イエス履歴その4 イエスの説法始まる

 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日 

 これより先は「イエス履歴その3、荒野問答」に記す。


【ヨハネが捕らえられる】
 イエスが「布教活動にあたっての三大原点」を確立した頃、ヨハネが捕らえられた。その理由が次のように記されている。
 概要/領主ヘロデ王アンティパスが、弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しようとしていたことに対し、ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』と反対したこと、その他ヘロデ王の悪政を批判していたことが原因であった」。

 こうして、ヨハネは牢に入れられた。「こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」と記されている。

 ヘロデ王はヨハネを殺そうと思っていたができなかった。それは、ヘロデが、ヨハネの名声が高く人民から強く支持されていたこと。且つ、ヘロデ自身がヨハネが正しい聖なる人であることを知っており、彼を恐れ、その教えを聞いて非常に当惑しながらもなお喜んで耳を傾けていたからであった。かくて、ヨハネは幽閉されることになった。

【イエスがヨハネ法灯を次ぐかのように福音を述べ始める】
 ヨハネが捕らえられた時、イエスは凡そ30歳であった。故郷ガリラヤに戻っていたイエスは、幽閉されたヨハネの法灯を継ぐかのように次のように福音を宣べ始めた。
 悔い改めよ。時は満ち、天の国は近づいた。福音を信じなさい。

 これにつき次のように記されている。
 良き訪れと呼ぶ宣教活動を開始する。イエス青年が登場し、新しい神の法を説き始めた。

 このことは、ヨハネが捉われたことを知ったイエスが、ヨハネの信仰理念を継承する立場を宣明したことを意味する。

【イエスは同時に本格的な教義研究に耽る】
 この頃、イエスは故郷のナザレの諸会堂に籠もり、本格的に教義研究に打ち込んでいる。安息日には会堂に入り、聖書を朗読した。皆はイエスの信仰の深さに驚き、褒め、その口から出る恵み深い言葉を有り難がった。
(私論.私見) 「イエスの教義研究」について
 イエス伝各書ではこの時代のイエスの教義研究の様子が語られていない。恐らく、過度なるイエスの神秘化、神格化を企図せんが為に軽視されているのであろう。史実は、イエスが本格的伝道前に教義研究に没頭したことを告げている。

【「預言者イザヤの言」がイエスに天命を知らせる】
 ある時、イエスに預言者イザヤの巻物が渡され、イエスがお開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
 主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

 預言者イザヤのこの語りはイエスの道しるべとなった。イエスは、会衆に話し始めた。
 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。私はここに語られている通りの身の者である」。
(私論.私見) 「預言者イザヤの言がイエスに与えた影響」について
 「預言者イザヤの言」こそイエスの信仰立脚点になったからして、「預言者イザヤの言がイエスに与えた影響」が注目される。それによれば、主の霊が宿されいわば「神の社(やしろ)」となって神の思いを遂行する者に言及されており、イエスは我こそがその者であるとの自覚を持ったということになる。つまり、これを教義的に捉えれば、「イエス=神のやしろ」説こそそもそもの始発であったということになろうか。

【イエスの反イスラエル主義説法と最初の迫害】
 教義研究を最終的に終えたイエスは次のように宣べた。
 ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。

 イエスは、福音活動を開始した。ユダヤの諸会堂に行って宣教し始めた。「ルカによる福音書」は、この頃のイエスのヨハネ同様の反イスラエル主義について次のように記している。ある時、次のように言われた。
 はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中の誰の元にも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめの元にだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかは誰も清くされなかった」。

 これを聞いた会堂内の人々は皆な憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。イエス教義がユダヤ教守旧派から相当に反発されたことを告げている。

【イエスの説法の人気】
 イエスはその後もガリラヤの町で請われるままに出向き教えを述べ続けた。イエスは町や村を残らず回って、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。安息日には会堂で教えられた。

 「マルコによる福音書」には次のように記されている。
 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
 人々は皆な驚いて論じ合った。これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。
(私論.私見) 「イエスの御教えの新鮮さ」について
 「マルコによる福音書」は、「イエスの御教えの新鮮さ」につき、「権威ある者としてお教えになったから」と記している。果してそうであろうか。れんだいこが思うに、「人々が律法学者の教えとは全く異なる新しい教えに驚いた」ということではなかろうか。してみれば、「権威ある者としてお教えになったからである」なる理解は為にする聖化であり、真相は、同じ神の話でありながら、日頃の律法学者やサドカイ派やパリサイ派の弁と全く違っており、内容が斬新で人々の胸を打つものがあったということであろう。

【イエスの病治し奇跡の御技】
 イエスは、至るところで超能力を示し、数々の奇跡を起こし、「病直しの霊験者」としての評判を呼ぶことになる。事実、多くの人が病を治癒された。各書のイエス伝はその様を詳述している。れんだいこは、この方面のイエスの事跡を省略する。こうしてイエスの評判は高まり、不思議な技を行う者として物見高い連中に付き纏われるようになった。イエスの大いなる技を見ようとして、群衆が押し集まった。

【イエスの「悔い改めよ」説法、その特質】
 イエスの布教には大きな特質があった。イエスは奇跡の御技を示すと共にヨハネ式福音「悔い改めよ」から始まる改心説法を続けていた。この両面に於いて、イエス=神信仰が生まれ、賛美されていった。

 イエスは次のように宣べている。
 私は、世にいる間、世の光である。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。頑迷な者に対して、イザヤは次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は彼らをいやさない』。その通りである。

 「ルカによる福音書」は次のように記している。ルカ伝は癖があるのでれんだいこが意訳する。実際には次のような諭し方ではなかっただろうか。
 概要/私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。私はこの世の救世主メシアとして現れた。私は身も心も行いも全てを神に捧げた神一条の者であり、人に永遠の命に至る実を授けることを喜びとしている。
(私論.私見) 「イエスの病治し奇跡と『悔い改めよ』説法」について
 れんだいこは、イエスの説法に対し次のことに注目する。まず、相手に応じて相応しい教義を説いていること。次に、イエスは、病助けに際し、単に病直しで終わらず、「あなたの罪は赦された」と神に変わって言葉を宣べ、「悔い改めよ」とも宣べ、今後を神の御心に添ってその義に生きる新しい生き方を促している。つまり、助かるだけではなく、その心根の変革を望む発言を残されている。この両面の卓越で、イエスの噂(うわさ)がその地方一帯に広まったと理解したい。

 「ルカによる福音書」のイエスの位置づけが、「私はこの世の救世主メシアとして現れた」も注目される。

【最初の使徒とイエス派の伝道活動】
 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。ガリラヤ湖のほとりで、シモン(後のペトロ)とその兄弟アンデレが海で網を打っていた。この時、イエスは、次のように宣べられた。
 私について来なさい。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。

 これを聞いたシモンとアンデレは、直ぐに網を捨てイエスに従った。この二人が最初の弟子になった。ヤコブとその兄弟ヨハネが次の弟子となった。父ゼべタイと共に舟の中で網の手入れをしているのが目に留まった。イエスがこの兄弟に語りかけると、彼らもイエスに付き従い福音を述べるようになった。次に、フィリポとバルトロマイが従った。次にトマス、マタイと列なる。

 「マタイによる福音書」に、この頃のイエスの福音活動が次のように記されている。
 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

 イエスが弟子を確保するのに誰でも受け入れたのではない。次の逸話が残されている。
 ある人が、お供をしたいと願い出た。しかし、イエスは次のように宣べている。『あなたの家族の元にお帰りなさいと』。或る人はしつこく、あなたがお出でになるところならどこへでもついてまいります。イエスは次のように宣べている。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない』。又、主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを告げに行かせて下さいと云った人に、イエスは次のように宣べている。『相応しくない』。

【この頃のイエスの性情】
 イエスは、ガリラヤ全土を廻る宣教の旅にでた。この頃のイエスの性情として、1・自然を愛する人だった。2・子供好きで子供がイエスの周りに近寄り、弟子がそれを諌めるのを叱った。3・「陰気な顔」を嫌い、「陰気な顔つきするな」と叱った等々の逸話が伝えられている。

 これより以降は、「イエス履歴その5、山上の垂訓」に記す。





(私論.私見)