イエスの履歴その2 ヨハネの洗礼を受ける

 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日

 
これより先は「イエスの履歴その1、イエス誕生、その後の歩みに記す。

【ヨハネの伝道活動、ヨハネ考】
 紀元27年この頃、洗礼者ヨハネが宣教活動を開始する。ヨハネは、預言者的威風で影響を及ぼしていった。旧約聖書は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモスなどの多くの預言者の教えと行跡を伝えている。最後の預言者が紀元前420年頃のマラキであり、ヨハネはそのマラキ以来の預言者の出現と噂された。

 この当時、ユダヤ教は旺盛な教義形成期の頃であり、教義を廻って大祭司、律法学者を権威とし、その座を廻ってサドカイ派とパリサイ派の対立が続いていた。他にエッセネ派が孤高の教団を形成していた。非常にドラスチックに教義形成されつつある時期であり、他にも有象無象の預言者、霊能者が跋扈していたと思われる。この系譜の最大の能力者がヨハネであった。(このヨハネとイエス福音書執筆者ヨハネを区別する必要があり、前者を「預言者ヨハネ又は単にヨハネ」、後者を「福音書ヨハネ」と称することにする)
(私論.私見) ヨハネの伝道開始時期について
 ヨハネの伝道開始時期を紀元27年頃とすると、イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で十字架磔刑されたのが紀元30年であるから、イエスの伝道活動が僅か三年間ということになる。年代考証的にこれが正しいのかどうかわからないが、これを史実とすると信じられないほど短期間と云うことになり、イエスの活動が非常に慌しかったことになる。いずれにせよ、イエスの伝道活動に先行してヨハネの布教活動が為されており、イエスはこのヨハネに相当の影響を受けていることを踏まえる必要があるように思われる。

 なお、イエスの誕生を紀元前4年とすると、イエスはヨハネが伝道を開始した紀元27年には30歳を越していたことになる。青年期を終え、十分な年齢に達していたことになる。
 ヨハネについては、「ルカによる福音書」、「ヨハネによる福音書」が詳しい。これによると、ヨハネは「モーゼ以降の最大の預言者」ということになる。「イエス派ヨハネ」の「ヨハネによる福音書」は次のように記している。
 「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」。

 ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた。長ずるに及びエッセネ派で学び、預言者として自他共に任じてからはヨルダン川沿いの地方一帯で洗礼(バプテスマ)を授け、「悔い改めよ。天の国は近づいた。最後の審判の日が近い」と唱えつつ福音を宣べ伝えていた。「預言者ヨハネ」は、野生のイナゴ豆と野蜜(蜂蜜、ナツメヤシの蜜)を常食し、粗末な毛皮の衣をまとっていた、と伝えられている。

 ちなみに、ヨルダン川は、ユダヤ教に於いては宗教的に重要な歴史的意味を持つ。即ち、紀元前1200年頃、ヘブライ民族はモーゼに率いられて40年にわたる放浪の末、ヨルダン川の浅瀬を渡って「約束の自由の地カナン」に入った。この由来で、ヨルダン川は「神に近づく道」の象徴として位置づけられていた。

 ユダヤ教に於いては洗礼も信仰上大きな意味を持ち、水浴は神の御前に於いて清澄な身にして臨むべしとする儀礼に関わるものであり重要視されている。ヨハネのヨルダン河畔での洗礼は、これを踏まえていたことになる。

 ヨハネの洗礼はもう一つの意味で画期的であった。ユダヤ教徒は、エルサレム神殿で生贄の血による浄めの儀式を受けるのが伝統的であったが、ヨハネはそれに拠らずヨルダン川の水による洗礼で入信せしめるという方法を創案したことになる。ここにヨハネ教の革新的意義が認められる。

 ヨハネは、そのヨルダン川の畔(ほとり)で、既成宗派の権威主義的な信仰ぶりを批判し、神殿にも会堂(シナゴーグ)にも行かず、自前のヨハネ教団を形成しつつ集団生活し始めていた。「預言者ヨハネ」教義の特徴は、煩雑な儀礼を重視する神殿派の形式教義に比して信仰の内実を重視しているところにあった。

 そういう位置づけから、人々に罪の告白→改心→洗礼を入信手順にしていた。心の持ち方として、正直さ、他者の尊重、分かち合いの精神を涵養するよう説いていた。「汚れ忌避の清め」を重視したが、神殿派のように制度に於いて捉えるのではなく、個々の信者の心と生活に於ける浄化こそ大事と説いていた。そういう意味で、神殿派の教義を信仰の制度主義、ヨハネの教義を信仰の内面主義と評することができよう。イエスはこれを継承していくことになる。
 
 ヨハネは、その言を見れば、激しく律法学者、サドカイ派、パリサイ派の偽善主義を攻撃していた。
 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆な切り倒されて火に投げ込まれる。悔い改めよ。天の国は近づいた」。

 ヨハネは、次のように説法していた。
 群衆は、「では、私達はどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。社会から嫌われ者の徴税人が洗礼を受けるために来て、「先生、私達はどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と答えた。兵士も、「私達はどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えた。

 こういうヨハネの立ち居振る舞いを見、その説法を聞いた民衆は、メシアを待ち望んでいて、ヨハネこそもしかしたらメシアではないかと賛辞していた。ヨハネは、ほかにもさまざまな説法で民衆に福音を告げ知らせた。

 しかし、ヨハネのこの説法は、ユダヤの律法学者、パリサイ派にとって不愉快な教説であった。次の批判が記されている。
 「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」。
(私論.私見) 「預言者ヨハネ」の洗礼資格について
 この言を裏読みすれば、預言者ヨハネは、律法学者、パリサイ派の権威主義に対して、反権威主義で対立しつつ洗礼を授け続けていたことが判明する。

 ユダヤ教徒の目標箴言である「イザヤの預言」には次のような名句がある。
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆な神の救いを仰ぎ見る」。

 ヨハネは、あなたは何者かの質問に対して答えず、 「イザヤの預言」を持ち出し、その忠実な司祭であると語っていることになる。

 「預言者ヨハネ」とユダヤの律法学者との尋問が次のように為されたことが記されている。「マタイによる福音書」13章14節、15節が伝えている。れんだいこがこれを対話形式で整理してみると、次のようなやり取りになる。
ヨハネ  あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。
 あなたは、どなたですか。
ヨハネ  わたしはメシアではない。
 では何ですか。あなたはエリヤですか。
ヨハネ  違う。
 あなたは、あの預言者なのですか。
ヨハネ  そうではない。
 それではいったい、誰なのですか。あなたは自分を何だと言うのですか。
ヨハネ  預言者イザヤの書に書いてある通りである。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』。預言者イザヤの予言にある『荒れ野で叫ぶ声』が私の言である。
(私論.私見) 「預言者ヨハネ」の神義学的位置づけについて
 これによると、「預言者ヨハネ」は、概要「自分はメシアではない。エリヤでもない。預言者イザヤの予言する真理を語る者である」と述べていることになる。この立場は、イエスの立場との比較で重要になるが、これについては後に考察することにする。

【イエスのヨハネ論】
 イエスは次のような「預言者ヨハネ」論を説いている。
 ヨハネは預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。
(私論.私見) イエスの「預言者ヨハネ」論その1
 これによれば、イエスは、ヨハネを「モーゼ以降の最大の預言者にして預言者以上の偉大な者」と捉えていたことが判明する。

 イエスは、「しかし」と述べ、次のように云う。
 天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
(私論.私見) イエスの「預言者ヨハネ」論その2
 つまり、「ヨハネは偉大な預言者であり預言者以上の偉大な者であるが、人の子であり神の子ではない。その見極めが大事である」としている。この発言は、イエスの観る神が唯一神ではなく諸神であることを判明させている。これは特に留意されるべきであろう。その上で、ヨハネと諸神の比較を通じて諸神の偉大さを称えていることになる。

 イエスは更に、「しかし」」と述べ、次のように云う。
 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
(私論.私見)  イエスの「預言者ヨハネ」論その3
 つまり、イエスは、預言者ヨハネを「神の国到来前の最後の最大の預言者にして神の使者」として捉えていたことが判明する。

 イエスは更に、「しかし」と云う。
 その偉大な預言者ヨハネに対して、ユダヤの律法者やパリサイ派の者達はヨハネを認めず、『彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ』」。
(私論.私見)  イエスのユダヤ教律法学者、パリサイ派批判
 つまり、イエスは、ユダヤ教律法学者やパリサイ派が、正しき信仰の継承者であり預言者であったヨハネを正当にもてなさなかったことに対して、その非を咎めていたことになる。

 律法学者やパリサイ派の悪しき行状について、「使徒言行録」では次のように記されている。
 あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。

 ちなみに、キリスト教義では、「預言者ヨハネ」とイエスを比較して、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、イエスは聖霊による洗礼を授けられる」と評している。

【イエスがヨハネの洗礼を受ける】
 イエスの宗教的天分は驚くべきものであり、幼少より啓発され、既成の教義を充分に咀嚼し聞き分け、特に「預言者ヨハネ」の教えに傾倒していた。長ずるに及び、イエスはガリラヤから足を運び、このヨハネからヨルダン川で洗礼を受けている。このことは、イエスがヨハネ教団に入ったことを意味する。同時に、イエスが神殿派の信仰制度主義に対するヨハネの信仰内面主義に列なったことを意味する。ヨハネがエッセネ派系譜であることを思えば、イエスもエッセネ派系譜ということになる。

 メシアの再来と評されていたヨハネは、「ヨハネが自身を凌ぐ次にやって来る者イエスの出現」を予言していた。そのイエスが現れた時、次のように述べたと記されている。
 意訳概要/私は、人々を今の世を悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けてきた。しかしそれは、『次に来られる方』を準備する為の洗礼授けであった。見よ、世の罪を取り除く神の小羊が現れた。私が、『私の後から一人の人が来られる。その方はわたしに優る。もっと本物の方であられる』と述べていたのはこの方のことである。この方はイスラエルに出向き、神の義を打ちたてることになるだろう。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。この方こそ神の子である。
(私論.私見)  ヨハネのイエス観
 この言によれば、「モーゼ以降の最大の預言者」ヨハネをして「この方こそ神の子である」と云わしめたのがイエスであったことになる。且つ、「預言者ヨハネ」は、「神の子」が追って使わされることを信じていたことになる。俗に云えば、ヨハネはイエスの前座を務める引き立て役として自らを位置づけていることになる。

 ヨハネは、次のようにも述べたと伝えられている。
 私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたの方からお越し下されたのですか。

 それに対して、イエスは、次のように応じている。
 今は、止めないで下さい。正しいことを行うのは、我々に相応しいことです。

 イエスのこの言により、ヨハネはイエスに洗礼を施した。
(私論.私見) イエスの「ヨハネからの洗礼」について
 イエスがヨハネの洗礼を受けたことには深い意味を悟らねばならないように思う。イエスはそれまでの教義研鑽によって、ヨハネこそ信仰上の正しき義を継承しているとして自ら進んでヨハネの門徒になった拝察すべきであろう。ということは、ヨハネが激しく対立していたユダヤの律法学者、サドカイ派、パリサイ派に対して、イエスも又同じくこれを論難していく立場に立ったことを意味しよう。

【イエスが、ヨハネ教団の集団生活に入り、やがて抜け出し故郷ガリラヤに戻る】
 洗礼後のイエスは、期間はどれくらいか分からないがヨハネ教団の集団生活に入ったように思われる。イエスもやがて洗礼を授けるようになった。このことが、ヨハネの弟子から疎まれたとの説もある。イエスはやがて、ヨハネ派の禁欲主義、修行主義に得心できなかったのか、既に全てを修得したのか、ヨハネ教団を出て自立していくことになる。イエスは、故郷ガリラヤに戻った。
(私論.私見) イエスのヨハネ教団入りと出藍考
 イエスのヨハネ教団入りとそこからの出家は、「青は藍より出で藍より青し」の出藍過程として拝察すべきであろう。

 故郷ガリラヤに戻ったイエスの行状は不明である。イエスは、粗末な毛皮の衣を纏ってイナゴ豆と野蜜を好むヨハネと違って、普通の服装をし、宴会にも出席し、「大食漢で大酒飲み」の面も見せていたとの逸話もある。つまり、イエスには、身なりも暮らしぶりも何ら風変わりなところがなかった、と伝えられている。
(私論.私見) イエスとヨハネの違い 
 イエスのヨハネとの違いは、イエスがヨハネの厳格な戒律をヨハネほど重視せず、むしろ世俗とまみれることに抵抗を持たなかったことにあるように思われる。分かり易くいえば、ヨハネは「山の仙人」を目指し、イエスは「里の仙人」を目指したという差になるように思われる。これは、天理教教祖中山みきの「山の仙人、里の仙人」教話による類推であるが。

 これより以降は、「イエス履歴その3、荒野問答」に記す。





(私論.私見)