イエスの概要履歴その1 イエス誕生、その後の歩み

 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日

【イエス誕生】
 紀元前4年(8年という説もある)、イエスは、ユダヤ地方イスラエル(パレスチナ)の北のガリラヤ湖のあるガリラヤ地方のナザレという小さな村で生まれた。異説として、「ダビデ王治下のイスラエル(ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区)のベツレヘム)の馬小屋で、マリアとヨセフの長男として生まれた」とも記されている。
(私論.私見) 「イエス=ナザレ(パレスチナ)人か、イエス=ユダヤ人か」について
 イエス誕生地に於けるナザレかベツレヘムの違いは、イエスがユダヤ人かどうかという問題に繋がる。ナザレ誕生の場合にはガリレヤ人になり、ベツレヘム誕生の場合にはユダヤ人ということになる。後に、イエスが拘束され、ピラトによる尋問の際に、「お前はどこから来たのか」と尋ねられ、イエスがガリレアからやって来た旨を応えたと思われる節があり、ユダヤ人ではなくガリレア人として認識していた様子が伝わる。もっとも、「イエス=ナザレ人」とした場合でも、ガリレヤ人も大きな枠組みではユダヤ人という説もある。「ガリレヤ・ナザレのユダヤ人説」が唱えられており、どうしてもイエスをユダヤ人と看做したい見方が強固に存在することが分かる。

 「ベツレヘム誕生説に基づくイエス=ユダヤ人」説は、旧約聖書のミカ書の一節「ベツレヘムからイスラエルを治める者があらわれる」、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいたベツレヘムから出現する」という預言者の予言に合わせた「故事付け創作聖譚」ではないかと思われる。

 こうして、「イエス=ユダヤ人説」が流布されているが、イエスの風貌の記述を見るとユダヤ人とは違う特徴が判明する。ということは、「イエス=ユダヤ人説」は間違いということになる。歴史考証的に見ても、「イエス=ナザレ人」とすべきであろう。れんだいこは、プレ・ユダヤ教文化圏に属するガリラレヤ・ナザレ人と見立てる。付言すれば、ベツレヘム誕生説でも「イエス=ナザレ人」であり、「ナザレ人=パレスチナ人」と考えている。どうしても「イエス=ユダヤ人説」にするのか「イエス=パレスチナ人説」にするのかの問題である。

(私論.私見) 「イエス誕生に纏わる神秘主義」について
 イエス誕生を廻って「精霊を受胎し、神を父とする神の子」的逸話が数多く為されている。これが「マリア処女懐胎説」と連動している。れんだいこは、そういう聖譚逸話を理解するも見解は留保する。というか、これもユダヤ教神学の対極ではあるが形を変えたユダヤ教神学ではなかろうかと理解している。

 2007.2.27日 れんだいこ拝

【イエスの誕生祭としてのクリスマス考】
 「クリスマスって何?クリスマスについての質問と答え!」その他を参照する。

 イエス・キリストの誕生日に関する記録は残されていないため、正確な日付はわからない。西暦273年、時のローマ皇帝アウレリアヌスは、12.25日を太陽神の誕生日と定めた。この頃キリスト教が浸透し始め、イエス・キリストも又「正義の太陽」、「世の光」と崇められていたことから同視され始めた。

 336年、当時の教会が、この祭日をイエス・キリストの誕生を祝う日と定めた。以来、4世紀頃よりキリスト教圏では、12.25日をイエスの誕生日と定め、イエス・キリストがこの世に生まれたことをお祝いする祝祭としてクリスマスを催すことになった。

 初期のイエスキリスト教に於いては、キリストの出現を祝う日として、1.6日の公現祭が祀られてきた。現在でも、ギリシャ、ロシアなどの東方キリスト教では、12.25日は祝わず、1.6日を大祭としている。

 クリスマスは、英語では「Christmas」と表記される。これは「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味である。ドイツ語では「Weihnacht」と呼ばれ、これは「聖夜(キリストが生まれた夜)」という意味である。「Xmas」とも表記されるが、「X」は、ギリシャ語の「Xristos」(キリスト)の頭文字で、「X」で「Christ」(キリスト)を代用している。12.14日をクリスマス・イブと云う。イブ(Eve)とは「前夜」という意味である。メリー(Merry)は、「楽しい」とか「愉快な」という意味で、「楽しいクリスマスを!」ということになる。

 クリスマス・カラーとして緑や赤が用いられる。その意味は次の通りである。緑はクリスマスツリーに使われるが、常緑樹の緑は強い生命力、永遠を表している。それは、神の永遠の愛や、イエス・キリストが与える永遠の命を象徴してる。赤はイエス・キリストが十字架にかかって死んだ際に流した血を表している。

 補足すれば、サンタ・クロースの起源は、4世紀の小アジア(今のトルコ)に実在したニコラスという司教をモデルにしている。ニコラスは、貧しい人や子供達を助けたことで多くの人に慕われ、後に聖人とされて聖ニコラス(Saint Nicholas)と呼ばれた。カトリック教会が、聖ニコラスをクリスマスのお祝いと結び付けるようになった。オランダ語で「Sinterklaas」と呼ばれていたが、17世紀になってオランダ人がニューアムステルダム(今のニューヨーク)を建設した際、その伝統も一緒にアメリカに渡った。この時、英語的な発音になおされて「Santa Claus」つまりサンタ・クロースとなった。19世紀に入るとサンタ・クロースが夢物語にしたてられ、トナカイのそりに乗ってやって来て、煙突から入って来るといったイメージが確立した。

【イエスの家系と誕生前後の経緯】
 父はヨセフ、母はマリアであった。父ヨセフ、母マリアにつき種々に記載されているが略す。ユダヤの王として君臨していたヘロデ王は、「ユダヤの救世主誕生」の噂を耳にすると、それを阻止するために実子殺しを強行し始めた。それを恐れたイエスの両親は、イエスを連れてエジプトに逃れたと伝承されている。これも、後世の創作聖譚ではないかと思われる。

【イエスのナザレ時代】
 ヘロデ王の死と同時に、イエスと両親はナザレ村に帰ってきて、イエスはガリレアのナザレ村で少年時代を過ごす。ヘロデ王の迫害経緯、イエス一家の逃亡経緯の真相は分からないが、イエスがナザレ村で少年時代を過ごしたのは確かである。なお、ガリレア地方は歴史的に四通八達の通商の盛んな地で且つ圧制に対する抵抗運動の根強い土地柄であった。イエスが、こういう歴史的風土で育っていったことは注目されてよい。

【イエスの幼少よりの宗教的天分の開花のご様子】
 イエスは、幼少より宗教的天分を如何なく発揮していた。「ルカによる福音書」は、「イエスの幼少よりの宗教的天分の開花のご様子」を次のように記している。
 「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」。
 概要「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが12歳の逸話。両親が、祭りの期間が終わって帰路についたとき、イエスがいなくなっていることに気づいた。親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかった。三日後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。『イエスよ、何をしているのか。御覧なさい。お父さんもわたしも心配してどれだけ捜したことやら』。すると、イエスは言われた。『私は、両親にもまして神殿が我が父の家のような気がしています。心配は要りません。私の性分はお分かりでしょう』」。
 「(こういう逸話を残しながら、)イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。
(私論.私見) 「ルカによる福音書」による「12歳時イエスの神殿篭り逸話」について
 「ルカによる福音書」によれば、イエスは12歳の時の両親に連れられての過越祭旅行時の様子を明らかにしている。それによれば、イエスの両親は過越祭期には毎年イスラエル詣でをする敬虔な信者であったことが判明する。イエス12歳の時、イエスは親から離れ、三日間にわたって「神殿篭り」していたことを伝えている。

 「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」をそのまま受け取れば、イエスは宗教的天分において天才的な早熟児ぶりを見せていたことになる。この逸話の真偽は不明であるが、幼少期のイエスの宗教的天分を知る上でのかなり重要な指摘のように思える。

 これより以降は、「イエス履歴その2、ヨハネの洗礼を受ける」に記す。





(私論.私見)