党派間ゲバルトの経過と実態考その2、1969年から1974年まで

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.29日

 関連サイト 70年代前半期の諸闘争70年代後半期の諸闘争1980年代の諸闘争1990年代の諸闘争2000年代の諸闘争

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「党派間ゲバルトの経過と実態考その2、1969年から1974年まで」を確認しておく。後日、再推敲する。
 2012.10.22日再編集 れんだいこ拝



【1969(昭和44)年】

【第二次ブント内ゲバで7.6事件発生、ブント議長が重傷を負い逮捕される】
 7.6日、第二次ブントが第7回大会、第8回大会。1968.10・21防衛庁闘争、1969.4.28闘争以来の党内対立を調整する為、7・6中央委員会開催を召集した。これに対し、塩見孝也(京大)、田宮高麿(大坂市大)、上野勝輝(京大)が率いる赤軍派フラクション150~200名が、東京医科歯科大学で総決起集会を行い対抗した。第二次ブント党中央の仏(さらぎ)派は明大和泉校舎、中大グループは中大駿河台校舎に武装集結した。その後、赤軍派がブント中央委員会会議が開かれる予定だった明大和泉校舎へ行き、仏派と赤軍派が対峙し、赤軍派が「ファシズム到来前の前段階武装蜂起=臨時革命政府樹立を目指すべきだ。指導力をなくした仏派に代わって中央を担う用意がある。今の指導部では70年安保を戦えないから、党の革命を断行する」ことを宣言した後、武闘を開始した。赤軍派が制圧し、ブント議長・仏(さらぎ)徳二氏を拉致監禁、暴行に及んだ挙句、隣地の墓地に連れ込んだ後、放置した。機動隊が包囲し始めており、赤軍派が撤退し始めた時に機動隊が乱入し、4.28破防法容疑で逮捕状の出ていた仏議長が逮捕された。これが第一ラウンドとなる。

【叛旗派が7.6事件報復で関西赤軍派4名を捕虜監禁、同志社大生が死亡(「望月事件」)】
 赤軍派の指導者・塩見と田宮が拠点としていたお茶の水の医科歯科大に引き上げたところへ叛旗派系中大全共闘(関東派)約450名が襲撃し、激闘の後、関西赤軍派29人を捕虜にした。25人はすぐ釈放しリーダーの塩見孝也、花園紀男(早大)、望月上史(同志社大)、物江克男(滋賀大)の首謀者4名を中大1号館に連れ込み、「ブント議長のさらぎ徳二を負傷させ、結果的に共通の敵である警察権力に売り渡す形になったのは革命家としてあるまじき行為」であるとして自己批判を迫り続けた。この間、「田宮が御茶ノ水駅前交番に助けを求め逃げ込んだ不祥事」を発生させている。4人は軟禁状態におかれた。1食300円の食事を与えられ、洗濯や体を洗うこともでき、監視つきで喫茶店に行くことも、家族の面会も許されていたという。次第に監視が緩やかになったが解放されることはなかった。ここまでが第二ラウンドとなる。
 7.25日未明、事件から2週間後、4人は中央大学法学部長室の3階からの脱出を試み、消火用のホースで下に逃げようとしたところ、望月が足をすべらせて頭から転落した。塩見ら3人は、遠山美枝子を起こして5千円を借り、はだしのまま病院に望月をあずけ、そのまま姿を消した。望月が意識不明の66日間を経て9.29日死亡した(享年22歳)。脱出過程での転落死事件ではあったが、望月上史(同志社大)が赤軍派の最初の犠牲者となった。この間、関西派は赤軍の旗をかかげ武装闘争を開始することに夢中で仲間の死を振り返る余裕はなかったので望月の追悼集会はもちろん供花さえされていない。ここまでが第三ラウンドとなる。
 塩見はこの間、他の同志と共に赤軍派フラックとして、仏氏リンチと氏を逮捕に追いやったことについて厳正に自己批判し、ブントに処分を仰ぐ旨声明した。「軍事の自然発生性に帰しないのは7・6事件以来の戒律であった」とある。この事件が「ブント大分派闘争」の始まりとなり、赤軍派が分離独立していくことになる。

【中核派が埼玉大の反戦連合を襲撃】
 9.17日、中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学の反戦連合に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり武器を調達したという。目標は反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだった。(略)内部を知り尽くしている滝沢の手引きによる襲撃の前に彼らは一気に蹴散らされた。そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたき、拉致していた理工学部のTをひと気の無い山道に放り棄てた。その頃、北浦和キャンパスには急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。埼大中核派も滝沢を除いて駆け付けて来たが何も知らされていないかった。後から戻って来た学生によって「埼大中核派の滝沢がいた」事が明らかにされ、埼大中核派は非難を一身に浴びて弁明する。「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。Tが拉致された先は芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がつき、リンチに遭っているT救出の志願者たちで行動隊を組織する。(「ウィキペディア(Wikipedia)内ゲバ」参照)

【埼玉大の反戦連合が二号館にいた中核派を襲撃、「内ゲバによる最初の死者」発生(「滝沢事件」)】
 9.18日、 大学立法反対などでバリケード封鎖中の芝浦工大で、反戦連合の学生二十余名が同校二号館にたてこもっていた中核派を襲撃し、(略)熟睡中に不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落し、その1人、埼玉大中核派学生滝沢紀昭が死んだ。「内ゲバによる最初の死者」となった(芝浦工大大宮校舎内ゲバ事件/反戦連合-中核派)。襲った理由は埼玉大学で中核と反戦連合が対立していて、前日に内ゲパがあり、反戦連合系学生一人が人質として芝浦工大へ連行されていて、その人質の奪還ないしは仕返しのために襲撃したものという。

【中核派、解放派ら八派と革マル派が日比谷野外音楽堂で集団会戦】
 11.28日、日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が衝突。 「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた」(立花隆、1975、上巻)。

【革マル派が糟谷君虐殺人民葬集会を襲撃、日比谷野外音楽堂で集団会戦】
 12.14日、日比谷野外音楽堂、糟谷君虐殺人民葬で中核派、解放派ら八派に対し革マル派が襲撃。 「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に、大乱闘をくり広げ、50人が負傷」(立花隆、1975、上巻) 。

【1970(昭和45)年】

 5.22日、明治大学商学部11号館前で、学生大会参加への呼びかけを行っていた代々木系の学部自治会約80名に対し、反対する全共闘系の約300名が押しかけて衝突。乱闘により数人が負傷。

 6.17日、早稲田大学二十二号館前で学生集会を開こうとしていた代々木系の学生約200人と大会粉砕を叫ぶ革マル派の学生約80人が衝突。3名が負傷。

【ブント政治集会で内ゲバ】
 6月、 豊島公会堂でのブント政治集会で各派が内ゲバ。「荒岱介 2001」は次のように記している。
 「豊島公会堂で開かれたブント政治集会では、叛旗・情況派ブロックとのゲバルト闘争になった。三上治が演説をしているさなか、会場脇の扉から青竹が次々に運び込まれた。こちらも用意していたので会場の中央でぶつかり合った。パチンパチンと竹竿で競り合うなかで、三上が声を張り上げて演説していたのが印象的だ」。

【中核派の革マル派テロ「海老原事件」】
 8.4日、「東京教育大学生リンチ殺人事件/中核派-革マル派」。革マル派の活動家・東教大生・海老原俊夫氏の死体が発見される。中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明。中核派は事件に沈黙した。革マル派は怒りを爆発させ報復を宣言。(れんだいこサイト「海老原俊夫君虐殺事件考」
 1970.8.4日の中核派による革マル派の東教大生・海老原俊夫氏のリンチ死事件は、リンチ死事件につき中核派の方から仕掛けたという史実を刻むことになった。両派の向自的な抗争が堰を切ったように始めさせる契機となったという意味で、本事件の重要性がある。中核派の「負い目」は1972.11.8日の革マル派による中核派シンパ早大生・川口大三郎氏のリンチ死事件まで続く事に成る。これを逆に言えば、革マル派は、早大生・川口大三郎氏のリンチ死事件によって革マル派の東教大生・海老原俊夫氏のリンチ死事件の贖罪権利を失って両派が五分になったことを意味する。

【革マル派の中核派テロ】
 8.14日、「革マル派が第一次報復」。中核派に変装した革マル派数十名(約30人)が法政大に侵入襲撃し、中核派学生十数名を捕捉(うち女性2名)、陰湿酸鼻なリンチテロを延々と続けていった。この間キャンパスでは、海老原君の遺影を掲げた革マル派の追悼集会が開かれていた。次のように報じられた。
 「中核派の学生をよそおい、硬質ビリーニールパイプで武装した革マル派学生のどぎつい手口、むごたらしいリンチの現場――救出にかけつけた救急隊員も、あまりの陰惨さに驚くばかりだった」。

 革マル派は次のように声明している。
 「わが全学連が階級的復讐を公然と誓い、そのほんの一部を実現したに過ぎない。8.14のたたかいは、より強力でよりドラスティックなブクロ派解体に向けての合図にほかならない」。

 「海老原事件」以後、中核派拠点大学に対して革マル派の報復が全国大学で激化し、この中でいわゆる集団戦が大学構内や街頭・駅構内で展開され、中核派は、拠点大学から次々に撤退していった。その後、中核派が反攻に転じたことにより、以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになる。

【革マル派関連】
 梅本克己氏の内ゲバ論(「何を革命するのか-党派の論理と革命の論理」70年9月、朝日ジャーナル)が発表されている。「内ゲバの底をさぐっていけばそこにはかならず特権意識につきまとわれた『前衛意識』があり、大衆蔑視の思想がある」、「その大衆蔑視が自己絶対化に、そして他者の否定につながる」、「何が階級的であるかということも党派の論理によって決定」、「自己解体の論理の必要」(「何か」所収)等々と書かれている。

【1971(昭和46)年】

【革マル派関連】
 3月、革マル派は、「革命的暴力とは何か?」(全学連中央執行委員会情宣部編集、こぶし書房)を出版し、同派の党派間ゲバルト理論を打ち出した。「海老原虐殺問題との対決を契機とした《党派闘争の論理と倫理》についての真摯な省察とあくことなき追求の集大成」と評している。

 主な内容(目次から引用)は次の通り。「海老原虐殺をめぐる日本左翼戦線」として、
Ⅰ・ 虐殺糾弾 満身の怒りをこめて 革共同・革マル派、殺人者集団ブクロ派を殲滅せよ-全学連
労働戦線から放逐せよ-東京反戦
沖縄マルクス主義者同盟からの弔電
東京教育大学友人一同の弔電。
Ⅱ・ 党派闘争貫徹のために 断固とした組織的反撃を-全学連・洞田勉
ブクロ=中核派を革命的に解体せよ-革共同・中央学生組織委員会
虐殺者集団を免罪する梅本克己-小島正臣 。
Ⅲ・ 党派闘争と暴力 何を革命するのか-梅本克己
海老原虐殺問題をめぐって-朝倉文夫・高知聡
「梅本克己氏に聞く」 党派闘争はいかになすべきか 虐殺と反撃は同列におけないが 革マル派は自己を絶対化? キリストになれとは言いたくないが・・
現代ソ連邦と社会主義の問題。
Ⅳ・ 政治と暴力-高知聡 前進社への最初の抗議
わが饒舌家の醜悪な本質
梅本克己における自己解体の現実
政治暴力論ノート
海老原事件をめぐる<政治>と<文学>。
Ⅴ・ 「新左翼」の退廃と知識人 海老原虐殺問題をめぐって-高橋和巳・高知聡
中途半端な「自己解体」=高橋和巳の場合-狩本青蔵。
Ⅵ・ 知識人の反応 A 第一次アンケート、深まる思想的退廃-早稲田大学新聞・編集部
B 第二次アンケート、新たな思想的営為のために-早稲田大学新聞・編集部。
Ⅶ・ 海老原虐殺の意味 環境・自己を変革する活動とは何か-大久保そりや

【日比谷公会堂前でブント各派が乱闘】
 4.28日、日比谷公会堂前でブント各派が乱闘。「荒岱介 2001」は次のように記している。
 「七一年の四・二八闘争で、ブント内分派闘争の決着をつける展開になっていった。当日は250人ぐらいの竹竿部隊が日比谷公園前で相互対峠し、集会参加者が見守るなか一斉にゲバルトになった。最初は(戦旗派と)赤軍派残党や関西派を中心にした二一・一八ブントとの対決だった。ゲバルトそのものは牛乳ピンを投げ、鉄パイプを持った迎撃隊を作った私たち(戦旗派)の勝ちだった。竹竿でのゲバルト戦は、投石や欽パイプには勝てない。戦術をエスカレートしたほうがいつも戦術的には有利なのだ。つぎは息をつく暇もなく、叛旗派の竹竿部隊が私たちの前に立ちはだかった。これも数秒で私たちの完勝だった」。

【革マル派関連/琉球大生の革マル派活動家死亡事件(「町田事件」)/民青-革マル派】
 6.18-19日、「琉球大生の革マル派活動家死亡事件/民青-革マル派」。沖縄で、日共系の沖縄人民党と革マル派が衝突し、真相が定かではないが、革マル派によれば民青による琉球大学男子寮襲撃によるもので、琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀君死亡事件が発生した。埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら9氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同声明」を発表し抗議している。

 これについて筆者はかく思う。この事件は筆者の学生運動現役の頃の事件であり、革マル派が早大本部キャンパスで、日共糾弾の大々的集会を開催した。対するに、民青同は事件の概要を伝えることが遅れ、暫く何のことか分からず困惑したことを記憶している。

【京浜安保共闘による印旛沼事件/早岐やす子絞殺、向山茂徳絞殺】
 7月下旬、「革命左派」(京浜安保共闘)の向山茂徳と早岐やす子が逃亡し、永田、阪口、寺岡、吉野らの協議により組織防衛のため殺害を計画。8.4日、「革命左派」が早岐を誘い出し絞殺。8.10日、「革命左派」が小平のアジトで、向山を絞殺。

【中核派の革マル派テロ(「水山事件」)】
 10.20日、「横浜国大内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、革マル派の活動家・美術学院院生・水山敏美を横浜国大富士見寮で虐殺、他東工大生と教育大生の数名が重傷した。次のような背景があった。横浜国大は元々中核派の拠点校だったが、革マル派が横浜国大富士見寮に他大学の革マル派学生を含めて泊まり込んでいた。この頃、中核派が武闘路線の為に学生の学外活動が多くなり、その手薄に乗じて革マル派が勢力を伸張し始めていた。10.20日当日は臨時学生大会を開催し、中核派執行部を追い出す手はずになっていた。そのぶち壊しを狙っての中核派の襲撃であった。

 これに対し、革マル派は「革マル恐怖症-殺人狂乱患者に落ちぶれたブクロ派を絶滅せよ」と題した「中核派絶滅宣言」を発表し、予告通リ攻勢にでることになる。次のように述べている。
 「〝本来の戦線〟において『革マル派の時代』をめざして着実に闘っている我が同盟にとって、既に生命のつきたブクロ派などは、もはやとるに足らぬ対象でしかない。とはいえ、彼らが左翼としての最低の一線を踏み外し、反革マル殺人狂乱患者に落ちぶれたかぎり、我々は革命的左翼としての己の責任にかけて彼らを絶滅する以外にない。むしろここに至っては、一切の怯ダは犯罪的でさえあるのだ。今やブクロ派絶滅の党派闘争を一切の手段と形態と方法を駆使しながら、断固として押し進めなければならない」。

 中核派は「カクマルに対する全面的せん滅戦争」宣言。

【革マル派の中核派テロ】
 10.20日、水山君事件のあった夕刻、革マル派が、中核派の拠点、池袋の前進社に向かって火炎瓶攻撃を行う。

【革マル派の中核派テロ】
 10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。

【革マル派の中核派テロ】
 11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。

【革マル派の中核派テロ】
 11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。同夕刻、前進社関西支社を攻撃。

【革マル派の中核派テロ(「辻、正田事件」)】
 12.3日、革マル派関西共闘会議は、大阪経済大学学生会館において、大学の授業料値上げ問題をめぐる闘争の戦術会議を開催し、「関西大学でステッカーとビラ貼りをする。中核派の攻撃に備えて突撃隊を編成する」と決定した。翌4日未明、革マル派30名は会館を出発し、電車で関西大学に向かった。途中大学裏の児童公園で自動車に積んできた武器を受け取り、一部のものが大学構内でステッカー貼りを開始した。

 12.4日未明、「関西大学構内内ゲバ殺人事件/革マル派-中核派」。革マル派30名が会館を出発し、電車で関西大学に向かった。途中大学裏の児童公園で自動車に積んできた武器を受け取り、一部のものが大阪の吹田市千里の関西大千里山学舎構内でステッカー貼りを開始した。午前6時頃、法文学舎を占拠していた中核派が革マル派部隊を発見。中核派15名が革マル派を襲撃。待ち構えていた革マル派の突撃隊が鉄パイプで反撃し、中核派側が逃走。逃げ遅れた中核派副委員長の辻敏明(京大、22歳)、正田三郎(同志社大、23歳)が滅多打ちにされて死亡。学内に革マル派のビラが貼り出された事から革マル派によるゲバルト殺人と判明した。これが関西で初めての党派間ゲバルト殺人となった。  

 中核派は、これを12.4反革命と規定し、報復として「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。この時までの対応について、「十二・四反革命以前のたたかいは、70年闘争の爆発に追いつめられたカクマル派が時と所を選ばずにやりたい放題の襲撃をかけてきたことにたいする、われわれのやむにやまれぬ正義の反撃としてあった。それはまさに必要不可欠な反撃であった」と「戦略的防御段階の報復戦」と規定している。

【革マル派の中核派テロ(「武藤事件」)】
 12.15日、革マル派が、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃、虐殺する。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明。その他、この時期に中核派の三人の政治局員が革マル派のテロにあう。   

 この間中核派は為す術を持たない風であった。中核派はこの頃から革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」と認識し始めた。こうして、両派の後に引くに引けないテロ戦が開始されていくことになった。

【連合赤軍による山岳ベース事件】
 12月-1972.2月、連合赤軍による山岳ベース事件。(れんだいこサイト「連合赤軍史考2」

【1972(昭和47)年】

【中核派関連】
 1.5日付け革マル派の機関紙「解放」が「首ねっこ急所論」を述べる。中核派が、これこそ「K=K連合自認論」と批判する。

【革マル派の中核派テロ】
 1.15日、革マル派が、中核派幹部の陶山健一政治局員をテロ。正月休みで郷里に帰っているところを家族の面前で鉄パイプで殴打する。

【連合赤軍による山岳ベース事件】
 2月、連合赤軍による山岳ベース事件。

【革マル派の中核派テロ】
 2.5日、革マル派が、中核派系の沖縄大学自治会室を襲撃し、中核派活動家3名をテロ。

【中核派-革マル派の代々木公園集団会戦】
 2.25日、代々木公園会戦。革マル派が、代々木公園で中核派と集団戦となり圧勝する。

【革マル派-社青同解放派(革労協)が衝突、党派間戦争に突入する】
 3.30日、大阪地評青年協集会の場で、社青同解放派(革労協)と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。

【革マル派-社青同解放派(革労協)の大阪城公園集団会戦(「木下事件」)】
 4.28日、「大阪城公園集団会戦事件/革マル派-社青同解放派(革労協)」。革マル派が社青同解放派(革労協)を蹴散らした格好となったが、革マル派の木下正人氏が社青同解放派(革労協)の集団から棍棒で滅多打ちにされ死亡した。社青同解放派・革労協は被害者の死因を「心停止」、「心臓麻痺」等と、あくまで偶発的死亡と主張していたが、被害者の体には多数の骨折や出血、アザがあり、警察は殺人事件として捜査したが結局、犯人が見つからぬまま1987(昭和62)年、公訴時効が成立し迷宮入り未解決事件となった。この事件より、社青同解放派(革労協)と革マル派の党派間戦争に突入した。

【中核派と革マル派の相模原集団会戦】
 9.4日、ベトナム侵略戦争に動員されるアメリカ軍の戦車と兵員輸送車の搬出を阻止する反戦相模原闘争の際、革マル派による「待ち伏せ襲撃」により中核派と革マル派が7、800名規模でゲバルト会戦している。100名以上の負傷者が出たといわれており、中核派が、前進第600号特大の見出しで「反革命、KK連合、カクマルに勝利」したことを報じている。

【革マル派の中核派テロ】 
 9.17日?、革マル派が青へルをかぶり社青同解放派(革労協)の隊列と見せかけて、慶応大学日吉校舎で、中核派を奇襲し、めったうちにした。

 橋本利昭「
革共同私史」の「対カクマル闘争」が次のように記している。
 「もうひとつ重要な節目に、72年9月17日、慶應日吉校舎での事態がある。この日、カクマルは青へルをかぶり、社青同解放派の隊列と見せかけて奇襲し、中核派の学生をめったうちにした。それ以前にも、70年8月、法政大学で中核派に変装して中核派学生数人を襲撃したことをはじめとして、72年驚谷で、73年、74年には法政大学に数度にわたって、同様の卑劣な襲撃をかけている。これらも「カクマル= 反革命」規定をおこなう契機となった」。

【革マル派の中核派テロ】
 9.25日、革マル派が、慶応大学日吉校舎で、50名の中核派を包囲し叩きのめす。

【革マル派の中核派テロ】
 9.26日、革マル派が、大阪の地下鉄我孫子駅で、中核派40名を襲撃。

【革マル派の中核派テロ】
 10.25日、革マル派が、東西で中核派襲撃。

【革マル派の中核派シンパテロ(「川口事件」)】
 11.8-9日、「川口大三郎君リンチ殺害事件/革マル派-中核派シンパ」。早大で革マル派による中核派シンパと見られた川口大三郎君のリンチ殺人事件が発生。革マル派は、事件に対し、概要「追及過程での意図せぬ事態でショック症状により死亡したものであるが、党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない。一部の未熟な部分によって起こった事態であり率直な自己批判を行う」と表明したが、早大で凄まじい革マル派批判闘争が始まった。積年の恨みつらみが一挙に吹き出始め、革マル派は拠点早稲田で追い詰められていった。「川口大三郎君リンチ殺害事件」は革マル派の汚点となった。(「川口大三郎君虐殺」事件考」)
 1970.8.4日の中核派による革マル派の東教大生・海老原俊夫氏のリンチ死事件は、リンチ死事件につき中核派に「負い目」となったが、早大生・川口大三郎氏のリンチ死事件は今度は逆に革マル派に「負い目」を持たせることになった。いわゆる相殺事案となったと云う意味で、ゲバルト史上における川口大三郎リンチ死事件の持つ歴史的意味は大きい。

【革マル派による関西大学構内でのゲバルト殺人事件】
 12月、革マル派による関西大学構内での下゜バルト殺人事件。

【1973(昭和48)年】

 (前年かも?)3.25日、革マル派と社青同解放派(革労協)と武力衝突。

【革マル派の第1次中核村襲撃】
 7.4日、革マル派が「第1次中核村襲撃」。革マル派が、池袋の中核派アジト4ヵ所を襲撃。

【革マル派の中核派数人を襲撃】
 9.9日、革マル派が、西武池袋線・保谷駅で中核派数人を襲撃。

【革マル派の中核派集会襲撃】
 9.11日、革マル派が、東大駒場で集会中の中核派を襲撃。

【社青同解放派(革労協)と革マル派の神奈川大での集団会戦、襲撃側の革マル派のレポ2名が殲滅さ
れる(「金築、清水事件」)】
 9.14日、「神奈川大学内ゲバ殺人事件/社青同解放派(革労協)-革マル派」。未明、社青同解放派(革労協)100名が、神奈川横須賀での空母ミッドウェー母港化阻止集会に参加すべく、拠点校の神奈川大3号館と宮面寮に泊まっていたところへ、9.15日午前1時45分頃、覆面姿の革マル派150名が鉄パイプで乱入し、乱闘で双方で21名が負傷した。社青同解放派(革労協)のほとんどが入院を余儀なくされている。

 この乱闘の最中、社青同解放派(革労協)がレンタカーで動向視察していた革マル派2名を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。午前10時30分、保土ヶ谷区川島町の横浜市水道局西谷浄水場裏の小道で、金築寛(東大、23歳)と清水徹志(元国際基督教大生、24歳)の死体が見つかった。この事件はそれまで中核派と革マル派の間だけで行われていた内ゲバ殺人に、社青同解放派(革労協)も参加する契機となった。革マル派は以降、中核派と社青同解放派(革労協)の2セクトと抗争を引き受けていくことになる。

【革マル派の川口君事件追及派テロ】
 9.16日、革マル派30名が、中央区日本橋の三越本店屋上で、川口事件を追及する反革マル派を鉄パイプで襲い8名が逮捕された。屋上には一般客500人がいた。

【革マル派-中核派の鶯谷駅集団会戦】
 9.17日、「国電鶯谷駅内ゲバ事件/革マル派-中核派」。午前7時30分頃、鶯谷駅会戦戦。国鉄鶯谷駅ホームで、京浜東北線南行き電車に乗ってきた中核派150名が降り、上野公園口の改札口近くへ向かったところ、上野公園口から革マル派80名が乱入、駅構内及び線路上で乱闘となり山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。双方合わせて7名が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった。5名が逮捕された。

【中核派の革マル派テロ/中核派が「戦略的対峙段階」突入宣言】
 9.21日、中核派が、東京外語大で、ビラまき中の革マル派学生を襲撃殲滅する。これが、中核派の革マル派への報復戦の本格的開始となった。中核派が「戦略的対峙段階」突入を宣言。以降、中核派と革マル派の「党派戦争」が激化する。

 「ネットマガジン『新左翼大論争』第2号」によると、「清水序文」で、概要「73年9・21以来の中核派の対革マル派赤色テロは件数で436戦闘、完全殲滅43人、そのうち75年3・14以後の革マル派の死亡は31人」と主張している。これに対し、革マル派の中核派テロ攻撃の死者(73年以降の)は、74年9月全逓の高橋氏、76年2月静岡大の2人、反戦世話人の橋本秀次郎氏ら約9人。解放派との「党派戦争」も含めれば、死亡者は100人以上ということになる。

【中核派の革マル派テロ】
 9.25日、中核派が、千葉大で、革マル派学生2名を襲撃殲滅する。

【中核派の革マル派テロ】
 9.26日、中核派が、東京教育大学生寮で、革マル派の東京教育大指導部2名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.1日、中核派が、革マル派の大阪市立大指導部2名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.1日、中核派が、東京北区路上で、革マル派の埼玉大最高指導部1名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.2日、中核派が、革マル派の横浜国大で3名を殲滅。うち2名重傷。東邦大で3名殲滅、うち2名重傷。大阪経済大で1名殲滅。関西の最高指導部1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.6日、中核派が、東京の小田急経堂駅で、革マル派政治局員・土門肇を撃沈。

【中核派の革マル派テロ】
 10.8日、中核派が、国際基督教大で革マル派の2名、東京工業大で2名を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 10.8日、革マル派が、「前進」を印刷中の毎夕新聞社を襲撃。

【革マル派の中核派テロ】
 10.9日、革マル派が、国学院大で20数名の中核派襲撃を撃退。

【中核派の革マル派テロ】
 10.13日、中核派が、革マル派の大東文化大指導部の2名、大阪産業大で10数名を粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 10.18日、中核派が、革マル派の関西地方委員会キャップの楠徹を自宅付近で殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.19日、中核派が、革マル派の大阪一立大キャップ片村をアジト付近で殲滅。千葉大で10数名を粉砕、1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 10.19日、革マル派が、沖縄で中核派の4名を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 10.20日、「中核派アジト襲撃事件/革マル派-中核派」。革マル派約170名が、東京、横浜、大阪、京都の中核派拠点12ヶ所を一斉襲撃(「ミッドウェイ作戦」)。鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13名が負傷した。「中核派の小野正春に鉄槌」。

【中核派の革マル派テロ】
 10.21日、中核派が、革マル派の横浜国大生1名を自宅付近で襲撃殲滅。上智大生1名を自宅付近で襲撃殲滅。「世田谷区のアパート「ふく荘」前で引っ越し作業中、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した(警視庁1975)。

【中核派の革マル派テロ】
 10.22日、中核派が、革マル派の国学院大自治会執行委員の女子活動家をバールで襲撃。

【中核派の革マル派テロ】
 10.23日、中核派が、宮崎大で革マル派の1名を襲撃殲滅する。

【革マル派の中核派テロ】
 10.31日、革マル派が、中核派の北海道最高指導部の橋間泰作に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 11.2日、中核派が、法政大で革マル派の秘密同盟員1名を授業中の教室で殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.4日、中核派が、革マル派の大阪市立大中心人物の藤田を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 11.4日、革マル派が、関西前進社前で中核派の1名に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 11.5日、中核派が、革マル派の大阪経済大2部の中心メンバー碓井を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.6日、中核派が、革マル派の下関市立大でキャップ山本を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.7日、中核派が、革マル派の佐賀大指導部の野口を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.12日、中核派が、立命館大で革マル派の1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 11.12日、革マル派の早大最高幹部・田中、佐竹が自己批判。

【中核派の革マル派テロ】
 11.15日、中核派が、早稲田大アジト襲撃、国学院大指導部1名を立川市の下宿付近で殲滅。

【中核派-革マル派が大阪西梅田地下街で集団会戦】
 11.16日、大阪西梅田地下街で集団会戦。中核派は「壊滅的勝利」、革マル派は「根底的壊滅勝利」を主張。

【中核派の革マル派テロ】
 11.16日、中核派が、革マル派系のこぶし書房を襲撃、幹部1名を撃沈。

【中核派の革マル派テロ】
 11.17日、中核派が、革マル派の東洋大生3名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.18日、中核派が、革マル派の琉球大生2名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.19日、中核派が、革マル派書記長・朝倉を自宅で殲滅。国学院大生1名、信州大生1名。大阪市立大生1名。神戸大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.20日、中核派が、革マル派の名古屋大生1名。

【革マル派の中核派テロ】
 11.20日、革マル派が、中核派の突撃隊長江頭に大阪門真市内の下宿で鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 11.21日、革マル派が、九州前進社を襲撃。

【中核派の革マル派テロ】
 11.22日、中核派が、竜谷大で革マル派の1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 11.23日、革マル派が、大阪の堂島地下街で中核派4名に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 11.24日、中核派が、革マル派の沖縄突撃隊長殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.29日、中核派が、革マル派の沖縄国際大自治会室を襲撃、2名殲滅。東京工業大生1名を解放社付近で鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 12月、中核派が第二次大攻勢。

【革マル派の中核派テロ】
 12.1日、革マル派が、中核派関西最高幹部の山本を大阪の前進社付近で鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 12.2日、革マル派が、沖縄の高級ホテルで、結婚式を終えた新郎に鉄槌(誤爆)。那覇市で軍事中枢部門6名に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 12.3日、中核派が、革マル派の沖縄最高幹部を撃沈5ヶ月の重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 12.5日、中核派が、革マル派の宮城農業短大寮を襲撃。10数名粉砕、指導部1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.6日、中核派が、革マル派の専修大指導部1名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.7日、中核派が、革マル派の愛知大豊橋生、下関市立大生各1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.7日、革マル派が、大阪の地下鉄本町駅ホームで中核派の2名に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 12.8日、中核派が、革マル派の鹿児島大生、一ツ橋大生各1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.9日、中核派が、革マル派の岐阜大最高指導部1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.9日、東京で襲撃してきた軍団20名粉砕、5名重傷。

【中核派対革マル派が東京目黒本町の公園で集団会戦】
 12.9日、革マル派が、東京目黒本町の公園で、襲撃してきた中核派を粉砕、5名が重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 12.10日、中核派が、革マル派の近畿大呉生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.11日、中核派が、革マル派の東北福祉大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.12日、中核派が、革マル派の東北福祉大指導部1名、国学院大1名を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.14日、革マル派が、中核派の長谷川英憲を東京荻窪の喫茶店で鉄槌。

【中核派対革マル派の東神奈川集団会戦】
 12.15日、東神奈川会戦。中核派は「一瞬で粉砕」、革マル派は「鉄槌」と主張。

【中核派の革マル派テロ】
 12.18日、中核派が、革マル派の立教大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.20日、中核派が、革マル派の秋田経済大中心人物2名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.21日、中核派が、革マル派の熊本商大キャップ1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.21日、革マル派が、神奈川県座間市で中核派の4名を先制粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 12.23日、東京駅会戦。中核派は「歴史的大勝利」、革マル派は「一挙に突撃、次々鉄槌」と主張。

【中核派の革マル派テロ】
 12.23日、中核派が、革マル派の国学院生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.25日、中核派が、革マル派の山形大生2名を撃沈。

【中核派の革マル派テロ】
 12.26日、中核派が、関西解放社で革マル派の2名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.26日、革マル派が、東京の喫茶店で中核派軍団長に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 12.29日、中核派が、革マル派の国学院生1名、千葉大幹部1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.30日、中核派が、革マル派の琉球大生1名を殲滅、東大中心メンバーを再起不能殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.31日、中核派が、革マル派の岐阜大生1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.31日、革マル派が、中核派の沖縄軍団粉砕。

【1974(昭和49)年】
 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。この頃までは、革マル派の相対的優位が続いていたが、押されぎみであった中核派が次第に攻勢に転じ始める。

 この年、警察が把握した内ゲバは286件に及び内ゲバで11名死亡、607名重軽傷、検挙者428名。(「別章2」に記す)過去の年間最高であった1971(昭和46)年の4名をはるかに超える11人もの死者が出たことが如実に示すように、この年は内ゲバが一層凶悪化し、テロの報復合戦が活発化した。そのほとんどが革マル派対反革マル派(とりわけ中核派)の抗争であった。

【中核派の革マル派テロ】
 1.1日、中核派が、革マル派の南山大突撃隊長、琉球大生、相模工業大生各1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 1.2日、中核派が、革マル派の埼玉大指導部1名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 1.5日、中核派が、革マル派の九州議長を殲滅。学習院大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 1.7日、中核派が、革マル派の専修大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 1.9日、中核派が、革マル派の早稲田大生1名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 1.10日、中核派が、革マル派の琉球大中心メンバーを殲滅。

【中核派対革マル派の沖縄集団会戦】
 1.13日、中核派が、革マル派と沖縄集団会戦。

【革マル派の中核派テロ】
 1.14日、中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が、主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上、革マル派が襲撃し、本多、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられ9名重体。(れんだいこサイト「革マル派が、破防法弁護団会議襲撃」に記す)

【中核派の革マル派テロ】
 1.15日、中核派が、革マル派の九州地方委員会議長・吉川文夫を襲撃、瀕死の重傷を負わす。

【革マル派の中核派テロ】
 1.17日、革マル派が、毎夕新聞社襲撃鉄槌。前進の発行をストップさせる。

【中核派の革マル派テロ】
 1.18日、中核派が、革マル派の南山大キャップ殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 1.19日、中核派が、革マル派の相模原の労働者1名殲滅、黒田寛一邸放火。

【革マル派の中核派テロ】
 1.19日、革マル派が、大阪市立大の寮で中核派1名鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 1.20日、中核派が、革マル派の早稲田大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ(「矢崎事件」)】
 1.24日、「横浜国大内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、横浜国立大学経済学部校舎の食堂で革マル派の神奈川大生・矢崎知二(24歳)を満員の学生食堂内で虐殺。「立花隆 1975下巻」は次のように記している。
 「横浜国大でも革マル派活動家の矢崎知二君が六人の中核派に襲撃された。矢崎君は、おりからの昼食時で満員の学生食堂に逃げ込んだ。しかし、そこで追いつかれて引き倒された。そして、約三百人の学生が遠巻きに見守るなかで、一人が矢崎君の上に馬のりになって押さえつけ、他の二人が一メートルものバールをクワのようにふるって後頭部を打ちくだいたほか、全身をメッタ打ちにした」。

【中核派の革マル派テロ(「宮山、四宮事件」)】
 1.24日、「世田谷区内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、世田谷区内でも引越し中の革マル派とその友人の東大生4人を鉄パイプ襲撃。東大生・宮山隆(21歳)、四宮俊治(21歳)を虐殺した。 殺された二人は革マル派とは無関係だったとする説がある。事件後、中核派の「革共同通信」は次のように声明している。
 「一・二四の偉大なる戦果を実現したわが同盟と、そのもとに結集するたたかう全人民の志気はいよいよ高まり、その精神はいよいよ純潔である。(略)わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていくのである」。

 「立花隆 1975, 下巻」は「暴力論の一つの極点として、歴史に残る文書になるだろう」としている。同事件につき次のように解説している。
 「難を逃れたうちの1人は後の仏文学者石田英敬だった。革マル派活動家石田君が、最近中核派に狙われているらしいと気づき、住所を変えようとしていた。この日、三人の友人に手伝ってもらって朝から引越し作業をしていた。(略)石田君は二階から飛び降りて夢中で逃げ、引っ越しの手伝いにきていたもう一人の友人も逃げたが、富山隆君は逃げる途中でころんでしまった。そこを囲まれてバール、鉄パイプでメッタ打ちにされた。また、二階にいた四宮俊治君も逃げられないでいる所を踏みこまれ、これまたメッタ打ち」(「立花隆 1975 」)。

 「四方田犬彦 2009」は次のように記している。
 「わたしは引っ越しの当日に運良く逃げおおせた石田英敬のことを考えてみた。二十歳の時点で親友の同級生二人を目の前で殺害され、かろうじて生き延びた石田の心の傷と恐怖を想像すると、眩暈のような感覚に襲われる気がした。」

【革マル派の中核派テロ】
 1.30日、中央区銀座のコージーコーナーで、革マル派20名が、1階入口左のボックス席でコーヒーを飲んでいた中核派6名を襲撃した。「東京銀座で海老原君事件下手人7人鉄槌」。

【中核派の革マル派テロ】
 1.31日、中核派が、革マル派の早稲田大生3名殲滅。1名重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 2.1日、中核派が、革マル派の早稲田大生1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 2.1日、教育労働者2名鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 2.4日、中核派が、革マル派の12・22襲撃軍事責任者を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 2.7日、狭山闘争集会集団戦(解放同盟、動労組合員に暴行)。

【中核派の革マル派テロ(「比嘉事件」)】
 2.8日、「琉球大学内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派 」。中核派が、琉球大学教養学部で授業中の教室に乱入し、比嘉照邦君を鉄パイプ等で殴打し虐殺(革マル6人目の死者となる)。但し革マル派は「誤爆」と批判している。中核派が琉球大学自治会長安室を襲撃。応戦した琉球大生が死亡、とする説もある。 「立花隆 1975, 下巻」は次のように解説している。
 「中核派の殺し屋八人は(略)七十余名の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして、『自治委員長の安室はいるか!安室はどこだ!』とヒステリックに叫び、(略)その時、一人黒板の方向に走って退避せんとした比嘉君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれが、安室だ!殺れ!』と口ぐちにわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲いかかり、彼、比嘉君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである 」(「解放」)。

 「二・八は琉大カクマル幹部安室某に対する断固たる制裁として、またその革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅として圧倒的にうちぬかれたのである。(中核派)」。

【中核派の革マル派テロ】
 2.9日、中核派が、革マル派の大東文化大1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 2.10日、中核派が、革マル派の近畿大工学部キャップ殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 2.14日、中核派が、動労の革マル派と抗争する。

【革マル派の中核派テロ】
 2.16日、革マル派が、中核派の最高指導者を粉砕。(陶山 健一(すやま けんいち)氏と思われる)

【革マル派の中核派テロ】
 2.21日、革マル派が、中核派の最高幹部/北小路敏を撃沈、重傷を負わされる。北小路氏は同年8月の革共同政治集会で、火を吐くような勢いで二重対峙・対カクマル戦の総反攻突入を宣言している。

【革マル派の中核派テロ】
 2.22日、革マル派が、中核派の関西前進社最高指導部粉砕。

【革マル派関連】
 2.24日、ニセビラ事件(中核赤軍)。

【革マル派の中核派テロ】
 3.6日、革マル派が、中核派の政治局員を鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 3.7日、革マル派が、中核派の泉北反戦代表鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 3.12日、中核派が、革マル派の大阪市立大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 3.22日、中核派が、革マル派の国学院生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 3月、中核派が、革マル派の解放発行責任者・難波力二、堀内利昭を襲撃。

【中核派対革マル派の法政大集団会戦】
 4.3日、法政大会戦。中核派は「圧倒的勝利」、革マル派は「勝利宣言」を主張。

【革マル派の中核派テロ】
 4.3日、革マル派が、横浜で中核派の教労4名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.4日、革マル派が九州で襲撃。中核派が逆襲。

【中核派対革マル派の日比谷公園集団会戦】
 4.6日、日比谷公園での全共闘1500名の集会に500名の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30名が負傷。

【中核派の革マル派テロ】
 4.6日、中核派が、革マル派の神戸学院大生1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.6日、革マル派が、中核派の広島大生1名撃沈。

【中核派対革マル派の広島大集団会戦】
 4.8日、広島大入学式集団会戦。中核派は「鉄槌」、革マル派は「粉砕」を主張。

【革マル派関連】
 4.15日、革マル派が、機関紙「解放」で、は中核派に対して「党派闘争勝利宣言」を出す。中核派はこれを「戦争終結願望」、「平和へのむき出しの願望」と論評。

【中核派対革マル派の国学院大構内集団会戦】
 4.15日、中核派が、革マル派の国学院大構内で全部隊粉砕、殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.15日、革マル派が、関西地方委社会党員を京都で殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.17日、中核派が、革マル派の東京工業大生2名が正門でビラまき中を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.18日、中核派が、独協大でのビラまき中の革マル派の2名を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.18日、革マル派が、中核派の法政大ビラまき防衛隊20名に鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 4.23日、早稲田大集団戦。中核派は「殲滅」、革マル派は「鉄槌、糾弾」を主張。

【中核派の革マル派テロ】
 4.23日、中核派が、ビラまき中の革マル派5名を鉄槌、2名制裁、法政大で早稲田大生制裁。

【中核派の革マル派テロ】
 4.23日、中核派が、大阪経済大で革マル派の2名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.24日、中核派が、革マル派の山口大キャップ殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.26日、中核派が、横浜駅で革マル派3名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.27日、中核派が、横浜駅で革マル派の横浜院大キャップ殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.28日、革マル派が、中核派の病院反戦キャップ鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 4.30日、中核派が、横浜駅で革マル派の南山大社研キャップ殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 5.1日、革マル派が、中核派の神奈川・金沢地区の拠点粉砕。沖縄大学生会長撃沈。

【革マル派の中核派テロ】
 5.4日、革マル派が、中核派の矢崎殺害下手人鉄槌。東京南部地区委員長鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 5.7日、革マル派が、中核派の神奈川県委員長鉄槌。

【社青同解放派(革労協)が革マル派の拠点・早大第一学生会館を襲撃】
 5.7日、社青同解放派(革労協)が、革マル派の拠点・早大第一学生会館を襲撃。

【革マル派の中核派テロ】
 5.8日、矢崎殺害指導者粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 5.8日、革マル派が、中核派の東大襲撃部隊撃滅、9名粉砕うち5名を完全殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.11日、中核派が、革マル派の九州教労鹿島を護衛とともに撃沈。東北福祉大集会準備の4名粉砕、1名徹底殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.13日、中核派が、革マル派の九州全逓労働者2名、教労8名粉砕。

【革マル派-中核派の集団会戦(第1次法政大会戦)(「前迫事件」)】
 5.13日昼、「第1次法政大会戦/革マル派-中核派」。革マル派40名が、長さ1.5メートルの4段継ぎ手パイプを手にして法政大学から出て国鉄市ヶ谷駅に向かう外濠土手下の法政大裏の新見付交差点で中核派50名を襲撃した。中核派がバールを手に応戦、15分間乱闘となり、市ヶ谷駅まで1キロにわたり殴り合いながら移動した。25名が重傷、中核派系団体の幹部で墨田区役所職員の前迫勝士(38歳、革共同東京東武地区委員長)が鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。中核派は5人目の死者となった。他に25人が重傷。逮捕者は中核派15名、革マル派11名だった。革マル派は、「法政大会戦に革マル派全学連が大勝利」と発表した。

【中核派の革マル派テロ】
 5.14日、中核派が、広島大で革マル派の北海道大生制裁。

【中核派の革マル派テロ】
 5.15日、中核派が、革マル派の学生戦線最高指導部・千葉大最高指導部2名鉄槌。大阪産業大で1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.20日、中核派が、革マル派の学習院大でキャップ6名殲滅、国学院大3名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.21日、中核派が、革マル派の関東学院大1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.22日、中核派が、革マル派の大阪産業大で3名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 5.24日、革マル派が、中核派の前進社襲撃、粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 5.26日、革マル派が、中核派の横浜前進社、タイプ作業所襲撃。責任者粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 5.30日、中核派が、革マル派の政治組織局員撃沈。

【中核派の革マル派テロ(「小野事件」)】
 6.7日、「大阪産業大生内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、大阪産業大の革マル派シンパ学生・小野正裕をアパート自室で就寝中に鉄パイプ等で殴打し虐殺する。(大阪産業大学軍事責任者・小野武司がアパートで中核派の襲撃を受けて死亡、ともある)。(革マル派7人目の死者)

【革マル派の中核派テロ】
 6.7日、革マル派が、中核派の京都前進社責任者ら4名粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 6.11日、革マル派が、中核派の東京南部地区代表者代行鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 6.15日、中核派が、革マル派の専修大生15名粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 6.19日、中核派が、革マル派の和光大キャップほか7名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 6.20日、中核派が、革マル派の機関紙「解放」を印刷していた東京商工を襲撃、5名殲滅。愛知大指導部1名を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 6.23日、革マル派が、中核派の前進社沖縄支局襲撃14名粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 6.25日、革マル派が、中核派の東京地区キャップ粉砕。

【革マル派-中核派の集団会戦(第2次法政大会戦)】
 6.26日、「第2次法政大会戦/革マル派-中核派」。午前4時30分、千代田区富士見町の法政大学に泊まり込んでいた中核派20名と学外から合流した50名の計70名に対し、法政大学内 に潜んでいた革マル派50名が襲った。内ゲバ史上最大の激戦といわれ、鉄パイプ、旗竿で2時間半にわたる大激突となった。死者は出ていない。機動隊が導入され97名(中核派62名、革マル派34名、セクト不明1名)が逮捕された。負傷者24名。負傷者は機動隊に保護された。法政大は昼から休講となった。中核派は「大勝利」と主張。
 「法大会戦(74年6・26)」省略転載。 
 風化させないために、事実を知ってもらうために、一つの会戦(!)を掘り起こそう。個人テロ戦に対して集団戦を会戦と称していた。有名な会戦に俺も参戦していたH大6.26会戦というのがあった。H大構内で起こった200人規模の大集団戦である。その当時すでに□◯派の脅威は猛威をふるっていて、ただの学内集会すらまともに開くことすら命がけであった。全国のほとんどの大学は□◯×派に制圧され、数少ない当方の拠点大学は幾度となく襲撃されていた。多くの死傷者も出している。早稲田、東大、東工大、専大、国学院、横国大、北は北大から南は沖大までほとんどの大学を制圧されていた。
 **派の学生カツドーカは大学に登録してある下宿やアパートをすべて引き払っていて友人のところを泊まりあるいたり、2.3ヶ月ごとにアパートを代えたりしながら□◯派の牽敵活動をかいくぐっていた。□◯派はインフと称して数百人規模でスパイ活動もどきをしていたし、先日権力にアジトが摘発されてあきらかになったけれど、盗聴活動などはけたはずれの規模で行っていた。警察無線のデジタル暗号を解読していたというので権力がやっきになってようやく検挙したらしいけれど、これも聞いた話によると警察内部にかなりのそれもかなり幹部クラスに□◯派のスパイが入っていたようだ。オーバーに恐れていたのではなくて事実、何百件とアパートで寝込みを襲撃されている。
 大学に入るのすら命がけである。例えばこうだ。前の晩、3人ずつぐらいで各所に分宿する。朝4時に起床し、決められた結集点に集合する。そこで幌付きトラックにのりこむ。そのなかでヘルメットと竹ざおで「武装」する。鉄パイプでないのはその時点で権力に遭遇した時「凶器準備集合罪」に問われないようにするためだ。大学近くの公園で各所からきたトラックが集合し全員が隊列を組んで大学に向う。大きい集会であれば50人から80人くらいであろうか。この部隊は先発隊であって、いわば集会防衛隊である。そうやって防衛隊が学内に陣取った後でもう少し大衆的なレベルの参加者らが合流する。
 ***一部で有名になった”糾察隊”というのはこの集会防衛隊から派生した部隊のことである。「公安調書」などは、「糾察隊」が「軍」そのものであるかの記述があるが水準が低い。この頃、集会がしょっちゅう襲撃されるのでα(アルファ)という集会防衛隊を作った。これは軍組織でもなんでもない。集会参加者はβ(ベータ)、防衛隊はα、それだけのこと。だから「○×大は、αを○人出せ」とか指示を出してその集会の都度、急造した隊編成なのだ。「求殺隊」なんて笑かすなよ。集会場の周辺を見回りしてスパイとか襲撃部隊とかを摘発しようとして動いていただけのこと。α(防衛隊)とは別に攻撃隊を配置したこともあった。こっちの方が誤解された意味の方だ。ただαは軍隊的行動を要求されたので本来の軍から指導を仰いでいたのはたしかだけれどもね。このα隊が、他派や一般学生らから反発を買ったのも事実。だって実際、一般人の荷物検査をしたり、(武器=Pを持ってないか)服装チェックをしたりしたわけだから警察なみだよね(だから-警察と区別して-人民糾察隊と言った-正式名称ではないと思う-αの組織化をまかされたキャップクラスが勝手に命名したようだ)。
 6.26当日もそのようにしてH大構内に60人ぐらいで登場した。この日は背水の陣でゴリゴリのメンバーを総動員していた。ガクレンのイインチョウHもいたし、マルガクドーのイインチョウのFもいた。SOB議長O氏すらいた。なぜかと言うと、その1週間前のサンリズカ支援集会を襲撃されて大敗北を喫していた。こっちが100人に対し、それ以上の数ではさみ打にされこてんぱんにやられている。1人の死者も出した。重傷は数しれない。その当日、俺は党本部にいたけれど、夕方になって血だらけになってみんなもどってきていた。H大といえば**派の最大拠点である。そこを襲撃され惨敗したとあっては立つ瀬もない。たいしてダメージを受けていないぞ、という姿勢を内外になんとしてもアピールし党内外の動揺を払拭しなければならない。そうした政治判断における1週間も経たないうちの大動員であった。
【注】 一週間」前。74年5月13日、前迫勝士が虐殺=戦死。
【注】学連委員長H氏。堀内氏のこと。マル学同委員長F、藤田氏(後述)。SOB議長O氏???
敵はより以上の強力な布陣を敷いていた。我々は部隊を校庭に布陣し、学内の検索隊を何隊か出した。数分して検索隊が戻ってきて「異常なし!」という報告があった。だが、その時である。正面の69年館の中でなにか白いものがうごめいていた。誰かが「Yだ!」と叫んだ。一斉にこっちの部隊が建物に殺到し衝突が始まった。それがそれから1時間以上におよぶ壮絶な死闘のはじまりであった。敵が建物からでてこないうちに殺到したおかげで緒戦の激突はこちらが押していた。喊声をあげて突っ込んだ部隊は竹ざおで69年館のドアとガラスをぶちやぶり敵に猛然と襲い掛かった。だが敵の数は半端ではなかった。倍(百以上)はいた。「斥候は何を見てきたんだ!」とおれは思った。
 竹ざおと鉄パイプではやはり勝負にならない。ばしっ、ばしっ、と竹がたたきおられてしまう。がつん、がつん、とヘルヘットが陥没してしまう。10数分でずるずると押し出されて校庭が主戦場になった。総勢2百人規模で校庭いっぱいにひろがって白兵戦が展開された。何人かが血まめれになって地べたに倒れている。敵は長めのパイプと短かめのパイプの2種類の役目の人間がいて訓練された部隊だった。当時□◯派にはJACという襲撃の特殊部隊がいてテロのプロといってもいい組織があった。。頭上からヘル越しに1発くらってクラッとなった。グシャとヘルが割れた。さらに左手に一発くらった。幸運にも時計にあたって壊れてそれが幸いした。それでも左手のダメージは大きくてその後ずっとしびれて握力がほとんどなくなった。こんな白兵戦になると竹ざおなど何の役にもたたない。突いたって当たりはしない。さおのまん中を両手にもって右、左と鉄パイプの嵐を振払うのがせいいっぱいであった。そのうちこっちの部隊のうち20人くらいが押されて正門の外にだされてしまった。いよいよやばいかなと思った時、助っ人が出てきた。学生会館に泊まり込んでいたこっちの部隊5.6人が鉄パイプをもってでてきたのだ。それでまた押したり押されたりの均衡状態になった。双方疲れてきた。みんな竹ざおをふりおろせない程、疲弊していた。一瞬不思議なにらみあい状態が続いていた。後ろの方でSOB(カクキョウドーガクセイソシキイインカイ)議長の「隊列つくれ!かたまれ!」という声が聞こえていた。(かたまってどうするんだ、とおれは思ったけれど、彼はJACの怖さを生身で知っている人間である。勝てる相手ではないと思っていたのであろう)
その間をぬっておれは使い物にならなくなった竹ざおの替わりをさがしに後ろへさがった。本館の柱の影で鉄パイプをもってふるえているW大の仲間をみつけた。「何やってんだ、こんなとこで!」。先輩であったけれど、おれはついどなってしまいその鉄パイプをよこどった。これでおれはようやくまともに戦えると思った。そこからおれは鉄パイプを手にして意気あがり、にらみあって横を向いている□◯派の部隊に真横からたったひとりで突っ込んだ。Pをふりかざす瞬間大声を上げた。「ナロ~!」。ひとりの右肩にぐさっと一撃。とってかえして顔面に二撃。そのとたんに3人ほどにかこまれて猛然と反撃された。だがそれが合図になってにらみ合いから一転、戦闘がはじまった。おれは敵の陣地からなんとかのがれて部隊に復帰した。それから俺は二人ほどやりあい鉄ついをくらわせただろうか。こっちの人間も何人か地べたに倒されている。助けるひまなどない。足元にも敵がすごい量の血をふいてねころがっている。
 10数分続いた後だろうか。むこうは徐々に隊列を整えて上回る数で扇型にじりじりと追い詰めてきた。「あいつだ、あいつをやれ!」という声が敵の隊列から聞こえてきた。その一瞬、4.5人がこっちに殺到してきた。ワーッ、とボコボコにされてたえられなくなって学館の方へ逃げた。それが合図になってわが方の部隊が一斉に学館にむかって逃走した。全員が学館に逃げ込んだ。敵はそれ以上追ってこなかった。中ではマルガクドーイインチョウのF氏が、入り口にバリケード築け、と指示を出していた。たたかいは終わった。全員疲れきり、血まみれの服をまとい、ある者は折られた手足をだらりとさせてうずくまっていた。その一時間後くらいに機動隊が入り当方は全員逮捕された。襲撃した□◯派は逃走している。幸いにも死者は出なかったが、双方あわせて数十人の重傷者を出した。勝てはしなかったけれど互角に戦った。それまで常勝のプロ軍団JACは初めて手痛い傷を負ったのである。JAC神話が崩壊した日であろうか。
 なぜこんな戦争が起こったのか、なぜ□◯派のような集団を生み出したのか、もっとはっきりと明らかにすべきである。もっと言えば、連赤、クメールルージュ、そもそものスターリン。キヨーサンシュギ運動のなかからなぜこのような部分を輩出してしまったのか、をはっきりさせないかぎり未来の青年を決してマルクス主義で引っ張っていくことはできない。おれはこの戦争の正当性を主張できる。当事者としてその事情を知っているかぎりにおいて、戦うしかなかったし、戦わなければやられていたし、もし我々が戦わずに□◯派の天下になっていたとしたらそれこそおぞましい。しかし何も知らない若者に対してマルクス主義運動がなぜそうような部分を生み出すのか、と説得するはっきりとした論拠を俺は持ちえていない。みななぜ口をつぐんでしまっているのか。

【中核派の革マル派テロ】
 6.26日、中核派が、革マル派のキングアジトを襲撃4名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 6.30日、中核派が、革マル派の印刷所ホヲトク襲撃編集局員鉄槌。

【革マル派関連】
 7.1日付け「解放」で、革マル派は、革労協に対して「党派闘争勝利宣言」を出す。中核派及び革労協に対して無条件降伏を呼びかけた。

【中核派の革マル派テロ】
 7.4日、中核派が、革マル派の解放の運搬車を粉砕、炎上。

【中核派の革マル派テロ】
 7.5日、中核派が、革マル派の秋田経済大マル研議長殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.11日、中核派が、革マル派の国学院大生を下宿先で襲撃、数名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.13日、神戸駅会戦。30名粉砕、5名徹底殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 7.13日、襲撃指令中の中核派調査隊キャップ倉石庸が革マル派に反撃される。革マル派が、奪取した権力「柳田」との密通メモを公表、とある。

【革マル派の中核派テロ】
 7.14日、東京中部地区2名に鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 7.16日、上野駅での全学連大会岐路を狙った襲撃を粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 7.20日、中核派が、東京目黒区で東京大田区の教師を殲滅(革マル派は「無党派の教育労働者」としている)。

【革マル派の中核派テロ】
 7.20日、沖縄レポ隊長を粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 7.25日、中核派が、革マル派の東京都職員(襲撃隊長)を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.26日、中核派が、沖縄で革マル派の18名壊滅、1名重体、2名重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 7.29日、中核派が、革マル派の全学連本部創造社を襲撃、4名殲滅。マサカリが初めて使用される、とある。大阪弁天町駅でビラまき中殲滅、1名重体。

【革マル派の中核派テロ】
 7.31日、革マル派が、中核派の沖縄の救対責任者ら2名粉砕。

【革マル派関連】
 革マル派は、勝利宣言後の中核派、革労協の反攻に対して、7.29日付「解放」(第324号)で、自陣の損害(死傷者)について、「権力の謀略論」を主張し始める。次のように述べている。
 概要「1974年の6月に,わが同盟がブクロ=中核派との党派闘争に最後的な勝利をおさめたその直後から,国家権力は従来とは異なった形態における革命的左翼破壊の攻撃を開始してきた。すなわち、既に左翼党派としては崩壊し死滅したブクロ=中核派や社青同・解放派を、その指導部内におくり込んだスパイ分子をつうじて操りながら、『内ゲバ』を装った謀略をしかけることによって革命的左翼を破壊する」(「党派闘争論」~こぶし書房)。 

【中核派関連】
 8月、中核派が「戦略的総反攻」を打ち出す。

【中核派対革マル派の日比谷交差点集団会戦】
 8.3日、日比谷交差点会戦。中核派が、反戦集会からの帰途にあった早大革マル派の隊列を襲撃する。JAC(革マル)100名うち5名重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 8.4日、中核派が九州の革マル派の学生を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 8.5日、中核派が九州の革マル派の関西解放社、大阪天王寺区を襲撃占拠する。福岡のJAC新アジトを襲撃、8名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 8.7日、革マル派が、中核派の関西最高指導部に鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 8.10日、革マル派が、中核派の中央救対責任者鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 8.13日、中核派が、革マル派の広島県委員長ら2名撃沈。

【革マル派の中核派テロ】
 8.13日、革マル派が、中核派の神奈川救対最高責任者鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 8.15日、中核派が、革マル派の早稲田大社会学部自治会2名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 8.16日、革マル派が、中核派の東京中部地区3名粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 8.24日、中核派が、革マル派の日大生の下宿を襲撃する。日本大JACアジト爆砕、日大指導部2名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 8.25日、中核派が、革マル派の横浜市立大生を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 8.26日、第2次十日間戦争。東洋大生1名殲滅。

【中核派関連】
 8.27日、前進社第2ビル完成。

【中核派の革マル派テロ】
 8.27日、愛知大女子学生殲滅。北大講師誤爆。

【中核派と革マル派の近鉄名古屋駅ホーム会戦】
 8.29日、中核派と革マル派の近鉄名古屋駅ホーム会戦。中核派は「殲滅」、革マル派は「壊滅」主張。

【革マル派の中核派テロ】
 8.31日、革マル派が、中核派の前進社神奈川支社襲撃20名粉砕。中核派は、逆襲して1名重傷、2名重体殲滅を主張。

【中核派の革マル派テロ】
 9.1日、広島市のアジト襲撃。中国地方委議長他2名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 9.3日、革マル派が、東京で中核派の2名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 9.5日、中核派が、在日朝鮮人・徐ひろ子を襲撃(革マル派は誤爆を主張している)。「十日開戦争と称する中核派の襲撃は、8・27北海道大学附属放射線技師学校講師、8・27愛大農構の女子学生、8・31佐賀大など誤爆に終始」とある。

【革マル派の中核派テロ】
 9.6日、革マル派が、中核派の関西兵団20名粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 9.7日、革マル派が、中核派の東京北部地区1名粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 9.9日、中核派が、革マル派の北福祉女子大生2名殲滅。

【革マル派の中核派テロ(「中核派反戦郵便局員事件」)】
 9.10日、「東京郵便局員ゲバ殺人事件/革マル派-中核派」。革マル派が、東京で「中央武装勢力隊員」の中核派反戦郵便局員(25歳)をアパート自室で就寝中に襲撃、鉄パイプ等で殴打、6日後に死亡。(中核派6人目の死者となる)

【革マル派の中核派テロ】
 9.11日、革マル派が、東京渋谷で中核派1名粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 9.14日、革マル派が、中核派の国学院大襲撃のためのレポを摘発し鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 9.16日、革マル派が、中核派の前進社政治局員1名鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 9.17日、革マル派が、中核派の沖縄キャップと防衛隊粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 9.18日、革マル派が、中核派の東京中部地区突撃隊員粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 9.19日、中核派が、革マル派のこぶし書房襲撃2名粉砕。東京飯田橋で男女2名誤爆。

【革マル派の中核派テロ】
 9.19日、革マル派が、中核派の東京北部地区突撃隊員を粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 9.20日、中核派が、革マル派の大阪経済大JAC20名粉砕、うち3名重傷。

【革マル派の中核派テロ】
 9.21日、革マル派が、梅田で中核派の4名粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 9.22日、革マル派が、中核派の前進社襲撃4名粉砕。

【中核派関連】
 革マル派の中核派労働者へのテロで中核派が等価報復を宣言。「産別戦争」が激化する。  

【中核派の革マル派テロ】
 9.23日、中核派が、革マル派の全学連委員長・前川健ら2名を襲撃、完全殲滅する。

【中核派対革マル派の守口市中央観光バス前集団会戦(「大阪市立大生事件」)】
 9.24日、「大阪市立大生内ゲバ殺人事件/革マル派-中核派」。革マル派が、守口市中央観光バス前で中核派の「関西上京団」3名を襲撃。1人は2週間後死亡(大阪市立大生、25歳)。(中核派7人目の死者となる) 中核派は、同派の労働者を襲撃した革マル派に対し、「無差別報復テロ」を実行すると記者会見で宣言した。

【中核派の革マル派テロ】
 9.26日、中核派が、革マル派の高崎経済大生1名徹底殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 9.26日、「神保町事件」。狭山闘争解散過程の革マル派全学連・反戦青年委員会の部隊が東京神保町で襲撃され、自治体労働者・笠掛正雄が実質上虐殺される(「神保町事件」)。

【革マル派の中核派テロ】
 9.30日、革マル派が、中核派の大阪教労粉砕。関西沖縄青年委キャップ粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 10.1日、中核派が、革マル派の広島県委員長他3名壊滅的鉄槌。

【中核派の革マル派テロ(「山崎事件」)】
 10.3日、「東京郵便局員ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、革マル派反戦の郵便局員・全逓荏原支部書記長・山崎洋一(30歳)が品川公会堂付近を歩行中に襲撃、鉄パイプで殴打し虐殺する(全逓幹部完全殲滅)。革マル派8人目の死者となる。

【中核派の革マル派テロ】
 10.7日、中核派が、川崎市内で革マル派の日大最高幹部を徹底殲滅。北海道幹部1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.8日、中核派が、革マル派のJAC関西部隊20名を大阪道頓堀で殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 10.9日、中核派が、革マル派曰く「横浜市で戦闘的労働者と通勤経路が同じ会社員・長野健一氏を誤爆」。

【革マル派の中核派テロ】
 10.11日、革マル派が、集会帰りの中核派を襲撃。労働者1人が死亡。

【中核派の革マル派テロ】
 10.12日、中核派が、革マル派の近畿大工学部1名殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 10.13日、革マル派が、中核派の静岡大自治会3名粉砕。

【革マル派の中核派テロ(「中核派労働者事件」)】
 10.15日、「代々木駅内ゲバ殺人事件」。革マル派が、集会帰りの中核派労働者1名が代々木駅付近を歩行中に襲撃、鉄パイプで殴打、虐殺する。(中核派8人目の死者となる)

【中核派の革マル派テロ】
 10.17日、中核派が、広島で革マル派の革命的労働者を襲撃する。2名殲滅(POB/SOB)。

【中核派の革マル派テロ】
 10.19日、中核派が、「革マル派の機関紙/解放を印刷していた秋田印刷(板橋区)を契約解除の翌日に襲撃する」とある。

【革マル派の中核派テロ】
 10.21日、革マル派が、中核派の東大生1名鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 10.25日、中核派が、大阪の革マル派の戦闘的労働者(関西労働者組織委員長)を襲撃、「4ヶ月の重傷」とある。

【革マル派の中核派テロ】
 10.26日、革マル派が、中核派の神奈川キャップ粉砕。

【中核派対革マル派の東名高速上集団会戦】
 10.31日、革マル派が、中核派の東海中核20名を東名高速上で粉砕。中核派は反撃して撃退を主張。

【中核派対革マル派の尼崎集団会戦】
 11.1日、中核派対革マル派の尼崎会戦。10名粉砕、1名重傷、1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.2日、中核派が、革マル派の関西JAC1名を大阪で撃沈。

【中核派対革マル派の国学院大構内で集団会戦】
 11.6日、中核派が、国学院大構内で革マル派と会戦。4名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.7日、中核派が、革マル派の秋田経済大生1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.8日、中核派が、愛知大学名古屋校舎で革マル派系社研部室を襲撃し、東海JAC指導部5名を殲滅、女子学生が重傷。

【革マル派の中核派テロ】
 11.9日、革マル派が、中核派の前進社兵庫支局襲撃。6名粉砕、3名重体、3名重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 11.12日、中核派が、革マル派の宮崎県委員長を徹底殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 11.15日、中核派が、革マル派の横浜市立大生と東京外語大生を襲撃する。立教大1名殲滅。渡邊ちか子殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 11.16日、革マル派が、中核派の元新宿区役所員、全逓南部地区支部書記、両粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 11.17日、革マル派が、中核派の東京中部地区元全逓中郵鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 11.18日、革マル派が、中核派の東京中部地区救殺隊員(科学技術庁職員)鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 11.21日、関西大会戦。中核派が5名殲滅、革マル派は「70名粉砕、最高責任者鉄槌」と主張。

八鹿高校解放研事件/部落解放同盟-日本共産党】
 11.22日、「八鹿高校解放研事件」。部落解放同盟が、下校し始めた教師団を実力連れ戻し、この時、もみ合いとなり双方に負傷者が発生した。その後、体育館に約13時間監禁する事件となった。

 
11.24日、共産党が、赤旗号外で「法治国に許せぬ大暴力事件 『解同』朝田一派が」、「高校の先生70人に血の集団リンチ、危篤、重傷者29人」なる見出しで「逆吊り」、「女教師を裸にしたすさまじいリンチ」、「血の海と化す流血の場」なる記事を報じた。これに対し社会新報が「リンチなし」、「重傷を負わせる程の暴力なし」、「(負傷した教諭の)誇大な入院劇演出」と報じ否定している。真相につき、大阪の元党員が「かすり傷ひとつない教師を共産党系病院に入院させ、重傷の診断書を書く」などの体験を出版しているほか「病院で談笑していた」等々多くの証言がある。(れんだいこサイト「八鹿高校解放研事件考」)

【中核派の革マル派テロ】
 11.24日、中核派が、革マル派の広島産別防衛隊長殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 11.25日、革マル派が、中核派の杉並革新連盟常任粉砕。 2.12日、原宿署が、革マル派の金子賢治(二文元副委員長、11.13三役被処分者)を殺人未遂、凶器準備集合罪などで再逮捕する。1973.11.26日、渋谷区代々木で中核派活動家とその妻を5人で鉄パイプ襲撃し、1カ月の重傷を負わせて逃げた疑い。

【革マル派の中核派テロ】
 11.26日、渋谷区代々木で中核派活動家とその妻を5人で鉄パイプ襲撃し、1カ月の重傷を負わせて逃げた。翌2.12日、原宿署が、革マル派の金子賢治(二文元副委員長、11.13三役被処分者)を殺人未遂、凶器準備集合罪などで再逮捕する。

【中核派の革マル派テロ】
 11.27日、中核派が、福岡で革マル派学生を襲撃、九州JAC4名殲滅創造社キャップ撃沈。

【革マル派の中核派テロ】
 11.27日、革マル派が、中核派の前進社襲撃。

【中核派の革マル派テロ】
 11.29日、中核派が、革マル派のSOB幹部金沢大で殲滅(権力が女子学生を襲撃)。

【中核派の革マル派テロ(「松浦事件」)】
 12.1日、「大阪元高校教諭殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、革マル派の関西秘密最高指令本部など3ヶ所を同時襲撃。アパート自室で就寝中の幹部12名を襲い鉄パイプ・ハンマー等で殴打。革共同関西地方委員・松浦博(元高校教員、30歳)が死亡。(革マル派9人目の死者)、4名重体。和光大情報収集メンバー殲滅。
 橋本利昭「革共同私史」の「対カクマル闘争」が次のように記している。
 「私のカクマル認識に今一つ重要な転換をもたらしたのは、74年12月1日のカクマル関西中枢殲滅戦闘の現場に、カクマル指導部が所持していた、『北支の治安戦』(1・2)(防衛庁防衛研究所戦史室編集、朝雲出版社出版)とその研究ノートがあったことである。同書は、日中戦争での旧日本軍と中国軍(国民党軍・紅軍)の間の相互の政治・軍事戦術を主に日本軍の側から分析したものである。当時、日本軍(「皇軍」)は、政略・戦略・謀略を合わせて3略と呼び、中国人民にたいする 「戦争」に主に「謀略」で勝つことを追求していた。そのため自らと中国軍の双方の謀略戦術を集大成したものが本書である。カクマルはこれを丹念にノートにとり研究していた。カクマルの反革命的執念に驚愕するとともに、中国人民を謀略で圧伏できると考えた旧日本軍の浅はかさと同じものをカクマルに見いだすことになった。

 その後の考察を通じて、カクマルの謀略の主要な手段が、盗聴とスパイ政策の意識的採用であることが次第に判明した。盗聴は権力の手口をまねた電話盗聴であり、スパイ政策は職場やキャンパスに 「クサ」のように埋め込むだけでなく、革共同の基本組織である地区党の中に計画的に潜入させることもあった。われわれが摘発した最大のスパイ、北方正昭は当時大阪の最大の地区党であったH地区党の指導部の1人であった。これを粉砕したことをカクマルが党内闘争や分派闘争であったというのは虚偽である。激しい闘争の中でも 当時のメンバーが命を懸けて実行していた機関紙拡大闘争に、この男が1度も取り組まなかったことにその証左がある」。

【中核派の革マル派テロ】
 12.2日、中核派が、鹿児島大生を襲撃、九州JAC10名殲滅。

【中核派関連】
 12.2日、中核派が、第2次産別戦争開始宣言。

【中核派の革マル派テロ】
 12.2日、中核派が、革マル派の東京都職員殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 12.2日、革マル派が、中核派の法政大3名鉄槌。

【革マル派の中核派テロ】
 12.3日、革マル派が、中核派の情報科学技術担当鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 12.7日、中核派が、大阪の革マル派労働者三名を自宅で襲い、重傷を負わす。

【中核派の革マル派テロ】
 12.7日、中核派が、革マル派の帯広畜産大殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.8日、中核派が、革マル派の関西最高指導部3名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.10日、中核派が、革マル派の政治集会の解散過程で6件の襲撃事件を発生させ、計9名殲滅。

【社青同解放派(革労協)の革マル派テロ】
 12.11日、社青同解放派(革労協)が、上智大正門前で革マル派学生2名を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 12.12日、中核派が、革マル派の集会粉砕各所で計9名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.12日、中核派が、革マル派の全逓労働者を広島で殲滅。 

【中核派の革マル派テロ】
 12.16日未明、中核派が東京都内3ヶ所のマンション(墨田区亀沢その他)で革マル派を襲撃。革マル派の極秘最高本部を襲撃、全学連委員長代行らを徹底殲滅。早稲田大指導部5名殲滅。早大指導センターを爆砕。

【中核派の革マル派テロ】
 12.18日、中核派が、革マル派の広島県委員長を殲滅。 

【中核派の革マル派テロ】
 12.19日、中核派が、革マル派の広島県自治労ナンバー2を殲滅、関西情報本部襲撃6名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.20日、中核派が、革マル派の全逓高輪支部の労働者を襲撃する。全逓南部地区中堅幹部を鉄槌。6ヶ月の重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 12.23日、中核派が、革マル派の愛知教育大生殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.25日、中核派が、革マル派の山口大キャップ殲滅(中核派内部粛清説)。

【中核派の革マル派テロ】
 12.26日、中核派が、革マル派の広島自治労ナンバー3を車ごと殲滅。全逓1名徹底殲滅。
 「12・26蒲田」。

【中核派の革マル派テロ】
 12.27日、中核派が、革マル派の広島県委員を殲滅重傷。3回目。

【中核派の革マル派テロ】
 12.31日、中核派が、革マル派の全逓労働者を徹底殲滅(12・31江戸川)。

【革マル派の中核派テロ】
 革マル派が、中核派の政治局員・北小路敏、陶山健一を襲撃し、重傷を負わせる。

【革マル派関連】
 物理的攻撃だけでなく、「ナーバス作戦」と称して相手方に襲撃を予告したり、犬、鶏の生首等を送り届けるなどの心理作戦も展開されている。  

 この年、ゲバルトで6名死亡、297名が重軽傷を負う。





(私論.私見)