【れんだいこの日本左派運動に対する提言一括綴り】 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここまで、筆者なりの戦後学生運動史を検証してきた。ここら辺りで、戦後学生運動史検証の纏めとして処方箋を提示しようと思う。これを仮に「れんだいこ提言」と命名する。理論は理論として止まるべきではなく、実践を生まねばならないと思うからである。付言すれば、理論が理論として止まるほうが良い場合は、下手な理論の場合に於いてである。この場合には限って理論は理論に止めておくのが賢明であろう。いずれ理論訂正の為の処方箋が出されるべきで、(全貌はまだ分からないが)オウム真理教の例の如く半端理論のまま先走って実践処方箋を出せばろくなことにならないのは自明であろう。 |
【れんだいこの日本左派運動に対する提言】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「れんだいこの日本左派運動に対する提言」は、次の諸内容で構成される。
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補足(コメント) | 汝自身を知れ |
補足(コメント) | ネオシオニズムに対するそもそもの無知 |
補足(コメント) | 徳球対宮顕、逆転倒錯評価を許すな |
補足(論評) | 戦後日本をどう規定すべきだったか |
れんだいこのカンテラ時評354 | れんだいこ | 2008/01/14 |
【日本左派運動再生へ向けてのれんだいこ提言1−1、日本左派運動は、国際金融資本帝国主義の詭計に陥ることなく、民族主義的土着型運動を復興し新創造し満展開せよ】 | ||
只今より暫くの間、「日本左派運動再生へ向けてのれんだいこ提言」をシリーズでしていくことにする。「提言1、近現代史に於ける日本の民族的独立に誉れを持て」から始めることにする。この見解は、筆者がインターネットに登場して以降に獲得したものであり、比較的新しい。主として太田龍・氏の見解から学んでおり、なるほどと思うので提言しておくことにする。 太田氏の観点から得たのは国際金融資本の裏政府的世界支配論である。識者の多くは、この見立てを陰謀論として却下している。筆者は、これを真実とみなし、国際金融資本帝国主義と命名する。いわゆるレーニン的帝国主義論は、各国ごとの帝国主義を論(あげつら)い、不均等発展に於ける新旧帝国主義の覇権争いの動きを分析しているが、本当に正確な見立てなのだろうか。真実は、各国帝国主義の背後に常に国際金融資本が潜んでおり、彼らが各国政府及び支配階級を制御し、掠奪植民地主義へと誘導し、内乱的革命により各国王朝を打倒し、あるいは懐柔し、戦争資金を用立ては戦争に次ぐ戦争を仕掛け、そのたびに支配権を拡大し今日に及んでいるとみなすべきではなかろうか。 今日、国際金融資本帝国主義の裏政府的国際支配は過去のどの時代よりも進んでおり、巨万の富を集積し、諸々の資源、食料、流通、消費ルートを押え、金融、保険、証券、株式市場をコントロールし、軍事、原子力、宇宙工学の最先端の動きを調御している。グローバル化、ワンワールドは彼らの標語であるが、その支配完成が寸前のところまで至っているとみなす。 筆者は、彼らの支配を支えるイデオロギーをネオシオニズム、その系譜をユダヤ教パリサイ派、その表出権力を米英ユ同盟とみなしている。この辺りになると、太田龍・氏の見解とどこまで一致するのか分からない。そういう意味で、筆者なりの咀嚼の産物であることをお断りしておく。以下、論証する。 近現代史の特徴は、西欧世界に於ける国際金融資本帝国主義即ちロスチャイルド派金融資本の台頭と共に、彼らに世界が操られ、呑み込まれて行ったところにある。こう窺うべきではなかろうか。マルクス的資本主義論、レーニン的帝国主義論は、この実態をそれとして見ずむしろ隠蔽する煙幕的役割を果たしているのではなかろうか。 日本はその趨勢の中で、黒船の到来とともに対応が問われることになった。結果的に、半分召し取られ半分自律的に独立した稀有な国家となり民族となった。世界史を見よ、近代化しつつも独立性を維持した国が日本の他にあるだろうか。幕末維新の偉業はこの面から評されねばならない。最近、幕末維新の偉業を落とし込める理論が流行りつつあるが変調であろう。物事には両面があり、両面から捉えねばならないのではなかろうか。 幕末維新は、上からの武士革命と下からの民衆革命の双方が牽引した回天運動であった。同時にネオシオニズムの走狗達による国家権力簒奪運動であった。両者から構成された倒幕派は最終的に内乱を回避させたが、それは国際金融資本帝国主義の策動を見抜いた叡智であった。こうみなすべきであろう。 回天の結果樹立された明治新政府は、水戸学派的国粋主義糸と西郷派的土着左派系と国際金融資本帝国主義系の寄り合い世帯三派から構成された。故に、明治維新以降の流れは底流で、売国奴糸と独立系が抗争していたという裏史実があるように思われる。 戦前の日本左派運動は、このことに余りにも無自覚なままにやり過ごしてきた。それを思えば、下手なイデオロギーを持たない百姓一揆の方が、あるいは無政府主義の方がまだしも眼目を得ていたようにさえ思われる。西南の役に象徴される士族の反乱、それに続く自由民権運動が押し込められ、代わりにマルクス主義が登場することになったが、いずれも単に西欧に憧憬する欧化主義的なものであり、日本左派運動史上に本当に役立ったかどうか分からない。 戦前のマルクス主義系日本左派運動は、ネオシオニズムに裏で操られるコミンテルン式国際主義運動に随伴してきた。これは戦後も然りであり、明示維新以来続くいわゆる「洋もの被れ」の系譜であった。ここに、人民大衆的支持を今ひとつ取り損ねている原因があるように思われる。そういう意味で、日本人民大衆の賢さを見て取るべきだろう。日本が固有の歴史的発展の中で培ってきた人民大衆的闘争史は卑下されるべきではなく、もっと誇りと誉れを持つべきである。「洋もの」を正しく吸収し、肉付けしていくべきべきである。 このような見地から、我々は一刻も早く在地主義土着型の左派運動を獲得せねばならないのではなかろうか。西欧事象の猿真似をすれば先進的などと気取る必要は一切ない。それらは咀嚼すべき対象であって拝跪するものではない。このスタンスの確立が肝心なのではなかろうか。 日本左派運動史上、在地主義土着型の左派運動の必要に逸早く気がついたのは戦前の転向派であった。但し彼らは概ね、時の支配権力であった絶対主義的天皇制の礼賛に転じただけの機会主義者となった。あるいは、国際金融資本帝国主義の秘密エージェントとして身売りした。 そういう意味で、日本左派運動の正統系譜としては、戦後直後の左派運動を指導して来た徳球−伊藤律系の日共運動を嚆矢とする。但し、徳球−伊藤律系運動の展開時はGHQ統治下にあり、この絶対的な権力の壁を押し切る力はなかった。やがて「50年分裂」を迎え、所感派としての自律的立場を確保したが、朝鮮動乱下の混乱で非合法化されるに及び北京へ逃亡した結果、結局はスターリン式国際主義の権威に服し、中共式革命方式を指令することを余儀なくされた。 この武装闘争が失敗して以来、徳球−伊藤律系運動の灯が消え、以来この系譜は消滅したまま今日に至っている。これを撲滅したのは宮顕であった。彼は、「50年分裂」時、声高に国際主義を標榜し、徳球−伊藤律系の自主独立型運動に敵対した。その宮顕は、徳球−伊藤律系運動破産の間隙を縫って党中央へ返り咲き、1955年の六全協で党中央を簒奪し、その後今日までこの系譜が日共党中央を一手独占し続けている。 宮顕系日共運動は、ソ共と対立し、その後の中ソ対立に対して中共に与し、その後中共とも対立すると云う経緯で余曲折を経て「自主独立」に転ずる。その経緯を見れば、「宮顕式自主独立」は日共の私物化の為に生み出されたご都合主義のものであり、在地主義土着型の左派運動を創出するものではなかった。国際共産主義運動に辛うじて維持されていた共同討議と云う正の面があるとすれば、その正の繋がりさえをもをひたすら破壊に狂奔する悪辣なものでしかなかった。ここに、宮顕式自主独立路線のイカガワシサがある。 しかしながら思うに、日本左派運動の推進母体的地位を持つ日共をして、その動機はどうであれ、「自主独立」に転じせしめたのは功績ではあろう。問題は、正しく「自主独立」し、在地主義土着型の左派運動を担うと同時に、それを軸足にしながら国際主義的連帯をも生み出すべきではなかろうか。ここに現代的左派運動の責務が課されていると窺うべきではなかろうか。 日本左派運動は長らくの間この見地から離れて、戦前の日本帝国主義の非を論(あげつら)い、日帝打倒こそ日本左派運動の責務とする立場でもって左派性を競ってきた。しかし、事はそう単純ではないのではなかろうか。戦後日本国家権力が、国際金融資本帝国主義から自律して独自の権益を張り巡らした帝国主義的史実はない。戦前も然りであったが、国際金融資本帝国主義によって育成され、その枠内で活動しており、今や使い捨てにされようとしている脆弱なものでしかない。 我々は、幕末維新から明治維新を通して日本が東アジアに於ける最初の近代化を為し遂げたことを正と認め、その背景に日本民族のしなやかな叡智があることを見て取らねばならない。これを称賛せねばならない。同時に、その成果が、国際金融資本帝国主義への身売り派によって捻じ曲げられ、東アジアに於ける帝国主義国家として成育せしめられ定向進化せしめられていった挙句召し捕られたことを見て取らねばならない。最新の研究はこのことを明らかにしつつある。 この観点を共有するならば、 日本左派運動が矜持とする立場は、第一に反国際金融資本帝国主義運動であり、今日的にはイスラム運動と連帯することになる。第二に幕末維新期以来の正の面としての人民大衆解放運動を見据え継承すべきであろう。我々は権力一般を忌避するのではなく、権力をして抑圧機構から転じて正しく善良せしめる官民共同の共生装置へと転換せしめるべきであろう。可能な限りこれに向かうべきであり、各戦線でこれを為すべきである。 この運動は空疎な国際主義に基くものであってはならない。国際主義−ワンワールド運動は、国際金融資本帝国主義の奏でる詭計イデオロギーであり、騙されてはならない。各国各民族は固有の文化と歴史を継承しつつ、ネオシオニズム的選良主義、排他主義、独善主義に汚染されることなく、正しく諸民族協和の国際主義の水路を生み出さねばならない。これを為す為に「精神の自律、政治の自律」を勝ち取らねばならない。「精神の自律、政治の自律」なきのっぺな国際主義は究極ネオシオニズムに繋がる悪しきそれであることを知らねばならない。 以上より、「日本左派運動は、国際金融資本帝国主義の詭計に陥ることなく、民族主義的土着型運動を復興し新創造し満展開せよ」を指針させる。これを第一指針、第一提言としておく。 昨今の日本政治を見よ。国会に巣食う与野党ともどもの馴れ合い談笑政治の貧困を見よ。議員貴族達による田舎芝居ばかりではないか。一見善政と見える要求あるいは施策でも、手前の懐が痛まない限りの無責任なものでしかない。このご時勢で更にとめどなく軍事防衛予算を注ぎ込み、自衛隊の武装派兵を積み重ね次第に常在化させつつある。 他方、これほど内地が荒廃しつつあるのに口先だけでしか顧みようとしない。真に有益な公共事業が見送られ、明日の活力からみてどうでも良いような利権事業、国家の補助金稼ぎに勤しんでいる。国家も家計も財政が悪化しつつあり、政治がこれに有効な対応を為し得ない。その癖引き続き国際金融資本の御用聞きに精励している。全く馬鹿馬鹿しい限りではないか。 この連中にはこの程度の事しかできないのであり、我々が権力を握り政治を為すべきである。その為に何を為すべきかのグランドデザイン作りに向かうべきである。左派能力の脳髄を絞り英明な政策指針を打ち出すべきである。道中で例え国際金融資本の走狗にテロられようとも、次から次へと人士が輩出しよう。歴史というものはそういうものである。人は齢五十を過ぎればそのように立ち向かうべきである。そう思う。以上を「提言1」としておく。 高橋和巳が、「生活に根ざし生活の中からにじみ出る果汁のように思想は形成されるべき」と述べているとのことである。まことにその通りではなかろうか。日本左派運動は未だにここに至っていない。 2008.1.14日、2008.4.2日再編集 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評224 | れんだいこ | 2006/10/16 |
【提言1−2、「在地型社会主義」考】 | ||
今、といっても2006.10.16日だが、筆者が齢56歳を越えて思うことは、日本の左派運動がそもそもに於いて在地型社会主義を目指していれば、今よりはよほど良い政治的影響力と党派を形勢し得ていただろうということである。この点で、我が日本左派運動は致命的な間違いを犯し続けてきた。在地型を捨象して国際主義を標榜して見ても、純粋抽象型の国際主義なぞどこにも在りはしない。赤軍派の経験はそれを物語っていよう。あるいはエスペラント語の興亡がそれを証していよう。 とりわけ、戦前に於けるコミンテルン運動拝跪型の日共運動は、今となってはソ連邦やコミンテルン運動の正体が知れておるからして分かり易いが、決して真に左派的なものではなかった。しかし如何せん情報不足というのは怖い。当時の活動家は、マジメであればあるほどコミンテルン運動に真紅性を見出していた。渡政の悲劇がここに見て取れる。その他諸々多くの有能の士がこの倒錯のまま治安維持法体制にヤラレテシマッタことは惜しいことである。 しかし、戦後の左派運動も本質的には何も変わっていない。或る時からコミンテルン(コミンフォルム)運動拝跪型から転じたとはいえ、国際主義の理想を求める者は、それに代わる何ものかを求めて、結局は叶わなかった。国際主義の理想を捨てた者は、1955年の六全協後の日共を見ればよい。野坂といい宮顕というトンだ食わせ者に拝跪する王朝運動に屈してしまった。或る者は体制内化してしまい、或る者は反共の闘士として八つ当たりする者も出る始末となった。 筆者は今思う。端から在地型社会主義を目指していればかような失態に出くわすこともなかったのではなかろうか。一番肝要なものを求めないで、何故脇道を散策することに耽るのか、解せないことである。我々が目指す社会主義はそう難しい原理ではない。人はエゴイストとして人生するのか、共生を志向するのかだけのことである。生産力と生産性の向上は必然的に社会化を要請する。そういう時代に合わせた社会の在り方を追求しようというだけの至極真っ当な欲求である。それならそれで、急ぐかゆっくり歩むかは別としてそれを目指せばよかろう。 そういう運動をかれこれ百年費やして、少しも事態が進展しないのはオカシ過ぎやしないか。それが筆者の疑問である。仮に、徒歩で東京向けて出発してもいつしか辿り着くだろうに。乗り物に乗ればよっと早く辿り着くだろうに。それが辿り着かないのは、東京へ行こうとして反対方向へ歩を向けているからではないのか。あるいは組織の指導者が、そういう風に逆指導しているからではないのか。そう思えば思い当たる節があるというのが筆者の気づきである。 筆者が学生時代の1970年代の東京の政治状況は、これを選挙運動で見れば、共産党と公明党の伯仲時代であった。否、やや共産党の方が優位であったかも知れない。あれから30数年、事態はどうなったか。池田大作及びその指導する創価学会ー公明党は着実に組織を伸ばしてきた。あたかも一歩一歩東京へ向けて歩み出し、とうとう東京へ辿り着いたかの如くである。公明党の目下の与党政治の在り方は、まさに愚劣でしかないが、権力へ向けて歩を進めそれに成功したのは疑いなかろう。これは、極端に言えば、誰がやってもそうなるのではなかろうか。 その誰がやってもそうなるのがそうならないとしたら、どこかオカシイということに気づくべきだろう。これを指導者論で見れば、野坂や宮顕や不破やその取り巻きの責任ということになるが、彼らがやってきた仕業を判じて見よ。紅い心は元々なくて異邦人が紅い心を演じて党中央を占拠し続けてきているからそうなるのではないのか。平素は紅い言葉をたまには述べるが、一朝事あればせんでも逆指導ばかりに夢中になってきたのではないのか。その挙句が、かくも惨めに創価学会ー公明党勢力にひけをとっているのではないのか。 その際立つ特徴は、弁舌が二枚舌、否マルチ舌にある。ああ云えばこう云うで有名になったオーム真理教の上祐なぞまだ可愛いというべきだろう。中学生と大人ほどの格段の差がある。そういうことをはっきりさせるには、彼らが歩んできた党史を見ればよい。が、彼らが作った党史がこれまたマルチ舌で脚色されているので、下手に読めば却って阿呆にされてしまう。そういう訳で、筆者が能う限りの資料を収集しつつある。そして、筆者なりのコメントを付しつつある。 そういう作業から滲んできたのが、筆者の気づきの確かさである。筆者が20歳過ぎから数年間、かの運動と関わり、抱いた疑問の確かさが確証された。これをどうするか。筆者の自己了解に留めるのか、世に晒すのか、積極的に述べ伝えるのか。さしあたりは、サイトに公開することで役目としようと思う。 みんな僅かばかりの余生を過ごしている。どう生きるかは銘々の勝手である。筆者は、類縁の友と語り続け、何がしかの世への貢献ができればそれで本望と思っている。あと何年生きられるか分からないが、生ある限りはそうしようと思う。とまぁ思うままを書き付けてみた。 2006.10.16日 れんだいこ拝 |
【提言1−3、自主自立型の左派運動を創造せよ】 |
もう一つ訴えたいことがある。これが、戦後革命は流産して良かったと思う根拠になっている。筆者は今、戦後学生運動が本当の敵と闘わず、或る時にはその下僕となって利用されて来たことに気づいている。通り一遍な政府批判、社会批判、体制批判は、それ自体にはさほど罪はない。それは、自身と社会、歴史との距離を測る意味で有益なことであった。しかし、各国の政府、社会、体制を裏から操作している本当の敵が居るとしたら、その者との闘いに向かわなくては不正であろうに、向かわなかった非を見て取る。ましてや、その黒幕に利用されるをや。 この史観は、既に幾人かが指摘しており、現代では太田龍・氏の謦咳に接することができる。筆者は、太田龍史観に学びながら、自力でも補強しつつある。日本左派運動には未だにこの太田龍−れんだいこ史観的観点が確立されていないように見受けられる。それには深い理由があり、日本のみならず世界の左派運動が、現代世界の黒幕の裏からの手足となって役目を果てしている形跡がある。これを左派運動の呪縛と看做せる。しかし、それは左派運動の自絞殺でしかなかろう。 そういう意味で、そろそろこの辺りで何としてでも、左派運動の原点から理論と実践を問い直し、軌道を転換せしめねばならない。これが、筆者の左派運動検証論の眼目であり、学生運動検証の主たる動機となっている。その他はノスタルジアである。 多くの者が今、日本左派運動を捉え返そうとしてはいる。だがしかし、日本左派運動の牢とした転倒を凝視し、これを鋭く衝かない限り、傷口を舐めあう、聞いても所詮甘えたものにしかならないだろう。そういうものはないよりはましではあるが二番煎じ、三番煎じ以上のものにはなるまい。 我々は、これまでの運動を検証し、自己否定しつつ出藍する勇気と目線を持たねばならぬ。これをやり遂げて初めて新たな視界が広がるだろう。本来辿り着くべきだった原野に佇むことになろう。これを筆者の諫言としておく。 2008.3.26日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評355 | れんだいこ | 2008/01/15 |
【提言2−1、戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと確認し、今からでも遅くない護持成育 せしめよ】 |
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日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を指針させたが、指針2として、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより、護持成育発展を指針する。これも議論を呼ぶところであろう。 我々は長らくの間、マルクス主義の俗流的教条により、戦後憲法秩序をブルジョア体制と評し、これを転覆せしめての社会主義−共産主義への革命的転換を標榜してきた。通念化した理論であるが、これを疑う必要があるように思われる。結論を先に述べれば、「戦後憲法秩序=ブルジョア体制論」は理論の貧困によりもたらされた誤認識ではなかろうか。 筆者は、「共産主義者の宣言」(一般に「共産党宣言」と訳されている)の英文テキストに基く翻訳により、市井の訳本の拙さと意図的故意としか考えられない誤訳悪訳を指摘している。これについては、詳論「共産主義者の宣言考」に記す。 (marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen.htm) 筆者は、この種の研究が一向に為されていないことが不思議である。ましてや「共産主義者の宣言」と云えば基本中の基本テキストだろうに。 筆者訳から判明することは、歴史の偶然なのか意図的に導入されたものなのかは分からないが、マルクス−エンゲルスが同書で指針させた「革命の青写真」即ちプレ社会主義的政策指針の大部が、戦後日本社会にそのまま適用されているという驚きの事実である。戦後憲法が採択公布された時、日本左派運動に理論的知者がいれば当然、これをプレ社会主義憲法と認め、遮二無二その護持成育発展を目指したはずである。が、史実はそのように受け止めなかった。安逸なブルジョア体制批判運動に耽っただけだった。 こういう次第だからして、戦後日本左派運動はそもそもオカシゲな役立たないヘンチクリンな方向に向かうことになった。穏和系の社共は、戦後憲法秩序をブルジョア体制と認識したまま、まずは民主主義革命を遂行するのが優先だとして議会主義的な反政府運動を専らとし合わせて護憲運動に向かうことになった。護憲という面では辻褄は合っているが、その真意には、社会主義−共産主義運動を当面の目標にせずむしろ排斥するという、口先はどうであれ革命を遠ざける意図が込められた運動でしかなかった。つまり、社共運動は本質的に当局に投降迎合した体制的なものであり、無責任なアリバイづくりだけの口先批判運動に堕したものでしかなく、護憲運動も叉防御的なものであった。 問題は、これを否定出藍しようとした新左翼系運動がどのようなものであったかにある。彼らは、戦後憲法秩序を教条主義的にブルジョア体制と認識することにより、戦後憲法秩序をブルジョア秩序の偽装とみなし、その権力的本質を引き出すという戦略戦術で否定破壊運動するところまで定向進化していくことになった。それを支えるエートスが社会主義−共産主義的理念であり、この善運動の正義のためには何事も許されるとしてきた。暴力主義的体質はここに胚胎しているように思われる。 この種の運動が急進化せざるを得ないのは自明であるが、権力と対峙して行使される場合にはある種認められようが、戦後憲法秩序のプレ社会主義性に対する暴力的破壊に向かうとなると考えものであろう。この種の運動が革命的であったかどうか疑わしい。むしろ単に観念的善運動でしかなく、実際に為したことは反動的であったかも知れない。 思えば、新左翼が共感を得たのは、60年安保闘争時の第1次ブント運動のタカ派岸政権の反動的 施策に対する果敢な闘争に対してであり、70年安保闘争前の全共闘運動のハトタカ混淆的佐藤政権 の対米盲従ベトナム政策に対する果敢な闘争に対してであった。人民大衆は、プレ社会主義的戦後秩序の破壊者に対する抵抗を願望しており、新左翼がこれに闘う姿勢を見せた時に共感したのであり、彼らの理論に共鳴したものではなかろう。なぜなら彼らの理論は独善的思弁的でかなり難解な辟易するだけのものでしかないから。 筆者は今はっきりと分かる。新旧左翼両者が戦後憲法秩序をブルジョア体制と評してきたことそのことがそもそも誤りなのではなかろうか。戦後憲法秩序は世界史上稀なるプレ社会主義性のものとして認識し称揚していくべきではなかったか。これまでの運動は、本来のこの歴史要請に対して正面から向かいあっていないのではなかろうか。 皮肉なことに、戦後憲法秩序をプレ社会主義と認識したかどうかは別として真に護持成育せしめてきたのは、戦後与党を形成してきた自民党の主流派を一時期形成したいわゆる保守系ハト派であった。これに人民大衆が広範に列なった。池田−田中−大平政権下の施政が特に顕著であったが、彼らが戦後憲法秩序に即応した政治を舵取りしたところに世界史上稀なる経済復興と高度経済成長が獲得されたのではなかろうか。今から思えば善政時代であったのではなかろうか。 但し、その政治も左右両翼から挟撃されて、1976年のロッキード事件勃発とともに始まったハト派からタカ派への戦後保守主流派の政権交代により終焉する。タカ派の政権奪取とともに日本は失速し始める。その要因は、タカ派が戦後憲法秩序に具現されたプレ社会主義秩序及び機構及び精神を破壊解体せしめ始めたからである。この国益を損ない、国際金融資本の下僕と化してきたからである。 タカ派のらしさは、ハト派が優先してきた内治主義的な公共事業を抑圧し、外治的な軍事防衛事業への散財に認められる。興味深いことに、宮顕−不破系日共の公共事業抑制論は、社会福祉費増大を要求しているものの、タカ派的公共事業抑制その代わりの軍事防衛国際責務論と通底していることである。この両者は、ネオシオニズム論を介在させると裏で共同していることが透けて見えて来る。 タカ派は、「提言1」で指摘した国際金融資本の御用聞き政治を専らとしており、対外的には米英ユ同盟の腰巾着外交を繰り広げ、自衛隊の海外武装派兵で「米英ユ貢献」に勤しみ、国内的には善政の産物である年金制、医療制、均等社会、内治主義的公共事業制を破壊し、つまり国際金融資本帝国主義の願う通りの売国奴政策に精勤している。これが現代日本政治の本質であり、お粗末さの原因である。民主党の政権交代論が、これに抵抗するものならともかく、この政策延長上での政権争いに興ずるだけなら何の意味もなかろう。 筆者は、このように見立てする。とならば、自ずと結論は次のようになろう。日本左派運動の採るべき道は、タカ派の売国奴政策と太刀打ちし、憲法改正策動を許さず、戦後のプレ社会主義を護持生育せしめ、この地平からの後退を全戦線で阻止せよ。むしろ逆攻勢的革命的護憲運動に向かうのが筋と云うものだろう。 思えばこの点に於いて、日本左派運動の新左翼系が掲げた理論は一切虚妄なものではなかったか。これに比して、社共運動が一定の支持を受けてきたのは、戦後憲法秩序の護持ゆえではなかったか。今新左翼は、このことを悟るべきだろう。ここから導き出される結論は次のようになろう。社共的弱弱しい護持運動ではなく、プレ社会主義論に立脚した戦闘的護憲運動を展開せよ。 以上より、「日本左派運動は、戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し、護持成育せしめよ。これを第2指針とする。これにより、戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し、護持成育せしめ、第1指針の民族主義的土着型運動と結びつけよ」が指針される。これを「第2提言」としておく。 2008.1.15日 れんだいこ拝 |
【提言2−2、「戦後日本=プレ社会主義」こそ始発の原理にせねばならない】 |
今、筆者は、戦後学生運動の歴史を振り返り、筆者も参加したその運動を見つめ、今日の惨状に照らす時、或る種の感慨を抱いている。一つは、戦後左派運動が戦後革命を流産させたことについての感慨である。二つ目は、戦後革命は流産して良かったという感慨である。前者の意味では日本左派運動の能力が問われており、後者の意味ではその識見が問われている。戦後左派運動は、この両観点に於いて失敗するべくして失敗したとの感慨を湧かせている。以下、この感慨を検証していくことにする。 筆者は、戦後革命の失敗理由その1として、そもそも「戦後日本の歴史的社会的規定」を誤っていたのではないかと考えている。戦後日本を、ステロタイプ的なマルクス主義的歴史理論と資本制社会論で概括し、よろず反権力、体制否定に向かったのはマルクス主義理論の硬直的機械的当て嵌めではなかったか。 日本左派運動は、その程度の頭脳しか持っていなかった為に、それを覆い隠すためにに小難しく語り、あるいは空元気な大言壮語ないしはそれに基づく行動のみを競ってきたのではなかろうか。こう受け止めないと、2008年現在の政治貧困が解けない。 事実は、戦後日本は、これを相対的に見れば日本史上に於いても世界史上に於いても稀なるプレ社会主義的な社会状況を創出していた。それは、独特とも云える日本史の和的発酵的発展史の伝統にも合致していた。かく認識し、そのプレ社会主義を強めるのか弱めるのかを廻って、権力側に立つ派と人民大衆側に立つ派との綱引きが行われることが期待されていたのではなかったか。 この時期、日本左派運動は、何としてでも権力を奪取し、ロシア型マルクス主義とは違う日本型マルクス主義により戦後社会のプレ社会主義制を踏み固め更に創造発展させていくべきであった。その可能性が大いにあったのに、その政治責任の重圧を引き受けようとせず、徒に安逸な体制批判運動に終始したのではなかったか。 左派運動が健全であり有能ならば、人民大衆側に政治を引き寄せ政権を奪取し政治責任を引き受けるべきではなかったか。ロシアのように、中国のように。そしてロシアとも中国とも違う日本的革命方式に於いて。実際には、敗戦により進駐軍と云う名の国連軍という名の国際金融資本の傭兵に過ぎない米軍の統治下にあり、決して叶わない重圧下にあったのではあるが。しかし、少なくとも理論としてはそう構えるべきであっただろう。今にしてそう思う。 これが問われていたときに、戦後日本左派運動は、徒な反権力、体制批判運動に終始し、政権奪取に向かわない、担わない、つまり政治に責任を負おうとしない、左派ポーズ的気取りに過ぎぬ、あらぬ運動に横ズレした運動に向かったことで、運動史を蓄積せぬまま単に費消させていったのではなかろうか。 これを善意に窺えば、当時は、ロシア10月革命に続く日本革命を夢見ており、ロシア10月革命を憧憬するのに忙しく、戦後日本革命を引き受け担うには能力も責任感も無さ過ぎたということになるのだろうか。後付けで見えて来る話ではあるのだけれども。しかし、後付けであろうが見えてこないとどうしようもないではないか。 2008.3.26日、2008.7.2日再編集 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評356 | れんだいこ | 2008/01/17 | |
【提言3、国有化経済理論を否定し、戦後日本に結実した市場性社会主義経済論に転換 せよ】 |
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日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより、護持成育発展を指針させたが、指針3として、「国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動は明治維新過程の自由民権運動の失速以降マルクス主義を導入し、今日まで長らく理論的主柱としてきた。マルクス主義の功罪の総合的研究はさて置き、ここでは次のことを指摘しておく。俗流派が拝戴し教条としてきた国有化理論をマルクス主義のミスリードと認め、これを否定すべきではなかろうか。もう一つの考え方として、マルクス主義的経済体理論は本来、国有化論を本質としておらず、正しくは社会化理論であったと理解すべきではなかろうか。 これを夙に早くより指摘していたのは広西元信氏であった。広西氏は、1966.12.1日初版で「資本論の誤訳」(こぶし書房、2002.3.30日再初版)を世に問うている。同書で、所有と占有概念の違いを識別し次のように指摘している。
これについては、詳論「市場性社会主義論について」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/marxismco/marxism_shijyokanriron.htm)に記す。 この広西見解は長らく無視されてきた。しかし、ソ連邦が崩壊し、「市場主義的社会主義論」が生み出されつつある折柄にあってはその先見の明を高く評価されねばならない、と筆者は考える。この見地から、レーニンが晩年に気づき指針したネップ理論が大いに検証されねばならないと考える。筆者は、広西氏のアソシエーション理論を「市場主義的社会主義論」の一形態とみなすが、最近はしゃいでいる日共不破の「レーニンと市場経済」は「市場主義的社会主義もどき論」に過ぎず、単なる現下資本主義の修正主義でしかないと思う。 不破理論の特質はいつでも、問題の在り処を探る才には長けているものの、その考究と称して幅広い知識を提供するところまでは良い。しかし結局は、マルクス、エンゲルス、レーニンらの言説を捻じ曲げつつ有害無益な右派的理論に到達させてしまうのがいつもの遣り方である。従って、不破理論に対しては、知識を得るところと見解を押し付けられるところとの境目をはっきりさせ、知識を検討し不破見解的箇所は却下せねばならない。不破見解を鵜呑みにするとあらぬところへ誘導される。彼はこの手のマジシャンである。 全産業、業種の生産及び流通結社の国有化は俗流マルクス主義政策であり、正しくは官民棲み分け及び重要産業に於ける基幹的官営企業による官的采配とそれを取り巻く民営企業との正しい連携こそ、本来の社会主義的経済体理論であったと窺うべきではなかろうか。 興味深いことに、戦後憲法秩序に於ける重要産業及び分野に於ける親方日の丸企業とその衛星的民間企業、その他産業及び分野に於ける民営化こそが、本来の社会主義的経済理論であり、戦後経済秩序はこれを地で執り行っていた素晴らしい制度であったことになる。そういう意味で、最近の親方日の丸企業の徒な民営化は逆行であると云わねばならぬ。中曽根−小泉的民営化路線は、この観点からも批判されねばならないところだろう。 以上より、「日本左派運動は、切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、戦後日本に結実した市場性社会主義経済論に転換せよ。これを第3指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動と結びつけよ」を指針する。これを「第3提言」としておく。 2008.1.17日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評357 | れんだいこ | 2008/01/18 |
【提言4、統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ】 | ||
日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより、護持成育発展を、指針3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を指針させたが、指針4として、「日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動が受容したマルクス主義の悪しき俗流化として国有化理論のほかに統一戦線論がある。筆者は、統一戦線論の吟味以前に「統一」という文言に拘る。世上で「統一」という言葉が用いられる際は、大抵ろくでもない発想に基いていると思えば良かろう。 この文言は左派運動には本来無縁の用語であるのにいつのまにか導入され、我々が無自覚なまま通用させてきた経緯がある。筆者が以下立論するが、それでもなお「統一」表現に拘り続けるとしたら俗に云う「漬ける薬がない」か意図的故意悪意で用い続けているかのどちらかになるだろう。 統一戦線論の由来は、生硬な急進主義的マルクス主義運動が社会民主主義運動排撃論を生み出した反省の上に立って代わりに登場してきたものであるが、これにより直接の党派運動の展開を控える代わりに非党派的つまり無所属を装う人民戦線的運動が生み出された。統一戦線論とは、この運動指針論のことを云うように思う。 しかし、筆者には臭い話でしかない。統一戦線論は、革命の前衛としての党派運動を隠しているだけで、大衆運動的に見せかけてその実、その手綱は常に党にあるべしという妙な理論でしかない。衣の下に鎧が見えており人民大衆を馬鹿にしている。互いの党派がこれをやるとどうなるか。姑息なだけのことでしかないのではないのか。それと、歴史的ユダヤ教パリサイ派の得意としてきた陰謀的秘密結社の得意とするカムフラージュ理論と良く似ていると思うのは筆者だけだろうか。 筆者は、この種の運動をマジに掲げる党派の感性が信じられない。本来ならいっそのこと堂々と共同戦線論として打ち出すべきところであろう。それなら納得する。各党派も党派的利益は差し置いて、運動の利益を主眼にするべきであり、その運動を通じて切磋琢磨し揉まれるべきではないのか。それで不満な面は、党派の直接の運動で補完すれば良かろう。党派独自の運動を世に大胆に提起できないとしたら、そもそもイカガワシイ話ではないか。問題は、どちらもやれば良いだけのことではないのか。 直接的な党派運動が非合法の場合も何ら事情を変えない。どちらもやれば良い。それだけのことである。直接的な党派運動が合法の場合にはなおさら直接的な党派運動を目指すべきだし、他党派及び大衆団体と組むなら共同戦線でやれば良い。それだけのことであろうが。それを敢えて統一戦線でやろうとし、党派的基準を持ち込むところが胡散臭い。 統一戦線論の素性は哲学的にも思想的にも組織論的にも運動論的にも怪しい。統一と共同の間には元々千里ほどの間がある。共同戦線論を生み出すべきところを敢えて統一戦線論を押し立ててきたというのが真相であり、何ゆえにかような方法が持ち込まれたのか訝らねばならないと思う。統一戦線論はどこかに司令塔的センター基地を控えさせており、タガハメされている。それはあたかも薄っぺらな国際主義論が国際金融資本帝国主義の奏でる詭計理論である事と通底しているように思える。各派が対等でない裏の仕掛け人が居るということである。我々はかような統一戦線論と早急に決別せねばならぬのではなかろうか。 次のように見立てることもできる。現代史を紐解く精神的エッセンスはルネサンスの精神であり、これを保持するかどうかで文明度が推し量られる。ルネサンスの洗礼を受けた者が近代以降の歴史の正統な継承者であり、これを弁えぬ者は、個人であれ組織であれ党派であれ旧人であろう。つまり、近代ルネサンスの洗礼リトマス試験で正反応しないのは封建的君主的秩序派であり、反応するのが開明的議会的秩序派とみなすことができる。 これに照らせば、社民排撃論にとって代わった統一戦線論の素性も相変わらずの封建的君主的秩序の範疇のものであり、我々が受け入れる訳には行かない種のものである。本来必要なことは、組織の内も外も運動のそれも政権取る前も後も共同戦線で邁進すべきである。何事もぼちぼちやれば良いのだ。端からこれでやっておれば今頃の政治情勢は今よりは随分先へ進んでいるだろう。 共同戦線論は当然、参加団体のサミットを要請する。その場で喧々諤々すれば良かろう。粘り強く何度もやれば良かろう。ここに能力が問われている。そして共同行動すれば良い。足らずは相互に自前の党派運動で補足すれば良かろう。日本左派運動は、世界のそれもそうかも知れないが、こういう能力を持っていない。この能力を獲得できないうちは革命なぞできっこないだろうし、下手な革命なぞ起こして貰いたくもない。こういうことも云っておきたかった。 以上より、「日本左派運動は統一戦線論を否定し、よろづ共同戦線論に転換せよ。これを第4指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換理論の創造と結びつけよ」を指針する。これを「第4提言」としておく。 2008.1.18日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評358 | れんだいこ | 2008/01/18 |
【提言5、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよ】 | ||
日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を、指針3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を、指針4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよを指針させたが、指針5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよを指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 先に外へ向けての統一戦線論の胡散臭さを指摘したが、内へ向けての党中央権限集中制論が呼応していると思われるので、これも批判せねばならない。党中央権限集中制下での団結とか統一の過度な強調は、党中央拝跪主義を生むだけのことではなかろうか。実際にはそうは云わず民主集中制なる素敵な用語を生み出しているが、規約を改正していけば容易に党中央集中制論へと辿り着くことになる。実際に党中央拝跪主義でしかない民主集中制論が振り回されており、日本左派運動が大きく毀損されてきたことは承知の通りであろう。 彼らは何ゆえにかような組織論に固執するのであろうか。目前に決戦的な闘争が控えているのならある種の有事対応として考えられないこともないが、日共的なずぶずふの体制内化議会主義運動に何の必要があろうか。為にする強権支配以外の何ものでもなかろう。 党中央見解及び指導に対する異論、異端は常に担保されるべきであり、堂々と開陳されるべきではなかろうか。筆者は、最低限綱領さえ一致するなら分派(派閥)さえ容認されるべきと考えている。組織と云うものは元々そういうものだと考える。各派閥が前提されてこそ民主集中制論が真に生きるのであり、戦後自民党のハト派が主流時代に模範的な党運営をして見せた史実がある。つまり、できない訳ではない。能力の問題であろう。 左派運動内に機能する民主集中制論はそういうものではなくて、党員が一枚岩的に党中央に列なるべしという恐ろしい整列衛生理論として鼓吹されている。これにより、異論、異端、分派一切が極端に制約され、封殺され、禁止され、撲滅されてきた。イカガワシイ話しではなかろうか。それを思えば、組織論、運動論の両面からこの悪しき理論を追放せねばならないであろう。 更に云えば、党中央に対する盲目的服務こそ左派運動にそもそもあってはならない原義矛盾ではなかろうか。我々が社会運動に目覚めた際、自由自主自律的な自覚に基いて眉目を開いたのではなかったのか。ならばそれをどこまでも貫徹するのが筋だろう。それをどこで間違えたか、どう云い含められ納得したのか分からないが、いつのまにやら反対物を信仰し始めているのは滑稽であろう。 理論には異論、異端がつきものであり、組織には分派の発生は当たり前のことであり、その上での結社であろう。結社と云うものはそういう類いのものではないのか。自由自主自律的な結社にして組織も運動もしなやかになるのであり、真の団結になるのであり、能力者を呼び込み、互いの練磨で組織も運動も質が向上し、大きなうねりを作り出す。いわば「自由自主自律規律」は虎の子の元手である。これを捨てたら、ありきたりの権力的凡庸なものにしかならないのではなかろうか。反体制運動が権力的凡庸なものに被れる事は原理矛盾ではなかろうか。 そのような組織、運動への拝跪を要請したり受諾するのは、学んで馬鹿に成る典型であろう。異論、異端、分派を取り込めないような組織なり運動なら止めてしまえ。もっとも世の中複雑だから、組織潰しで送られてくる連中も居る。こういう場合には別基準が要るだろう。そういう意味で、「紅い心」の仲間同志ならと云う条件にしておこう。但し、これを誰が判定するのかを問わねばならず、下手をすると振り出しに戻ってしまう。何事も大事なところが難しいとしたもんだ。ここに智恵と能力と分別が要る。 内部がそのように形成された党派にして初めて外部に輝き始め、次第に外へと運動が迸(ほとばし)り始め、しこうしてそれは共同戦線論となり、多くの勢力を糾合せしめ、一大政治運動に発展するのではなかろうか。そういう意味では内の論理も外の論理も相似形であり、内輪の在り姿が外にも表出すると分別するべきではなかろうか。 「党中央の云うことはその通り」的組織、運動ほど詰まらなく、左派運動を壊すものはあるまい。組織ないし運動に於いて異論、異端、分派は芸の肥やしであり、むしろ尊重せねばならないというのが、そもそもの近代精神の始まりなのではなかろうか。これはあらゆるところに通用するし通用させねばならない法理ではなかろうか。「内で強権支配、外で民主主義擁護」を云う手合いほど信用できないものはなかろう。これが通用しているから嫌らしい。 実際、日本左派運動史に於いて、戦後直後の党運動を指導した徳球−伊藤律系運動はこれを踏まえていた。かの時代、党大会に対案が堂々と提起されていた事を思えば。徳球がオヤジと愛唱され畏敬されたのは、宮顕の云うが如く家父長制の然らしめたものではなく、組織論的懐(ふところ)の深さに対して敬愛された表現であったと窺うべきだろう。(「日本共産党戦後党史の研究」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi.htm)の該当箇所で確認すれば良い) それにしても宮顕−不破運動は、無茶苦茶な党組織に改竄してしまったことよ。 以上を踏まえ、次のように見立てねばならない。統一と共同、強権と民主は大きく食い違って対立しており、別の表現で云えばロゴスとカオスの差でもある。ロゴス派は、この世を万事に於いて神=真理的な整理序列化に向かう癖がある。ロゴスを専らとする最強勢力は、かのユダヤ教パリサイ派であり、かの昔イエスが果敢に批判し続け処刑された。 ロゴス論理は現在的には国際金融資本が依拠する哲学でありイデオロギーである。この連中は去る日「シオン長老の議定書」で意思統一し、陰謀とテロルを得手としながら以来着々と世界を席捲しており、巨万の財貨を積み上げ戦争とシオニズム革命に勤しんでいる。その手法が今や地球環境を破壊するところまで定向進化しつつあるというのに為すすべを持てない。我々は一刻も早くこの汚染から脱出し、対抗力を生み出し、彼らの時代を終わりにせねばならない。 世界の諸民族は、彼らを除けば概ねカオス派である。カオス派は絶対的定言を持たず、森羅万象から筋道を読み取り、それなりの倫理道徳を生み出し折り合いをつけながら暮らし、互いにそこそこの付き合いをしていくという弁えを持っている。それは自然との関わり方も然りである。この暮らし方でどこがオカシかろう。ユダヤ教パリサイ派を除けば殆どの部族民族が共生し得る。昔からそうしてきた。交易も然りである。無数のシルクロードを生み出してきたではないか。それで良いのではないのか。 我々が尊ぶべきはカオス派的秩序であり、ロゴス派的絶対真理の如意棒ではない。さような棒を振り回して「我は正しい。選ばれた民である。君は我になびけ。さすれば名誉と地位と権力を与えよう。下につく者にはそこそこの生活を与えよう。我に刃向かう者は徹底して殲滅してみせよう」などと云いながら、これを行う者は理論的狂人である。その狂人が現代世界を支配、テロリスト退治を声高にし無慈悲な人民大衆虐殺に興じている。その論に同調する者がまま居るのが現実だがオゾマシイ。今や世界史は、この狂人派を押さえ込む知性を獲得し、彼らを如何に制約し矯正し共生するのかが望まれている。これが時代のテーマであろう。 考えてみれば、党中央は、指針打ち出し権、人材登用権、財務及び予算権を握っている。それで充分満足すべきだろう。その上何を欲張ることがあろう。異論、異端、分派が発生するのは当然と弁え、後は指導能力で牽引すればよい。その能力のない者あるいは邪な者が権力棒を持ち出すのではないのか。そして万年同一系執行部をん十年にわたって作り上げている。どれもこれもオカシイ。 以上より、「党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよ。これを第5指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換理論を創造せよ、第4指針の統一戦線論を否定し、よろづ共同戦線論に転換せよと結びつけよ」を指針する。これを「第5提言」としておく。 2008.1.18日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評359 | れんだいこ | 2008/01/20 |
【提言6、「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念と して理解せよ】 |
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日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を、指針3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を、指針4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよ、指針5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよを指針させたが、指針6で、「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動は、世界のそれも同じであろうが長らくの間、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を小児病的に弄んできた負の歴史を積み重ねているように思われる。ロシアのポルシェヴィキ派の運動はその典型で、まさに好んで軍事的暴力で政権を奪取し、次第に一党独裁化させ、政敵を捕まえては反革命の烙印を押す事により安逸に葬ってきた。結果的に求めたものの反対物に帰着させてしまった。 ロシア・ポルシェヴィキの場合、大綱が正義運動であると見なされた故に大目に見られてきたが、今日その実態が明らかになるにつれオゾマシサが露見しつつある。この悪癖が世界の左派運動に伝播したか、政権取らぬ前から暴力的独裁的運動を稽古し、そういうスタイルを革命気取りする風潮を生んだ。これ負の歴史と見据え、そろそろ客観化し俎上に乗せねばならぬのではなかろうか。 どうしてこのような事が起こったのだろうか、筆者は考えた。思うに、かの暴力的独裁運動は歴史的にユダヤ教パリサイ派の伝統芸であり、近代ではネオシオニズムを自己形成しているが、その影響が濃厚に認められる。これが本筋であろう。が、これを受容した側のお粗末な理論レベルにも問題があるのではなかろうか。彼らは、暴力革命論の「暴力」、プロレタリア独裁の「独裁」を、哲学的政治的革命的次元の概念用語であることを弁えず、彼らの能力に相応しく字句通りに理解して盲目的に従順してきたのではなかろうか。この間違いに起因しているのではなかろうか。 暴力革命論の暴力とは本来、対象とするものの変革を、所定の手続きを踏むと長期間要するものを強行強力的に一気呵成に遂行する手段及び方法のことを云うのではなかろうか。この「強行強力」には暴力革命もあれば暴力反革命もあろう。そういう意味で、それ自体が自慢になるものではなく常に暴力の質が吟味されねばならないということになる。この時間スパンとスピードが本来の暴力革命論で云われる暴力という意味ではなかろうか。肉体的武器的暴力が必至なのは抵抗勢力の肉体的武器的暴力との絡みに於いてであり、担保しながらもその行使は時々の対抗関係によろう。是非の問題ではなく歴史弁証法に預託されているのではなかろうか。 プロレタリア独裁の独裁とは本来、ブルジョア独裁に対置される用語であり、ブルジョア独裁の支配システムに代わるよりましな社会的合理性のある独裁でなければならない。ブルジョア独裁下の民主主義が形式的なものであるとすればより実質化かせしめるものでなければならない。ブルジョア独裁下の議会主義が単なるおしゃべりの機関であるなら実質的に審議し執行できる機関でなければならない。つまり、独裁とは云うもののブルジョア独裁よりはかなり高度合理的な支配システムでなければならないということになる。 こういう風に展望すべきところ、何と「独裁」という表現に異常に拘り、かっての王朝制、君主制、貴族制もたじろぎ羨む独裁恐怖政治を敷き、革命的暴力を自讃しつつ行使してきた経緯がある。恐ろしい歴史的後退であるが、これが訝られずに言葉に酔いしれたまま支持されてきた。馬鹿に漬ける薬はないと云うべきだろう。 ことほどさように、日本のみならず世界の左派運動は扁平な頭脳のままにこれに取り組んできて、その結果自滅し衰微している。当然と云うべきではなかろうか。弁証法的に見ても、革命とは従来質のものをアオフへーベン即ちそこから出藍させるものであり、従来質以下のものを持ち出して強制し歴史的後退するものではなかろう。それさえ分からぬ手合いの運動なぞに巻き込まれるのは真っ平御免とすべきではなかろうか。 もっとも、日本及び世界の左派運動をそのような質のものに成り下げさせ、上手に利用してきたネオシオニズムの上部機関の画策があるというのが真相のようである。となると、問題は、それに気づかぬまま抱き込まれ続けている連中の頭脳のお粗末さにも責任の一片があると云うべきだろう。 その点、田中角栄−大平同盟は偉かった。筆者が思うに、日本政治史上に燦然と輝いている善政であった。田中角栄−大平同盟は理論的イデオロギー的に難しいことは云わず、人民大衆及び国家民族百年の計に合致するものを施策し続けてきた。そのお陰で今日我々が今なお何とか踏ん張っておられる原資が国民の手の中に残されている。あの手この手で次第に簒奪されつつあるが、そういう富が人民大衆側に残されているということ自体が貴重と云うべきだろう。その田中角栄−大平同盟を解体殲滅した側の者が現下政治をリードしているが、ろくなものではないのもむべなるかな。 以上より、「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ。これを第6指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめよ。第3指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第4指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ、第5指針の党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第6提言」としておく。 2008.1.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評360 | れんだいこ | 2008/01/21 |
【提言7−1、左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ】 | ||
日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を、指針3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を、指針4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよ、指針5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよ、指針6で、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよを指針させた。次に指針7として、「左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 提言6で、暴力革命論の「暴力」の従来の皮相理解の誤りを指摘した。日本左派運動には、世界のそれも大同小異であろうが、肉体的武器的暴力が対権力闘争に向けられることよりも、安易に党内反対派ないしは党派間に適用してきた負の歴史がある。その種の暴力は恣意的粗野なものでありヤクザの出入り暴力と何ら代わらない。あるいは党派的セクト的利害による「革命的」暴力であり、日本左派運動盛り上げに水を差す結果しかもたらさなかった。この種の暴力は、暴力革命論が本来意味する「暴力」とは別物なのに、両者が認識上厳密に区分されていないところから発生しているように思われる。 我々はそろそろ、徒な暴力が左派運動圏内に大手を振って罷り通ってきた事態を総括せねばならないのではなかろうか。左派運動が健全であれば、異論、異端、分派は当然のこととして、常に目指すべきは党内党外の競り合い運動であり、党内党外の対立を解決する手段として暴力を行使するものであってはならないとすべきだろう。見渡すところ、徒な暴力が行使されるところに宿っているのは運動規律の弛緩腐敗であり、もう一つは邪な動機からもたらされるものであったように思われる。かく認識して正々堂々たる競り合い運動に向かうべきであろう。 競り合い運動の模範的史実として、60年安保闘争の第1次ブントの闘いがある。第1次ブントが挑んだのは国家権力に対してであり、政治に対してであった。第1次ブントの暴力性が、他の諸党派に向けられた事は寡聞にして聞かない。学生大会の指導権狙いで多少の画策をした程度である。今から思えば許される範囲であったであろう。第1次ブント運動は競り合いで自ら範を示し、時の岸政権を打撃し瓦解させた。ゼンガクレンの名は世界に轟いた。そういう意味で素晴らしい闘いであった。 学生運動史の検証から云える対他党派暴力の行使は、60年安保闘争後の第1次ブントの内部分解により全学連中央を掌握した革共同全国委−マル学同系運動からであり、更に云えばその革共同全国委の革マル派と中核派の分裂以降専ら革マル派が得意としてきたのではないのか。かの他党派解体、諸雑派一掃運動こそもっとも馬鹿げた罪悪なチンケ暴力ではなかろうか。震源地は殆ど常に革マル派にあり、これにより急進主義系運動は重大な損傷を負い続けたのではないのか。してみれば、革マル派の邪な狙いが詮索されねばならないと思う。 全学連史を紐解くと、官学の東大、私学の早大が司令塔であり活動家の貯水池だったことが分かる。その早大で1969年、社青同解放派が革マル派の卑劣な策動により追い出されて以来、革マル派が学内憲兵隊と化して他派を寄せ付けず、革マル派と民青同の二元支配となり、早大は学生運動の輝かしい歴史を逼塞させた。 このことはもっと重視されて良いことではなかろうか。民青同と革マル派は表向き反発しているが、日本左派運動の鎮圧部隊として地下で通底しているのではなかろうか。思えば、全共闘運動に敵対したのもこの二派であった。第1次ブントの60年安保闘争に敵対したのもこの二派であった。その民青同は戦前党中央委員リンチテロ致死事件の頭目宮顕に指導され、革マル派は「組織名簿売り事件」の頭目黒寛に指導されている。妙な組み合わせではなかろうか。 こういうことを明らかにする為にも歴史検証が必要な訳であり、学生運動史論が必要な訳であり、これを疎かにすること自体が悪の暴力をのさばらせるのではないのか。この際、立花隆的な一見中立そうな見解は何の役にも立たない。むしろ邪悪な者の助っ人的役割を果たしていることになる。れんだいこはそう考えている。そういう意味で歴史を学ぶ事が必要な訳であり、各党派は結党以来の履歴を良くも悪しきの面も克明に記録し晒しておく責務がある。これは党派としての公党責任であると考える。 ところが、これがからっきしできていない。悪は隠したがる癖があるので仕方ないとしても、自派をそうは思わないなら、かの時代の正義として堂々と開陳すべきだろう。物事には定向進化の流れがあり、時代のムードも有り、行き着くところまで行かないと評価が難しい。今日的に見て具合が悪いことがあったとしても、かの時代の正義を隠す事はなかろう。 もとへ。1970年安保闘争後の革マル派の海老原君リンチテロ致死事件以来、革マル派の中核派に対する復讐テロが公然と始まり、中核派がこれに反発し、革マル派のテロは社青同解放派にも向かい、この三派間で激しい党派戦争が繰り広げられる事になった。他にもいろんな事件が起こったが割愛するとして、連合赤軍による同志テロ事件が発覚し左派圏を震撼させた。日本赤軍がパレスチナ連帯に向い、自爆テロへと突き進む。事の是非は単純には論ぜられないが、新左翼系左派運動が何やら特殊運動化したのは事実だろう。 あれから30有余年、そろそろ過去の運動を対自化させ、継承すべき面と排斥すべき面を分別すべきではなかろうか。この間、日本政治はネオ・シオニズム系の御用聞き政治家が一挙に台頭しており、売国政治ばかりに腐心している。戦後ハト派政治時代に築かれた国富的財産が強奪され、見るからにお粗末な惨状を呈して今日に至っている。いつの間にか公然と自衛隊の武装派兵が進んでおり、米英ユ同盟の裏部隊から前線部隊へ引き込まれようとしている。 かっての社共運動も面影が無い。社会党は解党し、共産党はますます貧相さを呈しつつある。この局面で日本左派運動の再生が為されないとしたら、もは永遠に失われてしまうことになるだろう。筆者は、有り得べからざる同時代的恥と受け止めている。 ならば処方箋も出さねばならないだろう。筆者は、日本左派運動が徒な運動圏内暴力で潰れた以上、まずは一刻も早くそれを取り除き、ここから再出発せねばならないと考える。しこうして正々堂々とした競り合いルネサンス運動に向うべし。これを当面さしあたりの漢方薬としたい。 以上より、「左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ。これを第7指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第4指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ、第5指針の党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよ。第6指針の暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第7提言」としておく。 2008.1.21日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのかんてら時評258 | れんだいこ | 2007/02/17 |
【提言7−2、左派運動圏に於ける日共式穏和主義反対運動の欺瞞性考】 | ||
ここで「左派運動圏に於ける日共式穏和主義の欺瞞性」に言及しておく。日共は、1955年の六全協で宮顕−野坂派が指導部を簒奪して以来、左派運動内に穏健主義の種を蒔き、右傾指導に熱中してきた。それだけならまだしも、逆に急進主義的に闘う者、党内の非イエスマンに対しては暴力的牙を剥いてきた。 こうして、「権力に対する穏和主義、闘う者に対する急進主義」という倒錯運動が訝られず今日まで経緯している。そういう執行部が延々50年以上に亘って日共を指導し、党中央を形成している。今も彼らは党中央の座椅子を手放さない。こういう変態運動が罷り通ってきたという事象に対して、そろそろこれを総括せざるをえまい。 筆者が注目するのは、政治スローガンに見る「反対」表現を好み、粉砕表現を嫌う裏意図である。60年安保闘争時の指導が如実に物語っているので、これを検証する。興味の有る者は、「れんだいこの戦後政治史1960年」の項で確認すべし。 この時、日共は、世上の通念と違って悉く闘わない方向へ指導してきたことが判明する。60年安保闘争の昂揚は、れんだいこの見立てるところ主として、穏和主義を社会党が、急進主義を第一ブントが担うことでもたらされた。我々は、ここで、穏和主義と急進主義の共同戦線化による成功事例を学ぶことができる。 ところが、日共は、そのように了解しない。手前たちの運動こそが是であり、それ以外の運動は非であり、もし共同戦線に立つならば、ひたすら右傾化させる条件に於いてのみそれを欲する。即ち、排他的独善的右傾化を特質とする。かくて、その運動は、より多くの者たちを参加させるためと云う口実で幅広主義を採る。その結果、政治スローガンも最も穏和な「反対」表現を常用する。それは気の抜けたビールのようなものでしかない。 しかして「粉砕」とか「阻止」なる急進的表現は、使用しないのではなくサセナイ。デモも、秩序だった請願デモを好む。間違ってもジグザグ・デモはサセナイ。60年安保闘争では、実際にこれを廻って議論が白熱している。こういうところは学ばないと分からない。 その結果、日共式反対主義、穏和な請願デモでは闘った気がしないと感ずる者たちは、ブントのデモに出かけた。お焼香デモ粉砕を叫び、ジグザグ・デモで鬱憤を晴らした。その第一ブントは、国会議事堂にも羽田空港にも首相官邸にも突入し、シュプレヒコールで気勢を挙げた。多くの逮捕者を出し、多くの者が負傷し、樺美智子女史が死亡する悲劇もあったが、幅広主義が幅広くしなかったのに対し、多くの者を引き付け運動の裾野を広げた。何しろ、デモが通るとパチンコ屋ががら空きになったと伝えられているほどである。多くの子供が「安保粉砕」を口真似して遊び始めたとも伝えられている。 仮に賢明な社会学者が登場すれば、日共式幅広主義が、運動を沈静化するのに役立っており、少しも幅広くしないことを例証するであろうが、れんだいこはそのような社会学者の分析を知らない。それはそれとして、「いくら言葉を過激にしても、それが実現した例を知らない」という口実で、穏和な反対表現で良いとする主張を検討してみることにする。 一体、我々は、粉砕とか阻止とか打倒とかの政治用語をどういう基準で使っているのだろうか。実現可能性のある用語のみが使われるべしとするような基準が必要であろうか。れんだいこは、違うと思う。反対表現は、賛成か反対かの判断だけであり、忽ちは政治的見解の表明に過ぎない。事案が、許し難いものである場合、反対表現では物足りない。どちらへ転んでも良いが俺は反対だと云う場合には、反対でも良い。だがしかし、これは絶対に認めてはならない、強く反対すると云う場合には、それに相応しい表現を模索する。それが粉砕とか阻止とか打倒とかになる。それで良いではないか、その方が言葉の厳密な使い分けをしており、作法にかなっていると思う。一律に反対表現で済ませるほうが粗雑だと思う。 第一、反対なる言葉は単に見解及び態度表明に過ぎず、反対したと云うアリバイ証明でしかない。粉砕とか阻止とか打倒とかは逆に、実現しようがしまいが、運動主体者として歴史に責任をもとうとしている。そういう意味で、歴史的責任を引き受けた表現と云えよう。それが実現しないのなら、次には実現するように工夫すればよい。その繰り返しでよい。何で、この姿勢がなじられるのか分からない。逆に聞きたい。アリバイ証明的事なかれ主義的反対運動こそ政府当局者に対して何らの痛痒も与えず、実はガス抜き的役割で裏からの体制支援に堕しているのではないのか。 60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せ、米国大統領アイゼンハワーがフィリピンまで来てスタンバイしていたにも拘らず来日を阻止し、岸政権の面子が失われ、内閣総辞職を余儀なくされた。それは日本左派運動史上、1947.2.1ゼネストに次ぐ壮挙であった。ところが、日共は、70年安保闘争の方が空前の盛り上がりであったと嘯く。何とならば、デモ届出数、参加者数が60年安保闘争時のそれを上回るものであったからなどと云う。しかし、70年安保闘争は、時の政権を何ら痛打しておらず、明らかに60年安保闘争に及ばなかったのではないのか。しかるに事態を逆に描いて恥じない。 我々は、ウソで塗り固められたこういう変態運動、詭弁運動から脱却せねばならないのではないのか。しかしながら、日共式論理と論法はあちこちに伝播しており、急進主義的盛り上がりを抑圧させる格好で通用している。そして、それを誰も訝らないように堕している。れんだいこは、言葉も運動も、それに最も相応しい体裁をとるのが望ましいと思っている。 さて、明日か明後日にも米国副大統領実は真の裏大統領チェイニーが物騒な話を持ってやってくる。日共は例によって反対とのみ表現するのかと思いきや、反対そのものも控えているようである。こうなるとお笑いではないのか。人は話し合いで全て分かり合え、道理を説けば聞いてくれると云う特殊な思い込み信仰に耽っているようである。そういう世の中がくれば良い事はみんな分かっているが、世の中、道理説教だけでは何の役にも立たないことを知っているのも事実だと云うのに。 他にももっと愚考してみたいことがあるが、とりあえず思いついたままを記しておく。 2007.2.17日 れんだいこ拝 |
【提言8−1、「ハト派対タカ派政治の拮抗」こそ戦後政治の本質である】 |
以下のことに注意を喚起されたい。日本左派運動の習性がそういうケッタイナ按配であったことに規定されて、妙なことに、日本左派運動に代わって戦後社会のプレ社会主義制を担ったのは何と保守的政権与党側であった。有能の士が早々に日本左派運動に見切りをつけ、体制側に入り込み、政府与党系のハト派に位置し、戦後日本のプレ社会主義的秩序を牽引していくことになった。ここに戦後日本政治の大きな捩れを見て取ることができよう。 政権与党はやがて1955年に自由民主党を創出する事になるが、党内は様々なハト派と様々なタカ派が混淆する寄り合い世帯であった。その中で、最大勢力化していったのは、吉田茂を開祖とし、池田隼人を牽引車とし、ハトタカやじろべえ的な佐藤栄作を巻き込み、田中角栄を総帥とし、この時同盟軍に位置していた大平正芳−鈴木善幸まで至るいわゆる吉田学校派であった。これを戦後日本政治史上のハト派と云う。 戦後日本政治史上のハト派とは、戦後憲法を概ね遵守し、その大綱の中で主として内治に励み、外交は現代世界を牛耳る国際金融資本の枠内に納まる欠陥を見せながらも、他方で戦後憲法的国際協調にも精を出すというかなり高等な政治芸路線を云う。かく規定できると思う。 このハト派が戦後から1970年代までの戦後保守本流つまり主流派を形成し、党内のタカ派と表面的には相和しながら、底流で激しく対立抗争しつつ、政権を担って行った。ハト派は、戦前来の国家主義的日本的官僚制度と云う国家頭脳を政治主導的に操作し、官僚も叉これに能く応えたと云う史実を刻んでいる。この期間、戦後日本は内治に成功し、高度経済成長を呼び込み、世界史上に稀なる発展を遂げ、日米安保の枠組内ながらも等距離的な国際協調にも貢献しアジア、中近東、アフリカ諸国からの賛辞も得た。今から思えば大いなる善政時代であった。 戦後日本左派運動は、戦後権力当局者の上述した如くな独特の政治流動と局面を分析し、陰に陽にハト派と提携すべきであった。ところが実際には、ハト派もタカ派も十把ひとからげにマルクス主義的字面教条に従って打倒されるべき保守反動的体制派と断じ、図式公式主義的な政府自民党批判運動に終始してきた。時に政権打倒を呼号するが、代わって政権を引き受ける意思も能力もない口先運動に没頭してきたに過ぎない。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評361 | れんだいこ | 2008/01/22 |
【提言8−2、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ】 | ||
日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を、指針3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を、指針4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよ、指針5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよ、指針6で、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ、指針7で、左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよを指針させた。次に指針8として、「戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動は、戦後日本の立役者となった政府自民党内のハト派的運動に対して余りにもお粗末な対応をしてきたのではなかろうか。今、政府自民党内のタカ派的運動が、ハト派時代が築いてきた国富を国際金融資本帝国主義に譲り渡し、売国奴政治にうつつを抜かしている時、両者を識別し是々非々すべきではなかろうか。「政府自民党」に対する万年一本槍批判ほど実際にそぐわないことはない。 情けないことに、日本左派運動は、政府自民党内のハト派が政権を掌握機動させていた時にもっとも盛んに反政府反体制運動を繰り広げ、タカ派が掌握機動している現在逼塞させられ、口先三寸の批判運動に終始し裏協力するという経緯を見せている。これが偶然か故意なのかは分からないが、そういう悪しき対応をしている。社共運動特に宮顕−不破系日共運動が真に批判されねばならないのは、この犯罪性に於いてである。 思うに、政府自民党内のハト派政治を良質のそれであったと見直し、その限界を突破し更なる左からの政治運動を生み出すために弁証法的に検証し直すべきではなかろうか。ハト派政治を体現したのは吉田茂を開祖とする池田隼人及び田中角栄、大平正芳、鈴木善幸政権であるからして、この時代の政治を検証し直し、復権せしめるべきところは復権し再興すべきではなかろうか。 筆者は、戦後保守本流派を一時期形成していたハト派の中でも田中角栄政治を偽装保守実は真正の左派政治ではなかったかと推定している。実際には、古代出雲王朝の大国主的政治であったとみなしている。スサノウとみなす向きもあるが、オオク二ヌシ的であったと解するのがより近いと思われる。国譲り前の善政政治であり、陰に陽にその後の日本政治に影響を与えている。 それ故に、そのことを嗅ぎ取ったネオシオニズムがロッキード事件を用意周到に仕掛け、政治的に葬ったのではないのか。ネオシオニズムがこぞって呼応し、その際宮顕−不破系日共が異常にはしゃいだ裏には臭いものがあるとの仮説を持っている。日本左派運動は新旧左翼ともども、この観点をからきし持っていない。むしろ、金権政治の元凶として共に最悪視している。果たしてどちらの受け止め方が正しいのだろうか。 角栄については、「田中角栄論」(jinsei/kakuei/tanakakakuei.htm)で総合研究しているので参照されたし。れんだいこが特に触れておきたいことがあるので記しておく。それは、角栄がロッキード裁判で羽交い絞めされた折、公判闘争の途中より新左翼系弁護士に依頼したことである。角栄は何ゆえ見得も外聞もなくよりによって新左翼系弁護士に依頼したのだろうか。これが解ける者があるだろうか。 れんだいこ史観によれば容易である。筆者の「角栄=偽装保守実は真正の左派」説に立てば、窮した時に本性表われるで、角栄が日共とは違う真性左翼の系譜であろうと仮定して新左翼系に必至の思いで助け舟を求めたと解することができる。 であるとするなら、新左翼は、角栄が藁をも掴む思いで差し伸べた手をしっかりと受け止めるべきであった。新左翼系弁護士は全精力で角栄救済に向うべきだった。実際にはその有能性を最大限発揮して角栄冤罪説を主張した形跡がない。恐らく、左翼圏全体が日共式の角栄観に禍いされて熱心とならなかったのではなかろうか。返す返すも残念なことであった。 それにしても、角栄退治に鉄腕を振るった宮顕−不破系のおぞましさよ。彼らは、ロッキード事件摘発最中の1976(昭和51).7.28日、秋に予定していた定期党大会を翌52年に延期し、異例にも党史上初めての臨時党大会を開き、宮顕・幹部会委員長が、大会の冒頭の挨拶と基調報告をし、前日の田中前首相の逮捕を誇らしげに伝え、対角栄闘争の徹底推進をぶちあげ異例の並々ならぬ意思統一をした。この時の様子についての詳しい記録が発表されておらず、秘密性の濃いものとなっている。 角栄のその後は日共の願う通りのものとなり、政治的に絞殺された。こうなるや不破は、かって角栄を金権政治の元凶としてさんざん悪し様に指弾しながら、今になって云うことに概要「よほど貧乏していたのだろう。今日から見てさほどの額でもない僅か5億円の金欲しさに外国からの汚い金に手を出していた」などと角栄死してなお侮辱しており、ご丁寧な事に党員の拍手拍手と云うおまけ付きである。共に語り得ずの面々ではなかろうか。 しかし、冷静になって考えれば次のことが明らかになる。今現在、自民、民主のタカ派系が構造改革と称して次から次へと改悪策動している諸制度は、ハト派時代に築かれた善政の産物ばかりである。タカ派系は何を急いで改悪に狂奔しているのだろうか。ここが詮索されねばならないだろう。国際金融資本のシナリオ論を媒介せずして解けるだろうか。 筆者は既に指針2の「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動を展望せよ」で述べたが、戦後保守本流のハト派政治こそ、戦後日本のプレ社会主義性を良しとして在地土着型の左派運動を展開した稀有なものであったのではなかろうか。彼らは一度としてマルクスのマの字さえ口にしなかったが、マルクスを呼号し続けるマルクス主義者よりもよほどマルクス主義的で、世界に冠たる親方日の丸式在地土着型社会主義政策を創造し敷設していったのではなかろうか。ここに、世界の奇蹟と云われる戦後の高度経済成長式発展があり、イスラム世界ともよく親交し賛辞されていたのではなかろうか。 してみれば、戦後保守本流ハト派の政治、特に角栄政治の功績を見直し、継承すべき面を継承し、新在地土着型のハト派政治を再興していくことこそ現代政治のテーマとなっているのではなかろうか。このことを指摘しておきたかった。この観点に異論があれば、筆者ははいつでも応ずる意思がある。堂々と議論しようではないか。 以上より、「日本左派運動は、戦後保守主流派のハト派政治を再興せよ。戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ。これを第8指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第4指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。第5指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、第6指針の暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ、第7指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第8提言」としておく。 2008.1.22日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評225 | れんだいこ | 2006/10/21 | ||||
【提言8−3、「戦後保守主流派の大御心で許容されていた戦後学生運動」考】 | ||||||
今日は10.21である。筆者の若い頃は、10.21と云えば反戦デーだった。筆者はあいにく民青同だったので面白くもないデモに参加して流れ解散した経験しかない。或る時の10.21日、新橋駅辺りで解散したところ、脛と膝を大怪我し両肩を抱えられながらのメットの連中と遭遇した。党派が違うので当然話すこともなかったが、筆者は、あっちの方が闘ったという気がする思いがしたことを思い出した。 機動隊とやりあうことが意味があったとは思えないが、単なるデモすることで闘ったことにはならないという微妙な気持ちになったことを覚えている。それにしても、ゲバ棒スタイルのメットデモが盛んだった。当時は今より規制が少なく許容されていたのだろう。 そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚」の凋落原因を愚考してみたい。筆者は、1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロの3要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党であった。ところが、その「政府自民党の変質」によって次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力がなく、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。 60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさにあらず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。 これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、筆者は、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうか、という仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国との駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。 筆者は、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年有余の政治と現在の安倍政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、小泉ー安倍政治の批判は的を射ないだろう。この観点がないから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。れんだいこは、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政・官・財・学・報の五者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中ー大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、「戦後学生運動の1960年代昂揚」にとって、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に、与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。 その結果、1980年代の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による政争を経て、2001年の小泉政権、そして現在の安倍政権によってタカ派全盛時代を迎えるに至った。彼らは、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の御用聞き政治から始まり、今では言いなり政治、更に丸投げ政治を敷いている。現下の政治の貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。今ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の1960年代昂揚の衰退」はもとより、社会党及び日共宮顕ー不破系の協力あっての賜物であった。彼らは、その党派の指導部を掌握し、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきた。こう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙される政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、宮顕ー不破ー志位系日共理論は特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。れんだいこはことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例がないなどということがあり得て良いことだろうか。 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく、それは無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。 れんだいこ史観で付言しておけば、日共系が右派系運動を抑圧したとするなら、革マル派のそれは左派圭運動を葬送する為に使われてきたのではなかろうか。宮顕の「排除の論理」、黒寛の「諸雑派解体路線」は何やら似て過ぎやしないか。この連中の二元支配により、早大の赫々たる学生運動の歴史が鎮圧された。早大の鎮圧は学生運動の貯水池を枯らし、負の影響を及ぼしていくことになった。日本左派運動に於いて、「早大に於ける民青と革マルの二元支配による共存」を許したことは、そういう意味で重責であるが、民青と革マルにとっては成功事例なのだろう。 筆者がこう云い切れるのは「川口大三郎リンチ致死事件闘争」の際の体験から生まれている。事件については、「「川口大三郎君虐殺」事件考」で考察している。あの時の鮮烈な印象は、革マル糾弾の流れでキャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現し、中でも政経学部を牛耳っていた社青銅解放派が久しぶりに登場した時、それまでアロハシャツ着てジャズ音楽にでも凝っていた風をしていた顔にじみが、我が意を得たりと興奮していた様子を焼き付けているからである。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が喜び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである。 もとへ、結論。いずれの側であれ、くれぐれも、在地型プレ社会主義政治の最高指導者角栄を悪く罵倒すればするほど左派的なぞと思うなかれ。もしそういう御仁が居るなら、歴史の見立てと真相が掴めない不明を恥じよ。このことが分かるまで蟄居し沈思黙考せよ。しかる後出でて述べよ。簡単ながらスケッチ風に覚書しておく。 最後に、その角栄の学生運動論と観点を記しておく。角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代、全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。1963(昭和38).12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。
斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元全共闘闘士で、一転田中イズムのとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
早坂は続いて次のように記している。
この見識こそ角栄政治の真骨頂であろう。立花や日共によって逆に描き続けられているが、それは取りも直さず連中が現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の下僕として立ち働いていることを証左しているだけのことである。我々はこの投網から抜け出さねばならない。 2006.10.21日 れんだいこ拝 |
【提言9、「日共のネオシオニズム奴隷的本質」こそ疑惑せよ】 |
以下のことに注意を喚起されたい。驚くことに、有能の士が体制側に入り込み、政府与党内のハト派に位置し、戦後日本のプレ社会主義を牽引したのに対し、この間、日本左派運動の本家的地位にある共産党内部では逆事象が発生していた。 戦後直後、日本共産党を再建し、党中央を形成したのは徳球−伊藤律系であった。徳球−伊藤律系は、2.1ゼネスト、1949.10月革命等々に大きな政治的なヤマ場をつくりながらも、次第に戦後革命を流産させていった。当然、政治責任は問われるべきであろうが、進駐軍の重圧下のことでもあり割り引かねばならないだろう。いずれにせよ、戦前戦後を通じて一筋の真紅の革命派であったことは間違いない。 まずここが合点されねばならないのに、多くの論者は早くもここで徳球−伊藤律系批判のボルテージを上げることで左派の証とする変態性を見せている。これにつき異論を持つ者が望むなら、筆者はいつでも受け太刀することを約束しよう。 1955年の六全協で、徳球−伊藤律系党中央がイニシアチブを失い、野坂−宮顕系が政権を奪取し新党中央を形成した。野坂−宮顕系党中央は、戦前も日本共産党を最終的に瓦解させたいわくつきのスパイ同盟であり、戦前党史が正確に綴られ学ばれていたなら再登場させてはならない、あり得てはならない闇の同盟であった。 これを知らない知らせない党史論による洗脳によって、この闇同盟が再度党中央を牛耳る事になった。結果は、火を見るより明らかで、次第に本来の共産党運動を撲滅解体し始め、仕舞いには似ても似つかぬ共産党に変質させてしまって今日に至っている。れんだいこは、これより共産党という表記を止め日共と記すことにしている。戦後共産党運動は、野坂−宮顕系党中央以来の日共運動に辿り着いた事により大きく捩れて行くことになった。 六全協後のこの捩れが日本左派運動に新型の運動を産んでいくことになる。1956年、まず革共同が、国際共産主義運動の歪曲に抗するという形で、1958年、革共同に向かわなかった急進主義派のブントが、日共の変質に抗する形で、いわゆる新左翼系運動を創出した。これを歴史的必然と看做さないわけには行くまい。 ブントの誕生経緯を確認しておく。ブントの元祖系譜たる全学連中央の武井派は元々、徳球−伊藤律系党中央に叛旗を翻すところから運動を始発させた。その頃、宮顕はしきりに急進主義的言辞を弄んでいたので自然と誼を通じることになり、かくてブントの元祖系譜はこれに騙された。しかし、野坂−宮顕系が六全協で党中央を簒奪して以来、宮顕は本来の地金である右傾化路線を敷き始めた。全学連急進主義派はこの反動に堪らず、新党運動の立ち上げに向かうことになった。これに徳球−伊藤律系党中央支持派が連動し、国際派系列の島−所感派系列の生田の指導する第1次ブントが結成され、反日共新左派運動を創出していった。かく了解すべきであろう。 野坂−宮顕系日共は、この新左翼運動の徹底殲滅に向かう。野坂−宮顕系日共の戦闘性はこの方面にのみ発揮されるという史実を遺している。他方で、徳球−伊藤律系時代には幾分か痕跡していた政権奪取を指針から取り外し、徒な口舌批判運動に捻じ曲げていった張本人でもある。しかも、政権与党内のハト対タカの争いに於いて、陰に陽にタカ派と誼を通じ、ハト派叩きにシフトしてきた形跡が認められる。60年安保闘争時の変調指導然り、党内反対派駆逐手法然り、新左翼運動敵視指導然り、全共闘運動解体策動然り。 その中でも最大の事案は、ロッキード事件に於けるハト派総帥の田中角栄に対する執拗な政界追放運動であったであろう。今日なお居直り正当化し続けているが、追って史実が不正をなじろう。角栄−大平同盟こそは、戦後日本左派運動のもうひとつの裏の流れの代表であり、これに徹頭徹尾敵対した反動性は醜悪極まるものである。これからでも遅くない徹底解明検証されねばならないであろう。 もとへ。この間、結成間もないブントは、目前に控えた60年安保闘争に組織を挙げて玉砕していった。これを第1次ブントと云う。第1次ブントの真の功績は、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争に於いて、タカ派総連合として登場していた岸政権を退陣に追い込み、吉田以来の流れを汲むハト派池田政権を誕生せしめ、その後二十余年に亘るハト派主流派の時代を引き寄せた事にある。れんだいこに云わせれば、これが第1次ブントの史上に燦然と輝く最大功績であった。 しかし、第1次ブントは、マルクス主義の字面的教条主義に染まっており、その急進主義性を競うと云う捻じ曲がった理論によりこの手柄を確認できぬまま、60年安保闘争後の虚脱時期に日共と革共同の集中砲火を浴び、最終的に革共同に吸収される形で解体するという憂き目に遭う。つまり、日本左派運動の唯一の成功事例をタライごと水に流してしまった。ブントはその後再建されるが、分裂に忙しく第1次ブント的偉業を為さぬまま今日に至っている。 日本政治運動はかような捩れの中に在る。戦後学生運動は、こういう構図の下で、捩れに無自覚なままに担われてきた形跡がある。かなりな高等数学的組み合わせの捩れの中に在るので、これを当時の青年学生運動が見て取れなかったしても致し方ない面もあろう。問題は、今日の時点に於いて、どう確認するかである。ごく平凡な通説的な正義論を説く者は、よほど幸せ者と云うべきだろう。 2008.3.26日 れんだいこ拝 |
【提言10、「組める相手と組み、組めざる相手と組むな」の公理を確立せよ】 | |
50年代、60年代、70年代の左派運動を担ったないしは関わった者からすると、今日のテイタラクは信じられない。この惨状を何とかせんとして様々な動きがあるが、今のところ首尾よく進展しているようではない。しかし、何でも良い、良いと思うものをボチボチでも進めて行く事が肝腎だろう。 物事には必ず原因があるとして、これを社会科学的に尋ねるのがマルクス主義のスタンスであろうが、これが為されているように思わない。マルクス主義が古かろうが間違っていようが、そう批判するのは勝手だが、社会事象に対する科学的な解析手法まで放棄するのは「赤子ごと湯水を流す」愚を免れまい。筆者はそう考えている。 今こそ「日本左派運動の長期低迷事象に対する科学的な解析手法」が必要であろうが、かといって、あんまり小難しく語られても困る。筆者は、マルクス主義派の難解理論に従来より辟易させられている。今日まで筆者の理解能力の欠如をこぼしてきたが、筆者が齢50歳を越した頃、俄かに腹を立て始めた。 労働者大衆に理論と実践の武器を指し示す形で登場したマルクス主義が、読むに閉口行うに難渋するような「マルクス主義的難解理論」なぞあって堪るものか。「マルクス主義的難解理論」は為にする難解さで、これは言葉使いが難解な場合と語る内容そのものが空疎である場合の二通りがあるのだが、いずれにしても実は無内容を糊塗するコケオドシなのではなかろうかと。 なぜそのように気づいたかと云うと、その後の日本左派運動の失速に対し、難解に説いていた者の誰もが責任を負わなかったからである。というか負う能力を持たなかったからである。彼らは実は有能ではなかったことを日本左派運動の失速が証明したことになる。こうして彼らの権威が剥げた。無責任無能な者が説く難解さなど信を置くに値しないと切り捨ててから、筆者はのびのびと自己流の研究に着手することができるようになった。 筆者の気づきが遅れたのにはもう一つの理由があった。筆者が20歳前半の頃に抱いたあれこれの疑問は、若い頃特有の一面的な独りよがりではないかと危惧していた面があった。あれから30余年を経て、50歳の身になって一通りの世間を泳いでみて、若い頃抱いた諸点が独りよがりのものでなく、非常に貴重な観点であったことを知った。このことを確信する為に相応の月日が必要であったことになる。 マルクス主義文献上の翻訳問題も有る。筆者はそれまで、幾冊かの文献を手にしていたが、殆ど途中で読み止めにしている。理解が追いつかなかったからである。それは、筆者の無能を示していると思っていたが、そうではないことに気づいた。マルクス主義文献上の翻訳の粗雑さが、筆者の読み進める意欲を殺いでしまったという風にも考えられる。故に、正確な翻訳がそれほど大事と云う事になろう。 筆者は現在、例えば「共産党宣言」(筆者は、「共産主義者の宣言」と題名するべきだと考えている)を英文を通じて現代和訳文に翻訳してネット上にサイトアップしている。(marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen.htm) その結果判明したことは、既成訳本では到底まともな理解にならないだろうということである。それはあたかも、出版の自由により世に出ることを余儀なくされた「共産党宣言」の価値を損ねる為に、意図的に誤訳、不適切訳にしている感がある。にも拘らず、その種の訳本を読んで得心してきた数多くの日本左派運動家の理解能力とはそも何ものぞ。敬服すべきだろうか。 同じような意味合いで、筆者の学生時代、色々疑問を投げつける筆者に対し、「お前は深まっていない。これを読め。そしたら分かる」と頻りに勧められたのが宮顕の「日本革命の展望」であった。筆者は、どういう訳か読みもせずやり過ごした。50歳の頃に読んでみて、論理的にも論証的にも指針的にも全くナンセンスな駄文悪本でしかないことを感知した。こうなると問題は、かの時、筆者に勧めた連中の「深まり度」が気になる。一体、連中は、どこをどう読んで何が分かって、スグレ本としていたのだろう。あいつらを見つけたら今聞いてみたい気がする。それとも、思考にも嗜好があって、連中の頭脳にはお似合いだったのだろうか。 こうい事例は一杯ある。筆者は今「れんだいこ史観、観点」なるものを自負して世上のあれこれを解析している。が、先行する解説本に得心できるものは妙に少ない。日本左派運動の検証、学生運動の検証にしても然りである。見立てが随分違う。筆者の見立ての方がより正解だと思うのだが、反対見解の方が通説化している。 例えば、戦後直後の共産党を指導した徳球、伊藤律を廻る評価も然りである。筆者は、限界を踏まえつつも、共産党員らしい指導者で、同時代の他の誰よりも抜きん出た名指導者であったと思っている。だがしかし、宮顕、不破系日共の長年の悪宣伝が響いて、そのように好評価する者は少ない。逆に宮顕が逝去すると、歯の浮くような世界に冠たる革命家であった云々の世辞を並べている。見立てがなぜ、このように違うのだろうか。この差は何に起因するのだろうか。 田中角栄然り。筆者は、角栄は実は裏左派ではなかったか、その業績は前人未到の金字塔となっている、左派は角栄をこそ学べとまで評している。これに対し、日共宮顕、不破の角栄批判論調を見よ、立花隆の論調を見よ。「諸悪の根源」として、その業績も不当に悪評価せしめ、全ては金の力で牛耳り最後にお灸を据えられたと評している。見立てがなぜ、このように違うのだろうか。 中山みき論然り。筆者は、みきは実に釈尊やモーゼやイエスに並ぶあるいは超えた世界に抜きん出た宗教的思想家と評している。これに対し、世上の自称インテリの多くは、「宗教はアヘンである」との頓珍漢なテーゼの下で「淫祀邪教の開祖」として評しているように見える。見立てがなぜ、このように違うのだろうか。 昨今の著作権法然りである。筆者は、著作権法はひとたびは認めよう。だがしかし、昨今の強権著作権派の論は、その著作権法からさえもかなりオーバーランした勝手な著作権理論を説いており、判例を積み重ねる形で無理矢理通説化させているが、著作権法に照らしてみれば違法性が強いと見立てている。このように問う者が少なく、既に何度も指摘しているが、自称知識人は、強権著作権を認めない者は知的所有権の何たるかが分からない非文明的非先進的未開人だと指差されるのを恐れてか、分からないのに分かったような顔して相槌を打つ癖がある。 ところで、つい過日、東大大学院教授の渡辺裕・氏が、概要「著作権法の改悪化が進んでおり、それは年金、医療の破壊解体と軌を一にしている感がある」と述べている。これは極めて貴重な指摘である。時流に棹差すこういう見解は一昔前なら早大、京大辺りの教授が云いそうなのに、今や彼らの多くが体制内ボケしており、御用イデオローグと化している。歴史的に権力側に位置して且つ官僚養成の貯水池たる東大アカデミズムの中からこういう意見が出てきているところが面白い。やはり相対的にしっかりしているのは東大頭脳ということになるのだろうか。 と、いろいろ書いてみたが、こういうことが書きたかったのではない。本稿は、日本左派運動のテイタラクに対する処方箋として次の指針を示すことにある。それは、「組める相手と組み、組めざる相手と組むな」の公理である。これこそ基本中の基本なのであるが、日本左派運動は、この初手から変調だから始末が悪い。 実態は、「組める相手と組まず、まず仲間内でいがみあい、争う。組めざる相手と組んで平気」と云う痴態がある。これは一々指南できることではなく、互いが嗅覚で感じ取るものだろう。その嗅覚が天然的に劣っているのが日本左派運動の面子だと云えばお叱りを受けるだろうが、歴史を通史で見ればこういうことが云えるのだから仕方あるまい。 毛沢東は「中国社会各階級の分析」で次のように述べている。
毛沢東の至極当然なこの指摘が味わえない日本左派運動家が多過ぎる。彼らは、これも叉宮顕−不破系日共の悪宣伝に影響され、毛沢東を不当に貶めているので、毛沢東の名言さえも湯水を赤子ごと流してしまう。 れんだいこの毛沢東観はこうだ。建国革命前までの毛沢東の指導は概ね英明で、模範とするに足りる。なぜならカオス理論に基く共同戦線派であったから。ところが建国後の最高権力者としての主席となってからの毛沢東は、ロゴス理論に基く統一戦線派に転身した為魅力を失い、権力を王朝化させ、その政策も大いに誤った。文化大革命を発動した毛主席の功罪は未だ定まっていない。功の面も負の面もある。ケ小平から今日の中共政権に至る国際金融資本の走資派の台頭を危ぶみ、これに闘おうとした戦略戦術はスケールが大きく、中国ならではの騒乱であり、目下は走資派見解に拠る弾劾が主流ではあるが、歴史は変わる。筆者は、闘った意義の方が大きいと見立てる。 毛沢東の指摘に従い「真の友、真の敵」を定めるとすれば、日本左派運動史上誰を友とし敵とすべきだろうか。これを各自が判断し共同戦線化して行くことが望まれている。筆者の言は、これまで述べたところであり繰り返すまでもなかろう。 以上を「定言10、組める相手と組み、組めざる相手と組むなの公理を確立せよ」としておく。 2008.6.12日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評362 | れんだいこ | 2008/01/22 |
【提言11、マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的 見地で企業活動を見直せ】 |
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日本左派運動に対する指針1で、民族主義的土着型運動を、指針2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を、指針3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を、指針4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよ、指針5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよ、指針6で、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ、指針7で、左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、指針8で、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよを指針させた。次に指針9として、「マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地で企業活動を見直せ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動検証の大詰めは、マルクス主義的階級闘争論の見直しに向かわねばならない。一体、マルクス主義的階級闘争論とそれに基づく搾取論は真に科学的なのだろうか。それがプロレタリアートの解放理論であることは分かるが、我々は、これに依拠せずんば闘うイデオロギー及び理論を創出できないのだろうか。これを思案して見なければならない。 思うに、マルクス主義的階級闘争論は、「頭で逆立ちしていヘーゲル式観念弁証法を足で立つ唯物弁証法というまともなものにした」と弁じているが、にも拘らず、ヘーゲル的弁証法の概念主義に拘った思弁的なもので、社会の実態分析には役立たないというかむしろ危険邪道ものではなかろうか。 歴史と云うものは世代間の積み重ねであり、社会構成上の階級、階層、身分につき互いに対立、抗争しつつ社会の成熟度に応じたある種の合理的な拮抗で調和しているとみなされるべきできなかろうか。資本制的搾取は、それを得手とする特殊な勢力が特殊なイデオロギーに基き導入扶植した特殊な生産及び分配手法であり、人類史の必然的行程としての社会法則ではないのではなかろうか。筆者は、こう考えるべきだと思うようになった。こう考えることにより誰と何を争うのか闘うのかがはっきりするように思っている。 彼らの魔手が伸びないところでは概ね君主制であろうが封建制であろうが共和制であろうが民主制であろうが、近代科学及びそれに基く生産は、今よりはずっとましなそれなりの分配システムを組み込んでの秩序を形成している、いたはずで、資本主義制はその伝統を過度に捻じ曲げて守銭奴化しているとみなすべきではなかろうか。 近代科学に基く生産力の発展は、分け前として人民大衆に福利を享受させるべきところ、資本主義制によって資本の増殖に次ぐ増殖へと回転し、生産力の余剰は上層部の奢侈に変形的に費消され、下層階級が強力的に相変わらずの貧困にひしめく制度に意図的に落とし込められており、社会的登用制さえもがかっての時代より合理的でなくなっているのではなかろうか。生産力から見て食えなくはないのに食えない事態が発生しているのおかしいのではなかろうか。ここに社会的不満が発生し、その解決能力に応じて改良改革なり革命なり回天が必要とされているのではなかろうか。 資本主義的近代産業制は、資本家と労働者の二大階級を生み、その間に様々な階層を作っているが、搾取論で説明するのは矮小ではなかろうか。階級差は社会の発展と共に必然的に生み出されるが、これを資本主義制的に整序するのか近代産業制的に整序するのかが問われており、両者は別物なのではなかろうか。近代産業制を資本主義制にせしめているものを疑惑せねばならないのではなかろうか。 我々が考察すべきは、資本主義的近代産業制ではない社会主義的近代産業制の在り方であり、マルクス的な搾取論のみならず労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の見地からの総合的把握が必要なのではなかろうか。要求されるのはその社会の発達の程度に応じた合理的在り方ではなかろうか。 マルクス主義以来の左派運動が金科玉条する資本家=悪、労働者=善とする扁平な理論ではこの問題が解けず、太刀打ちできないのではなかろうか。近代産業制の果実からもたらされる労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の論を創造する事により、今よりはずっとましな労働運動、政治運動が生み出されるのではなかろうか。これを体制内化させず常に目線を高くする左派運動が望まれているのではなかろうか。 思うに、労働者階級及び個々の労働者は、俗流マルクス主義の諸理論によって擁護されていると同時に却ってスポイルされている面がありやしないか。真っ当な労働意欲、自己啓発、能力、責任を育てることに背を向けすぎていやしないだろうか。そういう風に仕向けられているのであろうが。その裏返しで、経営者ないしは事業体に対して不当に搾取者視し、事業意欲、能力、責任を育てることに背を向けすぎていやしないだろうか。 考えてみれば、党派運動も一種の事業であり、党員及び指導者はその事業の主体者である。その意味では党派運動を能く為す者は経営者に近い。逆に云えば、事業者は或る意味で党派運動を為している感があり、意識的には革命家であるかも知れない。つまり、日本左派運動が敵視している経営者の方がよほど革命的な面があるという背理がある。れんだいこのみならず多くの者が生活体験からそういうことを学んでいるのではなかろうか。 そういうことも含め、日本左派運動が依拠したマルクス主義理論が何の役にも立たないところから無視され始め、今や化石理論になりつつあるように思われる。筆者は、さりながらマルクス主義の良質面を救い上げ、これと他の諸理論との総合による現代的人民大衆解放理論を創造せねばならないと考えている。学問が学問に値するものでなければならないと考えている。学んで却って馬鹿になるような学問が主流化しつつあるが、それらとは叉別系の学問を起こす必要があるのではなかろうか。一歩後退し二歩前進していくべきできなかろうか。 以上より、「マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地で企業活動を見直せ。これを第9指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第4指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。第5指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、第6指針の暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ、第7指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、第8指針の日本左派運動は、戦後保守主流派のハト派政治を再興せよ。戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第9提言」としておく。 一応以上で、「日本左派運動に対するれんだいこ提言完結」とする。筆者の目下の思想状況を吐露した。反応を聞かせてもらえば有り難い。 2008.1.22日 れんだいこ拝 |
階級闘争は現実です | パルタ | 2007/06/24 14:22 |
階級闘争はマルクス以前から日本でも、中国でも、欧州でもありました。そして、それは現在の日本、中国、中南米の現実でもあります。今日権力を握っているのは資本家以外の何者でもありません。そして、人は本に書かれた理論を知った時ではなく、生活出来ずに切羽詰まった時に高利貸しや役人、地主、殺人警官、反動軍人と闘うのです。 現在再び若者の間で労働運動が復活したのは食えないからです。しかし、現在の日本のかなりの企業経営者、官僚、政治家が全てロス派の意向で動いているのも事実でしょう。ロスやロックが資本家そのものであったとしても。 中国には階級闘争が必要だったし、今も必要です。しかし、何故結局中国もユーゴもロス派に都合の良い結果にしかなってないのかは考える必要はあると思います。何故中国で共産党が政権を取ったにも関わらず、今日に至るまで中国の労働者は生み出した富を軍閥と財閥と官僚に全て吸い取られて負け続けねばならなかったのか、何故日本の労働者は90年代以降悪化しているのか、貴方の論の中に鍵があるのかも知れないと思ってます。 |
Re:階級闘争は現実です | れんだいこ | 2007/06/24 19:56 |
パルタさんちわぁ。早速のレス有難うございます。階級闘争についですが、れんだいこは階級闘争論を満展開するつもりはありません。歴史を長い通史で見れば、マルクス主義的な階級闘争論で整理できるかとは思います。しかし、歴史その時の実態は、為政者と被支配者の支配の在り方を廻る調整と闘争であり、ことさら階級闘争論を持ち出す必要はないと考えております。歴史は日々の調整と闘争による漸次的変化の連続であり、但し、時代の大きな変わり目に於いて為政者が無能力を呈した場合に回天運動なり革命が必要で、歴史は実際にそのように変化してきたと了解しております。 資本家論についてもマルクス的理解に疑問を感じております。実際には、資本家といっても大手企業と中小零細企業とでは性格が異なっていると思います。経営者を資本家で括るのは飛躍しすぎで、絵に描いたようなワルというのは実際には居ないのではないでせうか。いずれにせよ、度の外れた収奪をしている場合には企業は長続きしておらず、それぞれ社の理念を掲げ、それなりの社会的貢献をしていることで存続しているのではないでせうか。伝統的な日本式経営に従う場合、所得格差もそれほど酷いものではありません。 収奪丸出しの資本家と云うのは、考えてみると、戦前の財閥然り、昨今のハゲタカ経営然りで皆なネオシオニズム系の息がかかっております。彼らは世界を植民地化させ、抵抗者を根こそぎ殺戮し、在地の文化文明を滅ぼしてきました。先進国の場合、彼らは在地の政府と結託し、権力の甘い蜜を吸い、我さえ良ければ式の根こそぎ収奪を体質としております。彼らの処世観には、富むか奴隷となるか、やるかやられるか、やられたら徹底的にやり返すの二元法しかありません。その昔、イエスが激しく弾劾したのも正論でせう。 彼らは昔から金融と軍事利権に絡んでおり、株と戦争でボロ儲けしております。石油、原子力その他資源独占もお手のもののようです。れんだいこ的には資本主義、資本家が悪いのではなく、ネオシオニズム的資本主義、資本家への捻じ曲げが悪いということになります。両者は質が違うのではないでせうか。これを区別せずに論ずると真相が見えてこないのではと思います。その点、このように分析しないマルキシズムと云うのは理論が粗い、そう思います。 現在我々がますます食えなくなっているのは、為政者がハト派からタカ派へ転換して以来です。ハト派時代の日本は、経済成長を図りつつ他方で世にも珍しい国民全般の生活保全に留意し社会保障、年金を整備しております。国際的にも協調と経済援助を行っております。今日から振り返れば善政を敷いていたと云えるのではないでせうか。不思議なことに、れんだいこも含めてその頃は政府批判ばかりしていた。1970年の頃はベトナム反戦運動があり、れんだいこの抗議ももっぱらこの方面から来る正義運動、それに関連するプロテストだったと思い直しております。 1970年代にハト派の絶頂期を演出した角栄−大平同盟がキッシンジャー戦略により鉄槌をくらわされ、1980年代より今日に至る中曽根−小泉同盟によるタカ派政治が始まることにより、善政時代の基盤が構造改革と云う名に於いて全て壊されつつある。こういう時には我々は怒らなければならないのに、逼塞させられている。皮肉なものです。 > 中国には階級闘争が必要だったし、今も必要です。しかし、何故結局中国もユーゴもロス派に都合の良い結果にしかなってないのかは考える必要はあると思います。何故中国で共産党が政権を取ったにも関わらず、今日に至るまで中国の労働者は生み出した富を軍閥と財閥と官僚に全て吸い取られて負け続けねばならなかったのか、 中国は文革で敗北し、ネオシオニズム走資派のケ小平が実権を握って以来、元の木阿弥に戻ったと見立てております。文革は反省せねばならない点が多々有りますが、ケ小平派の観点から見直す理由は何もないと考えております。今日日本に流布されているのはこの観点からのものばかりです。中国は旧文革派が理論を獲得すればいずれ内乱必至でせう。 > 何故日本の労働者は90年代以降悪化しているのか、貴方の論の中に鍵があるのかも知れないと思ってます。 有難うございます。れんだいこ的には、マルクス主義をよく学び、叡智を寄せて出藍しなければならないと考えております。但し、学ぼうにもあの程度の訳本では理解できないと思います。それほど狡知な手が入っていると見立てております。れんだいこ訳の「共産主義者宣言」が読まれることを願っております。市井本は肝心なところの訳が曲げられており、分かりにくくされております。れんだいこはそれを見つけて正訳にしております。あんまり注目されないんだけれども。とかなんとかでまた。 2007.6.24日 れんだいこ拝 |
【提言12、学生運動の分限と功罪考】 |
学生運動の今日の低迷水準と、筆者が既に還暦前に至ろうとしている分別の両面から次のようなことを云わしてもらおう。 一般に、青年とは、ひた向きな純粋さの面があるものの、残念ながら、その時流の価値判断まで為し得る分別智がない、というか欠けており、純粋さが時流に翻弄され易い面があるのではなかろうか。つまり、青年の若さは功罪相半ばしているように思われる。 青年が時流に流される場合、その時流が正の流れである場合には青年の能力は如何なく発揮される。それは良いとして、逆の場合には、こと志と違って邪悪な勢力に利用されたり、壮大な消耗に終わる、あるいは徒に衝動的なままに立ち振る舞うことで社会に害を与える。 学生運動もこの例に漏れないのではなかろうか。学生運動にも正の面と負の面がないまぜになっており、いわば本能的に正の面を追及して行くべきところ、時に負の面に入り込み、あるいは現在の如く身動き取れない事態に陥ったりする。これを如何せんか。良き指導者が必要とされる所以がここにある。但し、この場合の良き指導者とは、居たとしても千年に一人、万年に一人であり、歴史の流れから見出す以外にない。これが、筆者が学生運動史検証の結果、会得した見立てである。 最後に提言しておく。青年学生運動は三種類の性格のものから構成されているように思われる。一つは、社会に対するプロテストとしての抗議運動。二つ目は、改良的改革運動。三つ目は体制変革運動。この三系は全体的には関連しながら当面は質の違うものであり、このボタンの取り違えがないよう運動を推進すべきではなかろうか。 筆者が見るところ、抗議運動を無理矢理に体制変革運動化せしめたり、体制変革運動化せしめるものを改良的改革運動にしてみたりのチグハグが目立つ。これまた英明な指導者が待たれる所以である。 2008.8.19日、2008.9.14日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)