原水禁運動の歩み(2)、1950年代

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).8.16日

 これより前は「原水禁運動の歩み(1)、1940年代」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは「原水禁運動の歩み(2)、1950年代」を検証する。

 2012.08.17日再編集  れんだいこ拝


【1950(昭和25)年】
(私論.私見) 
 この年、世界平和擁護者大会常任委員会が「ストックホルム・アピール」を発表し、非核兵器運動が大きく前進した。他方、朝鮮動乱が勃発し、世界はきな臭くなった。米国は、ネヴァダで地上核実験を開始した。

 1.15日、プロ野球・広島カーブが創設される。


【日本共産党第18回拡大中央委員会報告】

 1.18日、日本共産党第18回拡大中央委員会報告は次の通り。

 「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展をしめすとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺したこと。原子力を動力源として適用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはやおかすことのできない革命の要さいであり、物質的基礎となった」。

【「ストックホルム・アピール」発表される】
 3.19日、世界平和擁護大会開催。3.25日、世界平和擁護者大会常任委員会が「ストックホルム・アピール」を発表。「ストックホルム・アピール」は、「核兵器を最初に使用する政府は人類に対する犯罪者とみなす」と詠い、原子力兵器の製造ならびに使用の無条件禁止を宣言し、署名活動を呼びかけた。世界の5億人の署名を得た。

【日本で原水爆禁止の署名運動が始まる】
 5月、「ストックホルム・アピール」に呼応して日本で原水爆禁止の署名運動が始まった。これが国民的平和運動を作り出していく契機となった。原子力兵器は戦争の現代的象徴であり、その無条件禁止が平和運動の理念となり得ていた。当時まだ米国の占領、朝鮮戦争という状況のもとで645万もの署名が集められた。この運動は、「原水爆禁止署名運動全国協議会」の組織化に発展し、原水爆禁止世界大会の開催へとつながった。日本の反戦平和運動は、憲法擁護闘争、基地反対闘争、反核平和運動への取り組みで始また。

 6.6日、丸木位里、赤松俊子夫妻の画集「ピカドン」が出版されるも、間もなく発禁処分になる。


【朝鮮戦争勃発】
 6.25日、朝鮮戦争勃発。 9.15日、米軍主体の国連軍、仁川に上陸。10.25日、中華人民共和国、朝鮮戦争に参戦。鴨緑江を一斉渡河。

 11.30日、トルーマン米大統領、朝鮮に原爆投下も考慮中と声明。12.3日、韓国国防長官、国連に対し、原爆使用を要請。 12.4日、英国、朝鮮での原爆使用に反対。 

【米国がネヴァダで地上での核実験を開始】
 この年、米国がネヴァダで地上での核実験を開始した。

【1951(昭和26)年】
(私論.私見)
 この年、米国が、ネヴァダとエニウェトク環礁で核実験を実施した。日本はサンフランシスコ講和条約で独立を果たすと同時に、日米安保条約を締結し、米国陣営の仲間入りした。米ソの核実験競演が続いた。

 1.10日、原爆障害調査委員会(ABCC)広島研究所が比治山に完成する。


 1.27日より米国がネヴァダで核実験実施する。


 3.24日、マーシャル米国防長官が朝鮮へ核兵器を輸送すると言明。


 4.7日、米国が、エニウェトク環礁Runit島でも核実験の実施に入る。ネバダと並行して行われた。


 8.6日、峠三吉が「原爆詩集」を私家本発行する。


 8.27日、吉川清さんにが「原爆被害者更生会」を結成する。


【日本が国際的に独立し、日米軍事同盟下に入る】
 9.8日、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が結ばれた。これにより日本は国家主権として独立が認められ、同時に米ソ冷戦下において米国ブロック側の同盟下に入ることを内外に明らかにした。

 10.2日、少年少女の原爆体験手記「原爆の子」出版される。


【ソ連が核実験を開始し、米国も続行する】
 10.10日、米国、MSA(相互安全保障法)成立。10.18日、ソ連がセミパラチンスクの上空で核実験を実施。米国がネヴァダで10.22、10.28、10.30、11.1、11.5、11.19と核実験。12.29日、米国が、実験炉で、原子力発電に成功。

【1952(昭和27)年】
(私論.私見) 
 この年、米ソに続いて英国の核実験が開始され、米ソ英の三国が核保有国となった。米国は、水爆実験に成功し、核先進国を見せつけた。

 2.26日、NATOが軍欧州軍を創設。


 2月、オッペンハイマーら、原子力委員会に戦術核の改良、戦略空軍の否定を示したヴィスタ報告を提出。


 米国がネバダで4.1日、4.15、4.22、5.1、5.7、5.25、6.1、6.5と連続して核実験。


 4.28日、講和条約発効。GHQ廃止される。


 8.6日、広島で原爆犠牲者慰霊碑序幕式。広島で映画「原爆の子」初上映される。


 8.10日、吉川、峠さんらが原爆被害者の会を結成する。


 10.3日、英国が最初の核爆発実験 をオーストラリアのモンテベロー諸島Trimouille島で実施。


【米国がエニウェトク環礁のElugelab島で最初の水爆実験を実施】
 10.31日、米国、エニウェトク環礁のElugelab島で、最初の水爆実験を実施。高度12万フィートまで巨大なキノコ雲があがった。11.15日も。

【1953(昭和28)年】
(私論.私見) 
 この年、米ソ英の三国が核実験を競う年となった。

 1.13日、広島市原爆障害者治療対策協議会が発足する。


 3.15日、ソ連が核搭載IRBMの発射実験を開始。


 3.17日、米国がネヴァダで、核実験実施。3.24、3.31、4.6、4.11、4.18、4.25、5.8、5.19、5.25、6.4も。


 7.27日、朝鮮戦争が休戦。


 8.12日、 ソ連がセミパラチンスクで、初の水爆実験実施。8.23、9.3、9.8、9.10日も。


 10.14日、英国、南オーストラリアのEmu Fieldで核実験 。10.26日も。


 11月、ソ連がICBMの開発を開始。


 12月、アイゼンハワー米大統領「原子力の平和利用」を演説。


【1954(昭和29)年】
(私論.私見) 
 この年、米国がビキニで水爆実験シリーズを開始した。この時、日本のマグロ漁船第五福竜丸が放射能被災し、久保山愛吉さんの症状が特に重く同年9.23日、手当の甲斐なく死亡する。「死の灰の恐怖」は日本の反戦平和運動の火をつけ、「水爆禁止署名運動杉並協議会」の「杉並アピール」を生み、各地で署名運動が始まった。しかし、この間、防衛庁・自衛隊が発足し、日本の再武装化が始まった。ソ連の核実験も続いた。

【米国がビキニで水爆実験シリーズを開始】
 3.1日、米国の太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁での水爆実験を開始した。続いて3.26日、4.6日、4.25日、5.4日、5.13日にもビキニ環礁で水爆実験を実施。

【「第五福竜丸事件」発生】
 3.1日、米国の太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁での水爆実験で、静岡県焼津港の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が放射能被災した。これを「ビキニ事件」と云う。20メガトン水爆の実験によって発生した「死の灰」は100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」にふりかかり、23名の乗組員全員がこれを浴び、火傷・下痢・目まい・はき気などの急性放射線症にかかった。同年9.23日、そのうちの一人、無線長の久保山愛吉さんが手当の甲斐なく急性放射能症で亡くなる(享年40歳)。乗組員の半数以上が被ばく後遺症でガンを誘発し亡くなっている。

 「死の灰の恐怖」はそればかりではない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。焼津港・三崎港・東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って「マグロ恐慌状態」が生じた。東京の中央卸売市場ではコレラ流行以来はじめてセリを中止するにいたった。また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に降り注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクのなかにまで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではなく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックを与えるにいたった。

 「死の灰」の恐怖は、人々にあらためてて「ヒロシマ」、「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人ひとりの「戦争はいやだ」、「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させた。こうして、日本の原水爆禁止運動は、1954.3.1日「ビキニ事件」を契機としてまき起こることになった。

 同時に被ばくした乗組員、大石又七(おおいし・またしち)さんが2021.3.7日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため神奈川県三浦市の病院で死去した(享年87歳)。

 大石さんは1934年1月、静岡県吉田町生まれ。新制中学校を中退して漁師になった。第五福竜丸では冷凍士として乗船。差別や偏見を恐れ、東京に移り住んでクリーニング店を営んだ。被ばくから約30年が過ぎた83年、都内の中学生からの依頼で初めて自身の体験を明かし、以降、「核は人類に害を与え続ける」など講演活動に注力した。

 4.12日 オッペンハイマー、水爆機密保持に疑惑を受け査問にかけられ、水爆開発非協力者として公職を解かれる。


 4.23日、日本学術会議、原子力平和利用三原則声明。この年、日本、原子核研究所設立準備委員会発足。


【「杉並アピール」とその影響】
 5.9日、東京都杉並区の婦人団体、読書サークル、PTA、労組の代表39名が杉並公民館で「水爆禁止署名運動杉並協議会」(公民館長兼図書館長の安井郁・法政大教授が議長に就任)を結成。「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」の杉並アピール発表、署名活動に入った。

 杉並アピールの「実験だけでもこのようなありさまですから、原子戦争が起った場合のおそろしさはあまりあります」という呼びかけは、当時の人々の心を掴んだ。その基本的思想は、私生活擁護のための反戦平和というところにあった。その出発点から見れば、原子力兵器さえ禁止されればよいというような唯武器論的な運動ではなかった。

 この動きが全国に広がり、運動は焼原の火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃えひろがり、あらゆる市町村議会で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。各地域や職場で自然発生的にはじめられた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。この署名は1955.8.15日までに日本で3238万人分、世界で6億7000万人分に達した。

 7.1日、防衛庁・自衛隊が発足。


 8.6日、原水爆禁止広島平和大会開催される。


 8.8日、東京で原水爆禁止署名運動全国協議会結成大会。代表世話人に湯川秀樹京大教授、片山哲・元首相。寄せられた署名は449万人。


【読売新聞社が原発推進の旗振り役として登場する】
 8.12-22日、読売新聞社が、新宿伊勢丹で、「誰にでも分かる原子力展」を開催。
(私論.私見)  
 これにつき「日本に於ける原子力政策史その1」で確認を要する。「ビキニ事件」で原水禁運動が盛り上がるのを受け、読売新聞社が原発推進の旗振り役として登場している。俗にいう「ピンチはチャンス」とばかりに逆攻勢を仕掛けていることになる。これが原発推進魂と云うことになる。これを仮に「原発推進DNA」と命名しておく。

 9.23日、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが国立東京第一病院で死去。40歳。死因、放射能症。米原子力関係者は死因に疑問と発表。 


【ソ連が核実験シリーズを開始】
 ソ連が9.14日、Totsk上空で核実験を実施。9.29日、10.1日、10.3日、10.8日、10.19日、10.23日、10.26日も。10.30セミパラチンスク上空で、核実験を実施。

【1955(昭和30)年】
(私論.私見)  
 この年、世界の反戦平和運動が高まり、日本でも被災地広島で、第1回原水爆禁止世界大会が開催された。続いて原水協が結成され、反核運動の母体となった。しかし、米ソの核実験競演が続いた。日本でも原子力基本法などの原子力三法が成立し、東京大学原子核研究所設立されるなど、平和利用と云う名目での核開発に着手することになった。 

【反核平和運動が世界的に活発化する】
 新しい核軍拡競争の展開は、心ある人びとを核実験禁止、核兵器禁止へとかりたてずにはおかなかった。1.19日、原子戦争の準備に反対するウィーン・アピールが発表された。

 1月、「署名運動全国協議会」の全国大会が開かれ、「8.6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を、(1)・過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。(2)・あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、と規定した。


 米国が2.18日よりネバダ上空で核実験を開始。2.22日、3.1日、3.7日、3.12日、3.22日、3.29日、4.6日、4.9日、4.15日、5.5日、5.15日と続く。5.14日サンディエゴ沖の太平洋で、水中核実験 WIGWAM 実施。


 7.2日、原水爆禁止広島県民運動連絡本部が発足。


 7.9日、世界の11人の学者がロンドンで「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表。核兵器の全面禁止、科学技術の平和利用を訴える。


 7.29日、ソ連がセミパラチンスクで、核実験を実施。8.2日、8.5日にも。


【「第一回原水爆禁止世界大会」開催】
 8.6日、広島市公会堂で初めての原水爆禁止世界大会が開かれた(第1回原水爆禁止世界大会)。3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表500名と、海外代表35人を含む約2000人が参加。浜井広島市長があいさつ。鳩山首相祝辞。この大会では、原水爆被害者の救済運動を呼び掛ける大会宣言が発表された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙を流す光景さえみられた。

 8.8日、ジュネーブで、国連主催第1回原子力平和利用国際会議。


 8.24日、広島原爆資料館開館する。


【原水協発足】
 9.19日、原水爆禁止署名運動全国協議会と原水爆禁止世界大会日本準備会が発展的に合同し、被爆者の援護・連帯を目的として「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が発足した。活動方針に被爆者救援国民運動(一人一円カンパ)、国家補償要求の署名運動を開始した。

【米ソが核実験競演】
 9.21日、ソ連がノバヤゼムリヤで水中核実験を実施。ノバヤゼムリヤ島では初の実験となる。11.1日、米国が、ネヴァダで核実験実施。11.3日、11.5日にも。11.6日、ソ連がセミパラチンスク上空で、核実験を実施。11.22日も。最初の完全な水爆実験実施。空中より投下。開発主導者はアンドレイ・サハロフ。

 10.25日、「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんが12歳で白血病のため死去する。


 12.19日、日本が原子力基本法などの原子力三法を成立。この年、東京大学原子核研究所設立。


【1956(昭和31)年】
(私論.私見) 
 この年、日本主体の原水爆禁止世界大会が開会され、原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求する。米ソ英の三カ国が核実験競演する。英国で世界初の商用原子炉が稼働している。

 1.18日、米国がネヴァダで核実験。


 2.2日、ソ連がカザフスタンのAralskで核実験を実施。3.16も。3.25日、セミパラチンスクで核実験を実施。


【ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判、平和共存路線を打ち出す】
 2月、ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判をおこない、資本主義諸国との平和共存、社会主義への平和移行などの方針を打ち出した。これに対して、中国は「修正主義」だと批判していくことになり、中ソ対立が発生する。中ソ対立は我が国の平和運動に影を落としていくことになる。

【原水爆禁止世界大会が原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求する】
 4.3日、世界平和アピール7人委員会、原水爆実験禁止について米英ソに勧告。5.27日、広島県被団協の結成総会。

 8・9日、第2回原水爆禁止世界大会が長崎市で開会。原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求するなど11項目を決議。

 5.4日、米国、エニウェトク環礁のRunit島で、核実験。5.27、5.30、6.6、6.11、6.13、6.16、6.21、7.2、7.8、7.21日も。


 5.16日、英国、モンテベロー諸島のTrimouille島で核実験実施。6.19日、モンテベロー諸島のアルファ島で、核実験実施。


 5.20日、米国、ビキニ環礁Namu島上空で、水爆実験実施。ビキニ環礁Eninman島で5.27、6.11、7.10、7.21日も。


 5.23日、英国で、世界初の商用原子炉稼働。


 5.27日、広島県原爆被害者団体協議会の結成総会が開催される。


【「日本原爆被害者団体協議会」 (日本被団協)が結成される】
 8.10日、長崎での第2回原水爆禁止世界大会時に、被爆者団体の全国組織である「日本原爆被害者団体協議会」 (日本被団協)が結成される。正式名称は日本原水爆被害者団体協議会。広島と長崎の原爆被害者による唯一の全国組織で、36都道府県にある地方組織で構成される。「原水爆禁止運動の推進」、「原水爆犠牲者の国家補償」などを掲げ、被爆体験の継承や被爆者健康手帳の申請支援も続けている。

 8.24日、ソ連がセミパラチンスクで、核実験を実施。8.30、9.2、9.10、11.17、12.14日も。


 9.11日、広島原爆病院開院式。


 9.27日、英国、南オーストラリアのマラリンガで、核実験実施。10.4、10.11、10.22日も。


【1957(昭和32)年】
(私論.私見) 
 この年も米ソ英の三カ国の核実験競演が続き、軍拡競争はさらに新しい段階に入る。イギリスが太平洋上のクスマス島で核実験を行ない、新しい核軍拡を開始した。この年の10月にはソ連がスプートニク(ICBMの完成を示す)を打ちあげ、核兵器の運搬手段の開発競争による新しい軍拡競争の時代が訪れる。いまや軍拡競争は「核・ミサイル」競争の段階に入った。ICBMは約30分で地球の裏側に達するから、人類の大半が死滅し地球全域が破壊されるような戦争がわずか30分間で終了する状態となった。このことは戦争の性格・概念を根本的に変えたことを意味する。他方で、世界的反核運動の動きも強まった。

【ソ連の動き】
 1.19日、ロシアAstrakhan地方のミサイル基地上空で核実験を実施。3.8日、セミパラチンスク上空で核実験を実施。4.3、4.6、4.10、4.12、4.16、8.22、8.26、9.13、9.24、10.6、10.9、10.10日、12.28日も。この間9.7日、ノバヤゼムリヤで核実験を実施。同地での地上爆発試験はこれのみ。

【米国の動き】
 2.16日、ネヴァダで核実験 実施。5.28、6.2、6.5、6.18、6.24、7.1、7.5、7.15、7.19、7.24、7.25、7.26、8.7、8.10、8.18、8.23、8.27.8.30、8.31、9.2、9.6、9.8、9.14、9.19、9 .23、9.28、10.7、12.6、12.9日も。

 4.1日、原子爆弾被害者の医療などに関する法律(「原爆医療法」)施行。


 4.12日、ゲッチンゲン宣言。西ドイツ(当時)の著名科学者18名が西ドイツの核武装計画に反対し、「核実験反対・核兵器の開発反対・核兵器研究への参加拒絶」という「ゲッチンゲン宣言」(「西独核武装に反対するゲッチンゲン宣言」)が発表された。


【英国の動き】
 5.15日、クリスマス諸島Malden島で初の水爆実験を実施。11.8日も。9.14日、南オーストラリアのマラリンガで核実験実施。9.25日も。

 6.10日、日本、原子炉規制法・放射線障害防止法制定。


【「第1回パグウオッシュ会議」】
 7・6日、東西両陣営の科学者の参加した「第1回パグウオッシュ会議」(正式名称は「科学と世界問題に関する会議」)がカナダで開かれた。なおパグウオッシュ会議は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言(核戦争の危険性を米・ソ・英・仏・中・カナダの各国に警告し、科学者の平和に対する責任を明らかにした宣言)に基づいて開かれ、東西の科学者22名(日本からは湯川秀樹)が核実験・核戦争の危険性などを科学者の立場から討議した。この会議は、以後世界各地で開かれ、科学者の国際平和運動として定着し今日に至るまでつづいている。

 この年、A・シュバイツアー博士がオスロー放送を通じて核実験の危険性と核戦争の危機を訴えていた。ライナス・ポーリング博士も核実験による「死の灰」の危険性を訴えすでに行なわれた核実験の「死の灰」で「1万人の新生児に身体的精神的欠陥を生じさせるだろうし10万人の胎児・幼児死をひきおこすだろう」と警告した。ソ連の「水爆の父」といわれるアンドレイ・D・サハロフ博士もこれらの動きを見守っていた。「アルバート・シュバイツアーやライナス・ポーリングなどによる声明の影響もあって、彼(サハロフ)は自分自身にも核爆発による放射能汚染の問題に関する責任があるように感じた。一連の核実験が行なわれるたびごとに、何万もの犠牲者がでることになるからである」(『みすず』74年5月号)。サハロフがフルチショフ首相に核実験停止の勧告や働きかけをはじめるのもこのころである。

 ライナス・ポーリングが核実験禁止の署名を呼びかける。

 7.29日、国連総会で、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency=IAEA)草案を採択。


 8.6日、第3回原水爆禁止世界大会開催。「戦争そのものの根絶」というスローガンが掲げられた。


 9.29日、ソ連、ウラル核惨事。


 10.4日、ソ連、最初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功。アメリカに衝撃を与える。


 10.10日、英国、ウィンズケール核工場で原子炉炉心溶融事故。


 11.7日、ソ連の核搭載IRBM・SS-3 Shysterが赤の広場軍事パレードで披露される。


 この年、岸信介首相「自衛のための核武装は合憲」と発言。


【1958(昭和33)年】
(私論.私見) 
 この年も米ソ英の三カ国の核実験競演が続いた。ソ連は全面的な平和攻勢に転じた。この年の3月には核実験の一方的停止を宣言し、米英への同調を求めた。

【ソ連の動き】
 1.4日、セミパラチンスク上空で、核実験を実施。1.17、2.23、2.27、3.13、3.14、3.15、3.18、3.20、3.22日も。3.14日ノバヤゼムリヤ上空で、核実験を実施。3.21日も。9.30日よりノバヤゼムリヤ上空で核実験を実施。10.2、10.4、10.5、10.6、10.10、10.12、10.15、10.18、10.19、10.20、10.21、10.22、10.24、10.25、10.26、10.27、10.30日も。11.1日ソビエト、ロシアAstrakhan地方のミサイル基地上空で、核実験を実施。11.3日も。

 この年、ソ連の最初の戦略ミサイル潜水艦ホテル級が完成。IRBM・SS-4 Sandalの配備を開始。


【米国の動き】
 2.22日、ネヴァダで核実験実施。3.14日も。4.28日米国、エニウェトク環礁の上空で核実験実施。5.5、5.11、5.12、5.16、5.20、5.26、5.30、6.8、6.14、6.18、6.27、6.28、7.1、7.5、7.14、7.17、7.22、7.26、8.6、8.18日も。これがエニウェトク環礁での最後の大気中爆発実験となった。5.11日、ビキニ環礁で水爆実験実施。5.21、5.31、6.10、6.14、6.27、6.30、7.2、7.12、7.22日も。これがビキニ環礁での最後の大気中爆発実験となった。8.1日、米国、ジョンストン島上空で、水爆実験実施。レッドストーンロケット使用。8.12日も。9.12日よりネヴァダ再開。9.17、9.19、9.21、9.23、9.26、9.28、9.29、10.5、10.8、10.10、10.13、10.14、10.15、10.16、10.1810.20、10.22、10.24日も。

【英国の動き】
 4.8日、クリスマス島で核投下実験実施。8.22、9.2、9.11、9.23日も。

 8.23日、中台間で金門・馬祖事件。


 8月、原水爆禁止沖縄県協議会結成。第4回大会が開かれ、学生たちの間から原水禁運動は「勤評問題をとりあげよ」という主張がでてきた。


 11月、米国、英国、ソビエトの3国、水爆実験を停止する。


 11.28日、米国、ICBMアトラスBの飛行に成功。


【1959(昭和34)年】
(私論.私見) 
 この年、中ソ対立が発生し、中国も核実験に乗り出すことになった。この動きにフランス、インドが続くことになる。原水禁運動に政治的対立が発生し、この対立はより激しくなっていくこことになる。

 1.1日、キューバにカストロ政権樹立。


 この頃、外交政策をめぐる中ソ間の対立が激しくなる。


 5月、ソ連がICBM・R-9(SS-8 Sasin)の開発を決定。


 6.9日、最初の水爆搭載可能なポラリス潜水艦が就航。


 6月、ソ連は「中ソ国防新技術に関する協定」(1957.10月に原爆見本、原爆生産の技術を中国に提供することを約束した)を破棄した。この結果、中国も自ら核兵器生産(1964.10月に第1回核実験)にのりだすことになる。そして、フランス、インドがこれに続く。


【チェ・ゲバラがキューバ使節団の団長として来日、広島訪問】
 ゲバラ(31歳)は59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。

 7.15日、キューバ革命からわずか半年後、チェ・ゲバラはキューバ使節団の団長として来日し、10日間滞在している。戦後、奇跡の経済成長を成し遂げつつある日本に対する関心が強く、トヨタの自動車工場、ソニーなどの大手企業を見学したあと「ヒロシマ広島をゲリラ的に訪問」している。

 副団長だったオマル・フェルナンデス氏(ゲバラの2歳年下)が次のように証言している。
 概要「アルゼンチン出身の医師であるチェ・ゲバラは予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが日本政府の許可が出なかった。大阪のホテルに滞在中、業を煮やしたゲバラは『ボクたちには48時間しかないから日本政府には言わずに広島に行こう』と何としてでも広島に行くことを決断した。大阪のホテルをこっそり抜け出し、オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い夜行列車に飛び乗った。資料館を見て惨状に涙ぐみ献花している。被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、ショックを受けながら被爆者たちを励ましている。そのときに妻に当てた手紙にはこう書かれている。
 『✿愛する君へ  今日は原爆が投下された、広島から送ります。棺台には7万8千名もの死者の名が刻まれ、全体で18万名に上ると推定されます。この地を訪れることは、平和のために闘う者にとって糧となります。愛を込めて  チェ(・ゲバラ)』。

 この時、ゲバラは次のような言葉を遺している。
 『痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ』
 『資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た』
 『きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか。米国にこんな目にあっておきながら、あなたたちはなお米国の言いなりになるのか』
 『これからは広島と広島の人を愛していこう』

 チェは日本についてキューバと比較して次のように述べている。
 「日本人と同じように、われわれもほとんど何ももっていない。石油もない。あっとしてもほんのわずかだ。鉄鋼も石炭も産出しない。日本には米があり、キューバにはサトウキビがある。しかし日本人はわれわれがサトウキビから得られるものよりたくさんのものを米から得ている。国を発展させるために、我々はもっと頭を使わなければならない」(チェ・ゲバラ「革命を生きる」)。

 ゲバラは、帰国報告の際、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「アメリカが(ヒロシマで)犯した罪、引き起こした惨劇を、つまり私たちが見たものをあなたたちも見てくるべきだ。日本に行く機会があれば必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めている。カストロ議長は03年3月に広島を訪問し、「フィデルはチェとの約束を守った」。フェルナンデス氏がゲバラに初めて会ったのは59年1月の革命直後。「外国人としてキューバ革命に参加したチェを私は知り合う前から尊敬していた」と話す。ゲバラが工業相を務めたときには、フェルナンデス氏が副工業相の一人に任命されるなど信頼を得た。しかし、ゲバラが39歳で命を落としたボリビアでのゲリラ闘争には誘われなかった。
 ゲバラの長男カミーロ・ゲバラも広島を訪れて次の言葉を遺している。
 「✿犠牲者の魂が休まるのは、世界が変わり、核兵器が廃絶された時だろう。広島の人々は同じ悲劇が起きないよう語り伝える責任がある」。
キューバでは原爆についての教育が熱心に行われ、日本の子どもたち以上に?原爆について詳しく知っている。現在も毎年8月6日と9日には国営放送が特番を組んでいる。

【第5回原水爆禁止世界大会前、原水禁運動における混乱発生】 
 7.21日、日本原水協が原水爆禁止世界大会について、「原水爆禁止を実現するため核武装、海外派兵の道を開く安保改定に反対するのは当然」と声明した。

 7.22日、全国都道府県議長会が、原水禁運動に関して「政治色をぬぐい去るべきである」と決議。保守陣営からの平和運動への政治の持ち込みを拒否する声明が為された。

 この頃、運動内部にも意見の対立が起こりはじめた。軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマとしてとりあげるか、否か、という意見の対立が表面化してきた。いわゆる「筋幅論争」である。それは、「平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動をとりあげよ」というものであり、「筋を通す」ことが重要だという意見と、それよりも「原水禁運動は広範な国民の参加する運動だから、その幅を大切にせよ」という意見の対立である。やや詳しくは、「理論的対立の検証(1)筋幅論争」参照のこと。

 第5回原水爆禁止世界大会が開かれ、「平和の敵を明らかにせよ」、「原水禁運動は安保反対そのものをとりあげよ」という主張がでてきた、が、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則をつらぬきとおして、これらの提案をとりあげなかった。


 7.22日、米国、戦場用地対地核ミサイル・ラクロス配備。


 7.29日、米国、量産型ICBMアトラスDの開発開始。


 9.9日、米国がICBMアトラスDの試験に成功。


 9.15日、ソビエト書記長フルチショフが自らアメリカにのり込み、9.25日、アイゼンハワー大統領とキャンプ・デービット会談を行ない、次いで国連総会で「4年間で軍備を全廃する」提案を行なった。ソ連の平和攻勢でにわかに緊張が緩和し、核兵器禁止も間近とまで思われたが、1960年のアメリカのスパイ飛行機U2機事件で局面は暗転してしまう。


 9.17日、フランス、ミサイル開発管理機関SEREBを創設。


 9.30日、ソビエトと中国対立激化。


 この年、科学技術庁が、日本原子力産業会議に原子力発電所事故の理論的可能性と公衆被害試算を要請。国家予算の2倍に達する被害額が算定されたために、極秘扱いとなる。


 この続きは、「原水禁運動の歩み(3)、1960年代」に記す。





(私論.私見)