日本囲碁史考、秀策入門から幕末まで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和4).1.20日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで日本囲碁史考7として「日本囲碁史考、秀策入門から幕末まで」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


1837(天保8)年

【後の秀策の入門譚】
 1837(天保8)年、11月、桑原虎次郎(後の安田栄斎、更に後の秀策)9歳の時、芸州三原藩主浅野甲斐守忠敬を後盾として浅野家の家臣寺西右膳に連れられて上京し、江戸の本因坊丈和の門を叩く。入門が許され、本因坊家へ内弟子として住み込む身となった。

 翌年、虎次郎が道場で兄弟子と対局していたところへ、本因坊丈和が通りかかり、その石運びに目を通した丈和は次のように詠じた。
 「これまさに百五十年来の棋豪(きごう)にして、我が本因坊家の門風はこれより大いに揚(あ)がらん(揚がるであろう)」(「坐隠談叢」)。

 「百五十年来」とは道策以来という意味である。

 「囲碁見聞誌」(川村知足、1884年)は次のように記している。
 「丈和先生折節本所より来り、秀策が碁を寂(つくづく)見て、我が稽古場は益々繁栄ならん、百五十年以来の棋出来たりと賞し帰られし由」。

 百五十年前といえば島根県西部の石見(いわみ)の国出身の第四世本因坊道策の時代で、栄斎はそれ以来の碁豪であるという意味であろう。道策は俗に十三段(当時九段・名人が最高)の実力で前世碁聖の名が冠せられ、丈和が後世。秀策は死後、明治になって碁聖と仰がれることになる。

 「秀和-安井算知(俊哲)(先相先の先)」戦が組まれている。
12.7日 秀和-算知(俊哲)(先相先の先) 秀和白番2目勝
(序盤の失着を着々と盛り返しついに抜き去った白の好局)
12.9日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番10目勝
12.18日 算知(俊哲)秀和(先) 秀和先番3目勝
12.29日 秀和-算知(俊哲)(先) 算知先番2目勝
 「秀和-林門入(柏栄)」戦が組まれている。
林門入(柏栄)-秀和(先) 秀和の先番勝
秀和-林門入(柏栄)(先) 秀和の白番勝
 安井家隠居仙角(7世仙知、大仙知)生没(享年74歳)。仙知は、他の碁打ちに大きく勝ち越した。烈元に16勝2敗1ジゴ。烈元の跡目河野元虎に9勝2敗。林祐元門入に、御城碁初出仕の門入二子を破り、1810(文化7)年までに18勝9敗2ジゴ。名人碁所の地位も望めたが、そういう動きを見せていない。1815(文化12)年、51歳で隠居して知得に家督を譲り仙角と号する。 仙知の棋風は、江戸時代中期としては異色の、位が高く中央重視で、戦い指向の創造性豊かな構想を展開した。近代碁の祖と云われる。幕末の本因坊秀和は、「当代華やかなる碁を推さんには、七世仙角の右に出ずる者なかるべし」と評している。木谷實の新布石のアイデアは仙知の影響を受けたと言われている。仙知はまた幕末にかけて本因坊家に拮抗する安井家の興隆に大きく寄与している。
 12月、「土屋秀和、竹川弥三郎(先番5目コミ)対太田雄蔵、服部正徹局」が史上初のコミ碁として打たれている(打ち掛け)。(日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド2005.1月号付録) 
 この年、葛野亀三郎(丈和の三男、後の初代中川)、三好紀徳、生まれる。

【天保四傑】
 この頃の安井算知俊哲、太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和を天保四傑という。俊哲が9世安井算知となる。ちなみに、名人となれる実力がありながら、時を得ず不運にも名人になれなかった棋士として、本因坊元丈、中野知得、11世井上因碩(幻庵)、14世本因坊秀和を囲碁四哲という。

 秀策は、天保四傑のうちでは「雄蔵が芸、毫厘の力勝れり」(「囲碁見聞誌」)、「四傑のうち雄蔵こそ筆頭随一」と高く評価している。その雄蔵は、阪口仙得には先相先のままなど対戦成績ではそれほど好成績ではなかった。ただし22歳も年下で日の出の勢いの棋聖秀策に対し、初老に近い年齢の雄蔵が17局まで互先で持ちこたえて見せた実力は高く評価される。現代でも藤沢秀行など、好きな棋士として雄蔵の名を挙げる者は少なくない。秀和とは140局近くの棋譜が残されている。高目、目外しを多用し、振り替わりの多いことで柔軟、華麗の印象を持たれている。

 1838(天保9)年

 1.11日、「(坊)丈和-太田雄蔵(2子)」、雄蔵先番勝。
 1月-3月、「安井算知(俊哲)-秀和(先)」戦が組まれている。算知(俊哲)は安井家9世を継いで間もなくの29歳7段、秀和はまだ跡目になっていない頃で19歳6段。
1.12日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
1.15日 安知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番1目勝
1.22日 秀和-算知(俊哲)(先) 算知先番中押勝
「算知との互先初番で囲碁史に残る激戦譜」。
1.24日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
2月 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番7目勝
2.8日 算知(俊哲)-秀和 (先) 秀和先番9目勝
2.13日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番3目勝
2.19日 算知(俊哲)-秀和 (先) ジゴ
2.23日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番5目勝
3.5日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
4.21日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番4目勝
4.23日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番7目勝
8.14日 算知(俊哲)-秀和(先相先の先) ジゴ

 8.14日の 「算知(俊哲)-秀和(先相先の先)」は、先相先に打ち込んだ秀和が黒1に星。算知の白2は記録に残る最初の三3である。
 2月、安井8世仙知(知得)重病につき、慰問に閑し幕府より跡目俊哲を7段に昇格させる議起り、名人丈和これを承認する。丈和の名人碁所に協力した際の8段昇進の口約束を反古にされていた林元美は激昂して丈和との20番争碁を願い出る。これが遠因となり、丈和が碁所の退位願いを出し、牧野備中守が受理する。丈和の碁所は天保2年以来の僅か8年となった。

 丈和が名人碁所を引退したことにより、本因坊元丈の子の丈策が家督を継いだ。9月、跡目丈策の相続人を秀和と内定する。
 3月-4月、「秀和-太田雄蔵」戦が組まれている。
3.9日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.23日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番勝
4.12日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
4.15日 太田雄蔵-秀和(先) 雄蔵白番勝
 3月-4月、「坂口仙得-秀和」戦が組まれている。
3.11日 坂口仙得-秀和(先) 仙得白番勝
3.22日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番7目勝
4.11日 秀和-坂口仙得(先) 仙得先番4目勝
 2.29日、「(坊)丈和-伊藤安次郎(4子)」、伊藤先番勝。
 3.11日、「(坊)丈和-伊藤松次郎(2子)」、打ち掛け?。
 3.14日、「(坊)丈和-加藤隆次郎 (2子)」、加藤先番1目勝。
 萩野虎次郎が坂口家を継いで阪口仙得を名乗る。阪口仙得は天保四傑に数えられている。
 「(坊)丈和-河北耕之助」戦が組まれている。
4.25日 (坊)丈和-河北耕之助(3子) 河北3子局中押勝
4.27日 (坊)丈和-河北耕之助(2子) 丈和2子局白番7目勝
5.20日 (坊)丈和-河北耕之助 (2子) 丈和2子局白番7目勝
 閏4.27日、8世仙知没(享年63歳(74歳?))。跡目俊哲の家督相続が聞き届けられ算知9世となる。
 4.30日、「井上因碩(幻庵)-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番16目勝。
 5.18日、「坂口虎次郎-秀和(先相先の先)」、秀和先番5目勝。不明の碁に於ける秀和の終盤の二枚腰 。
 6.6日、「安井算知(俊哲)-本因坊丈策(先)」、ジゴ。
 7.8日、本因坊丈和、細川家と本因坊家親交の由緒書を差し出す。
8.19日 「服部雄節-秀和(互先の先)」 秀和先番中押勝
「秀和の星打ち局」。
10.7日 服部雄節-秀和(先) 秀和先番8目勝
 11.3日、阪口仙得7段に昇進、新規召出され、御目見得。

 1838(天保9)年11.17日、御城碁。
 阪口仙得7段が御城碁初出仕、以後文久元年まで31局を勤める。
474局 林11世元美6段-(坊跡目)丈策7段(先)
 丈策先番中押勝
(元美9局)
(丈策5局)
475局 (安井9世)俊哲-(林門入跡目)柏栄(先)
 柏栄先番5目勝
(俊哲14局)
(柏栄13局)
476局 坂口仙得-服部雄節(先)
 雄節先番中押勝
(坂口仙得初1局)
(服部雄節6局)
 この年、村瀬弥吉(秀甫)、伊藤小太郎が生まれる。知得生没。門人には、太田雄蔵(この年、6段に昇段)、阪口仙得、鈴木知清、片山知的、石原是山、桜井知達、佐藤源次郎など多数、本因坊家に匹敵する興隆となった。
 この年、村瀬弥吉(秀甫)が、江戸の上野車坂下で、本因坊道場の隣に住む大工の倅(せがれ)として生まれる。
 伊藤小太郎が生まれる。

【安井算知9世(俊哲)】 (「ウィキペディア9世安井算知 (俊哲)」)
 安井算知9世 (俊哲)のプロフィールは次の通り。
 

 (1810(文化7)年-1858(安政5).7.4日)
 安井8世知得仙知の長男で、安井算知2世の名を継ぐ。家元安井家の安井算知9世、7段上手。天保四傑と呼ばれた一人で無双の力碁とされる。息子は安井10世算英。

 江戸両国薬研堀の安井家屋敷で生まれる。幼名は金之助、後に俊哲と名乗る。少年時代には、安井家が本所相生町の本因坊家屋敷に近かったため、姉の鉚(後に2段)と共に腕を磨きに通った。1825(文政8)年、16歳の時、2段で跡目になり、御城碁に初出仕し服部因淑に三子で中押勝ち。若い頃は打つ買う飲むの道楽者だったが、父仙知は一言の小言も言わず、見苦しい負けをしたときだけ叱ったと言われる(「坐隠談叢」)。「師匠の子をなぐった話」で次のように紹介されている。

 意訳概要「九世安井算知は知得仙知の実子。壮年時代は、飲む打つ買う、三拍子そろった道楽者で、父の代稽古に行くとき、父から羽織、袴を借りて出て、帰りにはそれを質に入れて遊んでくる、といった具合だった。御城碁の下打ちの前の晩も、酔いつぶれて仲間に心配をかけることもしばしばあった。しかし父の仙知はどこか見所があると思ってか、一切小言をいわず、為すがままにまかせ、ただ見苦しく負けたときだけは厳しく叱責した。

 算知の碁は豪放一家をなし、秀和でさえしばしば苦杯を喫したと云う。厳埼健造がまだ海老沢といった若かりし頃、算知の家の塾生だった。ある日、健造が算知の子、算英が打った碁を見てやっていると、どうもなんともいいようのないヘボな手を打つ。剛腹で、いささか気の短い健造は、段々むかついてきて、『安井家十代目となるものが、こんなことでどうするか、バカもん』。腹が立って、相手が師匠の子だという事も忘れ、こぶしを固めて、いきなり頭をなぐりつけた。当時算英はまだ十歳前後の少年。わっと泣き出すと母親のそばへ行って告げた。『まあ、なんということを。弟子の分際で師匠の子の頭をぶつなどとは非礼もきわまりない』。母親は怒って夫の帰宅を待ち、算知の帰ってきたところ早速告げ口したところ、算知は、その弟子を呼び事情をといただし、訳を聞いて曰く、『わが子の碁の愚鈍に腹を立て、ようなぐってくれた。これからも技に暗く、見るにたえぬときは何度でもなぐってくれ』。かく褒めて自分の羽織を脱いで与えたと云う」。

 1833(天保4)年、6段昇段。1837(天保8)年、7段昇段するが、手合割は6段のままという名目的な昇段だった。1838(天保9)年に父仙知が没し、家督を相続して九世安井算知となる。御城碁では、7世安井仙知の喪に服した天保8年を除き、1857(安政4)年まで皆勤し42局を勤め、これは本因坊烈元に次ぐ。1858(安政5)年に弟子の海老沢健造(後の巌崎健造)とともに関西を遊歴し、7月に帰路の沼津で没する。子の算英が12歳で安井家を継いだ。

 戦績。井上幻庵因碩とは先相先まで十数局を遺し、算知先では打ち分け。本因坊丈和とは、文政12年(1829年)御城碁で二子で敗れ、父に叱責されたと言う。天保4年の先二の先番では、4日をかけて1目勝ち。10歳年少の本因坊秀和とは親しい間柄で130局余が遺されている。1836(天保7)年に秀和先が初手合。その後秀和の成長により、天保8年には秀和先相先だったが、翌年1月に互先、6月には算知先相先、10年には先二にまで打込まれ、14年には互先に戻す。その後は算知先相先と先を往復した。ただし御城碁での対秀和戦では黒番で5勝、白番で1勝3敗としている。両者間の対局では、秀和の星打ち、算知の三々や天元打ちなども試みられている。1839(天保10)年の伊藤松和(勝)との対局は405手の長手順で知られる。

  安井算知9世 (俊哲)の御城碁は「(算知9世)俊哲の御城碁譜」に記す。
 門下、その他
 算知門下では、巌崎健造、鬼塚源治、奈良林倉吉、中村正平が当時安井門四天王と呼ばれ、他に田原恒三郎、中松松齋、石原常三郎、島村栄太郎らの五段がいた。健造は明治期にも活躍し、方円社3代目社長も務める。健造が算英十歳頃に碁を見てやっていて、あまりに稚拙な手を打つので手を上げたことがあり、算英は泣いて母親に訴えたが、算知は健造の話を聞いて、今後も遠慮なく殴ってくれ、算英の兄とも師ともなってくれと褒めたと云う。安井家の1世安井算哲、2世安井算知、3世安井知哲の墓所は京都寂光寺にあったが、1708(宝永5)年に火災で失われた。算知はこれを、1852(嘉永5)年に江戸深川浄心寺に改葬した。

 1839(天保10)年
 この年、蛮社の獄起こる。

 「(坊)丈和-秀和」戦が組まれている。
1.12日 (坊)丈和-秀和(先二の先) 秀和先番3目勝
「秀和の出藍秘譜」。
2.25日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番3目勝
 2.1日、「秀和―安井賛知(先相先の先)」、秀和白番5目勝。

 秀和は13歳で丈和の門に入り、17歳5段、19歳6段。天保11年、21歳で7段に進み、本因坊丈策の跡目養子となった。この頃の秀和は大いに戦い、守りに回っても強靭な二枚腰を発揮しており、近代碁の象徴ともいえる星打ちを試みている。
 「因碩(幻庵)-秀和」戦が組まれている。
3.10日 「因碩(幻庵)-秀和(先)」 幻庵白番6目勝
4.4日 因碩(幻庵)-秀和(先) 秀和先番1目勝
「幻庵との第2局」。
4.23日 因碩(幻庵)-秀和(先) 幻庵白番6目勝
5.24日 因碩(幻庵)-秀和(先) 秀和先番1目勝
 4.3日、「安井算知(俊哲)-伊藤松和(先番)」、松和の先番2目勝ち。中盤と終盤に大石の生死を巡る劫争いが延々争われて405手の長手順となったことで知られ、「古今の長局」と呼ばれた(現在の記録は1950年の大手合、山部俊郎-星野紀戦の411手)。
 5.12日、「伊藤松次郎-本因坊丈策(先)」、丈策先番6目勝。
 5.20日、「因碩(幻庵)-安井算知(俊哲)(先)」、幻庵白番8目勝。
 6.2日、「本因坊丈策-伊藤松和(先)」、打ち掛け。
 「秀和-岸本左一郎(2子)」戦が組まれている。
7.14日 秀和-岸本左一郎(2子) 岸本先番勝
7.24日 秀和-岸本左一郎(2子) 秀和白番2目勝
7.27日 秀和-岸本左一郎(2子) 秀和白番勝  
9.28日 秀和-岸本左一郎(2子) 岸本先番3目勝
 「秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
8.2日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
8.22日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番勝
9.12日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番2目勝  
10.29日 伊藤松和-秀和(先) 不詳(秀和の勝ち?)
 10.9日、「因碩(幻庵)-太田雄蔵(先)」、不詳。
 「秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
太田雄蔵-秀和(先) 不詳。
10.11日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番4目勝
11.2日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
「雄蔵を定先に打ち込んだ碁」。

 1839(天保10)年11.17日(12.22日)、御城碁。
477局 (坊跡目)丈策-(安井9世)俊哲(先)
 丈策白番3目勝
(丈策6局)
(俊哲15局)
478局 (安井9世)俊哲-(坊跡目)丈策(先)
 丈策先番3目勝
(俊哲16局)
(丈策7局)
479局 坂口仙得7段-(林門入跡目)柏栄7段(先)
 仙徳白番中押勝
(坂口仙得2局)
(柏栄14局)

 11.26日、「秀和-安井算知(俊哲)(2子)」、俊哲2子局3目勝。
 11.29日、本因坊丈和が、三原藩浅野候からの預り弟子・秀策に初段を免許した。桒原虎次郎改め安田栄斎13歳のときである。免状の文章は次の通り。
 「囲碁幼年たりと雖も執心所作宜しく手段も感心致し候。これによって自今上手に対し三碁子の手合い初段を免許しおわんぬ。 天保十己亥11月29日 官賜碁所 本因坊丈和 安田栄斎老」。
 本因坊丈和が碁所を守り通す間、林元美との密約である8段昇進を実行せず、元美は死を賭して争碁を願い出る。これが引き金となって丈和の引退の流れが生まれる。
 11月、元美が、因碩の同意を得て8段昇段届書を差し出すも、本因坊、安井両家の反対によって不許可になる。
 11.30日(晦日)、本因坊丈和が、元美、因碩らの運動によって碁所を引退し、引退の翌年に本所相生町の邸に隠居する(53歳)。時に車坂の道場に顔を見せて後進の碁を見てやり、時に稽古を打っていたと云う。丈策が本因坊13世を継ぐ。
 本因坊家で、秀和が跡目となり21歳で7段に進む。この年から御城碁に出仕し、最後の御城碁まで29局を残すことになる。
 この年、服部雄節著「石配自在」(いしくばりじざい)4巻1冊が刊行される。

【本因坊13世丈策時代】

【丈和引退、丈策が本因坊13世となる】
 丈和は、先師の本因坊11世元丈の実子長男/宮重丈策を跡目として家督相続させた。本因坊13世となる。同時に、当時同家の門弟の中で最も優れた棋力の持主だった土屋秀和(当時7段)を丈策の跡目に推薦している。丈和の長子・戸谷梅太郎道和を出し抜いての抜擢だった。戸谷梅太郎道和は水谷琢順の養子となった後に、12世井上因碩(節山)となる。三男は、明治期の方円社二代目社長の中川亀三郎である。長女・はなは、本因坊秀策に嫁いだ。

 同月晦日、御目見得。結局丈和もわずか在位8年で幕府から引退を命じられる。丈和引退後、幻庵因碩が名人位を望み名人碁所の願書を提出する。これに抵抗したのが本因坊一門の若き天才児本因坊秀和であった。

【勢子(本因坊丈和の妻)考】
 2020.5.21日付け「『勢子の権柄』 本因坊丈和の妻 勢子」転載。

 巣鴨の本妙寺にある囲碁の家元・本因坊家の墓所で、説明板に書かれていない墓について調査し、一部について誰の墓か分かってきました。その一つの墓石に刻まれた「遥成院妙見日等信女」の戒名は、十二世本因坊丈和の妻、勢子の戒名であることが判明しました。

 丈和は最初の妻、達子との間に長男の戸谷梅太郎(井上秀徹)をもうけ、その後、後妻である勢子との間に十四世跡目本因坊秀策に嫁いだハナや、維新後の囲碁界をけん引していく中川亀三郎ら多くの子供をもうけています。

 
「天保の内訌」と呼ばれる策略で名人碁所にまで上り詰めた丈和ですが、他の家元の反発も激しく、天保10年(1839)に引退し、先代元丈の子である丈策に家督を譲ると共に、門人の秀和をその跡目とします。さらに、天保8年(1837)に安田栄斎(秀策)が入門すると、その打ち振りに「是れ正に百五十年来(道策以来)の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と絶賛。秀策秀和以降の本因坊跡目にしようと準備を進めていきます。そして弘化4年(1847)に丈策丈和が相次いで亡くなり、翌年に秀和が本因坊家十四世に就任。秀策は跡目となると共に丈和の長女ハナと結婚しています。この時、ハナの母親である勢子は健在であり、秀和にとって自分を当主へ押し上げてくれた師匠の未亡人として大きな影響力を持っていました。

 
文久2年(1862)江戸で大流行したコレラにより勢子の娘婿である本因坊秀策が急死すると、当主である秀和は、秀策の弟弟子で、共に坊門の竜虎、碁界の圭玉と称された村瀬秀甫を再跡目にしようと考え、その旨を本人にも伝えています。しかし、秀甫の事を嫌っていた勢子の反対により、秀和秀甫を跡目とする事を断念し、長男で14歳の秀悦が跡目とされました。秀甫を跡目とすることには反対だった勢子も、あからさまに実子の中川亀三郎を跡目に推すことは出来ないため秀悦が選ばれたのかもしれません。

 
「勢子の権柄」と呼ばれるこの出来により跡目の道を絶たれた秀甫は、その後、江戸を不在にする事が多くなりますが、明治維新により囲碁界が混乱する中、囲碁結社「方円社」を設立し本因坊家と対立。皮肉なことに方円社を設立を主導し秀甫を担ぎ上げたのは勢子の息子である中川亀三郎だったのです。本因坊家はその後、秀悦の弟である秀元秀栄と代が代わりますが、勢力を増す方円社と和解するため十七世本因坊秀栄秀甫に家督を譲り十八世本因坊秀甫が誕生します。しかし、勢子は慶応3年(1867)に61歳で亡くなっていて一連の騒動を見ることはありませんでした。 


 本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号


 「秀和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
12.6日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
12.18日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番勝
12.20日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番1目勝
 この年、太田雄蔵「西征手談」、服部雄節「石配自在」(3月)刊行。
 この年、高崎泰策、生まれる。秀策初段。

 1840(天保11)年

 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.22日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
3.19日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.22日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
 「秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
1.24日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番4目勝
4.19日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番勝
5.2日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
5.9日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番6目勝
7月 「伊藤松和-秀和」 秀和先番11目勝
10.13日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番11目勝
 3.14日、「伊藤松和-安田栄斎(秀策)初段(3子)」、秀策先番4目勝。
 4.11日、「土屋秀和7段-安田栄斎(秀策)初段(3子)」、秀策3子局1目勝。
 4.22日、「
土屋秀和7段-安田栄斎(秀策)初段(3子)」、秀和3子局1目勝。
 4月、本因坊丈策が、土屋秀和7段(22歳)の丈策跡目を出願する。
 6月、井上11世因碩(幻庵、42歳)が、本因坊丈和名人の引退後すぐ、名人碁所の願書を寺社奉行に提出する。本因坊丈策が直ちに異議を申し出る。寺社奉行は、因碩の申し出を受けて本因坊13世丈策との争碁(あらそいご)を申し渡す。ところが、本因坊丈策は病臥中であったため跡目の秀和が代わって対局することを願い出て、これが許され一名に限りの四番争碁を命じられる。
 7.1日、秀和が丈策の跡目を許され、御目見得。
 7.6日、「伊藤松和-安井算知(俊哲)(先)」、算知先番中押勝。
 10.6日、「秀和-林門入(柏栄)(先)」、柏栄先番2目勝。
 10.24日、「秀和-片山知的(先)」、ジゴ。
 「(坊)丈和-秀和(先)」戦が組まれている。
11.1日 (坊)丈和-秀和(先)」  丈和白番中押勝
11.24日 (坊)丈和-秀和(先) 丈和白番勝

 1840(天保11)年11.17日、御城碁。
 本因坊秀和が御城碁初出仕(以後、文久元年まで29局)。
480局 (安井9世)俊哲-(林跡目)柏栄(先)
 柏栄先番中押勝
(俊哲17局)
(柏栄15局)
481局 (坊跡目)秀和7段-坂口仙得7段(先)
 秀和白番1目勝/「秀和初出仕御城碁で白番勝利」
(秀和初1局)
(坂口仙得3局)

 1840(天保11)年初夏の頃、碁所本因坊丈和から正式に初段を免許された虎次郎(栄斎)が、師匠本因坊13世丈策の勧めもあって出府以来2年半ぶりに郷里因島に帰国した。東海道を通って山陽道へ。帰国した栄斎は直ちに三原候の浅野忠敬に謁見し、江戸の生活を報告した。栄斎が頭角をあらわし「安芸小僧」と呼ばれていることなどはすでに故国に届いている。忠敬は五人扶持を与え、広島藩の藩学教授坂井虎山について漢学を学ぶことを命じた。秀策と改名する。2段昇段。
 この年、河北耕之助が「囲碁小学」を刊行する。

【「天保の争碁」(「因碩(幻庵)-秀和(定先)」の4番碁】
 1840(天保11)年、11月、本因坊13世丈策、林11世元美、跡目林柏栄らが井上11世因碩(幻庵)相手の争碁に丈策の跡目の秀和を指名する。
 11.29日、「天保の争碁」として知られる 「因碩(幻庵)-秀和(定先)4番碁」が始まる。因碩(幻庵)8段42(43?)歳、秀和7段21歳。因碩(幻庵)は4番とも白石を持って打ち、悪くても2勝2敗の打ち分けで名人碁所に任命される筋書きを書き、手合い先相先を拒否し、8段と7段の対戦であるとして秀和定先を主張し、これが受け入れられて秀和の先番となった。因碩と秀和の対局は初めてではなかった。両者は前年の天保10年に3番手合せをしている。初対局は秀和先番で因碩の6目勝ち。2局目は秀和1目勝ち。両者1勝1敗後の第3局はジゴ。互角のこの前哨戦を経て両雄は本因坊家―井上家の面子をかけた大一番に向かった。手合せ時間は毎日、朝9時から申(さる)の上刻(午後5時30分)までの7時間と定められ、稲葉丹後の守以下の役員のほか安井算知、太田雄蔵ら当時の一流棋士たちが観戦した。

 「第1局」が寺社奉行稲葉丹後守正守の神田小川町邸で打たれ打たれ、秀和の先番4目勝ち。


 第1局は、秀和と幻庵ともに死力を尽し初日は31手までで打掛けとなった。翌30日は45手まで。12.1日は71手まで。12.2日には91手まで進んで中盤戦に入った。両者互いに最善の手を打ち、いずれが優勢ともいえない展開となった。12.3日、碁は5日目に入り、幻庵優勢に見えたが秀和の巧みな凌ぎにより逆転模様となってきた。幻庵の体調がおかしくなり吐血。この日は、わずか8手しか進んでいなかったが対局は一時休止された。5日間の中断のあと、12.9日、再開。幻庵から打ちつがれたが2日間打って再び倒れたのでまた中断した。二度中絶したことになる。1日休んで再開した。12.11日、第7日目、幻庵が懸命に劣勢を挽回しようと打ち回したが差は縮まらず第8日目に入った。最後は夜を徹して朝方に白264で終局し秀和の先番4目勝ちとなる。結局、打ち掛け7回、八日七夜の通算9日間にわたって打ち続けられた。幻庵は途中二度下血(吐血?)しており、身体でも盤面でも文字通りの死闘だった。「秀和が生涯で最も力を傾けた一局」と評されている。幻庵が「囲碁妙伝」に次のように記している。
 「兵書に曰く、よく戦う者はまず勝つべからざるをなして、もって敵の勝つべきを待つ(まず自分を固めて誰も勝つことのできない態勢を整えたうえ、敵が弱点をあらわして誰でも勝てるような態勢になるのを待つ)。この一局初めより敵に先を置かせて確かに勝つべしと思う一心絶えぬ故に、却って全き勝つこと能わず。大いに孫子の意に違えりと云うべきか。諸君子いずくんぞ察せべけんや」。

 安藤如意の「坐隠談叢」は次のように記している。
 「この対局は実に九日一夜をもって終局し、この間因碩は2回吐血をなしたりと云う。もって両人がいかに脳漿を絞り、いかに苦心したるや、その惨憺の情状察するに足るべし。因碩はこの局一をもって争碁を断念し、遂に願い下げをなすに至れり」。

 秀和との争碁に臨んだ因碩は、第1局の秀和先4目勝ちの手ごたえを見て四番碁の継続を断念し、名人碁所の願書を取り下げることとなった。その後、1842(天保13)年にも秀和と二度対局するが、秀和の先番を破れず、名人碁所を断念する。その後1845(弘化2)年、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子(水谷順策)となっていたのを井上家跡目に迎え井上秀徹とする。同年太田雄蔵と十番碁を行うが(雄蔵先)、棋譜は3局までのみ残っている。

 秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は幕末の動乱期に突入しており、江戸幕府はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。本因坊丈策が三家の推薦で7段に昇進する。「天保の内訌」最終章となる。
(私論.私見)
 「井上因碩幻庵-秀和(先)」は秀和の先番4目勝ちとなった。当時はコミなしルールであり、その約定の下での打ち回しであるから幻庵負けは動かし難いが、現下のコミありルールしかも「白番6目半コミ貰い」でで測れば様相が大いに変わり黒番4目勝ちは白番2目半勝ちとなる。この碁に限らず、幻庵の戦績を現下の6目半コミ制で見直すと、道策、丈和に十分に匹敵する非凡な戦績を残していることに気づかされる。例えば、前年天保10年の両者の3番手合せは、1局目/秀和先番で幻庵の6目勝ちとなったが現代では幻庵の12目半勝ち、2局目/秀和1目勝ちは幻庵の5目半勝ち、3局目/ジゴは幻庵の6目勝ちとなる。要するに幻庵は負けていないとみるべきではなかろうか。「耳赤の棋譜」で知られる1846(弘化3)年の「幻庵-秀策(先)」は黒3目勝ちであるので現代ルールでは白3目半勝ちとなる。このように当時のコミなしルール下での幻庵負けの相当数が現代ルールではひっくり返ることになる。「当時はコミなしルールの約定の下での互いの打ち回し」であるから結果を変えることはできないが、評価としては幻庵負けの相当数が割り引かれるべきと考える。この目線で捉えると、幻庵の碁聖ぶりがもっと注目されるべきではあるまいか。ちなみに丈和と幻庵の生涯対局は幻庵先二の手合から始まり先相先まで70局、幻庵の35勝28敗3持碁44打ち掛けである。幻庵の碁所自負は十分に根拠があったと云うべきではなかろうか。

 2022.2.20日 囲碁吉拝

 1841(天保12)年
 この年、水野忠邦の天保の改革始まる。

 「秀和と伊藤松和の番碁」が組まれている。伊藤松次郎(松和)41歳
6段、秀和21歳7段。秀和は前年に丈策の跡目となっている。松和は
坊門の大先輩になる。
2.10日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番中押勝
2.18日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番8目勝
「 ポンヌキを許して勝利という大きな驚きをもたらした碁」
2.27日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番中押勝
2.28日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番4目勝
3.8、22日 伊藤松和-秀和(先相先の先) ジゴ
 「伊藤松和-秀和(先相先の先)」、ジゴ。本局は松和先相先の白番で、布石から機敏に打ち細碁に持ち込んでジゴとした松和一生の傑作とされる。この碁を評した丈和と因碩(幻庵)は「石立、手順、堅めに至るまで、秀和の碁として一点の非難すべきなし。然るに松次郎、白を以て持碁となせるは名人の所作なり」と絶賛した為に「松和一生の傑作」と喧伝された。
 (より詳しくは「
伊藤松和-秀和(先相先の先)」参照)
 松和に対して秀和の先番は8勝1持碁2打掛け。但し、現代コミ碁に照らせば松和の善戦が見えてくる。両者は天保10年の名古屋在時から互先で打ち始め、その後先相先、1845(弘化2)年に松次郎定先となっている。当時の冗談に「実力8段の秀和を白番でジゴにした松和は十段、松和に白番で勝った算知は13段」と云われていた云々。
3.9日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
3.18日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番1目勝
3.29日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番9目勝
4.7日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番4目勝
5月 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番4目勝
8.27日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番2目勝

 伊藤松和(松次郎)
 松次郎は名古屋生まれ。後の松和。加藤隆和とともに伊藤子元(10世本因坊烈元門下)の門に入り、1812(文化9)年に上京して本因坊元丈の弟子となる。5段に進み、いったん帰国したが、天保9年、本因坊丈和(丈策?)から6段を許された。松和と名乗り御城碁に出場するのはもう少しあとのことである。松次郎は秀策がはじめて対戦した玄人碁打である。天保11年に再度の出府をはたしている。加藤隆和は名古屋のもう一人の高段者である。秀策は隆和とも打っている。隆和は1800(寛政12)年生まれで尾張藩士の子である。松次郎とともに伊藤子元の門に入り、後に出府して本因坊門に転じたが丈和門人とされているところをみると松次郎より出府が遅れたらしい。5段に進んで名古屋に戻って多くの門人を育てた。当時、大阪の中川順節、京都の川北耕之助など各地にレッスンプロというべき碁打がいた。隆和もその一人である。隆和は弟子たちに秀策の指導を受けさせている。

 秀和は松和との打込番碁と並行して太田雄蔵とも開戦している。これを確認しておく。
3.7日 秀和-太田雄蔵 (先) 秀和白番11目勝
3.11日 秀和 -太田雄蔵(先) 秀和白番勝
3.17日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.21日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
3.28日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
4月 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
4.5日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番10目勝
4.8日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番3目勝
4.28日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番1目勝
5.7日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
5.21日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番7目勝
6.5日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
6.6日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番9目勝
6.18日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
6.30日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番5目勝
「天下コウに負けて白5目勝」。
7.12日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番9目勝
 5.27日、「(坊)丈和-太田雄蔵(先)」、不詳。
 5.29日、「幻庵-安井算知(俊哲)(先)」、ジゴ。
 秀和は、6月頃より、安井算知(俊哲)(先)の打込番碁を打っている。これを確認しておく。
6.7日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番12目勝
6.13日 秀和-算知(俊哲)(先) ジゴ
6.19日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番勝
6.24日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
6.29日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番2目勝  
7.5日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
7.22日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番勝
7.27日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番1目勝
8.10日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
8.29日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番4目勝
 8月、本因坊門下の初段にして12歳の栄斎が再度の出府で大坂を通った際、井上因碩門下の5段にして大坂囲碁界の第一人者であった中川順節(幻庵因碩門下5段)と二子で対局し、4戦全勝。後日、順節は、棋譜検証後、「向先で打ったとしても自分が勝てたかどうか分からぬ」と語っている。その棋譜を京都で手にした中川順節の好ライバルだった河北房種5段(幼名は耕之助)は、「これが13歳の子供の碁か」と驚嘆し、このことが囲碁を愛した仁孝天皇の耳にも入ったと伝えられる。帝もことのほかに感心されて、「ぜひその譜を見たい。なお、今後、大坂を通ることがあれば、是非とも京都に立ち寄って、河北5段と対局して見せるように」と仰せられたと伝えられている。
 9.11日、丈策が改名状をもって栄斎を秀策に改めさせている。浅野家からの預り弟子であるためその形式をとったものと推測される。丈策もしくは道策から「策」、跡目秀和から「秀」を与えられた形となっている。この時、段位の免許状と同じ形式で改名状が渡されている。
 「其許幼年なりと雖(いえども)所作善用。依って今般改名候間自今弥(いよいよ)相励み出精上達の心掛専一と為す可き状以上。 天保十二年九月十一日 本因坊丈策花押  栄斎改め安田秀策老」。
 
 9.16日、丈策が秀策に「二段格」免状を渡している。
 「其許、囲碁幼年なりと雖(いえど)も執心所作宜しく候。先師初段の手合い免許のところ、弥(いよいよ)修行おこたりなく手段ますます進み候。よって今般二段格の手合いを免許し候。なお以って勉励上達の心掛け肝要たるべきものなり。よって証状件の如し。 天保十二年九月十六日 本因坊丈策  安田秀策老」。
  碁所不在の場合の免許の正式な発行は家元四家の同職会議にかけることが原則となっていたが、他門家にはからず出したので「格」をつけたものと思われる。
 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
9月 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝  
9.13日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝
9.18日 太田雄蔵-秀和(先) ジゴ
9.20日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番4目勝
9.23日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番6目勝  
9.25日 秀和-太田雄蔵(先)」   ジゴ
10.8日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝
先番3目勝
11.1日 太田雄蔵-秀和(先) ジゴ
 「秀和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
9.2日 秀和-算知(俊哲)(先) 白番3目勝
9.14日 秀和-算知(俊哲)(先) 白番勝
9.19日 秀和-算知(俊哲)(先) ジゴ
9.24日 秀和-算知(俊哲)(先) 先番勝
10.7日 秀和-算知(俊哲)(先) 先番1目勝
10.11日 秀和-算知(俊哲)(先) ジゴ

 1841(天保12)年11.17日、御城碁。
482局 (坊跡目)秀和7段-(安井9世)俊哲7段(先)
 俊哲先番3目勝
(秀和2局)
(俊哲18局)
483局 (林跡目)柏栄7段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番3目勝
(丈策8局)
(坂口仙得4局)
484局 お好み (林跡目)柏栄-(坊13世)丈策(先)
 柏栄白番中押勝
/柏栄7段、丈策7段
(柏栄16局)
(丈策7局)
485局 お好み (安井9世)俊哲7段-坂口仙得7段(先)
 俊哲白番1目勝
(俊哲19局)
(坂口仙得5局)

伊藤松和-秀和(先) ジゴ

 1842(天保13)年

 「松和6段-秀策(2子)」の2連戦が打たれている。
1.23日 伊藤松和-秀策(2子) 松和2子局白番勝
1.23日 伊藤松和-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
 1.27日、「(坊)丈和-竹川??三郎4段(2子)」、不詳。
 1.29日、立徹の跡を継いだ服部雄節生没(享年41歳)。井上因碩(元の服部立徹)は弟子の加藤正徹に服部家を継がせ、服部正徹(しょうてつ)として服部家を継ぐ。
 2月、「(坊)丈和-?道吉次郎4段(2子)」、?道の2子局1目勝ち。
 「秀和-秀策(2子)」の3連戦が打たれている。
3月 秀和7段-秀策2段(2子) 秀策2子局中押勝
3月 秀和7段-秀策2段(2子) 秀和2子局白番12目勝
3月 秀和7段-秀策2段(2子) 秀策2子局中押勝
 5.3日、秀策と安井門の太田雄蔵との連戦がはじまる。赤井邸で「太田雄蔵-安田秀策(2子)」、雄蔵の白番8目勝ち。雄蔵(36歳、6段)と秀策(14歳、2段)の初手合。この後、両者は秀策が互先になるまで50局ほどを打っている。
 5.16日、因碩幻庵/秀和争碁第2局「幻庵-秀和(先先相の先)」、秀和の先相先の先番6目勝ち。旗本磯田助一郎宅で始まり、その日は69手で打掛け。二日目は徹夜となり、5.18日昼、270手で終局。因碩は秀和の先番を破れず、名人碁所復願を断念する。

 (より詳しくは名棋譜「
因碩幻庵-(坊)秀和(先相先の先)」(幻庵が碁所を逃した見損じ局)参照)
 5月、「幻庵-中川順節(先)」、幻庵白番9目勝。
 6.2日、「(坊)丈和-伊藤松和(先)」、不詳。
 7.8日、「太田雄蔵-安田秀策(2子)」、秀策先番勝。
 7.10日、秀策が「三段格」を許されている。
 「其許、囲碁幼年たりと雖も執心所作宜しき故、去秋二段格の手合い免許候ところ、弥(いよいよ)修行怠りなく手段益々進む。然るによって今般半石進め、三段格の手合いを免許し候。なお以って勉励上達の心掛け肝要たるべきものなり。よって証状件の如し。 天保十三年七月十日 本因坊丈策」。
 「太田雄蔵-秀策」対局。
7.12日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局10目勝
7.15日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局11目勝
7.15日 太田雄蔵-秀策(2子) 雄蔵2子局白番中押勝
7.23日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局16目勝
7.27日 太田雄蔵-秀策(2子) 雄蔵2子局白番6目勝
7.27日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
7.27日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
8.2日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局11目勝
8.7日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(先)」 秀策先番5目勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番5目勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策先番中押勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局16目勝
9.14日 太田雄蔵-秀策(2子) 雄蔵2子局白番1目勝
8.17日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局7目勝
9.17日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番5目勝
9.21日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局7目勝
9.27日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.17日 太田雄蔵-安田秀策(2子) 秀策2子局勝
10.17日 太田雄蔵-安田秀策(2子) 秀策2子局中押勝
 「秀和-安井算知(俊哲)(先相先の先)」戦が組まれている。
9.29日 秀和-算知(俊哲)(先相先の先) 秀和白番5目勝
「総ジマリの棋譜」。
11.1日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番5目勝

 1842(天保13)年11.17日、御城碁。
486局 坂口仙得7段-(坊13世)丈策7段(先)
 
丈策先番9目勝
(坂口仙得6局)
(丈策9局)
487局 お好み (因碩11世)安節幻庵
(安井9世)俊哲(先)

 俊哲先番1目勝/安節幻庵8段、俊哲7段
(幻庵12局)
(俊哲20局)
488局 (坊跡目)秀和7段
(林門入跡目)柏栄7段(先)

 秀和白番中押勝
(秀和3局)
(柏栄17局)
489局 お好み 坊13世)丈策7段
(安井9世)俊哲7段(先)

 俊哲先番中押勝
(丈策10局)
(俊哲21局)
490局 お好み 林門入11世元美6段
坂口仙得7段(先)

 仙得先番中押勝
(元美10局)
(坂口仙得7局)
491局 お好み (因碩11世)安節幻庵8段
(坊跡目)秀和7段(先)

 秀和先番4目勝(155手以下略)
(幻庵〆13局)
(秀和4局)

 因碩(幻庵)は天保6年以来お城碁を欠場していたが、将軍家のお好み碁で秀和―因碩の対局が組まれた。因碩8段45歳、秀和7段23歳、両者3回目の松平伊賀守邸での対局となった。争碁第1局は秀和先番4目勝ち。争碁第2局は秀和先番6目勝ちを経ての第1局から2年が経過していた対局であった。8段と7段で先相先の手合いで行けば因碩が黒番の順序であったが、黒番の秀和に勝たなければ碁所就位の名分が立たないので、因碩陣営は公儀に手を回して白番を取ることに成功した。果たして、手に汗握る緊張の大一番となった。秀和は、因碩の狙い筋をことごとく未然に、しかも最強に防いで、秀和の先相先の先番4目勝ちとなった。因碩は痛恨の3連敗を喫し碁所を断念、く野望が絶たれた。
 11.29日、先相先「秀和-葛野忠左衛門(先)」、秀和白番中押勝。秀和の少年時代のライバル。
 12.30日、「秀和-井上因碩(秀徹、節山)(先)」、秀和白番勝。
 12.31日、「秀和-太田雄蔵(先)」、雄蔵の先相先の先番1目勝ち。白の石をさんざん取ってやっと一目勝ち。
 この年、 「丈策-安井算知(先)」、丈策白番中押負。
 この年、服部囚淑生没(享年82歳)。
 海老沢健造(後の巌埼)生まれる。

 1843(天保14)年
 

 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。雄蔵はこの頃37歳6段。
1.1日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番1目勝
4.2日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
常人の及ばない、巨匠の戦慄すべき自信の白38。
 4月、「秀和-秀策3段」(先二手合い)戦が組まれている。  
4.4日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝
4.4日 秀和-秀策(2子) 秀策2子局6目勝
4.14日 秀和-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。  
4.14日 太田雄蔵-秀策(2子)」  秀策先番中押勝
4.19日 太田雄蔵-秀策(先)」  秀策先番1目勝
 4.20日、「太田雄蔵-秀和(先)」、ジゴ。本因坊秀和7段との先相先白番でジゴとした碁は雄蔵の佳作として知られる。
 6.14日、「秀和-井上因碩(秀徹、節山) (先)」、白番勝。
 9月、「太田雄蔵-秀策(先)」戦が組まれている。
閏9.2日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番2目勝
閏9.2日 太田雄蔵-秀策(先) 雄蔵白番1目勝
閏9.11日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
閏9.11日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
閏9.11日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番3目勝
 9.14日、「安井算知(俊哲)-秀策(先)」、秀策の先番中押勝。
 算知は8世安井仙知(知得)の実子。さきの太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和(松次郎)と並んで天保四傑と称された高手である。その算知も先で圧倒し安芸小僧の評価はさらに高まった。
 9.15日、「井上因碩(秀徹、節山)-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番中押勝。
 10.6日、秀策が4段に進む。
 「其許、囲碁幼年たりと雖も執心所作宜しき故、去年七月三段格の手合い免許候ところ、弥(いよいよ)修行怠りなく手段益々精。然るによって今般同僚会議を遂げ、向後上手に対し先及び二子の手合い(先二のこと)四段を免許せしめおわんぬ。なお以って勉励逸群の心掛け肝要たるべきものなり。よって証状件の如し。天保十四年十月六日 本因坊丈策 安田秀策老」。

 今度は正式の免状で「今般同僚会議を遂げ」の字句が入っている。結局、秀策は毎年一段ずつ昇段という驚異の記録を残している。天保14年囲碁姓名録によれば初段以上の有段者は全国で258人。そのうち4段は四家(本因坊、井上、林、安井)所属棋士のうち11人に過ぎない。その中に15歳の秀策がいる入っていることになる。この頃から「先手必勝、秀策流一、三、五、七」の布石研究に取り組んでいる。

 1843(天保14)年11.17日、御城碁。
492局 (坊13世)丈策7段-(林跡目)柏栄7段(先)
 丈策白番中押勝(?)
(丈策11局)
(柏栄18局)
493局 坂口仙得7段-(坊跡目)秀和7段(先)
 秀和先番1目勝
(坂口仙得8局)
(秀和5局)
494局 お好み 坂口仙得7段-(坊13世)丈策7段(先)
 丈策先番5目勝
(坂口仙得9局)
(丈策12局)
495局 お好み (安井9世)俊哲-(坊跡目)秀和(先)
 秀和先番4目勝
(俊哲22局)
(秀和6局)

 12.13日、互先「秀和-安井算知(俊哲)(先)」、秀和白番2目勝。平行隅の両ジマリを許した唯一の碁。
 本因坊丈策が「古今衆秤」刊行。

 1844(天保15)年

 正月元日、「秀和(25歳)7段-秀策(16歳)4段(先)」、打ち掛け。
 秀和が秀策で打ち初めし、秀策が本因坊(跡目)秀和に対し「一、三、五」の布石を試みている。
 「秀和(25歳)7段-秀策(16歳)4段(先)」戦が組まれている。
2.15日 秀和7段-秀策4段(先) ジゴ
2.19日 秀和7段-秀策4段(先) ジゴ
 3.13日、「太田雄蔵-秀策(先)」、不詳。
 5月、千代田城火災。幕府は修復費用を誇大名に課す。因頓(幻庵)上書してこれを諌め、将軍家慶これを受け入れる。
 同月、因碩(幻庵)が、本因坊家に対し水谷琢順の養子となっていた水谷順策(丈和の長男で戸谷梅太郎。後に吉野家に入って忠左衛門)を養子にと請う。丈策、秀和、後に問題の起ることを恐れて拒絶。因碩(幻庵)、旅先の隠居。丈和に手紙で懇請する。
 5.8日、「服部正徹5段-秀策(先)」、秀策の先番勝。
 「秀和-安井算知(先)」戦が組まれている。
5.19日 秀和-安井算知(先) 秀和白番1目勝
6.13日 秀和-安井算知(先) 秀和白番勝
 「太田雄蔵-秀和」戦が組まれている。
5.31日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番2目勝
6.15日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
7.8日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
7.8日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝
7.22日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
8.10日 太田雄蔵-秀和(先) 雄蔵白番中押勝
8.12日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番中押勝
8.18日 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
9.2日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
9.17日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番4目勝
9.22日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番中押勝
9.28日 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
 9月、丈和帰府して丈策、秀和を説得し順策を井上家の養子とすることを承諾させる。まず順策を水谷家から復籍、吉野忠左衛門の名に戻して井上家と養子縁組の手続きを運び井上秀徹となる。
 10月、秀策が江戸を発し二度目の帰省に向かう。同行者は江戸生まれの兄弟子・真井徳次郎(21歳)(御家人の出で丈和門人。23歳で没している)。東海道を下って遠州(静岡県)三沢村で兄弟子の伊藤徳兵衛と集中対局する。徳兵衛は11世本因坊元丈の内弟子となった時期もあり、天保10年に5段を許されている。4局打たれ互いに先番を勝って打ち分けしている。徳兵衛は秀策の再上府のおり、もう一度袖を捕えて対局を挑んだ。結果は秀策の三連勝となり、闘志を失わせた。これ以後徳兵衛との対局はない。秀策が前回帰郷したときは初段であったが、今回は当時としては稀少な4段に昇り、そのためか行く先々で対局を要請され、徳兵衛との対局を皮切りに伊藤松次郎、味田村喜仙、加藤隆和等々と打っている。
 10.9日、「秀和-安井算知(俊哲)(先)」、俊哲先番6目勝。
 「伊藤松和6段-秀策4段」戦が組まれている。
10.10日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.15日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番2目勝
10.18日 秀策-伊藤松和(先) 松和中押勝
10.18日 伊藤松和-秀策(先) 松和白番勝
10.19日 「伊藤松和-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.29日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番勝
10.29日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.11日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番5目勝
秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝

 1844(天保15)年11.17日(12.24日)、御城碁。
496局 (坊跡目)秀和7段
(安井9世)俊哲7段(先)

 俊哲先番1目勝
(秀和7局)
(俊哲23局)
497局 坂口仙得7段
(林跡目)柏栄7段(先)

 仙得白番中押勝
(坂口仙得10局)
(柏栄19局)
498局 お好み 阪口仙得
(安井9世)俊哲(先)

 俊哲先番4目(1目?)勝
(坂口仙得11局)
(俊哲24局)
499局 お好み (坊跡目)秀和7段
(林跡目)柏栄6段(先)

 秀和白番4目勝
(秀和8局)
(柏栄20局)

 「秀和-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
11.28日 安井算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番8目勝
12.7日 秀和-安井算知(俊哲)(先) 俊哲先番4目勝
 11月、幻庵が、丈和の実子・水谷順策(戸谷梅太郎、道和、葛野忠左衛門)を跡目として井上家に迎え入れる。秀徹と改名する。
 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
12.6日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和中押勝
12.19日 秀和-太田雄蔵 (先) 秀和白番5目勝
 この年、因碩が太田雄蔵と十番碁を行う(雄蔵先)。棋譜は3局までのみ残っている。
 12月、秀策が郷里の備後国因の島の外の浦に帰着する。
 この年、泉秀節(大阪)、井上因碩「囲碁終解録」(いごしゅうかいろく)刊行。刊行日不明、井上因碩「奕筌」(えきせん)2巻2冊刊行。 
 この年、泉秀節(大阪)、大沢銀次郎(江戸)生まれる。

 1844(天保15、弘化元)年、12.2日、弘化に改元する。

 1845(弘化2)年
 「幕末」に突入する。

 1845(弘化2)年、秀策、浅野侯に閲見して昇段の報告する。その後、江戸から同行した真井徳次郎と広島を訪れて二局打つ。徳次郎はそのまま遊歴を続け、秀策は三原に戻る。郷里での秀策は日を定めて三原城に出仕し、藩主の相手や城内の武士の指導をおこなっていた。真井徳次郎、宝泉寺、岸本左一郎、勝田栄助らと手合わせしている。
 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
1.10日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
 1.19日、「安井算知(俊哲)-秀和(先)」。
 「(坊)丈和-神津伯太初段」戦が組まれている。
2.17日 (坊)丈和-神津伯太 (4子) 神津4子局2目勝
3.24日 (坊)丈和-神津伯太 (4子) 神津4子局勝
3.24日 (坊)丈和-神津伯太 (2子) 神津2子局勝
 「「秀和-伊藤松和(先相先)」」戦が組まれている。坊門の先輩との白番。
2.20日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
2.28日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番4目勝 
2月 秀和-伊藤松和(先) 松和先番1目勝 
3.6日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番中押勝
3.27日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
 3月、井上因碩11世幻庵が、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子{水谷順策}となっていたのを、井上家跡目に迎え、井上秀徹とする。秀徹の養子及び跡目を願い出て許される。10年以上続いた本因坊家と井上家が手打ちしたことになる。
 4月、三原浅野家より増禄される。5月、秀策が、最初の師である竹原宝泉寺葆真和尚と対局する。葆真は安芸国有段者4名のトップに位置しており、漢学、書画にも通じ碁の相手としてばかりではなく浅野忠敬の知遇を受けていた。秀策はこの帰郷のおり、頼聿庵(頼山陽の長子で藩学教授)を訪ねている。聿庵は大いに喜び一詩を贈ったという。
 4.7日、「坂口仙得-太田雄蔵(先)」、仙得白番勝。
 「秀和-中川順節(先)」戦が組まれている。
5.6日 秀和-中川順節(先) 秀和白番7目勝
「秀策の耳赤の碁の生まれる原因を作った順節との対局」。
5.13日 秀和-中川順節(先) 順節先番1目勝
5.25日 秀和-中川順節(先) ジゴ
7.2日 秀和-中川順節(先) 秀和白番12目勝
7.6日 秀和-中川順節(先) 秀和白番7目勝
8.7日 秀和-中川順節(先)」 秀和白番3目勝
 「秀和-福井半次郎(先)」戦が組まれている。
6.11日 秀和-福井半次郎(先) 秀和白番17目勝
6.18日 秀和-福井半次郎(先) 秀和白番勝
 「秀和-河北耕之助(先)」戦が組まれている。
6.17日 秀和-河北耕之助(先) ジゴ
7.5日 秀和-河北耕之助(先) 秀和白番勝
7.8日 秀和-河北耕之助(先) 秀和白番勝
 7.16日、「幻庵-大田雄蔵(先)」、雄蔵先番勝。
 8.30日、「井上因碩(秀徹、節山)水谷Junsaku6段-太田雄蔵(先)」、雄蔵の先番勝。
 10.16日、「太田雄蔵-安井算知 (先)」、雄蔵白番勝。

 1845(弘化2)年11.17日(12.15日)、御城碁。
500局 (林跡目)柏栄
(安井9世)俊哲(先)

 柏栄白番6目勝
(柏栄21局)
(俊哲25局)
501局 (坊跡目)秀和7段
坂口仙得7段(先)

 仙得先番中押勝
(秀和9局)
(坂口仙得12局)
502局 お好み (林跡目)柏栄7段
(坊13世)丈策7段(先)

 丈策先番4(5?)目勝
(柏栄22局)
(丈策13局)
503局 お好み (安井9世)俊哲7段
(坊跡目)秀和7段(先)

 俊哲白番中押勝
(俊哲26局)
(秀和10局)

  「秀和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
11.24日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番2目勝
12.7日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番勝
 11月、「秀和-太田雄蔵(先)」、雄蔵の先番勝。
 この年、阿部亀次郎生まれる。(河内国。富田村)。

 1846(弘化3)年

 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
2.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝  
2.22日 太田雄蔵-秀和(先) 雄蔵白番4目勝  
3.7日 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
3.21日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番9目勝
4.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番12目勝
4.15日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
 「坂口仙得-秀和」戦が組まれている。
1.12日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番3目勝
2.6日 秀和-坂口仙得(先) 仙得先番1目勝  
4.22日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番4目勝
5.13日 秀和-坂口仙得(先) 秀和白番勝
 「秀和-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
1.15日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
2.13日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番8目勝
4.8日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番4目勝
5.21日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
 2.8日、「秀和-門入(柏栄)(先)」、秀和白番勝。
 2.13日、「(坊)丈和-秀策(2子)」、秀策2子局中押勝。
 「(坊) 丈和-秀和(先)」戦が組まれている。
2.14日 (坊) 丈和-秀和(先) 秀和先番中押勝
「師との先番に圧勝」。
3.9日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番10目勝
「丈和の還暦記念対局」。
3.11日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番勝
5.1日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番勝
 2.26日、「坂口仙得-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番勝。
 2.27日、「秀和-秀栄(先)」、ジゴ。
 3.8日、「秀和-鶴岡三郎助(*)」、鶴岡先番勝。
 4月、秀策、江戸に向け郷里を立つ。
 4.22日、「安井算知-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番勝。
 5月、秀策が、郷里(備後国。因の島、外の浦)から江戸に戻る途中、大阪に立ち寄りで長期間足止めする。中川順節5段と再会し対局する。先相先の手合割りで4連勝する。
 「中山順節-秀策」戦が組まれている。
5.3-4日 中山順節-秀策(先) 秀策先番7目勝
5.5-6日 中山順節-秀策(先) 秀策先番勝
5.9ー10日 秀策-中山順節(先) 秀策白番勝
5.29日 中山順節-秀策(先) 秀策先番7目勝

 秀策が、中川順節5段と、大阪市内の辻忠二郎宅で5.3日から6月初旬まで4局を打っている。結果は秀策全勝。第2局で一、三、五のいわゆる"秀策流"が試みられている。後日、中川は向先でも勝てなかったろうと語っている。その譜を入手した京都在住の河北耕之助(坊門5段)は、「これが13歳の碁か」と感嘆し、碁を愛したと伝えられる仁孝天皇に献上したという。秀策の甥にあたる桑原寅次郎がまとめ、現在でも基本資料とされている。
 「秀和-太田雄蔵」戦が組まれている。
5.11日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番3目勝
5.27日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番3目勝
6.4日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝

【「幻庵8段(48歳)-秀策4段(18歳)」戦の初手合い】
 5月、因碩(幻庵)が大阪に居住する。
 7.20日、秀策が帰省より戻る途上、大阪の順節宅で「幻庵8段(48歳)-秀策4段(18歳)」対局することとなった。因碩(幻庵)は、天保11年12月、井上家を代表して本因坊家第13世丈策の跡目秀和と宿命の碁所を賭けて命がけの"争い碁"を打ち、武運つたなく破れて碁所を断念させられていた。この頃、大阪で後進のため指導を行なっており、そこへ秀策が登場したことになる。「坐隠談叢」によれば「因碩の容貌は満面に黒あばたありて眼光鋭けれども敢えて獰悪(どうあく=にくたらしくたけだけしい)ならず。能く子女を馴れ親しむる愛嬌を有せり」とあり、井上家中興の主とも称されている。

 7.20日、「因碩(幻庵)-秀策(2子)」、打ち掛け。100手過ぎまで打ち進めたところ、因碩が「ハッハ、これは手合い違いだ。二つじゃとても碁にならん。明日、改めて先番を打ってみよう」と述べ、因碩が破格の先を許した。
 7.21日、定先第1局「因碩(幻庵)-秀策(先)」は浪華天王寺屋の辻忠二郎宅で89手打掛け。
 7.23日、定先第1局「因碩(幻庵)-秀策(先)」、秀策先番3目勝ち。原才一郎宅で141手打掛け。因碩と秀策の対局で形勢の良かった碁を秀策の打った妙手(黒127)で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった。これが有名な「耳赤(みみあか)の妙手」と云われ、「耳赤の一局」として知られる。

 (光の碁採録名局「
因碩(幻庵)-秀策(先)」)。
 (「因碩(幻庵)―秀策(定先)」)。
 (より詳しくは「因碩(幻庵)8段-秀策4段(定先)」参照)
 7.25日、中川順節碁会の中之島紙屋亭で打ち継がれた。幻庵が白有利に打ち回していただけに、勝負は因碩が終盤をいかに勝ち切るかにかかっていた。325手で終局、秀策が先番で3目勝ちで終局したと記録されている。(150年後、2目勝ちと訂正されている)。
(私論.私見)
 この碁の興味深いところは、「秀策が3目勝ち」(因碩3目負け)となったが、コミなし時代の判定であり、6目半コミの現代碁基準では逆に「秀策が3目半負け」(幻庵3目半勝ち)となることにある。結論として「両者好局の名勝負」であったと見做すべきではなかろうか。
 「因碩(幻庵)-秀策(先)」はこの後3局打たれ、秀策が2勝、1局打掛けとなる。「準名人に三連勝し、安芸小僧から本因坊跡目となる登竜門の一局」となる。この時、秀策は4段だが、幻庵は「このときの秀策の芸は七段は下らない」と語ったという。
 幻庵はこの碁の後、今まで丈和、秀和と争ってきた碁所への野望を断念し、秋に本因坊家に丈和の長子・水谷順策(葛野忠左衛門)を乞い井上家の跡目として本因坊家と和解した。(2年後、幻庵は隠居として幻庵と名乗った)。幻庵は諸大名家に出入りしながら著述活動に専念した。有名なものでは「囲碁妙伝」などが残されている。
 4段18歳の秀策が、当時、一流の打ち手であった8段、49歳、準名人の幻庵に定先で三連勝したことにより坊家は秀策を5段に上げることになった。本局が秀策の名声を高め本因坊跡目とするきっかけになった。(当時丈和は隠居、当主は丈策であり、秀和が跡目であったが、丈和・丈策が一年後に相次いで亡くなっていることから、この時点で両者ともに健康を害していたのではないかと推測されている)。
 「因碩(幻庵)-秀策(先)」戦が組まれている。
7.26日 因碩(幻庵)-秀策(定先)
 打ち掛け
7.28日 第3局 因碩(幻庵)-秀策(定先)
 打ち掛け
7.29-30日 第4局 因碩(幻庵)-秀策(先)
 秀策先番勝
8.4、5日 第5局 因碩(幻庵)-秀策(定定先)
 秀策先番2目勝
8.27-29日 因碩(幻庵)-秀策(先)
 秀策先番中押勝

 8.22日、「(坊)丈和-太田雄蔵(先)」、打ち掛け(?)。
 9.22日、「秀和-安井算知(俊哲)(先)」、秀和白番勝。
 9-10月、秀策が江戸に帰府する。道中、大坂での因碩に先で3勝したのが高く評価され5段に昇段した(「秀策5段の登場」)。本因坊家が秀和の後継者に秀策を望んだが、家元につけば同時に幕臣となるが、秀策は父・輪三の主君でもある備後三原城主・浅野甲斐守の家臣と言う扱いであり、秀策は、領主三原侯甲斐守及び郷党への遠慮からこれを固辞した。囲碁家元筆頭の本因坊家の跡目を拒否する事などは前代未聞であった。
 9.*日、「秀和-秀策(先)」 、秀策先番中押勝。

 弘化3.10月から翌4.9月までの1年間、秀策は秀和と集中的に打っている。秀策を後継者と定めた秀和が胸を貸したのであろうか。またこの時期、当主の丈策も隠居の丈和も一局ずつ秀策と対している。ともに打ち掛けになっており、跡目問題と絡んだ儀礼的な対戦だったかもしれない。結果、先の手合いながら秀策の大幅な勝ち越しになった。秀和が「手合いを改めよう」と言ったところ、「師匠に黒を持たせるわけにはいきません」と答えたと云う(先の次は先相先となり三局に1回は上手が黒を持つことになる)。 

 この時期、井上家の跡目となった秀徹(後の12世井上節山因碩)が秀策と5局打っている。手合いは秀策の先々先で、結果は秀策の3勝2敗。これによると、秀徹は因碩でも勝てなかった秀策の先番に2勝していることになる。
 「秀和7段-秀策5段」戦が組まれている。
10.14日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝
10.15日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝
10.16日 秀和-秀策(先)
10.21日 秀策-秀和(先)」 秀策中押勝
10.21日 秀和-秀策(先) 秀策先番勝
10.23日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝  
11.2日 秀和-秀策(先) 秀和白番7目勝
 10.28日、「(坊)丈策-秀策(先)」、打ち掛け。
 「太田雄蔵-秀策 (先)」戦が組まれている。
11.5日 太田雄蔵-秀策 (先) 秀策先番勝
11.10日 太田雄蔵-秀策(先) ジゴ
12.1日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番勝
12.5日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番勝

 1846(弘化3)年11.17日、御城碁。
 井上秀徹が御城碁に初出仕(爾後、嘉永元年まで3局を勤める)。
504局 (坊13世)丈策-坂口仙得(先)
 仙得先番中押勝
(丈策局)
(坂口仙得13局)
505局 (坊13世)丈策-(林跡目)柏栄7段
 丈策白番中押勝
(丈策15局)
(柏栄23局)
506局 (安井9世)俊哲-(因碩跡目)秀徹(先)
 秀徹先番3目勝
(俊哲27局)
(秀徹1局)
507局 お好み (安井9世)俊哲-(坊13世)丈策(先)
 俊哲白番7目勝
(丈策15局)
(俊哲28局)
508局 お好み 坂口仙得-(坊跡目)秀和(先)
 秀和先番2目勝
(坂口仙得14局)
(秀和11局)

 11.22日、「坊)丈和-赤井五郎作(4子)」、不詳。
 12.19日 、「秀策-坂口仙得(先)」、仙得先番勝。
 時日不明、「丈策-林柏栄(先)」、丈策白番中押勝。
 この年の江戸城(千代田城)火災に際して、幕府は全国の諸大名に築城費用を課した。因碩が、これを諌(いさ)める上書を脇坂淡路守を頼って提出したところ閉門に処せられた。しかしこの後、12代将軍家慶はこの苦諫(くかん)を嘉納して諸侯の課金を減じ、因碩の閉門を解いて登城謁見を賜っている。「井上家の門前市を為し因碩の名宇内にとどろく」と坐隠談叢に記されている。
 この年の11月中旬、「岸本左一郎と因碩の対局」、「周防国小郡で、左一郎と堀部弟策の対局」。小郡は以前から碁が盛んで、秋本、長井、品川らの強豪が集まっていた。この頃、石見の岸本左一郎5段格の碁打がしばらく小郡に滞在し、現地の人々に碁を教えていた。そこへ、江戸の碁博士・井上因碩8段が長崎へ下る途中、堀部方策(棋譜では「弟策」)に連れられて小郡に立ち寄った。
 11.13日、「因碩(幻庵)8段-石見の岸本左一郎5段格(2子)」、ジゴ。
 11.14日朝早く因碩が出発。堀部方策は残り、左一郎と対局している。(「
因碩と左一郎(4)」参照)
 この年、井上秀徹(後の12世井上節山因碩)が、赤星因徹著「棋譜・玄覧」と「手談五十図」を1冊に合本編集した「玄覧」を刊行している。(「玄覧」)
 この年、「尾陽手談」(びようしゅだん)(別: 梶川升氏少年之対局)が刊行される。他に刊行日不明、「梶川打碁」(かじかわうちご)(別: 梶川升氏少年之対局)、「弘化碁鑑」(こうかごかがみ)(別: 梶川升氏少年之対局)が刊行される。
 この年、水谷縫次生まる。(伊予国・今治、大島、椋名)。

 1847(弘化4)年

 2.13日、「(坊)丈和-秀策(2子)」、打ち掛け。
 2.13日、「秀和-因碩(節山)(先)」、因碩(節山)先番2目勝。
 「秀和7段-秀策5段(先)」戦が組まれている。
2.17日 秀和7段-秀策5段(先) 秀策先番4目勝
2.17日 秀和7段-秀策5段(先) 秀策先番中押勝
 「安井算知(俊哲)-秀策(先)」戦が組まれている。
3.16日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
3.16日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
 3.21日、「(坊)丈和-秀和 (先)」、秀和の先番勝ち。
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。
3.21日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番5目勝
5.11日 太田雄蔵-秀策(先) 雄蔵白番中押勝
6.21日 秀策-太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
8.17日 太田雄蔵-秀策(先) 打ち掛け
 3.29日、「(坊)丈和-秀策(2子)」、打ち掛け。
 「秀和7段-秀策5段(先)」戦が組まれている。
7.11日 秀和-秀策(先) 秀策先番8目勝
7.13日 秀和-秀策(先) 秀策先番中押勝
7.13日 秀和-秀策(先) 秀策先番1目勝
7.14日 秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
7.15日 秀和-秀策(先) 秀策先番9目勝
7.15日 秀和-秀策(先) 秀策白番中押勝
7.15日 秀和-秀策(先) 秀策先番9目勝
8.2日 秀和-秀策(先) 秀策先番7目勝
8.8日 秀和-秀策(先) 秀策先番中押勝
 この年、本因坊家の丈和、丈策、秀和らが寺社奉行・脇坂淡路守安宅に諮(はか)って、三原の浅野甲斐守忠敬の本家(広島藩主・浅野斉鼎)を動かし、三原侯に秀策を本因坊家の養子とする諒解をとりつける。

【本因坊14世秀和時代】

 8.18日、13世本因坊丈策没(享年45歳)(但し「本因坊家旧記」には12.17日没とある)。同日、跡目本因坊秀和(28歳)が家督相続して14世本因坊となる。14世本因坊秀和の時代、全国の有段者は四家(本因坊・井上・林・安井)合わせて四百人に及び史上最高の隆盛ぶりを示した。
 「(坊)秀和7段-秀策5段(先)」戦が組まれている。
8.24日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
8.25日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
9.3日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番勝  
9.13日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
秀策流を完成させた秀和・秀策17連戦の第16局。
9.16日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番7目勝
 9.8日、「太田雄蔵-秀策(先)」、秀策先番1目勝。
 9.11日、「算知(俊哲)-秀策(先)」、秀策先番勝。
 9.27日、「(坊)秀和-算知(俊哲)(先)」、秀和白番勝。

 「坊)秀和-秀策(先)」戦が組まれている。
10.11日 坊)秀和-秀策(先)」  秀策先番中押勝
10.21日 坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
10.21日 坊)秀和-秀策(先) 秀策先番中押勝
 「算知(俊哲)-秀策(先)」戦が組まれている。
10.19日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.21日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番勝
11.1-12.6日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番5目勝
12.8日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番5目勝
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。
10.26日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番勝
11.26ー12.21日 秀策-太田雄蔵(先) 秀策白番勝

 1847(弘化4)年11.17日(12.24日)、御城碁。
509局 (坊跡目)秀和-坂口仙得(先)
 秀和白番3目勝/「秀和流ふんわりの厚みの局」
秀和12局)
(坂口仙得15局)
510局 (坊跡目)秀和-(安井9世)俊哲(先)
 俊哲先番7目勝
(秀和13局)
(俊哲29局)

 この年、伊藤子元(蜂三郎)没(享年75歳)。

【丈和生没】
 10.10日、隠居本因坊丈和没(享年61歳)(但し「本因坊家旧記」には12.20日没とある)。現在に残る棋譜274、126勝101敗9ジゴ38打ち掛け。勝率は高くないが、勝つべき時には全て勝っており、恐るべき棋力を刻印している。

 「隠坐談叢」が、本因坊丈和について次のように記している。
 「短躯肥大眉太く頬豊かにして従容迫らざれども爛々たる眼光犯すべからざる風があった」。

 明治40年代の雑誌「碁会新報」に越後人士が「越後に遊べる幕末の碁客」と題して次のように記している。
 「亡父は若い時は碁を好みまして、高橋(下越海老ケ瀬の素封家で有段者)以下の碁客とは親類あるいは懇意の間ですから、その関係で丈和にも三、四度逢ったそうですが、その相貌は躯は短く面は黒く、品格は高雅ではなかったが、眼光*々、人を射ていかさま一癖うりげに見えた、ということです」。
 その棋風について、「豪快にして緻密、石をセリ上げてゆく時の迫力は、まさにちから、山を抜くの概があり、歴代本因坊の中でも一級品にランクされている」と評されている。丈和は、道策、秀策と並び、「囲碁三聖」と言われる。特に道策を前聖、丈和を後聖と呼ぶ。読みが深く、古今無双の力碁で、腕力と筋のすばらしさは史上でも随一との評がある。

 「談叢」が次の逸話を載せている。
 「門生一日、丈和に問うて曰く、四世道策と師と対局せば、その勝敗如何に。丈和、熟考暫くにして曰く、我、道策先生と二十番碁を打たんに、初め十番碁は必ず打ち分けならんも、後の十番は到底比例するに難しと。この言、含味し来れば頗(すこぶ)る深遠なり。また丈和は、常に勝負事を好み、奥坊主役らと会し、時々戯れをなせり。当時流行の川柳あり。『毛*を そのまま置けと 丈和言ふ』」。
 昭和26年、瀬越憲作、渡辺秀夫、八幡京助による御城碁刊行会発刊「御城碁譜」の第8巻「碁士列伝」が次のように評している。
 「真に鬼人の概あるもの即ち12世本因坊丈和である。試みに寛政より慶応末年迄、徳川時代の後期の碁士番付を編成せんか。その東の横綱の座は遂に丈和の占むるを如何とも為し難いであろう。即ち7世仙角(仙知)はその華美なる才力を以て、元丈はその丈和の師たるに於て、仙知(知得)は丈和を虎の如くに畏怖せしめたるに於て、幻庵はその追撃を避退せられたるを以て、秀和は門下差し控えざるを得ぬ立場たりしに於て、秀策は時代のズレ、手合いらしき対戦なかりしに於て、秀甫は全く時代を隔てたるに於て、いずれも丈和の第一席に異議を挟む資格あるならんも、そのあらゆる点を総合して、なお且つ丈和を首位に推さざるを得ぬことを発見するであろう。実に碁の力の権化とも称すべきはこの12世本因坊ののことであろうか。薦の夫夫難夫るを夫上部夫夫材は辺゛制夫『先生も碁盤を取れば』」。

 12.17日、上策没す(享年45歳)。

 1848(弘化5)年
 天保、弘化の間は、囲碁隆盛の絶頂であった。1841(天保12)年の表を見ると、上手以上8、6段6、5段10人、以下257人だが、弘化の初めには登級者431人に達している。この頃、囲碁狂歌「酒は鬼、朝寝秀和に、拳は林、踊りは太田で、服と一めます」が遺されている。「酒は鬼」の「鬼」とは安井家の高足、鬼塚源治のことで、鯨飲飽くことなく酒量随一であった。「朝寝秀和」は本因坊秀和のこと。「拳は林」とは、林門入のことで、薩摩拳では門入が一番強かった。「踊りは太田」とは、太田雄蔵のことで、彼は柳暗花明の巷で評判の粋人だった。「服と一めます」は「はつと初めます」と読み、服部正徹のことである。

 1.1日、「(坊)秀和-秀策(先)」、打ち掛け。
 「(坊)秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.5日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
1.8日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
1.21日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
1.26日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
2.7日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
2.18日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番4目勝 
3.6日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.28日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番中押勝
「雄蔵のポカ」。
4.5日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番4目勝
4.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝  
4.23日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番7目勝  
4.28日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
5.3日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
5.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
5.23日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番11目勝
6.3日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番6目勝
6.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
6.23日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
7.3日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番6目勝

 1848(弘化5)年、2.28日、嘉永に改元。

 3.28日、「安井算知(俊哲)-秀策 (先)」、打ち掛け。
 3月、井上因碩11世が隠居して家督を井上秀徹(丈和の実子)に譲る。因徹は幻庵と号し、秀徹は井上家第12世因碩(節山)を名乗った。
 「(坊)秀和-和田一敬(2子)」戦が組まれている。
4.21日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番5目勝
7.4日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 秀和白番12目勝
7.10日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 秀和白番勝
7.22日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番勝
9.13日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番8目勝
9.23日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 秀和白番勝
10.17日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番7目勝
 4.26日、「(坊)秀和-因碩(節山)(先)」、不詳。
 「秀策-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
9.3日 秀策-安井算知(俊哲)(先) 秀策白番中押勝
9.14日 安井算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
 9.16日、14世本因坊となった秀和が正式に秀策の跡目願を出す。この時に提出した親類書には父・桑原輪三とあり、桑原秀策の名が初めて出てくる。父輪三としてはいったん安田家の養子に出した形をとった息子だが、予期以上の出世で本因坊家に入ることになり、それならばもう一度桑原家に戻し桑原の名をのこしたいと考えたらしい。この年、正式に第14世本因坊跡目となり同時に6段昇段、また丈和の娘・花と結婚する。

 1848(嘉永元)年11.17日、御城碁。
511局 (安井9世)俊哲
(坊14世)秀和(先)

 秀和先番7目勝 
(俊哲30局)
(秀和14局)
512局 坂口仙得
(因碩12世)秀徹(先)

 仙得白番4目勝
(坂口仙得16局)
(秀徹2局)
513局 お好み 坂口仙得
(坊14世)秀和(先)

 秀和先番3目勝
(坂口仙得17局)
(秀和15局)
514局 お好み (安井9世)俊哲
(因碩12世)秀徹節山(先)

 俊哲白番2目勝
(俊哲31局)
(秀徹3局)

 11.22日、本因坊家への養子縁組を前提として桑原姓に戻っていた桑原(安田)秀策(21歳)が正式に本因坊14世跡目を許され、同時に6段に昇段する。丈和の娘・花と結婚する。
 11.26日、「秀策-太田雄蔵(先)」、秀策の白番中押勝。
 11.29日、太田雄蔵7段に昇段する。但し、御城碁出席望まず。
 12.12日、「坂口仙得-因碩(幻庵)(先)」、仙得白番4目勝。
 12.15日、本因坊秀策が寺社奉行脇坂淡路守に御目見得する。

【太田雄蔵】
 雄蔵の履歴は次の通り。
 1807(文化4)年、江戸の横山町の商家生まれ。「白棋助左衛門手記」では本町の丁字屋という糸屋とされている。はじめ川原卯之助と名乗った。後に良輔、その後太田姓を名乗り、雄蔵とした。号は一石庵爛柯。幼年より安井家に入門し、7世安井仙角仙知門下で学ぶ。3歳下の安井算知 (俊哲)と競い合う。また8世安井知得仙知の二女を妻とした。1833(天保44)年から8年にかけて、名古屋、京都、大阪、九州各地へ対局のために遠征。少年時代からこの時までの棋譜は、1839(天保10)年から12年に「西征手談(上下巻)」として刊行した。1838(天保9)、6段。1843(天保14)年に既に7段だった本因坊跡目秀和との先合先白番でジゴとした碁は佳作として知られる。
 1848(嘉永元)年12.29日、安井門下の強豪・太田雄蔵が、伊藤松和、林伯栄門入と共に上手(7段)に進む、時に42歳。7段になると碁打ちにとって念願の御城碁に推挙される。剃髪して御城碁を勤め、扶持を受けるのが当時の通例であるところ断っている。この件について「坐隠談叢」は次のように伝えている。
 「雄蔵は白面朱唇、眉秀で、瞳涼しく、漆黒の頭髪豊かに結びたる一個の好男子なり。然れば、自ら粋を以って任じ、かくて7段昇級に際して(中略)、円頂の風采を損するを厭ひて、7段昇格を躊躇して曰く、『御扶持は望む所に非ず、御城碁に列し得ざるも亦可也。唯願わくば剃髪せずして七段を得ん』」。

 この願いが聞き届けられ、かくて御城碁出仕をしないという異例の7段昇段を果たしている。豪快華麗な棋風と同じく、遊びも派手で粋で、あるだけの金はスパッと使う。色町にくりこむと、あちこちから声がかかり、幇間(たいこもち)は目の色を変えてかけ寄ったという。雄蔵のわがままが通ったのは、雄蔵の碁が高く評価されていた証拠であろう。天保四傑(伊藤松和、安井算知、太田雄蔵、阪口仙得)の一人。
 秀策の打碁中、対雄蔵戦が最も多く後年三十番碁を打った。秀策はどちらかといえば雄蔵が苦手だったようで、秀策との初手合は、1842(天保13)年、秀策14歳2段、雄蔵36歳6段の時の二子局で雄蔵勝ち。天保13.5月から10月まで24連戦のうち、秀策2子番10勝4敗1ジゴ1打ちかけ、先番3勝5敗。先二で4連勝、先に打ち込んだのも束の間、4連敗でふたたび先二に打ち込み返されている。定先の手合になるのは14年の9月になる。

 あるとき、碁好きの旗本赤井五郎作の家に雄蔵、算知、仙得、松和の四傑と服部一が集まり、秀策の話題となって現在かなうものはいないであろうと口々に言うのを、それまで秀策に互先で2勝2敗2打ち掛けだった雄蔵が同調できないと発言した。そこで五郎作が発起人となり、1853(嘉永6)年、三十番碁が行われた。17局までで6勝10敗1ジゴとなり先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴと追い込まれるが、第23局で雄蔵は絶妙の打ち回しで白番ジゴとしている。三十番碁はこの局で終了となっている。秀策はこの年に7段昇段し翌年昇段披露会を開き、雄蔵はその席上で松和と対局している(打ち掛け)。この後、越後遊歴に出て、1856(安政3).3.20(4.24日)、高田の旅宿梶屋敷で客死、天保四傑では最も早く没した(享年50歳)。


 秀策は天保四傑のうちでは「雄蔵が芸、毫厘の力勝れり」(「囲碁見聞誌」)と高く評価しているが、阪口仙得には先相先のままなど、対戦成績ではそれほど好成績ではなかった。ただし22歳も年下で日の出の勢いの棋聖秀策に対し、初老に近い年齢の雄蔵が17局まで互先で持ちこたえて見せた実力は高く評価される。現代でも藤沢秀行など、好きな棋士として雄蔵の名を挙げる者は少なくない。秀和とは140局近くの棋譜が残されている。高目、目外しを多用し、振り替わりの多いことで柔軟、華麗の印象を持たれている。
 少年秀策に胸を貸したのは雄蔵ばかりではない。雄蔵との連戦のあと葛野忠左衛門(丈和の長子、のち井上因碩12世)が集中して対局し、その他にも服部正徹(井上門)や竹川弥三郎や岸本左一郎、真井徳次郎らの兄弟子がこぞって胸を貸している。

 この年、村瀬弥吉(11歳、後の秀甫)が本因坊家へ弟子入りし入段。但し、内弟子を許されるのは3年後の嘉永4年、14歳の時である。
 この年、「碁経妙手」3巻(「道策本因坊百番碁立」を改編したもの)(大坂・文繍堂)出版。
 5月、9世安井算知著「佳致精局」(かちせいきょく)4巻刊行(江戸・青黎閣)。
 夏、安井算和著「囲碁捷径」(いごしょうけい)2巻1冊刊行(江戸・青黎閣)。
 川北稽斎著「置碁筌蹄」(おきごせんてい)3冊。
 9月、岸本左一郎(きしもと さいちろう)が「活碁新評」2巻を刊行(橘堂)。実戦から採られた130の筋と形が纏められている。秋山次郎監修「名著再び活碁新評」(日本棋院、2018/09/05初版)

 岸本左一郎
 (1822(文政5)年 -1858(安政5)年)
 江戸時代幕末期の囲碁棋士。石見国大森生まれ。出雲国山下閑休に文を学ぶ。本因坊丈和に入門し、17歳で初段。その後、跡目秀和に次いで本因坊門の塾頭となり5段に進む。帰郷して備前周辺で活動する。1848年、「活碁新評」(岸本橘堂名義、手筋130図)を著す。
篠崎小竹の序がある。31歳で再度江戸へ出た後、同じ5段で同門の鶴岡三郎助、安井門下の鬼塚源治とともに、6段昇段を本因坊家、安井家、林家で合意されるが、やはり6段を望んでいた井上因碩(錦四郎)に反対され、3名は争碁を望むが因碩は受けなかった。1855年、「常用妙手」(詰物144図、シチョウ2図)を著す。1856(安政3)年、左一郎が帰省することになったため、家元三家は因碩を含めた4人に6段昇段を認めた。37歳の時、郷里で病没。秀和は村瀬秀甫と岩田右一郎を送って7段を追贈した。7歳年下で入門の近い秀策との対局が多く残っている。本因坊家では内垣末吉、岩田右一郎を指導し、岩田は左一郎の死後に碑を作っている。橘堂の号もある。
 小林鉄次郎(江戸)、降矢沖三郎(信州松本)生まれる。
 「烏鷺光一の囲碁と歴史」の「新勝寺と囲碁」参照。新勝寺の仁王門の欄間には琴棋書画の彫刻が施されている。門の裏面に囲碁の彫刻を見ることができる。新勝寺の三重塔にも囲碁の彫物がある。歴史ある成田山新勝寺は囲碁との関わりも少なくない。江戸時代より数々の囲碁対局が行われた記録も残っている。12世林柏栄門入は16歳まで成田山新勝寺の小姓を務めていたそうである。新勝寺と繋がりが深かった歌舞伎の5代目市川海老蔵(7代目市川団十郎)は、美男子だった柏栄を見かけ養子にして歌舞伎役者として育てたいと申し込む。結局この話は実現せず柏栄は囲碁の道に進み林家を継承している云々。

【大久保利通の囲碁活用術】
 この年正月四日、薩摩藩の若き大久保(17歳)の日記に以下のように記されている。
 嘉永元年正月四日 陰天

 今日は朝六ッ半に起床他出不致小座之邉り少々取こばめ、八ッ前牧野氏訪られ、碁打ち相企三番打拙者勝負マケいたし候処、それ成りにて取止め、そのうち税所喜三左衛門殿訪られ、喜平次殿は帰られ、喜左衛門殿は段々咄共いたしさ候て、ハマ投相企て川上四郎左衛門殿四番九兵衛などと屋敷前にていたし後は安愛寺前にてもいたし、大鐘近程遊び夜入近喜三左衛門殿は帰られ今夜は九ツ時に休息

 牧野喜平次が家にきて碁を打って三番勝負したが負けた。その後、税所喜三左衛門も訪れ、「ハマ投相企」ハマ(相手から取った石)を投げようと企てたとある。大久保の「囲碁好き」の様子が髣髴となる。

 大久保の有名な逸話で、島津久光に取り入る為に囲碁を習ったという逸話がある。 中国では「囲碁は下位の者が上位の者に意を達するための正道」で、大久保もそれに倣ったと解される。大久保の息子である牧野伸顕も下記のように言っている。
 「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使いすぎたりしたときは、碁を囲んで慰めていたようです。日記を見ると、よほど碁が好きであったようで、そのほかには別に娯楽はなかったでしょう。今の方円社長の岩崎建造などは始終父に追従していました。碁ではいろいろの奇談もあるようです」。
 
2015-04-16

 島津斉彬が逝去されたのが安政5年の7月。久光の子の島津忠徳(のちの忠義)が藩主になったが、斉彬の父、島津斉興は忠徳が若年であることを理由に再び藩政を掌握した。大久保は、今は島津成興が藩政を握っているが、近い将来、島津久光が藩政を握ると読んだ。しかし大久保の身分は御徒目付であり久光に直接会って話すことはできなかった。久光は囲碁が好きで吉祥院の住職に習っていた。吉祥院の住職は税所篤の兄。吉祥院は大久保の同志だった。大久保は税所篤に頼み、吉祥院に囲碁を習い、久光が読みたいといった本に久光への手紙を挟み、国事の難や建白の文章を届けた。それが久光の目に留まり、久光は大久保を碁に事を寄せて呼び寄せ、側に上がって碁の相手をするようになったと云う。それからも度々久光と碁の相手をし、「大久保はお世辞まけをせぬから面白い」等々大久保と打つのが一番面白いと言う間柄になる。(「真実はいかに〜大久保利通の「囲碁で出世」の逸話に迫る」参照)

 1849(嘉永2)年

 2月、「耳赤の一手」の対局から3年後、幻庵因碩は中国へ密航を企て、門下の三上剛山と九州へ向かう途次、中国筋の尾道の豪商・橋本吉兵衛宅(橋本竹下茶園)を訪れ、その逗留時に秀策を聞かれ次のように評している。
 「秀策の芸道は秀逸。既に上手(7段)の地位に及ぶ。今後どこまで強くなるのか底知れない。池中の竜、必ず天に駆け上るであろう」。
 「安井算知(俊哲)-秀策」戦が組まれている。
4.6日 算知(俊哲)-秀策(先) ジゴ
4.8日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
4.16日 秀策-算知(俊哲)(先) 秀策白番1目勝
5.1日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
8.6日 算知(俊哲)-秀策(先) 算知白番2目勝
 10.8日、秀策、太田雄蔵と互先に手合直り、間もなく上手(7段)に進む。
 10.14日、「(坊)秀和-秀策(先)」、秀策先番9目勝。
 11月、伊藤松次郎(49歳)が上手(7段)となり、松和と改名。御城碁に出仕し幕府より十人扶持を受けるようになる。

 1849(嘉永2)年11.17日(12.8日)、御城碁。
 坊)秀策、伊藤松和(49歳)が7段に進み御城碁に初出仕する。秀策は21歳、6段。安井算知戦で御城碁デビュー。御好みで坂口仙得と対し、秀策の黒番中押勝。松和は林門入、御好みで(安井9世)俊哲-伊藤松和6段と対す。爾後、秀策は文久元年までの13年間に19連勝する。松和も同年まで19局を勤める。正徹の御城碁譜はこの2局のみとなっている。
515局 (坊14世)秀和7段-坂口仙得(先)
 秀和白番2目勝
(秀和16局)
(坂口仙得18局)
516局 (安井9世)俊哲-(坊跡目)秀策7段(先)
 秀策先番11目勝
(秀策初1局)
(俊哲32局)
517局 伊藤松和6段-(林12世)柏栄7段(先)
 松和白番中押勝
(松和1局)
(柏栄24局)
518局 お好み (坊14世)秀和-(林12世)柏栄(先)
 秀和白番中押勝/秀和7段、柏栄7段
(秀和17局)
(柏栄25局)
519局 お好み (安井9世)俊哲-伊藤松和6段(先)
 松和先番3目勝
(俊哲33局)
(松和2局)
520局 お好み 坂口仙得-秀策7段(先)
 秀策先番中押勝
(坂口仙得19局)
(秀策2局)

 秀策の御城碁19連勝の記録は「秀策の御城碁譜」に記す。
 秀策は、1861年に御城碁が中止されるまでの13年間、19局全勝の大記録をつくった。秀策があみだした布石法は小目の方向を変えながら、右上、右下、左下に黒石を配布し、黒7手目コスミ。秀策自身が、「碁盤の広さが変わらぬ限り、このコスミが悪手とされることはあるまい」と語ったといわれている。後に「秀策流」といわれ、明治後半から大正にかけてのコミなし碁時代の先手必勝法として大いに研究され現在にまで伝わっている。石田芳夫「碁聖道策」で秀策は次のように評されている。
 「徳川囲碁史を通じ、『碁聖』の尊称をもって呼ばれる人が二人ある。4世本因坊道策と、幕末の本因坊跡目、秀策である。俗に道策を前聖、秀策を後聖と呼ぶ」。

 但し、「ウィキペディア本因坊秀策」は次のように補足している。
 「もっとも、秀策は御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)との二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時2段)との2子局を秀和に打診された際、『2子の碁は必勝を期すわけにはいかない』と固辞したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に2子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。但し、同時に『互先の白番(コミなし)なら誰が相手でも辞さない』といったことも伝えられている」。
 丈和の後、天保四傑、本因坊秀和、秀策の時代となる。秀策の知名度は、碁界では一番高い。先番不敗、理論碁の天才である。人が、”先日の碁はいかがでしたか”と問うたとき、”先番でした”と答えたという話が伝えられる。11年間、お城碁で19連勝したが平坦な道ばかりではなかった。

(坊)秀和-秀策(先)
 「師としての秀策との対局」
秀策先番2目勝
坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番4目勝
 11.21日、「秀策-二宮快蔵(先)」、二宮先番1目勝。
 11.23日、光の碁採録名局「秀策7段-巌埼健造3段(先)」、秀策白番7目勝。
 高崎泰策「囲碁奇手録」の中で、村瀬弥吉の指導ぶりにつき次のように記している。
 「安政6年9月、京都寄留中、村瀬弥吉氏上京、手合い二ツ三ツ(二三子)にて十局を願い打ち分けとなれり。その評論いたって親切にして反復丁寧なり。新工夫なりと唱え、試み打ちしに対局ごとに勝たざることなし。それより又、衆人に対し半石、又半石、漸次一石も手直しするもなお、負ける事少なし。凡そ一か年以内にして一子半余も上達せしと覚えたり。これを能く回顧するに、全く村瀬先生の意見を貫徹し、手段と主意とを変更工夫することいよいよ久しうして、その功益々著しきなるか。これを以てこの碁を著わし、同好初学後進の諸彦に告ぐ」。
 この年、井上家隠居・幻庵が生没する(享年62歳)。幻庵は中国・清への渡航を企て、悪天候に阻まれている。平戸沖で便所に行ったとき、180両入りの財布を海中に落とし、「高いクソをひりました」、「ああ天の無情なる、我が技を惜しんで海外に出さざるか」。幻庵の渡航目的につき揣摩臆測がなされているが、幻庵を嘲笑するのが殆どである。真相は、自身、兵法家をもって任じていたと云われ、孫子、論語などの造詣も深く、著書でもしばしば引用している。そういう軍師の自負からの愛国憂国の精神からの日清同盟を企図していたとも考えられる。

 当主の第13世因碩(松本錦四郎)が井上家の菩提寺である妙善寺で盛大な葬儀を執り行った。


 晩年の著「囲碁妙伝」(嘉永5年刊)が次のように記している。
 「余いまだ何心なき六才の秋より不幸にしてこの技芸を覚え始めけるが、素より武門に生まれたるからは、文武を学びて・・・・」、「実に余が芸、この頃は四段位限り。惣て十一世因碩の打碁、文政七申年以前は芥の如し。申酉二年に的然と昇達せしを心中に覚ゆるあり。諸君子明察せよ。故に必ず勝負のみにて強弱を論ずるは愚の甚だしきなり。諸君子運の芸と知り給え。・・・昔、道策の碁、近来、丈和の碁、みな相手の過ちにて十局に七局勝てり。万人これを知らず。可憐芸なり」。

 幻庵ー秀和の碁を調べた丈和は次のように述べている。
 「因碩の技、実に名人の所作なり、只惜しむらくは其時を得ざるにあり」。
 この年9.6日、信州松代藩藩士の関山仙太夫、没(享年76歳)。1784(天明4)年、信濃国松代藩士の子として生まれ、江戸時代の素人の碁打ちとして最強と目されている。竹林亭と号す。後輩の育成にも努め、文政6年、「奕道初心調練階」。文政7年、「囲碁方位初心階全」の大判写本を残している。

 本因坊家は五段格として対局することを認め、本因坊秀策と先番で20番碁を打って7勝13敗の記録を遺している。生涯で261局を遺す。
 鶴岡三郎助、没(享年34歳)。

 この年、11世林元実が跡目を実子の柏栄に譲って隠居した。柏栄が12世門人となる。
 この年、正月、河北耕之助が「置碁筌蹄」刊行(青黎閣)。
 林家隠居(家元林家11世)元美が囲碁に関する様々な故事を集めた「爛柯堂某話」(写本、11巻、付鐘棋譜72局)を発表(原本は見つかっていない)(注・1914(大正3)年12月、林家の分家から出た女流棋士/林きくが3巻にまとめて大野万歳館より出版)。

【伊藤松和】
 「ウィキペディア(Wikipedia)伊藤松和」その他参照。
 伊藤 松和(いとう しょうわ、享和元年(1801年) - 明治11年(1878年))は、江戸・明治時代の囲碁棋士。名古屋出身、本因坊元丈門下、八段準名人。幼名は松次郎。天保四傑の一人として数えられる幕末の強手で、軽妙、機知に富む碁風、雅韻があったとも言われる。

 商人の家に生まれ、幼時に加藤隆和とともに名古屋在住の伊藤子元に入門。尾張徳川家の藩士が素質を見込み、文化9年(1812年)12歳で江戸へ登って本因坊元丈に入門。一旦帰郷するが再度奮起して江戸に戻り、本因坊丈和の教えを受け、文政5年(1822年)に初段を許される。五段まで昇った後に帰郷、尾張の松次郎として名を馳せ、天保2年(1831年)には尾州候御目見えの上で名字帯刀を許される。天保8年(1837年)に西国遊歴し、尾道に立ち寄った際に9歳で初段近かった安田栄斎(本因坊秀策)と対局。当初秀策に対し「座敷ホイト」(ホイトは乞食の意味)と放言したが、対局してみて9歳と思えない碁に感嘆した。後に秀策が本因坊跡目になった際、松和は自ら前記の放言の謝罪に訪れたところ、秀策は「自分を奮い立たせた発言であった」と逆に感謝したとされる。天保11年に再度江戸に出て、本因坊丈策より六段を許される。嘉永2年(1849年)には家元四家外としては珍しく七段に進み、松和と改名、49歳で本因坊秀策とともに御城碁に初出仕、幕府より十人扶持を受けるようになる。伊藤松和、安井算知太田雄蔵阪口仙得の四人で「天保四傑」とよばれた。

 御城碁は文久元年(1861年)まで19局を勤める。そのうち秀策とは4局あり松和全敗。最初の対戦は松和、秀策ともに御城碁3局目にあたる嘉永3年(1850年)の局で、秀策先相先3目勝ちとなったものの、終盤の劫争いで逆転するまで白が優勢を保ち、秀策の御城碁19連勝のうちで最も苦戦した碁と言われ、松和を高く評価する因となった。(現代コミ碁で再カウントすれば存外健闘していることになる)
 松和の御城碁戦績は「
伊藤松和の御城碁譜」に記す。

 神田お玉ヶ池の千葉周作道場の近くに教場を開き賑わったが、火災に遭い上野山下に転居。教場はなおも繁盛したため、明治維新によっても伊藤は生活に苦心することはなかったという。明治3年(1869年)に林秀栄(後の本因坊秀栄)四段と先二の十番碁を打ち、2勝7敗1持碁とする。その後八段準名人に推された。明治11年に上野の自宅で死去。性格温和であったとされる。また酒好きで、1日3度飲んだという。門下に杉山千和、梶川昇、森左抦、他に濃尾地方に数多い。弟の安次郎は四段まで昇った。


 1850(嘉永3)年
 

 2月、本因坊秀策、三度日の帰省に出発。
 4.24日、「中川順節-秀策(先)」、秀策先番15目勝。
 5.25日、「秀策―岸本左一郎(先)」対局(尾道・慈観寺)。

 左一郎が先番で7目負け、「常先」へと打ち込まれた。両者の間に明確な差がついたことになる。この頃、秀策が石見国を訪問した際に左一郎と対局している。
 6.5日、「秀策―関山仙太夫(先)」、関山中押勝。

 秀策の名が天下にとどろき、信州の仙太夫の耳にも届いた。仙太夫は書を寄せて秀策を松代に招く。到着当日に第1局、それから連日1局ずつ、先で20番打って仙太夫の7勝13敗。45歳の年齢差を考えれば、仙太夫が大善戦したことになる。帰府に当たって仙太夫が謝礼として20両を差し出したところ、秀策は「過大なり」と辞退する。仙太夫は「これあることを期して長年積み立てておいたもの」と説明し受け取らせたと云う。仙太夫はこの5年後、安政3年、村瀬秀甫と10番碁を打っている。後に禅門に入り、雲水として諸国をめぐり歩き、73歳で没している。
 8月29日、京都に行った秀策が尾道の支持者へ書状を送っている。その当時、左一郎が尾道に指導に来ていたことがわかる。秀策は、書状の中で、京都での指導碁4局の棋譜を送るが不出来なので左一郎には見せないよう依頼している。秀策からすると左一郎の棋力は無視できないレベルとなっていたので、このような発言となったのだろう。
 9.17日、「(坊)秀和-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番2目勝。
 10月、秀策、江戸に帰府。

 1850(嘉永3)年11.17日(12.20日)、御城碁。
 13世井上因碩(松本)が御城碁に初出仕する。爾後、文久元年まで11局を勤める。
521局 (坊14世)秀和-(因碩13世)松本(2子)
 秀和白番2目勝/秀和7段、松本5段
(秀和18局)
(松本1局)
522局 (坊14世)秀和7段-服部正徹7段(先)
 秀和白番中押勝
(秀和19局)
(正徹2局)
523局 伊藤松和-(安井9世)俊哲7段(先)
 俊哲先番9目勝
(俊哲34局)
(松和3局)
524局 坂口仙得7段-(坊跡目)秀策6段(先)
 秀策先番8目勝
(坂口仙得20局)
(秀策3局)
525局 お好み (坊14世)秀和8段-(安井9世)俊哲7段(先)
 俊哲先番5目勝
(秀和20局)
(俊哲35局)
526局 お好み 坂口仙得7段-(因碩13世)松本5段(2子)
 松本2子局3目勝
(坂口仙得21局)
(松本2局)

527局 お好み 伊藤松和7段-(坊跡目)秀策6段(先)
 秀策先番3目勝。
(松和4局)
(秀策4局)
秀策大苦戦の碁を粘りに粘る。

 12.9日、「(坊)秀和-秀甫初段(2子)」、秀甫2子局13目勝。
12.25日 秀策-秀甫(3子) 秀策白番7目勝
秀策-秀甫(2子) 秀策白番中押勝

 秀甫の幼名は弥吉。上野車坂下の本因坊道場の隣に住む大工の子として生まれ、8歳で丈策に入門。盆暮れに届ける師家への謝礼金にも事欠いたが、誤る老父に丈策は、少年の将来の楽しみに待てと逆に慰めたという。11歳で初段。まもなく内弟子となり、18歳で5段。秀策は9歳上で、秀甫としばしば打っていたと伝わる。
 12.10日、「(坊)秀和-秀策(先)」、秀和白番1目勝。秀策も気づかなかった白62の好手。
 12.20日、「伊藤松和-安井算知(俊哲)(先)」、俊哲先番9目勝。
 秀和が8段に昇段する。この時既に「名人の力あり」と評されている。
 この年、秀策が、「当地棋は甚だ不はずみの様子に御座候」と、世情不安で江戸の囲碁不振をなげいている。秀策が石見国を訪問した際に左一郎が、安政4年5月の秀策の出雲国入りの際には別行動で、外に指導に出かけていたようである。
 井上因碩12世(節山)が細川家家臣の門人・嶋崎鎌三郎が妻と密通したとして憤り、嶋崎を斬殺事件を起している。「坐隠談叢」は次のように記している。
 「(事件の少し前から因碩の挙動がおかしく)同僚親戚等は大いに之を憂い、常に警戒怠らざりしが、一日因碩、門人・鎌三郎なる者と、某寺院に遊びし時、突然鎌三郎が佩(は)ける刀を奪いて之を指す」。

 因碩の凶変を聞いて駆けつけた幻庵は、直ちに門人たちに命じて彼を座敷牢に閉じ込め、事後の終息に奔走した。嶋崎の主家・細川家は因碩(道砂)以来、細川家と特別の関係があり井上家の恩顧を受けていたため、その義理で内済とす。因碩は相州相原(現神奈川県相模原市)に閉居させられる。節山と号す。

 後継者に考えていた服部家当主の服部正徹が旅に出ていたため、林家の門人・松本錦四郎(20歳)を貰い受け、井上家の家督を継がせて井上因碩13世とした。
 この年、土屋秀悦(秀和の長子、後に15世本因坊)江戸に生まれる。

 1851(嘉永4)年

 「(坊)秀和-秀策(先)」戦が組まれている。
1.1日 (坊)秀和-秀策(先) 打ち掛け
1.11日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番1目勝
 「(坊)秀和-秀甫初段(2子)」戦が組まれている。
2.3日 (坊)秀和-秀甫(2子) 秀甫2子局中押勝
4.7日 (坊)秀和-秀甫(2子) 秀甫2子局13目勝
 2.19日、「(坊)秀和-服部一(先2)」、秀和白番4目勝。井上門の俊秀との対局。
 2.28日、「(坊)秀和-太田雄蔵(先)」、秀和白番11目勝。
 3.8日、「太田雄蔵-秀策(先)」、打ち掛け。
 4.4日、「秀策-秀甫(3子)」、秀甫3子局12目勝。
4.22日 秀策-安井算知(俊哲)(先)
5.22日 秀策-安井算知(俊哲)(先) 俊哲先番2目勝
 5.3日、「(坊)秀和-Nara林Kurakichi (2子)」、先番勝。

【秀策―関山仙太夫の20番碁】
 5月、十四世本因坊秀和の跡目/秀策が、十世烈元以来の本因坊門人で信州松代に帰省していた関山仙太夫に招かれ、和田金太郎を伴って旅す。仙太夫は免状は初段だが五段格で打つことを黙許され、日本一の素人棋客と評判が高い強豪だった。

 6.3ー23日、秀策が梅田屋で仙太夫と20番碁を打つ。この時68歳。仙太夫は文献面での功績も大きい。算砂から天保年間までの好局を集めた「聖賢囲碁妙手集」、自分の打ち碁2百局を集めた「竹林修行用魂集」などを編集し後世に遺している。

 1局目は秀策の白番中押勝。2局目は秀策の白番4目勝ち。3局目は仙太夫の先番で中押勝。仙太夫が「誰に見せても言い分あるまじ」と自慢する局となった。全局を終わり、仙太夫の先で7勝13敗。秀策が「その中には、妙碁と称すべきもの二局あり」と評している。仙太夫が次のように評している。
 「都合二十番、秀策殿、毎局石立て趣向を変え、一番たりとも同じ石立てを打たず。これ真の棋聖と云うべきなり」。
 
 仙太夫は江戸詰めから郷里に帰ってからは松代藩の要職を務め、藩政に携わる一方で碁の指導にも尽くし、自筆の定石集を遺している。その中に碁を詠んだ三十一文字の短歌があり、次のように句が伝えられている。
 「わが石を捨てて悦ぶ人は唯(ただ)上(のぼ)りするどきものとこそ知れ」。
 「闇の夜に迷うを笑う人は唯己(おの)が迷うは知らぬ者なり」。

 「(坊)秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。「気概の坊門最長老との対局」。
6.6日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 松和先番勝
6.7日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番3目勝
6.8日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 松和先番1目勝
6.13日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
7.11日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
 「(坊)秀和-秀策(先)」戦が組まれている。秀策は9歳年長の師匠秀和と30番近く打っている。先で10局以上勝ち越したが、師礼をとって白を持つことはなかった。
10.22日 光の碁採録名局「(坊)秀和-秀策(先) 秀策先番4目勝
10.24日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番4目勝
10.28日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番3目勝
(秀和-秀策戦最終譜)
 10.22日、「(坊)秀和-秀甫(3子)」、秀甫3子局13目勝。
 10.22日、「(坊)秀和8段-秀策7段(先)」、秀策先番4目勝。
 11.1日、「安井算知(俊哲)-秀策(先)」、打ち掛け。
 11.9日、「(坊)秀和-鶴岡三郎助(先)」、不詳。

 1851(嘉永4)年11.17-18日、御城碁。松和7段、松本5段。
528局 (坊14世)秀和8段-(安井9世)俊哲7段(先)
 俊哲先番3目勝
(秀和21局)
(俊哲36局)
529局 (林12世)柏栄7段-(坊跡目)秀策6段(先)
 秀策先番7目勝
(柏栄26局)
(秀策5局)
530局 伊藤松和7段-(因碩13世)松本5段(先)
 松和白番1目勝
(松和5局)
(松本3局)
531局 お好み (坊14世)秀和8段-伊藤松和7段(先)
 松和先番2目勝
(秀和22局)
(松和6局)
532局 お好み (安井9世)俊哲7段-(坊跡目)秀策6段(先)
 秀策先番中押勝
(俊哲37局)
(秀策6局)
533局 お好み (林門入12世)柏栄-(因碩13世)松本(先)
 松本先番3目勝/柏栄7段、松本5段
(柏栄27局)
(松本4局)

11.27日 秀策-安井算知(俊哲)(先) 打ち掛け
秀策-安井算知(俊哲)(先) 秀策白番4目勝
 「(坊)秀和-伊藤松和(先)」、松和先番2目勝。
 この年、酒井安次郎、生まれる。
 この年、東条琴台編「囲碁人名録」(いごじんめいろく)1冊が刊行される。

 1852(嘉永5)年

 正月、秀策が跡目弟子として扶持を受ける。
 1.15日、「幻庵―井田嶋右エ門(4子)」、幻庵4子局白番8目勝(於姫路)。
 1.16日、「幻庵―三上豪山(3子)」、三上の3子局恐らく中押勝(於姫路)。
 2.12日、「伊藤松和、秀策-鶴岡三郎助、(坊)秀和(先)」、白番6目勝。
 2.22日、服部一の6段昇級披露会行われる。席上、互先コミ3目の連碁が催される。当時の最高棋士が勢ぞろいした豪華版。「四十二段の連碁」として知られる(2.22ー3.5日)。
安井算知(俊哲)、坂口仙德、太田雄藏-(坊)秀和、伊藤松和、秀策(先) 先番中押勝
(坊)秀和、阪口仙得、秀策-安井算知(俊哲)、伊藤松和、太田雄蔵 先番2目勝
 4.13日、芝十番倉の高須隼人の屋敷で、本因坊秀和、同跡目秀策、伊藤松和の本因坊門と安井算知、坂口仙得、太田雄蔵の安井一門と、3人ずつが1組で対戦する連碁を催している。
「9世安井算知、伊藤松和、太田雄藏-秀和、坂口仙得、秀策 (先)」
(秀和組の先番5目コミ出し)181手
先番中押勝
安井算知(俊哲)、伊藤松和、太田雄藏-(坊)秀和、坂口仙得、秀策(先)
(秀和組の先番5目コミ出し)
先番1目勝
 5.7日、12日、「秀策-鶴岡三郎助(先)」、鶴岡の先番中押勝。
 5.22日、「安井算知(俊哲)、坂口仙得、太田雄藏-(坊)秀和、伊藤松和、秀策(先)」、先番勝。
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。
7.2日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番4目勝
8.28日 秀策-太田雄蔵(先)」  雄蔵先番2目勝  
9.23日 秀策-太田雄蔵(先) 打ち掛け
10.3日 秀策-太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
10.11日 秀策-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝  
11.4日 太田雄蔵-秀策(先) 打ち掛け?
 9.9日、「(坊)秀和-岸本佐一郎 (先)」、秀和白番3目勝。
 9.23日、「(坊)秀和-鶴岡三郎助(先)」、不詳。
 10.28日、「(坊)秀和-秀策(先)」、秀策先番3目勝。

 1852(嘉永5)年11.17日、19日、23日、御城碁。
534局 (林11世隠居)元美
(坊14世)秀和(先)

 秀和先番7目勝/元美7段、秀和8段
(元美11局)
(秀和23局)
535局 (林門入12世)柏悦
(安井9世)俊哲(先)

 俊哲先番中押勝
(柏悦*局)
(俊哲38局)
536局 (坊跡目)秀策
(因碩13世)松本5段(先)

 秀策白番2目勝
(秀策7局)
(松本5局)
537局 伊藤松和6段
坂口仙得7段(先)

 仙得先番中押勝
(松和7局)
(坂口仙得22局)
538局 お好み (安井9世)俊哲7段
(坊14世)秀和8段(先)

 秀和先番7目勝/ 「善く敵に勝つものは争わず
(俊哲39局)
(秀和24局)
539局 お好み 坂口仙得7段
(林12世)柏栄7段(先)

 仙得白番12目勝
(坂口仙得23局)
(柏栄29局)
540局 お好み (林11世隠居)元美
(因碩13世)松本(2子)

 松本2子局中押勝。元美7段、松本5段
(元美12局)
(松本6局)
541局 お好み 伊藤松和7段
(坊跡目)秀策6段(先)

 秀策先番6目勝
(松和8局)
(秀策8局)

 11.17日、「幻庵-勝田栄輔(先)」、幻庵白番1目勝。
 勝田は旗本で、この頃、坊門4段。幻庵と打つために長崎を訪れている。本局は勝田(黒)が幻庵因碩に挑んだ一局。力の差があり、幻庵有利に進んでいた局面であったが、勝田がオキが絶妙の一着を見つけ、白のツグと一団の白が落ちる。愕然とした幻庵がここで打ち掛けを提案、体勢を立て直すと後をきっちりとヨセて、逆転の一目勝ちに持ち込んだ。勝利は確実と周囲に吹聴していた勝田は大いに面目を失ったとされる。幻庵が、宿に訪れた者に次のように述べている。
 我が見損じなれども、未だ敗局とは定まらず。もし互角の碁ならば必然ジゴに終局あるも、栄輔の技両ではおぼつかなし。
 暮れ、旗本赤井五郎宅に碁士が集まり、「秀策こそ当代一」という話になっていたところ、雄蔵が賛同せず、かくて赤井が主唱者となり、「秀策―雄蔵の30番碁」のお膳立てができ上った。
 この年初春、井上因碩幻庵が「囲碁妙伝」(いごみょうでん)4巻1冊(大阪、竹雨亭)刊行。本書は、「余いまだ何心なき6歳の秋より、不幸にしてこの芸を覚えたるが」の書き出しから始まり、幻庵面目躍如談論風発のユニークな囲碁本になっている。
 この年9.20日、秀和の次男の土屋平次郎(後の本因坊秀栄)が江戸本所相生町の本因坊邸(江戸本郷湯島、俗称桜馬場の本因坊外邸)に生まれる。兄は本因坊15世秀悦、弟の土屋百三郎は第16及び20世本因坊秀元。11歳の時、林12世門入柏栄の養子となる。柏栄没後秀栄と改名し、14歳で家督を相続して林家13世となるが、御城碁に出仕する機会はなかった。後に林家を絶家して第17世、18世本因坊となる。





(私論.私見)