イエス履歴その6 | イエスの本格的伝道 |
更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日
これより先は「イエス履歴その5、山上の垂訓」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「イエスの本格的伝道」を確認しておく。 2006.11.2日再編集、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝 |
【イエスと律法学者、パリサイ派、サドカイ派、ヨハネ派との問答】 | |
イエスの名声はその奇跡の御わざとイエス教義の確立によってますます挙がり、それに応じて反発も生まれた。次のように記されている。
この頃早くも律法学者、パリサイ派との教義問答が為されている。時に予言者ヨハネ派とも為されている。この後も幾度となく繰り返されるので、ここで「山上の垂訓」の解析と同様そこに流れる御教えを纏めて概括することとする。これを為すのは難しいがれんだいこが敢えて挑む。 ここでも名言にちりばめられており、これはこれで値打ちがある。特徴的なことは、イエスが、律法学者、パリサイ派との教義問答に於いて、彼らが依拠する律法及び学説を真っ向から受け止め、それに精通している能力を見せつつ逆批判していることにある。イエスは事実、「この人は学問をしたことがないのに、どうして律法の知識を持っているのだろう」と訝られている。イエスがいつどこでどのように律法の知識を享受したのか詳細は分からないが、幼少期よりの宗教的天分、それに伴う教義履修、あるいはヨハネ教団で学んだ時期、宣教初期の会堂での内倉籠もりしていた短い期間にいわば天才的に修得したと拝察するしかない。 「山上の垂訓」同様にここでも見事な例えを駆使して相手の論理論法を衝いている。一般に、どんな宗教思想を問わず、批判する側にとって自身が依拠する論理論法を逆手に取られて逆批判されるほど恐ろしいことはない。この問答を通じて見えてくるのは、律法学者、パリサイ派がイエスとの論争にことごとく負け、逆上していくサマである。この逆上が遂にイエスの処刑へと辿り着いていくことになる。 |
その1、「悪霊論争」を通してのイエスの霊能力とその御言葉の神格性論争 | ||||
「悪霊論争」は次のように為されている。律法学者、パリサイ派は、イエスが威厳をもって発する御言葉の神格性に対して反発していた。イエスは「あなたの罪は赦された」の御言葉を宣べていたが、「神を冒涜している。神のほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか」と批判した。 律法学者、パリサイ派は、イエスの霊能力と奇跡的な御技に対しても反発していた。「この人は、このような奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と訝り、意訳概要「悪霊の頭のベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。あの男は悪霊の力で悪霊を追い出している。ベルゼブルに取りつかれている」と批判していた。 こうした批判に対して、イエスは、特にパリサイ派に対し次のように反論している。
イエスは、次のようにたとえ話をしている。
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何と痛烈な批判だろうか。律法学者、パリサイ派によって悪魔被れと謗られたイエスは逆に、律法学者、パリサイ派こそ悪魔の下僕と言い返している。且つ、この認定は譲ることの出来ないものであると述べている。これはなかなか興味深いことであるように思える。「パリサイ派の思想こそサタンに被れている。パリサイ派の者達は、自分達がユダヤ人の正統の子孫だと自称している。しかし、実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」は意味深である。 再確認すれば、イエスは、律法学者、パリサイ派をユダヤ教信奉者と看做しているのではなく、サタン思想被れ者として批判している構図が見える。この意味するところは深いと思われる。イエスは、イエスの眼から見てそのサタン思想被れ者からよりによってサタン呼ばわれされたことに対して、どちらがサタンか白黒決着つけようと迫っている。世の中には曖昧にして良いこととできないことが有り、この問題は後者であり、決着付けるべしの態度を見せていることになる。 |
その2、イエスは人か神かの論争。 | |
律法学者、パリサイ派、サドカイ派は、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスは次のように応答して批判した。
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キリスト教とユダヤ教の教義的対立は実にここに発している。つまり、イエスを人と見る律法学者、パリサイ派と、人以上の存在ないしは神そのものと見るイエス及びその使徒達の根本的な教義対立が介在している。これは非常に難しい。ユダヤ教の教義は、偶像崇拝同様に「人間をもって神とする信仰」は堅く禁じられており、容認し難いものであった。そこで、「イエスは、神であるのか、人間に過ぎないのか」を巡ってイエス生存中にも大論争が起きていたということになる。 ちなみに、れんだいこは、この論争では律法学者、パリサイ派の見解を支持する。然しながら、イエスの痛烈な律法学者、パリサイ派のイスラエル神殿教義批判に賛意する。むしろ、律法学者、パリサイ派の詭弁、詐術と対決するには、自身を神の側に置くことによってしか為しえなかったのではなかろうか、と拝察している。 |
その3、イエスの悪人正機説による批判。 | |||
イエスは、悪人正機説を唱えていた。その論は、律法学者、パリサイ派の「常識」を逸脱しており批判を招いた。パリサイ派の律法学者は、イエスが社会の底辺に位置し、最も忌み嫌われている罪人や徴税人と一緒に食事をしたり平然と親しくしている様を批判した。 これに対して、イエスは次のように宣べている。
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これも非常に難しい論題である。ちなみに、れんだいこは、この論争ではイエスの見解を支持する。日本仏教でも、浄土真宗の親鸞がこの問題に挑んだことは周知の通りである。中山みきは「高山批判、谷底救済、金持ち後回し論」を宣べ更にこの観点を押し進めた。 |
その4、イエス及びイエス派の律法違反批判。 | ||||
パリサイ派、律法学者は、イエス及びイエス派が「昔の人の言い伝えを破る」非を批判した。市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。杯、鉢、銅の器や寝台を洗う等々の戒律を無視して、例えば、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と批判した。 イエスは次のように反論している。
イエスは、これを裏付けるものとして次の指摘をしている。
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イエスは、パリサイ派、律法学者が「昔の人の言い伝え」を伝統的に守っていることは認めながらも、それが形式主義に堕しており、それは却って神の御心に叶わないと批判していることになる。つまり、「形式よりも内実、外観よりも実質的な信仰を求めるのがイエスの御教え」という事になる。 |
その5、断食論争。 | |
ヨハネ派、パリサイ派は、伝統的宗教的戒律である断食を重視しており、イエス派がこの禁を重視せず時に破る行為を批判した。「なぜ、あなたがたは断食しないのですか」と問うている。 イエスは次のように反論している。
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断食についても然りで、パリサイ派、律法学者が伝統的に墨守しているのに対し、イエスは、時流に合わすべしと主張していることになる。つまり、「イエスの御教えは、『新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ』の言葉に象徴される革新主義にある」ことが分かる。 |
その6、安息日論争。 | ||
パリサイ派は、伝統的宗教的戒律である安息日の定めを重視しており、イエス派がこの禁を重視せず時に破る行為を批判した。「働くべき日は六日ある。安息日には働いてはならない。これが律法である。御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問うている。 イエスは次のように反論している。
つまり、伝統的な安息日の禁を形式的に守る非を衝いて反論した。 イエスの安息日の救済活動も議論の対象にされた。そこで、イエスは言われた。
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安息日についても然りで、パリサイ派、律法学者が伝統的に墨守しているのに対し、イエスは、その拠って来る所以の理法こそ尊重すべしとと主張していることになる。つまり、「イエスの御教えは『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』の言葉に象徴される人間疎外現象批判、本末転倒事象批判主義にある」ことが分かる。 |
その7、「親兄弟を苦しめるな」論争。 | |
この時、パリサイ派、律法学者は、イエスの母と兄弟たちを呼び出し、イエスが反体制活動を止めるよう愁訴させている。家族に不利益が及ぼされ、悲しんでいる様を訴えさせ、イエスの伝道活動を抑制しようとした。これに対して、イエスは、次のような「信仰に於ける父母観」を披瀝している。
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父母兄弟による泣き落とし」は昔も今も多用されている。それに対する、イエスのこの反論、弁明を見よ。「イエスの御教えは『誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である』の言葉に象徴される同志的紐帯重視論にある」ことが分かる。 補足すれば、イエスのこの言説を一人歩きさせ悪用して「父母愛阻害論」を説く者が居る。それはナンセンスで、この言葉が発せられた事情を汲み取らねばならない。それは、イエスの反体制活動を止めさせようとして父母兄弟に愁訴させた官憲策略に対し、イエスが宣べた御言葉であり、父母兄弟の愁訴によって教義を曲げる訳には行かない、何故なら云々というセンテンスであることを理解する必要がある。「父母愛阻害論」を説く宗派が存在するが、彼らは文意を捻じ曲げていると云わざるを得ない。このことは深く知っておく必要がある。 |
その8、「神の国はいつ来るのか」論争。 | |
パリサイ派が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて宣べられた。
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この問答の意味も深い。「神の国到来」とは、単に外来的にやってくるのではなく、内の内実が釣り合いながらやって来るものとの御教えを宣べているように悟らせていただく。これは神論にも繋がるが、「イエスの御教えは『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』の言葉に象徴される神=理合い論にある」ことが分かる。 ちなみに、中山みきの「神というものは有ると言えば有る。無いと言えば無い。成ってくる理が神である」の御教えと通底しているように思える。 |
【イエス派高弟「十二人の使徒」形成される】 | |
この頃、マタイが新たな使徒に加わっている。ある時、イエスは祈るために山に行き、終夜神に祈り続けた。夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二名を選びだした。この選ばれた者を十二使徒と云う。使徒とは、ギリシャ語のアポストロスであり、古代ギリシャでは航海術の専門用語で、他国へ遠征する艦隊の司令官の意味を持っている。ヘブライ語でこれに掃討するのがシャリアーで、代表として派遣された者、使節という意味で用いられている。 イエスは、十二使徒を傍に置き、特別教育を施した。その上で、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす霊能力伝授とその権能の授け」を渡した。この時のことかどうかは分からないが、イエスは、十二使徒に次のように言い聞かせている。
十二使徒の名は次の通りである。後にペトロと名づけられた1・シモンと2・その兄弟アンデレ。3・ゼベダイの子ヤコブと4・その兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、即ち「雷の子ら」という名を付けられた。5・フィリポと6・バルトロマイ(ナタナエル)、7・トマス、8・徴税人のマタイ(アルファイの子レビ)、9・アルファイの子ヤコブ、10・ヤコブの子タダイ(ユダ)、この二人はイエスのいとこと考えられている。ヤコブは、イエスの死後、エルサレム教会の指導者となる。11・熱心党のシモン、12・それにイエスを裏切ったイスカリオテ(ケリオト人の意味)のユダ。このユダがイエスを裏切ることになる。以上の12名である。 |
【イエスの「十二人の使徒」に対する指導】 | ||||||
イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人の使徒も連れ添った。やがて、イエスは、「十二人の使徒」を各所に派遣する。この時次のように指示している。これらは教義篇に照応する実践篇とも云うべきもので、これも非常に参考になる。詳細は「補足、イエスの12使徒に対する指導考」に記す。ここでは、イエスの珠玉の御言葉を確認する。 | ||||||
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【イエスの率先伝道布教】 | ||
イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。ガリラヤ湖畔にイエス教団が出現しつつあった。この時、次のように教話している。
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イエスは、自ら率先垂範し、「私のひながたを歩め」と教導していることが分かる。 |
【イエスに随う女性たち】 |
イエスと12使徒の伝道が続くこの頃、イエスの御技により悪霊を追い出され病気を癒された数名の婦人達がイエス一行に随い始めた。その人の名は、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、サロメそのほかの人たちであった。後にイエスが十字架に処せられた時、連行されるイエスの後を追い、処刑の一部始終を見守り、墓守りしたのがこの婦人たちである。 |
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イエス教団に多くの女性が加わっていたことが注目される。イエスに列なった婦人たちはイエスに何を認めていたのかに関心が生まれる。当時のユダヤ社会では女性の地位は著しく低かった。シナゴーグでのユダヤ教の儀式に参加できるのは男性だけで、女性は屋根裏のようなところで傍聴を許されるのが精一杯であった。思うに、主イエスの威厳と威光によってのみならず、イエスの男女同権平等助け合いの新思想に思わず合点させられ、福音を共に伝道することに共鳴した故ではなかったか。イエスは、当時に於いては稀有なことであったが、女性の人格を認めていた。福音の前には男と女は片方が偉く片方が弱いという関係ではなく助け合いすべきものであった。そういう意味で、神の前には男女は一視同仁であった。 |
【パリサイ派によるイエス殺害謀議】 |
イエスの伝道活動は、パリサイ派に打撃を与えた。早くもこの頃、パリサイ派はヘロデ派と謀議し、イエスの殺害を相談し始めている。 |
【こうした折、幽閉されていた預言者ヨハネが殺される】 | |
この頃、予言者ヨハネが殺された。時を同じくしてイエスの名が知れ渡り始めたので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と怖れた。 この時のイエスの動静が次のように伝えられている。
ヨハネ斬首物語を戯曲化したのが、オスカー・ワイルドの「サロメ」である。 イエス派は、州都のディべりウスには近づかず、ガリラヤ州端のカペナウム、州外のベツサイダ、ガリラヤ湖東岸のギリシャ人が住むデカポリスなどを巡回した。 |
【イエスの神格を廻るイエスと使徒との談じあい】 | |||||
この頃、人々は、イエスを次のように様々に評し始めていた。
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、イエスの神格を廻って弟子たちと機密的な談じ合いをしている。イエスは、「預言者と神の子の違い」を質疑し、その上で「私は預言者か神の子か。人々は、わたしのことを何者だと評しているのか」と問うている。 イエスは、使徒との遣り取りを受けて次のように自己定義している。
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この時のイエスの御言葉「私は人の子でしかない預言者以上の者である。私は、預言者としての人間ではなく精霊の宿りし天の父の神の子である。私は神から送られやってきたメシアである」がどこまで正確な記述かどうか分からない。イエスを神格的にどのように位置づけるのか、これは難しい。新約聖書のイエス伝各書は様々に捉えている。 |
【教会普請を促す】 | |
イエスは、使徒たちに教会づくりを促した。12使徒の筆頭格シモンに対し次のように宣べられている。
イエスは、シモンに「岩」という意味のペトロと云う名前を与えた。こうして、シモンは以来ペトロと云われることになった。以降、12使徒は各地に教会を創っていくことになった。教会とは、ギリシャ語でエクレシアと云い、「呼び集める」という意味を持つ。ちなみに、教会に於いては信仰と生活が共同体となっていた。この交わりを、ギリシャ語でコイノニアと云う。財産まで共有しており、この言葉がコミュニズムやコミュ二オンの語源となる。 |
【イエスとパリサイ派の続論争「人ではなく神を目標に信仰の義に生きよ」の教え】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イエス派のますます盛んになる伝道に対して、パリサイ派との「続論争」が為されている。これを整理すると次のような遣り取りになっている。
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これより以降は、「イエス履歴その7、イエス派のエルサレム神殿乗り込み」に記す。
(私論.私見)