イエスの履歴その3 荒野問答

 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日 

 これより先は「イエス履歴その2、ヨハネの洗礼を受ける」に記す。

【「荒野での悪魔思想との問答」】
 この頃のこと、イエスは、40日40夜に及ぶ荒野での断食修行を行い、自らの霊能力を試している。この時、「悪魔との思想問答」をしており、かなり重要な内容を伝えている。伝えられる遣り取りは次のくだりである。

 その一、「神の義を求めよ」の件(くだり)である。次のように宣べている。
 概要/『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである。

 その二、「悪魔の囁き峻拒」の件(くだり)である。悪魔がイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」と云った。それに対し、イエスは次のように応答している。
 退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。この言葉を味わうべきである。
 
 その三、「神のご加護の試し」の件(くだり)である。悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて云った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。イエスは次のように応答している。
 『あなたの神である主を試してはならない』と言われている。

 かくて、悪魔はあらゆる誘惑を試みたが、イエスは動じなかった。悪魔はイエスから離れた。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
(私論.私見) 「荒野での悪魔思想との問答」考
 この時の「悪魔との思想問答」は格別の重要な指摘をしているように思われる。突如「悪魔」という語彙が出てくるのも不自然で、気にかかる。これをれんだいこが解すれば次のようなことになる。

 まず、ここでいう「悪魔」とは例えであり、神学上の抽象的な悪魔ではないのではなかろうか。実際には、宗教界の新鋭イエスが「預言者ヨハネ」の洗礼を受け、ヨハネ教団の仲間入りし、今そのヨハネ教団から自立して自前のイエス教団を立ち上げつつあったことを知ったある反ヨハネ派の陰謀団体(それは歴史的に見てユダヤの民が得手としてきた秘密結社と考えられ、後の展開から見て本部神殿派に通じている団体と思われる)を指しているのではなかろうか。「イエスの悪魔との荒野問答」とは、イエスを秘密結社入りさせようとする使者とイエスの間で問答が為されたことを暗喩しているのではなかろうか。れんだいこは、そういう史実があり、イエス伝に隠喩的に伝えられているのではなかろうか、と拝察する。となると、これは今日的な問題でもあることになる。

 では、どのような「囁き」がなされたのであろうか。その一、「洗礼後のイエス」は見初められて、彼らの秘密結社への仲間入りを勧誘された。イエスは、種々の問答と遣り取りを経て、「神の義を求めよ」なる御言葉を返歌した。そして、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである」と補足した。この御言葉は、秘密結社入りを勧められたイエスが、「秘密結社入りすることでそこにいくら利益が保証されようとも、その道は神の義にそぐわない」と判断し、「利益を餌に心を売る気はない」と峻拒したことをメッセージしているのではなかろうか。れんだいこはかく解する。

 この遣り取りの意義は次のような問いに一般化することができる。人は、生きていく為にやむを得ずオマンマ稼業に精出すことを余儀なくされているが、人はそれだけで生きるのではない。その稼業の中にあっても信仰を持つべきであり、神の義に従う生活をしなければならない。つまり、人はオマンマ稼業にあってもパンだけで生きるものではないことを知り、パンの為に心を売ってはならず神の義に生きねばならない、と分別したことになる。

 イエスは、本部神殿派の「教団本部の聖壇に座しながら物質的富たるオマンマ稼業の自己目的的専念」を批判し、「精神的富たる信仰及び思想の格別の重要性」を認識し、「神の義を求める生活」を指針させていることになる。事実、イエスの生涯は、この言葉通り自ら「神の義」に対する類まれなる純潔の奉仕者となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その二、「悪魔の囁き拒否」は次のことを示唆している。秘密結社入りを拒否したイエスに対して、本部神殿派の秘密結社は更に執拗に、自分達に魂を売るならその代わりにこの世での立身出世(地位名誉)、栄耀栄華(金)、時の権力を約束しようと囁いた。この申し出に対し、イエスはこれを断乎拒否し、ひたすら信仰の義に生きる姿勢を鮮明にした。それが如何なる不利益を蒙る道になろうとも。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。この言葉を味わうべきである」、これがイエスの返歌である。

 つまり、イエス的信仰の道は、「立身出世、栄耀栄華、時の権力の甘言に背を向けた」ところから始発していることになる。この遣り取りも興味深い。事実、イエスの生涯は、この言葉通り「立身出世、栄耀栄華、時の権力」とは無縁の神一条の人となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その三、「神のご加護の試し」は次のことを示唆している。エージェントは、その熱心な勧誘にも拘らずこれを拒否するイエスに対して、将来に希望が開けない、閉ざされると脅しをかけた。続いて、我々の勧めを断りそれほどに神の義信仰を一途にするのなら、その「神のご加護の試しをしてみよ」と捨てセリフを告げた。これに対して、イエスは、落ち着いて対処し、その策略に乗らなかった。信仰をそのように証する必要はなく、「神のご加護の試しをするなかれ」と返歌した。

 イエスは、洗礼後の思想問答において、この三原則つまり、1、秘密結社入りの拒否。心を売らずひたすら神の義に生きることの宣明。即ち、現世的富よりも精神的富の重視。2、利益誘導、立身出世、栄耀栄華、権力誘導に対する峻拒。即ち、現世利益信仰に堕さない孤高の姿勢の確立。3、合理的信仰姿勢の確立を範示したことになる。

 実に、これがその後のイエスの軌跡となり、ここがイエスのその後の布教活動にあたっての原点となった。そういう意味で、この立教始発時の「イエスの思想問答」は今日に至るも意味深いように思われる。人は昔も今も、生きていくうえでこの三条件が問われているのではなかろうか。イエス教義を信奉する者は、このイエスの「ひながた」を銘すべしではなかろうか。

 その後のイエス教からキリスト教への転換に当り、「イエスの悪魔との荒野問答」の重要性が抜け落ちた。れんだいこは、それは意図的にそうさせられたと思っている。キリスト教徒に於いて「イエス・キリスト教の原義に帰る」とは、この「元一日」に帰ることを意味する。実際にはそのようになっていない。れんだいこは、「イエスの悪魔との荒野問答」を教義に取り込むかどうかがリトマス試験紙になっていると解している。

 れんだいこの思うイエス教義の白眉さは次のことにあると思われる。その1は、この「イエスの悪魔との荒野問答」である。その2は、「山上の垂訓」である。その3は、「エルサレム神殿乗り込み時の神殿派及びパリサイ派との教義問答」である。その4は、「十字架上の磔刑死の経緯での問答」である。これを学ぶ事がイエス教であるところ、キリスト教は肝心要のこの事歴の意義をぼかし、さして重要でもない奇蹟信仰へ変質せしめている。ここにイエス教の不幸があるのではなかろうか。

 2006.9.8日再編集、2008.3.11日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その121 れんだいこ 2005/10/28
 【「小ネズミ的政治的サイコパス」考】

 ryoさんちわぁ。こちらに振ります。サイコパスの心がどのようなものであるのかの議論になって参りましたが、れんだいこは一般的に論ずる能力はないので政治的サイコパスについて考察してみたいと思います。れんだいこが興味を覚えているのは「イエスの荒野問答」です。これについて再検討してみようと思います。

 概略は、イエスキリスト論(religion_christ.htm)の履歴その3「荒野問答」に記しました。

 れんだいこの思いはそこで確認いただくとして、この時の「悪魔との思想問答」はかの昔から連綿と続いており、今の世でもあるのではなかろうか、と見立てております。最簡単に言うと、お前に権力とお金とその他この世の栄耀栄華を与えよう。しかし、以降は私の下僕になり言うことをきくか、という囁きにどう対処するのかというものです。要するに「我らが結社に心を売れ。イエスかノーか」という問題だろうと思います。

 この契約にサインアップするのかしないのか。イエスはかの時、それを蹴った。こういう人は少ない。ここにイエスの凄さがある。生活レベルのことなら人は誰しも多少なりとも応法して生きているのでせうが、イエスに問われていたのは最高度の宗教的命題に対してであり、ここを曲げると全てに絡んでくることを察知したのでせう、イエスは蹴った。

 れんだいこは、イエスキリスト教の原点はここにある、と思っております。よって、イエス教徒なら余計にこの教祖のひながたを辿り、悪魔の囁きに動じない精神の自律を持つことこそが信仰の始まりではないのか、と思っております。

 いわゆるキリスト教はこの考察をしない。なぜなら、イエス教はその後キリスト教となり、国教的地位をえる過程でより体制化し、その限りで今度はいつしか悪魔側に廻ることになり、この問題を考察することが不都合になったからである、と考えております。こうなると、「悪魔との思想問答」は、大なり小なり組織一般につきものの普遍問答になるのかも知れません。

 問題は、サインアップした連中のその後がどうなったかです。約束通りに権力とお金と地位を与えられました。その代わりにエージェントを誓約しているからして言いなりを余儀なくされ、これに楯突こうものなら一挙に全てを失う仕掛けの中に生きることになります。実際、約束に反すればテロられたり社会的地位を一挙に失う。

 れんだいこなぞは味気ない人生だと思うけれども、権力とお金と地位こそ全てと思う人も後を絶たない。思えば、日本人が育んできた武士道とは、このあたりに於いては潔癖な倫理観を持っていたのではなかったか。今はそれが廃れているからエージェントまみれの世の中になっている。

 この状態に置かれたエージェントに心があるのかないのか、という問題は案外難しい。小ネズミのようになんのわだかまりもなく、お陰さまで約束通り権力を掌中にさせていただきこれほと感謝することはない。今後も精力的に頑張りますので宜しく云々で嬉嬉としていられる者も居る。逆に、これ以上は悪事に手を染められないと悩み始める者も居るのではないでせうか。

 どちらにしても、ひとたびエージェント契約に応じた者達の心の中は惨めはなかろうかと思うのだけれども。そういう心理が屈折して裏表の有る隠微な行動をし始めることになるのではなかろうか。政治的サイコパスの社会的要因はここにあるのではないかと思っております。それを思えば、政治病理学なる学問を生み出し、このあたりを問うべきでせう。社会心理学が全盛ですが、政治病理学に向わないその種の学問が真っ当なものなのかどうか。

> 20世紀の中葉までは、心を売り渡すかどうかが問題でした。現代では心があるかないかが問題になっています。

 という問いかけは意味が有りそうであんまり無いとも思います。「心があるかないかが」の有る無しにも人によって微妙に差が有るのではないでせうか。そこを集団的に且つ個別具体的にも見ないといけないのではないでせうか。

 気になることは、「心を売り渡すかどうかが問題」が「心があるかないかが問題」に至るまでの定向進化の問題です。そこまで嵩じているということでせうか。れんだいこ的には少しオーバーランな気がします。

 2005.10.28日 れんだいこ拝

【「ユダヤ教原理派からするイエス・キリスト教批判の構図」】
  I・B・プラナイティス師著「仮面に剥がされたタルムード」というのがあるようである。その見出しを転載しておく。ユダヤ教原理派からするイエス・キリスト教批判の構図が分かる。
第一部 基督教徒に関するタルムードの教え
第一章  タルムードの中のイエス・キリスト
第一節 イエス・キリストの名前について
第二節 キリストの生涯 十字架についての注
第三節 キリストの教え
第二章 タルムードの中の基督教徒(正統なるユダヤ教徒!愛)
第一節 タルムードの中で基督教徒に与えられているいくつかの呼び名
第二節  タルムードは基督教徒について何を教えているか
第三節 基督教徒の儀式及び礼拝
第二部 基督教徒(正統なるユダヤ教徒!愛)に関するタルムードの戒め
第一章 基督教徒は忌避されねばならない
第一節 基督教徒がユダヤ的習慣を分かち合うに値しないが故に
第二節 何故なら基督教徒は穢れているから
第三節 何故なら基督教徒は偶像崇拝者であるから
第四節 何故なら基督教徒は邪悪であるから
第二章 基督教徒は絶滅されねばならない
第一節 基督教徒に対し間接的に危害を加えよ
基督教徒に善行を施してはならない
弐  基督教徒の仕事に対しては損害を与えられねばならない
基督教徒は法的な事柄によって危害を与えられねばならない
基督教徒は生活に必要なものに損害を与えられねばならない
第二節  基督教徒は殺さねばならない
最後にタルムードは基督教徒は無慈悲に殺されねばならないと命じる
洗礼を受けたユダヤ人は死なねばならない
君主達取り分けローマの君主(教皇)は殺されねばならない
最後に彼等(ゴイム(異教徒))最良の部分を含む全ての基督教徒は殺されねばならない
基督教徒を殺したユダヤ人は罪を犯してはいない。かえって喜ばれる犠牲を神(悪魔ダビデ)に捧げるのである
エルサレムの神殿破壊後の唯一のなくてはならない生贄は基督教徒の根絶である
基督教徒を殺す者達は天国で高い位を獲得する
ユダヤ人はゴイム絶滅を止めてはならない、彼等を平和にしておいてはならない、彼等に服従してはならない
全てのユダヤ人達は彼等の中の反逆者を抹殺する為に互いに一つに結び合う義務を負わされている。
例えどんなに荘厳な祭りでも基督教徒の首を切る事を妨げてはならない
十一 ユダヤ人の全ての行動と祈りのただ一つの目的は基督教を破壊する事でなければならない
十二 その祈りの中でユダヤ人は復讐に燃えるメシヤの到来を待ち焦がれる、とりわけ過ぎ越しの祭りの前夜には

【「荒野での悪魔思想との問答考その1」】
 イエスのパリサイ派との問答は、そもそもイエスの立教の始発に認められる。いわゆる「荒野での悪魔との問答」がそれである。この時、イエスは、パリサイ派とどういう遣り取りをしたのか。これを確認する。

 イエスは、ヨハネの洗礼を受けた後、期間はどれくらいか分からないがヨハネ教団の集団生活に入った。しかし、その禁欲主義、修行主義に得心できなかったのか、既に全てを修得したのか、やがてそこを出て自立していくことになる。イエスはさし当って、40日間に及ぶ荒野での断食修行を行い、自らの霊能力を試している。この時、「荒野での悪魔思想との問答」に出くわしている。公認キリスト教義ではこれを神秘的に解しているが、れんだいこがこれを解釈するのに、イエスの名声を聞いたパリサイ派の然るべき地位の者(仮に「パリサイ派長老」と命名する)がイエスの修行の場へ出向き、彼らの組織する秘密結社への勧誘いわゆるオルグしたのではないかと思われる。

 パリサイ派長老は、その秘密結社に入ることによる便宜即ち立身出世が保証され然るべき権力が与えられる等世俗的な利点を縷々述べたようである。一通りの説明を聞いた後のイエスの言葉は次のようなものであった。
 概要/『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである。

 つまり、イエスは、パリサイ派長老による便宜主義的な甘言オルグに対して、「神の義の信仰」に反する旨を指摘し、断ったと受け取らせていただくことができる。「悪魔の囁き峻拒その1」である。

 パリサイ派長老は、便宜主義的な甘言オルグが功を奏さなかったことに対して、言葉ではなく現実を見せて説き伏せにかかった。パリサイ派長老は、イエスを非常に高く市内を一望できる山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」と約束した。それに対し、イエスは次のように応答している。
 退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。この言葉を味わうべきである。
 
 つまり、イエスは、パリサイ派長老による手を変え品を変えの執拗な甘言オルグに対して、「退け、サタン」とまで宣べて、イエスは「神の義の信仰」に生きることを明らかにした。「悪魔の囁き峻拒その2」である。

 パリサイ派長老は呆(あき)れ果て、それほどまでに「神の義の信仰」に生きようとするイエスに対して、次のように「神のご加護の試し」をした。イエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。即ち、神が万能なら、それほどまで篤い信仰を見せるイエスを救済するだろう。万能神を信ずるなら、「神殿の屋根の上から飛び降りてみたらどうだ」と挑発したことになる。これに対し、イエスは次のように応答している。
 『あなたの神である主を試してはならない』と言われている。

 パリサイ派長老はあらゆる説得を試みたが、イエスは動じなかった。かくて、パリサイ派長老はイエスのスカウトを諦めた。公認キリスト教義ではこれを、「悪魔の囁き、悪魔との荒野問答」として戯画化している。

 イエスは、そういう出来事を経験しながら、暫く修行を続けた後故郷のガリラヤに帰られた。イエスは霊の力に満ちていて。イエスの評判が周りの地方一帯に広まった。

 さて、この「荒野での悪魔思想との問答」をどう窺うべきであろうか。れんだいこは、それを拒否したイエスの評価はここでは問わないとして、パリサイ派長老の甘言にこそ注目してみたい。それは、イエスの求める信仰とは逆の契機のものであった。 実に、パリサイ派とは、ここでも良し悪しは問わないとして、信仰の義の世界に居ながら世俗的な価値を求める、つまり、世俗の基準に於いて信仰を下僕させる論法を持つ宗派であることを見て取れるのではなかろうか。

【「荒野での悪魔思想との問答考その2」】
 この時の「悪魔との思想問答」は格別の重要な指摘をしているように思われる。突如「悪魔」という語彙が出てくるのも不自然で、気にかかる。これをれんだいこが解すれば次のようなことになる。

 まず、ここでいう「悪魔」とは例えであり抽象的な悪魔ではない、のではなかろうか。実際には、宗教界の新鋭イエスが予言者ヨハネの洗礼を受けたことを知ったある反ヨハネ派の陰謀団体(それは、歴史的見てユダヤの民が得手としてきた秘密結社と考えられ、後の展開から見て本部神殿派に通じている団体と思われる)のエージェントを指しているのではなかろうか。「悪魔との思想問答」とは、そのエージェントとイエスの間で問答が為されたことを暗喩しているのではなかろうか。れんだいこは、そういう史実があり、イエス伝に隠喩的に伝えられているのではなかろうか、と拝察する。

 では、どのような「囁き」がなされたのであろうか。その一、「洗礼後のイエス」は見初められて、何処かのクラブ入りを勧誘された。イエスは、種々の問答と遣り取りを経て、「神の義を求めよ」なる御言葉を返歌した。この御言葉は、秘密結社入りを勧められたイエスが、「そこにいくら利益があろうとも、その道は神の義にそぐわない」と判断し、峻拒したことをメッセージしているのではなかろうか。

 この遣り取りの意義は次のような問いに一般化することができる。人は、生きていく為にやむを得ずオマンマ稼業に精出すことを余儀なくされているが、人はそれだけで生きるのではない。その稼業の中にあっても信仰を持つべきであり、神の義に従う生活をしなければならない。つまり、人はオマンマ稼業にあってもパンだけで生きるものではないことを知り、神の義に生きねばならない、と分別したことになる。

 イエスは、人の生活上における「物質的富たるオマンマ稼業の自己目的的専念」を批判し、「精神的富たる信仰及び思想の格別の重要性」を認識し、神の義を求める生活を指針させていることになる。事実、イエスの生涯は、この言葉通り自ら「神の義」に対する類まれなる純潔の奉仕者となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その二、「悪魔の囁き拒否」は次のことを示唆している。秘密結社入りを拒否したイエスに対して、更に執拗に、自分達に魂を売るならその代わりにこの世での立身出世、栄耀栄華、時の権力、地位名誉を約束しようと囁いた。イエスは、これを断乎拒否し、ひたすら信仰の義に生きる姿勢を鮮明にした。

 つまり、イエス的信仰の道は、「立身出世、栄耀栄華、時の権力」に背を向けたところから始発していることになる。この遣り取りも興味深い。事実、イエスの生涯は、この言葉通り「立身出世、栄耀栄華、時の権力」とは無縁の神一条の人となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その三、「神のご加護の試し」は次のことを示唆している。エージェントは、その熱心な勧誘にも拘らずこれを拒否するイエスに対して、将来に希望が開けないと脅しをかけた。続いて、我々の勧めを断りそれほどに神の義信仰を一途にするのなら、その「神のご加護の試し」をしてみよ、と捨てセリフを告げた。これに対して、イエスは、落ち着いて対処し、その策略に乗らなかった。信仰をそのように証する必要は無く、「神のご加護の試しをするなかれ」と返歌した。

 イエスは、洗礼後の思想問答において、この三原則つまり、1、秘密結社入りの拒否。ひたすら神の義に生きることの宣明。即ち、現世的富よりも精神的富の重視。2、利益誘導、立身出世、栄耀栄華、権力誘導に対する峻拒。即ち、現世利益信仰に堕さない孤高の姿勢の確立。3、合理的信仰姿勢の確立。

 実に、これがその後のイエスの軌跡となり、ここがイエスのその後の布教活動にあたっての原点となった。そういう意味で、この立教始発時の「イエスの思想問答」は今日に至るも意味深いように思われる。人は昔も今も、生きていくうえでこの三条件が問われているのではなかろうか。イエス教義を信奉する者は、このイエスの「ひながた」を銘すべしではなかろうか。

 これより以降は、「イエス履歴その4、イエスの説法始まる」に記す。





(私論.私見)