日本囲碁史考、秀策入門から幕末まで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和4).1.20日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで日本囲碁史考7として「日本囲碁史考、秀策入門から幕末まで」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


1837(天保8)年

【後の秀策の入門譚】
 1837(天保8)年、11月、桑原虎次郎(後の安田栄斎、更に後の秀策)9歳の時、芸州三原藩主浅野甲斐守忠敬を後盾として浅野家の家臣寺西右膳に連れられて上京し、江戸の本因坊丈和の門を叩く。入門が許され、本因坊家へ内弟子として住み込む身となった。

 翌年、虎次郎が道場で兄弟子と対局していたところへ、本因坊丈和が通りかかり、その石運びに目を通した丈和は次のように詠じた。
 「これまさに百五十年来の棋豪(きごう)にして、我が本因坊家の門風はこれより大いに揚(あ)がらん(揚がるであろう)」(「坐隠談叢」)。

 「百五十年来」とは道策以来という意味である。

 「囲碁見聞誌」(川村知足、1884年)は次のように記している。
 「丈和先生折節本所より来り、秀策が碁を寂(つくづく)見て、我が稽古場は益々繁栄ならん、百五十年以来の棋出来たりと賞し帰られし由」。

 百五十年前といえば島根県西部の石見(いわみ)の国出身の第四世本因坊道策の時代で、栄斎はそれ以来の碁豪であるという意味であろう。道策は俗に十三段(当時九段・名人が最高)の実力で前世碁聖の名が冠せられ、丈和が後世。秀策は死後、明治になって碁聖と仰がれることになる。

 「秀和-安井算知(俊哲)(先相先の先)」戦が組まれている。
12.7日 秀和-算知(俊哲)(先相先の先) 秀和白番2目勝
(序盤の失着を着々と盛り返しついに抜き去った白の好局)
12.9日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番10目勝
12.18日 算知(俊哲)秀和(先) 秀和先番3目勝
12.29日 秀和-算知(俊哲)(先) 算知先番2目勝
 「秀和-林門入(柏栄)」戦が組まれている。
 「林門入(柏栄)-秀和(先) 秀和の先番勝
 「秀和-林門入(柏栄)(先) 秀和の白番勝
 安井家隠居仙角(7世仙知、大仙知)生没(享年74歳)。仙知は、他の碁打ちに大きく勝ち越した。烈元に16勝2敗1ジゴ。烈元の跡目河野元虎に9勝2敗。林祐元門入に、御城碁初出仕の門入二子を破り、1810(文化7)年までに18勝9敗2ジゴ。名人碁所の地位も望めたが、そういう動きを見せていない。1815(文化12)年、51歳で隠居して知得に家督を譲り仙角と号する。 仙知の棋風は、江戸時代中期としては異色の、位が高く中央重視で、戦い指向の創造性豊かな構想を展開した。近代碁の祖と云われる。幕末の本因坊秀和は、「当代華やかなる碁を推さんには、七世仙角の右に出ずる者なかるべし」と評している。木谷實の新布石のアイデアは仙知の影響を受けたと言われている。仙知はまた幕末にかけて本因坊家に拮抗する安井家の興隆に大きく寄与している。
 12月、「土屋秀和、竹川弥三郎(先番5目コミ)対太田雄蔵、服部正徹局」が史上初のコミ碁として打たれている(打ち掛け)。(日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド2005.1月号付録) 
 この年、葛野亀三郎(丈和の三男、後の初代中川)、三好紀徳、生まれる。

【天保四傑】
 この頃の安井算知俊哲、太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和を天保四傑という。俊哲が9世安井算知となる。ちなみに、名人となれる実力がありながら、時を得ず不運にも名人になれなかった棋士として、本因坊元丈、中野知得、11世井上因碩(幻庵)、14世本因坊秀和を囲碁四哲という。

 秀策は、天保四傑のうちでは「雄蔵が芸、毫厘の力勝れり」(「囲碁見聞誌」)、「四傑のうち雄蔵こそ筆頭随一」と高く評価している。その雄蔵は、阪口仙得には先相先のままなど対戦成績ではそれほど好成績ではなかった。ただし22歳も年下で日の出の勢いの棋聖秀策に対し、初老に近い年齢の雄蔵が17局まで互先で持ちこたえて見せた実力は高く評価される。現代でも藤沢秀行など、好きな棋士として雄蔵の名を挙げる者は少なくない。秀和とは140局近くの棋譜が残されている。高目、目外しを多用し、振り替わりの多いことで柔軟、華麗の印象を持たれている。

 1838(天保9)年

 1.11日、「(坊)丈和-太田雄蔵(2子)」、雄蔵先番勝。
 1月-3月、「安井算知(俊哲)-秀和(先)」戦が組まれている。算知(俊哲)は安井家9世を継いで間もなくの29歳7段、秀和はまだ跡目になっていない頃で19歳6段。
1.12日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
1.15日 安知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番1目勝
1.22日 秀和-算知(俊哲)(先) 算知先番中押勝
「算知との互先初番で囲碁史に残る激戦譜」。
1.24日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
2月 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番7目勝
2.8日 算知(俊哲)-秀和 (先) 秀和先番9目勝
2.13日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番3目勝
2.19日 算知(俊哲)-秀和 (先) ジゴ
2.23日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番5目勝
3.5日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
4.21日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番4目勝
4.23日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番7目勝
8.14日 算知(俊哲)-秀和(先相先の先) ジゴ

 8.14日の 「算知(俊哲)-秀和(先相先の先)」は、先相先に打ち込んだ秀和が黒1に星。算知の白2は記録に残る最初の三3である。
 2月、安井8世仙知(知得)重病につき、慰問に閑し幕府より跡目俊哲を7段に昇格させる議起り、名人丈和これを承認する。丈和の名人碁所に協力した際の8段昇進の口約束を反古にされていた林元美は激昂して丈和との20番争碁を願い出る。これが遠因となり、丈和が碁所の退位願いを出し、牧野備中守が受理する。丈和の碁所は天保2年以来の僅か8年となった。

 丈和が名人碁所を引退したことにより、本因坊元丈の子の丈策が家督を継いだ。9月、跡目丈策の相続人を秀和と内定する。
 3月-4月、「秀和-太田雄蔵」戦が組まれている。
3.9日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.23日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番勝
4.12日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
4.15日 太田雄蔵-秀和(先) 雄蔵白番勝
 3月-4月、「坂口仙得-秀和」戦が組まれている。
3.11日 坂口仙得-秀和(先) 仙得白番勝
3.22日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番7目勝
4.11日 秀和-坂口仙得(先) 仙得先番4目勝
 2.29日、「(坊)丈和-伊藤安次郎(4子)」、伊藤先番勝。
 3.11日、「(坊)丈和-伊藤松次郎(2子)」、打ち掛け?。
 3.14日、「(坊)丈和-加藤隆次郎 (2子)」、加藤先番1目勝。
 萩野虎次郎が坂口家を継いで阪口仙得を名乗る。阪口仙得は天保四傑に数えられている。
 「(坊)丈和-河北耕之助」戦が組まれている。
4.25日 (坊)丈和-河北耕之助(3子) 河北3子局中押勝。
4.27日 (坊)丈和-河北耕之助(2子) 丈和2子局白番7目勝
5.20日 (坊)丈和-河北耕之助 (2子) 丈和2子局白番7目勝
 閏4.27日、8世仙知没(享年63歳)。跡目俊哲の家督相続が聞き届けられ9世算知となる。
 4.30日、「井上因碩(幻庵)-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番16目勝。
 5.18日、「坂口虎次郎-秀和(先相先の先)」、秀和先番5目勝。不明の碁に於ける秀和の終盤の二枚腰 。
 6.6日、「安井算知(俊哲)-本因坊丈策(先)」、ジゴ。
 7.8日、本因坊丈和、細川家と本因坊家親交の由緒書を差し出す。
8.19日 「服部雄節-秀和(互先の先)」 秀和先番中押勝
「秀和の星打ち局」。
10.7日 服部雄節-秀和(先) 秀和先番8目勝
 11.3日、阪口仙得7段に昇進、新規召出され、御目見得。
 11.17日、御城碁。阪口仙得7段が御城碁初出仕、以後文久元年まで31局を勤める。
11.17日 428局 林元美6段-丈策7段(先)
 丈策先番中押勝
11.17日 429局 算知9世(俊哲)-林柏栄(先)
 柏栄先番5目勝
11.17日 430局 坂口仙得-服部雄節(先)
 雄節先番中押勝
 この年、村瀬弥吉(秀甫)、伊藤小太郎が生まれる。知得生没。門人には、太田雄蔵(この年、6段に昇段)、阪口仙得、鈴木知清、片山知的、石原是山、桜井知達、佐藤源次郎など多数、本因坊家に匹敵する興隆となった。
 この年、村瀬弥吉(秀甫)が、江戸の上野車坂下で、本因坊道場の隣に住む大工の倅(せがれ)として生まれる。
 伊藤小太郎が生まれる。

【安井算知9世(俊哲)】 (「ウィキペディア9世安井算知 (俊哲)」)
 安井算知9世 (俊哲)のプロフィールは次の通り。
 

 (1810(文化7)年-1858(安政5).7.4日)
 安井8世知得仙知の長男で、安井算知2世の名を継ぐ。家元安井家の安井算知9世、7段上手。天保四傑と呼ばれた一人で無双の力碁とされる。息子は安井10世算英。

 江戸両国薬研堀の安井家屋敷で生まれる。幼名は金之助、後に俊哲と名乗る。少年時代には、安井家が本所相生町の本因坊家屋敷に近かったため、姉の鉚(後に2段)と共に腕を磨きに通った。1825(文政8)年、16歳の時、2段で跡目になり、御城碁に初出仕し服部因淑に三子で中押勝ち。若い頃は打つ買う飲むの道楽者だったが、父仙知は一言の小言も言わず、見苦しい負けをしたときだけ叱ったと言われる(「坐隠談叢」)。「師匠の子をなぐった話」で次のように紹介されている。

 意訳概要「九世安井算知は知得仙知の実子。壮年時代は、飲む打つ買う、三拍子そろった道楽者で、父の代稽古に行くとき、父から羽織、袴を借りて出て、帰りにはそれを質に入れて遊んでくる、といった具合だった。御城碁の下打ちの前の晩も、酔いつぶれて仲間に心配をかけることもしばしばあった。しかし父の仙知はどこか見所があると思ってか、一切小言をいわず、為すがままにまかせ、ただ見苦しく負けたときだけは厳しく叱責した。

 算知の碁は豪放一家をなし、秀和でさえしばしば苦杯を喫したと云う。厳埼健造がまだ海老沢といった若かりし頃、算知の家の塾生だった。ある日、健造が算知の子、算英が打った碁を見てやっていると、どうもなんともいいようのないヘボな手を打つ。剛腹で、いささか気の短い健造は、段々むかついてきて、『安井家十代目となるものが、こんなことでどうするか、バカもん』。腹が立って、相手が師匠の子だという事も忘れ、こぶしを固めて、いきなり頭をなぐりつけた。当時算英はまだ十歳前後の少年。わっと泣き出すと母親のそばへ行って告げた。『まあ、なんということを。弟子の分際で師匠の子の頭をぶつなどとは非礼もきわまりない』。母親は怒って夫の帰宅を待ち、算知の帰ってきたところ早速告げ口したところ、算知は、その弟子を呼び事情をといただし、訳を聞いて曰く、『わが子の碁の愚鈍に腹を立て、ようなぐってくれた。これからも技に暗く、見るにたえぬときは何度でもなぐってくれ』。かく褒めて自分の羽織を脱いで与えたと云う」。

 1833(天保4)年、6段昇段。1837(天保8)年、7段昇段するが、手合割は6段のままという名目的な昇段だった。1838(天保9)年に父仙知が没し、家督を相続して九世安井算知となる。御城碁では、7世安井仙知の喪に服した天保8年を除き、1857(安政4)年まで皆勤し42局を勤め、これは本因坊烈元に次ぐ。1858(安政5)年に弟子の海老沢健造(後の巌崎健造)とともに関西を遊歴し、7月に帰路の沼津で没する。子の算英が12歳で安井家を継いだ。

 戦績。井上幻庵因碩とは先相先まで十数局を遺し、算知先では打ち分け。本因坊丈和とは、文政12年(1829年)御城碁で二子で敗れ、父に叱責されたと言う。天保4年の先二の先番では、4日をかけて1目勝ち。10歳年少の本因坊秀和とは親しい間柄で130局余が遺されている。1836(天保7)年に秀和先が初手合。その後秀和の成長により、天保8年には秀和先相先だったが、翌年1月に互先、6月には算知先相先、10年には先二にまで打込まれ、14年には互先に戻す。その後は算知先相先と先を往復した。ただし御城碁での対秀和戦では黒番で5勝、白番で1勝3敗としている。両者間の対局では、秀和の星打ち、算知の三々や天元打ちなども試みられている。1839(天保10)年の伊藤松和(勝)との対局は405手の長手順で知られる。

  安井算知9世 (俊哲)の御城碁成績
1825年 (文政8年) 服部因淑 3子局中押勝
1826年 (文政9年) 林元美 2子局9目勝
1827年 (文政10年) 林柏悦 先番6目勝
1828年 (文政11年) 服部因淑 2子局中押勝
1829年 (文政12年) 本因坊丈和 2子局1目負
1830年 (天保元年) 井上因碩(幻庵) 2子局中押勝
1831年 (天保2年) 服部因淑 先番ジゴ
1832年 (天保3年) 服部雄節 白番11目負
1833年 (天保4年) 林柏栄門入 白番中押勝
1834年 (天保5年) 林元美 先番中押勝
1835年 (天保6年) 井上因碩(幻庵) 先番ジゴ
1836年 (天保7年) 服部雄節 先番1目勝
1838年 (天保9年) 林柏栄 白番5目勝
1839年 (天保10年) 本因坊丈策 先番3目負
1840年 (天保11年) 林柏栄 白番中押負
1841年 (天保12年) 本因坊秀和 先番3目勝
同年 阪口仙得 白番1目勝
1842年 (天保13年) 井上因碩(幻庵) 先番1目勝
同年 本因坊丈策 先番中押勝
1843年 (天保14年) 本因坊秀和 白番4目負
1844年 (弘化元年) 本因坊秀和 先番1目勝
同年 阪口仙得 先番4目勝
1845年 (弘化2年) 林柏栄 先番6目負
同年 本因坊秀和 白番中押勝
1846年 (弘化3年) 井上秀徹 白番3目負
同年 本因坊丈策 白番7目勝
1847年 (弘化4年) 本因坊秀和 先番7目勝
1848年 (嘉永元年) 本因坊秀和 白番7目負
同年 井上因碩(節山) 白番2目勝
1849年 (嘉永2年) 坊)秀策 白番11目負
同年 伊藤松和 白番3目負
1850年 (嘉永3年) 伊藤松和 先番9目勝
同年 本因坊秀和 先番5目勝
1851年 (嘉永4年) 本因坊秀和 先番3目勝
同年 本因坊秀策 白番中押負
1852年 (嘉永5年) 林柏悦門入 先番中押勝
同年 本因坊秀和 白番7目負
1853年 (嘉永6年) 井上因碩(松本) 白番5目負
同年 本因坊秀策 先番1目負
1854年 (安政元年) 伊藤松和 白番4目負
1856年 (安政3年) 林有美 白番10目負
1857年 (安政4年) 本因坊秀策 白番中押負
 門下、その他
 算知門下では、巌崎健造、鬼塚源治、奈良林倉吉、中村正平が当時安井門四天王と呼ばれ、他に田原恒三郎、中松松齋、石原常三郎、島村栄太郎らの五段がいた。健造は明治期にも活躍し、方円社3代目社長も務める。健造が算英十歳頃に碁を見てやっていて、あまりに稚拙な手を打つので手を上げたことがあり、算英は泣いて母親に訴えたが、算知は健造の話を聞いて、今後も遠慮なく殴ってくれ、算英の兄とも師ともなってくれと褒めたと云う。安井家の1世安井算哲、2世安井算知、3世安井知哲の墓所は京都寂光寺にあったが、1708(宝永5)年に火災で失われた。算知はこれを、1852(嘉永5)年に江戸深川浄心寺に改葬した。

 1839(天保10)年、。
 この年、蛮社の獄起こる。

 「(坊)丈和-秀和」戦が組まれている。
1.12日 (坊)丈和-秀和(先二の先) 秀和先番3目勝
「秀和の出藍秘譜」。
2.25日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番3目勝
 2.1日、「秀和―安井賛知(先相先の先)」、秀和白番5目勝。

 秀和は13歳で丈和の門に入り、17歳5段、19歳6段。天保11年、21歳で7段に進み、本因坊丈策の跡目養子となった。この頃の秀和は大いに戦い、守りに回っても強靭な二枚腰を発揮しており、近代碁の象徴ともいえる星打ちを試みている。
 「因碩(幻庵)-秀和」戦が組まれている。
3.10日 「因碩(幻庵)-秀和(先)」 幻庵白番6目勝
4.4日 因碩(幻庵)-秀和(先) 秀和先番1目勝
「幻庵との第2局」。
4.23日 因碩(幻庵)-秀和(先) 幻庵白番6目勝
5.24日 因碩(幻庵)-秀和(先) 秀和先番1目勝
 4.3日、「安井算知(俊哲)-伊藤松和(先番)」、松和の先番2目勝ち。中盤と終盤に大石の生死を巡る劫争いが延々争われて405手の長手順となったことで知られ、「古今の長局」と呼ばれた(現在の記録は1950年の大手合、山部俊郎-星野紀戦の411手)。
 5.12日、「伊藤松次郎-本因坊丈策(先)」、丈策先番6目勝。
 5.20日、「因碩(幻庵)-安井算知(俊哲)(先)」、幻庵白番8目勝。
 6.2日、「本因坊丈策-伊藤松和(先)」、打ち掛け。
 「秀和-岸本左一郎(2子)」戦が組まれている。
7.14日 秀和-岸本左一郎(2子) 岸本先番勝
7.24日 秀和-岸本左一郎(2子) 秀和白番2目勝
7.27日 秀和-岸本左一郎(2子) 秀和白番勝  
9.28日 秀和-岸本左一郎(2子) 岸本先番3目勝
 「秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
8.2日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
8.22日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番勝
9.12日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番2目勝  
10.29日 伊藤松和-秀和(先) 不詳(秀和の勝ち?)。
 10.9日、「因碩(幻庵)-太田雄蔵(先)」、不詳。
 「秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
太田雄蔵-秀和(先) 不詳。
10.11日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番4目勝
11.2日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
「雄蔵を定先に打ち込んだ碁」。
 11.17日、御城碁。柏栄7段、仙得7段。
(12.22日) 431局 算知9世(俊哲)-坊)丈策(先)
 俊哲白番3目勝
(12.22日) 432局 坂口仙得7段-林柏栄7段(先)
 仙徳白番中押勝
 11.26日、「秀和-安井算知(俊哲)(2子)」、俊哲2子局3目勝。
 11.29日、本因坊丈和が、三原藩浅野候からの預り弟子・秀策に初段を免許した。桒原虎次郎改め安田栄斎13歳のときである。免状の文章は次の通り。
 「囲碁幼年たりと雖も執心所作宜しく手段も感心致し候。これによって自今上手に対し三碁子の手合い初段を免許しおわんぬ。 天保十己亥11月29日 官賜碁所 本因坊丈和 安田栄斎老」。
 本因坊丈和が碁所を守り通す間、林元美との密約である8段昇進を実行せず、元美は死を賭して争碁を願い出る。これが引き金となって丈和の引退の流れが生まれる。
 11月、元美が、因碩の同意を得て8段昇段届書を差し出すも、本因坊、安井両家の反対によって不許可になる。
 11.30日(晦日)、本因坊丈和が、元美、因碩らの運動によって碁所を引退し、引退の翌年に本所相生町の邸に隠居する(53歳)。時に車坂の道場に顔を見せて後進の碁を見てやり、時に稽古を打っていたと云う。丈策が本因坊13世を継ぐ。
 本因坊家で、秀和が跡目となり21歳で7段に進む。この年から御城碁に出仕し、最後の御城碁まで29局を残すことになる。
 この年、服部雄節著「石配自在」(いしくばりじざい)4巻1冊が刊行される。

【本因坊13世丈策時代】

【丈和引退、丈策が本因坊13世となる】
 丈和は、先師の本因坊11世元丈の実子長男/宮重丈策を跡目として家督相続させた。本因坊13世となる。同時に、当時同家の門弟の中で最も優れた棋力の持主だった土屋秀和(当時7段)を丈策の跡目に推薦している。丈和の長子・戸谷梅太郎道和を出し抜いての抜擢だった。戸谷梅太郎道和は水谷琢順の養子となった後に、12世井上因碩(節山)となる。三男は、明治期の方円社二代目社長の中川亀三郎である。長女・はなは、本因坊秀策に嫁いだ。

 同月晦日、御目見得。結局丈和もわずか在位8年で幕府から引退を命じられる。丈和引退後、幻庵因碩が名人位を望み名人碁所の願書を提出する。これに抵抗したのが本因坊一門の若き天才児本因坊秀和であった。

【勢子(本因坊丈和の妻)考】
 2020.5.21日付け「『勢子の権柄』 本因坊丈和の妻 勢子」転載。

 巣鴨の本妙寺にある囲碁の家元・本因坊家の墓所で、説明板に書かれていない墓について調査し、一部について誰の墓か分かってきました。その一つの墓石に刻まれた「遥成院妙見日等信女」の戒名は、十二世本因坊丈和の妻、勢子の戒名であることが判明しました。

 丈和は最初の妻、達子との間に長男の戸谷梅太郎(井上秀徹)をもうけ、その後、後妻である勢子との間に十四世跡目本因坊秀策に嫁いだハナや、維新後の囲碁界をけん引していく中川亀三郎ら多くの子供をもうけています。

 
「天保の内訌」と呼ばれる策略で名人碁所にまで上り詰めた丈和ですが、他の家元の反発も激しく、天保10年(1839)に引退し、先代元丈の子である丈策に家督を譲ると共に、門人の秀和をその跡目とします。さらに、天保8年(1837)に安田栄斎(秀策)が入門すると、その打ち振りに「是れ正に百五十年来(道策以来)の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と絶賛。秀策秀和以降の本因坊跡目にしようと準備を進めていきます。そして弘化4年(1847)に丈策丈和が相次いで亡くなり、翌年に秀和が本因坊家十四世に就任。秀策は跡目となると共に丈和の長女ハナと結婚しています。この時、ハナの母親である勢子は健在であり、秀和にとって自分を当主へ押し上げてくれた師匠の未亡人として大きな影響力を持っていました。

 
文久2年(1862)江戸で大流行したコレラにより勢子の娘婿である本因坊秀策が急死すると、当主である秀和は、秀策の弟弟子で、共に坊門の竜虎、碁界の圭玉と称された村瀬秀甫を再跡目にしようと考え、その旨を本人にも伝えています。しかし、秀甫の事を嫌っていた勢子の反対により、秀和秀甫を跡目とする事を断念し、長男で14歳の秀悦が跡目とされました。秀甫を跡目とすることには反対だった勢子も、あからさまに実子の中川亀三郎を跡目に推すことは出来ないため秀悦が選ばれたのかもしれません。

 
「勢子の権柄」と呼ばれるこの出来により跡目の道を絶たれた秀甫は、その後、江戸を不在にする事が多くなりますが、明治維新により囲碁界が混乱する中、囲碁結社「方円社」を設立し本因坊家と対立。皮肉なことに方円社を設立を主導し秀甫を担ぎ上げたのは勢子の息子である中川亀三郎だったのです。本因坊家はその後、秀悦の弟である秀元秀栄と代が代わりますが、勢力を増す方円社と和解するため十七世本因坊秀栄秀甫に家督を譲り十八世本因坊秀甫が誕生します。しかし、勢子は慶応3年(1867)に61歳で亡くなっていて一連の騒動を見ることはありませんでした。 


 本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号


 「秀和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
12.6日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
12.18日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番勝
12.20日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番1目勝
 この年、太田雄蔵「西征手談」、服部雄節「石配自在」(3月)刊行。
 この年、高崎泰策、生まれる。秀策初段。

 1840(天保11)年

 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.22日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
3.19日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.22日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
 「秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
1.24日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番4目勝
4.19日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番勝
5.2日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
5.9日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番6目勝
7月 伊藤松和-秀和 秀和先番11目勝
10.13日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番11目勝
 3.14日、「伊藤松和-安田栄斎(秀策)初段(3子)」、秀策先番4目勝。
 4.11日、「土屋秀和7段-安田栄斎(秀策)初段(3子)」、秀策3子局1目勝。
 
4.22日、「土屋秀和7段-安田栄斎(秀策)初段(3子)」、秀和3子局1目勝。
 4月、本因坊丈策が、土屋秀和7段(22歳)の丈策跡目を出願する。
 6月、井上11世因碩(幻庵、42歳)が、本因坊丈和名人の引退後すぐ、名人碁所の願書を寺社奉行に提出する。本因坊丈策が直ちに異議を申し出る。寺社奉行は、因碩の申し出を受けて本因坊13世丈策との争碁(あらそいご)を申し渡す。ところが、本因坊丈策は病臥中であったため跡目の秀和が代わって対局することを願い出て、これが許され一名に限りの四番争碁を命じられる。
 7.1日、秀和が丈策の跡目を許され、御目見得。
 7.6日、「伊藤松和-安井算知(俊哲)(先)」、算知先番中押勝。
 10.6日、「秀和-林門入(柏栄)(先)」、柏栄先番2目勝。
 10.24日、「秀和-片山知的(先)」、ジゴ。
 「(坊)丈和-秀和(先)」戦が組まれている。
11.1日 (坊)丈和-秀和(先)」  丈和白番中押勝
11.24日 (坊)丈和-秀和(先) 丈和白番勝
 11.17日、御城碁。
11.17日 433局 算知9世(俊哲)-林柏栄(先)
 柏栄先番中押勝
11.17日 434局 秀和7段-坂口仙得7段(先)
 秀和白番1目勝
「秀和初出仕の御城碁、白番で勝利」。
 1840(天保11)年初夏の頃、碁所本因坊丈和から正式に初段を免許された虎次郎(栄斎)が、師匠本因坊13世丈策の勧めもあって出府以来2年半ぶりに郷里因島に帰国した。東海道を通って山陽道へ。帰国した栄斎は直ちに三原候の浅野忠敬に謁見し、江戸の生活を報告した。栄斎が頭角をあらわし「安芸小僧」と呼ばれていることなどはすでに故国に届いている。忠敬は五人扶持を与え、広島藩の藩学教授坂井虎山について漢学を学ぶことを命じた。秀策と改名する。2段昇段。
 この年、河北耕之助が「囲碁小学」を刊行する。

【「天保の争碁」(「因碩(幻庵)-秀和(定先)」の4番碁】
 1840(天保11)年、11月、本因坊13世丈策、林11世元美、跡目林柏栄らが井上11世因碩(幻庵)相手の争碁に丈策の跡目の秀和を指名する。
 11.29日、「天保の争碁」として知られる 「因碩(幻庵)-秀和(定先)4番碁」が始まる。因碩(幻庵)8段42(43?)歳、秀和7段21歳。因碩(幻庵)は4番とも白石を持って打ち、悪くても2勝2敗の打ち分けで名人碁所に任命される筋書きを書き、手合い先相先を拒否し、8段と7段の対戦であるとして秀和定先を主張し、これが受け入れられて秀和の先番となった。因碩と秀和の対局は初めてではなかった。両者は前年の天保10年に3番手合せをしている。初対局は秀和先番で因碩の6目勝ち。2局目は秀和1目勝ち。両者1勝1敗後の第3局はジゴ。互角のこの前哨戦を経て両雄は本因坊家―井上家の面子をかけた大一番に向かった。手合せ時間は毎日、朝9時から申(さる)の上刻(午後5時30分)までの7時間と定められ、稲葉丹後の守以下の役員のほか安井算知、太田雄蔵ら当時の一流棋士たちが観戦した。

 「第1局」が寺社奉行稲葉丹後守正守の神田小川町邸で打たれ打たれ、秀和の先番4目勝ち。


 第1局は、秀和と幻庵ともに死力を尽し初日は31手までで打掛けとなった。翌30日は45手まで。12.1日は71手まで。12.2日には91手まで進んで中盤戦に入った。両者互いに最善の手を打ち、いずれが優勢ともいえない展開となった。12.3日、碁は5日目に入り、幻庵優勢に見えたが秀和の巧みな凌ぎにより逆転模様となってきた。幻庵の体調がおかしくなり吐血。この日は、わずか8手しか進んでいなかったが対局は一時休止された。5日間の中断のあと、12.9日、再開。幻庵から打ちつがれたが2日間打って再び倒れたのでまた中断した。二度中絶したことになる。1日休んで再開した。12.11日、第7日目、幻庵が懸命に劣勢を挽回しようと打ち回したが差は縮まらず第8日目に入った。最後は夜を徹して朝方に白264で終局し秀和の先番4目勝ちとなる。結局、打ち掛け7回、八日七夜の通算9日間にわたって打ち続けられた。幻庵は途中二度下血(吐血?)しており、身体でも盤面でも文字通りの死闘だった。「秀和が生涯で最も力を傾けた一局」と評されている。幻庵が「囲碁妙伝」に次のように記している。
 「兵書に曰く、よく戦う者はまず勝つべからざるをなして、もって敵の勝つべきを待つ(まず自分を固めて誰も勝つことのできない態勢を整えたうえ、敵が弱点をあらわして誰でも勝てるような態勢になるのを待つ)。この一局初めより敵に先を置かせて確かに勝つべしと思う一心絶えぬ故に、却って全き勝つこと能わず。大いに孫子の意に違えりと云うべきか。諸君子いずくんぞ察せべけんや」。

 安藤如意の「坐隠談叢」は次のように記している。
 「この対局は実に九日一夜をもって終局し、この間因碩は2回吐血をなしたりと云う。もって両人がいかに脳漿を絞り、いかに苦心したるや、その惨憺の情状察するに足るべし。因碩はこの局一をもって争碁を断念し、遂に願い下げをなすに至れり」。

 秀和との争碁に臨んだ因碩は、第1局の秀和先4目勝ちの手ごたえを見て四番碁の継続を断念し、名人碁所の願書を取り下げることとなった。その後、1842(天保13)年にも秀和と二度対局するが、秀和の先番を破れず、名人碁所を断念する。その後1845(弘化2)年、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子(水谷順策)となっていたのを井上家跡目に迎え井上秀徹とする。同年太田雄蔵と十番碁を行うが(雄蔵先)、棋譜は3局までのみ残っている。

 秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は幕末の動乱期に突入しており、江戸幕府はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。本因坊丈策が三家の推薦で7段に昇進する。「天保の内訌」最終章となる。
(私論.私見)
 「井上因碩幻庵-秀和(先)」は秀和の先番4目勝ちとなった。当時はコミなしルールであり、その約定の下での打ち回しであるから幻庵負けは動かし難いが、現下のコミありルールしかも「白番6目半コミ貰い」でで測れば様相が大いに変わり黒番4目勝ちは白番2目半勝ちとなる。この碁に限らず、幻庵の戦績を現下の6目半コミ制で見直すと、道策、丈和に十分に匹敵する非凡な戦績を残していることに気づかされる。例えば、前年天保10年の両者の3番手合せは、1局目/秀和先番で幻庵の6目勝ちとなったが現代では幻庵の12目半勝ち、2局目/秀和1目勝ちは幻庵の5目半勝ち、3局目/ジゴは幻庵の6目勝ちとなる。要するに幻庵は負けていないとみるべきではなかろうか。「耳赤の棋譜」で知られる1846(弘化3)年の「幻庵-秀策(先)」は黒3目勝ちであるので現代ルールでは白3目半勝ちとなる。このように当時のコミなしルール下での幻庵負けの相当数が現代ルールではひっくり返ることになる。「当時はコミなしルールの約定の下での互いの打ち回し」であるから結果を変えることはできないが、評価としては幻庵負けの相当数が割り引かれるべきと考える。この目線で捉えると、幻庵の碁聖ぶりがもっと注目されるべきではあるまいか。ちなみに丈和と幻庵の生涯対局は幻庵先二の手合から始まり先相先まで70局、幻庵の35勝28敗3持碁44打ち掛けである。幻庵の碁所自負は十分に根拠があったと云うべきではなかろうか。

 2022.2.20日 囲碁吉拝

 1841(天保12)年
 この年、水野忠邦の天保の改革始まる。

 「秀和と伊藤松和の番碁」が組まれている。伊藤松次郎(松和)41歳
6段、秀和21歳7段。秀和は前年に丈策の跡目となっている。松和は
坊門の大先輩になる。
2.10日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番中押勝
2.18日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番8目勝
「 ポンヌキを許して勝利という大きな驚きをもたらした碁」
2.27日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番中押勝
2.28日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番4目勝
3.8、22日 伊藤松和-秀和(先相先の先) ジゴ
 「伊藤松和-秀和(先相先の先)」、ジゴ。本局は松和先相先の白番で、布石から機敏に打ち細碁に持ち込んでジゴとした松和一生の傑作とされる。この碁を評した丈和と因碩(幻庵)は「石立、手順、堅めに至るまで、秀和の碁として一点の非難すべきなし。然るに松次郎、白を以て持碁となせるは名人の所作なり」と絶賛した為に「松和一生の傑作」と喧伝された。
 (より詳しくは「
伊藤松和-秀和(先相先の先)」参照)
 松和に対して秀和の先番は8勝1持碁2打掛け。但し、現代コミ碁に照らせば松和の善戦が見えてくる。両者は天保10年の名古屋在時から互先で打ち始め、その後先相先、1845(弘化2)年に松次郎定先となっている。当時の冗談に「実力8段の秀和を白番でジゴにした松和は十段、松和に白番で勝った算知は13段」と云われていた云々。
3.9日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
3.18日 秀和-伊藤松和(先) 松和先番1目勝
3.29日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番9目勝
4.7日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番4目勝
5月 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番4目勝
8.27日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番2目勝
 伊藤松和(松次郎)
 松次郎は名古屋生まれ。後の松和。加藤隆和とともに伊藤子元(10世本因坊烈元門下)の門に入り、1812(文化9)年に上京して本因坊元丈の弟子となる。5段に進み、いったん帰国したが、天保9年、本因坊丈和(丈策?)から6段を許された。松和と名乗り御城碁に出場するのはもう少しあとのことである。松次郎は秀策がはじめて対戦した玄人碁打である。天保11年に再度の出府をはたしている。加藤隆和は名古屋のもう一人の高段者である。秀策は隆和とも打っている。隆和は1800(寛政12)年生まれで尾張藩士の子である。松次郎とともに伊藤子元の門に入り、後に出府して本因坊門に転じたが丈和門人とされているところをみると松次郎より出府が遅れたらしい。5段に進んで名古屋に戻って多くの門人を育てた。当時、大阪の中川順節、京都の川北耕之助など各地にレッスンプロというべき碁打がいた。隆和もその一人である。隆和は弟子たちに秀策の指導を受けさせている。
 秀和は松和との打込番碁と並行して太田雄蔵とも開戦している。これを
確認しておく。
3.7日 秀和-太田雄蔵 (先) 秀和白番11目勝
3.11日 秀和 -太田雄蔵(先) 秀和白番勝
3.17日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.21日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
3.28日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
4月 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
4.5日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番10目勝
4.8日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番3目勝
4.28日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番1目勝
5.7日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
5.21日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番7目勝
6.5日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
6.6日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番9目勝
6.18日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
6.30日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番5目勝
「天下コウに負けて白5目勝」。
7.12日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番9目勝
 5.27日、「(坊)丈和-太田雄蔵(先)」、不詳。
 5.29日、「幻庵-安井算知(俊哲)(先)」、ジゴ。
 秀和は、6月頃より、安井算知(俊哲)(先)の打込番碁を打っている。これを確認しておく。
6.7日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番12目勝
6.13日 秀和-算知(俊哲)(先) ジゴ
6.19日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番勝
6.24日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
6.29日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番2目勝  
7.5日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
7.22日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番勝
7.27日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番1目勝
8.10日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
8.29日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番4目勝
 8月、本因坊門下の初段にして12歳の栄斎が再度の出府で大坂を通った際、井上因碩門下の5段にして大坂囲碁界の第一人者であった中川順節(幻庵因碩門下5段)と二子で対局し、4戦全勝。後日、順節は、棋譜検証後、「向先で打ったとしても自分が勝てたかどうか分からぬ」と語っている。その棋譜を京都で手にした中川順節の好ライバルだった河北房種5段(幼名は耕之助)は、「これが13歳の子供の碁か」と驚嘆し、このことが囲碁を愛した仁孝天皇の耳にも入ったと伝えられる。帝もことのほかに感心されて、「ぜひその譜を見たい。なお、今後、大坂を通ることがあれば、是非とも京都に立ち寄って、河北5段と対局して見せるように」と仰せられたと伝えられている。
 9.11日、丈策が改名状をもって栄斎を秀策に改めさせている。浅野家からの預り弟子であるためその形式をとったものと推測される。丈策もしくは道策から「策」、跡目秀和から「秀」を与えられた形となっている。この時、段位の免許状と同じ形式で改名状が渡されている。
 「其許幼年なりと雖(いえども)所作善用。依って今般改名候間自今弥(いよいよ)相励み出精上達の心掛専一と為す可き状以上。 天保十二年九月十一日 本因坊丈策花押  栄斎改め安田秀策老」。
 
 9.16日、丈策が秀策に「二段格」免状を渡している。
 「其許、囲碁幼年なりと雖(いえど)も執心所作宜しく候。先師初段の手合い免許のところ、弥(いよいよ)修行おこたりなく手段ますます進み候。よって今般二段格の手合いを免許し候。なお以って勉励上達の心掛け肝要たるべきものなり。よって証状件の如し。 天保十二年九月十六日 本因坊丈策  安田秀策老」。
  碁所不在の場合の免許の正式な発行は家元四家の同職会議にかけることが原則となっていたが、他門家にはからず出したので「格」をつけたものと思われる。
 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
9月 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝  
9.13日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝
9.18日 太田雄蔵-秀和(先) ジゴ
9.20日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番4目勝
9.23日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番6目勝  
9.25日 秀和-太田雄蔵(先)」   ジゴ
10.8日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝
先番3目勝
11.1日 太田雄蔵-秀和(先) ジゴ
 「秀和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
9.2日 秀和-算知(俊哲)(先) 白番3目勝
9.14日 秀和-算知(俊哲)(先) 白番勝
9.19日 秀和-算知(俊哲)(先) ジゴ
9.24日 秀和-算知(俊哲)(先) 先番勝
10.7日 秀和-算知(俊哲)(先) 先番1目勝
10.11日 秀和-算知(俊哲)(先) ジゴ
 11.17日、御城碁。本因坊秀和が御城碁初出仕(以後、文久元年ま
で、29局)。
11.17日 435局 秀和7段-算知(俊哲)7段(先)
 俊哲先番3目勝
11.17日 436局 門入(柏栄)7段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番3目勝
11.17日 437局 門入(柏栄Hakuei )7段-丈策7段(先)
 柏栄白番中押勝
11.17日 438局 (御好み)「算知(俊哲)7段-坂口仙得7段(先)
 俊哲白番1目勝
***局 伊藤松和-秀和(先)
 ジゴ

 1842(天保13)年

 「松和6段-秀策(2子)」の2連戦が打たれている。
1.23日 伊藤松和-秀策(2子) 松和2子局白番勝
1.23日 伊藤松和-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
 1.27日、「(坊)丈和-竹川??三郎4段(2子)」、不詳。
 1.29日、立徹の跡を継いだ服部雄節生没(享年41歳)。服部囚淑生没(享年82歳)。井上因碩(元の服部立徹)は弟子の加藤正徹に服部家を継がせ、服部正徹(しょうてつ)として服部家を継ぐ。
 2月、「(坊)丈和-?道吉次郎4段(2子)」、?道の2子局1目勝ち。
 「秀和-秀策(2子)」の3連戦が打たれている。
3月 秀和7段-秀策2段(2子) 秀策2子局中押勝
3月 秀和7段-秀策2段(2子) 秀和2子局白番12目勝
3月 秀和7段-秀策2段(2子) 秀策2子局中押勝
 5.3日、秀策と安井門の太田雄蔵との連戦がはじまる。赤井邸で「太田雄蔵-安田秀策(2子)」、雄蔵の白番8目勝ち。雄蔵(36歳、6段)と秀策(14歳、2段)の初手合。この後、両者は秀策が互先になるまで50局ほどを打っている。
 5.16日、因碩幻庵/秀和争碁第2局「幻庵-秀和(先先相の先)」、秀和の先相先の先番6目勝ち。旗本磯田助一郎宅で始まり、その日は69手で打掛け。二日目は徹夜となり、5.18日昼、270手で終局。因碩は秀和の先番を破れず、名人碁所復願を断念する。

 (より詳しくは名棋譜「
因碩幻庵-(坊)秀和(先相先の先)」(幻庵が碁所を逃した見損じ局)参照)
 5月、「幻庵-中川順節(先)」、幻庵白番9目勝。
 6.2日、「(坊)丈和-伊藤松和(先)」、不詳。
 7.8日、「太田雄蔵-安田秀策(2子)」、秀策先番勝。
 7.10日、秀策が「三段格」を許されている。
 「其許、囲碁幼年たりと雖も執心所作宜しき故、去秋二段格の手合い免許候ところ、弥(いよいよ)修行怠りなく手段益々進む。然るによって今般半石進め、三段格の手合いを免許し候。なお以って勉励上達の心掛け肝要たるべきものなり。よって証状件の如し。 天保十三年七月十日 本因坊丈策」。
 「太田雄蔵-秀策」対局。
7.12日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局10目勝
7.15日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局11目勝
7.15日 太田雄蔵-秀策(2子) 雄蔵2子局白番中押勝
7.23日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局16目勝
7.27日 太田雄蔵-秀策(2子) 雄蔵2子局白番6目勝
7.27日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
7.27日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
8.2日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局11目勝
8.7日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(先)」 秀策先番5目勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番5目勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策先番中押勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
8.13日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局16目勝
9.14日 太田雄蔵-秀策(2子) 雄蔵2子局白番1目勝
8.17日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局7目勝
9.17日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番5目勝
9.21日 太田雄蔵-秀策(2子) 秀策2子局7目勝
9.27日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.17日 太田雄蔵-安田秀策(2子) 秀策2子局勝
10.17日 太田雄蔵-安田秀策(2子) 秀策2子局中押勝
 秀和-安井算知(俊哲)(先相先の先)」戦が組まれている。
9.29日 秀和-算知(俊哲)(先相先の先) 秀和白番5目勝
「総ジマリの棋譜」。
11.1日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番5目勝
  11.17日、御城碁。丈策7段、算知7段。
439局 坂口仙得7段-坊)丈策7段(先)
 丈策先番9目勝
11.17日 440局
(御好み)
因碩(幻庵)8段-算知(俊哲)7段(先)
 俊哲先番1目勝
11.17日 441局
(御好み)
秀和7段-門入(柏栄)7段(先)
 秀和白番中押勝
11.17日 442局
(御好み)
坊)丈策7段-算知(俊哲)7段(先)
 算知先番中押勝
11.17日 443局 林元美6段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番中押勝
11.17日 444局
(御好み)
因碩(幻庵)8段-秀和7段(先)
 秀和先番4目勝(155手以下略)
 因碩(幻庵)は天保6年以来お城碁を欠場していたが、将軍家のお好み碁で秀和―因碩の対局が組まれた。因碩8段45歳、秀和7段23歳、両者3回目の松平伊賀守邸での対局となった。争碁第1局は秀和先番4目勝ち。争碁第2局は秀和先番6目勝ちを経ての第1局から2年が経過していた対局であった。8段と7段で先相先の手合いで行けば因碩が黒番の順序であったが、黒番の秀和に勝たなければ碁所就位の名分が立たないので、因碩陣営は公儀に手を回して白番を取ることに成功した。果たして、手に汗握る緊張の大一番となった。秀和は、因碩の狙い筋をことごとく未然に、しかも最強に防いで、秀和の先相先の先番4目勝ちとなった。因碩は痛恨の3連敗を喫し碁所を断念、く野望が絶たれた。
 11.29日、先相先「秀和-葛野忠左衛門(先)」、秀和白番中押勝。秀和の少年時代のライバル。
 12.30日、「秀和-井上因碩(秀徹、節山)(先)」、秀和白番勝。
 12.31日、「秀和-太田雄蔵(先)」、雄蔵の先相先の先番1目勝ち。白の石をさんざん取ってやっと一目勝ち。
 この年、 「丈策-安井算知(先)」、丈策白番中押負。
 海老沢健造(後の巌埼)生まれる。

 1843(天保14)年
 

 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。雄蔵はこの頃37歳6段。
1.1日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番1目勝
4.2日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
常人の及ばない、巨匠の戦慄すべき自信の白38。
 4月、「秀和-秀策3段」(先二手合い)戦が組まれている。  
4.4日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝
4.4日 秀和-秀策(2子) 秀策2子局6目勝
4.14日 秀和-秀策(2子) 秀策2子局中押勝
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。  
4.14日 太田雄蔵-秀策(2子)」  秀策先番中押勝
4.19日 太田雄蔵-秀策(先)」  秀策先番1目勝
 4.20日、「太田雄蔵-秀和(先)」、ジゴ。本因坊秀和7段との先相先白番でジゴとした碁は雄蔵の佳作として知られる。
 6.14日、「秀和-井上因碩(秀徹、節山) (先)」、白番勝。
 9月、「太田雄蔵-秀策(先)」戦が組まれている。
閏9.2日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番2目勝
閏9.2日 太田雄蔵-秀策(先) 雄蔵白番1目勝
閏9.11日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
閏9.11日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番中押勝
閏9.11日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番3目勝
 9.14日、「安井算知(俊哲)-秀策(先)」、秀策の先番中押勝。
 算知は8世安井仙知(知得)の実子。さきの太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和(松次郎)と並んで天保四傑と称された高手である。その算知も先で圧倒し安芸小僧の評価はさらに高まった。
 9.15日、「井上因碩(秀徹、節山)-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番中押勝。
 10.6日、秀策が4段に進む。
 「其許、囲碁幼年たりと雖も執心所作宜しき故、去年七月三段格の手合い免許候ところ、弥(いよいよ)修行怠りなく手段益々精。然るによって今般同僚会議を遂げ、向後上手に対し先及び二子の手合い(先二のこと)四段を免許せしめおわんぬ。なお以って勉励逸群の心掛け肝要たるべきものなり。よって証状件の如し。天保十四年十月六日 本因坊丈策 安田秀策老」。

 今度は正式の免状で「今般同僚会議を遂げ」の字句が入っている。結局、秀策は毎年一段ずつ昇段という驚異の記録を残している。天保14年囲碁姓名録によれば初段以上の有段者は全国で258人。そのうち4段は四家(本因坊、井上、林、安井)所属棋士のうち11人に過ぎない。その中に15歳の秀策がいる入っていることになる。この頃から「先手必勝、秀策流一、三、五、七」の布石研究に取り組んでいる。
 11.17日、御城碁。
11.17日 445局 丈策7段-門入(柏栄)7段(先)
 丈策白番中押勝
11.17日 446局 坂口仙得7段-秀和7段(先)
 秀和先番1目勝
11.17日 447局 坂口仙得7段-坊)丈策7段(先)
 丈策先番5目勝
11.17日 448局 算知9世(俊哲)-秀和(先)
 秀和先番4目勝
 12.13日、互先「秀和-安井算知(俊哲)(先)」、秀和白番2目勝。平行隅の両ジマリを許した唯一の碁。
 本因坊丈策が「古今衆秤」刊行。

 1844(天保15)年

 正月元日、「秀和(25歳)7段-秀策(16歳)4段(先)」、打ち掛け。
 秀和が秀策で打ち初めし、秀策が本因坊(跡目)秀和に対し「一、三、五」の布石を試みている。
 「秀和(25歳)7段-秀策(16歳)4段(先)」戦が組まれている。
2.15日 秀和7段-秀策4段(先) ジゴ
2.19日 秀和7段-秀策4段(先) ジゴ
 3.13日、「太田雄蔵-秀策(先)」、不詳。
 5月、千代田城火災。幕府は修復費用を誇大名に課す。因頓(幻庵)上書してこれを諌め、将軍家慶これを受け入れる。
 同月、因碩(幻庵)が、本因坊家に対し水谷琢順の養子となっていた水谷順策(丈和の長男で戸谷梅太郎。後に吉野家に入って忠左衛門)を養子にと請う。丈策、秀和、後に問題の起ることを恐れて拒絶。因碩(幻庵)、旅先の隠居。丈和に手紙で懇請する。
 5.8日、「服部正徹5段-秀策(先)」、秀策の先番勝。
 「秀和-安井算知(先)」戦が組まれている。
5.19日 秀和-安井算知(先) 秀和白番1目勝
6.13日 秀和-安井算知(先) 秀和白番勝
 「太田雄蔵-秀和」戦が組まれている。
5.31日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番2目勝
6.15日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
7.8日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
7.8日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番8目勝
7.22日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
8.10日 太田雄蔵-秀和(先) 雄蔵白番中押勝
8.12日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番中押勝
8.18日 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
9.2日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
9.17日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番4目勝
9.22日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番中押勝
9.28日 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
 9月、丈和帰府して丈策、秀和を説得し順策を井上家の養子とすることを承諾させる。まず順策を水谷家から復籍、吉野忠左衛門の名に戻して井上家と養子縁組の手続きを運び井上秀徹となる。
 10月、秀策が江戸を発し二度目の帰省に向かう。同行者は江戸生まれの兄弟子・真井徳次郎(21歳)(御家人の出で丈和門人。23歳で没している)。東海道を下って遠州(静岡県)三沢村で兄弟子の伊藤徳兵衛と集中対局する。徳兵衛は11世本因坊元丈の内弟子となった時期もあり、天保10年に5段を許されている。4局打たれ互いに先番を勝って打ち分けしている。徳兵衛は秀策の再上府のおり、もう一度袖を捕えて対局を挑んだ。結果は秀策の三連勝となり、闘志を失わせた。これ以後徳兵衛との対局はない。秀策が前回帰郷したときは初段であったが、今回は当時としては稀少な4段に昇り、そのためか行く先々で対局を要請され、徳兵衛との対局を皮切りに伊藤松次郎、味田村喜仙、加藤隆和等々と打っている。
 10.9日、「秀和-安井算知(俊哲)(先)」、俊哲先番6目勝。
 「伊藤松和6段-秀策4段」戦が組まれている。
10.10日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.15日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番2目勝
10.18日 秀策-伊藤松和(先) 松和中押勝
10.18日 伊藤松和-秀策(先) 松和白番勝
10.19日 「伊藤松和-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.29日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番勝
10.29日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.11日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番5目勝
秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
 11.17日、御城碁。
11.17日 445局 「丈策7段-林柏7段(先)」
 丈策白番中押勝
11.17日 446局 「坂口仙徳7段-秀和7段(先)」
 秀和先番1目勝
11.17日 447局 「坂口仙徳7段-丈策7段(先)」
 丈策先番5目勝
11.17日 448局 算知(俊哲)7段-秀和(先)
 秀和先番4目勝
11.17日
(12.24日)
449局 秀和7段-算知(俊哲)7段(先)
 俊哲先番1目勝
11.17日
(12.24日)
450局 坂口仙得7段-門入(柏栄)7段(先)
 仙得白番中押勝
11.17日
(12.24日)
451局 阪口仙得-算知9世 (俊哲)(先)
 俊哲先番4目勝
11.17日
(12.24日)
452局 秀和7段-門入(柏栄)6段(先)
 秀和白番4目勝
 「秀和-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
11.28日 安井算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番8目勝
12.7日 秀和-安井算知(俊哲)(先) 俊哲先番4目勝
 11月、幻庵が、丈和の実子・水谷順策(戸谷梅太郎、道和、葛野忠左衛門)を跡目として井上家に迎え入れる。秀徹と改名する。
 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
12.6日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和中押勝
12.19日 秀和-太田雄蔵 (先) 秀和白番5目勝
 この年、因碩が太田雄蔵と十番碁を行う(雄蔵先)。棋譜は3局までのみ残っている。
 12月、秀策が郷里の備後国因の島の外の浦に帰着する。
 この年、泉秀節(大阪)、井上因碩「囲碁終解録」(いごしゅうかいろく)刊行。刊行日不明、井上因碩「奕筌」(えきせん)2巻2冊刊行。 
 この年、泉秀節(大阪)、大沢銀次郎(江戸)生まれる。

 1844(天保15、弘化元)年、12.2日、弘化に改元する。

 1845(弘化2)年
 「幕末」に突入する。

 1845(弘化2)年、秀策、浅野侯に閲見して昇段の報告する。その後、江戸から同行した真井徳次郎と広島を訪れて二局打つ。徳次郎はそのまま遊歴を続け、秀策は三原に戻る。郷里での秀策は日を定めて三原城に出仕し、藩主の相手や城内の武士の指導をおこなっていた。真井徳次郎、宝泉寺、岸本左一郎、勝田栄助らと手合わせしている。
 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
1.10日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
 1.19日、「安井算知(俊哲)-秀和(先)」。
 「(坊)丈和-神津伯太初段」戦が組まれている。
2.17日 (坊)丈和-神津伯太 (4子) 神津4子局2目勝
3.24日 (坊)丈和-神津伯太 (4子) 神津4子局勝
3.24日 (坊)丈和-神津伯太 (2子) 神津2子局勝
 「「秀和-伊藤松和(先相先)」」戦が組まれている。坊門の先輩との白番。
2.20日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
2.28日 伊藤松和-秀和(先) 秀和先番4目勝 
2月 秀和-伊藤松和(先) 松和先番1目勝 
3.6日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番中押勝
3.27日 秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
 3月、井上因碩11世幻庵が、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子{水谷順策}となっていたのを、井上家跡目に迎え、井上秀徹とする。秀徹の養子及び跡目を願い出て許される。10年以上続いた本因坊家と井上家が手打ちしたことになる。
 4月、三原浅野家より増禄される。5月、秀策が、最初の師である竹原宝泉寺葆真和尚と対局する。葆真は安芸国有段者4名のトップに位置しており、漢学、書画にも通じ碁の相手としてばかりではなく浅野忠敬の知遇を受けていた。秀策はこの帰郷のおり、頼聿庵(頼山陽の長子で藩学教授)を訪ねている。聿庵は大いに喜び一詩を贈ったという。
 4.7日、「坂口仙得-太田雄蔵(先)」、仙得白番勝。
 「秀和-中川順節(先)」戦が組まれている。
5.6日 秀和-中川順節(先) 秀和白番7目勝
「秀策の耳赤の碁の生まれる原因を作った順節との対局」。
5.13日 秀和-中川順節(先) 順節先番1目勝
5.25日 秀和-中川順節(先) ジゴ
7.2日 秀和-中川順節(先) 秀和白番12目勝
7.6日 秀和-中川順節(先) 秀和白番7目勝
8.7日 秀和-中川順節(先)」 秀和白番3目勝
 「秀和-福井半次郎(先)」戦が組まれている。
6.11日 秀和-福井半次郎(先) 秀和白番17目勝
6.18日 秀和-福井半次郎(先) 秀和白番勝
 秀和-河北耕之助(先)」戦が組まれている。
6.17日 秀和-河北耕之助(先) ジゴ
7.5日 秀和-河北耕之助(先) 秀和白番勝
7.8日 秀和-河北耕之助(先) 秀和白番勝
 7.16日、「幻庵-大田雄蔵(先)」、雄蔵先番勝。
 8.30日、「井上因碩(秀徹、節山)水谷Junsaku6段-太田雄蔵(先)」、雄蔵の先番勝。
 10.16日、「太田雄蔵-安井算知 (先)」、雄蔵白番勝。
 11.17日、御城碁。
11.17日
(12.15日)
453局 門入(柏栄)-算知9世(俊哲)(先)
 柏栄白番6目勝
11.17日
(12.15日)
454局 秀和7段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番中押勝
11.17日
(12.15日)
455局 門入(柏栄)7段-坊)丈策7段(先)
 丈策先番4目勝
11.17日
(12.15日)
456局 算知(俊哲)7段-秀和7段(先)
 俊哲白番中押勝
***局 「門入(柏栄)-坊)丈策(先)」
 丈策先番4目勝
  「秀和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
11.24日 秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番2目勝
12.7日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番勝
 11月、「秀和-太田雄蔵(先)」、雄蔵の先番勝。
 この年、阿部亀次郎生まれる。(河内国。富田村)。

 1846(弘化3)年

 「秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
2.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝  
2.22日 太田雄蔵-秀和(先) 雄蔵白番4目勝  
3.7日 秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
3.21日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番9目勝
4.2日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番12目勝
4.15日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
 「坂口仙得-秀和」戦が組まれている。
1.12日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番3目勝
2.6日 秀和-坂口仙得(先) 仙得先番1目勝  
4.22日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番4目勝
5.13日 秀和-坂口仙得(先) 秀和白番勝
 「秀和-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
1.15日 秀和-算知(俊哲)(先) 秀和白番勝
2.13日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番8目勝
4.8日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番4目勝
5.21日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
 2.8日、「秀和-門入(柏栄)(先)」、秀和白番勝。
 2.13日、「(坊)丈和-秀策(2子)」、秀策2子局中押勝。
 「(坊) 丈和-秀和(先)」戦が組まれている。
2.14日 (坊) 丈和-秀和(先) 秀和先番中押勝
「師との先番に圧勝」。
3.9日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番10目勝
「丈和の還暦記念対局」。
3.11日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番勝
5.1日 (坊)丈和-秀和(先) 秀和先番勝
 2.26日、「坂口仙得-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番勝。
 2.27日、「秀和-秀栄(先)」、ジゴ。
 3.8日、「秀和-鶴岡三郎助(*)」、鶴岡先番勝。
 4月、秀策、江戸に向け郷里を立つ。
 4.22日、「安井算知-太田雄蔵(先)」、雄蔵先番勝。
 5月、秀策が、郷里(備後国。因の島、外の浦)から江戸に戻る途中、大阪に立ち寄りで長期間足止めする。中川順節5段と再会し対局する。先相先の手合割りで4連勝する。
 「中山順節-秀策」戦が組まれている。
5.3-4日 中山順節-秀策(先) 秀策先番7目勝
5.5-6日 中山順節-秀策(先) 秀策先番勝
5.9ー10日 秀策-中山順節(先) 秀策白番勝
5.29日 中山順節-秀策(先) 秀策先番7目勝

 秀策が、中川順節5段と、大阪市内の辻忠二郎宅で5.3日から6月初旬まで4局を打っている。結果は秀策全勝。第2局で一、三、五のいわゆる"秀策流"が試みられている。後日、中川は向先でも勝てなかったろうと語っている。その譜を入手した京都在住の河北耕之助(坊門5段)は、「これが13歳の碁か」と感嘆し、碁を愛したと伝えられる仁孝天皇に献上したという。秀策の甥にあたる桑原寅次郎がまとめ、現在でも基本資料とされている。
 「秀和-太田雄蔵」戦が組まれている。
5.11日 太田雄蔵-秀和(先) 秀和先番3目勝
5.27日 秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番3目勝
6.4日 秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝

【「幻庵8段(48歳)-秀策4段(18歳)」戦の初手合い】
 5月、因碩(幻庵)が大阪に居住する。
 7.20日、秀策が帰省より戻る途上、大阪の順節宅で「幻庵8段(48歳)-秀策4段(18歳)」対局することとなった。因碩(幻庵)は、天保11年12月、井上家を代表して本因坊家第13世丈策の跡目秀和と宿命の碁所を賭けて命がけの"争い碁"を打ち、武運つたなく破れて碁所を断念させられていた。この頃、大阪で後進のため指導を行なっており、そこへ秀策が登場したことになる。「坐隠談叢」によれば「因碩の容貌は満面に黒あばたありて眼光鋭けれども敢えて獰悪(どうあく=にくたらしくたけだけしい)ならず。能く子女を馴れ親しむる愛嬌を有せり」とあり、井上家中興の主とも称されている。

 7.20日、「因碩(幻庵)-秀策(2子)」、打ち掛け。100手過ぎまで打ち進めたところ、因碩が「ハッハ、これは手合い違いだ。二つじゃとても碁にならん。明日、改めて先番を打ってみよう」と述べ、因碩が破格の先を許した。
 7.21日、定先第1局「因碩(幻庵)-秀策(先)」は浪華天王寺屋の辻忠二郎宅で89手打掛け。
 7.23日、定先第1局「因碩(幻庵)-秀策(先)」、秀策先番3目勝ち。原才一郎宅で141手打掛け。因碩と秀策の対局で形勢の良かった碁を秀策の打った妙手(黒127)で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった。これが有名な「耳赤(みみあか)の妙手」と云われ、「耳赤の一局」として知られる。

 (光の碁採録名局「
因碩(幻庵)-秀策(先)」)。
 (「因碩(幻庵)―秀策(定先)」)。
 (より詳しくは「因碩(幻庵)8段-秀策4段(定先)」参照)
 7.25日、中川順節碁会の中之島紙屋亭で打ち継がれた。幻庵が白有利に打ち回していただけに、勝負は因碩が終盤をいかに勝ち切るかにかかっていた。325手で終局、秀策が先番で3目勝ちで終局したと記録されている。(150年後、2目勝ちと訂正されている)。
(私論.私見)
 この碁の興味深いところは、「秀策が3目勝ち」(因碩3目負け)となったが、コミなし時代の判定であり、6目半コミの現代碁基準では逆に「秀策が3目半負け」(幻庵3目半勝ち)となることにある。結論として「両者好局の名勝負」であったと見做すべきではなかろうか。
 「因碩(幻庵)-秀策(先)」はこの後3局打たれ、秀策が2勝、1局打掛けとなる。「準名人に三連勝し、安芸小僧から本因坊跡目となる登竜門の一局」となる。この時、秀策は4段だが、幻庵は「このときの秀策の芸は七段は下らない」と語ったという。
 幻庵はこの碁の後、今まで丈和、秀和と争ってきた碁所への野望を断念し、秋に本因坊家に丈和の長子・水谷順策(葛野忠左衛門)を乞い井上家の跡目として本因坊家と和解した。(2年後、幻庵は隠居として幻庵と名乗った)。幻庵は諸大名家に出入りしながら著述活動に専念した。有名なものでは「囲碁妙伝」などが残されている。
 4段18歳の秀策が、当時、一流の打ち手であった8段、49歳、準名人の幻庵に定先で三連勝したことにより坊家は秀策を5段に上げることになった。本局が秀策の名声を高め本因坊跡目とするきっかけになった。(当時丈和は隠居、当主は丈策であり、秀和が跡目であったが、丈和・丈策が一年後に相次いで亡くなっていることから、この時点で両者ともに健康を害していたのではないかと推測されている)。
 「因碩(幻庵)-秀策(先)」戦が組まれている。
7.26日 因碩(幻庵)-秀策(定先)
 打ち掛け
7.28日 第3局 因碩(幻庵)-秀策(定先)
 打ち掛け
7.29-30日 第4局 因碩(幻庵)-秀策(先)
 秀策先番勝
8.4、5日 第5局 因碩(幻庵)-秀策(定定先)
 秀策先番2目勝
8.27-29日 因碩(幻庵)-秀策(先)
 秀策先番中押勝

 8.22日、「(坊)丈和-太田雄蔵(先)」、打ち掛け(?)。
 9.22日、「秀和-安井算知(俊哲)(先)」、秀和白番勝。
 9-10月、秀策が江戸に帰府する。道中、大坂での因碩に先で3勝したのが高く評価され5段に昇段した(「秀策5段の登場」)。本因坊家が秀和の後継者に秀策を望んだが、家元につけば同時に幕臣となるが、秀策は父・輪三の主君でもある備後三原城主・浅野甲斐守の家臣と言う扱いであり、秀策は、領主三原侯甲斐守及び郷党への遠慮からこれを固辞した。囲碁家元筆頭の本因坊家の跡目を拒否する事などは前代未聞であった。
 9.*日、「秀和-秀策(先)」 、秀策先番中押勝。

 弘化3.10月から翌4.9月までの1年間、秀策は秀和と集中的に打っている。秀策を後継者と定めた秀和が胸を貸したのであろうか。またこの時期、当主の丈策も隠居の丈和も一局ずつ秀策と対している。ともに打ち掛けになっており、跡目問題と絡んだ儀礼的な対戦だったかもしれない。結果、先の手合いながら秀策の大幅な勝ち越しになった。秀和が「手合いを改めよう」と言ったところ、「師匠に黒を持たせるわけにはいきません」と答えたと云う(先の次は先相先となり三局に1回は上手が黒を持つことになる)。 

 この時期、井上家の跡目となった秀徹(後の12世井上節山因碩)が秀策と5局打っている。手合いは秀策の先々先で、結果は秀策の3勝2敗。これによると、秀徹は因碩でも勝てなかった秀策の先番に2勝していることになる。
 「秀和7段-秀策5段」戦が組まれている。
10.14日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝
10.15日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝
10.16日 秀和-秀策(先)
10.21日 秀策-秀和(先)」 秀策中押勝
10.21日 秀和-秀策(先) 秀策先番勝
10.23日 秀和-秀策(先) 秀策先番6目勝  
11.2日 秀和-秀策(先) 秀和白番7目勝
 10.28日、「(坊)丈策-秀策(先)」、打ち掛け。
 「太田雄蔵-秀策 (先)」戦が組まれている。
11.5日 太田雄蔵-秀策 (先) 秀策先番勝
11.10日 太田雄蔵-秀策(先) ジゴ
12.1日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番勝
12.5日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番勝
 11.17日、御城碁。井上秀徹が御城碁に初出仕(爾後、嘉永元年まで3局を勤める)。
11.17日 坂口仙得-秀和(先) 秀和先番2目勝
11.17日 「算知(俊哲)-坊)丈策」 俊哲白番7目勝
11.17日 算知(俊哲)-井上秀徹 秀徹先番3目勝
 11.22日、「坊)丈和-赤井五郎作(4子)」、不詳。
 12.19日 、「秀策-坂口仙得(先)」、仙得先番勝。
 時日不明、「丈策-林柏栄(先)」、丈策白番中押勝。
 この年の江戸城(千代田城)火災に際して、幕府は全国の諸大名に築城費用を課した。因碩が、これを諌(いさ)める上書を脇坂淡路守を頼って提出したところ閉門に処せられた。しかしこの後、12代将軍家慶はこの苦諫(くかん)を嘉納して諸侯の課金を減じ、因碩の閉門を解いて登城謁見を賜っている。「井上家の門前市を為し因碩の名宇内にとどろく」と坐隠談叢に記されている。
 この年の11月中旬、「岸本左一郎と因碩の対局」、「周防国小郡で、左一郎と堀部弟策の対局」。小郡は以前から碁が盛んで、秋本、長井、品川らの強豪が集まっていた。この頃、石見の岸本左一郎5段格の碁打がしばらく小郡に滞在し、現地の人々に碁を教えていた。そこへ、江戸の碁博士・井上因碩8段が長崎へ下る途中、堀部方策(棋譜では「弟策」)に連れられて小郡に立ち寄った。
 11.13日、「因碩(幻庵)8段-石見の岸本左一郎5段格(2子)」、ジゴ。
 11.14日朝早く因碩が出発。堀部方策は残り、左一郎と対局している。(「
因碩と左一郎(4)」参照)
 この年、井上秀徹(後の12世井上節山因碩)が、赤星因徹著「棋譜・玄覧」と「手談五十図」を1冊に合本編集した「玄覧」を刊行している。(「玄覧」)
 この年、「尾陽手談」(びようしゅだん)(別: 梶川升氏少年之対局)が刊行される。他に刊行日不明、「梶川打碁」(かじかわうちご)(別: 梶川升氏少年之対局)、「弘化碁鑑」(こうかごかがみ)(別: 梶川升氏少年之対局)が刊行される。
 この年、水谷縫次生まる。(伊予国・今治、大島、椋名)。

 1847(弘化4)年

 2.13日、「(坊)丈和-秀策(2子)」、打ち掛け。
 2.13日、「秀和-因碩(節山)(先)」、因碩(節山)先番2目勝。
 「秀和7段-秀策5段(先)」戦が組まれている。
2.17日 秀和7段-秀策5段(先) 秀策先番4目勝
2.17日 秀和7段-秀策5段(先) 秀策先番中押勝
 「安井算知(俊哲)-秀策(先)」戦が組まれている。
3.16日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
3.16日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
 3.21日、「(坊)丈和-秀和 (先)」、秀和の先番勝ち。
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。
3.21日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番5目勝
5.11日 太田雄蔵-秀策(先) 雄蔵白番中押勝
6.21日 秀策-太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
8.17日 太田雄蔵-秀策(先) 打ち掛け
 3.29日、「(坊)丈和-秀策(2子)」、打ち掛け。
 「秀和7段-秀策5段(先)」戦が組まれている。
7.11日 秀和-秀策(先) 秀策先番8目勝
7.13日 秀和-秀策(先) 秀策先番中押勝
7.13日 秀和-秀策(先) 秀策先番1目勝
7.14日 秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
7.15日 秀和-秀策(先) 秀策先番9目勝
7.15日 秀和-秀策(先) 秀策白番中押勝
7.15日 秀和-秀策(先) 秀策先番9目勝
8.2日 秀和-秀策(先) 秀策先番7目勝
8.8日 秀和-秀策(先) 秀策先番中押勝
 この年、本因坊家の丈和、丈策、秀和らが寺社奉行・脇坂淡路守安宅に諮(はか)って、三原の浅野甲斐守忠敬の本家(広島藩主・浅野斉鼎)を動かし、三原侯に秀策を本因坊家の養子とする諒解をとりつける。

【本因坊14世秀和時代】

 8.18日、13世本因坊丈策没(享年45歳)(但し「本因坊家旧記」には12.17日没とある)。同日、跡目本因坊秀和(28歳)が家督相続して14世本因坊となる。14世本因坊秀和の時代、全国の有段者は四家(本因坊・井上・林・安井)合わせて四百人に及び史上最高の隆盛ぶりを示した。
 「(坊)秀和7段-秀策5段(先)」戦が組まれている。
8.24日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
8.25日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
9.3日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番勝  
9.13日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
秀策流を完成させた秀和・秀策17連戦の第16局。
9.16日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番7目勝
 9.8日、「太田雄蔵-秀策(先)」、秀策先番1目勝。
 9.11日、「算知(俊哲)-秀策(先)」、秀策先番勝。
 9.27日、「(坊)秀和-算知(俊哲)(先)」、秀和白番勝。

 「坊)秀和-秀策(先)」戦が組まれている。
10.11日 坊)秀和-秀策(先)」  秀策先番中押勝
10.21日 坊)秀和-秀策(先) 秀和白番中押勝
10.21日 坊)秀和-秀策(先) 秀策先番中押勝
 算知(俊哲)-秀策(先)」戦が組まれている。
10.19日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
10.21日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番勝
11.1-12.6日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番5目勝
12.8日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番5目勝
 「太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。
10.26日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番勝
11.26ー12.21日 秀策-太田雄蔵(先) 秀策白番勝
 11.17日、御城碁。
11.17日 (坊)秀和-算知(俊哲)(先) 俊哲先番7目勝
12.24日 (坊)秀和-坂口仙得(先) 秀和白番3目勝
「秀和流ふんわりの厚みの局」。
 この年10.10日、隠居本因坊丈和没(享年61歳)(但し「本因坊家旧記」には12.20日没とある)。
 この年、伊藤子元(蜂三郎)没(享年75歳)。

【丈和生没】
 10.10日、隠居本因坊丈和没(享年61歳)(但し「本因坊家旧記」には12.20日没とある)。現在に残る棋譜274、126勝101敗9ジゴ38打ち掛け。勝率は高くないが、勝つべき時には全て勝っており、恐るべき棋力を刻印している。

 「隠坐談叢」が、本因坊丈和について次のように記している。
 「短躯肥大眉太く頬豊かにして従容迫らざれども爛々たる眼光犯すべからざる風があった」。

 明治40年代の雑誌「碁会新報」に越後人士が「越後に遊べる幕末の碁客」と題して次のように記している。
 「亡父は若い時は碁を好みまして、高橋(下越海老ケ瀬の素封家で有段者)以下の碁客とは親類あるいは懇意の間ですから、その関係で丈和にも三、四度逢ったそうですが、その相貌は躯は短く面は黒く、品格は高雅ではなかったが、眼光*々、人を射ていかさま一癖うりげに見えた、ということです」。
 その棋風について、「豪快にして緻密、石をセリ上げてゆく時の迫力は、まさにちから、山を抜くの概があり、歴代本因坊の中でも一級品にランクされている」と評されている。丈和は、道策、秀策と並び、「囲碁三聖」と言われる。特に道策を前聖、丈和を後聖と呼ぶ。読みが深く、古今無双の力碁で、腕力と筋のすばらしさは史上でも随一との評がある。

 「談叢」が次の逸話を載せている。
 「門生一日、丈和に問うて曰く、四世道策と師と対局せば、その勝敗如何に。丈和、熟考暫くにして曰く、我、道策先生と二十番碁を打たんに、初め十番碁は必ず打ち分けならんも、後の十番は到底比例するに難しと。この言、含味し来れば頗(すこぶ)る深遠なり。また丈和は、常に勝負事を好み、奥坊主役らと会し、時々戯れをなせり。当時流行の川柳あり。『毛*を そのまま置けと 丈和言ふ』」。
 昭和26年、瀬越憲作、渡辺秀夫、八幡京助による御城碁刊行会発刊「御城碁譜」の第8巻「碁士列伝」が次のように評している。
 「真に鬼人の概あるもの即ち12世本因坊丈和である。試みに寛政より慶応末年迄、徳川時代の後期の碁士番付を編成せんか。その東の横綱の座は遂に丈和の占むるを如何とも為し難いであろう。即ち7世仙角(仙知)はその華美なる才力を以て、元丈はその丈和の師たるに於て、仙知(知得)は丈和を虎の如くに畏怖せしめたるに於て、幻庵はその追撃を避退せられたるを以て、秀和は門下差し控えざるを得ぬ立場たりしに於て、秀策は時代のズレ、手合いらしき対戦なかりしに於て、秀甫は全く時代を隔てたるに於て、いずれも丈和の第一席に異議を挟む資格あるならんも、そのあらゆる点を総合して、なお且つ丈和を首位に推さざるを得ぬことを発見するであろう。実に碁の力の権化とも称すべきはこの12世本因坊ののことであろうか。薦の夫夫難夫るを夫上部夫夫材は辺゛制夫『先生も碁盤を取れば』」。

 1848(弘化5)年
 天保、弘化の間は、囲碁隆盛の絶頂であった。1841(天保12)年の表を見ると、上手以上8、6段6、5段10人、以下257人だが、弘化の初めには登級者431人に達している。この頃、囲碁狂歌「酒は鬼、朝寝秀和に、拳は林、踊りは太田で、服と一めます」が遺されている。「酒は鬼」の「鬼」とは安井家の高足、鬼塚源治のことで、鯨飲飽くことなく酒量随一であった。「朝寝秀和」は本因坊秀和のこと。「拳は林」とは、林門入のことで、薩摩拳では門入が一番強かった。「踊りは太田」とは、太田雄蔵のことで、彼は柳暗花明の巷で評判の粋人だった。「服と一めます」は「はつと初めます」と読み、服部正徹のことである。

 1.1日、「(坊)秀和-秀策(先)」、打ち掛け。
 「(坊)秀和-太田雄蔵(先)」戦が組まれている。
1.5日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
1.8日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番1目勝
1.21日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) ジゴ
1.26日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
2.7日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
2.18日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番4目勝 
3.6日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
3.28日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番中押勝
「雄蔵のポカ」。
4.5日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番4目勝
4.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝  
4.23日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番7目勝  
4.28日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
5.3日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番勝
5.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
5.23日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番11目勝
6.3日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番6目勝
6.13日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番2目勝
6.23日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 雄蔵先番勝
7.3日 (坊)秀和-太田雄蔵(先) 秀和白番6目勝

 1848(弘化5)年、2.28日、嘉永に改元。

 3.28日、「安井算知(俊哲)-秀策 (先)」、打ち掛け。
 3月、井上因碩11世が隠居して家督を井上秀徹(丈和の実子)に譲る。因徹は幻庵と号し、秀徹は井上家第12世因碩(節山)を名乗った。
 「(坊)秀和-和田一敬(2子)」戦が組まれている。
4.21日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番5目勝
7.4日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 秀和白番12目勝
7.10日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 秀和白番勝
7.22日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番勝
9.13日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番8目勝
9.23日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 秀和白番勝
10.17日 (坊)秀和-和田一敬(2子) 和田先番7目勝
 4.26日、「(坊)秀和-因碩(節山)(先)」、不詳。
 「秀策-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
9.3日 秀策-安井算知(俊哲)(先) 秀策白番中押勝
9.14日 安井算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
 9.16日、14世本因坊となった秀和が正式に秀策の跡目願を出す。この時に提出した親類書には父・桑原輪三とあり、桑原秀策の名が初めて出てくる。父輪三としてはいったん安田家の養子に出した形をとった息子だが、予期以上の出世で本因坊家に入ることになり、それならばもう一度桑原家に戻し桑原の名をのこしたいと考えたらしい。この年、正式に第14世本因坊跡目となり同時に6段昇段、また丈和の娘・花と結婚する。
 11.17日、「(坊)秀和-坂口仙得(先)」、先番3目勝。
 「安井算知(俊哲)-(坊)秀和(先)」、先番7目勝。
 11.22日、本因坊家への養子縁組を前提として桑原姓に戻っていた桑原(安田)秀策(21歳)が正式に本因坊14世跡目を許され、同時に6段に昇段する。丈和の娘・花と結婚する。
 11.26日、「秀策-太田雄蔵(先)」、秀策の白番中押勝。
 11.29日、太田雄蔵7段に昇段する。但し、御城碁出席望まず。
 12.12日、「坂口仙得-因碩(幻庵)(先)」、仙得白番4目勝。
 12.15日、本因坊秀策が寺社奉行脇坂淡路守に御目見得する。
 1848(弘化5、嘉永元)年、御城碁。
本因坊秀和 白番7目負
井上因碩(節山) 白番2目勝

【太田雄蔵】
 雄蔵の履歴は次の通り。
 1807(文化4)年、江戸の横山町の商家生まれ。「白棋助左衛門手記」では本町の丁字屋という糸屋とされている。はじめ川原卯之助と名乗った。後に良輔、その後太田姓を名乗り、雄蔵とした。号は一石庵爛柯。幼年より安井家に入門し、7世安井仙角仙知門下で学ぶ。3歳下の安井算知 (俊哲)と競い合う。また8世安井知得仙知の二女を妻とした。1833(天保44)年から8年にかけて、名古屋、京都、大阪、九州各地へ対局のために遠征。少年時代からこの時までの棋譜は、1839(天保10)年から12年に「西征手談(上下巻)」として刊行した。1838(天保9)、6段。1843(天保14)年に既に7段だった本因坊跡目秀和との先合先白番でジゴとした碁は佳作として知られる。
 1848(嘉永元)年12.29日、安井門下の強豪・太田雄蔵が、伊藤松和、林伯栄門入と共に上手(7段)に進む、時に42歳。7段になると碁打ちにとって念願の御城碁に推挙される。剃髪して御城碁を勤め、扶持を受けるのが当時の通例であるところ断っている。この件について「坐隠談叢」は次のように伝えている。
 「雄蔵は白面朱唇、眉秀で、瞳涼しく、漆黒の頭髪豊かに結びたる一個の好男子なり。然れば、自ら粋を以って任じ、かくて7段昇級に際して(中略)、円頂の風采を損するを厭ひて、7段昇格を躊躇して曰く、『御扶持は望む所に非ず、御城碁に列し得ざるも亦可也。唯願わくば剃髪せずして七段を得ん』」。

 この願いが聞き届けられ、かくて御城碁出仕をしないという異例の7段昇段を果たしている。豪快華麗な棋風と同じく、遊びも派手で粋で、あるだけの金はスパッと使う。色町にくりこむと、あちこちから声がかかり、幇間(たいこもち)は目の色を変えてかけ寄ったという。雄蔵のわがままが通ったのは、雄蔵の碁が高く評価されていた証拠であろう。天保四傑(伊藤松和、安井算知、太田雄蔵、阪口仙得)の一人。
 秀策の打碁中、対雄蔵戦が最も多く後年三十番碁を打った。秀策はどちらかといえば雄蔵が苦手だったようで、秀策との初手合は、1842(天保13)年、秀策14歳2段、雄蔵36歳6段の時の二子局で雄蔵勝ち。天保13.5月から10月まで24連戦のうち、秀策2子番10勝4敗1ジゴ1打ちかけ、先番3勝5敗。先二で4連勝、先に打ち込んだのも束の間、4連敗でふたたび先二に打ち込み返されている。定先の手合になるのは14年の9月になる。

 あるとき、碁好きの旗本赤井五郎作の家に雄蔵、算知、仙得、松和の四傑と服部一が集まり、秀策の話題となって現在かなうものはいないであろうと口々に言うのを、それまで秀策に互先で2勝2敗2打ち掛けだった雄蔵が同調できないと発言した。そこで五郎作が発起人となり、1853(嘉永6)年、三十番碁が行われた。17局までで6勝10敗1ジゴとなり先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴと追い込まれるが、第23局で雄蔵は絶妙の打ち回しで白番ジゴとしている。三十番碁はこの局で終了となっている。秀策はこの年に7段昇段し翌年昇段披露会を開き、雄蔵はその席上で松和と対局している(打ち掛け)。この後、越後遊歴に出て、1856(安政3).3.20(4.24日)、高田の旅宿梶屋敷で客死、天保四傑では最も早く没した(享年50歳)。


 秀策は天保四傑のうちでは「雄蔵が芸、毫厘の力勝れり」(「囲碁見聞誌」)と高く評価しているが、阪口仙得には先相先のままなど、対戦成績ではそれほど好成績ではなかった。ただし22歳も年下で日の出の勢いの棋聖秀策に対し、初老に近い年齢の雄蔵が17局まで互先で持ちこたえて見せた実力は高く評価される。現代でも藤沢秀行など、好きな棋士として雄蔵の名を挙げる者は少なくない。秀和とは140局近くの棋譜が残されている。高目、目外しを多用し、振り替わりの多いことで柔軟、華麗の印象を持たれている。
 少年秀策に胸を貸したのは雄蔵ばかりではない。雄蔵との連戦のあと葛野忠左衛門(丈和の長子、のち井上因碩12世)が集中して対局し、その他にも服部正徹(井上門)や竹川弥三郎や岸本左一郎、真井徳次郎らの兄弟子がこぞって胸を貸している。

 この年、村瀬弥吉(11歳、後の秀甫)が本因坊家へ弟子入りし入段。但し、内弟子を許されるのは3年後の嘉永4年、14歳の時である。
 この年、「碁経妙手」3巻(「道策本因坊百番碁立」を改編したもの)(大坂・文繍堂)出版。
 5月、9世安井算知著「佳致精局」(かちせいきょく)4巻刊行(江戸・青黎閣)。
 夏、安井算和著「囲碁捷径」(いごしょうけい)2巻1冊刊行(江戸・青黎閣)。
 川北稽斎著「置碁筌蹄」(おきごせんてい)3冊。
 9月、岸本左一郎(きしもと さいちろう)が「活碁新評」2巻を刊行(橘堂)。実戦から採られた130の筋と形が纏められている。秋山次郎監修「名著再び活碁新評」(日本棋院、2018/09/05初版)
 岸本左一郎
 (1822(文政5)年 -1858(安政5)年)
 江戸時代幕末期の囲碁棋士。石見国大森生まれ。出雲国山下閑休に文を学ぶ。本因坊丈和に入門し、17歳で初段。その後、跡目秀和に次いで本因坊門の塾頭となり5段に進む。帰郷して備前周辺で活動する。1848年、「活碁新評」(岸本橘堂名義、手筋130図)を著す。
篠崎小竹の序がある。31歳で再度江戸へ出た後、同じ5段で同門の鶴岡三郎助、安井門下の鬼塚源治とともに、6段昇段を本因坊家、安井家、林家で合意されるが、やはり6段を望んでいた井上因碩(錦四郎)に反対され、3名は争碁を望むが因碩は受けなかった。1855年、「常用妙手」(詰物144図、シチョウ2図)を著す。1856(安政3)年、左一郎が帰省することになったため、家元三家は因碩を含めた4人に6段昇段を認めた。37歳の時、郷里で病没。秀和は村瀬秀甫と岩田右一郎を送って7段を追贈した。7歳年下で入門の近い秀策との対局が多く残っている。本因坊家では内垣末吉、岩田右一郎を指導し、岩田は左一郎の死後に碑を作っている。橘堂の号もある。
 小林鉄次郎(江戸)、降矢沖三郎(信州松本)生まれる。
 「烏鷺光一の囲碁と歴史」の「新勝寺と囲碁」参照。新勝寺の仁王門の欄間には琴棋書画の彫刻が施されている。門の裏面に囲碁の彫刻を見ることができる。新勝寺の三重塔にも囲碁の彫物がある。歴史ある成田山新勝寺は囲碁との関わりも少なくない。江戸時代より数々の囲碁対局が行われた記録も残っている。12世林柏栄門入は16歳まで成田山新勝寺の小姓を務めていたそうである。新勝寺と繋がりが深かった歌舞伎の5代目市川海老蔵(7代目市川団十郎)は、美男子だった柏栄を見かけ養子にして歌舞伎役者として育てたいと申し込む。結局この話は実現せず柏栄は囲碁の道に進み林家を継承している云々。

【大久保利通の囲碁活用術】
 この年正月四日、薩摩藩の若き大久保(17歳)の日記に以下のように記されている。
 嘉永元年正月四日 陰天

 今日は朝六ッ半に起床他出不致小座之邉り少々取こばめ、八ッ前牧野氏訪られ、碁打ち相企三番打拙者勝負マケいたし候処、それ成りにて取止め、そのうち税所喜三左衛門殿訪られ、喜平次殿は帰られ、喜左衛門殿は段々咄共いたしさ候て、ハマ投相企て川上四郎左衛門殿四番九兵衛などと屋敷前にていたし後は安愛寺前にてもいたし、大鐘近程遊び夜入近喜三左衛門殿は帰られ今夜は九ツ時に休息

 牧野喜平次が家にきて碁を打って三番勝負したが負けた。その後、税所喜三左衛門も訪れ、「ハマ投相企」ハマ(相手から取った石)を投げようと企てたとある。大久保の「囲碁好き」の様子が髣髴となる。

 大久保の有名な逸話で、島津久光に取り入る為に囲碁を習ったという逸話がある。 中国では「囲碁は下位の者が上位の者に意を達するための正道」で、大久保もそれに倣ったと解される。大久保の息子である牧野伸顕も下記のように言っている。
 「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使いすぎたりしたときは、碁を囲んで慰めていたようです。日記を見ると、よほど碁が好きであったようで、そのほかには別に娯楽はなかったでしょう。今の方円社長の岩崎建造などは始終父に追従していました。碁ではいろいろの奇談もあるようです」。
 
2015-04-16

 島津斉彬が逝去されたのが安政5年の7月。久光の子の島津忠徳(のちの忠義)が藩主になったが、斉彬の父、島津斉興は忠徳が若年であることを理由に再び藩政を掌握した。大久保は、今は島津成興が藩政を握っているが、近い将来、島津久光が藩政を握ると読んだ。しかし大久保の身分は御徒目付であり久光に直接会って話すことはできなかった。久光は囲碁が好きで吉祥院の住職に習っていた。吉祥院の住職は税所篤の兄。吉祥院は大久保の同志だった。大久保は税所篤に頼み、吉祥院に囲碁を習い、久光が読みたいといった本に久光への手紙を挟み、国事の難や建白の文章を届けた。それが久光の目に留まり、久光は大久保を碁に事を寄せて呼び寄せ、側に上がって碁の相手をするようになったと云う。それからも度々久光と碁の相手をし、「大久保はお世辞まけをせぬから面白い」等々大久保と打つのが一番面白いと言う間柄になる。(「真実はいかに〜大久保利通の「囲碁で出世」の逸話に迫る」参照)

 1849(嘉永2)年

 2月、「耳赤の一手」の対局から3年後、幻庵因碩は中国へ密航を企て、門下の三上剛山と九州へ向かう途次、中国筋の尾道の豪商・橋本吉兵衛宅(橋本竹下茶園)を訪れ、その逗留時に秀策を聞かれ次のように評している。
 「秀策の芸道は秀逸。既に上手(7段)の地位に及ぶ。今後どこまで強くなるのか底知れない。池中の竜、必ず天に駆け上るであろう」。
 「安井算知(俊哲)-秀策」戦が組まれている。
4.6日 算知(俊哲)-秀策(先) ジゴ
4.8日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
4.16日 秀策-算知(俊哲)(先) 秀策白番1目勝
5.1日 算知(俊哲)-秀策(先) 秀策先番中押勝
8.6日 算知(俊哲)-秀策(先) 算知白番2目勝
 10.8日、秀策、太田雄蔵と互先に手合直り、間もなく上手(7段)に進む。
 10.14日、「(坊)秀和-秀策(先)」、秀策先番9目勝。
 11月、伊藤松次郎(49歳)が上手(7段)となり、松和と改名。御城碁に出仕し幕府より十人扶持を受けるようになる。
 11.17日、御城碁。坊)秀策、伊藤松和(49歳)が7段に進み御城碁に初出仕する。秀策は21歳、6段。安井算知戦で御城碁デビュー。御好みで坂口仙得と対し、秀策の黒番中押勝。松和は林門入、御好みで算知と対す。爾後、秀策は文久元年までの13年間に19連勝する。松和も同年まで19局を勤める。
11.17日 ***局 算知(俊哲)-秀策(先)
 秀策先番11目勝
11.17日 470局 坊)秀和-林門入(柏栄)(先)
 秀和白番中押勝
11.17日 ***局 伊藤松和-林門入(柏栄)(先)
 松和白番勝
11.17日 ***局 阪口仙得-秀策(先)
 秀策中押勝
11.17日 ***局 (坊)秀和-秀策(先)
 秀策先番2目勝
「師としての秀策との対局」
12.8日 ***局 坊)秀和-伊藤松和(先)
 秀和白番4目勝
***局 安井算知 (俊哲)-伊藤松和(先)
 松和先番3目勝
 秀策の御城碁19連勝の記録は次の通り。
第1局 1849嘉永2.11.17 算知(俊哲)-秀策(先) 11目勝
第2局 同日 阪口仙得-秀策(先) 中押勝
第3局 1850嘉永3.11.17 阪口仙得-秀策(先) 8目勝
第4局
(お好み)
同日 伊藤松和-秀策(先)
3目勝
第5局 1851嘉永4.11.17 林門入 -秀策(先) 7目勝
第6局
(お好み)
同日 算知(俊哲)-秀策(先) 中押勝
第7局 1852嘉永5.11.17 秀策-因碩(幻庵)(先) 2目勝
第8局
(お好み)
同日 伊藤松和-秀策(先) 6目勝
第9局 1853嘉永6.11.17 阪口仙得-秀策(先) 中押勝
第10局
(お好み)
同日 秀策-算知(俊哲)(先) 1目勝
第11局 1854安政元.11.17 秀策-因碩(幻庵)(先) 中押勝
安政2年 大地震で中止
第12局 1856安政3.11.17 秀策-伊藤松和(先) 中押勝
第13局 1857安政4.11.17 算知(俊哲)-秀策(先) 中押勝
第14局 1858安政5.11.17 秀策-阪口仙得(先) 3目勝
第15局 1859安政6.11.17 伊藤松和-秀策(先) 9目勝
第16局
(お好み)
同日 服部正徹-秀策(先) 16目勝
第17局 1860万延元.12.8 秀策-林有美(先) 4目勝
第18局 文久元.11.17 秀策-林門入(先) 11目勝
第19局
(お好み)
1861同日 秀策-林有美(先) 中押勝
文久2年 江戸城火災で中止

 秀策は、1861年に御城碁が中止されるまでの13年間、19局全勝の大記録をつくった。秀策があみだした布石法は小目の方向を変えながら、右上、右下、左下に黒石を配布し、黒7手目コスミ。秀策自身が、「碁盤の広さが変わらぬ限り、このコスミが悪手とされることはあるまい」と語ったといわれている。後に「秀策流」といわれ、明治後半から大正にかけてのコミなし碁時代の先手必勝法として大いに研究され現在にまで伝わっている。石田芳夫「碁聖道策」で秀策は次のように評されている。
 「徳川囲碁史を通じ、『碁聖』の尊称をもって呼ばれる人が二人ある。4世本因坊道策と、幕末の本因坊跡目、秀策である。俗に道策を前聖、秀策を後聖と呼ぶ」。

 但し、「ウィキペディア本因坊秀策」は次のように補足している。
 「もっとも、秀策は御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)との二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時2段)との2子局を秀和に打診された際、『2子の碁は必勝を期すわけにはいかない』と固辞したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に2子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。但し、同時に『互先の白番(コミなし)なら誰が相手でも辞さない』といったことも伝えられている」。
 丈和の後、天保四傑、本因坊秀和、秀策の時代となる。秀策の知名度は、碁界では一番高い。先番不敗、理論碁の天才である。人が、”先日の碁はいかがでしたか”と問うたとき、”先番でした”と答えたという話が伝えられる。11年間、お城碁で19連勝したが平坦な道ばかりではなかった。
 この年、11世林元実が跡目を実子の柏栄に譲って隠居した。柏栄が12世門人となる。
 この年、正月、河北耕之助が「置碁筌蹄」刊行(青黎閣)。
 林家隠居(家元林家11世)元美が囲碁に関する様々な故事を集めた「爛柯堂某話」(写本、11巻、付鐘棋譜72局)を発表(原本は見つかっていない)(注・1914(大正3)年12月、林家の分家から出た女流棋士/林きくが3巻にまとめて大野万歳館より出版)。

【伊藤松和】
 「ウィキペディア(Wikipedia)伊藤松和」その他参照。
 伊藤 松和(いとう しょうわ、享和元年(1801年) - 明治11年(1878年))は、江戸・明治時代の囲碁棋士。名古屋出身、本因坊元丈門下、八段準名人。幼名は松次郎。天保四傑の一人として数えられる幕末の強手で、軽妙、機知に富む碁風、雅韻があったとも言われる。

 商人の家に生まれ、幼時に加藤隆和とともに名古屋在住の伊藤子元に入門。尾張徳川家の藩士が素質を見込み、文化9年(1812年)12歳で江戸へ登って本因坊元丈に入門。一旦帰郷するが再度奮起して江戸に戻り、本因坊丈和の教えを受け、文政5年(1822年)に初段を許される。五段まで昇った後に帰郷、尾張の松次郎として名を馳せ、天保2年(1831年)には尾州候御目見えの上で名字帯刀を許される。天保8年(1837年)に西国遊歴し、尾道に立ち寄った際に9歳で初段近かった安田栄斎(本因坊秀策)と対局。当初秀策に対し「座敷ホイト」(ホイトは乞食の意味)と放言したが、対局してみて9歳と思えない碁に感嘆した。後に秀策が本因坊跡目になった際、松和は自ら前記の放言の謝罪に訪れたところ、秀策は「自分を奮い立たせた発言であった」と逆に感謝したとされる。天保11年に再度江戸に出て、本因坊丈策より六段を許される。嘉永2年(1849年)には家元四家外としては珍しく七段に進み、松和と改名、49歳で本因坊秀策とともに御城碁に初出仕、幕府より十人扶持を受けるようになる。伊藤松和、安井算知太田雄蔵阪口仙得の四人で「天保四傑」とよばれた。

 御城碁は文久元年(1861年)まで19局を勤める。そのうち秀策とは4局あり松和全敗。最初の対戦は松和、秀策ともに御城碁3局目にあたる嘉永3年(1850年)の局で、秀策先相先3目勝ちとなったものの、終盤の劫争いで逆転するまで白が優勢を保ち、秀策の御城碁19連勝のうちで最も苦戦した碁と言われ、松和を高く評価する因となった。(現代コミ碁で再カウントすれば存外健闘していることになる)

 松和の御城碁戦績
1849年(嘉永2年) 門入(柏栄) 白番中押勝
安井算知 先番3目勝
1850年(嘉永3年) 安井算知 白番9目負
坊)秀策 白番3目負
1851年(嘉永4年) 因碩(松本) 白番1目勝 
(坊)秀和 先番2目勝
1852年(嘉永5年) 阪口仙得 白番中押負 
坊)秀策 白番6目負
1853年(嘉永6年) 門入(柏栄) 先番中押勝
10 (坊)秀和 先番5目負
11 1854年(安政元年) 安井算知 先番4目勝
12 1856年(安政3年) 坊)秀策 先番中押負
13 1857年(安政4年) 阪口仙得 先番中押負
14 1858年(安政5年) 林有美 白番2目勝
15 1859年(安政6年) 坊)秀策 白番9目負
16 門入(柏栄) 白番7目勝
17 1860年(万延元年) 阪口仙得 白番中押負
18 1861年(文久元年) 安井算英 向三子中押負 
19 阪口仙得 先番中押勝

 神田お玉ヶ池の千葉周作道場の近くに教場を開き賑わったが、火災に遭い上野山下に転居。教場はなおも繁盛したため、明治維新によっても伊藤は生活に苦心することはなかったという。明治3年(1869年)に林秀栄(後の本因坊秀栄)四段と先二の十番碁を打ち、2勝7敗1持碁とする。その後八段準名人に推された。明治11年に上野の自宅で死去。性格温和であったとされる。また酒好きで、1日3度飲んだという。門下に杉山千和、梶川昇、森左抦、他に濃尾地方に数多い。弟の安次郎は四段まで昇った。


 1850(嘉永3)年

 2月、本因坊秀策、三度日の帰省に出発。
 4.24日、「中川順節-秀策(先)」、秀策先番15目勝。
 5.25日、「秀策―岸本左一郎(先)」対局(尾道・慈観寺)。

 左一郎が先番で7目負け、「常先」へと打ち込まれた。両者の間に明確な差がついたことになる。この頃、秀策が石見国を訪問した際に左一郎と対局している。
 6.5日、「秀策―関山仙太夫(先)」、関山中押勝。

 秀策の名が天下にとどろき、信州の仙太夫の耳にも届いた。仙太夫は書を寄せて秀策を松代に招く。到着当日に第1局、それから連日1局ずつ、先で20番打って仙太夫の7勝13敗。45歳の年齢差を考えれば、仙太夫が大善戦したことになる。帰府に当たって仙太夫が謝礼として20両を差し出したところ、秀策は「過大なり」と辞退する。仙太夫は「これあることを期して長年積み立てておいたもの」と説明し受け取らせたと云う。仙太夫はこの5年後、安政3年、村瀬秀甫と10番碁を打っている。後に禅門に入り、雲水として諸国をめぐり歩き、73歳で没している。
 8月29日、京都に行った秀策が尾道の支持者へ書状を送っている。その当時、左一郎が尾道に指導に来ていたことがわかる。秀策は、書状の中で、京都での指導碁4局の棋譜を送るが不出来なので左一郎には見せないよう依頼している。秀策からすると左一郎の棋力は無視できないレベルとなっていたので、このような発言となったのだろう。
 9.17日、「(坊)秀和-太田雄蔵(先)」。雄蔵先番2目勝。
 10月、秀策、江戸に帰府。
 11.17日、13世井上因碩(松本)が御城碁に初出仕する。爾後、文久元年まで11局を勤める。
(12.20日) 473局 (坊)秀和7段-因碩(松本)5段(先)
 秀和白番2目勝
(12.20日) 474局
(12.20日) 475局 坂口仙得7段-秀策6段(先)
 秀策先番8目勝(秀策御城碁3局目)
11.17日
(12.20日)
476局 (坊)秀和8段-算知(俊哲)7段(先)
 俊哲先番5目勝
(12.20日) 477局 坂口仙得7段-因碩(松本)5段(先)
 松本先番3目勝
(12.20日) 478局 (お好み)「伊藤松和7段-秀策6段(先)
 秀策先番3目勝(秀策御城碁4局目)
 秀策の大苦戦の碁。非勢いの碁を粘りに粘り
3目勝。
伊藤松和-安井算知 (俊哲)(先)
 俊哲先番9目勝。
 12.9日、「(坊)秀和-秀甫初段(2子)」、秀甫2子局13目勝。
12.25日 秀策-秀甫(3子) 秀策白番7目勝
秀策-秀甫(2子) 秀策白番中押勝

 秀甫の幼名は弥吉。上野車坂下の本因坊道場の隣に住む大工の子として生まれ、8歳で丈策に入門。盆暮れに届ける師家への謝礼金にも事欠いたが、誤る老父に丈策は、少年の将来の楽しみに待てと逆に慰めたという。11歳で初段。まもなく内弟子となり、18歳で5段。秀策は9歳上で、秀甫としばしば打っていたと伝わる。
 12.10日、「(坊)秀和-秀策(先)」、秀和白番1目勝。秀策も気づかなかった白62の好手。
 12.20日、「伊藤松和-安井算知(俊哲)(先)」、俊哲先番9目勝。
 秀和が8段に昇段する。この時既に「名人の力あり」と評されている。
 この年、秀策が、「当地棋は甚だ不はずみの様子に御座候」と、世情不安で江戸の囲碁不振をなげいている。秀策が石見国を訪問した際に左一郎が、安政4年5月の秀策の出雲国入りの際には別行動で、外に指導に出かけていたようである。
 井上因碩12世(節山)が細川家家臣の門人・嶋崎鎌三郎が妻と密通したとして憤り、嶋崎を斬殺事件を起している。「坐隠談叢」は次のように記している。
 「(事件の少し前から因碩の挙動がおかしく)同僚親戚等は大いに之を憂い、常に警戒怠らざりしが、一日因碩、門人・鎌三郎なる者と、某寺院に遊びし時、突然鎌三郎が佩(は)ける刀を奪いて之を指す」。

 因碩の凶変を聞いて駆けつけた幻庵は、直ちに門人たちに命じて彼を座敷牢に閉じ込め、事後の終息に奔走した。嶋崎の主家・細川家は因碩(道砂)以来、細川家と特別の関係があり井上家の恩顧を受けていたため、その義理で内済とす。因碩は相州相原(現神奈川県相模原市)に閉居させられる。節山と号す。

 後継者に考えていた服部家当主の服部正徹が旅に出ていたため、林家の門人・松本錦四郎(20歳)を貰い受け、井上家の家督を継がせて井上因碩13世とした。
 この年、土屋秀悦(秀和の長子、後に15世本因坊)江戸に生まれる。

 1851(嘉永4)年

 「(坊)秀和-秀策(先)」戦が組まれている。
1.1日 (坊)秀和-秀策(先) 打ち掛け
1.11日 (坊)秀和-秀策(先) 秀和白番1目勝
 「(坊)秀和-秀甫初段(2子)」戦が組まれている。
2.3日 (坊)秀和-秀甫(2子) 秀甫2子局中押勝
4.7日 (坊)秀和-秀甫(2子) 秀甫2子局13目勝
 2.19日、「(坊)秀和-服部一(先2)」、秀和白番4目勝。井上門の俊秀との対局。
 2.28日、「(坊)秀和-太田雄蔵(先)」。秀和白番11目勝。
 3.8日、「太田雄蔵-秀策(先)」、打ち掛け。
 4.4日、「秀策-秀甫(3子)」、秀甫3子局12目勝。
4.22日 秀策-安井算知(俊哲)(先)
5.22日 秀策-安井算知(俊哲)(先) 俊哲先番2目勝
 5.3日、「(坊)秀和-Nara林Kurakichi (2子)」、先番勝。

【秀策―関山仙太夫の20番碁】
 5月、十四世本因坊秀和の跡目/秀策が、十世烈元以来の本因坊門人で信州松代に帰省していた関山仙太夫に招かれ、和田金太郎を伴って旅す。仙太夫は免状は初段だが五段格で打つことを黙許され、日本一の素人棋客と評判が高い強豪だった。

 6.3ー23日、秀策が梅田屋で仙太夫と20番碁を打つ。この時68歳。仙太夫は文献面での功績も大きい。算砂から天保年間までの好局を集めた「聖賢囲碁妙手集」、自分の打ち碁2百局を集めた「竹林修行用魂集」などを編集し後世に遺している。

 1局目は秀策の白番中押勝。2局目は秀策の白番4目勝ち。3局目は仙太夫の先番で中押勝。仙太夫が「誰に見せても言い分あるまじ」と自慢する局となった。全局を終わり、仙太夫の先で7勝13敗。秀策が「その中には、妙碁と称すべきもの二局あり」と評している。仙太夫が次のように評している。
 「都合二十番、秀策殿、毎局石立て趣向を変え、一番たりとも同じ石立てを打たず。これ真の棋聖と云うべきなり」。
 
 仙太夫は江戸詰めから郷里に帰ってからは松代藩の要職を務め、藩政に携わる一方で碁の指導にも尽くし、自筆の定石集を遺している。その中に碁を詠んだ三十一文字の短歌があり、次のように句が伝えられている。
 「わが石を捨てて悦ぶ人は唯(ただ)上(のぼ)りするどきものとこそ知れ」。
 「闇の夜に迷うを笑う人は唯己(おの)が迷うは知らぬ者なり」。

 (坊)秀和-伊藤松和(先)」戦が組まれている。「気概の坊門最長老との対局」。
6.6日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 松和先番勝
6.7日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番3目勝
6.8日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 松和先番1目勝
6.13日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
7.11日 (坊)秀和-伊藤松和(先) 秀和白番1目勝
 「(坊)秀和-秀策(先)」戦が組まれている。秀策は9歳年長の師匠秀和と30番近く打っている。先で10局以上勝ち越したが、師礼をとって白を持つことはなかった。
10.22日 光の碁採録名局「(坊)秀和-秀策(先) 秀策先番4目勝
10.24日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番4目勝
10.28日 (坊)秀和-秀策(先) 秀策先番3目勝
(秀和-秀策戦最終譜)
 10.22日、「(坊)秀和-秀甫(3子)」、秀甫3子局13目勝。
 10.22日、「(坊)秀和8段-秀策7段(先)」、秀策先番4目勝。
 11.1日、「安井算知(俊哲)-秀策(先)」、打ち掛け。
 11.9日、「(坊)秀和-鶴岡三郎助(先)」、不詳。
 11.17-18日、御城碁。松和7段、松本5段。
11.17 479局 (坊)秀和8段-算知9世(俊哲)7段(先)
 算知先番3目勝
11.17 480局 門入(柏栄)7段-秀策6段(先)
 秀策先番7目勝(秀策御城碁5局目)
11.17 481局 伊藤松和7段-因碩(松本)5段(先)
 松和白番1目勝
11.17 482局 (坊)秀和8段-伊藤松和7段(先)
 松和先番2目勝
11.17 483局 算知9世(俊哲)7段-秀策6段(先)
 秀策先番中押勝
11.17 484局 門入(柏栄)7段-因碩(松本)5段(先)
 松本先番3目勝
11.17 ***局 算知9世(俊哲) -秀策(先)
 秀策先番中押勝(秀策御城碁6局目)
11.27日 秀策-安井算知(俊哲)(先) 打ち掛け
秀策-安井算知(俊哲)(先) 秀策白番4目勝
 「(坊)秀和-伊藤松和(先)」、松和先番2目勝。
 この年、酒井安次郎、生まれる。
 この年、東条琴台編「囲碁人名録」(いごじんめいろく)1冊が刊行される。

 1852(嘉永5)年

 正月、秀策が跡目弟子として扶持を受ける。
 1.15日、「幻庵―井田嶋右エ門(4子)」、幻庵4子局白番8目勝(於姫路)。
 1.16日、「幻庵―三上豪山(3子)」、三上の3子局恐らく中押勝(於姫路)。
 2.12日、「伊藤松和、秀策-鶴岡三郎助、(坊)秀和(先)」、白番6目勝。
 2.22日、服部一の6段昇級披露会行われる。席上、互先コミ3目の連碁が催される。当時の最高棋士が勢ぞろいした豪華版。「四十二段の連碁」として知られる(2.22ー3.5日)。
安井算知(俊哲)、坂口仙德、太田雄藏-(坊)秀和、伊藤松和、秀策(先) 先番中押勝
(坊)秀和、阪口仙得、秀策-安井算知(俊哲)、伊藤松和、太田雄蔵 先番2目勝
 4.13日、芝十番倉の高須隼人の屋敷で、本因坊秀和、同跡目秀策、伊藤松和の本因坊門と安井算知、坂口仙得、太田雄蔵の安井一門と、3人ずつが1組で対戦する連碁を催している。
「9世安井算知、伊藤松和、太田雄藏-秀和、坂口仙得、秀策 (先)」(秀和組の先番5目コミ出し)181手 先番中押勝
安井算知(俊哲)、伊藤松和、太田雄藏-(坊)秀和、坂口仙得、秀策(先)」(秀和組の先番5目コミ出し) 先番1目勝
 5.7日、12日、「秀策-鶴岡三郎助(先)」、鶴岡の先番中押勝。
 5.22日、「安井算知(俊哲)、坂口仙得、太田雄藏-(坊)秀和、伊藤松和、秀策(先)」、先番勝。
 太田雄蔵-秀策」戦が組まれている。
7.2日 太田雄蔵-秀策(先) 秀策先番4目勝
8.28日 秀策-太田雄蔵(先)  雄蔵先番2目勝  
9.23日 秀策-太田雄蔵(先) 打ち掛け
10.3日 秀策-太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
10.11日 秀策-太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝  
11.4日 太田雄蔵-秀策(先) 打ち掛け?
 9.9日、「(坊)秀和-岸本佐一郎 (先)」、秀和白番3目勝。
 9.23日、「(坊)秀和-鶴岡三郎助(先)」、不詳。
 10.28日、「(坊)秀和-秀策(先)」、秀策先番3目勝。
 11.17日、19日、23日、御城碁。
11.17日 485局 林元美7段-(坊)秀和8段(先)
 秀和先番7目勝
11.17日 486局
11.17日 487局
11.17日 488局 伊藤松和6段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番中押勝
11.17日 489局 算知(俊哲)7段-(坊)秀和8段(先相先)
 秀和先番7目勝、「善く敵に勝つものは争わず」。
11.17日 490局 坂口仙得7段-林門入7段(先)
 仙得白番12目勝
11.17日 491局 林元美6段-因碩(松本)5段(先)
 松本先番中押勝
11.17日 492局
(お好み)「伊藤松和7段-秀策6段(先)
 秀策先番6目勝(秀策御城碁7局目)
***局 秀策-因碩(松本)5段(先)
 秀策白番2目勝(秀策御城碁8局目)
***局 林柏悦門入 -安井算知 (俊哲)(先)
 俊哲先番中押勝
 11.17日、「幻庵-勝田栄輔(先)」、幻庵白番1目勝。
 勝田は旗本で、この頃、坊門4段。幻庵と打つために長崎を訪れている。本局は勝田(黒)が幻庵因碩に挑んだ一局。力の差があり、幻庵有利に進んでいた局面であったが、勝田がオキが絶妙の一着を見つけ、白のツグと一団の白が落ちる。愕然とした幻庵がここで打ち掛けを提案、体勢を立て直すと後をきっちりとヨセて、逆転の一目勝ちに持ち込んだ。勝利は確実と周囲に吹聴していた勝田は大いに面目を失ったとされる。幻庵が、宿に訪 れた者に次のように述べている。
 我が見損じなれども、未だ敗局とは定まらず。もし互角の碁ならば必然ジゴに終局あるも、栄輔の技両ではおぼつかなし。
 暮れ、旗本赤井五郎宅に碁士が集まり、「秀策こそ当代一」という話になっていたところ、雄蔵が賛同せず、かくて赤井が主唱者となり、「秀策―雄蔵の30番碁」のお膳立てができ上った。
 この年初春、井上因碩幻庵が「囲碁妙伝」(いごみょうでん)4巻1冊(大阪、竹雨亭)刊行。本書は、「余いまだ何心なき6歳の秋より、不幸にしてこの芸を覚えたるが」の書き出しから始まり、幻庵面目躍如談論風発のユニークな囲碁本になっている。
 この年9.20日、秀和の次男の土屋平次郎(後の本因坊秀栄)が江戸本所相生町の本因坊邸(江戸本郷湯島、俗称桜馬場の本因坊外邸)に生まれる。兄は本因坊15世秀悦、弟の土屋百三郎は第16及び20世本因坊秀元。11歳の時、林12世門入柏栄の養子となる。柏栄没後秀栄と改名し、14歳で家督を相続して林家13世となるが、御城碁に出仕する機会はなかった。後に林家を絶家して第17世、18世本因坊となる。

 1853(嘉永6)年
 この年、へりーが浦賀に来航する。

【「太田雄蔵-秀策の30番碁」始まる】
 正月27日、碁好きの旗本赤井五郎作が発起人となり、「太田雄蔵7段(46歳)-秀策6段(24歳)の30番碁」が始まった。これは、去る日、碁好きの旗本・赤井五郎作の家に雄蔵、算知、仙得、松和の四傑と服部一が集まり、秀策の話題となって現在適う者はいないであろうと口々に言うのを、それまで秀策に互先で2勝2敗2打ち掛けだった雄蔵が同調できないと発言し、そこで五郎作が発起人となり30番碁が行われることになったものである。17局までで雄蔵の6勝10敗1ジゴとなり先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴと追い込まれるが、最終局となった23局で、雄蔵は絶妙の打ち回しで白番ジゴの会心譜を遺している。30番碁はこの23局で終了となった。秀策はこの年に7段に昇段する。秀策は後に、「この碁は太田氏畢生の傑作ならん」と評している。
第1局 1.27日 太田雄蔵7段(先) 雄蔵先番中押勝
第2局 2.2日 秀策(先)
(「秀策(先)」)
秀策先番中押勝
(光の碁採録名局)
第3局 2.5日 太田雄蔵(先) 秀策白番2目勝で2連勝
第4局 2.15日 秀策(先) 秀策先番中押勝で3連勝
第5局 2.22-23日 太田雄蔵 (先) 雄蔵先番2目勝
第6局 2.25日 秀策(先) ジゴ
第7局 3.3-4日 太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝

 一進一退の白熱戦となった。

第8局 3.7日 秀策(先) 秀策先番中押勝
第9局 3.13ー15日 太田雄蔵(先) 雄蔵先番2目勝
第10局 3.25日 秀策(先) 秀策先番11目勝
第11局 4.3日 太田雄蔵(先) 雄蔵先番12目勝
第12局 4.5日 秀策(先) 秀策先番13目勝
第13局 4.7日 太田雄蔵(先) 秀策白番5目勝
第14局 5.15日 秀策(先) 秀策先番中押勝
第15局 5.23日 太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
第16局 5.25日 秀策(先) 秀策先番中押勝
第17局 6.5-6日 太田雄蔵(先) 秀策白番3目勝
秀策が雄蔵を先相先に打ち込む。
秀策の「形勢判断の名局」と評されている。

 6.21日、第17局に至り、秀策が17局目に雄蔵を先相先に打込む。雄蔵は4番負け越しで、その後も押され気味となった。
第18局 6.23日 太田雄蔵(先) 秀策白番5目勝
第19局 7.3日 太田雄蔵(先) 雄蔵先番中押勝
第20局 7.5日 秀策(先) 秀策先番中押勝
第21局 7.15ー10.28日 太田雄蔵(先) ジゴ

【幻庵が江戸を離れて清国渡航を目指す旅に出る】
 6月、「囲碁妙伝」刊行後、幻庵は 江戸を離れて清国渡航を目指した。当時の中国は“眠れる獅子”とは言いながら、1842年のアヘン戦争により欧米列強の侵出にさらされ、洪秀全の太平天国の乱、小刀会の乱など、動乱のさなかにあった。幻庵がそのような情勢を知っていたかどうかは定かではない。井上家の古くからの門人の三上豪山(播州の人)が同行し(棋力3段との記述があるが、嘉永5年1/16 日付の「三上豪山 vs 幻庵」を見る限り相当に強い)、北陸から中国地方を旅して回り、秋頃、長崎に着いた。二人は長崎に滞在し、清国に渡る機会を窺った。この時、幻庵は、長崎で江戸の御家人・本因坊門下の勝田栄輔(4段にして6段格)と先の手合いで4局打っている。結果は幻庵の4勝。そのうちの最後の4局目は、栄輔が幻庵の11子を丸取りする妙手を放ち、これを幻庵が寄せで猛追し、最終的に白番1目勝ちしている。この時の妙手で、勝田栄輔の名前が囲碁史に残っている。
 6月、幻庵が、舟遊びと称して一艘の船を雇い、渡清を企て弟子の三神蒙山を伴って舟に乗りこむ。頃を見計らって豪山が抜刀し船頭を脅して進路を西に取らせた。ところが、玄界洋に出るも暴風雨に遭い、波間に漂うこと二昼夜、三日目に佐賀に漂着した。幻庵の乾坤一擲勝負は挫折を余儀なくされた。九州一の打ち手蓮香雄助に語ったところによれば、船中で用を足そうとした時に資金百八十両を海中に落としたために戻らなければならなくなったとも云われ、「高い糞をひりました」とオチがついている。一文無しになった幻庵と豪山は鹿島地方をまわり、免状を乱発して路銀を賄った。為に同地方に〃因碩初段〃の言葉が残されている。6.3日のペリー艦艇の浦賀来航を博多で聞きつけ、8月、江戸に帰る。  

 「(坊)秀和-岸本左一郎」戦が組まれている。
8.30日 (坊)秀和-岸本左一郎(先) 岸本先番17目勝
9.3日 (坊)秀和-岸本左一郎(2子) 岸本2子局勝

第22局 10.3ー25日 太田雄蔵(先) 秀策白番1目勝
 11.5-29日、30番碁の第23局「太田雄蔵-秀策(先)」。「5日、田村重右衛門宅で40手まで打ち掛け、28日、同所で巳の刻(午前10時)より打ち継ぎ翌朝卯の刻(午前6時)に終る」。雄蔵先相先で1勝3敗で望んだ23局目、秀策の先番、必勝ならんと云う碁を覆し、雄蔵がジゴに持ち込む(「雄蔵、名誉と意地のジゴ」)。この碁は「雄蔵畢生の傑作」として知られる。

 雄蔵は、この碁を今生の思い出として秀策との対局を断念、秀策-雄蔵三十番碁終わる。これを最後に雄蔵は女と越後遊歴に出て、1856(安政3)年、高田の旅宿梶屋敷で客死、天保四傑では最も早く没した。旅に出た。 これを最後にふらりと旅に出る。

 (より詳しくは「太田雄蔵-秀策(先相先の先番)」(「恐らくは太田氏畢生の傑局」)参照)
 3.8日、「(坊)秀和-鶴岡三郎助(先)」、ジゴ。

【秀策7段と秀甫3段の2子局十番碁】
 秀策7段(25歳)と村瀬弥吉3段(16歳、後の秀甫)の2子局十番碁が遺されている。この年9.15日から12月にかけて打たれ、一日に2局打ちもあり多分に稽古碁の雰囲気があるが5勝5敗の打ち分け。
9.15日 秀策-秀甫(2子) 秀策白番中押勝
9.19日 秀策-秀甫(2子) 秀策白番中押勝
10.2日 秀策-秀甫(2子) 秀甫先番12目勝
10.14日 秀策-秀甫(2子) 秀甫先番8目勝
10.14日 秀策-秀甫(2子) 秀策白番中押勝
11.26日 秀策-秀甫(2子) 秀甫先番中押勝
12.6日 秀策-秀甫(2子) 秀甫先番7目勝
12.20日 秀策-秀甫(2子) 秀策白番中押勝

 11.17日、御城碁。
11.17日 493局 算知 (俊哲)7段-因碩(松本)5段(先)
 松本先番5目勝
11.17日 494局 林柏栄7段-伊藤松和7段(先)
 松和先番中押勝
11.17日 495局 阪口仙得7段-秀策7段(先)
 秀策先番中押勝(秀策の御城碁9局目)
11.17日 496局 秀和8段-伊藤松和7段(先)
 秀和白番5目勝
11.17日 497局 (御好み)「秀策4段-安井算知7段(先)
 秀策白番1目勝(秀策の御城碁10局目)
11.17日 498局 林柏栄7段-阪口仙得7段(先)
 仙得先番中押勝
11.17日 499局 秀和8段-伊藤松和7段(先)
 秀和白番5目勝

 1854(嘉永7)年

 「(坊)秀和-秀甫(2子)」戦が組まれている。
1.5日 (坊)秀和-秀甫(2子) 秀甫2子局6目勝
4.6日 (坊)秀和-秀甫 (2子) 秀甫2子局11目勝
 5.12日、「太田雄蔵-秀甫(先)」、打ち掛け。
 7.6、14、15日、「秀策―岸本佐一郎(先)」、秀策白番2目勝。

 岸本は石見の人で秀策より7歳年長にして秀和道場の塾頭だった。秀策に先で連勝、本局は3局目。これも優勢だったが、見損じで秀策の2目勝ち、逆転負けを喫した。この碁の写本に丸山久右衛門が左一郎から聞いた話として次のように記されている。
 この碁、左一郎2目勝ちなるに、生来薄弱、徹夜の疲労に精神朦朧(もうろう)として4目の出を見損じて2目敗けとなれり。左一郎、遺憾に耐えず三夜も眠らず。本因坊之を聞き、秀策は当今無双、たとえ先なりとも3局連勝しては碁の冥加なりと意見せしと云う。
 左一郎はこの年、6段を許されて故郷の石見に戻った。
 9.12日、「太田雄蔵-秀甫(先)」、雄蔵白番中押勝。
 9月、秀甫が、帰郷した岸本左一郎に代わって坊門の塾頭を命ぜられる。
 10.2日、江戸を巨大な地震が襲った。これを「安政の大地震」と云う。倒壊家屋1万数全戸、市中の火事30数箇所、死者7千人にも上る被害となった。
 10.3日、「伊藤松和-太田雄蔵(先)」、不詳。
10.22日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番2目勝
10.29日 秀策-秀甫(先) 秀策白番8目勝
 秀策の7段昇段披露会が開催され、雄蔵はその席上で松和と対局している(打ち掛け)。この後、越後に遊歴に出て、1856(安政3)年に高田の旅宿梶屋敷で客死した。天保四傑では最も早く没した。
 11.4日、諸国大地震のため御好碁が中止された。秀策が「日本国中大変で当年はお好み碁(御城碁のあとの模範対局)」もなく残念です。来年よりはこれが例になってお好み碁が開催されなくなるのではないか、と心配です。かようなことで囲碁研鑚にかける熱意が欠けるのでは…」と江戸の不穏な世情を書き送っている。
 「秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
11.8日 秀策-秀甫(先)」  秀策白番勝
11.9日 秀策-秀甫(先) 秀策白番勝
11.9日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
11.10日 秀策-秀甫(先) 秀策白番勝
 11.17日、御城碁。
11.17日 499局 (坊)秀和7段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番中押勝
11.17日 500局 算知(俊哲)7段-伊藤松和7段(先)
 松和先番4目勝
11.17日 501局 秀策7段-因碩13世(松本)5段(向先)
 秀策白番中押勝(秀策の御城碁11局目)
 秀策が、第13代徳川家定の前で対局した御城碁
において、井上因碩(松本錦四郎)を向先中押勝。

 1854(嘉永7)年、11.27日、安政に改元する。
 当代の漢籍「群書治要」の「庶人安政、然後君子安位牟」から取られた。

 「秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
12.18日 秀策-秀甫(先) 秀策白番8目勝
12.27日 秀策-秀甫(先) 秀策白番中押勝
12.29日 秀策-秀甫(先) 秀策白番中押勝

 この頃、秀策と秀甫が坊門の竜虎と評されていた。
12.22日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番7目勝
 この年、林佐野が「皇国棋局人名録」を出版。
 秋、本因坊秀和著、加藤隆和校訂「棋醇」2巻刊行。
 伊藤幸次郎「傍註嘉永囲棋人名録」。
 1854(嘉永7)年に林家・林佐野が出版した囲碁人名録「皇国棋局人名録」。
 この年、土屋百三郎(秀和の三男、後の本因坊秀元)、稲垣兼太郎(日省)が江戸に生まれる。

 1855(安政2)年、。
 大地震。

 「(坊)秀和-秀甫4段」戦が組まれている。
1.3日 (坊)秀和-秀甫4段(先) 秀和白番2目勝
2.27日 (坊)秀和-秀甫(2子)  秀甫2子局6目勝
3.9日 (坊)秀和 -秀甫(2子) 秀甫2子局11目勝
 1.20日、「秀策-秀甫(2子)」、秀甫の2子局中押勝。
 3.6日-4.19日、光の碁採録名局「因碩(幻庵)-秀策(先)」、秀策先番中押勝。
 この頃、秀甫が秀和に随伴して美濃に行き、大垣の常隆寺(京都・寂光寺の末寺)に於ける高崎泰之助(後の泰策7段)の入段披露会に出席。その機会に師と共に京都、大阪まで足を伸ばし、地方の打ち手と技を競う機会を得ている。この旅はかなり長期にわたっており、8月頃は大阪と美濃の間を往復し、9.12日、京都三本木の大和屋での秀和との対局譜(師弟対決譜)が遺されている。
 5.20日、「中川順節5段-秀甫5段」。
 「(坊)秀和-秀甫4段」戦が組まれている。
9.12日 (坊)秀和-秀甫(2子) 秀甫2子局10目勝
10.27日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
10.27日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
10.27日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番2目勝
11.3日 (坊)秀和-秀甫 (先) 秀和白番7目勝
 10.2日、江戸が大地震に見舞われる。
 11.11日、江戸の大地震(安政大地震)のため御城碁が中止される。
 「因碩(幻庵)-秀策(先)」、秀策先番中押勝。
 この年、本因坊秀和著「棋醇」(きじゅん)2巻1冊(心静堂)が刊行される。
 この年、坂口仙得編「囲碁段付(だんずけ)人名録」1冊(収文堂)が刊行される。
 この年、岸本左一郎「常用妙手」(写本)を発表。
 この年、中根鳳次郎、生まれる。生国、伊勢。

 1856(安政3)年

 高塩慶治(桂司と書いた記録もある)が12世林門入(柏栄)の養子となり林有美と改名、跡目を許される。
 「秀策-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
2.20日 秀策-伊藤松和(先) 打ち掛け
2.20日 秀策-伊藤松和(先) 打ち掛け
3.26日 秀策-伊藤松和(先) 不詳
 3月、幻庵が、自宅で秀甫(村瀬弥吉、18歳)と2子手合いで対局し、弥吉が圧倒している。
 「(坊)秀和-秀甫(先)」戦が組まれている。
7.29日 (坊)秀和-秀甫(先) ジゴ
「戦いに次ぐ戦いの後の持碁」。
7.30日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
8.2日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
8.4日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番2目勝
8.29日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
9.2日 (坊)秀和-秀甫の(先) 秀甫先番2目勝
9.10日 (坊)秀和-秀甫の(先) 秀甫先番中押勝
10.6日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
10.13日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
11.13日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番勝  
11.28日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番1目勝
12.25日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番1目勝
9.23日 伊藤松和-秀策(先) 打ち掛け
10.21日 伊藤松和-秀策(先) 不詳
10.27日 秀策-秀甫(先) ジゴ
11.1日 秀策-秀甫(先) ジゴ
11.26日 坊)秀策-秀甫(先) 秀策白番中押勝
 11.17日、林有美が御城碁に初出仕・爾後、文久元年まで6局を勤める。
502局 安井算知7段-林有美6段(先)
 有美先番10目勝
503局 坂口仙得7段-因碩(松本)(先)
 仙得白番7目勝
11.17日 504局「 秀策7段-伊藤松和7段(先)
 秀策白番中押勝
(秀策御城碁12局目)
11.18日 (坊)秀和-葛野亀三郎(2子) 亀三郎2子局勝
11.25日 (坊)秀和-葛野亀三郎(2子) 秀和2子局白番勝
 この年、仙太夫73歳の時、村瀬弥吉5段(19歳、後の秀甫)を迎えて十番碁を対局している。互先で1勝8敗1ジゴ。安政六年、没。
 この年、関源吉が江戸に生まれる。
 この年4月、太田雄蔵、越後の旅宿「梶屋敷」(かじやしき)で客死する(享年50歳)。
 引退、隠居していた井上秀徹(節山、12世因碩)が生没する(享年37歳)。1820(文政3)-1856(安政3)年。名人12世本因坊丈和の息子。幼名は戸谷梅太郎。幼少より同年にして後の本因坊秀和と共に切磋琢磨し囲碁を学ぶ。四段まで同時昇段。13歳の時、剃髪して道和に改名。その後眼病により21歳まで碁から遠ざかるが、その間に秀和が本因坊丈策の跡目となり、丈和の計らいで還俗して葛野忠左衛門を名乗り、諸国行脚して各地で対局する。1836(天保7)年、本因坊家外家の水谷家跡目の琢廉が早逝したため、水谷琢順の養子となる。1844(天保15)年、丈和と確執のあった幻庵因碩との和解の意味で、井上幻庵因碩から丈和に依頼して、一旦葛野忠左衛門に戻した後に井上家養子となり、翌年跡目となって井上秀徹を名乗る。この年以降、幻庵因碩と秀徹(先)で多くの師弟対局を行い、1845(弘化2)年9月、秀徹6段中押勝ちの出来を見て幻庵は退隠を決意したといわれる。1846(弘化3)年、御城碁に初出仕、安井算知 (俊哲)に先番3目勝ち。またこの時期、本因坊門人との対局も多く、安田秀策(本因坊秀策)には秀策先相先の手合で、白で三連勝の快挙を遺している。この年、赤星因徹の著書「棋譜・玄党」と「手談五十図」の合本「玄覧」を出版している。
 この年、御城碁。
502局 「安井算知-林有美(先)」 有美先番10目勝
503局 「阪口仙得-因碩(松本)(先)」 仙得白番4目勝
504局 「秀策7段-伊藤松和7段(先)」 秀策白番勝
「安井算知-井上因碩(先)」 算知白番2目勝
 12世井上因碩節山は御城碁に計3局出仕した。この頃より精神に変調が見られ、1849(嘉永2)年、門人・嶋崎鎌三郎を自身の内儀と姦通したとの疑いをかけて斬殺。鎌三郎の父が井上家に縁のある細川家家臣であったことにより内々に済ませたものの隠退させられることとなり、節山を名乗って相州相原で療養する。井上家は林家門人の松本錦四郎が継いで13世となる。節山はその後復帰することはなく1856(安政3)年、没する(享年36歳)。
 1848(嘉永元)年、幻庵因碩が隠居し、秀徹が12世井上因碩となる。

 1857(安政4)年、。

【秀策4度目(最後)の帰省、四国高松での碁会譚】
 1月、本因坊秀策、葛野亀三郎3段(丈和の三男、秀策の妻花子の弟、後の方円社々長・中川亀三郎8段)を伴って4度目(最後)の帰省に江戸を立つ。この帰郷が最後のものとなる。郷里で半年余を過したあと九月終りには江戸に帰り、御城碁出仕に備え村瀬弥吉(秀甫)らを相手に研究を開始している。この度の帰郷では虫の知らせでもあったかのように、この時、数々の遺品を遺している。

 この時の逸話の一つがこうである。秀策と尾道済法寺住職竹田物外不遷和尚が讃岐(香川県)丸亀の「金毘羅宮(こんぴらぐう)」を詣で、その後に松平氏12万石の城下町であった高松を訪れている。町の人たちは本因坊家跡目秀策を迎えて碁会と指導碁を設営した。ところが、碁会場の中で一人の老人が何故か碁も打たずポツンとしていた。不審に思った秀策が、その老人に「なぜ打たないのですか」と尋ねたところ、老人は「つい先日のこと、碁仇と対局をするにあたり、もしもこの一局に負けた場合は終生碁を打たぬと約束して打ち始め、負けるはずがないミスで敗着。折角の機会にめぐり会いながら先生の御指導を受けることができないのが残念です」と涙ながらに語った。秀策は失意の老人に同情してその相手を招き、辞を低うして、「このようなことは碁道の発展のためにも大変害をおよぼすことにもなるので是非許してあげてほしい」と諭し戒めた。息子ほど年齢差がある青年棋士といえども本因坊跡目に頭を下げられては相手方も恐縮のいたり。文句なしで和解へこぎつけた云々。

 「(坊)秀和-秀甫(先)」戦が組まれている。
2.2日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
2.3日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
7.15日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番1目勝
7.22日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
 4月、秀策、因島外之浦の浜満家(父桑原輪三の家)で水谷縫次(13歳)と4子及び3子で対局、縫次の才を見出す。
 閏5.25日、「井上因碩6段-秀甫(先)」。秀甫の先番中押勝。
 「伊藤松和-秀甫5段(先)」戦が組まれている。
7.6日 伊藤松和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
8.25日 伊藤松和-秀甫 (先) 秀甫先番中押勝
8.26日 伊藤松和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
10.3日 伊藤松和-秀甫(先) ジゴ
10.8日 伊藤松和-秀甫(先) ジゴ
 「坊)秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
10.3日 坊)秀策-秀甫(先) 秀甫先番12目勝  
10.21日 坊)秀策-秀甫(先) 秀策白番3目勝
11.2日 坊)秀策-秀甫(先) 秀甫先番3目勝
12.6日 坊)秀策-秀甫(先)
(三村清左衛門宅)
秀甫先番2目勝 
(秀甫が乱戦を制す)
12.22日 坊)秀策-秀甫(先) 秀甫白番勝
 11.17日、御城碁。
11.17日 505局 坊)秀和7段-林有美6段(先先二の2子)
 有美2子局5目勝
秀和の「中盤での機略のヨセの手」が詮議されている。瀬越
健作は、「秀栄が打てばなるほどと思わせる」と評している。
11.17日 506局 安井算知7段-秀策7段(先)
 秀策先番中押勝、(秀策の御城碁13局目)
11.17日 507局 坂口仙得7段-伊藤松和7段(先)
 仙得白番中押勝
 この年、「幻庵―吉田半十郎(2子)」。本局が幻庵の最後の棋譜として遺されている。
 3月、中川順節「囲碁枢機」発刊。中川順節は御家人で、幻庵因碩門下となり後に5段に進む。天保17局、弘化4局、嘉永37局、安政18局の計76局が写譜されている。内訳は、秀策25局(その内の18局が関山仙太夫)、中川順節12局、秀和6局、伊藤徳兵衛6局、葛野亀三郎5局、太田雄藏5局、伊藤松和5局、松平家碁会5局等々である。他に丈策、伯栄、順策、仙得、栄助、算知、服部一、奈良林倉吉、幻庵、中村正平、加藤隆和、葛野策七、吉原又之助、佐藤運次などの棋譜が所収されている。1852(嘉永5).5.7、12日、「秀策-鶴岡三郎助(先)」で黒中押し勝ちは新譜。鶴岡は1822(文政5)年、江戸目白の生まれ。梅司とも云った。丈策の門人で、1846(弘化3)年、5段。後に6段に進み、1859(安政6)年、没。

 1858(安政5)年
 この年、安政の大獄始まる。

 「(坊)秀和-秀甫(先)」戦が組まれている。
2.20日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番勝
2.25-26日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
2.25-26日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
3月 (坊)秀和-秀甫(先)  秀甫先番中押勝
3.15日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番2目勝
大振替りの2目勝ち」。
 6.7日、「伊藤松和-秀策(先)」、秀策先番4目勝。
 7.7日、「(坊)秀和-林有美(先)」、不詳。
 7.16ー25日、駿府・柴田家碁会(先代・柴田権左荷門=鬼因徹〈服部田淑〉と源吉〈山本道佐〉の21番碁の第4局以降の主催者=の追善興行)行われる。
 「伊藤松和-秀策」戦が組まれている。
7.17日 伊藤松和-秀策(先) 秀策先番4目勝
9.26日 秀策-伊藤松和(先) 松和先番1目勝
11.1日 秀策-伊藤松和(先) 松和先番1目勝
 7.8日、安井算知9世(俊哲)が、駿府・柴田家の碁会に出席の途中、沼津で客死(49歳)。7月、実子の算英(12歳)が安井家十世として家督を許される。
 11.17日、御城碁。
11.17日 508局 (坊)秀和7段-因碩(松本)5段(先)
 秀和白番6目勝、「楽勝の御城碁」。
11.17日 509局 伊藤松和6段-林有美6段(先)
 松和白番2目勝
11.17日 510局 秀策7段-阪口仙得7段(先)
 秀策白番3目勝(秀策の御城碁14局目)
 12.15日、「秀策-小澤三五郎(先)」、小澤先番9目勝。
(より詳しくは「「秀策-小澤三五郎(先)」(「小澤の傑作譜」)」参照)

【岸本左一郎が故郷で病没(享年37歳)】
 この年、岸本左一郎(さいちろう)が故郷で病没(享年37歳)。

 1822(文政5)年生まれ。石見(いわみ、島根県)の人。山本閑休に漢学と囲碁をまなぶ。江戸の本因坊秀和の門人となり、塾頭をつとめる。安政元年6段。号は橘堂。著作に「常用妙手」「活碁新評」。秀和は7段を追贈する為に村瀬弥吉(21歳)を代理として派遣している。左一郎の門人/岩田右一郎がこれに従っている。この頃、大阪の中川順節と再度の対局をしたと伝えられている。他にも山陰地方の棋客を相手にかなりの数を打っている(鳥取市の旧家で9局の遺譜が発見され、関山利一9段に寄せている)。

 1859(安政6)年
 

 服部一(正徹)が7段に昇級。
 2.17日、「秀策-秀甫(先)」、秀甫先番4目勝。
 「秀策-海老沢健造3段(2子)」戦が組まれている。
3.7日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番5目勝
3.12日 秀策-海老沢健造(2子) 秀策白番3目勝
3.17日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番3目勝
3.29日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番4目勝
4.6日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番4目勝
4.19日 秀策-海老沢健造(2子) 秀策白番5目勝
5.1日 秀策-海老沢健造(2子) 秀策白番中押勝
秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番4目勝
5.8日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番4目勝
5.12日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番6目勝
5.22日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番勝
6.6日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番7目勝
7.5日 秀策-海老沢健造(2子) 海老澤先番7目勝
10.1日 秀策-海老澤健造(先)」 秀策白番7目勝 
秀策-海老沢健造(2子) 秀策白番1目勝
10.26日 秀策-海老沢健造(2子) 秀策白番7目勝
11.3日 秀策-海老沢健造(先) 秀策白番4目勝
 「秀策-因碩(松本)(先)」戦が組まれている。
5.14-19日 秀策-因碩(松本)(先) 秀策白番3目勝
6.14日 秀策-因碩(松本)(先) 秀策白番3目勝
 「服部正徹7段-秀策7段」戦が組まれている。
9.8日 服部正徹7段-秀策(先) 打ち掛け。
10.1日 秀策-服部正徹(先) 秀策白番7目勝
10.15日 ?「秀策-服部正徹3段(2子) 秀策白番1目勝
 10.15、11.1日、「秀策-二宮快蔵3段(2子)」、二宮先番1目勝。
 11.9日、「秀策-伊藤松和(先)」、秀策白番勝。
 11.17日、御城碁。服部正徹が御城碁に初出仕し、秀和、秀策(御好碁)と対局する。正徹の御城碁譜はこの2局のみとなっている。
11.17日 511局 (坊)秀和7段-服部正徹7段(先)
 秀和白番中押勝
11.17日 512局 伊藤松和7段-秀策7段(先)
 秀策先番9目勝
(秀策の御城碁15局目)
11.17日 513局 伊藤松和6段-林門入7段(先)
 松和白番7目勝
11.17日 514局
(お好み)「服部正徹7段-秀策7段(先)
 秀策先番13目勝
(秀策の御城碁15局目)
 11.21日、「秀策-二宮快蔵(先)」、二宮先番1目勝。
 11.23日、光の碁採録名局「秀策7段-巌埼健造3段(先)」、秀策白番7目勝。
 高崎泰策「囲碁奇手録」の中で、村瀬弥吉の指導ぶりにつき次のように記している。
 「安政6年9月、京都寄留中、村瀬弥吉氏上京、手合い二ツ三ツ(二三子)にて十局を願い打ち分けとなれり。その評論いたって親切にして反復丁寧なり。新工夫なりと唱え、試み打ちしに対局ごとに勝たざることなし。それより又、衆人に対し半石、又半石、漸次一石も手直しするもなお、負ける事少なし。凡そ一か年以内にして一子半余も上達せしと覚えたり。これを能く回顧するに、全く村瀬先生の意見を貫徹し、手段と主意とを変更工夫することいよいよ久しうして、その功益々著しきなるか。これを以てこの碁を著わし、同好初学後進の諸彦に告ぐ」。
 この年、井上家隠居・幻庵が生没する(享年62歳)。幻庵は中国・清への渡航を企て、悪天候に阻まれている。平戸沖で便所に行ったとき、180両入りの財布を海中に落とし、「高いクソをひりました」、「ああ天の無情なる、我が技を惜しんで海外に出さざるか」。幻庵の渡航目的につき揣摩臆測がなされているが、幻庵を嘲笑するのが殆どである。真相は、自身、兵法家をもって任じていたと云われ、孫子、論語などの造詣も深く、著書でもしばしば引用している。そういう軍師の自負からの愛国憂国の精神からの日清同盟を企図していたとも考えられる。

 当主の第13世因碩(松本錦四郎)が井上家の菩提寺である妙善寺で盛大な葬儀を執り行った。


 晩年の著「囲碁妙伝」(嘉永5年刊)が次のように記している。
 「余いまだ何心なき六才の秋より不幸にしてこの技芸を覚え始めけるが、素より武門に生まれたるからは、文武を学びて・・・・」、「実に余が芸、この頃は四段位限り。惣て十一世因碩の打碁、文政七申年以前は芥の如し。申酉二年に的然と昇達せしを心中に覚ゆるあり。諸君子明察せよ。故に必ず勝負のみにて強弱を論ずるは愚の甚だしきなり。諸君子運の芸と知り給え。・・・昔、道策の碁、近来、丈和の碁、みな相手の過ちにて十局に七局勝てり。万人これを知らず。可憐芸なり」。

 幻庵ー秀和の碁を調べた丈和は次のように述べている。
 「因碩の技、実に名人の所作なり、只惜しむらくは其時を得ざるにあり」。
 この年9.6日、信州松代藩藩士の関山仙太夫、没(享年76歳)。1784(天明4)年、信濃国松代藩士の子として生まれ、江戸時代の素人の碁打ちとして最強と目されている。竹林亭と号す。後輩の育成にも努め、文政6年、「奕道初心調練階」。文政7年、「囲碁方位初心階全」の大判写本を残している。

 本因坊家は五段格として対局することを認め、本因坊秀策と先番で20番碁を打って7勝13敗の記録を遺している。生涯で261局を遺す。
 鶴岡三郎助、没(享年34歳)。

【本因坊14世秀和の碁所任命却下事件】
 1859(安政6)年、12月、本因坊14世秀和(39歳)が碁所任命を出願する。同月付の秀策の因島の父親宛手紙に「本因坊も手元宜しからず」と借金の申し込みをしている。これによると、碁界の最高峰といっても、幕府から受けていた50石15人扶持の家禄だけでは一門が食べていけなかった状況が推察できる。本所相生町にあった本因坊家には丈和未亡人勢子、秀和夫妻、秀策夫妻、住み込みの門人十数名、それに丈和や秀和の子供たちが同居していた。秀和が名人碁所に就位したかったのは苦しい台所の事情があったためとも考えられる。

 本因坊14世秀和の碁所任命出願は「幕府多忙のためとの理由で」却下された。これは井上家の妨害によるとされている。秀和は40歳で油が乗り切った時で、その技量は実力日本一であることは碁界で誰もが認めていた。しかし、井上因碩13代を継いだ松本錦四郎が、「因碩11世幻庵が逝って年も改まらないのに碁所出願とは如何なものか」と異議を唱えた。本因坊丈和の長男、戸谷道和を井上家に養子縁組に出して和解していたが道和は事情があって早く引退、当主は松本錦四郎に引き継がれていた。錦四郎は武士の出身で、天保の争碁で敗れた幻庵の遺恨をはらしたい一念に燃えていた。時の幕府老中久世(くぜ)大和守広周(ひろただ)は錦四郎の旧主であったことから秀和の碁所就位阻止を働きかけた。その願いが効を奏し、秀和の名人碁所就位許可は遅延を重ね却下された。秀和の逆襲がはじまり錦四郎との争碁願いを出したが、奉行の沙汰は、翌年まで引き延ばした挙句「内外多忙、しばらく時機を待つべし」(「国事多忙多難ゆえ、延期して時節を待つよう」)。「国事多忙多難」多忙とは「安政の大獄」と呼ばれる政治的弾圧事件を指しているように思われる。こうして不許可になった。

 1860(安政7)年

 1.1日、「(坊)秀和-秀策(先)」、打ち掛け。
 「(坊)秀和-秀甫(先)」、秀和白番2目勝。 
 3.3日(3.24日)、「安政の大獄」の指揮者・大老井伊直弼が、江戸城桜田門外(現在の東京都 千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名により暗殺された。これを「桜田門外の変」と云う。

 1860(安政7)年、3.18日、万延に改元。 

 「秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
3.24日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番3目勝
8.18日 光の碁採録名局「秀策-秀甫(先)
(「秀策-秀甫(先)
秀甫先番中押勝
9月 秀策-秀甫(先) 秀甫先番勝
 3月、「(坊)秀和-葛野亀三郎(2子)」、亀三郎2子局2目勝ち。丈和の息子との2子局。
 5.3日、「秀策-小澤三五郎(先)」、打ち掛け。
 6.12日、「伊藤松和-秀甫(先)」、打ち掛け。
 9.23日、「秀策-伊藤松和(先)」、打ち掛け。
 「(坊)秀和-秀甫(先)」十番碁が組まれている。
10.6日 第5局 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番4目勝
10.17日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
10.25日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀和白番中押勝
11.1日 (坊)秀和-秀甫(先)
(塾頭弥吉との対局)
ジゴ
11.5日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番8目勝
11.13日 (坊)秀和-秀甫(先) ジゴ
11.15日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番5目勝
 12.8日、御城碁。
(12.8日) 515局 林門入7段-安井算英5段(先)
 算英先番中押勝
(12.8日) 516局 伊藤松和6段-坂口仙得7段(先)
 仙得先番中押勝
***局 秀策-林有美6段(先)
 秀策白番4目勝(秀策の御城碁17局目)
 12.12日、「(坊)秀和-秀甫(先)」、不詳。
 12月、村瀬弥吉が秀甫と改名。12.21日、秀策書簡の郷里の父に宛てた文の一節が次のように記している。
 「昨日、村瀬弥吉儀剃髪秀甫と改名。いずれ近々昇段も致すべく、芸も益々相進み何分安心相願い申し候」。
 この年、林有実が6段に進む。 
 この年夏、服部正徹没(享年42歳)。服部家は、一世因淑、二世雄節、三世正徹と三代にわたり、御城碁に出仕して、禄を受け、外家としては唯一であり、家元四家に次ぐ格式の碁家であった。当時「酒は鬼 朝寝秀和に 拳は林 踊は太田で 服っと一{はじめ}ます」という狂歌があり、安井門下の鬼塚源次、本因坊秀和の朝寝、林伯栄門入の薩摩拳、太田雄蔵の踊りと、正徹を読み込んでおり、当時の人気を映している。正徹には、面白い話が残っている。それは、幻庵門下の加藤某が師の妾と逐電した。旅から帰った幻庵は、門下の者たちに居場所を聞くと、長屋に住み、しじみ・あさりなどの商いをしている二人を訪ねた。そして、持参した一組の碁盤と石を与えた。「女は惜しくない。お前にくれてやる。が、お前の芸は惜しい。どんなことがあっても碁は捨てるな。」泣かせるね~。芝居にしたいような幻庵の一世一代の人情劇である。この加藤某が、服部正徹だと言われる。「惜しいかな、素行おさまらず、さりとて捨つるも忍びず、服部雄節の家を襲わしめたり」と、座隠談叢にある。
 7月、加藤隆和没(享年61歳)。
 幕末の弘化から万延年間(1845-1861)は碁界の空前の隆盛期であった。多くの打ち手が現れ、上級旗本や豪商が競ってスポンサーになり碁会を催した。この時代の狂歌「酒は鬼、朝寝秀和に、拳は林、踊りは大田で、服(はっ)と一(はじ)めます」が遺されている。「鬼」とは、安井門六段の鬼塚源治。鯨飲飽くことなしと伝えられている。「朝寝」は、当時の実力ナンバーワンの本因坊秀和。「拳」は、薩摩拳。象牙製の数取りや箸などを手で隠し、その総数を当て合うお座敷芸の拳の一種で、それが得意だったのが林家の当主で上手(七段)の林門入(柏栄)。「踊り」は、安井門で天保四傑の一人、太田雄蔵。最後の「服」は駄洒落で、上手(七段)の服部正徹(幻庵因碩門)のこと。一時、一(はじめ)と名乗っていた。

 1861(万延2)年

 1861(万延2)年、2.19日、文久に改元。

 2.22日、「小澤三五郎-秀甫」。126手完で、小澤白番中押勝。
 村瀬秀甫が6段に昇進。秀甫は、中江兆民の遺書ともいわれている「一年有半」の中で、「余近代に於いて非凡人を精選して、三十一人を得たり」と、坂本龍馬や大久保利通、北里柴三郎らと並んで非凡人として名が挙げられている。

【「秀策―秀甫(先)十番碁」】
 「秀策(33歳)―秀甫(24歳)(先)十番碁」が遺されている。この年4.8日から11月にかけて打たれ、秀甫の6勝3敗1ジゴ。
4.8日 秀策-秀甫(先) 秀策白番6目勝
4.25日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番2目勝
8.21日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番2目勝
9.3日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番1目勝
「夜通翌朝終ル」。秀甫は「本局の白は布石の初頭
より繊細緻密、一手の怠慢手も見当たらない」、「秀
策、白の名局」と評している。
9.24日 秀甫-秀策(先) 打ち掛け
9.29日 秀策-秀甫(先) 秀策白番3目勝
10.5-18日 秀策-秀甫(先) 秀甫先番1目勝
10.7日 秀策-秀甫(先) 秀策白番勝
10.28日 秀策-秀甫(先) 不詳
10 11.7日 秀策-秀甫(先)
(秀策と秀甫の最後局)
秀甫先番勝
 11.17日、御城碁。
11.17日 518局 (坊)秀和7段-因碩(松本)4段(先)
 松本先番1目勝
11.17日 ***局 「秀策-林門入(先) 」
 秀策白番11目勝(秀策の御城碁18局目)
11.17日 ***局
(お好み)「
秀策-林有美(元)
 秀策白番中押勝(秀策の御城碁19局目)
11.17日 520局 伊藤松和6段-安井算英7段(先)
 算英先番中押勝
11.17日 521局 坂口仙得7段-林有美6段(先)
 仙得白番中押勝
11.17日 522局
11.17日 523局 坂口仙得7段-伊藤松和7段(先)
 松和先番中押勝

 秀策は御城碁土つかずの19連勝。現存する秀策最後の打ち碁となった。19連勝の19局中、秀策がもっとも苦戦したのが、嘉永3年の伊藤松和戦である。嘉永6年の安井算知戦も逆転だった。ちなみに19連勝はすべて互先の域のものである。2子でもいいかもしれない相手にも向先で打っている。秀和が置碁をしないように裏から手をまわしたとも云われている。この点で、碁聖といわれた道策も丈和も置碁もこなしており、道策の負けは一流の相手に2子置かせての1目負けである。先で勝てる相手がいなかったということでもある。こう考えると、秀策が道策、丈和よりも芸が上とは判じ難い。


 伊藤松和がこの年まで御城碁19局を勤める。この年をもってお城碁が中止され、再び行われなかった。
 秀策-林門入(柏栄)(先)」、秀策白番14目勝。
 12.18日、「秀策-秀甫(先)」、不詳。
 この年、2月、赤星因徹が「手談五十図」を刊行する。9月、丈和が「収秤精思」を刊行する。
 この年、6.13日、林家隠居・元美(11世)生没(享年84歳)。元美は、碁打ちよりも、囲碁史家、評論家としての評価が高い。「爛柯堂棋話」の著者として有名。御城碁は、通算2勝10敗。
 この年、岩田右一郎が生まれる。

【因縁対決「(坊)秀和-井上因碩(松本)(先)」】
 1861(文久元)年、11.17日、御城碁第518局「(坊)秀和-井上因碩(松本)(先)」。両者の対局は安政5年に一局あり、その時は秀和が白番で6目勝っている。(百田尚樹の「幻庵」は次のように記している。
 「秀和は絶対的な自信があった。錦四郎とは過去に御城碁で二度打っていて、向こう二子、向こう先とも、いずれも問題なく勝っていたからだ」。

 今回は表向きは恒例のお城碁であったが、秀和の碁所願い却下の経緯もあり、本因坊と井上両家を代表する争碁的雰囲気の下で打たれ、且つお互いに最後の御城碁となった。休憩時間に入って、本因坊秀和と親しい伊藤松和が心配したが、「最後にはひっくり返してみせる」と笑っていたと伝えられている。ところが終盤に入っても一手の誤りもなく打ち継ぎ、秀和が寄せの手順に苦心惨憺させられる。結局は因碩の黒番1目勝ちとなった。この局は「錦四郎一生の傑作」と呼ばれる。

 因碩はこの一局を最大限に利用して秀和の碁所に異議を唱え、本因坊秀和の不覚の敗北は名人碁所の就位まで遠のくという取り返しのつかない一敗となった。秀和は、格下の錦四郎の先をこなせかったことにより名人碁所就任の夢を断たれた。かって、井上因碩(幻庵)の名人碁所の就位の野望を打ち砕いた秀和が、二十年後、同じ名を持つ井上因碩(錦四郎)によって夢を阻まれたことになる。

 本局は、「世に謂ふ此時玄庵の霊の乗り移り居りたるかを疑ひしと」して「玄庵乗り移り」として知られる。秀策が秀和の無念の1目負けに対して、郷里の父に送った手紙に次のように認(したため)めている。
 「当年も勝利、御安心遊ばすべく候。先生意外の不出来、さてさて残念このことに候。先生の業(わざ)にては、錦四郎などは片手打ちにても勝つべき碁に候えども、碁は活き物のことゆえ、このようなる儀もでき申し候」。

 岸本佐一郎は「因碩は大いにぬるく見え候。しかしあの位の芸事に候」と、坊門の因碩評は散々であった。これを逆から評すれば次のような評になる。「錦四郎生涯の一局として推されるゆえんである」。井上因碩錦四郎は後にこう述懐している。
 「ただ夢中だった。後半はどう打ったかまったく覚えていない。これは多分、幻庵先生が私に乗り移って戦って下さったのでしょう」。

【秀和】
 「席亭の囲碁日記」の「秀和」が次のように記している。
 秀和は幕末の棋士。早熟の天才で文政年間に本因坊丈和(名人)に入門。同年の道和(丈和の実子。改名が多く葛野忠左衛門、水谷順策、井上秀徹、井上因碩、節山などと同一人物)とともに跡目候補として腕を競いました。四段までは同時昇進し、そこで道和が眼病を患い脱落。そこからは着実に跡目への道を独走します。一方の道和は悲劇的な末路をたどりますが、それはまた別の機会に。

 名人丈和は、名人碁所へ就くさいの強引な手法(幻庵因碩との対局を避ける一方、林(舟橋)元美の水戸系人脈から政治工作をした)が祟って引退に追い込まれます。引退に当って碁所として最後に出した免状が秀策の初段免状だったというのは有名な話です。

 さて丈和が引退すれば、井上因碩(幻庵)が空位の名人の座を狙うのは自明なことなので、本因坊家としてはそれを阻まねばなりません。当主の丈策は上手(七段)ではあったけれど差ほど特別な棋士ではありません。そこで実際の争碁は跡目に秀和に託されました。当時秀和は弱冠20歳、七段。


 幻庵(準名人=八段)との争碁はさまざまな駆け引きの中、実質3度行なわれています。この勝負の焦点は幻庵が秀和の先を破れるかどうかにありました。幻庵(八段)と秀和(七段)の手合い割りは1段差ですから先先先(3局1セットで下手が2回黒を持てる)です。幻庵としては、これに勝ち越さなくては九段=名人の実力があることを証明できません。3局行なわれた争碁はいずれも秀和の先でした。

 結論から言えば、秀和は先で幻庵を完封します。幻庵の豪快な打ち回しと強烈なヨリツキに対して、鉄壁の防御で凌ぎきります。野球に例えるなら、森西武ライオンズのような、つまらないが隙のない完璧な強さです。秀策の先番もすばらしいけど、秀和がこのとき見せた「負けない先番」も江戸碁の一つの結論といってもいいぐらいのものです。
 前回の続き。

 幻庵因碩の野望を見事打ち砕いた秀和ですが、彼の本領は「負けない碁」ではありません。それは秀和の一面でしかないのです。

 秀和は非常に多くの打碁を残したことで知られています。秀和の棋譜は未整理な部分も多く、私もその総数は把握していませんが少なくとも600局以上が残されているはずです。太田雄蔵、安井算知(俊哲)などとは100局以上の対局をこなしています。

 その多数の中で秀和は数限りない新手・新趣向を試みています。秀策はその手が最善と信じれば同じ局面で何度も同じ手を打ちますが、秀和は常に新しい手を目指します。ときにはその手が無理気味でも果敢に挑戦します。秀和が弟子の秀策・秀甫に向かって「君たちは強いが、毎回工夫をこらす点では私に及ばない」ということを言ったというのは有名な話です。常に新手を求める探究心と、新しい変化の中で自在に振舞える才能の豊かさが秀和の魅力です。初めて見る形でも筋や急所を的確に見つけ出し華麗に打ちまわします。碁の創造性という点で秀和は道策、呉清源あたりとも遜色がありません。

 秀和は幕末本因坊家の隆盛を実現します。幻庵を破り、井上家の野暮を打ち砕いたことは前述しましたが、その後秀和が当主になったとき他家に秀和と並び立つものはいませんでした。しかも唯一対抗しえたはずの秀策が本因坊家の跡目として秀和を守り立てており、その下にも村瀬弥吉(秀甫・後に名人)が控えていました。秀策・秀甫以外にも、ベテランで囲碁四傑の一人伊藤松和(後に八段)、岸本左一郎、小沢三五郎など名手を抱えて本因坊道場は栄えました。

 当時秀和の名人碁所は間違いないと思われましたが、かなり格下と思われた井上因碩(松本錦四郎)に御城碁(江戸時代の年に1回行われる公式戦)で敗れたことでけちがつき就任が遅れます。平時なら数年の空費で済んだものが、幕末の混乱の中、幕府そのものが瓦解してしまい、秀和は遂に名人の座に就かず世を去ります。さらに道場を火災で失うなど、晩年は必ずしも恵まれていませんでしたが、江戸後が一番華やかな時代の寵児として多くの名棋譜を残したことで、秀和の名前を歴史上揺るぎないものになっています。

 秀和を楽しく並べるためにはポイントを。
 まず、秀和の面白さは工夫にありますから、秀和を並べる前に秀策などである程度スタンダードを知っておいた方がよいでしょう。そうしないと何をひねっているのかわからない場合もあります。それに加えて沢山並べること。秀和の無尽蔵な才気を感じ取るにはやはり一局では不可能です。沢山並べていくと秀和の自在な打ちまわしのすばらしさが良くわかってきます。いずれにせよ変化に富んだ秀和の碁は並べる人を厭きさせません。是非一度秀和ワールドを散策してみてください。

小澤三五郎
 「ウィキペディア(Wikipedia)小澤三五郎」。

 小澤 三五郎(おざわ さんごろう)(生没年不詳)は江戸時代末の囲碁棋士。江戸生まれ、本因坊秀和門下、六段。初めの名は小澤金太郎。村瀬弥吉(本因坊秀甫)の弟弟子にあたり、2、3歳年下と見られる。安政から万延にかけて秀和に二子、秀策に先、秀甫に先相先、他に高崎泰策との棋譜などが遺されている。秀策の後継者を弥吉と競ったと云われ、当時の「皇國碁家見立番附」では別大関村瀬秀甫、宮重策全に次ぎ、井上因碩(十三世)と共に大関の位置を占めている(五段)。秀甫とは、初二段は金太郎が先んじ、三段からは秀甫が抜いたとされる。1854(嘉永7)年、三段時から、四段秀甫が白番で2連勝、三五郎が先番と白番で連勝の棋譜があり、1861(万延2)年には三五郎五段で、先から先相先に進めている。中国九州を遊歴中に日向国延岡で急死と記録され後の記録はない。棋風は秀甫に似て豪快で攻撃力が強い。

 1862(文久2)年

 5.10日、秀策が、父宛ての秀策書簡の一節で、秀甫との稽古碁に触れて次のように記している。
 「秀甫と稽古碁手合いは先ほど尾道へ申し遺し候間、御序(ついで)の節同方にて御覧遊ばすべく候。当年も秋にも相成り都合宜しく候はば、又々稽古碁打ち遣わし申すべきと存じ居り申し候」。

【秀策悲運の惜死】
 8.10日、秀策生没(享年34歳)。

 この頃、江戸でコレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。武江年表は「夏の半ばより麻疹世に行われ、7月の半ばに至りていよいよ蔓延し、良賎男女、この病に罹らざる家なし」と記している。死亡率が高く、介護するものもほとんどいなかった。秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり感染し、8.10日、コレラのため病死した(享年34歳)。秀策の才が惜しまれる。本因坊家では秀策の看病によりコレラによる犠牲者は秀策以外は1人も出さなかった。「囲碁見聞誌」(川村知足、1884年)が次のように記している。
 「文久二年壬戌の歳は東都の地麻疹大に流行す。本因坊秀和が左右の腕(かいな)と頼みたる此節秀策、家内の多人数替る替る麻疹を患ふ。その看病を漸く遂げ、終にはその身も重く煩ひて……」。

 期待をかけていた跡目秀策の死亡で悲嘆の淵に沈んだ秀和が桑原家へ宛てた手紙の文面は次の通り。
 「一筆啓上仕り候。然れば秀策儀、当春母忌中内精進致し候故に、椎茸を多色、大逆上致し、頭瘡並びに眼病等にて大難儀致し候ところ、6月、漸々全快仕り候得ども、平生よりは気力薄きよう存ぜられ候ところ、麻疹(はしか)流行、内弟子始め女どもに至るまで薬など世話致し、何れも追々肥立ち候につき、先ず安心仕り候ところ、8月3日より少し下り、4日暴*強く、種々療養相加え候得ども、養生叶わず、10日午の下刻病死仕り候。即ち法名差し上げ候。貴所の御嘆きを推察仕り候につけてあも日々落涙致し候。殊に天性才智勝れ、芸は諸人の知るところ、碁所にも相成る人と上様始め門人どもも申しおり候ところ、中道に別れ、ただ夢の心地に御座候。先ずは御悔みまでかくの如くに御座候 8月14日」。

 秀策が御城碁下打ちの結果を聞かれた時、「先番でした」とだけ答えたと言う逸話も残っている。秀和、秀策、秀策の弟弟子である村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)の三人を合わせて「三秀」と呼び、江戸時代の囲碁の精華とされる。秀和対秀策、秀和対秀甫、秀策対秀甫の対局は百局近くに及び、数々の名局を残している。秀策没後、御城碁がなくなり、碁界は一挙に衰退に向かい始める。

 11.15日、「江戸城火災を理由に」200年の歴史ある御城碁は下打ちのみに止め取り止めとなった。外国船の来航、国内政情としての勤皇、佐幕の対立など内外の情勢緊迫化で、文久元年を最後に約230年間続いた御城碁が中止されることになった。

 11.17日、御城碁。
11.17日 520局 伊藤松和-安井算英(2子)
 算英先番2子局中押勝
11.17日 521局
11.17日 522局
11.17日 523局 坂口仙得-伊藤松和(先)
 松和先番中押勝
  8月、秀策逝去の同月、林有実没(享年31歳)。
 秀和の次男の土屋平次郎が、11歳の時、林柏栄門入(12世)の養子となり林秀栄と改名する。翌年、12歳で初段。

 1863(文久3)年

 跡目としていた秀策死去の後、本因坊家のブレーンは秀和(44歳)、中川亀三郎(27歳、丈和の三男)、村瀬秀甫(26歳)、秀悦(14歳、秀和の長男)、秀栄(12歳、秀和の次男、12世林門入柏栄の養子)。一門の最強者は村瀬秀甫、次いで中川亀三郎であった。ところが、「勢子の権柄(けんぺい)」(勢子は丈和の後室未亡人で、何かと秀甫と対立していた)に遭い、秀甫の跡目相続が難航した。

 10月、秀和が、丈和未亡人勢子の権柄に阻まれて秀甫を跡目とすることを断念、秀和の長子秀悦の跡目願を出し、承認される。秀甫は越後に去る。
 11月、御城碁下打ち行われ、秀悦も参加したが、下打ちに止まる。
524局 林門入7段-安井算栄5段(先)
 算栄先番2目勝
 この年6.13日、林元美没す(享年83歳)。

 1864(文久4)年

 1864(文久4)年、2.20日、元治に改元。
 秀和、秀甫を上手(7段)に進めんとするも、13世因碩(松本錦四郎6段)が故障を唱う。ために争碁を打ち、秀甫3連勝して因碩を沈黙せしめ7段昇級を果たす。御城碁出仕に先だち剃髪する。但し、この年より御城碁中止のまま明治に至る。
 この頃、秀甫が遊歴を名として越後に赴く(明治維新の前後、数回の放浪を繰り返す)。
 この年11.18日、林門入12世(柏栄)没(享年60歳)。

【御城碁、御城将棋廃止】
 この年より御城碁は中止のまま幕末に至り秀甫の御目見得も行われず。1626(寛永3)年に始まり、毎年1回、将棋とともに2、3局が行われた御城碁、御城将棋が1864(元治元)年で238年間続いて幕を閉じた。道中、1855(安政2)年、安政大地震により御城碁中止。1862(文久2)年、下打ちのみ行われ江戸城火災を理由に御城碁は沙汰止みの履歴がある。

 1865(元治2)年

 3.2日、中川順節没(享年62歳)。

 1865(元治2、慶応元)年、4.7日、慶応改元。
 同年、林秀栄が12世林柏栄門入の死を伏せたままで家督願いを出す。
 4.13日、「(坊)秀和-秀甫(先)」、秀甫先番中押勝。
 日時不明、「
(坊)秀和-秀甫(先)」、打ち掛け。

 1866(慶応2)年、。

 中川亀三郎(本因坊丈和の三男)が6段に進む。
 1.19日、「海老沢健造-秀栄(2子)」、秀栄2子局中押勝。
 1.24日、「高橋Daizaburo-秀栄 (先)」、高橋白番1目勝。
 2月初め、秀甫が江戸帰りして、林秀栄(15歳、2段)、安井算英(21歳、3段)ら若き家元や後に方円社創設の同志となる中川亀三郎、小林鉄次郎らと一連の対局をしている。
 「小林鉄次郎-秀栄(先)」戦が組まれている。
2.4日 小林鉄次郎-秀栄(先) 秀栄先番6目勝
3.24日 小林鉄次郎-秀栄 (先) 小林白番10目勝
 2.14日、「吉田半十郎-秀栄 (先)」、吉田白番6目勝。
 2.24日、「安井算英-秀栄(先)」、秀栄先番5目勝。
 3.4日、「秀甫-安井算英3段(先)」、秀甫白番9目勝。
 「中川亀三郎-秀栄(先)」、中川白番15目勝。
 3.14日、「坊)秀悦-秀栄(2子)」、秀栄2子局中押勝。
 4.4日、「坊)秀悦-吉田半十郎(黒)」、秀悦白番中押勝。
 4.14日、「高橋Daizaburo(3p)-秀栄(先)」、高橋白番11目勝。
 5.19日、「岩崎健造-秀栄(先)」、岩崎白番11目勝。

 1867(慶応3)年、。

 1.9日、明治天皇が、前年の末に父である孝明天皇が急死したため、まだ元服・立太子をする前の14歳で即位した。 
 1月、井上因碩宅で、秀甫が伊藤松和と組んで、坂口仙得-小林鉄次郎組と連碁を打っている。但し打ち掛けにしている。
 幕末の女流歌人・大田垣連月尼(1791年(寛政3年)~1875年(明治8年)、享年85歳)の再婚夫の重二郎は、大変な囲碁好きで、碁ばかり打っており、日々の用務を怠った。婿養子であったため、離縁話まで出た云々の逸話を遺している。
 10月、林秀栄(1852-1907)が林家13世を襲名する。

 これにあたって秀栄から提出された書類や、それを受理した寺社奉行土屋采女正(うねめのしょう)(寅直)(1820-1895)が作成した書類等を綴じ込んだ冊子「
寺社奉行一件書類 第45冊」が遺されている。安井家、本因坊家での襲名の前例や林家の歴代について説明する書類で、12世林門入死去時の服喪期間についてなど襲名の時期について細かいことまで記録されている。襲名を認める際の呼出状の回付ルートなど、幕府内での書類のやりとりの様子もうかがえる。なお、ここで林家を襲名した林秀栄は後に林家を廃絶し、本因坊を襲名して本因坊17世となり村瀬秀甫(しゅうほ)(のちの本因坊秀甫。1838-1886)に本因坊を譲る。

【幕末維新立役者たちの囲碁好き考】
 明治維新の立役者となった政治家の多くは囲碁を愛好していた。これにつき、囲碁の専門棋士にして囲碁ライターとして稀有な値打ちを持つ中山典之氏の「囲碁の世界」(岩波新書、1986.6.20日初版)は次のように記している。
 「明治の元勲は、たいてい碁を打った。伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛。下級武士の出身であるこれらの人々さえ大の囲碁好きであったのだから、大名や公卿は申すまでもない。最後の将軍となった徳川慶喜も、瀬越憲作名誉9段に五子置いて打ったと云うから、現在の標準で言えば立派なアマチュア5段である」。

 以下、この時代の主な打ち手を確認しておく。

 大久保利通(1830〜1878)。「真実はいかに〜大久保利通の「囲碁で出世」の逸話に迫る」その他参照。薩摩藩は藩主の島津氏が率先して囲碁に通じていたので藩士まで囲碁が好きの者が多かった。大久保利通、西郷隆盛も碁打ちであった。嘉永元年正月四日の大久保17歳の時の日記に次のように記されている。よほどの囲碁好きであったことが分かる。
 「嘉永元年正月四日 陰天 今日は朝六ッ半に起床他出不致小座之邉り少々取こばめ、八ッ前牧野氏訪られ、碁打ち相企三番打ち、拙者勝負マケいたし候処、それ成りにて取止め、そのうち税所喜三左衛門殿訪られ、喜平次殿は帰られ、喜左衛門殿は段々咄共いたしさ候て、ハマ投相企て川上四郎左衛門殿四番九兵衛などと屋敷前にていたし後は安愛寺前にてもいたし、大鐘近程遊び夜入近喜三左衛門殿は帰られ、今夜は九ツ時に休息」 (「大久保利通文書. 第9」359頁)。

 大久保の父・利世は御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる家格の下級藩士で、藩主に御目見得(おめみえ)どころか藩の執政たちと直接言葉を交わすこともできない下っ端だった。利通は、1846(弘化3)年に記録所書役助として藩に出仕するが、4年後に起こった「お由羅騒動」で上司とともに謹慎させられる。島津斉彬が藩主になると復職し、そして、精忠組の領袖として活動し始める。1858(安政5)年の7月、島津斉彬が逝去。久光の子の島津忠徳(後の茂久、忠義)が藩主になった。それに伴い藩政の実権は忠徳の実父である島津久光が握ることになった。久光は自らを「国父」と呼ばせ、絶大な権力をふるった。ところが、 斉彬の父、島津斉興は忠徳が若年であることを理由に再び藩政を掌握した。御徒目付の大久保は島津久光が藩政を握ると読み、久光が囲碁が好きで吉祥院の住職・乗願(じょうがん)に習っており、吉祥院の住職が大久保の終生の友人にして同志であった税所篤の兄だったことから、大久保は税所篤(さいしょ・あつし)に頼み、吉祥院に囲碁を習い、久光が読みたいといった本に久光への手紙を挟み、国事の難や建白の文章を記載。それが久光の目に留まり、久光は大久保を1861(文久元)年、利通を御小納戸役に抜擢して家格を引き上げ、側に上がって碁の相手をさせるようになった。久光は大久保に度々碁の相手をさせており、「大久保と打つのが一番面白い」、「大久保はお世辞まけをせぬから面白い」の言を遺している。通説の「大久保利通は島津久光に取り入る為に囲碁を習ったという話がある」は、「上手い下手は別として、以前から大久保は碁打ちであった」ことを踏まえていない点で問題がある。

 明治維新以降の大久保利通は、明治に入ってからも碁打ちに指導を受け、政治的能力のあったその碁打ちを参議にしているほどであった。伊藤博文、五代友厚、黒田清隆、松方正義等が碁敵で、1968(昭和43)年、日本棋院から名誉7段の免状が与えられている。

 大久保は、生涯、碁を趣味とし、次男息子である牧野伸顕(まきの・のぶあき、後の日本棋院初代総裁)も次のように述べている。
 「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使いすぎたりしたときは、碁を囲んで慰めていた。日記を見ると、よほど碁が好きであったようで、そのほかには別に娯楽はなかったでしょう。今の方円社長の岩崎建造などは始終父に追従していました。碁ではいろいろの奇談もあるようです」 (「大久保利通」32頁)。

 岩崎弥太郎。囲碁好きは有名。彼の名言の一つ“自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。故に事業は必成を期し、得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ”

 坂本龍馬。少年時代に田中良助{田中家は、坂本家所有の山(坂本山)の管理人}と将棋や囲碁を楽しんでいる。 

 大隈重信。「趣味に乏しい人だったが、囲碁は特別好きだったらしい」(岡義武「近代日本の政治家」)。囲碁好きで引越先を探す際、囲碁を持ち歩いて空き家が見つかると上がり込み、一日中仲間と烏鷺(囲碁の別称で、黒石と白石から来ている)を争っていたという話が伝わっている。武士、政治家、教育者(早稲田大学を建学)。政治家としては、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣などを歴任している。

 市島謙吉「大隈侯一言一行」が次のように記している。
 「大隈はあるとき維新の元勲たちの碁の打ち方をつぎのように語ったことがある。伊藤はあの位な才子だが、碁にかけては駄目だ。我輩よりは余程下手である。福沢もあの位闊達な男であったが碁にかけては実に痴であった。考えることが長くって対手(あいて)は実に困った。岩倉と大久保は両人共なかなか上手であった。どちらかと云うと、大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は激しやすい人であったので、岩倉はその呼吸を知っているから、対局中、常に大久保を怒らせて勝ちを取った。児島惟謙はなかなか強情張りで囲碁にもなかなか岡目の助言を聞かぬ。どうしても助言に聴かざるを得ない時には、助言に従うとは云わん、その手もあると云って自分の思いつきとしてやる」。

 尾崎行雄の回顧録「咢堂回顧録」は次のように記している。
 「大隈伯は素人碁としては、まず一流の仲間に入るべきものである、一流の下であるか上であるかは別問題としてとにかく一流に入るべき仲間で、伊藤公は中の下ぐらいで、余程段が違う。しかし伊藤公は下手ながらも初めの布置などに多少の考慮を費やし、余程上手である。大隈伯の石を下すのを見ると、そのはじめにおいて大局の形勢の決すべき大切の場合に、全局を呑んでいる、ほとんど思慮を費やさずしてドシドシ石を下す。そのうち何処か一局部が非常に困難に陥るか、もしくは大局に敗勢が現れると、はじめて手を止めて考え出す。その考えた結果は随分面白い手を出して、どうかこうか頽勢をある程度までは弥縫して、さまで甚だしき失敗をみずして難局を切り抜ける。こういう段に至ってはまず素人碁の内ではだいぶ偉い方であろうけれども、既に大勢において非なる状況が現れて後に、初めて思慮を費やすのであるから、余程巧みに切抜けても、根底より大勢の挽回は出来ない。もしアレだけの思慮と手腕を、そのはじめに当たって費やしたならば、大局の形勢を進める上に、余程の利益があるであろうと思うけれども、いつ碁を打つ時を見ても、最初は一向思慮を運(めぐ)らさず、難局に陥って初めて考慮を費やす癖がある。これは独り碁ばかりでなく、大隈伯の多くの仕事が常にそういう形を持っている。すなわちアレだけの英邁の資質を具えておりながら、比較的志しを得なかったのも、畢竟その天品の才略知慮が、事の初めに用いられず、難局に陥って後に用いる性質の種類であろうかと思われる」。

 「大隈が見た元勲らの碁」が次のように解説している。

 「伊藤博文の打ち方を『我輩よりは余程下手である』と言っているのは誇張ではなく、第三者から見てもそのとおりだったが、だからといって大隈が勝てたわけではないと尾崎行雄の回顧録に書かれている。尾崎は伊藤と大隈の碁の打ち方を見たとき、そこでは単に盤上の勝負が繰り広げられていただけではなく、政治家としての行き方の相違が顕現していたと述べる。それゆえ政治家として伊藤と大隈を対比させると、『伊藤公は飽くまで思慮を凝らし、裏からも表からも、種々各方面から考えて作戦計略を運(めぐ)らすに対し、大隈伯は一気呵成に畳みかけて叩き詰めるという形が多く見えた』ようで、『一方は用意周到なるに反し、一方は粗大にやるという点よりして、重要の対戦において、大隈伯はややもすれば敗者の位置に立たざるを得ない状態に陥った。勝つ方は必ず多少の恐れを抱いて緻密に事を計画し、敗る方は侮り気味を以て粗放にやってのけるという状態が、余程久しく継続した』と語っている」。




(私論.私見)