1章 戦後学生運動1期 1945(昭和20)年終戦直後−1949(昭和24)年
 全学連結成とその発展

 (最新見直し2008.9.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動1期を戦後直後から1949年までの歩みとする。これを仮に「戦後学生運動1期、全学連結成とその発展概略」と命名する。詳論は「戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」、概論は「全学連結成とその発展」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。


【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

【日本敗戦の歴史的意味考】
 1945(昭和20).8.15日、日本天皇制権力帝国主義はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏した。日本の戦後史はこれより始まる。敗戦により日本はどのように変容させられたのか、日本国民はどのように適応して行ったのか、何が課題となりのど仏に詰まっているのか、どう切開すべきなのか、これらが問われている。こういう関心を持ちながら、以下検証して行くことにする。

 第二次世界大戦は米英仏その他の連合国勝利、日独伊の枢軸国敗北と云う形で終結した。この戦争は果たして如何なる戦争であったのか。表向きは、自由主義陣営対ファシズム陣営と云う形での世界戦争と喧伝された。マルクス主義的には新旧帝国主義間の覇権戦争と規定されている。

 これについて、筆者はかく思う。真相は、国際金融資本ネオ・シオニズム派と反ネオ・シオニズム派の第二次世界大戦であったのではなかろうか。第1次世界大戦に引き続く前者の勝利により、戦後世界は、米英ユを盟主とする右からの資本主義的世界支配の勝利となった。新たにソ連邦を盟主とする左からの社会主義圏が登場し、戦後はこの二大陣営が拮抗する冷戦構造となった。しかし、両者は根底的なところで国際金融資本ネオ・シオニズム派の双頭の鷲であった。これが冷戦構造の裏の仕掛けだと思われる。

 しかし、日本左派運動はそのようには理解せず、「作られた抗争としての資本主義対社会主義」に幻惑させられ、資本主義体制打倒運動に挺身して行くことになる。あるいは社会主義の変質に対して反スターリニズム運動を呼号して行くことになる。2009年現在で見えて来ることだけれども、近代−現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本ネオ・シオニズム派との闘争に向かわないこれらの運動は一知半解運動だったのではなかろうか。ならば、改めるに如かずではなかろうか。

 筆者は、レーニン式帝国主義論も胡散臭いと思っている。レーニンは、同書により資本主義の最高の発達段階としての帝国主義規定論を生み出し、近代に於ける西欧列強の帝国主義間抗争の実態検証と来るべき社会主義革命の必然性を説いたが、そういう国ごとの分析よりも西欧列強の背後で蠢く近代−現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本ネオ・シオニズム派の世界戦略こそ解明すべきだったのではなかろうか。この観点は、太田龍が登場するまで、日本左派運動の見識にならず今日まで至っている。否、太田龍見解が市井提供されているにも拘らず牢としてレーニン主義的帝国主義論の枠内での見方が続いている。

 もとへ。敗戦国日本は連合国軍支配下に置かれ、戦後日本の争奪戦が演ぜられた。日本取り込みは、それほど重要な世界史的事件であった。当初は米ソ両陣営による分割支配の動きもあったが、結果は、米軍の太平洋方面陸軍総司令官ダグラス.マッカーサーが連合国軍最高司令官となりGHQ(連合国軍総司令部)を指揮したことからも明らかなように米国のイニシアチブ下に進行した。ソ連の日本列島分割支配論による巻き返しはならず、最終的に戦後日本は1951年のサンフランシスコ講和条約、同時に締結された日米安全保障条約で米国の単独支配下に置かれることになった。ソ連の対日支配政策は粗暴であり、米国のそれは緻密であり、これが明暗を分けた。

 これについて、筆者はかく思う。残念ながら、日本左派運動には、戦後日本をこのように客観化させて捉える視点はない。今日判明するところ、戦後日本が米国系ネオ・シオニズムに取り込まれたことは、日本人民大衆的にはその方がまだしも良かった。粗暴なソ連系ネオ・シオニズムに取り込まれていた場合には、ソルジェ二ツィンの暴露した如くな政治犯に対する情け容赦のない銃殺ないしは収容所送りが常態化していた危険性があったと考えられる。その国有化理論で市場統制されることにより戦後日本の復興は大きく停滞させられた可能性がある。ひとまずはこう受け止めるべきだろう。

 もとへ。ところで、GHQの初期対日政策は初期と後期で大きく変わる。日本が米国側に取り込まれるまでの初期政策は、戦前的天皇制絶対主義権力の徹底的解体に向かい、その為の諸政策例えば治安維持法撤廃、労働運動の容認、左派運動の合法化、財閥解体、農地解放等々を矢継ぎ早に打ち出し、その限りに於いて日本人民大衆的にはこれは僥倖であった。つまり、GHQの初期対日政策は概ね善政であったと云うことになる。

 但し、留意を要するのは、この間GHQの報道管制が敷かれており、近現代世界を支配する国際金融資本に不利益な思想ないしはイデオロギーが徹底壊滅されたことである。戦前の満鉄調査部の「ユダヤ問題時事報」、続く国際政経学会の月刊「ユダヤ研究」、不定期刊「国際秘密力の研究」等々による主として「シオン長老の議定書」派即ち「ネオ・シオニズムの国際秘密力に対する研究と警鐘運動」が存在さえしていなかったほどに痕跡さえ消された。

 これについて、筆者はかく思う。残念ながら、日本左派運動にはこう捉える視点はない。筆者は、太田龍・氏の精力的な研究からこれを学んだことを感謝する。ここを踏まえないと世界史の動きが見えてこないであろう。

【獄中政治犯の釈放による戦後共産党の再建】
 GHQの初期対日政策を日本左派運動史上の枢要事に限定して確認すると、共産主義者の利用と憲法改正が最も重要なものであったと思われる。まず、共産主義者の利用について確認しておく。敗戦より2ヵ月後の10.4日、GHQ指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」が発令され、戦前の治安維持法違反政治犯が釈放された。共産党員が殆どで一部天理教分派のほんみち派が混じっていた。釈放された党員は直ちに共産党を再建した。これを主導的に指導したのが府中刑務所派の徳田球一(以下、「徳球」と略称する)、志賀らであり、これにより戦後共産党は徳球−志賀体制で始発することになる。

 後の絡みで言及しておけば、宮本顕治(以下、「宮顕」と略称する)の動きが既に怪しい。10.10日の一斉釈放より一日早い10.9日に釈放されている。宮顕は、1933(昭和8).12.23日発生の「小畑中央委員査問致死事件」と云う刑事事件に絡んでいた為、政治犯のみを対象とするGHQ指令では刑事事件との併合犯であった宮顕には適用されぬところ、「生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置」により違法出所している。この時なぜ宮顕が釈放されたのかの経緯そのものが依然として未解決問題となっている。宮顕は後に涙ぐましい努力で復権証明書を手に入れ、これにより解決済みと居直り続け今日へ至っている。日本左派運動は、これを訝らない。

 その宮顕が、戦後初の党大会となった12月の第4回党大会で、徳球−志賀体制に異議を申し立てしている。その理由は、概要「戦前共産党の旧中央委員で指導部を構成すべし。さすれば我こそが戦前最後の党中央委員であるからして、戦後の党の再建は宮顕・袴田の二人が中心になるべし」と云うものであった。しかし、戦後共産党再建に何ら貢献せず、「小畑中央委員査問致死事件」のイカガワシイ履歴を持つ宮顕の弁は相手にされず却下されている。

 これについて、筆者はかく思う。ここで、これらのことに触れるのは、宮顕のイカガワシサと徳球派と宮顕派の対立が既にこの時から始まっていると云う「生涯の天敵」関係を踏まえたい為である。それと、宮顕が何故に執拗に日本左派運動の分裂を策動するのか、その裏使命を確認したい為である。通説本は、このことに触れていない。触れたとしても、「徳球最悪、宮顕まだしも論」的観点から言及するのが通例である。驚くことに、新左翼でさえこの見解に位置している。これでは戦後共産党運動史の真の座標軸が定まらず、抗争の真実が見えてこないであろう。

【徳球の伊藤律登用】
 もとへ。徳球−志賀体制はその後、翌1946年に野坂が延安から鳴り物入りで帰国するに伴い、同2月の第5回党大会で徳球−野坂−志賀体制となり、1947.12月の第6回党大会で徳球−伊藤律−野坂−志賀体制へと変遷していくことになる。留意すべきは、志賀の相対的地位低下と伊藤律の登用である。志賀は次第に反徳球化して行き、宮顕と手を結ぶようになる。六全協後の宮顕独裁化過程で、これに反発し党を放逐されて始めて、こんなことなら徳球時代の方がまだましだったと恨み節をこぼすことになる。

 もう一つの伊藤律の登用について触れておく。伊藤律は、1913年生まれで1908年生まれの宮顕より5歳若かった。その伊藤律の党内出世は、それまでの中央委員の中で最も若かった宮顕を飛び越えての世代交代を意味していた。つまり、伊藤律登用には宮顕排除の裏意味が込められていた。徳球はこの人事を意図的に断行した。

 これにより、相対的に地位低下した志賀、後継的地位を外された宮顕、その他重用されなかった面々が反徳球化し、伊藤律への嫉視を強めることになった。この連中が、1950年の「50年分裂」時に国際派として大同団結して行くことになる。この道中で、伊藤律のスパイ問題が何度も浮上し、徳球はそのたびに「意図的故意の伊藤律潰しであり問題無し」裁定で庇っている。

 これについて、筆者はかく思う。問題は、新旧左翼とも通説本が、徳球の家父長体質を批判し、伊藤律叩きにシフトしているところにある。筆者は、この見解を採らない。むしろ、徳球の炯眼、伊藤律の有能性を認める。誰か、この目線を共有できないだろうか。この共有ができないところに日本左派運動の貧困が宿されているように思われる。こういう手合いに限って、難渋な左派文献解説を得意としているのは滑稽である。

【「2.1ゼネスト」前夜の状況】
 この間の党中央は脱兎の如く戦後革命に向かう。今日的アリバイ闘争的左派運動の地平では考えられない、ズバリの政権取り運動に向かっている。当時、極東アジアでは、日本、朝鮮、支那がロシア革命に続くアジア革命の先鞭を争っていた。この時代の左派運動には、そういう熱気がある。

 これに対し、1947(昭和22).1.1日、吉田首相は、年頭の辞をNHKラジオで放送中、労働運動の指導者を次のように「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。これを、「不逞の輩放送」と云う。
 「この悲しむべき経済事態を利用し、政争の目的のためにいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如きものあるにおいて、私は、我が国民の愛国心に訴えて、彼らの行動を排撃せざるをえないのであります」。
 「一般に労働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の増強意外にはないのであります。然るに、この時にあたり、労働争議.ストライキ.ゼネストを頻発せしめ、市中にデモを行い、人心を刺激し、社会不安を激成せしめて、あえて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ云々」。

 この「不逞発言」が燃え上がろうとしていた労働運動の火に油を注ぐことになったことは云うまでもない。

 1947.1月、党は、第2回全国協議会を開催し、徳球書記長が「ポツダム宣言の線に沿う民主人民政権樹立」を指針させ、次のように檄を飛ばしている。
 「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」。

 この頃、労働運動部の長谷川浩は次のように演説している。
 「現在のスト運動を全人民層の闘争に拡大し、政権に対する闘争に高めねばならない。すわわち人民政権樹立のために議会外大衆と議会内闘争を結合し、倒閣運動から、さらに進んで、真の人民の代表を中央地方の議会に送り込む大衆的な選挙闘争へ発展せしめねばならぬ」。

【社交ダンス論争】
 この頃、「社交ダンス問題」が論争になっている。たかがダンスという勿れ、興味深い内容なので言及しておく。徳球書記長は、「社交ダンス活用論」を次のように述べている。
 概要「あらゆる平和闘争手段を動員すること。特にこれまで弱体であった文化闘争を重視して、特に大衆活動に適する音楽と舞踊(社交ダンスを含む)を我が党の指導においてこれを奨励すること、これが重要である。文化活動とは何か? 文学、評論は現在の状態においては、これを見ても理解する能力を失っているほどに、日本では封建的な力によって、ものの表現力さえも失われておったのである。また、現在の紙のキキンのために、段々力が弱くなってきたのである。しかるに生理的自然の要求からの躍動が声になっては音楽になり、動作となっては舞踊.ダンスになる。これは大衆的な大きい躍動である。これが実際の生理的要求から音楽となるのである」。
 「既に敵はこれを運用して、現状では闘争を滅却せしめるために音楽を与え、舞踊を与えつつあるのである。これに対し、我が党内がこれを管理し、我が党の影響下にある大衆の管理によってこれを革命的な方向に運用しなければならないのである。文化的な闘争が階級闘争において大きな武器であることを我々は忘れてはならないと思う」。

 これは、蔵原−宮顕の文化政策に対する批判的意義を持っていた。これに対し、3.30日、宮顕は、アカハタに「文化運動の前進」論文を発表した。次のように反論している。

 概要「音楽やダンスなど大衆向けの文化活動は、卑俗趣味への無批判的な追随である」。
 概要「日本人民大衆の教養と文化向上に永久に限界をおくのは正しくない。映画.演劇.文学.スポーツ.ダンス.音楽のいずれにせよ、そのうちどれだけが『最も大衆的』と決め付けてしまうことも根拠がない。最も遅れた大衆の面白がることさえやっていれば、民主的文化の創造なんかは、やがて自然に解決できるものと考えることは、文化革命の重要な任務の一つを事実上捨てることになる。退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」。

 これに対して、徳球は真っ赤になって宮顕見解に反論した。次のように述べたと伝えられている。

 「社交ダンスに階級性などない、プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」。

 これに対して、筆者はかく思う。こういうところにも、徳球と宮顕の暗闘の火花が散っていた。社交ダンスを廻ってさえ徳球と宮顕の観点はこれほど食い違っている。一見、宮顕の「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」言辞の方が左派的に見える。凡庸な青年は、この手のロジックに騙される。しかし、「プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と迫る徳球の批判こそ瞠目すべきではなかろうか。

 徳球は、何でも階級的と冠詞すれば革命的であるかのように云い、後にそれが民主的と冠詞することになる宮顕詭弁のウソに立ち向かっている。実に徳球という人は本質を鋭く見抜き、ツボを得た批判をする。日本左派運動に立ち現れた開放型と統制型の姿勢のこの違い、戦後日共運動の指導者のこの鮮やかな対比。筆者は、日本左派運動は、こういうところを万事において切開していかなければならないと考えている。

 新左翼が万一この時の宮顕見解に与するなら、「プロレタリア的な社交ダンス」を踊って見せねばなるまい。ここでは社交ダンスが問われているが、これに止まるものではない。文化運動論一切に関わるのは当然、組織論、運動論にも繋がる話だと思う故に採り上げた。


【「2.1ゼネスト」の不発経緯】

 1946年末から1947年初頭にかけて、日本左派運動は総力を挙げて「2.1ゼネスト」に向かった。「2.1ゼネスト」は、それまでの「飯食わせ」的経済的条件闘争から民主人民政府の樹立という明らかに革命的政治闘争へと転化していた。これに慌てたGHQが猛烈に干渉を開始したが、共産党と労働組合のスクラムが崩れず、2.1日午前0時を期してのゼネストが必死の情勢となった。

 1.31日午後5時頃、共闘議長・伊井弥四郎はGHQに身柄を拘束され、マーカット経済科学局長他の最終的強制的説諭を受けた。伊井はゼネスト中止のラジオ放送を強制された。9時21分、伊井は、NHK放送を通じて概要「一歩退却、二歩前進。労働者、農民万歳、我々は団結せねばならない!」の言葉を残しながらゼネスト回避を指示した。次のように放送された。

 「私は全官公庁闘争委員会の議長伊井弥四郎であります。私は、今声がかれて、よく聞こえないかもしれないが、緊急で、しかも重要なことがらですからよく聞いてください。マッカーサー連合国最高司令官は、2月1日のゼネラルストライキを禁止しました。もう一度申し上げます。マッカーサー連合国司令官により、あす2月1日のゼネストが禁止されました。私は、この命令は、今の争議に関しては労働者にとりきわめて不利になると思いますが、マッカーサー連合国最高司令官の絶対命令とあらば、遺憾ながらゼネストは中止せざるを得ません。私はすべての国民経済が安定し、とくに労働者、農民の働く人たちの生活が保証され、そして生産が向上し、一日も早く祖国日本の再建と、民主主義が徹底することを期待します。私は今、ラジオをもって、親愛なる全国の官公吏教員の皆様に、明日のゼネスト中止を、お伝えしますが、

 (このあたりから涙声になる)実に、実に断腸の思いで諸君に語ることをご了解願います。私は、今一歩退却、二歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして日本の働く労働者、農民のためにバンザイを唱えて放送を終わることにします。労働者、農民バンザイ。我々は団結せねばならない!」。

 伊井は、この後手錠をかけられ刑務所に入獄させられ、政令325号(占領目的阻害行為処罰令)違反により2年余の刑を受けている。「2.1ゼネスト」はこうしてGHQ指令の前に流産させられることとなった。「2.1ゼネスト」は、日本の戦後革命史上最も政権の至近距離に迫った事件とし史実に刻まれている。以降、徳球党中央は、社共合同運動を通じて粘り強く左派政権創出に向かうことになる。これにつき、伊藤律派が精力的に活動する。党内の反党中央派が右から左からこれを誹謗すると云う党内状況となる。

 これにたいして、筆者はかく思う。この時の2.1ゼネストの不発を徳球−伊藤律系党中央の平和革命理論と指導の在り方に非を認める批判見解が為されている。これに関連して「GHQに対する解放軍規定」が槍玉に挙げられている。果たしてこれは正論だろうか。筆者は、「GHQの対日初期政策=解放軍規定」はさほど重要な間違いではないと思っている。GHQの対日政策の初期には許される規定であったが、その後の政策転換時にも同規定を維持したことが間違いであるとする見立てこそが必要ではないかと思っている。

 問題は、2.1ゼネストで政権を最も近く手繰り寄せた時の「革命青写真の無さ」こそ真因ではなかったか。今日でも日共不破は「革命青写真不要論」を堂々と説いているが、反動的無茶苦茶理論と云うべきではなかろうか。これに相槌を打つ党員頭脳の貧困が問題ではなかろうか。新左翼各党派も然りで同じ病気に罹っているのではなかろうか。


【戦後日本国憲法考】
 もう一つの流れとして戦後憲法の創出がある。この間、マッカーサー指令により帝国憲法に代わる新憲法制定が要請され、官民挙げて草案作りに向かった。但し、どれも大同小異で、戦前的天皇制の温存のうえに目先を民主主義化させていた類いの旧態然としたものでしかなかった。故に、GHQ内のニューディーラー派主導による憲法原案がひながたとして策定され、若干の変更を加えて採択される。1946.11.3日公布、1947.5.3日、施行された。戦後憲法論については別稿「戦後憲法論」で検証する。

 これについて、筆者はかく思う。この戦後憲法をどう読み取るべきだろうか。日本左派運動は、大きく道を過(あやま)ったのではなかろうか。筆者の見なすところ、戦後日本国憲法は、本国アメリカはもとより資本主義圏のどの憲法に比しても、ソ連邦の社会主義憲法よりもなお進んだ民主主義憲法としての諸規定を網羅している。更に、「非武装中立、国際平和共存協調」を規定した憲法9条及び前文に象徴される国際協調及び平和憲法ぶりが白眉となっていた。更に、国債発行禁止の健全予算主義、適宜な地方分権も採り入れている。戦後憲法が字文通りに履行されるならば、戦後日本は世にも稀な蓮華国家になっていたはずである。そういう出来映え出色の憲法であった。

 これを素直に読み取れば、戦後憲法は、マルクス主義的には垂涎のプレ社会主義憲法と規定されるべきであった。こう位置づけることで、日本左派運動は運動推進上強力なテコになるものであるとして、本来これを護持受肉化せねばならないものであった。だがしかし、日本左派運動はこの時、教条ステロタイプ的な理論を振りかざしブルジョア憲法として規定し、急進左翼は罵倒方向に向かった。穏健左翼は反戦平和主義的護憲に向かうしか能を示し得なかった。表向きはブルジョア憲法と貶しながらその実依拠すると云うケッタイナ運動にのめり込んでいくことになった。しかしてそれは両者とも理論の貧困そのものを示してはいないだろうか。頭脳が半分だけ賢いとこういうことが起こるという見本であろう。

 その点、日本人民大衆は、歓呼の声で戦後憲法を歓迎した。戦後憲法の持つ本質的にプレ社会主義性を見抜いていたからであった。戦後憲法の受容の仕方一つ見ても、「賢き大衆、愚昧な左派運動」と云う戦後の型が見えて来るのが興味深い。 

【教育基本法考】
 1947.3.31日、教育基本法.学校教育法が公布施行された。同4.1日、義務教育期間を9年「6.3制」とする学校教育法が制定された。歴史科は社会科に吸収され、「くにのあゆみ」は消滅した。文部省が学習指導要領の試案を纏めた。教育基本法は、1890年制定の教育勅語に代わり、戦後憲法の精神に即した教育制度や施策の基本的在り方を示す重要法律となった。以降教育界の憲法として今日にいたっている。

 教育基本法は、前文と11条項からなり、前文では「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」との理念を掲げ、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と、「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」教育の徹底を明示している。教育の目的や方針、教育の機会均等、義務教育、男女共学、国公立学校における宗教的活動の禁止などを規定している。同条10条は「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるものである」とあり、第2項で、「教育行政は、この自覚の元に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標」と記している。

 以上が教育基本法の功の面であるが、愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重が盛り込まれておらず、憲法同様GHQ主導で制定されたいきさつも含め、右派勢力から法改正すべきだとの意見が繰り返されることになった。

 これについて、筆者はかく思う。憲法−教育基本法を貫く精神及び原理はルネサンス以降の西欧史の正統嫡出子的な面を貫通させている。が、確かに愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統継承を徒に無視している。本来これは接合し得るもので、そうであるところ意図的に遮断しているところに憲法−教育基本法の癖があると云えば云えるであろう。つまり、右派の指摘は尤もな面があるということになる。この負の面が戦後学生運動にも現われ、無国籍型のコスモポリタン的革命家を輩出させていったようにも思われるので付言しておく。

 思うに、憲法及び教育基本法に「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」を盛り込まずとも、自生的に生み出すべく運動展開すれば良いのではなかろうか。これらは本来、法的強制に拠るものではなく、自主的に自生させるものとする観点を創造すれば良いだけの話である。この点で、日本左派運動が、レーニン主義的な「愛国愛民族運動=排外主義」論で「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」を否定していったところに間違いがあるのではなかろうか。徒に混乱を招くだけのことでしかなかろうと思う。この手の左派が多過ぎて困る。

 それは単なる半身構えでしかないのではなかろうか。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」をダンス論争と同じく左派的に取り込むのが必要なのであり、機械的に反発して右翼の専売特許にさせるのは作られた構図でしかないのではなかろうか。

 更に云えば、これは、「日の丸国旗、君が代国歌問題」にも繋がる。「日の丸、君が代」を左派的に取り込む闘いを組織する必要があるのではなかろうか。入学式、卒業式には国旗掲揚、国歌斉唱が有ったとして、それほど目クジラするには及ばない。問題は、行事の至るところで「日の丸、君が代」を押し付け、排外主義的な愛国愛民族意識形成に利用しようとしているのをサセナイ闘いを組織する方がよほど大事ではなかろうか。筆者には、こちらの闘いを疎かにする方がよほど重罪に思える。

【戦後日本プレ社会主義論考】

 こうした「上からの戦後革命」とこれに伴う社会情勢的変化の下で、官民上げての戦後復興が着々と進められて行った。この時、戦前の大東亜戦争過程で構築された護送船団方式の官僚権限集中制が大きく力を発揮した。これに戦後政治家の有能なる指導が加わることで戦後日本は世界史上奇跡の復興を遂げていく。戦前的統制秩序から解放された人民大衆の喜びに満ちた勤労も大きく貢献した。これを、「日本型社会主義」と云う者もある。

 これについて、筆者はかく思う。「戦後日本=日本型社会主義」は案外、的を射ているのではなかろうか。今からでも遅くない、我々がなぜ護憲するのかにつき「プレ社会主義論」で理論武装すべきではなかろうか。この理論を生まずして為す日本左派運動各派の護憲理論には理論サボタージュが認められるのではなかろうか。


【GHQの対日政策の転換による日本の反共の砦化始まる】

 ところで、1948年頃より国際情勢の変化を受けて、GHQの対日政策は初期の概ね善政政策から後期の反共の砦政策へと転換する。ここを識別せねばならない。1948.11.12日、極東国際軍事裁判が結審しA級戦犯25名に判決が下され、12.23日、絞首刑組7名が東京・巣鴨拘置所で執行された。残りのA級戦犯容疑者は釈放され、岸信介、児玉誉士夫ら19名が巣鴨拘置所から出獄している。この過程で、正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫は国際金融資本の秘密エージェント契約している形跡が有り、それぞれが戦後タカ派のドンとして政財官界に影響を与えていくことになる。

 日本左派運動は、「正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫」即ち国際金融資本の秘密エージェントの動きに対して分析力を持たぬまま運動展開していくことになる。それは児戯的でさえある。その癖、彼らが教本とするマルクス主義理論をますます難解にして行き、労働者大衆の読み物と掛け離れ手が届かないものに仕上げていくことになる。そういう「粉飾知」者を崇め奉り始める。どちらも似合いであろうが、これを訝るべきではなかろうか。


【徳球の9月革命呼号】
 1949年、紆余曲折を辿りながら戦後革命の総決算を迎える時期に至った。1.23日、第24回衆議院選挙が行われ、吉田民主自由党が264(←解散時152)で大幅躍進、単独過半数を獲得した。戦後の保守政権の基盤が確立し始めたことが分かろう。他方、民主党69(←90)、社会党48(←111)、国協党14(←29)、労働者農民党7(←12)が凋落した。共産党が35(←4)と躍進した。マッカーサー元帥は、選挙の結果に対して次のように満足の意を表している。
 「今回の選挙は、アジアの歴史上の一危機において、日本国民は政治の保守的な考え方に対し、明確なしかも決定的な委任を与えた」。

 共産党は、そのようには受け止めなかった。「35議席、得票数約300万票、得票率9.8%(←3.7%)」の成果を得て、人民政権近しの見通しを生み、1.25日、次のような声明を発表している。
 「人民の戦線が革命的に統一されるなら、民自党のごときは、国会に多数を占めるとはいえ、結局、革命の波にゆられてたちまち沈む泥舟にすぎないであろう」。

 こうして、「2.1ゼネスト」以来の革命的機運が醸成された。2月、第14回拡大中央委員会で、伊藤律は、「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化に関する報告」を行い、社共合同運動の成果を報告した。「民族資本家までも含めての党の拡大強化方針」を決定し、次のように指針させている。

 概要「広範な大衆の中に、なお根強く残っている社会民主主義者の影響を大きく克服して100万のボルシェヴィキ党を拵えていく一大攻勢が社共合同闘争であり、合同闘争は権力闘争であり、地域闘争の発展に他ならない」

 この時徳球は、一般報告の中で次のように述べている。
 「反動中の反動、民自党が過半数を占めたことは、決して我々が勝利に酔っ払っておるときではなく、更に緊張し、一層の奮闘をしなければ為らないときであることを教えている」。

 他方で、次のように警告している。
 概要「理論拘泥主義が極めて強烈な害毒を流したこと。また現に流しつつあることに対して重大な関心を払わねばならぬ。上級機関の決定を根掘り葉掘り正しいか正しくないか検討するという馬鹿げた規約無視までやってのけるのがこの特徴である」。
 
 「理論拘泥主義」とは宮顕を指している言葉であり、根深い対立を見て取れよう。徳球をしてこう云わせる宮顕派の執拗な嫌がらせ反党中央活動が続いていたと云うことでもあろう。

 6月、第15回拡大中央委員会が開催され、徳球書記長は「9月革命」を呼号し意思統一を図った。「9月までに吉田内閣を打倒する」と強調し、次のように述べている。
 概要「大衆の革命化に対する立ち遅れを急速にとりかえし、結論として吉田内閣打倒はま近いが、その後にできる民主勢力の連立政権に対しては、我が党も参加できるし、また参加せねばならない。階級的決戦が近づきつつあり、労働者の闘争は革命を目指す政治性をあらわにしてきた。人民の要求は身の回りの日常闘争から、非常な速度をもって吉田内閣の打倒、民主人民政権の樹立に発展しつつある。民主自由党を9月までに倒さねばならぬという我々の主張は、かかる条件にもとづいている」。

 当然党内には「9月には人民政権が成立するのだ」という合意が普及し、新聞各紙も「9月革命説」として喧伝された。

 6.27日、この時期に符節を合わせるかのようにソ連シベリアからの引揚げが再開され、共産主義教育を受けた兵士が帰還し集団入党式を行っている。
引揚者の「代々木参り」を出迎えた徳球書記長は次のように演説している。
 概要「党は諸君が日本の民主革命を達成するために力を蓄積してきたこと、諸君が反動を破る力を示されていることに対し、大いに感謝している。諸君のつかんだマルクス・レーニン主義で日本の実情をよくとらえ、実際の活動をしてもらいたい」。

 しかし、シベリア兵の引き揚げは、次第に強制労働の実態を知らすことになり、引揚者の集団入党にも関わらず却って共産党の人気を悪くした。以降、国会で引き揚げ問題が議題に上るときには「コラッ共産党、シベリアの捕虜をどうしてくれる」と野次られることになった。


【吉田政権の反動攻勢】

 他方、これを迎え撃つ吉田政権は団体等規制令の公布で公務員の労働争議規制等を強め反動攻勢を本格化させた。こうした時期、7.6日の下山事件、7.15日の三鷹事件、8.17日の松川事件と云う国鉄関係の相次ぐ謀略事件が発生する。その慌しさの中で戦後革命の最後の綱引きが演ぜられた。


【中華人民共和国の誕生】

 10.1日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。毛沢東が天安門上で世界に向けて新生中国の建国を宣言した。支那はこうして百余年にわたる帝国主義の侵略と支配を脱して社会主義の道に踏み出すことになった。中国建国は、国際共産主義に与える影響大なるものがあり、日本共産党を奮い立たせた。党は、「人類解放の大事業の上に、ロシア革命に次ぐ偉大な貢献を為し遂げようとしている」との賛辞を添えて祝意を述べている。10.7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。いわゆるソ連邦を中心とする東風が吹いた。 


【戦後革命流産】

 この頃既にアメリカは資本主義陣営の盟主として、共産主義封じ込め政策を強硬に展開し始めていた。この戦略から日本をアジアの反共の防波堤と位置づけ取り込みを図った。これに対し、そうはさせじとして「日・ソ・中共産党連携での革命工作」が始まり、12.16日付で「革命闘争指令1号」が発令されたが不発に終わる。これらの諸要因により日本の戦後革命が最終的に流産した。


【1949年末の徳球と宮顕の罵倒合戦】

 12.29日、増山太助の「戦後期左翼人士群像」は次のような史実を伝えている。

 概要「宮本、青山両論文の検討会が関係者を集めて本部の食堂で開かれることになった。宮本、青山両論文の検討会とは、宮顕の前衛7月号掲載『統一戦線とインテリゲンチャ』論文に対して、青山敏夫が前衛12月号掲載『知識人の統一戦線の問題』で反論を行い、これに対し宮顕が『宗派的な傾向の克服のために同志青山に答える』論文で再反論したことの党内的対応の必要から急遽設営されたものであった。しかし、この検討会は両者の考えを平等に取り上げる検討会にはならず、徳球書記長と宮顕との間で本題そっちのけの、『どちらが相手を支配するのか』まるで『官僚主義』を競い合う息詰まる舞台になった」。

 この証言は、宮顕派に位置していた増山氏の「この頃の政治局面に於ける徳球派と宮顕派の鋭い対立内部証言」として受け取るべきであろう。そういう意味で貴重である。


【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。戦後革命の随伴運動として勃興し連動していく様を窺うことができよう。

【戦後ルネサンスの息吹】
 こうした構図下で、共産党の指導下で戦後学生運動が再建され、以降向自的発展を遂げる。1945−46年は戦後学生運動の端緒期であり、戦後民主主義時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として運動展開されていった。戦後の学制は、格別「大学の自治」を尊重した。戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省して獲得したとも云えようが、特別闘い取ったと云う訳ではないので、初期GHQの対日政策の一環としてもたらされた措置であったと見なすべきだろう。

 戦後の学制は、学生に対して、当時の米国教育学の権威であるジョン・デューイ(John Dewey)的理念に基くと思われる「学生に対する民主的且つ社会性の育成」、「学生生活の向上や課外活動の充実をはかる」という大学教育の一環として学生自治会を用意していた。この時点でのアメリカは、相対的ではあるが今日の時点から思えばよほど民主主義的且つ健全で、いわゆるアメリカン民主主義が罷り通るに値するものを保持していた。

 そのアメリカはその後ネオ・シオニズム(これについては別途言及する)に深く汚染される度合いに応じて病んで行き、2009年現在今日あるが如くある。但し、第二次世界大戦直後のこの時代に於いてはまだしも「民主主義の盟主」的度量があった。こう考える必要があるように思われる。

 そのはるけき良き時代のルネサンス気風を継承した西欧的価値観に基くアメリカン民主主義の理念が戦後日本に移植され、戦後憲法に結実したと思えばよい。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。

 しかしそれはつまり、学生全員加入制による前納徴収会費が自治会執行部に任されることになったことを意味する。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日まで各党派が血眼になって各大学の自治会執行部を押さえるのかを廻って対立していくことと関連することになる。

 戦後当初の学生運動は、この新憲法秩序の下で、「戦後民主主義の称揚と既得権化」を目指して学園内外の民主主義的諸改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど学生生活エンジョイ的な趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動まで取り込んだ幅広い活動が生まれた。こうした運動は後に「ポツダム自治会運動」として揶揄されていくことになる。

 これについて、筆者はかく思う。政治的意識の培養が一朝一夕には為されずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、こうした運動自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。急進派には物足りなくても片目をつぶれが良いのではなかろうか。

 問題は、傲慢不遜に否定するものではなく、そこから弁証法的に出藍していくのが望まれているのであり、「戦後民主主義の称揚と既得権化運動」はその際の培養土のようなものとして重視されるべきではなかろうか。史実はそう向かわず、急進派は次第に「戦後民主主義の称揚と既得権化運動に対する否定的革命主義運動」に向かって行くことになる。しかしそれは培養土を否定する分それだけ先細りの急進主義運動に陥る危険性がある。こういう観点はいかがだろうか。

【戦後直後の学生運動】

 戦後直後の学生運動の功績として、学生課や寮の舎監制が廃止され、大学新聞の発行、生活協同組合、セツルメント、文化サークル活動などが再建されていったことが認められる。この気運が、1・戦犯教授、学長の追放、2・戦時化諸組織の解体、3・民主的自治組織の建設、4・進歩的教授の復帰、5・学生協同組合、文化団体、研究会、政治組織の結成等々に向かっていくことになった。いわば、学生の生活権訴求、これに関わる範囲での政治活動と云う即自的段階の学生運動であった。

 その内面的心情には、「戦前の悲劇を二度と繰り返させまい」とする決意もあったように思われる。敗戦と同時に戦場に職場に学徒動員されていた学生がキャンパスに戻ってきたが、「私達は生き残った。あの激しい戦争の中をとにかく生き残った。私達はこの『生き残った』という真の意味を決して忘れてはならない」という思いが、軍国主義的残滓の一掃を経て次第に日本革命を夢見る活動家へと転身させて行くことになる。

 労働運動も政治活動もその自由が保証された時代的風潮の中で、戦前の治安維持法体制下で抑圧されていたマルクス.レーニン主義の研究が風靡していくことになった。それに伴い、共産党に入党する学生党員が増えていった。関東では官立の東大、私立の早大、関西では官立の京大、私立の同大の四校が戦後学生運動の機関車となり、全国に連絡網を広げていった。


 1946.12.13日、早大で、学生約6千名が学園復興要求で国会デモ、これが戦後初の学生デモとなった。白土の主導で首相官邸へデモ.共産党議員・志賀義男の紹介により田中耕太郎文相、石橋湛山蔵相に会見し、石橋蔵相に決議文を手交した。松尾隆・氏の伝によれば、「先頭が飯田橋を渡っているとき、うしろはまだ大隈講堂前で足踏みしていた」と伝えられている。
 1947.1.31日、「2.1ゼネスト」の前日のこの日、皇居前の人民広場で、関東大学高専連合学生大会が開催され、40校代表3万名、早大4千名が結集している。早大の白土議長の下で議事が進められ、「各学校に学生自治会を結成し、自治会連合に結集しよう」アピールを採択し、その他自治権確立等11項目要求を決議し、文部省デモをかけている。
【東大新人会運動】

 1947.9月、東大で、戦前の新人会の「再建」活動が始められた。これを推進したのが通称ナベツネ(後の読売新聞社長渡辺恒雄)派であった。ナベツネらの動きは、労働戦線での右派的新潮流、後の社会党系総評につながる民主化同盟の動きと連動していた。青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける党中央の方針に反対し穏和系運動の創出を図った。ナベツネは、その活動資金5千円を戦前の転向組にして戦後は反党活動を職業にしていたことで有名な三田村四郎から受け取っていた。

 ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」は文学の領域で狼煙が上げられ、哲学の分野に飛び火し、論壇を席捲していった。この当時の経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論などがこれに当たる。「マルクス主義の硬直的理解からの解放」と位置づけられる。

 党中央は、「モダニズム」理論の中身の精査に向かう能力を持たず、その社民化的政治性を問題にし排斥していった。12.7日、党中央は、「主体性論」をマルクス.レーニン主義に反する小ブル思想であるとして批判を強めた。東大学生細胞に影響力を見せていたことから、これを解散処分に附し、12.16日、党中央系共産党東京地方委員会は、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定」し、東大細胞に通告した。これにより、新人会活動は掣肘された。

 1948.1.30日、細胞総会が開かれた。2.7日付けアカハタ報道の「日本共産党決定・報告集」によると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席上、ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、除名処分に関しては「賛成27、反対26、棄権3」であった。

 今日的に見て「主体性論争」はマルクス主義理論の見直しの契機(「反省の矢」)として重要な意義を持っていたと思われるが、そもそもの狙いが反共運動的臭いを持っていた故に封殺された。それはともかく、ナベツネの履歴に於ける「元共産党理論家」とはこの程度のものであることが確認されねばならない。


【学生運動の全国化】

 1948.6.26日、授業料値上げ反対ストで、114校、約20万人が参加した。全国の主要な大学・高専校の殆どを網羅して、日本の学生運動史上初の全国ストライキとなった。この時の盛り上がりは予想を上回るものであった。この運動の流れで「全日本学生自治会総連合(全学連)」の結成決議が為された。

 この闘争の過程で党の学生細胞が全国の大学.高校に誕生し、拡大強化した。早大共産党細胞がこの闘争で入党者を急増させている。党はこの頃約5千名の学生党員よりなる約3百の学校細胞を組織した。東大細胞らのオルグが都内各校、主要な拠点校に向けて全国に飛び始めた。この時の盛り上がりは予想を上回るものであった。


【全学連結成】
 1948.9.18日、念願の全学連が結成された。東大を頂点とする国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。全学連は、自治会数268校、員数22万人を傘下とした。事務局本部は東大に置かれ、初代委員長・武井昭夫(東京大学)、副委員長・高橋佐介(早稲田大学)、書記長・高橋英典(東京大学)、中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになった。

 これについて、筆者はかく思う。奇妙な事に、この時の指導者がなべてその後党の出世階段を昇ることがなかった。この時点ではポジションさえ定かでない上田・不破兄弟が登用されていくことになる。こういう人事を意図的にやったのが宮顕であるが、この変調さを指摘する者も少ない。筆者は、これについて追って触れていくことにする。 

 もとへ。この期以降、学生運動が次第にマルクス主義化し、究極の「社会の根源に対する闘い」へと運動を向自化させていくことになった。 この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことに成功し、この経過で東の東大、早大、西の京大、同志社、立命らを拠点とする学生党員グループがその指導権を確立していった。

 全学連はその後、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになった。しかし、急進化すればするほど、曲がりなりにも真紅の革命派であった徳球党中央への反発と批判を高めていくことになった。

 これについて、筆者はかく思う。これは自然にそうなったというより、当時の学生運動を担当していた宮顕派が反党中央運動を煽っていたという事情が関係している形跡が認められる。宮顕派のこの辺りの隠微な根回しは歴史から隠匿されているので証明し難いが、断片的事実を寄せ集めてかく断定できる。

【共産党の指導】
 この時期の学生運動指導部は自然と共産党党員活動家が担っていくことになったことが顧みられる必要がある。この当時の日本共産党(以下、暫くの間単に「党」と記す。宮顕系共産党化した時点より「日共」と記すことにする)が、他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあろう。受け止める側の方も、党をいくつかの政治諸党派の最左翼という位置にとどまらず、戦前来の不屈の抵抗運動を繰り広げた実績を崇敬し、最も信が置け頼り甲斐の有る「革命の唯一の前衛」という象徴的権威で認めていたということでもあった。

 ちなみに、ここで触れておくと、共産党の青年運動の指導にも指導者の質によって大いなる違いがある。レーニンは、青年を「未来の主人公」と位置づけ、「青年は完全な自立無しには、すぐれた社会主義者となることも、社会主義を前進させる準備をすることもできないであろう」とする観点から、青年運動の自由、自主、自発性を重んじ、トレーニング的な意義をも持たせた創意工夫性のある実践活動を奨励していた如くである。レーニンは、「青年インターナショナルについての覚書」の中で次のように述べている。
 「青年は何か新しいものだから『先輩とは違った道を通り、違った形で、違った条件のもとで』社会主義に近づくということを忘れてはならない」。

 その後を受け継いだスターリンとなるとガラリと変わる。スターリンは青年運動に指針を与えたが、レーニンのそれとは違って「何よりも党の要請、党の必要に向けて、如何に青年を動員するか」を重視することとなった。青年運動の自発性、自主性、創意工夫性の部分がスッポリと抜け落ちてしまったことになる。

 今日ではロシア10月革命の実態も判明しており、ソ連邦の解体を目にしており、ロシア10月革命の意義が色褪せてしまっている。が、この当時に於いてはレーニン、スターリンは社会主義革命の偉大な指導者として聖像視されていた。その両者に於いても、指導方法がかくも異なっていたということを知らねばならない。

 これについて、筆者はかく思う。今日では、そのレーニン的指導の胡散臭さも暴露されつつある。これについては、宮地健一氏が「共産党問題、社会主義問題を考える」の「20世紀社会主義を問う」で一連の検証をしている。

 そればかりかロシア10月革命の偉業が、ロスチャイルド派国際金融資本帝国主義の支援によるロマノフ王朝解体事業の一環でしかなかったという実態が明らかにされつつあり、ロシア10月革命を手放しで礼賛し学ぶ時代は終わったということになる。

 付言しておけば、そういう目線で見れば、マルクス主義そのもののネオ・シオニズムとの通底、両者の相似と差異についても再検証せねばならないことになる。但し、この当時に於いてはそういう裏舞台が見えておらず、純粋無垢にマルクス主義とロシア10月革命史が崇敬されていたという事情がある。この息吹を踏まえなければ、この時代の青年学生運動の熱情が捉えられない。

 問題は、日本左派運動が継承したのはレーニズムよりもなお統制的なスターリニズムの方であると云うことである。トロツキズムは視野にさえ入らなかった。日本左派運動は、レーニズムとスターリニズムの識別さえできぬままスターリニズムを継承し、これを定式化させ、伝統とさせていくことになった。それを社会主義的正義と勘違いしたまま受け入れて行くことになった。その結果、「似ても似つかぬ左派運動」に辿り着くと云う負の影響を及ぼしていくことになったことにある。この汚染が今も続いていると心得るべきであろう。 
 
 筆者が断ずるところ、1955年の六全協で宮顕の党中央再登壇を許して以来の日共は「似ても似つかぬ左派運動」を共産党という党名で押し付けて行くようになった。以来、日共のトンデモ指導が常態化しており、ケッタイナ指針であるにも拘らず日共の権威を信奉する者が詮議の無いままにこれを受け入れ、これにより通用せしめられており、本来の共産党的指針は面影しか認められない。萌芽的ではあるが本来左派的なものが難癖を付けられ誹謗されている。そういう倒錯が常態化している。この状況を痛苦に受け止めない限り日本左派運動の再生はなかろう。

 これより後は、「2期、『50年分裂』期の学生運動 」に記す。



(私論.私見)