1章 | 戦後学生運動1期 | 1945(昭和20)年終戦直後−1949(昭和24)年 |
全学連結成とその発展 |
(最新見直し2008.9.17日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦後学生運動1期を戦後直後から1949年までの歩みとする。これを仮に「戦後学生運動1期、全学連結成とその発展概略」と命名する。詳論は「戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」、概論は「全学連結成とその発展」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 |
【この時期の全体としての政治運動】 |
この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。 |
【日本敗戦の歴史的意味考】 |
1945(昭和20).8.15日、日本天皇制権力帝国主義はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏した。日本の戦後史はこれより始まる。敗戦により日本はどのように変容させられたのか、日本国民はどのように適応して行ったのか、何が課題となりのど仏に詰まっているのか、どう切開すべきなのか、これらが問われている。こういう関心を持ちながら、以下検証して行くことにする。 第二次世界大戦は米英仏その他の連合国勝利、日独伊の枢軸国敗北と云う形で終結した。この戦争は果たして如何なる戦争であったのか。表向きは、自由主義陣営対ファシズム陣営と云う形での世界戦争と喧伝された。マルクス主義的には新旧帝国主義間の覇権戦争と規定されている。 これについて、筆者はかく思う。真相は、国際金融資本ネオ・シオニズム派と反ネオ・シオニズム派の第二次世界大戦であったのではなかろうか。第1次世界大戦に引き続く前者の勝利により、戦後世界は、米英ユを盟主とする右からの資本主義的世界支配の勝利となった。新たにソ連邦を盟主とする左からの社会主義圏が登場し、戦後はこの二大陣営が拮抗する冷戦構造となった。しかし、両者は根底的なところで国際金融資本ネオ・シオニズム派の双頭の鷲であった。これが冷戦構造の裏の仕掛けだと思われる。 しかし、日本左派運動はそのようには理解せず、「作られた抗争としての資本主義対社会主義」に幻惑させられ、資本主義体制打倒運動に挺身して行くことになる。あるいは社会主義の変質に対して反スターリニズム運動を呼号して行くことになる。2009年現在で見えて来ることだけれども、近代−現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本ネオ・シオニズム派との闘争に向かわないこれらの運動は一知半解運動だったのではなかろうか。ならば、改めるに如かずではなかろうか。 筆者は、レーニン式帝国主義論も胡散臭いと思っている。レーニンは、同書により資本主義の最高の発達段階としての帝国主義規定論を生み出し、近代に於ける西欧列強の帝国主義間抗争の実態検証と来るべき社会主義革命の必然性を説いたが、そういう国ごとの分析よりも西欧列強の背後で蠢く近代−現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本ネオ・シオニズム派の世界戦略こそ解明すべきだったのではなかろうか。この観点は、太田龍が登場するまで、日本左派運動の見識にならず今日まで至っている。否、太田龍見解が市井提供されているにも拘らず牢としてレーニン主義的帝国主義論の枠内での見方が続いている。 もとへ。敗戦国日本は連合国軍支配下に置かれ、戦後日本の争奪戦が演ぜられた。日本取り込みは、それほど重要な世界史的事件であった。当初は米ソ両陣営による分割支配の動きもあったが、結果は、米軍の太平洋方面陸軍総司令官ダグラス.マッカーサーが連合国軍最高司令官となりGHQ(連合国軍総司令部)を指揮したことからも明らかなように米国のイニシアチブ下に進行した。ソ連の日本列島分割支配論による巻き返しはならず、最終的に戦後日本は1951年のサンフランシスコ講和条約、同時に締結された日米安全保障条約で米国の単独支配下に置かれることになった。ソ連の対日支配政策は粗暴であり、米国のそれは緻密であり、これが明暗を分けた。 これについて、筆者はかく思う。残念ながら、日本左派運動には、戦後日本をこのように客観化させて捉える視点はない。今日判明するところ、戦後日本が米国系ネオ・シオニズムに取り込まれたことは、日本人民大衆的にはその方がまだしも良かった。粗暴なソ連系ネオ・シオニズムに取り込まれていた場合には、ソルジェ二ツィンの暴露した如くな政治犯に対する情け容赦のない銃殺ないしは収容所送りが常態化していた危険性があったと考えられる。その国有化理論で市場統制されることにより戦後日本の復興は大きく停滞させられた可能性がある。ひとまずはこう受け止めるべきだろう。 もとへ。ところで、GHQの初期対日政策は初期と後期で大きく変わる。日本が米国側に取り込まれるまでの初期政策は、戦前的天皇制絶対主義権力の徹底的解体に向かい、その為の諸政策例えば治安維持法撤廃、労働運動の容認、左派運動の合法化、財閥解体、農地解放等々を矢継ぎ早に打ち出し、その限りに於いて日本人民大衆的にはこれは僥倖であった。つまり、GHQの初期対日政策は概ね善政であったと云うことになる。 但し、留意を要するのは、この間GHQの報道管制が敷かれており、近現代世界を支配する国際金融資本に不利益な思想ないしはイデオロギーが徹底壊滅されたことである。戦前の満鉄調査部の「ユダヤ問題時事報」、続く国際政経学会の月刊「ユダヤ研究」、不定期刊「国際秘密力の研究」等々による主として「シオン長老の議定書」派即ち「ネオ・シオニズムの国際秘密力に対する研究と警鐘運動」が存在さえしていなかったほどに痕跡さえ消された。 これについて、筆者はかく思う。残念ながら、日本左派運動にはこう捉える視点はない。筆者は、太田龍・氏の精力的な研究からこれを学んだことを感謝する。ここを踏まえないと世界史の動きが見えてこないであろう。 |
【獄中政治犯の釈放による戦後共産党の再建】 |
GHQの初期対日政策を日本左派運動史上の枢要事に限定して確認すると、共産主義者の利用と憲法改正が最も重要なものであったと思われる。まず、共産主義者の利用について確認しておく。敗戦より2ヵ月後の10.4日、GHQ指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」が発令され、戦前の治安維持法違反政治犯が釈放された。共産党員が殆どで一部天理教分派のほんみち派が混じっていた。釈放された党員は直ちに共産党を再建した。これを主導的に指導したのが府中刑務所派の徳田球一(以下、「徳球」と略称する)、志賀らであり、これにより戦後共産党は徳球−志賀体制で始発することになる。 後の絡みで言及しておけば、宮本顕治(以下、「宮顕」と略称する)の動きが既に怪しい。10.10日の一斉釈放より一日早い10.9日に釈放されている。宮顕は、1933(昭和8).12.23日発生の「小畑中央委員査問致死事件」と云う刑事事件に絡んでいた為、政治犯のみを対象とするGHQ指令では刑事事件との併合犯であった宮顕には適用されぬところ、「生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置」により違法出所している。この時なぜ宮顕が釈放されたのかの経緯そのものが依然として未解決問題となっている。宮顕は後に涙ぐましい努力で復権証明書を手に入れ、これにより解決済みと居直り続け今日へ至っている。日本左派運動は、これを訝らない。 その宮顕が、戦後初の党大会となった12月の第4回党大会で、徳球−志賀体制に異議を申し立てしている。その理由は、概要「戦前共産党の旧中央委員で指導部を構成すべし。さすれば我こそが戦前最後の党中央委員であるからして、戦後の党の再建は宮顕・袴田の二人が中心になるべし」と云うものであった。しかし、戦後共産党再建に何ら貢献せず、「小畑中央委員査問致死事件」のイカガワシイ履歴を持つ宮顕の弁は相手にされず却下されている。 これについて、筆者はかく思う。ここで、これらのことに触れるのは、宮顕のイカガワシサと徳球派と宮顕派の対立が既にこの時から始まっていると云う「生涯の天敵」関係を踏まえたい為である。それと、宮顕が何故に執拗に日本左派運動の分裂を策動するのか、その裏使命を確認したい為である。通説本は、このことに触れていない。触れたとしても、「徳球最悪、宮顕まだしも論」的観点から言及するのが通例である。驚くことに、新左翼でさえこの見解に位置している。これでは戦後共産党運動史の真の座標軸が定まらず、抗争の真実が見えてこないであろう。 |
【徳球の伊藤律登用】 |
もとへ。徳球−志賀体制はその後、翌1946年に野坂が延安から鳴り物入りで帰国するに伴い、同2月の第5回党大会で徳球−野坂−志賀体制となり、1947.12月の第6回党大会で徳球−伊藤律−野坂−志賀体制へと変遷していくことになる。留意すべきは、志賀の相対的地位低下と伊藤律の登用である。志賀は次第に反徳球化して行き、宮顕と手を結ぶようになる。六全協後の宮顕独裁化過程で、これに反発し党を放逐されて始めて、こんなことなら徳球時代の方がまだましだったと恨み節をこぼすことになる。 もう一つの伊藤律の登用について触れておく。伊藤律は、1913年生まれで1908年生まれの宮顕より5歳若かった。その伊藤律の党内出世は、それまでの中央委員の中で最も若かった宮顕を飛び越えての世代交代を意味していた。つまり、伊藤律登用には宮顕排除の裏意味が込められていた。徳球はこの人事を意図的に断行した。 これにより、相対的に地位低下した志賀、後継的地位を外された宮顕、その他重用されなかった面々が反徳球化し、伊藤律への嫉視を強めることになった。この連中が、1950年の「50年分裂」時に国際派として大同団結して行くことになる。この道中で、伊藤律のスパイ問題が何度も浮上し、徳球はそのたびに「意図的故意の伊藤律潰しであり問題無し」裁定で庇っている。 これについて、筆者はかく思う。問題は、新旧左翼とも通説本が、徳球の家父長体質を批判し、伊藤律叩きにシフトしているところにある。筆者は、この見解を採らない。むしろ、徳球の炯眼、伊藤律の有能性を認める。誰か、この目線を共有できないだろうか。この共有ができないところに日本左派運動の貧困が宿されているように思われる。こういう手合いに限って、難渋な左派文献解説を得意としているのは滑稽である。 |
【「2.1ゼネスト」前夜の状況】 | ||||
この間の党中央は脱兎の如く戦後革命に向かう。今日的アリバイ闘争的左派運動の地平では考えられない、ズバリの政権取り運動に向かっている。当時、極東アジアでは、日本、朝鮮、支那がロシア革命に続くアジア革命の先鞭を争っていた。この時代の左派運動には、そういう熱気がある。 これに対し、1947(昭和22).1.1日、吉田首相は、年頭の辞をNHKラジオで放送中、労働運動の指導者を次のように「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。これを、「不逞の輩放送」と云う。
この「不逞発言」が燃え上がろうとしていた労働運動の火に油を注ぐことになったことは云うまでもない。 1947.1月、党は、第2回全国協議会を開催し、徳球書記長が「ポツダム宣言の線に沿う民主人民政権樹立」を指針させ、次のように檄を飛ばしている。
この頃、労働運動部の長谷川浩は次のように演説している。
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【社交ダンス論争】 | |||||
この頃、「社交ダンス問題」が論争になっている。たかがダンスという勿れ、興味深い内容なので言及しておく。徳球書記長は、「社交ダンス活用論」を次のように述べている。
これは、蔵原−宮顕の文化政策に対する批判的意義を持っていた。これに対し、3.30日、宮顕は、アカハタに「文化運動の前進」論文を発表した。次のように反論している。
これに対して、徳球は真っ赤になって宮顕見解に反論した。次のように述べたと伝えられている。
これに対して、筆者はかく思う。こういうところにも、徳球と宮顕の暗闘の火花が散っていた。社交ダンスを廻ってさえ徳球と宮顕の観点はこれほど食い違っている。一見、宮顕の「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」言辞の方が左派的に見える。凡庸な青年は、この手のロジックに騙される。しかし、「プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と迫る徳球の批判こそ瞠目すべきではなかろうか。 |
【「2.1ゼネスト」の不発経緯】 | |
1946年末から1947年初頭にかけて、日本左派運動は総力を挙げて「2.1ゼネスト」に向かった。「2.1ゼネスト」は、それまでの「飯食わせ」的経済的条件闘争から民主人民政府の樹立という明らかに革命的政治闘争へと転化していた。これに慌てたGHQが猛烈に干渉を開始したが、共産党と労働組合のスクラムが崩れず、2.1日午前0時を期してのゼネストが必死の情勢となった。
伊井は、この後手錠をかけられ刑務所に入獄させられ、政令325号(占領目的阻害行為処罰令)違反により2年余の刑を受けている。「2.1ゼネスト」はこうしてGHQ指令の前に流産させられることとなった。「2.1ゼネスト」は、日本の戦後革命史上最も政権の至近距離に迫った事件とし史実に刻まれている。以降、徳球党中央は、社共合同運動を通じて粘り強く左派政権創出に向かうことになる。これにつき、伊藤律派が精力的に活動する。党内の反党中央派が右から左からこれを誹謗すると云う党内状況となる。 |
【戦後日本国憲法考】 |
もう一つの流れとして戦後憲法の創出がある。この間、マッカーサー指令により帝国憲法に代わる新憲法制定が要請され、官民挙げて草案作りに向かった。但し、どれも大同小異で、戦前的天皇制の温存のうえに目先を民主主義化させていた類いの旧態然としたものでしかなかった。故に、GHQ内のニューディーラー派主導による憲法原案がひながたとして策定され、若干の変更を加えて採択される。1946.11.3日公布、1947.5.3日、施行された。戦後憲法論については別稿「戦後憲法論」で検証する。 これについて、筆者はかく思う。この戦後憲法をどう読み取るべきだろうか。日本左派運動は、大きく道を過(あやま)ったのではなかろうか。筆者の見なすところ、戦後日本国憲法は、本国アメリカはもとより資本主義圏のどの憲法に比しても、ソ連邦の社会主義憲法よりもなお進んだ民主主義憲法としての諸規定を網羅している。更に、「非武装中立、国際平和共存協調」を規定した憲法9条及び前文に象徴される国際協調及び平和憲法ぶりが白眉となっていた。更に、国債発行禁止の健全予算主義、適宜な地方分権も採り入れている。戦後憲法が字文通りに履行されるならば、戦後日本は世にも稀な蓮華国家になっていたはずである。そういう出来映え出色の憲法であった。 これを素直に読み取れば、戦後憲法は、マルクス主義的には垂涎のプレ社会主義憲法と規定されるべきであった。こう位置づけることで、日本左派運動は運動推進上強力なテコになるものであるとして、本来これを護持受肉化せねばならないものであった。だがしかし、日本左派運動はこの時、教条ステロタイプ的な理論を振りかざしブルジョア憲法として規定し、急進左翼は罵倒方向に向かった。穏健左翼は反戦平和主義的護憲に向かうしか能を示し得なかった。表向きはブルジョア憲法と貶しながらその実依拠すると云うケッタイナ運動にのめり込んでいくことになった。しかしてそれは両者とも理論の貧困そのものを示してはいないだろうか。頭脳が半分だけ賢いとこういうことが起こるという見本であろう。 その点、日本人民大衆は、歓呼の声で戦後憲法を歓迎した。戦後憲法の持つ本質的にプレ社会主義性を見抜いていたからであった。戦後憲法の受容の仕方一つ見ても、「賢き大衆、愚昧な左派運動」と云う戦後の型が見えて来るのが興味深い。 |
【教育基本法考】 |
1947.3.31日、教育基本法.学校教育法が公布施行された。同4.1日、義務教育期間を9年「6.3制」とする学校教育法が制定された。歴史科は社会科に吸収され、「くにのあゆみ」は消滅した。文部省が学習指導要領の試案を纏めた。教育基本法は、1890年制定の教育勅語に代わり、戦後憲法の精神に即した教育制度や施策の基本的在り方を示す重要法律となった。以降教育界の憲法として今日にいたっている。 教育基本法は、前文と11条項からなり、前文では「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」との理念を掲げ、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と、「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」教育の徹底を明示している。教育の目的や方針、教育の機会均等、義務教育、男女共学、国公立学校における宗教的活動の禁止などを規定している。同条10条は「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるものである」とあり、第2項で、「教育行政は、この自覚の元に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標」と記している。 以上が教育基本法の功の面であるが、愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重が盛り込まれておらず、憲法同様GHQ主導で制定されたいきさつも含め、右派勢力から法改正すべきだとの意見が繰り返されることになった。 これについて、筆者はかく思う。憲法−教育基本法を貫く精神及び原理はルネサンス以降の西欧史の正統嫡出子的な面を貫通させている。が、確かに愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統継承を徒に無視している。本来これは接合し得るもので、そうであるところ意図的に遮断しているところに憲法−教育基本法の癖があると云えば云えるであろう。つまり、右派の指摘は尤もな面があるということになる。この負の面が戦後学生運動にも現われ、無国籍型のコスモポリタン的革命家を輩出させていったようにも思われるので付言しておく。 思うに、憲法及び教育基本法に「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」を盛り込まずとも、自生的に生み出すべく運動展開すれば良いのではなかろうか。これらは本来、法的強制に拠るものではなく、自主的に自生させるものとする観点を創造すれば良いだけの話である。この点で、日本左派運動が、レーニン主義的な「愛国愛民族運動=排外主義」論で「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」を否定していったところに間違いがあるのではなかろうか。徒に混乱を招くだけのことでしかなかろうと思う。この手の左派が多過ぎて困る。 それは単なる半身構えでしかないのではなかろうか。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」をダンス論争と同じく左派的に取り込むのが必要なのであり、機械的に反発して右翼の専売特許にさせるのは作られた構図でしかないのではなかろうか。 更に云えば、これは、「日の丸国旗、君が代国歌問題」にも繋がる。「日の丸、君が代」を左派的に取り込む闘いを組織する必要があるのではなかろうか。入学式、卒業式には国旗掲揚、国歌斉唱が有ったとして、それほど目クジラするには及ばない。問題は、行事の至るところで「日の丸、君が代」を押し付け、排外主義的な愛国愛民族意識形成に利用しようとしているのをサセナイ闘いを組織する方がよほど大事ではなかろうか。筆者には、こちらの闘いを疎かにする方がよほど重罪に思える。 |
【戦後日本プレ社会主義論考】 |
こうした「上からの戦後革命」とこれに伴う社会情勢的変化の下で、官民上げての戦後復興が着々と進められて行った。この時、戦前の大東亜戦争過程で構築された護送船団方式の官僚権限集中制が大きく力を発揮した。これに戦後政治家の有能なる指導が加わることで戦後日本は世界史上奇跡の復興を遂げていく。戦前的統制秩序から解放された人民大衆の喜びに満ちた勤労も大きく貢献した。これを、「日本型社会主義」と云う者もある。 |
【GHQの対日政策の転換による日本の反共の砦化始まる】 |
ところで、1948年頃より国際情勢の変化を受けて、GHQの対日政策は初期の概ね善政政策から後期の反共の砦政策へと転換する。ここを識別せねばならない。1948.11.12日、極東国際軍事裁判が結審しA級戦犯25名に判決が下され、12.23日、絞首刑組7名が東京・巣鴨拘置所で執行された。残りのA級戦犯容疑者は釈放され、岸信介、児玉誉士夫ら19名が巣鴨拘置所から出獄している。この過程で、正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫は国際金融資本の秘密エージェント契約している形跡が有り、それぞれが戦後タカ派のドンとして政財官界に影響を与えていくことになる。 |
【徳球の9月革命呼号】 | |||||||
1949年、紆余曲折を辿りながら戦後革命の総決算を迎える時期に至った。1.23日、第24回衆議院選挙が行われ、吉田民主自由党が264(←解散時152)で大幅躍進、単独過半数を獲得した。戦後の保守政権の基盤が確立し始めたことが分かろう。他方、民主党69(←90)、社会党48(←111)、国協党14(←29)、労働者農民党7(←12)が凋落した。共産党が35(←4)と躍進した。マッカーサー元帥は、選挙の結果に対して次のように満足の意を表している。
共産党は、そのようには受け止めなかった。「35議席、得票数約300万票、得票率9.8%(←3.7%)」の成果を得て、人民政権近しの見通しを生み、1.25日、次のような声明を発表している。
こうして、「2.1ゼネスト」以来の革命的機運が醸成された。2月、第14回拡大中央委員会で、伊藤律は、「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化に関する報告」を行い、社共合同運動の成果を報告した。「民族資本家までも含めての党の拡大強化方針」を決定し、次のように指針させている。
この時徳球は、一般報告の中で次のように述べている。
他方で、次のように警告している。
「理論拘泥主義」とは宮顕を指している言葉であり、根深い対立を見て取れよう。徳球をしてこう云わせる宮顕派の執拗な嫌がらせ反党中央活動が続いていたと云うことでもあろう。 6月、第15回拡大中央委員会が開催され、徳球書記長は「9月革命」を呼号し意思統一を図った。「9月までに吉田内閣を打倒する」と強調し、次のように述べている。
当然党内には「9月には人民政権が成立するのだ」という合意が普及し、新聞各紙も「9月革命説」として喧伝された。 6.27日、この時期に符節を合わせるかのようにソ連シベリアからの引揚げが再開され、共産主義教育を受けた兵士が帰還し集団入党式を行っている。引揚者の「代々木参り」を出迎えた徳球書記長は次のように演説している。
しかし、シベリア兵の引き揚げは、次第に強制労働の実態を知らすことになり、引揚者の集団入党にも関わらず却って共産党の人気を悪くした。以降、国会で引き揚げ問題が議題に上るときには「コラッ共産党、シベリアの捕虜をどうしてくれる」と野次られることになった。 |
【吉田政権の反動攻勢】 |
他方、これを迎え撃つ吉田政権は団体等規制令の公布で公務員の労働争議規制等を強め反動攻勢を本格化させた。こうした時期、7.6日の下山事件、7.15日の三鷹事件、8.17日の松川事件と云う国鉄関係の相次ぐ謀略事件が発生する。その慌しさの中で戦後革命の最後の綱引きが演ぜられた。 |
【中華人民共和国の誕生】 |
10.1日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。毛沢東が天安門上で世界に向けて新生中国の建国を宣言した。支那はこうして百余年にわたる帝国主義の侵略と支配を脱して社会主義の道に踏み出すことになった。中国建国は、国際共産主義に与える影響大なるものがあり、日本共産党を奮い立たせた。党は、「人類解放の大事業の上に、ロシア革命に次ぐ偉大な貢献を為し遂げようとしている」との賛辞を添えて祝意を述べている。10.7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。いわゆるソ連邦を中心とする東風が吹いた。 |
【戦後革命流産】 |
この頃既にアメリカは資本主義陣営の盟主として、共産主義封じ込め政策を強硬に展開し始めていた。この戦略から日本をアジアの反共の防波堤と位置づけ取り込みを図った。これに対し、そうはさせじとして「日・ソ・中共産党連携での革命工作」が始まり、12.16日付で「革命闘争指令1号」が発令されたが不発に終わる。これらの諸要因により日本の戦後革命が最終的に流産した。 |
【1949年末の徳球と宮顕の罵倒合戦】 | |
12.29日、増山太助の「戦後期左翼人士群像」は次のような史実を伝えている。
この証言は、宮顕派に位置していた増山氏の「この頃の政治局面に於ける徳球派と宮顕派の鋭い対立内部証言」として受け取るべきであろう。そういう意味で貴重である。 |
【この時期の学生運動の動き】 |
この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。戦後革命の随伴運動として勃興し連動していく様を窺うことができよう。 |
【戦後ルネサンスの息吹】 |
こうした構図下で、共産党の指導下で戦後学生運動が再建され、以降向自的発展を遂げる。1945−46年は戦後学生運動の端緒期であり、戦後民主主義時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として運動展開されていった。戦後の学制は、格別「大学の自治」を尊重した。戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省して獲得したとも云えようが、特別闘い取ったと云う訳ではないので、初期GHQの対日政策の一環としてもたらされた措置であったと見なすべきだろう。 戦後の学制は、学生に対して、当時の米国教育学の権威であるジョン・デューイ(John Dewey)的理念に基くと思われる「学生に対する民主的且つ社会性の育成」、「学生生活の向上や課外活動の充実をはかる」という大学教育の一環として学生自治会を用意していた。この時点でのアメリカは、相対的ではあるが今日の時点から思えばよほど民主主義的且つ健全で、いわゆるアメリカン民主主義が罷り通るに値するものを保持していた。 そのアメリカはその後ネオ・シオニズム(これについては別途言及する)に深く汚染される度合いに応じて病んで行き、2009年現在今日あるが如くある。但し、第二次世界大戦直後のこの時代に於いてはまだしも「民主主義の盟主」的度量があった。こう考える必要があるように思われる。 そのはるけき良き時代のルネサンス気風を継承した西欧的価値観に基くアメリカン民主主義の理念が戦後日本に移植され、戦後憲法に結実したと思えばよい。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。 しかしそれはつまり、学生全員加入制による前納徴収会費が自治会執行部に任されることになったことを意味する。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日まで各党派が血眼になって各大学の自治会執行部を押さえるのかを廻って対立していくことと関連することになる。 戦後当初の学生運動は、この新憲法秩序の下で、「戦後民主主義の称揚と既得権化」を目指して学園内外の民主主義的諸改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど学生生活エンジョイ的な趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動まで取り込んだ幅広い活動が生まれた。こうした運動は後に「ポツダム自治会運動」として揶揄されていくことになる。 これについて、筆者はかく思う。政治的意識の培養が一朝一夕には為されずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、こうした運動自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。急進派には物足りなくても片目をつぶれが良いのではなかろうか。 問題は、傲慢不遜に否定するものではなく、そこから弁証法的に出藍していくのが望まれているのであり、「戦後民主主義の称揚と既得権化運動」はその際の培養土のようなものとして重視されるべきではなかろうか。史実はそう向かわず、急進派は次第に「戦後民主主義の称揚と既得権化運動に対する否定的革命主義運動」に向かって行くことになる。しかしそれは培養土を否定する分それだけ先細りの急進主義運動に陥る危険性がある。こういう観点はいかがだろうか。 |
【戦後直後の学生運動】 |
戦後直後の学生運動の功績として、学生課や寮の舎監制が廃止され、大学新聞の発行、生活協同組合、セツルメント、文化サークル活動などが再建されていったことが認められる。この気運が、1・戦犯教授、学長の追放、2・戦時化諸組織の解体、3・民主的自治組織の建設、4・進歩的教授の復帰、5・学生協同組合、文化団体、研究会、政治組織の結成等々に向かっていくことになった。いわば、学生の生活権訴求、これに関わる範囲での政治活動と云う即自的段階の学生運動であった。 |
【東大新人会運動】 |
1947.9月、東大で、戦前の新人会の「再建」活動が始められた。これを推進したのが通称ナベツネ(後の読売新聞社長渡辺恒雄)派であった。ナベツネらの動きは、労働戦線での右派的新潮流、後の社会党系総評につながる民主化同盟の動きと連動していた。青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける党中央の方針に反対し穏和系運動の創出を図った。ナベツネは、その活動資金5千円を戦前の転向組にして戦後は反党活動を職業にしていたことで有名な三田村四郎から受け取っていた。 ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」は文学の領域で狼煙が上げられ、哲学の分野に飛び火し、論壇を席捲していった。この当時の経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論などがこれに当たる。「マルクス主義の硬直的理解からの解放」と位置づけられる。 |
【学生運動の全国化】 |
1948.6.26日、授業料値上げ反対ストで、114校、約20万人が参加した。全国の主要な大学・高専校の殆どを網羅して、日本の学生運動史上初の全国ストライキとなった。この時の盛り上がりは予想を上回るものであった。この運動の流れで「全日本学生自治会総連合(全学連)」の結成決議が為された。 この闘争の過程で党の学生細胞が全国の大学.高校に誕生し、拡大強化した。早大共産党細胞がこの闘争で入党者を急増させている。党はこの頃約5千名の学生党員よりなる約3百の学校細胞を組織した。東大細胞らのオルグが都内各校、主要な拠点校に向けて全国に飛び始めた。この時の盛り上がりは予想を上回るものであった。 |
【全学連結成】 |
1948.9.18日、念願の全学連が結成された。東大を頂点とする国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。全学連は、自治会数268校、員数22万人を傘下とした。事務局本部は東大に置かれ、初代委員長・武井昭夫(東京大学)、副委員長・高橋佐介(早稲田大学)、書記長・高橋英典(東京大学)、中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになった。 これについて、筆者はかく思う。奇妙な事に、この時の指導者がなべてその後党の出世階段を昇ることがなかった。この時点ではポジションさえ定かでない上田・不破兄弟が登用されていくことになる。こういう人事を意図的にやったのが宮顕であるが、この変調さを指摘する者も少ない。筆者は、これについて追って触れていくことにする。 もとへ。この期以降、学生運動が次第にマルクス主義化し、究極の「社会の根源に対する闘い」へと運動を向自化させていくことになった。 この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことに成功し、この経過で東の東大、早大、西の京大、同志社、立命らを拠点とする学生党員グループがその指導権を確立していった。 全学連はその後、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになった。しかし、急進化すればするほど、曲がりなりにも真紅の革命派であった徳球党中央への反発と批判を高めていくことになった。 これについて、筆者はかく思う。これは自然にそうなったというより、当時の学生運動を担当していた宮顕派が反党中央運動を煽っていたという事情が関係している形跡が認められる。宮顕派のこの辺りの隠微な根回しは歴史から隠匿されているので証明し難いが、断片的事実を寄せ集めてかく断定できる。 |
【共産党の指導】 | |
この時期の学生運動指導部は自然と共産党党員活動家が担っていくことになったことが顧みられる必要がある。この当時の日本共産党(以下、暫くの間単に「党」と記す。宮顕系共産党化した時点より「日共」と記すことにする)が、他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあろう。受け止める側の方も、党をいくつかの政治諸党派の最左翼という位置にとどまらず、戦前来の不屈の抵抗運動を繰り広げた実績を崇敬し、最も信が置け頼り甲斐の有る「革命の唯一の前衛」という象徴的権威で認めていたということでもあった。 ちなみに、ここで触れておくと、共産党の青年運動の指導にも指導者の質によって大いなる違いがある。レーニンは、青年を「未来の主人公」と位置づけ、「青年は完全な自立無しには、すぐれた社会主義者となることも、社会主義を前進させる準備をすることもできないであろう」とする観点から、青年運動の自由、自主、自発性を重んじ、トレーニング的な意義をも持たせた創意工夫性のある実践活動を奨励していた如くである。レーニンは、「青年インターナショナルについての覚書」の中で次のように述べている。
その後を受け継いだスターリンとなるとガラリと変わる。スターリンは青年運動に指針を与えたが、レーニンのそれとは違って「何よりも党の要請、党の必要に向けて、如何に青年を動員するか」を重視することとなった。青年運動の自発性、自主性、創意工夫性の部分がスッポリと抜け落ちてしまったことになる。 今日ではロシア10月革命の実態も判明しており、ソ連邦の解体を目にしており、ロシア10月革命の意義が色褪せてしまっている。が、この当時に於いてはレーニン、スターリンは社会主義革命の偉大な指導者として聖像視されていた。その両者に於いても、指導方法がかくも異なっていたということを知らねばならない。 これについて、筆者はかく思う。今日では、そのレーニン的指導の胡散臭さも暴露されつつある。これについては、宮地健一氏が「共産党問題、社会主義問題を考える」の「20世紀社会主義を問う」で一連の検証をしている。 そればかりかロシア10月革命の偉業が、ロスチャイルド派国際金融資本帝国主義の支援によるロマノフ王朝解体事業の一環でしかなかったという実態が明らかにされつつあり、ロシア10月革命を手放しで礼賛し学ぶ時代は終わったということになる。 付言しておけば、そういう目線で見れば、マルクス主義そのもののネオ・シオニズムとの通底、両者の相似と差異についても再検証せねばならないことになる。但し、この当時に於いてはそういう裏舞台が見えておらず、純粋無垢にマルクス主義とロシア10月革命史が崇敬されていたという事情がある。この息吹を踏まえなければ、この時代の青年学生運動の熱情が捉えられない。 問題は、日本左派運動が継承したのはレーニズムよりもなお統制的なスターリニズムの方であると云うことである。トロツキズムは視野にさえ入らなかった。日本左派運動は、レーニズムとスターリニズムの識別さえできぬままスターリニズムを継承し、これを定式化させ、伝統とさせていくことになった。それを社会主義的正義と勘違いしたまま受け入れて行くことになった。その結果、「似ても似つかぬ左派運動」に辿り着くと云う負の影響を及ぼしていくことになったことにある。この汚染が今も続いていると心得るべきであろう。 筆者が断ずるところ、1955年の六全協で宮顕の党中央再登壇を許して以来の日共は「似ても似つかぬ左派運動」を共産党という党名で押し付けて行くようになった。以来、日共のトンデモ指導が常態化しており、ケッタイナ指針であるにも拘らず日共の権威を信奉する者が詮議の無いままにこれを受け入れ、これにより通用せしめられており、本来の共産党的指針は面影しか認められない。萌芽的ではあるが本来左派的なものが難癖を付けられ誹謗されている。そういう倒錯が常態化している。この状況を痛苦に受け止めない限り日本左派運動の再生はなかろう。 |
(私論.私見)