日本に於ける原子力政策史その1

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこの理解が弱くスケッチ風にしか書き込めないが次の要点を確認しておく。広瀬隆・著「腐食の連鎖」、「オウム事件の本番」、藤田祐幸(慶応大)氏の「日本の原子力政策の軍事的側面」、「2004年日本物理学会第59回年次大会 社会的責任シンポジウム 現代の戦争と物理学者の倫理とは」、「阿修羅原発版」、有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」(新潮社 、2008.2月初版)、「米国の圧力と戦後日本史9-アメリカが決して表に出てこない原発推進の構造」その他を参照する。2012年4月、書店で鬼塚英昭著「黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア 」(成甲書房; 2011.5.21日初版 )を見つけ購入した。貴重な資料がふんだんに取り入れられているので、これを取り込むことにする。

 日本の原子力史を検証して判明することは、日本の原子力行政が、「正力-中曽根コンビ」によって推進されたということである。しかも、恐ろしいほど政治政争絡みであり、原子力と軍事防衛と宇宙開発が三点セットで推進されていったということである。「我が国における原子力行政の闇」の部分であり、以下、二人の動きを中心に見ていくことにする。

 2007.7.21日、2012.05.19日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評386 れんだいこ 2008/03/30
 【日本の原子力発電史考】

 たまたま有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」を入手し、新たな知識、情報を得た。判断を伴う見立ての部分はれんだいこ独眼流で焼き直し、「原子力発電決別考」の「日本に於ける原子力政策史考」に取り込んだ。

 この一連の検証で次のことが判明する。日本への原子力発電敷設が、CIA絡みで意図的故意な政治力で暴力的に持ち込まれている。これに正力と-中曽根コンビが暗躍している。原子力発電が、軍事防衛と宇宙開発の三点セットで持ち込まれている。それは思うに、どれもが大型プラントを伴うものであり、政商には垂涎の事業になっている。利権問題を論うなら、これにメスを入れない利権論は気の抜けたビールのようなものにしかならない。

 目下、道路利権の摘発がかまびすしい。が、他の省庁の利権に向かわない、特に原子力、軍事防衛、宇宙開発の三大利権に向かわない旧建設省関連に特化させた摘発運動は為にする謀略的なものではなかろうか。れんだいこはこの間一貫して、その胡散臭さを告発している。道路特定財源制の歴史的進歩性を否定して、元の木阿弥的一般財源制に戻そうとする与野党一致の翼賛政治の非を警鐘乱打している。こういう動きは臭いと思うべきだ。ところがいけない、かの社共が率先旗振りしており、民主党、自民党小泉派含めてまもなくそれを云い始めたのはうちの方が先だと本家争いしそうな勢いである。馬鹿ばかしいったらありゃしない。この国はなんで本来の正義が通らず、変な正義ばかりがもてはやされるのだろう。あまりにも不思議で、れんだいこが狂っているのかも知れないと、段々寡黙にならざるを得ない。21世紀がまさか、こんな世の中になるとは思ってもみなんだ。

 2008.3.30日 れんだいこ拝


【中曽根の原子力行政端緒】
 1945.8.6日、中曽根康弘は高松で広島のきのこ雲を遠望した。この時次のように思ったと云う(中曽根康弘「天地有情-50年の戦後政治を語る」(文藝春秋、1996年)の166~1722頁の「原子力推進の原点になった原爆雲遠望」の項参照。中曽根については「中曽根康弘」で確認する)。
 「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社P75)
(私論.私見)
 何と中曽根は、広島原爆のきのこ雲を見て、広島被災に思いを馳せるのではなく、「次の時代は原子力の時代になると直感した」と、著書「天地有情-50年の戦後政治を語る」の中で「先見の明あり」的自負を記している。人の感性は自由であるが素っ頓狂な話しではある。(これは、2011.3.11日の前に書きつけている。今、同日の福島原発事故に遭遇して、中曽根は如何なる「先見の明あり論」を開陳してくれるのだろうか。)

 2013.7.8日書き直し れんだいこ拝

1951(昭和26)年の動き

【戦後の原子力行政始まる】
 1951.9.8日、サンフランシスコ講和(対日平和条約)、続いて日米安保条約が調印され、翌1952.4.28日に発効した。その直後の5月、吉田首相-自由党は科学技術庁設立案を明らかにした。その付属機関は核兵器を含む科学兵器、原子力の開発研究を目的とすることが明記されていた(原子力年表・原産会議編)。こうして、広島・長崎の惨禍からわずか7年後、日本は自ら核開発に乗り出すことを明らかにした。

1952(昭和27)年の動き

【戦後の原子力行政始まる】
 4.20日、読売新聞に「(政府は)再軍備兵器生産に備えて科学技術庁を新設するよう具体案の作成を指令した」と報じ手要る。

 前田正男が、日本産業協議会月報五月号に読売新聞論調に沿った次のような論文を掲載している。(「3.日本の原子力政策の軍事的側面 藤田祐幸(慶応大)」参照)。
 前田論文は冒頭「敗戦直後鈴木総理大臣は『今次戦争は科学によって敗れた。今度こそ科学を振興して日本の再建を図らねばならぬ』と力説せられたことを記憶している。その後約七年も経過したが、国民はこの科学振興に如何程の努力を拂い、その結果科学の振興が、如何程実行されたか、深く反省する必要がある」と書き出し、前田が51年に米国の科学技術の立法行政の視察した折の経験を披瀝している。「従来米国においても陸海軍関係の研究機関と民間研究機関(大学を含む)との連絡不十分であった。そのため、互いに研究成果を秘密にし、研究の連絡をしなかったため多額の国費を無駄に使用し、かつ充分の成果を短時間に得ることが出来なかった。そこで1947年陸海空の三省を併合して国防省とした際、国防省の内に科学技術振興院を設置し、軍事研究に関して政府所属機関の研究及び委託研究の大綱を統制し、各所における有効利用をはかっている」ことを紹介した上で、「このことは単に米国の軍事研究のみの問題でなく、広く自由主義諸国の間にも推し進めて行きたい」との米国側の要望を伝えたうえで、日本にも科学技術庁の新設が、科学の研究費不足と研究、連絡の不能率を克服するため必要であることを論じている。

 それによれば、科学技術庁の任務は、1.科学技術の基本的セ施策の統合企画立案、2.関係行政機関の間の事務の総合調整、3.科学技術研究費の査定、調整、4.科学技術情報の収集周知宣伝、5.特に必要な総合研究及び連絡調整、であり、性格は総理府の外局で、長官には国務大臣を当て、付属機関として科学技術情報所と中央科学技術特別研究所を持つ。

 前田は6月にこの案を学術会議に持ち込み、そのとき、中央科学技術特別研究所の目的は「原子力兵器を含む科学兵器の研究、原子動力の研究、航空機の研究」にあるという「部外秘」情報をもらしたと伝えられている(日本の原子力問題、民主主義科学者協会物理部会監修、理論社刊、1953年4月25日、p21)。もちろんこのことは伏せられた。


 1952.10月、この動きに対し、竹谷三男は、雑誌「改造」に「日本の原子力研究の方向」と題する論文を発表し、原子力平和利用開発の三原則(民主・自主・公開)を提唱した。

 10.24日、この提案を受ける形で開かれた学術会議の総会で、原子力委員会の設置を求める「茅・伏見提案」が提起され、強い抵抗に会い撤回された。この時、広島大の理論物理学研究所の三村剛昴会員が反対の演説を行っている。三村は広島の惨状を話したあとで次のように述べている(「3.日本の原子力政策の軍事的側面 藤田祐幸(慶応大)」参照)。
 「だからわれわれ日本人は、この残虐なものは使うべきものでない。この残虐なものを使った相手は、相手を人間と思っておらぬ。相手を人間と思っておらぬから初めて落し得るのでありまして、相手を人間と思っておるなら、落し得るものではないと私は思うのであります。ただ普通に考えると、二十万人の人が死んだ、量的に大きかったかと思うが、量ではなしに質が非常に違うのであります。しかも原子力の研究は、ひとたび間違うとすぐそこに持って行く。しかも発電する―さっきも伏見会員が発電々々と盛んに言われましたが、相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化するのであります。それが原爆に化するのは最も危険なことでありましていけない」。

 会場は静まり返り、伏見は提案そのものを撤回せざるを得なかった。

1953(昭和28)年の動き

【中曽根-正力ラインによる原子力予算上程までの動き】
 1953年、復員後政治家になった中曽根に、マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属していたコールトンが接近し、ハーバード大学で開催されたキッシンジャーの主催するセミナーに招聘した。この時、中曽根はネオシオニズムの黒子であるキッシンジャーに認められ、将来の出世と権力が保証されるエージェント契約を結んだ形跡がある。

 セミナーの帰路、中曽根は、コロンビア大学に留学していた旭硝子ニューヨーク駐在員の山本英雄に会って原子力の情報を仕入れた。山本は、次のように述べている。
 「彼はとりわけ原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。中曽根氏は再軍備論者でしたから、将来、日本も核兵器が必要になると考えていたのかも知れません」。

 帰国後中曽根は、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、際等憲三などと諮り、原子力予算の準備を始めた。 


 この頃、米原子力委員会の原子炉開発部長ローレンス・ハフスタドが次のように発言している。
「原子力はせいぜい普通工場の燃焼室とボイラーを代用するものであり、(略)米国の工業経済に対し革命的な効果をおよぼすことができない」(富士銀行調査時報53年2月号)

【アイゼンハワー大統領が国連総会で原子力の平和利用を提唱する】
 12.8日、米国のアイゼンハワー大統領が、ニューヨークの国連本部総会で原子力の平和利用(アトムズ・フォー・ピース)を提唱する。「平和のための原子力(Atoms for peace)」というテーマで次のように語った。
 「歴史の何ページかには、確かに『偉大な破壊者』の顔が時おり記録されてはいる。ただし、歴史書全体を見れば、そこには人類の果てしない平和の希求と、人類が神から与えられた創造の能力が示されている」、「米国は、恐ろしい原子力のジレンマを解決し、この奇跡のような人類の発明を、人類滅亡のためではなく、人類の生命のために捧げる道を、全身全霊を注いで探し出す決意を、みなさんの前で、誓うものである」。

 米国は、「原子力の平和利用」宣言以降、濃縮ウラン燃料や原理力発電技術の輸出を積極的に行い、原子力の主導権を握る。原子力発電所が世界に輸出され、日本もその大きな流れに取り込まれていくことになる。 

1954(昭和29)年の動き

【読売新聞が原子力の平和的利用を訴える大キャンペーンを始める】
 1954年元旦、読売新聞が、原子力の平和的利用を訴える大キャンペーン「ついに太陽をとらえた」記事を掲載。

【米国がビキニで水爆実験シリーズを開始。ビキニ事件」起こる】
 3.1日、米国の太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁での水爆実験を行った。この時、静岡県焼津港のマグロ漁船第五福竜丸が実験の風下85マイル(約136キロ)の公海上でマグロのトロール漁を行なっており、23名の乗組員全員が放射能被災した。これを「ビキニ事件」と云う。乗組員は火傷、下痢、目まい、はき気などの急性放射線症状にかかった。3.14日、船が帰港する。米国は、被曝した乗組員の治療に死の灰の成分を知ることが不可欠なところ情報公開しなかった。医師が米国から派遣されてきたが、治療ではなく調査が目的だった。米国は被爆で病気が出たことを認めず、補償額もきわめてわずかな金額しか示さなかった。吉田首相は米国に抗議できず、その結果、第五福竜丸事件は吉田政権の基盤を揺るがした。

 同年9.23日、乗組員の一人の無線長の久保山愛吉さんが手当の甲斐なく急性放射能症で亡くなった(享年40歳)。その後、乗組員の半数以上が被ばく後遺症でガンを誘発し亡くなっている。「死の灰」の恐怖は、人々にあらためてて「ヒロシマ」、「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人ひとりの「戦争はいやだ」、「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させた。こうして、日本の原水爆禁止運動は、1954.3.1日「ビキニ事件」を契機としてまき起こることになった。

【中曽根-正力ラインによる原子力予算上程までの動き】
 当時中曽根は改進党に属していたが、自由党は過半数を割っており、改進党などの同意なく予算審議を進めることはできなかった。改進党の修正予算規模は50億円、そのうち原子力関係として3億円を提示し、3.1日の三党折衝であっさりと承認された。この日、焼津のマグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、米国の水爆実験により被災していたが、14日の帰港まで国民はそのことを知らされなかった。

 3.2日、改進党の若き代議士・中曽根康弘、斎藤憲三(TDK創立者)、稲葉修、川崎秀二によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された。両院議員総会で、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億5000万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」と決定した。ちなみに原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円はウラン235にちなんだものであったと云う。

 翌3.3日の衆議院予算委員会に、全く突如として自由党・改進党・日本自由党の三党共同修正案として提出され、3.4日の衆議院本会議で提案趣旨説明が行われ、予算案は修正案も含めて一括採択された。(1954.3月、改進党の中曽根康弘氏らにより原子力研究開発予算が国会に提出、採択される)

 
この時、中曾根が、原子力予算の提案理由の中で次のように述べている。
 「(MSA(米国)の援助に対して)米国の旧式武器を貸与されるのを避けるために、新兵器や現在製造の過程にある原子兵器を理解し、またこれを使用する能力を保つことが先決問題だと思うのであります」。

 3.10日、日本学術会議が平和利用限定で容認する。

 4月、予算案が可決され、「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」が認められた。以降、日本の原子力政策は巨額の税金を「利権として吸い上げる」構造的汚職の巣窟と化して行くことになる。

【学術会議が原子力予算上程に抗議声明】
 1954.4.23日、学術会議は、研究者の意思を無視した予算成立に対し抗議の意思を明らかにすると同時に、平和利用三原則を改めて表明した。

【中曽根-正力ラインによる原子力行政推進】
 中曽根のこの動きを背後で操っていたのが読売新聞の社主・正力松太郎である。(正力履歴については、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、れんだいこの「読売新聞社史考」、「正力考」で確認する)

 正力は、戦後、戦犯として訴追され、政治生命を断たれた。その正力が戦犯解除されるに当たってCIAとエージェント取引したことが考えられる。早稲田大学の有馬哲夫教授(メディア研究)が2005年、米ワシントン郊外の国立第2公文書館から発掘したCIA(米中央情報局)機密文書の一節には正力が「ポダム」の暗号名で登場している。同じような経緯で取引した者には戦前の特務機関系右翼の児玉誉士夫、同じく右翼の笹川良一、後に首相となる岸信介、戦前は里見機関、戦後は電通を率いた里見甫がいる。

 正力は、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰し、その後衆議院議員になり、日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官を務めている。初代の原子力委員会委員長に就任していくことになる。

 この正力の意向を受け、「1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された」と考えられる。4月、日本初の原子力予算2億3500万円が計上された。以来、中曽根と正力は、政界における原発推進の両輪となって動いてきたという経過がある。中曾根と読売新聞社の関係にはただならぬものがある。(これに日共の宮顕を加えれば「闇のトライアングル」を形成している、と云える。ここではこの件の考察はしない) 中曽根が原発推進のためにいかに尽力したか、その苦労話が次のように記されている。
 「私は科学技術庁長官になった正力松太郎さんを助けて働きました。それから、原子力委員会設置法、核原料物質開発促進法、原子力研究所法、原子燃料公社法、放射線障害防止法、そして科学技術庁設置法といった法体系をつくったわけです」(「天地有情-50年の戦後政治を語る」170頁)。

 正力-児玉誉士夫-中曽根ラインは、CIAコネクションを形成する。そこから政官財三界に巨大原子力推進人脈が形成されている。これは軍事利権人脈ともほぼ重なっている。この連中がピラニアのように軍事防衛、原発利権に群がり、国家を私物化しつつ食い尽くして行くことになる。まさに「権力を私する魑魅魍魎の妖怪ども」である。

 中曽根には次のような特別縁戚関係が見て取れる。原子力行政の旗振り役が中曽根であるが、その受注主力企業は鹿島建設(現・鹿島)である。高速増殖炉「もんじゅ」、「ふげん」、福島第一原発、1号、2号、3号、4号、5号、6号、福島第二、1号、2号、3号、浜岡1、2、3号、女川1号、浜岡1,2,3号、伊方1,3号、柏崎1,2,5号、島根1、2号、東海1、2、大飯1、2号、泊1,2号、これらは全部「鹿島」の建設である。

 中曽根と鹿島の関係には深い絆がある。鹿島建設の創業者・鹿島守之助の娘婿が渥美健夫で元会長。その息子直紀が結婚したのが中曽根康弘の娘美恵子。日本の原子炉建設トップ企業と日本の原子力政策の推進者が「血族」として繋がっているという訳である。

【九電力体制の生みの親・木川田一隆の原発政策呼応】
 「佐高信・氏のシンポジウム「みやぎ100年ビジョン討論会」での発言」が次のように記している。
 「東京電力の,今度は平岩さんという相談役,経団連会長をやった人も辞めるわけですけれども,平岩さんの親分だと言われた人が木川田一隆というミスター東京電力と言われた人ですけれども、この人は福島県のお医者さんの息子です。この木川田さんが最初原子力発電に対して反対だったんですね。『原子力はだめだ、絶対にいかん』と。『原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が,あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない』と言ってずっと反対していたんです。それを部下が一生懸命説得して,最後は『しようがないか』ということになるんですけれども,『悪魔のような代物』という緊張感というのを木川田さんはずっと持っていたわけです。それが,その後,そういう緊張感というのはやっぱりなくなっていく」。

 田原総一朗氏の「ドキュメント東京電力企画室」が次のように記している。(「佐高信さんの木川田一隆元東電社長礼賛について」参照)。

 「皮肉といおうか、日本の原子力推進、反対の相反する運動がいずれも1954年3月2日を基点としてスタートしているのである。そのころ副社長だった木川田は就任したばかりの気鋭の企画課長成田浩(現・電力中央研究所理事長代理)に『わが社も原子力発電の開発に着手すべきだ』とせめたてられていた。 成田はアメリカから取り寄せた数多くの資料を木川田に示して、『早晩、必ず原子力時代がくる。そのために一刻も早く開発体制を確立するべきだ』と執拗に木川田を口説いた。成田は、夕闇が濃くなる副社長室で、電燈をつけないまま、何時間も木川田と討議したことを覚えている。木川田は、電気がもったいない、といって、普段でも、よほど暗くならないと部屋の電燈をつけなかったのだ。『原子力はダメだ。絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない』。成田が、言葉を尽くして説得しても、木川田の態度は変わらなかった。暗がりの中で、木川田がまるで自分自身に言って聞かせるように、『原子力はいかん』と、何度もつぶやいているのを聞いて、成田は、あきらめざるを得ないと思った。

 ところが、『原子力は悪魔のような代物』だといっていた木川田が、ある日、突然、成田を読んで、『原子力発電の開発のための体制づくりをするように』と命じた。豹変である。何が、一体、木川田の姿勢を変えさせたのか。だが、そのことは、成田にとって、現在でも"謎"のままである。

 東京電力の社長室に原子力発電課が新設されたのは1955年11月1日。なぜ、木川田が『悪魔』と手を結ぼうと豹変したのか、その本意は、木川田を口説いた当人の成田でさえ『わからない』のだから捉えようがないが、その翌年1956年に入るや正力松太郎原子力委員長が陣頭に立って、第一号大型発電用原子炉導入の動きが、俄然活発になるのである。この第一号大型原子炉こそが、イギリスのコールダホール型炉で、その導入をめぐって『国家対電力会社の遺恨試合、泥仕合』がくりひろげられるわけだ。あるいは木川田は、正力委員長などの動きをいちはやく察知して、"戦争"に参加する資格、権利を得ておこうと判断したのではなかろうか」。

(私論.私見)
 九電力体制の生みの親にして「ミスター東京電力」と云われた木川田一隆が当初、原発に対して「子力はだめだ、絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と云っていたとするこの話が本当であれば、何と的確にも悪魔科学だとしてみなして導入を拒否していたと云うのだから興味深い。問題は、1953年以降の「中曽根-正力ラインによる原子力行政推進」に対する呼応ぶりにある。この経緯に何があったのか、ここが解明できれば初期原発行政の闇が解明できよう。故郷の福島に原発を集中導入し、それが2011.3.11日の三陸巨大震災時の原発事故に繫がる。木川田を原発批判者として説く佐高信・氏の木川田論は臭過ぎるのではないのか。付言しておけば、木川田は財界の中で飛び抜けた反田中角栄であったことでも知られている。この裏に「瀬島龍三―正力―中曽根―木川田一隆ライン」の動きを見てとらねばなるまい。

 2011.7.24日 れんだいこ拝

 4.12日 オッペンハイマー、水爆機密保持に疑惑を受け査問にかけられ、水爆開発非協力者として公職を解かれる。


 4.23日、日本学術会議、原子力平和利用三原則声明。この年、日本、原子核研究所設立準備委員会発足。


【第五福竜丸の被曝事件に対する米国の秘密文書】
 5.26日、米国のアイゼンハワー大統領がダレス国務長官に覚書を送り、第五福竜丸の被曝事件後の「日本の状況を懸念している」と表明、日本での米国の利益を増進する方策を提示するよう求めている。これに基づき、国務省極東局は、「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析したうえで、「原子力の平和利用を進展させる二国間、多国間の取り組みに着手し、日本を早期に参画させるよう努めるべし。放射能に関する日米交流が日本人の核への感情や無知に対する最善の治療法」等々論じる秘密文章が2011.7.23日、公開された。

 これにより、20万ページに上る原子力関連文献の日本への供与や日本人科学者の米国原子力施設視察が始まった。1955.11月以降、自治体やマスコミと協力しながら、日本各地で原子力平和利用博覧会が開催され、世論工作が周到に進められた。

 6.27日、ソ連が、世界に先駆けてオブニンスクで原子力発電を開始する。続いて1956年、英国。1958年、アメリカで運転開始されることになる。日本初の原子力発電所は、1966年、茨城県東海村でスタートする。


 8月、 第五福竜丸の被曝と、南太平洋の核実験の放射性物質が国内にまで降下したことにより、杉並区の主婦が始めた原水爆禁止署名運動が発展し、全国協議会(会長安井郁)が結成された。平和利用三原則を提唱した科学者達がこれに合流した。


 8.30日、アメリカで、原子力の民間開放を主とする新たな原子力法が成立した。これにより、機密管理規則が緩和され、アメリカ企業が外国に原子炉を輸出することができるようになった。


 9月、米国原子力委員会のマレー議員が、「広島と長崎に加えた原発による殺傷の記憶を遠ざける為にも日本への原発建設進めたいと」と提言する。


 11月、スミス国務省特別補佐官が「日本人の米国施設視察は嫌米感情を緩和する」と発言。12月、最初の海外原子力調査団が出発する。


【後の日本テレビ専務・柴田秀利の「原爆反対潰しの原子力の平和利用宣伝攻勢論」発言】
 アメリカは 日本に原子力を輸出するために‘KMCASHIR’という作戦名の心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用し始める。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, 後に服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダ「平和のための原子力」を大衆に浸透させるため、正力と親しい柴田秀利と接触させる。
 日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、
正力はCIAと利害が一致。その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(英:我、通報す)及び読売グループ全体に 「pojacpot-1」が与えられ、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルは アメリカ国立第二公文書館に残る
en:Psychological_Strategy_Board(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)。
 正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。柴田秀利は後の日本テレビの重役。元々は読売新聞社に勤めていたGHQ担当記者。敗戦後、最大の争議と言われた読売争議でGHQと連携して経営側を勝利に導いた功績が認められて、読売新聞社主・正力松太郎の懐刀として新たに設立された日本テレビに配属された。

 12.31日、後に日本テレビ専務となる柴田秀利(1917.7月-1986.11月、「CIA暗号名ポハルト」)が、東京の某所でCIA局員「ダニエル・S・ワトソン」と秘密会談し、米国の原子力導入に向けてエージェント契約している。柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げたとする歴史証言が遺されている。

 ワトソンは、次のような言を遺している。

 「日本では、新聞を押さえることが必要だと、はっきりわかっていました。それも、大きな新聞を、です。日本の社会は、新聞に大きく影響を受けます。日本人は一日に最低三紙に目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。その新聞は、当時ひとりの男によって経営されていました。その下には、決してミスをしない、優秀で従順な部下が揃っていました。ですから、この仕事で成果をあげるには、誰よりも先に正力さんに会って話をした方が良いと思いました」。

 柴田秀利は、次のような言を遺している(「柴田秀利氏のホームページ」より)。
 「(昭和29年頃、)技術立国に向かって、この遅れた、品格と見識に欠ける日本の科学技術界に、飛躍的な向上を目指させるためには、生やさしい手段では駄目だ。何としても衝撃的な手だてを必要とする。それこそはエレクトロニクスから、二ュークリオニクスへ。電子から原子への飛翔だった。原子力時代の創造に向かって、私は一目散に走り出した」。(柴田氏はテレビ時代の創造に続き、原子力時代の創造に向かって走り出した)。
 「原子力時代の創造に向かって、一目散に走り出したといっても、それは全く私自身の心の中の、あせりにあせる心象を述べたに過ぎない。日本は唯一の被爆国であり、当然こと原子力というと、たちまち人々の神経はいら立ち、怒髪天を衝く。原爆アレルギーの最たる国である。なまじっかなことで、これを受け入れる土壌ではない。その上、テレビ局がなぜ原子力にと、怪訝に思う人ばかりだった。そこで私はアメリカで聞きかじってきた耳学問をもとに、原子物理学の歴史から、予見される可能性の限りを調べ、折にふれ正力社長の説得に努めてきた。彼がようやくその重要性を理解し、耳を傾けるようになるのに、一年半以上かかった。第一のテレビ時代の創造に続いて、第二の産業革命ともいうべき、原子力時代の創造に、ようやく自ら先頭に立つ意欲に燃えさかってきた」。

 柴田秀利は著書「戦後マスコミ回遊記」(中央公論社)で次のように述べている。

 「(第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被爆する)これを契機に、杉並区の女性が開始した原水爆実験反対の署名運動はまたたくまに三〇〇〇万人の賛同を得、運動は燎原の火のごとく全国に広がった。このままほっておいたら営々として築きあげてきたアメリカとの友好的な関係に決定的な破局をまねく。ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々がつづいた。そのときアメリカを代表して出てきたのが、ワトスンという肩書を明かさない男だった。数日後、私〔柴田〕は結論を告げた。『日本には昔から毒は毒をもって制するということわざがある。原子力は双刃の剣だ。原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的にうたいあげ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない』と熱弁をふるった。この一言に彼〔ワトソン〕の瞳が輝いた。『よろしい。柴田さんそれで行こう!』。彼の手が私の肩をたたき、ギュツと抱きしめた。政府間でなく、あくまでも民間協力の線で「原子力平和利用使節団」の名のもとに、日本に送るよう彼にハッパをかけた。昭和三〇年元旦の紙面を飾る社告を出して天下に公表した」。

 柴田氏は、1986.10月、アメリカへ旅行、翌月フロリダで客死している(享年69歳)。「フロリダで客死」とはどういう意味か気になる。
 民間への取り組みとして「原子力平和利用使節団」をアメリカから招いて大宣伝キャンペーンを張ろうという作戦を考え、それに乗った アメリカのゼネラル・ダイナミックス社の社長ホプキンスだった。 同社は原子力潜水艦ノーチラス号を作成しており、アイゼンハワーの平和利用計画に熱心で、原子力の海外市場開拓を進めようとしていた。
 原子力平和利用使節団の招聘キャンペーンが行われた
1955年、ソ連は 世界発の商業用原子力発電の稼働に成功します。アメリカはまだ原発の建設をはじめた ばかりで遅れをとった為に、ソ連に対抗し アメリカは西側同盟諸国と個別に 「原子力協定」を結ぶ方針を立て 協定締結国には濃縮ウランや技術を供与 し、他方、その軍事転用を禁止することで、西側同盟諸国の原子力政策を アメリカの影響下に囲い込もうとする狙いがあったそう。
これに対抗して ソ連も中国・東欧 諸国と同類の協定を結ぶようになり、東西冷戦は東西核ブロックという様相を呈するようになった。
 正力松太郎は メディアを動員して民間人への啓蒙活動し、
政・財・学のエリートたちを結集させた。重工業、電力会社を中心に産業界は新しい安価な エネルギー源に期待を寄せ、アメリカの濃縮ウ ラン受け入れをめぐって賛否が紛糾した学者たちは 丸め込まれます。
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【正力松太郎のコードネーム=ポダムのCIA文書考】
 有馬哲夫氏が著書「日本テレビとCIA」の中で次のように記している(「唯一の被爆国が原発を導入した背後で蠢(うごめ)いていた読売新聞と日本テレビ」より)。
 ●正力はCIAに操られていたか
 CIA文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが、正力は柴田秀利が彼に送った報告書を通じて、CIAが一九五三年に柴田が一〇〇〇万ドル借款のために渡米した柴田に接触し、かつ自分のことをいろいろ聞いたことは知っていた。したがって、正力はCIAが自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていたことは承知していたといえる。しかしながら、さまざまな文書を読んでわかることは、正力は自分の会社の利益を第一に考えるが、かといって国益に反することはしなかったということだ。つまり、第一に自分の会社のためになり、第二に国益にもかなう場合はことを進めるが、自分の会社のためになるが国益に反する場合は敢えてしなかったということだ。したがって、正力が「国を売った」という事実は、今のところ見つかっていない。これからもでてこないだろう。彼は彼なりに愛国者であり、国士であり、だからこそ財界有力者や政治家の支持を受けてメディア界の大物にのしあがることができたのだろう。それに、売国奴は、アメリカの名門出身者が多いCIA関係者にも蔑まれる。柴田秀利は金でコントロールできる人間のカテゴリーに入れられていてCIAにいい扱いを受けなかった。CIAの「正式」の情報提供者にしてくれと柴田が頼んだとき、この申し出は断られている。事実、正力は一九五四年以降の原子力発電導入のときは、操られるどころか、CIAと虚虚実実の駆け引きをしている。つまり、正力は原子力導入にCIAの支援を得ることで、五年以内の商業発電を目指し、この実績をもとに総理大臣の椅子を手に入れようとしていた。CIAは正力を利用して第五福竜丸事件で高まった日本の反原子力世論を讀賣新聞と日本テレビを動員させて沈静化し、これを果たしたのちに日本への核兵器の配備を政府首脳に呑ませようとしていた。結局、CIAとUSIA(合衆国情報局)は讀賣グループの原子力平和利用キャンペーンには手は貸すものの、アメリカ政府は原子炉の日本への輸出は渋った。日本やドイツのような科学技術の水準が高く、かつ敵国だった国には原子力平和利用の支援をひかえるというのが方針だった。その一方でイランやパキスタンやインドなどは積極的に支援した。今日、これがアメリカの頭痛の種になっているのは皮肉だ。アメリカの態度に業を煮やした正力は、讀賣新聞を使ってアメリカの外交を批判し、かつイギリスから原子炉を購入することを決めてCIAを激怒させた。(それでも実験炉はアメリカから購入して抜け目なくバランスをとっている) 

 このような事実に照らしてみると、正力はCIAに操られていたというより、少なくとも原子力導入の時期は、CIAと互角にわたりあっていたというほうが正しいといえる。正力とCIAの関係は、持ちつ持たれつの、不思議な共生関係であって、どちらかがどちらかを支配するという関係ではなかった。終戦直後、巣鴨プリズンに押し込められていた時期の正力とGHQ(とりわけGII)の関係とは明らかに異なっていた。それにしてもCIAやUSIA関係者は、正力のたかり根性には往生していた。正力は上院外交委員会(およびその顧問のホール・シューセン)にはマイクロ波通信網を、CIAには原子力発電所とカラーテレビをただでくれとしつこくねだった。結局、最後のものだけはCIAからもらえたが、他のものはだめだった。とはいえ、正力は原子力発電所をねだるときでさえ、マイクロ波通信網はもういらないとは決していわなかった。カラーテレビをねだるときでさえ、タイのテレビと放送網と提携するためにやはりマイクロ波通信網が必要だといっている。また、何でも自分の手柄にしたがり、原子力平和利用博覧会の成功も自分のおかげだと大いばりして、費用と労力をほとんど負担したUSIAの関係者をうんざりさせた。にもかかわらず、どことなく憎めないやつだとUSIA、CIA関係者に思われていたふしがある。自分の欲望や感情に素直で、大物にしては人間としてわかりやすく、ナイーヴですらあるからだ。あのジャガイモに目をつけたような顔で子供じみた自画自賛とおねだりをやるのだからアイヴィーリーグ出身のエリートたちはついつい警戒をゆるめてしまうのだ。しかし、CIAにとって正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない油断のならない人間だった。この意味で正力は吉田や鳩山や岸よりも手ごわかったといえる。正力の持つ讀賣新聞や日本テレビに対する影響力を利用するためにCIA関係者は正力が死ぬまでこの「タフ・ネゴシエイター」といろいろ取引しなければならなかった。これまでゆがめられ、矮小化されてきた正力像、とくに柴田の私怨によって捏造された正力像は改められてしかるべきだろう。「プロ野球の父」「テレビの父」「原子力の父」がこれまで書かれてきたような卑小な人物であるはずがないではないか。これだけの多く偉業をなし得た人物は日本の現代史ではほかに見当たらない。アメリカに利用されたというかも知れないが、占領期とそれに続く時代では、そうすることによってしか歴史に残るような大業はなしえなかった。吉田茂とて同じではなかったか。だが、吉田を評価するにせよ、批判するにせよ、彼が歴史的に大きな役割を果たしたということは否定しないだろう。正力の場合も同じだ。少なくとも私にとって正力は昭和の傑物のナンバーワンだ。いろいろ調べてみてこれほど面白い人物はない。ただし、彼が生きていたとして、彼の下で働こうとは金輪際思わない。
(私論.私見)
 正力評はいろいろにされようが、CIAスパイ暗号名・ポダムとして登場するところにすべてが語られている。これによれば、正力が「CIAスパイ暗号名・ポダム」であることは疑いない。しかしここで止まるなら子供の評でしかない。大人の評になると、正力のCIAスパイ暗号名がなぜ漏洩されたのかを問う。窺うべきは、CIAスパイ暗号名を露見された正力は案外重要性が低かったか完全に用済みされたかのどちらかであろう。本当に問うべきは、更に問うべきというべきか、CIAスパイ暗号名が未だ露見されない岸、三木、中曽根、小泉の方であろう。こちらの方のエージェント活動の方がさらに悪質故に秘せられていると窺うべきだろう。あぁだがしかし、岸、三木、中曽根、小泉のマスコミ評、評論家評は概ね好評であり、世間の多くはそれに合わせて口パクしている。この仕掛けが分からないと政治評論なぞできゃしない。
 
 2013.7.9日 れんだいこ拝

1955(昭和30)年の動き

【読売新聞が原子力平和利用に向けての啓蒙キャンペーンを猛烈に展開し始める】
 1955(昭和30).1.1日、読売新聞が、原子力の平和利用に向けての米国の新たな啓蒙キャンペーン「平和のための原子力」プログラムを展開する。1月、アメリカ政府が日本政府に対し、実用原子炉建造に向けた技術援助を提案。

 正力松太郎と柴田秀利が、「反核感情が高まるもとで原子力発電を導入するために『毒をもって毒を制する』大キャンペーンを展開」した。元旦の読売一面には、紙面の四分の一を占める社告が掲載され、「の原子力平和使節 本社でホプキンス氏招待 日本の民間原子力工業化を推進」の見出しで、「本社では新しい年に当たり、原子力が工業化と経済界への時代に来ている世界の動きを一歩進めるために、日本原子力工業化を具体的にどうするか真剣に取り上げる」と述べている。10面では、京都大学教授湯川秀樹、一橋大学学長中山伊知郎、富士製鉄社長永野重雄、作家長与善郎らの座談会を特集し、「原子力管理と夢物語」の見出しで意見交換を載せている。2日は休刊日。3日には社会面トップで「ウラニウム・ラッシュ わきかえる福島県”石川山” 荒地反当り30万円 学生まで繰り出し宝探し」の記事、4日は二面で、「”原子力時代を探る”英に球体発電所 平和利用も実現段階へ」と三日連続で、原子力平和利用の記事をたたみかけた。8日は社会面トップで、「原子力の年・各界の声をきく」の見出しで特集。立教大学理学部武谷三男、電源開発総裁小坂順造、日本動力教会会長安川第五郎らが意見を述べている・・・。10日の一面トップは、「原子力平和利用への道 国司あ科学者会議に期待 全世界の福祉へ協力」、同日の社会面トップは、「原子力時代 ”電気の鬼”松永安左ヱ門さん語る 各国にヒケをとるな 事業化も10年後」の記事を掲載している。以後、「広島に原子炉 建設費2250万ドル 米下院で緊急提案」、「米国内を洗う原子力革命の波 資本家も”発電”に本腰」、「原子力平和利用 日本でも始まっている ”静かな革命”を工場に見る」などキャンペーン記事を連載した。

(私論.私見)

 読売新聞が原子力平和利用に向けての啓蒙キャンペーンを猛烈に展開し始めたのは、ビキニ事件」で原水禁運動が盛り上がるさ中であった。後の日本テレビ専務・柴田秀利の「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」(「原爆反対潰しの原子力の平和利用宣伝攻勢論」)通りに、俗にいう「ピンチはチャンス」、「毒をもって毒を制する」とばかりに逆攻勢を仕掛けていることになる。これが原発推進魂と云うことになる。これを仮に「原発推進DNA」と命名しておく。この体質が2011(平成23)年の福島原発事故後の原発再稼働の動きに重なってくることになる。即ち原発の安全性神話の虚構が剥げれば剥げるほど逆攻勢に向かうことになると云う意味で見逃せない。

 2013.7.8日 れんだいこ拝

 1.15日、読売新聞が、設立予定の国際原子力機関にソ連とイギリスが原子力発電に関する情報の提供を申し出ている事を報道する。


 2.27日、第27回衆議院総選挙が行われた。この時、正力が富山2区から出馬し初当選した。


 4.29日、正力が、原子力平和利用懇談会の立ち上げを宣言し、自ら会長に納まる。5.9日、アメリカの原子力平和利用使節団が来日すると、正力がテレビを中心に大々的なキャンペーンを張る。


 5月、米国から原子力平和使節団を招き、日比谷公会堂で読売新聞主催の原子力平和利用大講演会を開き、読売新聞社社主の正力松太郎は次のように挨拶した。

 「いまや世界は原子力平和時代になり、欧米では平和利用で競争している。日本は原爆の大悲劇を経験、原子力への恐怖に念に襲われるのは無理もない。しかし、日本こそ原子力を平和に利用することが切実である。なぜなら日本は土地が狭く人口が多い・・この国民生活の安定を図るには、原子力の偉大な力によるしかない」。

 6月、日米原子力協定が成立し、アメリカからの濃縮ウランを受け入れる。アメリカは1958年までに39カ国と原子力協定を結んで、西側核ブロックを作りあげる。

 この頃、政界大変動が発生しており、原子力導入が微妙にこれに連動している。概要は、「戦後政治史検証」の「1955年」に記す。


【中曽根ら4党議員団が、国連が主催する原子力平和利用国際会議に参加】

 8.8.日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際会議が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての精神国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。

 四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9.12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は次のような声明を発した。

 「1・.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと。2・.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること」。

 その他を含めていわゆる5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。


 10.4日、日本新聞協会は、毎年秋の新聞週間に合わせて1948年の第1回より標語を発表していたが、1955年の第8回新聞週間の標語に「新聞は世界平和の原子力」とした(毎日新聞東京本社科学環境部記者の元村有希子さん(1966年生まれ)の原稿)。


【「原子力平和利用博覧会」開催】
 11.1日、「原子力平和利用博覧会」が、東京日比谷公園で開催され、連日長蛇の列となった。読売新聞社主正力松太郎の側近だった柴田秀利によると、費用は「一切向こう(米国)持ち」だった(柴田「戦後マスコミ回遊記)。展示の目玉は、実物大の原子炉模型や、人間の手の動きを壁越しにそのまま再現する「マジック・ハンド」など。

 有馬哲夫「原発・正力・CIA」(2008年 新潮社124頁)によると、CIA文書に次のように記されているとのこと。
 「展示してある小型の原子炉を購入したいので、今すぐ手配しろとほとんど命令を下すかのように正力がいったとする記述さえ出てくる。何に使うのかとたずねると、自宅に持って帰って家庭用の発電に使うと答えた」。

 12.12日、42日間の会期を終え、総入場者数は36万7696人に登った。会場でのアンケートでは、原子力の平和利用が社会の幸福を増進するか、という問いに対し、92%が「増進する」と回答している(12月2日付読売新聞夕刊)。

 原子力平和利用博覧会は1956.1月以降、名古屋、京都、大阪で開かれた。京都、大阪会場の主催は朝日新聞大阪本社。立教大教授井川充雄(46)が確認した京都での開催に関する米報告書は、共催者に大阪朝日を選んだ理由について「もっとも影響力のある新聞社だから」と説明している。その後57.8月までに他の7ヵ所を巡回している。中国新聞、西日本新聞、北海道新聞など各地の有力紙が主催、後援した。博覧会は3年間わたって全国地方会場20箇所で行われた。

 驚くべきことに、この原子力平和利用博覧会は、1956.5月に広島の平和祈念資料館(通称・原爆資料館)でも開かれている。平和利用ということで、反対する声を封じ込めての開催となった。

【原子力利用準備委員会が方針を打ち出す】
 11月、原子力利用準備委員会が、次の方針を打ち出した。
 日米原子力協定に基く輸入第1号原子炉を、ウォーターボイラー型研究炉とする。
 輸入第2号炉はCP-5型研究炉とする。
 関西方面の原子力研究に資するため、輸入3号炉としてはスイミングプール型研究炉を考慮する事。
 これと並行的に国産原子炉が摂家委員会に於いて提案された国産第1号原資炉(天然ウラン重水型)を1959年までに建設する事。

【原子力基本法成立、正力が初代委員長に就任】
 11.15日、自由党と民主党が合同し自由民主党が結成される。「自由民主党立党宣言」と共に「党の政綱」を発表し、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。

 11.22日、博覧会開催中、自民党政権としての第三次鳩山内閣が成立した。この時、両院原子力合同委員会委員長を務める中曽根康弘が自由民主党副幹事長に就いた。中曽根は自由民主党憲法調査会理事も兼務していた。2月に国会議員になったばかりの正力松太郎が北海道開発庁長官、科学技術庁長官に抜擢された(日本テレビ社長、読売新聞社主は辞任)。「中曽根・正力コンビ」が、50年代前半の原子力政策を牽引することになる。これは強力な政治主導で行なわれた。

 12.19日、 正力が科学技術庁長官に就任した直後のこの時期、日本政府は、学術会議の要請を受けて平和利用三原則を盛り込んだ原子力基本法を保革全議員の署名を得て議員立法として成立させた。(1955.12月、原子力基本法成立)

 原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論操作があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を喧伝した。

 正力が12月21日付朝日新聞(編集委員・上丸洋一)のインタビューに、こう答えている。
 「(原子力開発への)反対論がほとんどなくなったのでよかったと思っている。(略)"知識を広める"ということは非常に大切だと思うし、新聞の使命もそういうところにあると思うね」。

 12月、藤岡由夫を団長とする初の調査団が欧米の原子力事情調査のため出発し、翌1956.3月に帰国する。


 12月、日本原子力研究所の用地選定が始まる。経済企画庁が、「関東地方の国有地で、約50万坪の広さを持つところ」が要件とされ、約20箇所の候補地が挙げられていた。国会の原子力合同委員会メンバーの中曽根の地元、群馬県高崎や、同じく委員の志村茂治(社会党)の神奈川県武山が誘致運動を始めた。原子力委員会は、最終的に「武山を第一候補地とする」と政府に報告した。


1956(昭和31)年の動き
 この年、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動燃事業団に統合)が設置されている。

【原子力委員会が発足し、初代委員長に正力松太郎が就任】
 1956.1.1日、原子力行政の最高審議機関となる総理府原子力委員会が発足し、初代委員長に正力松太郎が就任した。委員は湯川秀樹、石川一郎(経団連会長)、藤岡由夫、有沢広巳。1.4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。1.5日、第1回原子力委員会が開催された。(1956.1月、原子力委員会が設置される。初代委員長は正力松太郎)

【正力が衆院選に初当選】

 1956(昭和31).4.5日、自民党第2回臨時党大会が開かれ、鳩山が正式に初代自民党総裁に選出された。正力は一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。


 4.6日、鳩山政府が、原子力委員会報告に「再考を促す」と返答し、覆す。結果的に一転して茨城県の東海村に決まった。


【通産省工業技術院に原子力課新設】
 4月、通産省工業技術院に原子力課が新設される。経団連は、「原子力平和利用懇談会」(藤原銀次郎会長)を発足させ、財界も原子力利用調査に乗り出す。5月、藤原調査団が報告書を提出し、天然ウラン重水型の多目的原子炉の建設と、ウラン・重水・黒鉛の国産を提言した。

【原子力研究所の敷地選定騒動】
 1956年における原子力研究所の敷地選定の際、神奈川県横須賀市武山、茨城県東海村、群馬県高崎市、群馬県岩鼻村の四か所が候補に上がった。以下、佐野真一「巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀」(1994年 文芸春秋p550) )に次のように書かれている。
( 魑魅魍魎男氏の2015 年 1 月 17 日付け投稿「1955年 原子力平和利用博覧会 正力松太郎は展示の小型原子炉を見て自宅用に1台手配しろと言った」)
 「このうち高崎は、原子力予算を最初に提案した中曽根康弘の地元ということもあって、すさまじい誘致運動が繰り返された。高崎市の町なかには「歓迎原子力研究所」の横断幕がいくつも垂れさがり、誘致促進陳情団が、連日のように、バスを連ねて上京した。原子炉から出るアイソトー プを県内の公衆浴場などに無料で提供すれば、群馬は“原子力温泉”のメッカとして一躍観光化される、というのが、この運動の音頭をとった中曽根の持論だった」。

【原子力三法が成立する】
 5.4日、原子力三法(日本原子力研究所法、核原料物質開発促進臨時措置法、原子燃料公社法)が施行されている。

【正力が科技庁長官に就任し、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にする】

 5.19日、科学技術庁発足。正力は、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。

 正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。


 6.23日、イギリスが、コルダーホールの第1号原資炉が商業発電に入る。


 6.15日、日本原子力研究所が茨城県東海村に設置され発足する。(1956.6月、日本原子力研究所が茨城県東海村に設置される) 8.10日、原子燃料公社設立。後の1967.10.2日、動力炉・核燃料開発事業団(「動燃事業団」)が発足し統合される。


 6月、日米原子力協定が締結され、米国から原子炉と濃縮ウランが提供される道が開かれた。米国は日本に提供するウランについて「いかなる場合にも、U235を最大限20%まで濃縮したウランの中に含まれるU235の量において6キログラムを超えないものとする」(第三条A項)として兵器転用に歯止めをかけていた。


 8月、運輸省も原子力船建造に意欲を見せ、同じ頃、三菱金属鉱業の高橋孝三郎を理事長に原子燃料公社が設立された。この原子燃料公社が後の動燃の母体となる。


【日本原子力産業会議設立】
 この年、日本原子力産業会議設立。解体されていた戦前の財閥各社が原子力に群がり完全に甦った。日本の原子力開発が始まった。

 1956年までの政府の方針は、米国の裏指示と協力を得ながら、ウランと原子炉の開発を目指して行った。原子燃料公社は精力的に国内のウラン鉱の探査を行ない、原子炉開発は東海村の原子力研究所(原研)の研究者の手に委ねられた。そこには平和利用三原則を基本法に盛り込むことに奔走した科学者達が結集した(「」参照)。


1957(昭和32)年の動き

【1957年、岸政権時代の原子力政策】

 自民党政権は、鳩山から石橋湛山に移り、更に1957.2.25日、岸第1次内閣が誕生した。4.26日、岸首相は、政府見解として「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5.7日、岸首相は、参議院の質疑で、「自衛権の範囲内であれば核保有も可能で合憲」であると発言し、これがその後の日本政府の統一見解として確定した。

 1957.6月、岸内閣が、長期防衛計画を策定し、超音速ジェット戦闘機を1958年から5ヵ年計画で300機、国内でライセンス生産することを決定した。

 7.10日、岸が内閣改造し、正力が再び原子力委員長、科学技術庁長官、国家公安委員長に就任した。JRR-1が日本に初めて原子力の灯をともす。

 7.29日、国際原子力委員会が発足し、日本が理事国になる。12.7日、JRR-1で、国産初のアイソトープが生産される。


 10.4日、ソ連が、人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功する。11.3日、ソ連が、1号の6倍の重量を持つスプートニク2号を打ち上げ、宇宙開発をアピールした。「スプートニク・ショック」と云われる。

【日本原子力発電㈱設立】

 11月、電力各社が出資する国策会社である日本原子力発電㈱(資本金40億円、電源開発㈱20%、民間80%出資、社長安川第五郎)が設立され、原子力委員会の決定に基づく発電用原子炉の導入を推進に向かった。電力9社はそれぞれ原子力発電計画の策定に入った。日本原電は、東海村にガス冷却黒鉛炉であるコールダーホール型原発と、敦賀にBWR型原子炉を建設して、受け皿としての役割を終えることになる。

 これにつき、吉岡斉・氏が「脱原子力のための社会史」(「東電・原発おつかけをマップ」)文中で次のように述べている。

 「57年、日本の原子力政策で最初に商用炉の導入を図る際、政界では国家管理論(国管論)と民営論の対立が起った。商用開発の国管論を唱えたのは河野一郎で、民営論の主導者は正力松太郎だった。つばぜり合いの末、勝ったのは正力の民営論だった。これにより日本最初の商用開発は民間電力会社が80%を出資し政府が20%を出資することになった」。

【茨城県東海村で日本初の原子炉稼働開始】
 この年、茨城県東海村で日本初の原子炉の稼働が開始する。

1958(昭和33)年の動き

【1958年、岸政権時代の原子力政策】

 1958.正月、岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を次のように述べている。

 「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」。

 6.12日、岸首相が第2次岸内閣を組閣する。自民党政調会長の三木武夫が、経済企画庁長官、科学技術庁長官となり、原子力委員長にも就任した。

 6.16日、日英・日米原子力協力協定が調印される。

【三木武夫が2代目原子力委員長にも就任】
 6.12日、岸首相が第2次岸内閣を組閣する。自民党政調会長の三木武夫が、経済企画庁長官、科学技術庁長官となり、原子力委員長にも就任した。

 6.16日、日英・日米原子力協力協定が調印される。
(私論.私見)
 三木武夫が原発推進の旗振りとして登場していることがもっと知られて良い。この御仁が「国際ユダ邪」の重要なエージェントである証左の一つとして受け取るべきだろう。

【日本テレビがディズニーの原子力推進プロパガンダ映画「わが友、原子力」(Our Friends The Atomic)を放映】
 この年、日本テレビがウオルト・ディズニー制作の「わが友、原子力」(Our Friends The Atomic)を放映した。

 科学映画「わが友、原子力」は、ジェネラル・ダイナミックス社とアメリカ海軍の命を受けたウォルト・ディズニーが制作・出演している原子力推進プロパガンダ映画である。1957.1.23日、アメリカABCテレビで放映された。原子力はアラジンの魔法のランプの魔人のような夢のエネルギーだと宣伝する映画の冒頭でウォルト・ディズニーは潜水艦ノーチラス号と原子力潜水艦ノーチラス号の模型を手に観客に語りかけている。原子力は使い方を誤れば破滅をもたらすが賢明に用いれば人類に幸福をもたらすと結んでいる。

 「『わが友原子力』という原子力推進プロパガンダ番組をつくったディズニーー東日本大震災の歴史的位置」は、「わが友、原子力」の登場経緯につき次のように記している。
 「そして、アメリカの国内世論向けのPR活動も必要としていた。そのために起用されたのがウオルト・ディズニーであった。アメリカ政府の情報局次長であったウオッシュバーンは、アイゼンハワー大統領に1955年12月20日に宛てた書簡の中で、『アトムズ・フォー・ピース』のアニメーション制作について、海外でもっとも動員数をほこるディズニーと交渉を始めたことを報告している。そして、『わが友原子力』が制作された。ただし、上記の映像をみればわかるように、全部がアニメーションではなく、実写とアニメーションを交えたものであった。スポンサーはアメリカ海軍と世界最初の原子力潜水艦ノーチラス号(1954年進水)を建設したジェネラル・ダイナミックス社であった。なお、有馬は映画といっているが、この映像は、冒頭で述べたようにABCテレビの番組であった。ABCでは、1954年からディズニー制作のディズニーランドという番組を放映していた。『わが友原子力』はそのコンテンツの一つである」。
 「映画では、冒頭の場面のあとにディズニーの大ヒット映画『海底二万哩』からとった映像が続いていく。この映画に登場する潜水艦もノーチラス号というが、これは偶然ではなく、ジェネラル・ダイナミックス社がこの映画の原作になったジュール・ベルヌの同名の小説にでてくる無敵の潜水艦にちなんで名づけたのだ。(有馬前掲書p145) 続いて、ディズニー自身が登場し、映画『海底二万哩』の潜水艦ノーチラス号の模型と、原子力潜水艦ノーチラス号の模型を比較してみせる。あまり私は英語をききとれないのであるが、ディズニーは、ディズニーランド(遊園地)の「未来の国」のプログラムとして潜水艦を取り上げることを予定していたようで、デザイナーにアトラクションのデザインを何枚か提示させている。

 そして、次に、原子力を専攻している科学者ハインツ・ハーバー博士が登場し、以後、原子力について解説していく。有馬はその内容を次のようにまとめている。

 「このなかでホストを務めるウオルトは(なお、実際に解説しているのはハーバー博士であるー引用者注)、原子力をアラジンの魔法のランプの精になぞらえ(なお、この精は千一夜物語に出てくるものであるが、アラジンの魔法のランプの精ではないー引用者注)、その力を発見した古代ギリシア人、キュリー夫人、アインシュタインなどを紹介しながら、それがどんな力を秘めているかをわかりやすく解説していく。そして、核兵器のほかに、潜水艦、飛行機、発電所の動力、また放射線治療や農作物の成長促進などにも使われている例をあげていく。最後に、この力は賢明に用いれば人類に幸福をもたらすが、使い方を誤れば破滅をもたらすと結んでいる」(有馬前掲書p144)。

 有馬は、別の箇所で、『わが友原子力』の結びの言葉をより正確に紹介している。
 「使用目的によっては、原爆ー死の灰という恐るべき原子力も、平和利用の開発により原子力の三つの願いである力と有益な放射能と生産力を人類にもたらす我々のすばらしき友人である」(有馬前掲書p207)。

(私論.私見)

 ウオルト・ディズニーが原発推進の旗振りとして登場していることがもっと知られて良い。
 (有馬哲夫・著 新潮新書)「原発・正力・CIA」の「科学プロパガンダ映画「わが友原子力」 (p.141)。

 日本で「原子力平和利用博覧会」が企画されていた頃と前後して、合衆国情報局次長のアボット・ウォッシュバーンが原子力平和利用の国内向けのPR作戦を練っていた。 (中略) ウォッシュバーンが考えたのは「アトムズ・フォー・ピース」をわかりやすく解説した科学映画を作り、これをテレビ放送しようというものだった。彼は1955年12月20日にアイゼン ハワー大統領に宛てた書筒のなかで「私たちはアトムズ・フォー・ピースのアニメーションについてウォルト・ディズニーと友好的な話合いを持ちました。ちなみにディズニーの海外での顧客数は、どの同業者のそれを凌ぎます(合衆国情報局文書)」と記している。 (中略) ウォッシュバーンは世界中で十数億の人々の心を掴んでいるディズニーに目をつけた。ディズニーならば、そのイマジネーションによって、プロパガンダくささを感じさせずに原子力の平和利用がもたらす明るい未来を描いてくれるだろう。核兵器を連想させる原子力の暗い負のイメージをアニメーションによって滅殺して、神秘的で素晴らしい力を秘めたものとして印象付けてくれるだろう。そう考えたのだ。 (中略)

 「わが友 原子力」は、現在「ディズニー・トレジャーズトモロウランド」というDVDのなかに収められている。このなかでホストを務めるウォルトは、原子力をアラジンの魔法のランプの精になぞらえ、その力を発見した古代ギリシャ人、キューリー夫人、アインシュタインなどを紹介しながら、それがどんな力を秘めているのかをわかりやすく解説していく。そして、核兵器のほかに、潜水艦、飛行機、発電所の動力に、また放射線治療や農作物の成長促進などにも使われている例をあげていく。最後に、この力は賢明に用いれば人類に幸福をもたらすが使い方を誤れば破滅をもたらすと結んでいる。 (中略) いずれにせよ、この「わが友原子力」が日本でも連鎖反応を起こし、それが日本の大衆文化に大きな影響を与える事になる。


 (有馬哲夫・著 新潮新書)「原発・正力・CIA」の「東京ディズニーランドへの道」 (p.218)。  
 皇族も利用したこの宣伝の効果も大きかったためか、元旦という1年で最高の時間枠だったためか、「わが友原子力」の放映は大成功を収めた。(中略) ディズニーと読売グループとの関係はこの後も続く。1961年、京成電鉄の川崎千春は浦安沖の埋立地にディズニーランドを建設する構想を抱き、ディズニー・プロダクションズと交渉するためアメリカに渡った。「「夢の王国」の光と影-東京ディズニーランドを創った男たち」によれば、このとき彼とディズニーの間の仲介の労をとったのは正力だったという。(中略)「わが友原子力」の放送に始まる連鎖がなければ、あるいはノーチラス号の進水に始まる連鎖がなければ、テレビ番組「ディズニーランド」も東京ディズニーランドもなかったかもしれない。

1959(昭和34)年の動き

【1959年、岸政権時代の原子力政策】

 1959.3.2日、岸首相は、参議院予算委員会で、「防衛用小型核兵器は合憲である」との判断を明らかにした。


 5.12日、昭和天皇が東京・晴海で開催中の「第3回東京国際見本市」を天覧し、見本市の目玉であったアメリカ出展の実験用原子炉を覗く。

1960(昭和35)年の動き

【1960年、岸政権時代の原子力政策】
 1960年(昭和35年)1月、茨城県東海村で建設工事が開始され、1965年5月に1号炉が初臨界に達した。

 1960年の安保騒動の最中、岸政権は、核兵器保有は合憲との判断を政府見解として確立した。

 「自衛のための必要最少限度を越えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。したがって、右の限度に止まるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」。


【1960-64年の池田政権時代の原子力政策
 1960(昭和35).7月、原子力委員会は、原子力開発利用著紀計画の基本方針を決定した。9月、日本原子力産業会議が、原子力産業開発に関する長期計画を決定した。

 1961(昭和36).2月、原子力委員会は、初めての総合計画となる「原子力開発利用長期計画」を公表し、1961年から70年の10年間に百万kWを建設する現実的目標を打ち出した。

 1962(昭和37).8月、原子力委員会が、動力炉専門部会を設置し、国産動力炉としての炉型の開発体制の検討を開始した。

 1963(昭和38).7月、正力は、池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。佐藤はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。

 同8月、日本原子力船開発事業団が発足した。
 同10.26日、アメリカの原子力プラントメーカー/ゼネラル・エレクトリック(GE)と日本のメーカーが、茨城県東海村の日本原子力研究所の共同で造った動力試験炉を使って初めての試験発電が成功した。12.55MWの動力試験炉を用いて2000kWの発電に成功する。これにより10月26日が原子炉が最初に作られた記念の「原子力の日」になる。
 同12月、通産省の総合エネルギー調査会が、「今後のエネルギー政策のあり方」報告書を発表し、その中で原子力発電を将来安価且つ安定供給できるエネルギー源と評価し、将来に備えて積極的な開発をすべしと提言した。

 1964(昭和39).8月、第3回原子力平和利用会議がジュネーブで開催され、米国政府及びGE、WHなどの米国企業の代表が、商業原子力発電の時代が到来したことをキャンペーンした。且つ刻に於ける新型転換炉、高速増殖炉の開発の進展振りが明らかにされ、日本の動力炉開発への取り組みが急がれることになった。

【1964-66年の佐藤政権時代の原子力行政】

 1964.11.9日、佐藤栄作が、病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受け首相に就任する。佐藤首相は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言し第一政策課題と位置づけた。同時に、日本の原子力政策を大きく転換させることになる。

 1965.1月、佐藤首相が訪米し、ジョンソン大統領との会見の後、別室でラスク国務長官や椎名悦三郎外相らとアジア情勢の協議に合流した。この時、ラスク国務長官からから、「中国が核武装したことに日本はどのように対応するか」と問われ、次のように答えている。

 概要「日本人は日本が核を持つべきではないと思っている。一個人として佐藤は、中国共産党政権が核兵器を持つなら、日本も持つべきだと考えている。しかし、これは日本の国内感情とは違うので極めて私的にしか言えないことだ」(2001.9.23日付け朝日新聞)。

 1965(昭和40).5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、11月に初の送電に成功した。1965年から日本の原発による電力供給が始まり、日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。

 8月、佐藤首相は、戦後の首相として始めて沖縄の土を踏み、沖縄返還の決意を内外に示した。この時、「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終らない」との名せりふを残した。当時のマクナマラ国防長官は、「問題は返還ではなく米軍基地にある」(「楠田實日記」・中央公論社)と発言し、中共の脅威に対する沖縄基地の役割を強調し、施政権の返還は容認しつつも核を含めて基地の存続を強く求めた。佐藤首相は、沖縄が返還されれば国内法と日米安保が沖縄においても適用されることになるとして、「核抜き、本土並返還」を国民に約束した。他方、もし米軍が沖縄から撤退すれば日本は独自に核武装する道を選択肢として残していた。

 1966(昭和41).1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。
 沖縄返還交渉を始めるその最初の段階で、佐藤栄作は日本の核武装を外交カードとして使ったことになる。そして、これが単なる“はったり”ではなかったことも後に明らかになる。当時のアメリカ政府は日本の核武装を容認してはいなかった。
 1965(昭和40).5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、11月に初の送電に成功した。日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。

 1966(昭和41).1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。

 ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。

 1966(昭和41).4月、原子力発電の第2番目として、敦賀発電所(BWR型)に設置許可が下りた。6月、原子力委員会は、動力炉開発のため臨時推進本部を設け、高速増殖炉及び新型転換炉の開発をスタートさせた。9月、東海発電所が営業運転に入った。9月、日米原子力協力協定が改定され、三菱、日立、東芝などが燃料製造プラントの建設準備に入った。12月、関西電力の美浜発電所1号炉、東京電力の福島第1号炉の設置許可が下りた。


【1967年の佐藤政権時代の原子力行政】

 1967(昭和42).4月、原子力開発利用長期計画が改定され公表された。5月、東芝、日立、GE社合弁の核燃料加工会社が発足した。9月、電力7社及び原子力発電が、カナダとウランの長期購入で合意した。10月、原子力発電東海発電所が営業運転を開始した。

 1967年の秋深い頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。


【1968-72年の佐藤政権時代の原子力行政】
 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素50」の魑魅魍魎男氏の 2018 年 12 月 14日付投稿「ドキュメンタリー映画「黎明 -福島原子力発電所建設記録」 (日映科学映画製作所) 」。
 NPO法人科学映像館が、福島第一原発建設のドキュメンタリー映画「黎明」をネットで公開しています。非常に貴重で興味深い内容ですのでぜひご覧下さい。(YouTubeと科学映像館への2つのリンクを載せておきます)
 福島第一原発は当時の東電副社長・木川田一隆が、友人の木村守江・衆議院議員(のちに福島県知事)に大熊町、双葉町の地域振興を頼まれ、建設地を決めました[1]。この映画では福島第一は徹底的に地質などの調査をした上で建設されたように描かれていますが、調査はあくまでも後追いでした。もちろん近くを双葉断層が走っていることは当時は知られていなかったし、その存在を知っていたところで御用地質学者が「問題なし。安全」と判定したことでしょう。信じられないことですが、地震・津波が多発するにもかかわらず、日本では科学を無視し、政治・経済最優先で原発建設地を決めてきたのです。その結果、1日400トンも地下水が流れ込むような土地に原発を建設してしまい、事故を起こして汚染水の処理に困り果てているわけです。当時はパソコンはもちろん携帯用電卓すらない時代でした。コンピュータで簡単に部品を設計したり構造・強度解析をすることは夢の夢、空想科学小説の中だけでの話でした。そういう時代に設計された原発を、寿命をとっくに過ぎているのにもかかわらずいまだに無理矢理稼働させているわけです。大事故が起きないほうが不思議です。他にも何本か貴重な映像がありますので、あわせてぜひご覧下さい。いかに国民が「放射能安全教」に洗脳されていったか、よくわかるでしょう。

 「黎明 -福島原子力発電所建設記録」 日映科学映画製作所1967年製作
 https://www.youtube.com/watch?v=Ayh_PveSU6g
 http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/350/
 製作:日映科学映画製作所 企画:東京電力 1967年 カラー 26分

 東京電力では、福島県双葉郡双葉町および大熊町にまたがる敷地に原子力発電所を建設することとし、1号炉について昭和41年12月に設置許可を得た。原子炉にはBWR(沸騰水型原子炉)が採用され、変更後の熱出力は138万キロワット(変更前122万キロワット)、電気出力は46万キロワット(変更前40万キロワット)である。燃料装荷は同45年6月、運転開始は同年10月と記載されている。本作品は、発電所建設が認可されてから建設までの2年半における調査の記録である。建設予定地の地質や地層、燐接する海など、あらゆる調査の模様が記録されている。」

 「黎明-二部 建設編-」 日映科学映画製作所1971年製作
 https://www.youtube.com/watch?v=sWnMsOPYv60
 http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/4319/
 製作:日映科学映画製作所 企画:東京電力 1971年 カラー 29分56秒 

 第一部調査編を制作した1960年から4年後、この第二部建設編は一号機46万キロワットが完成した1971年に制作された。その冒頭には「太平洋に臨みの断崖が切り立つ福島県の東海岸。この広い台地に輝かしい夜明けが訪れました。東京電力福島第一原子力発電所の建設です。」とある。安全に対する細やかな配慮や地元との協力体制、そして原子炉内部や原子炉立屋の建設も順を追って記録している。そして、さらに燃料の装填から稼動に至るまでを丁寧な解説とともに映像化している。福島第一原子力発電所の建設から発電開始に至る貴重な映像資料でもある。しかしこの作品は放映中の映画を再度カメラで録画したものしか残っておらず、最悪の映像画質となっている。残念なこと」

 「目でみる福島第一原子力発電所」 日映科学映画製作所1991年製作
 https://www.youtube.com/watch?v=aIPVWO1_mSE
 http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/4275/
 製作:日映科学映画製作所 企画:東京電力 1991年 カラー 23分55秒 

 「福島の原子力」が製作された1977年から14年後の1991年に、東京電力広報室の企画で製作された。福島第一原子力発電所現地に訪れた人々を対象に作られた映画である。原子力発電の仕組みはアニメーションで解説されており、そのあとに続く建設についての解説は、「黎明第二部」でも使われた映像をもとに構成されている。さらに進めて発電所に勤務する人たちの仕事にも触れ、安全を担う作業員の訓練センターについても、詳しい映像を混じえて解説している。この映画の配信は必ずしも好ましくない。しかしこの内容は国策として行われてきたことであり、目を背けるべきでない。負の遺産を保管することも科学映像館の責務であると判断し、配信する。」

 「福島の原子力」 日映科学映画製作所製作
 https://www.youtube.com/watch?v=fe-ONozhpSA
 http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/365/
 製作:日映科学映画製作所 企画:東京電力 1977年 カラー 27分

 1966年12月から建設が開始された東京電力の原子力発電所。原子力発電の仕組みや建設工程を詳細に記録した劇場上映用映画。この時代に映画館でさかんに上映されていたことが伺える。この作品は、埼玉文化振興基金助成金によりデジタル化、配信しています。」

 「原子力発電の夜明け」 東京シネマ1966年製作
 https://www.youtube.com/watch?v=ryPVHqrqRG4
 http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/87/
 「製作:東京シネマ 企画:第一原子力産業グループ 1966年 イーストマンカラー 40分

 わが国初の原子力発電所-東海村の日本原子力発電第一号炉の5カ年にわたる建設の記録です。人類は、野生の火を制御して第1のエネルギーを握って以来、次々に新しいエネルギーを求めて進歩し、ついには原子力を破壊ではなく、建設のエネルギーとして手に入れました。この原子力発電所建設の過程を詳細に追い、その中で原子力による発電の原埋と核エネルギーの制御の核心を解説し、原子力発電所の全容をわかりやすく説くことに努めています。」

 「放射線と放射能」 1973 日映科学映画製作所
 https://www.youtube.com/watch?v=Q60ZwQTlD6g
 http://www.kagakueizo.org/movie/education/4898/
 製作:日映科学映画製作所 企画:日本原子力研究所 1973年 カラー 11分13秒

 放射線と放射能を正しく理解し、如何に活用されているかを映像化した作品である。 目に見えない放射線も「ウィルソンの霧箱」を使えば、飛跡が飛行雲となって現れる。放射能は、放射線物質が放射線を出す能力のこと。一方、放射線物質から出てくる放射線には、α線、β線、γ線があって、それぞれ質量とエネルギーの差異があるので、物質を浸透する力が違う。 こうした放射線には共通して、蛍光作用・写真作用・電離作用があるが、その中のひとつである写真作用の実験をいくつか紹介している。」

 (関連情報)

 [1] 「地質調査は全くせず、政治家の"ご都合"で原発建設地が決まる大地震国ニッポン」
(拙稿 2014/9/8)
 http://www.asyura2.com/14/genpatu40/msg/246.html

コメント
1. 2018年12月14日
 こちらもありますよ。

 福島第一原発黎明編 [ひかる東芝CM].avi
 https://www.youtube.com/watch?v=E48xSBosc5k

 2011/05/27 に公開

 福島第一原発造成映像
 1971年昭和46年3月営業運転開始。
 2011年3月12日 1号機水素爆発。     3月14日 3号機爆発。
 ひかる東芝CM。

●時間のない方は、02:50から見て下さい。その後のテーマ曲。「歌う東芝」は消えました。東芝EMI売却しちゃったから。それどころか民生品部門、全部売り飛ばしました。一応は東芝のマークの入った冷蔵庫、洗濯機はありますよ。でも、あれは中国がつくっているのです。ブランドの使用料を支払っている。民生品がないから、家電製品を売るためのコマーシャルもなくなった。サザエさんから撤退した理由です。東芝が技術を導入したアメリカのGEは、株価が暴落。ここは東芝より先に家電部門を売却して撤退しました。それでも立て直せず。経営破たんも噂されています。

2. 茶色のうさぎ[-9150] koOQRoLMgqSCs4Ks 2018年12月14日
 ↓ 福島第一原発は、渡部恒三の所有地で、毎年莫大な土地代を手にしている
 http://www.asyura2.com/11/senkyo111/msg/439.html 
 渡辺恒三(黄門さま) ←佐藤雄平知事は甥(姉の息子)。佐藤栄佐久冤罪事件も有名ですね。菅直人も黄門様にはwww 佐藤雄平知事と年間20ミリ犯罪は有名だー♪ばか ←自殺しろ!! 結論:当時を思い出すと、日本中が推進派でしたね。 大阪万博だって、、、まぁ、これ以上、事故を拡大させない事、と思います。 うさぎ♂

【1968-72年の佐藤政権時代の原子力行政】

 1968(昭和43).7.15日、朝雲新聞社から「日本の安全保障」1968年版が出版された。これは安全保障調査会によって発行され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。

 1969(昭和44)年、外務省が「わが国の外交政策大綱」をまとめ、その中で核兵器政策について次のように記している。

 「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、1・.当面核兵器は保有しない政策を採るが、2・核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3・.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」。

 内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。

 この一連の調査報告は1967年から70年頃までの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであるとして掣肘を受けないよう配慮して行われた。

 1969年、自民党幹事長だった田中角栄が東京電力柏崎刈羽原発の建設誘致に動く。

 2004.8.12日、2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝


【佐藤政権時代の「非核三原則】

 1969.6月、沖縄返還交渉が大詰めを迎え、佐藤首相は若泉に信任状を作成し、秘密の個人特使としてホワイトハウスに送り込んだ。ここで、表向きは「核抜き・本土並み返還」を表明しつつ、背後では基地の核付き現状維持の密約が成立することになる。

 1969.10.9日、正力が、療養先の国立熱海病院で逝去する(享年84歳)。

 1969.11.19日、佐藤ニクソン会談が行なわれ、沖縄返還の基本合意が成立した。いわゆる核抜き・本土並みが貫かれた。11.26日、佐藤首相は、帰国後、改めて非核三原則の堅持を国会で表明した。

 1969.12月、共産党が、第32回総選挙に臨むに当たって「第32回総選挙の争点と日本共産党の五大基本政策」(「前衛」1970年2月臨時増刊号)を発表し、原子力の平和的利用を支持する。これを仮に「1969年文書」と命名する。(「資料:日本共産党の原発政策①」を参照する)

 一、沖縄の全面返還をかちとり、安保条約を廃棄し、独立、平和、中立の日本を実現する」の「8、核戦争阻止、核兵器禁止のために」の中の「(5)平和利用の3原則の厳守」は次のように述べている。
 「原子力基本法第一章第二条『原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限り、民主的運営のもとに自主的にこれをおこなうものとし、その成果を公開し、すすんで国際協力に資するものとする』にもとづき、『自主、民主、公開』の平和利用の三原則をきびしくまもる。今後三十年間、日本の核エネルギー開発と原子力発電をすべてアメリカに依存させることをとりきめた、対米従属の日米原子力協定を廃棄する。核物質の民営化をやめさせ、きびしい国家管理のもとにおき、その使途をすべて公表させる」。

(私論.私見)

 例によって例の「口で反対の弁を弄しながら、実質的には反対している当のものを推進する役割を果たす」二枚舌を駆使している。要するに、当時に於いては「原子力の研究、開発および利用」の推進側に立ったと云うことだろうが。この不破弁が気色悪い。

 2012.05.20日 れんだいこ拝

 「公害災害・有害食品問題」のなかの「(2)災害から人民の生命と生活を守る」は次のように記している。
 (リ)放射能汚染源になる原子力関係や放射性物質をあつかうすべての施設、機関においては、平常時はもちろん、いかなる種類、規模の事故が起きた場合でも、施設敷地外には放射能汚染が絶対におよばないだけの防護体制と、関係地域住民および専門家をふくめた監視体制をつくり、原子力公害を防止する。
(私論.私見)
 このように原発の危険性を認識していながら、「事故が起きた場合でも、施設敷地外には放射能汚染が絶対におよばないだけの防護体制と、関係地域住民および専門家をふくめた監視体制をつくり」と云う条件付きの賛成を表明していることになる。しかして、実際には「施設敷地外には放射能汚染が絶対におよばないだけの防護体制」なぞできる訳がないと云う現実があると云うのに。且つ最終核廃棄物の処理法の杜撰さについてはノーコメントと云う不思議さを見せている。  

 2012.05.20日 れんだいこ拝






(私論.私見)