1746年7.23日 耳赤の一局(井上因碩幻庵8段-秀策4段(定先第2局)

 (最新見直し2015.02.12日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで、「耳赤の一局(井上因碩幻庵8段-秀策4段(定先第2局)」を研究する。

 2014.07.25日 囲碁吉拝


耳赤の一局(井上因碩幻庵8段-秀策4段(定先第2局)
井上因碩(幻庵)8段-秀策4段の耳赤の一局」
耳赤の一局」(定先第2局「井上因碩(幻庵)-秀策(先)」。
 7.20日、大阪で「井上因碩11世(幻庵)8段(48歳)-秀策4段(18歳)」が対局することとなった。幻庵因碩は、天保11年12月、井上家を代表して本因坊家第13世丈策の跡目秀和と宿命の碁所を賭けて命がけの"争い碁"を打ち、武運つたなく破れて碁所を断念させられていた。この頃、大阪で後進のため指導を行なっており、そこへ秀策が登場したことになる。「坐隠談叢」によれば「因碩の容貌は満面に黒あばたありて眼光鋭けれども敢えて獰悪(どうあく=にくたらしくたけだけしい)ならず。能く子女を馴れ親しむる愛嬌を有せり」とあり、井上家中興の主とも称されている。

 7.20日、順節宅で対局。「井上因碩(幻庵)-秀策(2子)」で100手過ぎまで打ち進めたところ、因碩が「ハッハ、これは手合い違いだ。二つじゃとても碁にならん。明日、改めて先番を打ってみよう」と述べ、因碩が破格の先を許した。7.21日、定先第1局「井上因碩-秀策(先)」は浪華天王寺屋の辻忠二郎宅で89手打掛け。

 7.23日、定先第2局「井上因碩(幻庵)-秀策(先)」。原才一郎宅で141手打掛け。因碩と秀策の対局で形勢の良かった碁を秀策の打った妙手(黒127)で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった。これが有名な「耳赤(みみあか)の妙手」と云われ、「耳赤の一局」として知られる(光の碁採録名局「井上因碩(幻庵)-秀策(先)」、黒3目勝ち、半コウ黒勝ちツグ)(「●本因坊秀策(4段)○井上因碩(幻庵)(8段)耳赤の一局Go Game」)。 

 7.25日、中川順節碁会の中之島紙屋亭で打ち継がれ325手で終局、秀策が先番で3目勝ちする。この碁の興味深いところは、「秀策が3目勝ち」(因碩3目負け)となったが、コミなし時代の判定であり、6目半コミの現代碁基準では逆に「秀策が3目半負け」(因碩3目半勝ち)となることにある。結論として「両者好局の名勝負」であったと見做すべきではなかろうか。「井上因碩-秀策(先)」はこの後3局打たれ、秀策が2勝、1局打掛けとなる。「準名人に三連勝し、安芸小僧から本因坊跡目となる登竜門の一局」となる。この時、秀策は4段だが、因碩は「このときの秀策の芸は七段は下らない」と語ったという。
 耳赤の碁1~64

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 耳赤の碁1(100)~27(127)。27(127)が耳赤の一手。
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 右下の大斜定石で秀策が誤り、井上幻庵因碩の繰り出した秘手もあって秀策は劣勢に陥った。幻庵は自在に打ち回したが、126手目のトビ(白△)が緩手。これに対して秀策の打った黒127手目(図の黒▲)が「耳赤(みみあか)の一手」として現代に語り伝えられる妙手である。この手を打つ直前までは井上の優位だったが、この手によって形勢は急接近したとされる。「上、下、左右の大局観に裏打ちされた名手の名に恥じていない一手」、「この一石で上辺の黒地模様を広げ、攻められそうな下方黒4子に手をのばし、中央の白地の厚みを消し、左辺白に打ち込みと消しの狙いがあり、一石四鳥の妙手」と評されている。  「耳赤の一手」により老因碩が長考し始め、対局を横で見ていた因碩の主治医が因碩の表情を伺うと、顔面から耳まで赤みをさしており、因碩の苦吟ぶりが察せられることとなった。この時、医師が、「碁の内容はよく判らないが、先ほどの一手が打たれた時に井上先生の耳が赤くなった。動揺し、自信を失った証拠であり、これでは勝ち目はないだろう」と述べたと伝えられている。「耳赤の一手」という名は、このエピソードに由来する。ただし、この手については緩手という評や、「今の一流棋士ならだれでもそこに打つ」(呉清源)という声もあり、評価は一定していない。また、耳赤の一手もさることながら、全局を通した井上幻庵因碩の打ち回しに対しても評価が高い。





(私論.私見)