イエス履歴その5 「山上の垂訓」

 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日 

 これより先は「イエス履歴その4、イエスの説法始まる」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
  釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝その他の記述を参照する。福音書のうちヨハネ伝には該当記述がなく、他の三伝ともこれを採り上げているが、それぞれ異なった記述をしている。これをそれぞれ検証した上で、れんだいこが意訳しつつ概要次のように宣べられたのではなかろうかと推定し「れんだいこ文/山上の垂訓」を纏めることにする。

 「山上の垂訓」は、ヨハネの教えを更に磨いて練っており、時のユダヤ教の支配的仕組み、思想、論調を徹底的に批判している。信仰の内面性を重視し、教義に対する忠実さを求めており、一種の宗教革命を呼びかけている。非常に多岐にわたって論を展開しており、巧みに例えを使って諭しており、名言にちりばめられている。

 「山上の垂訓」の論旨を要点整理すると、総論として、1・体制派の信仰批判、2・真の信仰の義の称揚、3・「愛の哲学」を諸事作法とせよの三観点を説いていることが判明する。それらは、パリサイ派の虚礼挙式、教義上の虚偽詐術、欲張り、蓄財主義、残忍、報復主義等々に対する自ずと手厳しい批判になっている。同じ神信仰でありながら、その昔よりパリサイ派系とイエス系のそれは相容れぬ真反対のそれであることが判明する。この二股分岐は現代にも続いているように思われる。ここに「山上の垂訓」考察の意義がある。イエスの御言葉とパリサイ派教説との軋轢と云う緊張感抜きにイエスの御言葉を拝するのは詰まらない。味で例えれば「気のぬけたビール」になってしまう。

 ここでは、「山上の垂訓」説話、イエスのそれ以前に宣べられた御教え、以後に宣べられたイエス教義の三者を総合し、一括してイエス教義として検証考察することにする。「山上の垂訓」をイエス教の教義篇とすると、「イエスの12使徒に対する指導考」は実践篇であり、「イエス派のイスラエル神殿乗り込み時の論争」は論駁篇となる。「山上の垂訓」にはこういう位置づけもある。

 2006.11.2日再編集、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝


【「山上の垂訓」の論理考】
 イエスの教義を総論と各論に仕分けして整理してみる。まず、イスラエルの律法学者及びパリサイ派、次にサドカイ派(これらを仮に神殿本部派と云うことにする)の信仰実態を次のように批判している。これを仮に「総論1、神殿本部派(律法学者、サドカイ派、パリサイ派)の信仰実態批判」とする。

 イエスは、ヨハネ教義を継承して次の御言葉から説き起こしている。
 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである(マタイ伝5章1-3節)。
(私論.私見)
 通説の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」の「心の貧しい人々」の「心の貧しい」をどう拝察するべきか。「貧しい」を「貧乏」の意味で理解すべきだろうか。私には疑問がある。私訳は次の通り。「精神が未だ至っていないことを知る人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。

 この御言葉は元々ヨハネのものである。イエスは、ヨハネのこの言葉を語ることにより、ヨハネの信仰を受け継ぐ者であるとの立場を鮮明にしている。通常、単に「貧しき者は」と訳されているが意図的故意か未必かは別にして誤訳であろう。「貧しき」を欠乏とか貧乏と受け取るようではイエス教義の真意に辿り着けない。正しくは、「未だ至らない未熟者」と解するべきであろう。この心構えは、神殿本部派特にパリサイ派の「真理に到達したとする自覚者」教義との鮮やかな対比になっている。「未だ至らない未熟者」認識は謙虚を生む。「真理に到達したとする自覚者」認識は傲慢を生む。そういう対局になっている。かく理解すべきだろう。

 2021.8.8日 れんだいこ拝

 以下、神殿本部派の説く教義を全面否定し、諄々と新しい道を説いた。イエス教義はここに歴史的意義が認められる。イエスは、神殿本部派に対して次のように批判した。
 意訳概要/彼らは宮殿で、しなやかな長い服、華やかな衣を着て歩き回りたがり、人目につくことを好み、広場で挨拶したがる。会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしながらぜいたくに暮らしている。彼らは義の人を自認して品行方正を嘯(うそぶ)き、他方で人を見下げている。こういう人たちは、『見ても見えず、聞いても理解できない』人たちである。
 イザヤの預言はかく述べている。『あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない』。彼らの行状はここに戒められている通りのものである。
 律法学者、パリサイ派の人たちは、イザヤの預言そのままを実現している。彼らは御言葉を聞くが、世俗的な思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで実らない人である。そういう者達が権勢を振るっている現在は神に背いた罪深い時代である。このような者たちは裁きの日には人一倍厳しい裁きを受けることになる。
(私論.私見)
 キリスト教団は、次のように評している。
 概要/律法はモーセを通して与えられたが恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかって神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 これがキリスト教の一般的受け取りようであるが何と味気ないことだろう。イエスは、ここではっきりとヨハネ以来の信仰の内面性重視を踏襲する立場から、神殿本部派の制度主義、それによる聖なる信仰世界に於ける俗化の持込みを直截的に厳しく批判している。この指摘を拝さねばならない。ここは一般的に盲拝する箇所ではなかろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 次に、イエスは、神の御業を畏敬し、その偉業を信奉するよう宣べ、信仰に於ける真の信仰の意義を次のように称揚している。これを仮に「総論2、全知全能の神の御業(技)を知れ。真の信仰の義の称揚」とする。
 『神にできないことは何一つない』。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
(私論.私見)
 これも間接的な本部神殿派批判であり、神の御業を畏れぬ本部神殿派の信仰の在り方を衝いている。イエスの批判の鋭さをそのまま窺うべきであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

  次に、イエスは、「この世で一番大事なものは愛である。人は須らく愛で応接せよ」と宣べ、全てを癒す新しい思想として次のように「相互博愛主義」を諭している。これを仮に「総論3、愛の哲学を諸事作法とせよ」とする。
 私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
(私論.私見)
 イエスは、パリサイ派教義のように人の罪を裁くのではなく、「あなたの罪は赦された。悔い改めよ」と宣べ、今後の生き方、心の持ち方を重視した。逆に言えば、神殿本部教義派の「今後の生き方、心の持ち方を問わない非信仰的政治的懲罰主義」を批判したことになる。その上で、その対案として相互博愛主義を諭した。この理を単に受け取るのではなく、本部神殿派の教理に濃厚なユダヤ教式報復主義教理に対する鋭い批判であり、それに代わる新テーゼの提起であったとして拝さねばならないであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

【「山上の垂訓」各論概括】
 以上を総論として、各論的に次のように宣べている。
 各論1、御教えの原義に立ち戻れ。
 イエスは、「御教えの原義に立ち戻れ」として次のように宣べられている。
 私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全う(まっとう)されるのである。
(私論.私見)
 イエスはここで興味深い立場を明らかにしている。律法や預言の否定の立場からの神殿本部派批判ではなく、律法や預言の成就の為に神殿本部派批判している。これによれば、イエスは、律法や預言の正しき実践を求道する側にいることが判明する。この御言葉がイエスのそのままの言であるかどうかは分からない。れんだいこは、イエスの御言葉の実際はやや違う表現であったと窺うが確かめようがない。例えば、次のように云ったのではなかろうか。「私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、本当の信仰の義を成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、本当の信仰の義の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全う(まっとう)されるのである」。

 2006.11.2日、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝

 各論2、「神の義信仰」に忠実なれ。
 イエスは、「御教えの原義に立ち戻れ」の次に、当時のイスラエルの神殿本部教義派により「神の義信仰」が形骸化されており、その活動が御教えの反対物に転化していることを批判し、「神の義信仰に忠実なれ。神の御心に適うその義を求める生き方をせよ」と宣べている。この限りで、イエスは「神の義思想原理派」の立場に立っていることが判明する。

 イエスは、「神の義の信仰に忠実なれ」として次のように宣べられている。
 肉体の罪は良くない。しかし心の罪はもっと良くない。故に、神の義に忠実な信仰でなければならない。
(私論.私見)
 イエスは、神殿本部派特にパリサイ派の1・フェチ的独善主義、2・自己宣伝癖、3・無慈悲な律法主義、4・護符の権威化と商売的利用、5・信仰の表裏性と卑劣性、6・小事に拘り大事を免責にする得手勝手性、7.世の日陰者や生活困窮に起因する下層民の行状に対する容赦ない侮蔑、8、報復主義、9・メシア再臨信仰の捻じ曲げ等々を痛烈に批判している。通説は「神の国信仰」と訳しているが、「神の義信仰」とすべきであろう。

 2006.11.2日、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝

 各論3、「財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢」を排せ。
 イエスは、「神の御心に適う基準」として、「財物拝跪、蓄財拝金、権力的威勢主義」こそ最も神の御心に適わない」と宣べ、次のように諭している。
 「富を貪るな。富は地上に積むのではなく天に積め。人は神と富との両方に仕えることは両立しない」。
 概要「明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
(私論.私見)
 これもまた神殿本部派特にパリサイ派の信仰俗化ぶりに対する痛烈な批判となっており、「今後の生き方、心の持ち方」を問わない非信仰的世俗的拝金主義からの転換を指針させたことになる。特に、パリサイ派教義に濃厚な蓄財主義を強く批判していることになる。パリサイ派の蓄財主義はその後も続き、今日的には国際金融資本帝国主義と規定される巨富を形成している。その頭目がロスチャイルド財閥とすれば、これに対する批判にもなろう。つまり、イエスの憂いの御言葉は今も生きていることになる。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論4、暮らしの中に神の義を求めよ。
 イエスは、「暮らしの中に神の義を求めよ」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要/人は誰しも生きるためにパンを求めざるを得ない。しかしながら、オマンマ稼業に勤しむとしてもこれを自己目的としてはいけない。オマンマ稼業の生業(なりわい)の内に神の国と神の義を求める生活に向わねばならない。御教えに反するような生業、生業の為の生業は異邦人のそれであって、我々の求める生活ではない(生活の糧をバンという言葉で表現している。ここではパンの延長の意味するものを仮に「オマンマ稼業」とする)。
 意訳概要/人はパンのみにて生きるにあらず。御教えに従ってパンを食べ、御教えを血とする者は永遠に生きる。その人は神の元に居り、神もまたその人の中に居る。私の教えは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。このことを信じない者も居る。しかし、これが真理であり、世を生かす道である。
(私論.私見)
 これもまた神殿本部派特にパリサイ派の生活と信仰が背反している信仰ぶりに対する痛烈な批判であった、と拝するべきであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論5、心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない。
 イエスは、「人の心の持ち方」について「心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない」と宣べ、次のように諭している。
 概要/素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのためにある。
 むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。
 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
(私論.私見)
 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。そう拝すべきだろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝
 このことに関連して、イエスは、パリサイ派の信仰に対して次のように批判している。
 あなたがたパリサイ人は杯や盆の外側を清めるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで一杯である。盲目なるパリサイ人よ、まづ杯の内側を清めなさい。そうすれば外側も清くなるだろう。
(私論.私見)
 神殿本部派特にパリサイ派の信仰にある偽善を見つめるイエスの眼にはかく鋭いものがあった。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論6、因果応報の理を知れ。
 イエスは、「因果応報の理を知れ」として次のように宣べている。
 悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かれる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は心からあふれ出ることを語るのである。

 イエスは、「一粒万倍の理」を次のように宣べている。(マタイ伝4・18-20)
 ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
(私論.私見)
 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論7、報復の論理を捨て愛の思想を打ちたてよ。
 イエスは、「報復に代わるに愛の思想を打ちたてよ」として次のように宣べている。
 汝の敵を愛し、憎む者に親切で報いよ。悪口を言う者、侮辱する者に祈りで応ぜよ。『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも差し出しなさい』。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
(私論.私見)
 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論8、人を裁くな。「許せ」
 イエスは、「人を裁くな、むしろ許せ」として次のように宣べている。
 立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。
 人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。裁けば裁かれる。好んで人に罪を被せることは止めなさい。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
(私論.私見)
 これを解するのに、「うわべだけで裁くのをやめ、神の道に適う正しい裁きをしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論9、「祈り」が信仰生活の第一歩である。
 イエスは、「祈りが信仰生活の第一歩である」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要/我々の為すべきは祈りである。但し、祈りは、異邦人の信仰の如く現世利益的であってはならない。彼らのまねをしてはならない。ひたむきに全知全能の神の御心に他力本願信仰で添い合わせなさい。それは眼を見れば分かる。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ。

 具体的な祈り方として次のように宣べられている。
 祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください』。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
(私論.私見)
 これを解するのに、「うわべだけ祈るのをやめ、神の道に適う正しい信仰をしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論10、信仰基盤を確固としたところに確立せよ。
 イエスは、「信仰基盤を確固としたところに確立せよ」と宣べ、次のように諭している。
 私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどい。
(私論.私見)
 これは、「何事も基礎が大事であり、見せ掛けは良くない」と一般化できる御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論11、主体的に生きよ。
 イエスは、「主体的に生きよ」と宣べ、次のように諭している。
 概要/求めよ。そうすれば、与えられん。探せよ。そうすれば、見つかられよう。門をたたけ。そうすれば、開かれよう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ本来の律法と預言者の御教えである。狭き門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない。
(私論.私見)
 これは批評的な御教えであろう。文句が秀逸である。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論12、種蒔く人になれ。
 イエスは、「種蒔く人になれ」と宣べ、次のように諭している。
 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くことに例えられる。悪い土地に蒔かれた種はなかなか育たない。困難に打ち勝てない。サタンに誘惑され邪魔される。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結ぶ。

 この意味が釈然としない弟子たちに次のように諭している。
 このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。

 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、よく悟り、忍耐して実を結ぶ人たちである。ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。
(私論.私見)
 これは運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論13、信仰は修行の道である。
 イエスは、「信仰は修行の道である」と宣べ、次のように諭している。
 概要/天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。耳のある者は聞きなさい。信仰もまた同じである。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
 知恵の正しさは、その働きによって、それに従うすべての人によって証明される。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論14、悪魔思想の誘惑に負けるな、闘え。
 イエスは、「悪魔思想の誘惑に負けるな、闘え」と宣べ、次のように諭している。
 不法を働く者ども、私から離れ去れ云々。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論15、陰謀に与するな。
 イエスは、「陰謀に与するな。悪事は露見する」として、次のように宣べられている。(マタイ伝4・19-23)
 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠されているものは何でも、露(あら)わにならないものはなく、秘密にされていることは必ずや明らかにされる。聞く耳のある者は聞くが良い。(For whatever is hidden is meant to be disclosed, and whatever is concealed is meant to be brought out into the open. If anyone has ears to hear, let him hear.")聞く耳のある者は聞きなさい。

 各論16、偽預言者を警戒せよ。
 イエスは、「偽預言者を警戒せよ」と宣べ、次のように諭している。
 彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論17、背教の言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし。
 イエスは、「律法学者やパリサイ派の教えは背教である。彼らの言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要/律法学者やパリサイ派は、神の御心に適わない財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢を正当化するイデオローグである。彼らの言に屈してはならない。この問題では、我々は、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。イエスの教えを採るのか、律法学者やパリサイ派の論法に屈するのか、はっきりせよ。盲人が盲人の道案内をすれば二人とも穴に落ち込むであろう。律法学者やパリサイ派の論法は盲人の道である。これに付き従ってはならない。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論18、願うらくは、論理、思想、理論において律法学者やパリサイ派に打ち勝て。
 イエスは、「願うらくは、信仰者としてのその義は、論理、思想、理論において、律法学者やパリサイ派に勝らねばならない」と宣べ、次のように諭している。
 概要/彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。律法学者やパリサイ派は、人の目にあるオガ屑は見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるオガ屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるオガ屑を取り除くことができる。そういう類の彼らの義に対して、我々の義がまさらなければならない。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論19、私が雛形を示す。
 イエスは、「私が雛形を示す」と宣べ、次のように諭している。
 概要/自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人として私の弟子ではありえない。
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論20、迫害に屈するな。
 イエスは、「迫害に屈するな」と宣べ、次のように諭している。
 概要/神の国思想原理派として歩むことは、ヨハネにせよ私の教義にせよ、イスラエル神殿派の権力、時代的風潮の利益に反することになるから迫害される。しかし、怯むな、悲しむな、むしろ喜べ。
 概要/地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。かく叱咤激励している。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論21、「世の終わりの日の裁き」について。
 イエスは、「世の終わりの日の裁き」について、信仰の例え話として「種まき論」、「真珠論」を披露しつつ次のように宣べ諭している。
 良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子である。毒麦の背後には悪魔が潜む。刈り入れの時、それは信仰上世の終わりの時に例えられるが、天使達が刈り入れする。天使達は、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを燃え盛る炉の中に投げ込み識別する。

 真珠も同様で網の中に入れられる。良いものは器に入れられ、悪いものは投げ捨てられる。世の終わりにもそうなる。天使達が、正しい者と悪い者どもをより分け識別する。天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。
(私論.私見)
 これはイエス教義の内容に関わっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論22、「救済」について。
 イエスは、「救済」について次のように宣べている。
 詩編にはこう書いてある。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』主の名を呼び求める者は皆、救われる』(「使徒言行録」)。
(私論.私見)
 これもイエス教義の内容に関わっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

【「山上の垂訓」の論法考】
 「山上の垂訓」は非常に多岐にわたっている。これを整理し運動論で見れば次のような論法になっているのではなかろうか。
 「神の国」思想に添い、神の御心に適うその義を求める生き方をせよ。現世的な貪欲な権勢者こそ最も神の御心に適わない。彼らの生き方は排斥されるべきである。それに比して、生活苦にあえいでいる人のほうが生き方としては神の御心に適っている。人は、素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのためにある。
 信仰者として迫害されても怯むな。神の御心に適う生き方をした為に迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられたとしても悲しむな、むしろ喜べ。地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る。
 律法学者やファリサイ派に屈してはならない。願うらくは、信仰者としてのその義は、律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければならない。彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。
 祈れ。異邦人の信仰は現世利益的である。彼らのまねをしてはならない。二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
 他力信仰で神の御心に添い合わせ。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ。寿命をわずかでも延ばすことができない。
 富を貪るな。富は、地上に積むのではなく天に積め。神と富との両方に仕えることは両立しない。オマンマ稼業を貪るよりは何よりもまず、神の国と神の義を求めよ。明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
 主体的に生きよ。「求めよ。そうすれば、与えられる。探せよ。そうすれば、見つかる。門をたたけ。そうすれば、開かれる。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。狭い門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない」。
 偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
 因果応報の理を知れ。
10  信仰基盤を確固としたところに確立せよ。
11  不法を働く者ども、私から離れ去れ。

【「山上の垂訓」前置き】
  釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書四書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のうち、ヨハネ伝を除く三書がそれぞれの「垂訓」を記している。ヨハネ伝に無いと云うことは、ヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。れんだいこは、他の三書がキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを理解せんとしている違いと見立てたい。ここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。

 それはともかく、マルコ伝の場合は、「湖畔の垂訓」となっている。ルカ伝の場合には「山上の垂訓」であるが、マタイ伝の場合、12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっているという違いが有る。そういう違いは有るが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。

 問題は次のことに有る。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差も有り却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。れんだいこは、福音書による山上の垂訓」が、イエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「山上の垂訓」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。

 例えば、次のような言葉は云うはずかない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事は無かろうに。

 この種の捏造文がこの後続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として、本当は次のように述べたのではなかろうかとれんだいこが概要推定して御言葉にしてみることにする。

【イエスと律法学者、パリサイ派、サドカイ派、ヨハネ派との問答】
 イエスの名声はその奇跡の御わざとイエス教義の確立によってますます挙がり、それに応じて反発も生まれた。次のように記されている。
 「町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」。

 この頃早くも律法学者、パリサイ派との教義問答が為されている。時に予言者ヨハネ派とも為されている。この後も幾度となく繰り返されるので、ここで「山上の垂訓」の解析と同様そこに流れる御教えを纏めて概括することとする。これを為すのは難しいがれんだいこが敢えて挑む。

 ここでも名言にちりばめられており、これはこれで値打ちがある。特徴的なことは、イエスが、律法学者、パリサイ派との教義問答に於いて、彼らが依拠する律法及び学説を真っ向から受け止め、それに精通している能力を見せつつ逆批判していることにある。イエスは事実、「この人は学問をしたことが無いのに、どうして律法の知識を持っているのだろう」と訝られている。イエスがいつどこでどのように律法の知識を享受したのか詳細は分からないが、幼少期よりの宗教的天分、それに伴う教義取得、あるいはヨハネ教団で学んだ時期、宣教初期の会堂での内倉籠もりしていた短い期間にいわば天才的に取得したと拝察するしかない。

 「山上の垂訓」同様にここでも見事な例えを駆使して相手の論理論法を衝いている。一般に、どんな宗教思想を問わず、批判する側にとって自身が依拠する論理論法を逆手に取られて逆批判されるほど恐ろしいことは無い。この問答を通じて見えてくるのは、律法学者、パリサイ派がイエスとの論争にことごとく負け、逆上していくサマである。この逆上が遂にイエスの処刑へと辿り着いていくことになる。

 その1、「悪霊論争」を通してのイエスの霊能力とその御言葉の神格性論争
 「悪霊論争」は次のように為されている。律法学者、パリサイ派は、イエスが威厳をもって発する御言葉の神格性に対して反発していた。イエスは「あなたの罪は赦された」の御言葉を宣べていたが、「神を冒涜している。神のほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか」と批判した。

 律法学者、パリサイ派は、イエスの霊能力と奇跡的な御技に対しても反発していた。「この人は、このような奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と訝り、意訳概要「悪霊の頭のベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。あの男は悪霊の力で悪霊を追い出している。ベルゼブルに取りつかれている」と批判していた。

 こうした批判に対して、イエスは、特にパリサイ派に対し次のように反論している。
 意訳概要「パリサイ派の思想こそサタンに被れている。パリサイ派の者達は、自分達がユダヤ人の正統の子孫だと自称している。しかし、実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。彼らはサタンの王座に住している。そのサタン被れが私をサタン呼ばわりして批判しているが滑稽なことだ。もし、私かサタンだと云うのなら、サタンがサタンを追い出そうとしていることになる。果たしてどちらがサタンに被れているのだろう」。
 「ならば問う。私の霊能力をサタンの力に拠っているとして私をサタン呼ばわりするなら、あなた方は何の力に依拠しているのか述べよ。あなた方は、自らは神の霊の力を借りてサタンを追い出そうとしているとの弁を論証してみよ。お互いがサタン呼ばわりするこの不毛は解決されねばならない。私がサタンか、あなた方がサタンか白黒はっきりさせねばならない。なぜなら、国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。そういう訳で、この問題は早晩決着付けられねばならない」。
 「私から見れば、パリサイ派の者達こそサタン被れである。私は、神の霊に随ってサタンを追い出そうとしている。神の国はすぐ近くに来ている。サタンよ、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の世の争いや罪は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は赦されず、永遠に罪の責めを負う。裁きの日には必ず責任を問われよう」。

 イエスは、次のようにたとえ話をしている。
 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮(マムシ)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」。
(私論.私見) 「悪霊論争」について
 何と痛烈な批判だろうか。律法学者、パリサイ派によって悪魔被れと謗られたイエスは逆に、律法学者、パリサイ派こそ悪魔の下僕と言い返している。且つ、この認定は譲ることの出来ないものであると述べている。これはなかなか興味深いことであるように思える。「パリサイ派の思想こそサタンに被れている。パリサイ派の者達は、自分達がユダヤ人の正統の子孫だと自称している。しかし、実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」は意味深である。

 再確認すれば、イエスは、律法学者、パリサイ派をユダヤ教信奉者と看做しているのではなく、サタン思想被れ者として批判している構図が見える。この意味するところは深いと思われる。イエスは、イエスの眼から見てそのサタン思想被れ者からよりによってサタン呼ばわれされたことに対して、どちらがサタンか白黒決着つけようと迫っている。世の中には曖昧にして良いこととできないことが有り、この問題は後者であり、決着付けるべしの態度を見せていることになる。

 その2、イエスは人か神かの論争。
 律法学者、パリサイ派、サドカイ派は、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスは次のように応答して批判した。
 「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。邪(よこし)まで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。パリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」。
(私論.私見) 「イエスは人か神かの論争」について
 キリスト教とユダヤ教の教義的対立は実にここに発している。つまり、イエスを人と見る律法学者、パリサイ派と、人以上の存在ないしは神そのものと見るイエス及びその使徒達の根本的な教義対立が介在している。これは非常に難しい。ユダヤ教の教義は、偶像崇拝同様に「人間をもって神とする信仰」は堅く禁じられており、容認し難いものであった。そこで、「イエスは、神であるのか、人間に過ぎないのか」を巡ってイエス生存中にも大論争が起きていたということになる。

 ちなみに、れんだいこは、この論争では律法学者、パリサイ派の見解を支持する。然しながら、イエスの痛烈な律法学者、パリサイ派のイスラエル神殿教義批判に賛意する。むしろ、律法学者、パリサイ派の詭弁、詐術と対決するには、自身を神の側に置くことによってしか為しえなかったのではなかろうか、と拝察している。

 その3、イエスの悪人正機説による批判。
 イエスは、悪人正機説を唱えていた。その論は、律法学者、パリサイ派の「常識」を逸脱しており批判を招いた。パリサイ派の律法学者は、イエスが社会の底辺に位置し、最も忌み嫌われている罪人や徴税人と一緒に食事をしたり平然と親しくしている様を批判した。

 これに対して、イエスは次のように宣べている。
 意訳概要「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。教義に忠実ならんとすれば、恵まれている世の上層部の人たちの助けは後回しにするが良い。真に助けを求めている恵まれない人こそ助けを欲しているし助からねばならない。彼らを救うのが私の役目である。私がやって来たのは、裕福さによって罪を犯さないで済んでいる世間的に正しい人を招くためではなく、何らかの事情で罪を犯したあるいは犯さざるを得なかった罪人を招いて悔い改めさせ救済するためである」。
 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」。
 「あなたがたは裁判を好み、法廷を開き、法律の規定するところに従って裁く。私は、人を裁くのに増して治療が先だと思う。罪人は病人である。必要なの法学博士ではなく医学博士である。私が来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救う為である。羊飼いは、迷える羊を一番心配する。もしそれを見つけたら、迷わないでいる99匹の羊の為よりも、むしろその一匹の為に喜ぶであろう。そのように、小さい者の一人が滅びることは、天に居ますあなたがたの父の御心ではない。よく聞きなさい。罪人が一人でも悔い改めるなら、神の御使いたちの前で悦びがあるであろう」。
(私論.私見) 「イエスの悪人正機説」について
 これも非常に難しい論題である。ちなみに、れんだいこは、この論争ではイエスの見解を支持する。日本仏教でも、浄土真宗の親鸞がこの問題に挑んだことは周知の通りである。中山みきは「高山批判、谷底救済、金持ち後回し論」を宣べ更にこの観点を押し進めた。

 その4、イエス及びイエス派の律法違反批判。
 パリサイ派、律法学者は、イエス及びイエス派が「昔の人の言い伝えを破る」非を批判した。市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。杯、鉢、銅の器や寝台を洗う等々の戒律を無視して、例えば、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と批判した。

 イエスは次のように反論している。
 「あなた方は、昔の人の言い伝えを守っているが、むしろ神の掟を破っているのではないのか。あなたたちは、言い伝えを守るその裏で神の言葉を台無しにしている偽善者たちである。イザヤは、あなたたちのことを見事に預言している。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」。

 イエスは、これを裏付けるものとして次の指摘をしている。
 意訳概要「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは、神への供え物(コルパン)をすることでもって父または母に対する敬意の証としている。それにより、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだとの理屈をこねている。この一事を見れば分かるように、一事万事がそうで、あなたたちは、受け継いだ言い伝えを守るという名目で実際には神の言葉を無にしている」。
 「物分りが悪すぎる。私の云うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るものは人を汚さない。逆に、人の中から出て来るものが人を汚す。すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。人から出て来るものこそ、人を汚す。同様に、口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す。口から出て来るものは、大抵の場合人の悪い心から出て来るので、これが人を汚す。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(姦通)、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな心から出て来るからである。これが人を汚す」。
 「これを思えば、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。これを咎めるなら、もっと咎められなければならないことがあるだろう。なぜ、咎められなければならないことの方が問われないのだ。形式を問い内容を問わない者を明き盲と云う。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」。
(私論.私見) 「律法違反」について
 イエスは、パリサイ派、律法学者が「昔の人の言い伝え」を伝統的に守っていることは認めながらも、それが形式主義に堕しており、それは却って神の御心に叶わないと批判していることになる。つまり、「形式よりも内実、外観よりも実質的な信仰を求めるのがイエスの御教え」という事になる。

 その5、断食論争。
 ヨハネ派、パリサイ派は、伝統的宗教的戒律である断食を重視しており、イエス派がこの禁を重視せず時に破る行為を批判した。「なぜ、あなたがたは断食しないのですか」と問うている。

 イエスは次のように反論している。
 概要「断食は形式的に墨守されるものではない。断食は一概に否定されるべきではないが、断食の精神こそ尊ばれるべきである。世の流れに合わせて戒律としての断食は緩められるべしである。誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすればぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も袋も無駄になってしまう。『新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきである』」。
(私論.私見) 「断食論争」について
 断食についても然りで、パリサイ派、律法学者が伝統的に墨守しているのに対し、イエスは、時流に合わすべしと主張していることになる。つまり、「イエスの御教えは、『新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ』の言葉に象徴される革新主義にある」ことが分かる。

 その6、安息日論争。
 パリサイ派は、伝統的宗教的戒律である安息日の定めを重視しており、イエス派がこの禁を重視せず時に破る行為を批判した。「働くべき日は六日ある。安息日には働いてはならない。これが律法である。御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問うている。

 イエスは次のように反論している。
 意訳概要「安息日の戒律も断食の戒律と同様に形式的に墨守されるものではない。一概に否定されるべきではないが、その精神こそ尊ばれるべきである。ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。それに、あなたがたは、安息日であっても、自分の牛やろばに家畜小屋から引き出して水を飲ませているではないか」。

 つまり、伝統的な安息日の禁を形式的に守る非を衝いて反論した。

 イエスの安息日の救済活動も議論の対象にされた。そこで、イエスは言われた。
 「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。18年間も病魔に冒されているこのアブラハムの末裔である娘に対して、安息日であっても、その束縛を解いてやるのに何の咎めがあろう。あなたがたの理屈は偽善である。偽善者よ、『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』。あなたがたは自分たちの言い伝えを頑なに守ろうとしている。が、その為に神の戒めを捨てている。神の戒めこそ最優先されねばなならぬというのに物事を本末転倒させてはならない」。
(私論.私見) 「安息日論争」について
 安息日についても然りで、パリサイ派、律法学者が伝統的に墨守しているのに対し、イエスは、その拠って来る所以の理法こそ尊重すべしとと主張していることになる。つまり、「イエスの御教えは『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』の言葉に象徴される人間疎外現象批判、本末転倒事象批判主義にある」ことが分かる。

 その7、「親兄弟を苦しめるな」論争。
 この時、パリサイ派、律法学者は、イエスの母と兄弟たちを呼び出し、イエスが反体制活動を止めるよう愁訴させている。家族に不利益が及ぼされ、悲しんでいる様を訴えさせ、イエスの伝道活動を抑制しようとした。これに対して、イエスは、次のような「信仰に於ける父母観」を披瀝している。
 「私の母、私の兄弟とは誰か。見なさい。(イエスを取り囲んでいる人々を見回して云われた) ご覧なさい、ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母である。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」。
(私論.私見) 「父母兄弟による泣き落とし」について
 「父母兄弟による泣き落とし」は昔も今も多用されている。それに対する、イエスのこの反論、弁明を見よ。「イエスの御教えは『誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である』の言葉に象徴される同志的紐帯重視論にある」ことが分かる。

 補足すれば、イエスのこの言説を一人歩きさせ悪用して「父母愛阻害論」を説く者が居る。それはナンセンスで、この言葉が発せられた事情を汲み取らねばならない。それは、イエスの反体制活動を止めさせようとして父母兄弟に愁訴させた官憲策略に対し、イエスが宣べた御言葉であり、父母兄弟の愁訴によって教義を曲げる訳には行かない、何故なら云々というセンテンスであることを理解する必要がある。「父母愛阻害論」を説く宗派が存在するが、彼らは文意を捻じ曲げていると云わざるを得ない。このことは深く知っておく必要が有る。

 その8、「神の国はいつ来るのか」論争。
 パリサイ派が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて宣べられた。
 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。
(私論.私見) 「神の国の到来期」について
 この問答の意味も深い。「神の国到来」とは、単に外来的にやってくるのではなく、内の内実が釣り合いながらやって来るものとの御教えを宣べているように悟らせていただく。これは神論にも繋がるが、「イエスの御教えは『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』の言葉に象徴される神=理合い論にある」ことが分かる。

 ちなみに、中山みきの「神というものは有ると言えば有る。無いと言えば無い。成ってくる理が神である」の御教えと通底しているように思える。

 これより以降は、「イエス履歴その6、イエスの本格的伝道」に記す。





(私論.私見)