Mt。


 6.18日、国労原爆被爆者対策協議会が発足。


 7.2日、フランス、はじめてムルロア環礁で核実験を実施。


 7.11日、広島市議会が原爆ドームの保存を決議。工事費については、共産党・保守党の一部の反対で予算を否決。


【第12回原水禁世界大会】
 7月末、第12回原水禁世界大会が東京で開催された。この時、中国代表団が日本政府から入国を拒否され、周恩来首相のメッセージのみとなった。ところが大会途中でソ連代表が大会参加を申し込み、これを原水協が承認したことにより、中共の意向を汲んだ外国代表が激しく反発し、この参加問題で二日間激論が交わされ、マレーシア・オーストラリアなど15カ国代表が「分裂主義者の参加を認めない」として退場した。

 中国は、この退場グループを北京に召集する一方、日本原水協を「ソ連修正主義と結託し、誤まった路線を押し付けた」と強く非難した。当然のように、赤旗紙上で中国側非難が為された。大衆団体を舞台にした日中共産党間の代理戦争であり、やがて本格的な両党間の対立・抗争に発展していくことになった。

 7.25日、日本原子力発電東海発電所営業運転を開始。


 8.6日、米国、大型ジェット試作爆撃機XB-70バルキリーの2号機が宣伝撮影中に空中衝突で墜落。乗員1名死亡。


 10.5日、米国の高速増殖炉で燃料損傷事故。


 10月、フルシチョフが解任された。K・K時代は長くは続かなかった。


 10月、中華人民共和国、IRBM東風2に核弾頭を搭載し、ロプノール実験場に打ち込む核実験を実施。


 11.17日、米国、SLBMポラリスA-3改良型の試験を開始。


【1967(昭和42)年】
(私論.私見) 
 この年、中国の水爆実験が成功した。佐藤首相が、「核は保有しない、製造しない、持ち込まない」の「非核三原則政策」を表明した。

 1.27日、大気圏外核実験制限条約調印。


 3月、中華人民共和国、固体燃料ロケットの開発を開始。


【中国が初の水爆実験】

 6.17日、中国が初の水爆実験をする。「★阿修羅♪ > カルト12」のバビル3世氏の2013.10.25日付け投稿「中国が新疆ウイグル自治区で実施した核実験によって、ウイグル人を中心に19万人が急死した」は次のように記している。

 1960年代初頭に設立した第9学会(北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進められた。1964年10月16日に新疆ウイグル自治区のロプノール湖にて初の核実験が行われた。1967年6月17日には初の水爆実験が行われた。核実験によって、新疆ウイグル自治区のウイグル人を中心に19万人が急死した。急性放射線障害など健康被害者は129万人にのぼり、そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達する。また、被害はシルクロード周辺を訪れた日本人観光客27万人にも及んでいる恐れがある。

 楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では、高エネルギーの放射線を発する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相当する広範囲が汚染された。新疆ウイグル自治区での核実験では、広島原爆の4倍を超える被害者を出している。新疆ウイグル自治区で被爆したウイグル人はテュルク系民族である。ソビエト連邦の核実験場であったカザフスタン・セミパラチンスクで被爆したカザフ人もテュルク系民族である。


 11.7日、ソ連が赤の広場の軍事パレードでICBM・SS-9 Scarpが披露される。


 12月、佐藤栄作首相、衆議院予算委員会で非核三原則を初めて表明。「核は保有しない、核は製造しない、核は持ち込まない」の三原則。


 この年、原子燃料公社から動力炉・核燃料開発事業団が設立。


【1968(昭和43)年】
(私論.私見)
 この年、

 1.1日、米国がネヴァダの地下で、核実験実施。3.12日も。


 5.6日、米原子力潜水艦ソードフィッシュ、佐世保港で異常放射能事件発生。


 5.24日、ソ連の原子力潜水艦が炉心溶融事故を起こす。


 6.11日、宮本顕治共産党書記長が山本幸一社会党書記長に「原水爆禁止運動の統一問題で協議したい」と申し入れ。


 7.1日、核拡散防止条約(NPT)追加調印(1970.3.5日発効)。


 8.16日、米国、ICBMミニットマンⅢの発射実験に成功。8.16日、米国、SLBMポセイドンC-3の地上発射実験を行う。 12.8日、米国、ネヴァダの地下で、核実験 実施。


 この年、ソビエト、対弾頭ミサイルミサイル(ABM)モスクワ防衛網の運用を開始。ソ連が対潜水艦核魚雷搭載巡航ミサイルSS-N-14 Silexを艦艇に配備。敵潜上空で核魚雷を投下するミサイル。グリーンランドで米軍の水爆搭載機が墜落。水爆が破損。


【1969(昭和44)年】
(私論.私見)
 この年、

 4.11日、米国、ICBMミニットマンⅢのサイロ内発射試験に成功。


 6.12日、原子力船むつ進水。


 6.24日、フランス、サイロ発射型ミサイルSSBSのプロトタイプS-02の発射実験を大西洋に向けて実施。


 7.20日、米国のアポロ11号、月面に軟着陸。


 11月~12月にかけてヘルシンキでSALT予備会談が行われる。


 11月、佐藤栄作首相とニクソン大統領が、沖縄返還に関する核密約に極秘に合意。 


 この続きは、「原水禁運動の歩み(4)、1970年代」に記す。





(私論.私見)