第8期その2後期 | 1969 | 圧巻の全国全共闘結成と内部溶解の兆し |
更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年3.16日
これより前は、「東大闘争クライマックスとその顛末」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1969年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
佐野 秀夫「戦後学生運動の歴史(1969年7月-9月)」、「戦後学生運動の歴史(1969年10月-12月)」その他参照。 |
7.1-19日、華青闘中心に国際青年共闘、入管法粉砕でハンスト〔新宿駅西口〕。7.2日、機動隊が実力排除。7.12日、同じく実力排除、一名逮捕、のち東口広場で集会中の二百名に暴力団が襲撃。
7.2日、共産同関西派の「マル秘通達」が関東派に伝わり、関東派の議長・仏徳二はこの日、赤軍派を除名にする声明を出した。これにより関西、関東の両派の対立は激化することになった。
7.3日、明大で、スト後初めての連合教授会団交が記念館で開かれ、約5000名の学生が参加した。全共闘は、学校側が出した警告と「学生諸君へ」の要請書の撤回と自己批判を求めた。しかし、全共闘承認問題など最後まで一致点を見出せず、11日に再度団交を持つことで閉会した。
7.5日、生田 三里塚へ農業実習。第1班の農経2の1、2の7人は7月5日に出発、1週間農業実習を身体で体験して帰ってきた。「開かれた大学」とはブルジョアのためのものではなく、全存在をかけて権力と闘っている底辺にこそ開かれるべきである、というのが彼等の考えであり、それを実践したものが今度の三里塚実習である。期間は1週間であるが、9月まで入れ代わり立ち代り、続々と遠征隊を送り込む予定である。交通費は駅前で集めたカンパで間に合うが、食事代は1日基本的には250円だという。向こうに着いたら、2、3人ずつ各農家に振り分けられ、泊まり込む。働いてやるのだから食事代はタダでも、と思うかもしれないが、「農民は生活をしながら闘っている。決して裕福ではない。食費ナシということは、彼らの闘争に対する経済的破壊へつながる」として、自費出費しているという。
【第二次ブント内ゲバで7.6事件発生】 | |
7.5日夜、第二次ブント第7回大会を控え、関西派が上京、関東派も動員をかけ神田駿河台の中大、明大、お茶の水の東京医科歯科大などに両派約600名が泊まり込み、こぜり合いを続けた。 7.6日午前9時25分ころ、杉並区和泉の明大和泉校舎本館前で約100名の関東派と約50名の関西派がそれぞれ角材にヘルメットで武装、ぶつかった。衝突はまもなくおさまったが、約1時間後、同校東側の同区永福町1の8の1、築地本願寺墓地内でも両派が内ゲバ、数で劣る関西派が追出され、2名が重傷を負って病院に収容された。 |
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7.6日、第二次ブントが第7回大会、第8回大会。1968.10・21防衛庁闘争、1969.4.28闘争以来の党内対立を調整する為、7・6中央委員会開催を召集した。これに対し、塩見孝也(京大)、田宮高麿(大坂市大)、上野勝輝(京大)が率いる赤軍派フラクション150~200名が、東京医科歯科大学で総決起集会を行い対抗した。第二次ブント党中央の仏(さらぎ)派は明大和泉校舎、中大グループは中大駿河台校舎に武装集結した。 その後午前4時頃、赤軍派総勢130名が、ブント中央委員会会議が開かれる予定だった明大和泉校舎へ行き、仏派と赤軍派が対峙した。赤軍派の党内党的な動きに対しブントの中央指導部から査問や処分を行なおうとしていることに対して、赤軍派が「赤軍フラクの要求する“革命を担う党”への改組に、まじめにとりくんでいない。今のブント指導部ではできない。指導に異議を申し立て、自己批判をせまろう」、「ファシズム到来前の前段階武装蜂起=臨時革命政府樹立を目指すべきだ。指導力をなくした仏派に代わって中央を担う用意がある。今の指導部では70年安保を戦えないから、党の革命を断行する」ことを宣言した後、武闘を開始した。この赤軍派の殴り込みに森恒夫も参加していたが途中で姿を消している。「森の敵前逃亡」は多くの赤軍の仲間が周知していた。 赤軍派が制圧し、ブント議長・仏(さらぎ)徳二氏を拉致監禁、暴行に及んだ挙句、和泉校舎の西隣にある築地本願寺和田堀願所の墓地に連れ込んだ後、放置した。機動隊が包囲し始めており、赤軍派が撤退し始めた時に機動隊が乱入し、4.28破防法容疑で逮捕状の出ていた仏議長が逮捕された。これが第一ラウンドとなる。 |
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赤軍派の指導者・塩見と田宮が拠点としていたお茶の水の医科歯科大三号館5階に引き上げたところへ、午前11時過ぎ、叛旗派系中大全共闘(関東派)約450名(中央大学300名、明治大学100名、医科歯科大学50名)が襲撃し、激闘の後、関西赤軍派29名を捕虜にし、中央大学四号館に連れ込み、「ブント議長のさらぎ徳二を負傷させ、結果的に共通の敵である警察権力に売り渡す形になったのは革命家としてあるまじき行為」であるとして自己批判を迫り続けた。自己批判に応じた25人を釈放し、リーダーの塩見孝也、花園紀男(早大、社学同・前書記長)、望月上史(同志社大、京都府学連書記次長)、物江克男(滋賀大)の首謀者4名を一号館三階の経済学部長室に場所を移して軟禁状態においた。1食300円の食事を与えられ、洗濯や体を洗うこともでき、監視つきで喫茶店に行くことも、家族の面会も許されていたという。次第に監視が緩やかになったが解放されることはなかった。ここまでが第二ラウンドとなる。この間、「田宮が御茶ノ水駅前交番に助けを求め逃げ込んだ不祥事」を発生させている。 | |
関東派にすれば、リーダーの仏徳二を虫の息にされたばかりなのだから、怒りが収まる筈もなかったが、これ以上、この4名を拘束し続けても埒が明かない。そこで、4名を釈放する代わりに、田宮高麿を筆頭とする赤軍残党120名全員の武装解除、それと自己批判書の提出を条件にして塩見、花園、望月、物江の4名を解放するという条件を提示した。田宮高麿と120名の赤軍残党は、その頃、横浜の関東学院大学に立てこもっていた。田宮は寸でのところで関東派の襲撃から逃れていた。やがて、塩見孝也ら幹部4名からの伝言が田宮の元へ届いた。伝言は、「諸君が武装解除しないと我々は釈放してもらえない。頼むから、この際、要求を受け入れてくれ」という主旨であった。田宮高麿はどうしたか?田宮は「仏一派に屈服するなんて全くのナンセンスだ」と言って、伝言が書かれた紙をビリビリと破り捨て、塩見たちの伝言に対しては「機をみて自分たちの力で脱走しろ!」と返答した。このまま、人質として4名を監禁し続ければ、結局は警察沙汰になる可能性が高い。関東派は、結局、話し合いの場を設けることを提案せざるを得なかった。 7.23日、関東派と関西派との間で話し合いの席が設けられた。関西派を代表して話し合いにやってきたのは田宮高麿、重信房子、遠山美枝子を含む5~6名であった。本来であれば、この席に田宮の腰巾着と揶揄される森恒夫の姿があって然るべきであったが、森は7.6日早朝の殴り込みを前にして逃亡して以降、音信不通になっていた。交渉は東京・上野の旅館で行われたが、田宮が頑なな態度を崩さなかったらしく交渉は決裂した。これによって、捕虜の身になっている塩見、花園、望月、物江の4名は全面降伏を受け入れて釈放してもらうか、機をみて脱走するかの二択となった。 |
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7.25日未明、事件から2週間後、4人は中央大学法学部長室の3階からの脱出を試みた。監禁されていたのは中央大学一号館三階の経済学部長室の出入口には見張りがおり脱出は至難の技であったが、消防ホースを窓から垂らして壁伝いに脱出するというアクション映画さながらの方法を実行した。寝静まったころ、窓から消防ホースを垂らし、その消防ホースを手で握り締めながら15mほどの高さのある窓から脱出を始めた。消防ホースの粗い布地が掌に食い込み掌は血塗れになったという。塩見が先陣を切って降りて、次に花園が続いた。三番目に望月が降り始めると、俄かに真夜中の三号館が騒がしくなった。脱走に気づかれたのだった。望月が途中まで降り掛けているタイミングで、物江も消防ホースをつたって降り始めた。しかし、次の瞬間、物江が手を滑らせ、中途まで降りていた望月を巻き込むようにしてコンクリートの床に落下した。物江は即座に跳ね起きたが、望月は倒れたまま動かなかった。頭部からは夥しい流血が確認でき、コンクリートの床に頭から落下し頭を割っていた。塩見らは望月を担ぎ上げて通りに出てタクシーを拾い、そのまま病院へ望月を運び込んだ。望月は急性硬膜下血腫、右後頭骨骨折、右前側頭葉脳挫傷という大怪我を負っていた。塩見ら3人は、遠山美枝子を起こして5千円を借り、はだしのまま病院に望月をあずけ、そのまま姿を消した。望月が意識不明の66日間を経て9.29日死亡した(享年22歳)。脱出過程での転落死事件ではあったが、望月上史(同志社大)が赤軍派の最初の犠牲者となった。この間、関西派は赤軍の旗をかかげ武装闘争を開始することに夢中で仲間の死を振り返る余裕はなかったので望月の追悼集会はもちろん供花さえされていない。ここまでが第三ラウンドとなる。 | |
望月上史(同志社大、京都府学連書記次長)について付記しておく。望月と松岡利康(後の鹿砦社代表取締役)は同志社大の学友会活動で結ばれる機縁があり、矢谷暢一郎「ヤタニケ-ス」の第4章「好ましくない外国人の明日の『明日』」で次のように記されている。
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1969年7月25日、望月上史(もちづき・じょうじ)(同志社大生、赤軍派)が党内闘争でブント関東派に塩見孝也ら3人とともに中央大学に拉致監禁(7月6日)、脱出を試み墜落・危篤、9月25日逝去(享年22歳)。 | |
脱出劇があった同日前後、田宮高麿は関東に留まっていると襲撃される可能性があるとして大阪へと戻った。大阪・阿倍野区の桃山学院大のアジトにブント(共産同)の旧幹部たちが集まっており、その場に田宮は乗り込んで「とても関東派とは一緒にやっていけない」と訴えた。田宮の主張は「関西派は関東派と手を切って、独自に武装路線を歩むべきだ」という熱弁であった。しかし、旧幹部たちにしてみれば〝組織を割る〟という選択には躊躇があった。苦労して第二次ブントを発足させたのに、また、ここで分派する事になるのはマズいと、田宮の熱弁にも中々、首を縦に振らなかった。そこへ捕虜になっていた筈の、塩見、花園、物江がバタバタと駆け込んできた。田宮と、捕虜になっていた三人との間に微妙な空気が流れたが、塩見のハラは決まっていた。こんな酷い目に遭わされたのだ、今更、関東派と協調路線など有り得ない。斯くしてブントを割る事が決定した。8月初旬、ブントの第四回中央委員会があったが関西派は全員が欠席。ただ一人だけ山田孝(京大生)が東京の会場に乗り込んで、関東派から野次と怒号を浴びながら、「武装蜂起以外にありえない!」と言い放った。 | |
塩見はこの間、他の同志と共に赤軍派フラックとして、仏氏リンチと氏を逮捕に追いやったことについて厳正に自己批判し、ブントに処分を仰ぐ旨声明した。「軍事の自然発生性に帰しないのは7・6事件以来の戒律であった」とある。この事件が「ブント大分派闘争」の始まりとなり、赤軍派が分離独立していくことになる。 |
7.7日、井上正治九大教授が、学長代行未発令で国を名誉毀損で告訴。
7.8日、中ソ両軍が、アムール川(黒竜江)上流のゴルジンスキー島(八岔島)で武力衝突。
【早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成】 |
早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。 |
7.10日午後、全学ストに入ったばかりの早稲田大学キャンパスで、大学立法粉砕全都全共闘総決起集会が開催され、都内約30大学の全共闘派8千名結集。同7時近く、国会へ向けてゲバ棒なしで新宿、四谷、虎ノ門を経て日比谷公園まで2時間半にわたりデモ。学生たちのヘルメットの色はとりどりで、各派入乱れての集結ぶりを示していた。 |
【明大で明治大学当局との団交】 |
7.11日、駿河台の記念館で明治大学当局との団交が開かれた。参加したのは二千人程度で、バリケード・スト突入時の盛り上がりに比べると寂しい状況であった。団交では再び全共闘承認問題が取上げられたが、大学側は「個人加盟の全共闘は交渉相手としては認めるが、最終的な調印の相手は全学加盟の学生会とする」との見解を変えず平行線のまま終始した。さらに学生部問題が取上げられ、全共闘は「学生部を廃止せよ」と迫ったが、学生部長は「私個人には学生部を廃止する権限はないし、学生部は学生諸君のいうような弾圧機関ではない」として結論は出ず、この日の団交は決裂した。 同日、約200名が参加して全二部共闘会議が結成され、議長に本間晟豪(ML派)が選出された。 |
7.11日、日本共産党は、「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。
7.13-16日、革マル系全学連が第27回大会開催。7.14日、新委員長に大貫氏(早大)を選出。 安保・沖繩の任務方針等を決定、新執行部を選出、のち会場の大隈講堂を封鎖。
7.13日、都議選で社会党惨敗、自民党が第一党に復活。
7.14日、大学治安立法粉砕闘争。 関西4大学全共闘、日大全共闘共催の大学立法粉砕総決起集会〔明治公園〕に中核派中心に1300名参加、のち国会デモ。
【解放派全学連が独立結成される】 |
7.15-16日、社青同解放派/反帝学評系全学連が第20回全国大会開催。反帝学評系単独で開催し、解放派全学連として独立した。委員長に石橋興一を選出。解放派全学連は明治大学を拠点とした。9月全国全共闘へ積極参加、10-11月闘争方針等を決定。 |
7.15-16日、法政大で、安保粉砕全国学生共闘会議結成大会。プロ学同・フロント系学生6百名参加。
7.15-18日、中核派全学連が大会開催。173大学(前大会発表101)・211自治会(前大会発表157)・ 3400名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派が凄まじい勢いで全学連運動の主導権を握りつつあったということになる。委員長に金山克已を選出。民青同、 革マル派を除く全国全共闘の結成、11月佐藤訪米実力阻止等を決定。
7.16日、フロント、プロ学同及び構改派系の全共闘を中心に、安保粉砕全国学生共闘会議結成。
7.17日、自民党が参院内閣委で防衛二法案を強行採決。7.23日、参院本会議で強行採決・成立。
7.18日、法政大で反戦高協第1回全国大会開催。25府県代表7百名参加、指導手引書粉砕闘争等を決定。
7.19日、指導手引書粉砕全都高校生決起集会(清水谷公園)に7百名参加。文部省にデモ、大阪では告訴抗議集会〔教育会館公園〕、府高教組事務所に突入。
7.20日、破防法粉砕・東大分離裁判粉砕・東京地裁、弾劾労農学市民集会(日比谷野音)に50団体1万名が参加、のち地裁にデモ、20数名が逮捕される。
7.20日、アメリカの宇宙飛行船アポロ11号の人類初の月面着陸報道が全世界に流される。
7.23日、社学同全国大会(明大)、350名参加、同盟内の意見の相違を公開討論により克服等を決定。
7.24日、衆議院文教委員会で大学運営臨時措置法案を自民党が強行採決。
7.24日、全都全共闘代表者会議〔中大〕、46大学全共闘代表200名参加、7.30日全国全共闘代表者会議・9月上旬全国全共闘結成を決定。
7.24日、東京教育大学評議会が、茨城県の筑波市の研究学園都市へ移転し、東京教育大学を廃校にすると発表。
7.24日、自民党、衆院文教委で大学臨時措置法案を強行採決。7.29日、衆院本会議でも強行可決。
7.24日、中央大学で、監禁されていた赤軍派の塩見らが外壁を伝って脱出する。同志社大学の望月上史氏が転落し、病院へ運ばれるが9.29日、死亡。
7.25日、入管法粉砕第三波全国統一行動闘争。入管法粉砕、大学立法の強行採決抗議集会をもった全都全共闘中心に反戦青年委・学生7000名が集会と国会デモ。
7.26日、全都全共闘、大学立法の衆院本会議上程に緊急抗議集会〔明大〕。2千名参加し明大前通りをデモ、機動隊と衝突し百十七名逮捕される。
7.29日、ロジャ ーズ来日抗議・ 日米貿易経済委粉砕労学総決起集会〔明治公園〕に、六派学生・ 反戦三千名参加、のち日比谷公園までデモ、18名逮捕される。
【「全国全共闘連合」初の全国全共闘代表者会議開催】 |
7.30日、明大和泉で、9月上旬に結成をめざしている「全国全共闘連合」(革マル派を除く反日共系諸党派とノンセクト・ラジカルが大連合)の初の全国全共闘代表者会議が、79大学全共闘代表350名参加で開催され、9.5日結成大会開催を決定、準備委員十名を選出。議長に潜伏中の山本義隆東大全共闘代表、副議長に拘留中の秋田明大日大全共闘議長を予定した。このほか各党派の代表による全共闘事務局または書記局が置かれ、事実上の指導部となる。各セクトの基調演説がヤジで聞きとれないほど騒然とした。 |
7月、反帝全学連委員長・藤本氏が拘置所から出所。次のように記されている。
彼の眼前に飛び込んだ光景は、対権力との「激闘」と仲間同士の「死闘=内ゲバ」であった。藤本は、反帝全学連本部のあった東京医科歯科大学内の全学連事務所が、同じ社学同組織の反対派活動家によって無惨に破壊された状況を見て呆然として、立ちすくんでいた。その時、藤本は偶然ある仲間=中井正美(41-97)に遭遇した。結果的には、この中井との遭遇が人生の大きな転換点となった。そのときの模様を自ら次のように回想している。 「こちらに向かってフラフラと歩いてくる。10mの距離になったとき、中井も私の姿を認め、人差し指を突き出しって叫んだ。藤本!お前ここにいたら危険だ、拉致されるゾ!」(『僕の生涯』03年、私版、未完、以下引用は同書)藤本の身体的危機を救ったのは、仲間がとっさに発してくれたその一言であった。それと同時に、内ゲバによる深い絶望感と挫折感に襲われ、過去との訣別を決断する上で、最後の決め手になってしまった。 「……中井の口から矢継ぎ早に出てくる言葉によって、私は事態の流れをほぼ正確に知ることとなる……中井の『残念だ、残念だ!』と何回も繰り返す言葉と共に両の眼に染み出す涙は、心情という地下水脈を通して私の眼にも染み出した。二人はその後、千駄ヶ谷の加藤登紀子のマンションで、夜更けまで話し、泣き、わめき、そしてある結論に達した。『あー終わったんだな、俺達のブントは』」 69年、学生戦線から離脱。「正直いって私の思考は停止していた。何が何だか分からなくなっていたという方が良いかもしれない」という状態のなかで、一時的に九州・平戸に単身隠棲。やがて、過去からの離脱に向けて癒しのための助走をはじめた。その助走の先にはかすかながら「地球と人間の問題」について漠たる思索の輪郭も浮かぶようになった。(「時代に生きた新左翼・歴史群像~藤本敏夫」) |
8.2日、沖繩渡航制限撤廃闘争。晴海埠頭に各派学生700名が参加して、沖繩現地闘争に向かう沖闘委学生らを歓送、革マル・中核派が衝突。
8.3日、大学管理臨時措置法案を参議院本会議で与党が強行採決で可決し、成立。 |
8.4日、全共闘大学立法粉砕第一波全国統一行動。全都全共闘集会(明治公園)に3千名参加。中核派20名が文部省突入・全員逮捕される。京都集会〔京大〕に5百名参加・市内デモ、大阪集会〔大阪城公園〕に9百名参加・ 御堂筋デモなど全国各地で集会・デモ。
8.7-11日、大阪城公園で「反戦のための万国博」(ハンパク)開催。大テントの中で、「ベ平連」、「声なき声の会」と日大全共闘と大激論。
8.10日、各派学生・反戦・べ平連五百名、大村収容所に抗議デモ、学生50名が突入、14名逮捕される。
8.13日、中ソ両軍、新疆ウイグル地区テレクチで大規模な武力衝突。
8.14日、沖縄嘉手納基地撤去・ B52撤去で中核派学生3名基地突入、米空軍憲兵に逮捕される。
8.15日、大学立法粉砕全関西労学決起集会〔京都市役所前〕に各大学全共闘8百名参加。
【「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行される】 |
8.17日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。各大学当局が、積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。この日、広大、中大、明大に封鎖解除のため機動隊導入。広大全共闘抵抗する(広島闘争)。京大・九大で連帯集会。 |
8.17日、全都全共闘、大学立法施行抗議総決起集会〔日比谷野音〕に4千名参加、 のち文部省にデモ。
8.20日、愛知外相、屋良主席と会談、B52の早期撤去は困難と言明。
8.20日、有田防衛庁長官、70年安保で警察力で対抗できぬ場合は自衛隊の出動もありうると言明。
8.21日、中核派七百名が、ソ連軍チェコ介入1周年でソ連大使館に抗議デモ、5名逮捕される。
8.21日、沖繩から帰京の沖闘委学生ら40名のうち14名が晴海埠頭で入域手続拒否・ 強行上陸、労学1500名が岸壁で支援行動。
8.21日早朝、反日共系学生が6月からバリケードで全学封鎖していた東京渋谷の青山学院大学(大平善梧学長)から機動隊の出動要請があり、午前6時半、機動隊員200名を動員、2ヶ月ぶりにバリケードを解除した。大学法施行以来、都内で機動隊を導入した大学は中大に続いて青山学院が2校目。同校では学生に通行証を発行して、10.1日から約3ヶ月ぶりに授業を再開した。
8.22-24日、反帝学評第三回全国大会〔東大駒場〕、8百名参加、7〇年代闘争の基本方針を決定。
8.22-25日、ブント第9回大会が明大生田で開かれ、10.11月闘争方針を決定。塩見ら赤軍派13名が除名される。8月上旬、塩見の盟友の山田孝(京都大学大学院、後に連合赤軍)が、ブント中央委員会に7.6襲撃に対する塩見の事故批判書を届けていたが、受け取りを拒否されている。
8.23日、東大裁判、ラグビー場第二グループ(反帝学評12名)第4回公判で審理強行に抗議して被告起訴状を破り棄てる。
8.23日、坂田文相来県抗議闘争。社高同中心に高校生10名が名古屋市内の交番を火炎瓶で攻撃、全員逮捕される。
8.23日、任錫均不当逮捕に抗議して反戦・学生・べ平連4百名が神戸入管事務所にデモ。
【赤軍派結成される】 | ||
8.26日、京大の塩見孝也を議長とするブント(共産主義者同盟)「関西派」約30名が、神奈川県城ヶ島のユースホステルに集まり、「共産主義者同盟・赤軍派(議長・塩見孝也)」を独立させることを正式に決定した。本拠は京都の同志社大学学生会館内とした。 赤軍派は、共産同ブント「関東派」(戦旗派、叛旗派、情況派)の「大衆的ゲバルト」の延長上で革命を夢見る理論を批判し、「革命の決め手は大衆」ではなく軍である」とする「塩見理論」を掲げていた。 9月に発せられた赤軍派の結成宣言は次のように述べている。
赤軍派の指導者であった塩見孝也氏は、当時様々な思想潮流が同居する第二次ブントの中で全国区の人気を誇っていた。 組織内で「日本のレーニン」と呼ばれ、その理論は「一向一揆論」と名づけられて高い評価を受けていた(塩見氏のペンネームは「一向健」)。
以下、「これまでの平和革命と暴力革命を廻る論争の致命的欠陥は、軍隊の問題を避けてきたことであった」として、「あらゆる部署に軍団を組織せよ。自衛武装を権力闘争の攻撃的武装に発展させよ。個別的・特殊的武装を普遍的・全人民的武装へ発展させよ。世界革命戦争=世界武装プロレタリアートへの武装を打ち固めよ。市民社会の全てに、兵舎、連絡網、情報網、資金網、武装網を張り巡らせ」として「武装建軍闘争」を呼びかけていた。「前段階武装蜂起」 を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで「武装蜂起的に70年安保闘争を闘おう」という点で、どのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。10.21国際反戦デーには最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、ピースかん爆弾によるパトカー襲撃なども行った。 当初メンバーは京大、同志社大、立命館大などの活動家約400名であり、それまでの街頭闘争ではそれ以上の戦いは出来ぬ、それまで依拠してきたブント主義も革命的敗北主義であるとして、「前段階武装蜂起-世界革命戦争、世界党-世界赤軍-世界革命戦線」、「革命には軍事が不可欠であり、革命は革命戦争により勝ち取られる」という新路線を打ち出していた。 |
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赤軍派の結成に対して、新左翼最大勢力となっていた中核派と革マル派の対応の違いが興味深い。中核派はこれを他人事と思えないといい、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」と揶揄した。既に「街頭実力闘争」についても、両派はその評価をめぐって対立を生みだしていた。これを評価する立場に立ったのが中核派・社学同・ML派であり、「組織された暴力=権力の武装という現実に対して闘いを切り開くためには自らも武装せざるをえない。これによって激動を勝利的に推進しうる」というのが論拠であった。 これを否定する立場に立ったのが革マル派・構造改革諸派であり、「小ブル急進主義である。組織的力量を蓄えていくことこそが必要」と云うのが論拠であった。対権力武装闘争の位置づけをめぐってのこの論争は互いの機関紙でやり合っているようでもあるが系統的にされていない。後の経過から見れば、「理論の革マル派」と言われるだけあって革マル派の言うことには一々もっともな点が多いとも思われる。今後のためにももっとこの種の事に関しての論議を深めておくことが肝心のようにも思う。こうした際の論争が正面からされぬまま自画自賛的に自派の主張を語るだけの傾向こそ捉え返されねばならないことではなかろうか。 |
8.28日、東京地検、日大古田会頭を容疑不十分として不起訴決定。
8.28-31日、民青同系全学連が第20回全国大会。委員長に田熊和貴を選出する。政府・自民党の大学介入反対、民主化闘争推進等を決定。
8.31日、掛西闘争勝利・手引書体制粉砕全国高校生決起集会〔掛川公園〕に5百名参加、のち掛川西高校にデモ、七名突入し全員逮捕。
【その後の赤軍派の動き】 |
9.2日、西日本共青総決起集会。9.3日、共産主義青年同盟赤軍派結成政治集会。9.4日、都内葛飾公会堂で赤軍派大政治集会、300名結集。9.5日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に公然と羽状。9.20日、赤軍派、全関西国際反帝集会。”京都戦争”、京都市街戦。9.22日、赤軍派”大阪戦争”、阿倍野区の交番三ヵ所を火炎ビンで焼打ち。”京都戦争”京都市街戦。9.25日、赤軍・国際反帝集会。9.29日、赤軍派望月上史、対連合派との抗争中の事故により死去。9.30日、赤軍派”東京戦争”、本富士署に火炎ビン投げる、御茶の水解放区闘争。10.24日、赤軍派、警視庁第八・九機動隊本部襲撃。11.5日、赤軍派、大菩薩峠事件。凶器準備集合罪で53名全員逮捕。11.17日、赤軍派、大阪府寝屋川署爆破。 |
【京浜安保共闘結成される】 |
赤軍派の誕生と並行して、後に連合を組むこととなった「京浜安保共闘」が生まれている。共産党から脱党した親中国派メンバーとブントから親中国派となっていたML派メンバーが「銃口から政権が生まれる」をスローガンに毛沢東思想の下に「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」を設立し、人民革命軍を結成した。「京浜安保共闘」はその公然組織として位置付けられていた。 |
【第二次ブント系の動向】 | |
ここまでのブント系の動きが次のように簡略にまとめられている。
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【京大全共闘のイデオローグ滝田修が「パルチザン闘争論」提起】 | |
この頃、京大全共闘のイデオローグ滝田修は、「パルチザン闘争論」を提起した。「全共闘が狭い意味での全共闘学生運動の領域に固定されている」ことを指摘、その限界を突破するものとして「パルチザン5人組軍団」を提起した。「パルチザン闘争論」は、自己否定の全共闘運動を打倒して大衆武装による全共闘運動へと純化せよ、その軸としてソビエト運動を、準備の鍵としてパルチザン戦争をと呼号していた。 同時期、東大医共闘議長の小西隆裕は、次のように提起している。
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【警察の中核派に対する破防法適用】 |
このころ、警察は中核派に対して本多・藤原・松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。 こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、概要「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。 |
【社青同解放派が結成される】 |
9月、社青同急進派の主流を形成していたグループが、「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)を旗揚げし、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。 この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人、高見圭司、狭間嘉明らであった。 中原一・氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。社青同太田派も事実上の分裂活動を始めた。解放派は、学生運動の拠点として東大に足場を築き、早大政経学部自治会を長らく維持していた。 |
【赤軍派が、全国全共闘結成大会に公然登場し衝撃を与える】 | ||
9.4日、赤軍派250名が都内の葛飾公会堂で「大政治集会」を開き、前段階武装蜂起を確認したあと、赤軍派としての独立宣言を行なった。その場には塩見孝也、高原浩之、田宮高麿の最高幹部は現れなかった。既に警察にマークされていた為という。
赤軍派旗揚げ大会では、塩見や田宮たちが書いた「戦争宣言」を、赤軍派の幹部・八木健彦(京大生)が黒ストッキングを被ったまま会場で読み上げた。
赤軍派の正式名称は共産主義青年同盟赤軍派であり共産同(ブント)からの分派になる。ブントの政治局員であった塩見孝也が「革命は戦闘的な大衆運動から起きるものではなく、組織された暴力――つまり、訓練された軍によってしか達成できない」、「革命の軍隊、赤軍が結成された。武器をとれ。武器を使おうとしない被抑圧階級は、奴隷の階級だ。至るところに軍団を組織せよ。市民社会のすべてに、兵舎、連絡網、情報網、武器網を張り巡らせ。我々は戦争をやるのだ!」と提唱、この急進的な闘争理論(塩見理論)によって赤軍派が立ち上がった。主としてブントの関西系急進派であり、関東系からも賛同する者が登場し赤軍派となった。 発足メンバーは、塩見孝也(京大生)、田宮高麿(大阪市立大生)、高原浩之(京大生)、藤本敏夫(同志社大生)、山田孝(京大院生)、森恒夫(大阪市立大生)。物江克男(滋賀大生)、行方正時(岡山大生)、城崎勉(徳島大中退)、奥平剛士(京大生)、進藤隆三郎(日仏学院生)、持原好子(元芸者/進藤の恋人)、玉振佐代子。これに重信房子(明大生)、遠山美枝子(明大生)らが加わる。 その後、赤ヘルを被って「蜂起貫徹、戦争勝利」のときの声とともに公然登場し、ブント連合派に対して殴り込みを敢行した。竹竿を槍ぶすまのようにして突入し、数分間攻防の結果ブント連合派は退散を余儀なくされた。赤軍は、機関紙「赤軍発刊準備号」を配布した。 赤軍派リーダーが、「これから主催者側に発言を求める」とのアジテーション後、演壇に向かって「蜂起貫徹、戦争勝利」のシュプレヒコールを挙げながら場内行進して行った。ステージ上に赤軍の大きな赤旗が翻った。発言は認められなかったが、大きな衝撃を与えた。主催者側は為すすべを持たなかった。 |
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【全国全共闘結成大会。日比谷野音に三万人結集】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
地下鉄「霞ヶ関」駅から公園に向かう道中、機動隊の両側規制トンネルの中を、ヘルメットを脱がされ、1人ずつ通された。東大全共闘代表にして、この日議長に選ばれることになっていた山本義隆氏は明大反代々木系約150名のヘルメット集団の最後尾にまぎれこんでいたが日比谷公園に足を踏み入れたところを警備の私服警官に検挙逮捕された。逮捕状が出てから228日目であった。副議長には獄中の秋田明大日大全共闘議長が予定されており、「全共闘」を代表する二人が不在になった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。「全国全共闘」創刊号が結成準備委員会代表・山本義隆名の「全国全共闘結成宣言」を発表。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長、日大全共闘の秋田明大が副議長、他に書記局員8名が選出された。このことからも明らかなように、ノンセ
クト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の統一連合的共闘運動として結成されたことに特徴があった。革マル派を除く新左翼8派が参加して全国178大学の全共闘組織、全国の学生約3万4000名が結集した。 8派セクトは次の通りである。
12時過ぎ、既に野外音楽堂は満員となり、入り切らない数千人が外でデモなど繰返す。 1時、開会宣言。引き続いて議長団の紹介が行われた。沖縄代表に始まる各団体からの挨拶が次々と述べられる中で、大会は序々に盛り上がっていった。演壇を囲むように数百本の赤旗が翻り、舞台の上にも学生がいっぱいにすわり込んで、立錐の余地もない。 大会はその後、各学生組織からの決意表明に移った。反代々木系八派代表挨拶は、中核派、学生インター、プロ学同、共学同、ML派、フロント、社学同、反帝学評の順で行われ、明大、神戸外大、秋田大、広島大、東京教育大などの全共闘代表から報告があった。セクト色の強い演説には反対派から激しいヤジが飛んだ。中核派と反帝学評の対立は激しく、議長団も収拾に手をやいた。社学同の挨拶が行われていた時、赤軍派と関東派の“内ゲバ”が再燃した。会場から締め出しを食っていた赤軍派100名もいつのまにか会場に入り込み、“赤軍”の赤旗をたらして関東派とこぜり合いを始めた。赤軍派が旗ザオなどで関東派を追い散らした。さらに大会は各大学全共闘からの決意表明へと続いた。二番手に明大全二部共闘の本間議長、三番手に一部全共闘代表福田君が挨拶し、「明大全共闘は全国全共闘連合の先頭に立って闘う」と決意表明を行った。 2時、議長団から「基調報告をする予定の東大全共闘代表山本義隆君が先ほど官憲によって不当逮捕されました。これは全国全共闘連合に対する権力の真向からの挑戦です」と報告された。それまで山本君の逮捕を知らなかった会場の大部分の学生は、その瞬間、「ナンセンス」と口々に叫び、いたるところで激しい抗議の声を上げた。しかし、山本代表の代役が基調報告を始めると、そのどよめきも次第に収まった。 6時半、「きょうここに結集した全国78大学の2万6千人は70年安保粉砕、沖縄闘争勝利の闘争をたたかいぬく。特に11月の佐藤訪米を実力で阻止する」との大会宣言を採択。「10.10、10.21闘争勝利」、「破防法、騒乱罪攻撃粉砕」、「ベトナム人民の解放闘争勝利、全アジア人民と連帯して闘おう」、「反戦派労働者と連帯して闘おう」、「全国大学をバリケードで占拠せよ」などのスローガンを採択。締めに、全国全共闘連合に議長に予定どおり山本義隆東大全共闘代表(同日逮捕)、副議長に秋田明大日大全共闘議長(日大事件に関連して拘置中)を選出、会場でインターナショナルを合唱して閉会した。 午後7時ごろ、代々木公園に向けてデモ行進に移った。約1万人の隊列が続き、反代々木系学生が集まったデモとしては60年安保闘争以来最大となった。機動隊は溜池、赤坂見附交差点などで規制しただけで、デモの学生たちは青山通りなどで道いっぱいにジグザグデモやフランスデモを続けた。日比谷の会場からひと足先に地下鉄で早稲田へ向かった東大教養学部、日大、駒沢大など他大学を含む反帝学評(社青同解放派)の学生約600人は、新宿区馬場下町の地下鉄早稲田駅で外に出ようとして機動隊とぶつかった。 |
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全国全共闘創刊号が次のように記している。
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9.6日、革マル派の拠点早大文学部に強制捜査、102名逮捕。
9.6日、東大闘争統一被告団全国総決起集会〔牛込公会堂〕、被告・弁護団・救対・家族など参加、分割公判粉砕・職権保釈拒否等を確認。
9.9日、十県反戦代表者会議〔東京〕、9.28三里塚闘争、10.10全国動員、10.3スト、11月佐藤訪米実力阻止等の方針を決定。
9.10日、東京外語大に機動隊導入。
9.12日、長崎大機動隊導入で封鎖解除。
9.12日、東大医学部43名・ 青医連48名、卒試・ 医師国家試験の受験に方針変更、獄中で今井被告団長のみ受験拒否。
9.13日、関東学院大・桃山学院大・同志社大等全国五ヵ所、赤軍派拠点として一斉捜査、21名逮捕される。
9.14日、高専闘争勝利・十一月決戦勝利全国統一行動、全関東決起集会〔清水谷公園〕に9校350名参加、のち文部省デモ、全関西集会〔大阪教員会館〕に6校2百名参加、のち森の宮駅までデモ。
9.15日、全関東反戦青年委総決起集会〔明治公園〕に反戦・全共闘・ベ平連など5千5百名参加、のち八重洲口までデモ、23名逮捕。
9.17日、全国全共闘、教育大への大学法適用粉砕・校舎奪還決起集会〔大塚公園〕に3千名参加、のち教育大までデモ。教育大全闘委9名が機動隊常駐の構内に突入、全員逮捕される。
【内ゲバによる最初の死者】 | |
9.17日、中核派が埼玉大の反戦連合を襲撃。 | |
9.18日、芝浦工大大宮校舎で、反戦連合の学生が中核派を襲撃し、中核派の埼玉大経済学部生滝沢紀昭氏がテロられ、二階の窓から転落死亡。内ゲバでの初めての死者となった。 これは、中核派と中核派から脱党した反中核派(元中核派政治局員・小野田襄二のグループの反戦連合)の争いが原因であったようである。元中核派・編集局員の「狂おしく 悩ましく」は次のように記している。
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高橋和己『内ゲバの論理』は次のように記している。
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1969年9月18日、滝沢紀昭(たきざわ・のりあき)(埼玉大経済学部自治会委員長 全学連中執 マル学同中核派)が、 日本共産党の告訴による警察の指名手配下で活動を続け、芝工大大宮校舎バリケード内で仮眠中、反戦連合の襲撃を受け2階から転落死(享年25)。他に一人重態、二人重傷。 |
9.18日、大阪府教委通達粉砕・十一月佐藤訪米阻止全大阪反戦総決起集会〔扇町公園〕に労学市民8千名参加、のち大阪中郵前までデモ。
【京大時計台死守闘争】 |
9.20-22日、京大に機動隊導入で京大時計台死守闘争。京大全共闘中心に全関西全共闘が徹底抗戦、大学周辺バリ構築・ 学内封鎖拡大等で火炎瓶投擲くり返す、22日時計台陥落・8名逮捕、逮捕者総数、教官含め79名。 |
1969年9月21日、津本忠雄(つもと・ただお)(関西大生、マル学同中核派)が、京大時計台死守戦と呼応した京都市内デモに決起、権力の悪逆非道な仕打ちで火炎びんにより全身大ヤケドの重傷、入院治療中の10月1日逝去(享年20歳)。富山県高岡高校で反戦高協を結成。 |
9.22日、赤軍派、大阪、京都で交番を襲撃(大阪戦争)。 阿倍野区の交番3ヵ所を火炎瓶で焼打ち。
9.27日、高校生安保粉砕共闘会議結成大会〔清水谷公園〕に六派高校生8百名参加、佐藤訪米実力阻止を決議、同日右翼系の全国高校生協議会も発足。
9.27日、虐殺抗議・ 滝沢紀昭君追悼葬〔埼玉大体育館〕に中核系1800名参加。
9.28日、成田空港粉砕全国総決起集会〔三里塚第二公園〕に地元反対同盟・反戦・学生など7千名参加。
【日大団交1周年法経奪還闘争】 | ||
9.30日、日大団交1周年法経奪還闘争。日大全共闘中心に全都全共閾5千名が東京御茶ノ水に集結。「日大奪還、解放区闘争」。355名が逮捕される。
この時の集会の様子が明治大学新聞に次のように掲載されている。
集会後の街頭闘争の様子が朝日新聞記事に掲載されている。これを引用する。
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9.30日、赤軍派学生・高校生、本富士署に火炎瓶投擲
9月、全国全共闘の結成に呼応する形で、社青同の「全国反戦」が再建された。
10.1日、革命的労働者協会が、解放40号に「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)結成宣言-自分たちの共同による、自分たちの労働の支配を」を発表。
10.1日、9.21京大闘争で機動隊と衝突の際、火傷を負った関大生・ 津本忠雄さんが死亡する。
1 0.4日、大阪市大機動隊導入封鎖解除。
10.4日、日共書記長宮顕が「10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではない」と発言。ここでも、宮顕らしい動きが見られる。
10.5日、沖繩県反戦青年委結成大会〔那霸・牧志ウガン〕、中核派中心に反革マル系3百名が参加。
10.7日、東大全共闘、東大裁判闘争勝利・十月非常体制粉砕総決起集会〔安田講堂前〕に150名参加。10.9日、機動隊導入。抗議の教官を実力排除してロックアウト。9.10日、全共闘70名がロックアウトに抗議して構内に突入、2名逮捕。
10.7日、明大生田、機動隊導入で封鎖解除。10.9日、駿河台・和泉両校舎も機動隊導入で封鎖解除。大学院校舎で学生七名が火炎瓶を投擲し徹底抗戦するも全員逮捕、 以後大学側は校舎を ロックアウト。
10.8日、全国全共闘中央政治集会、日比谷野音で羽田闘争2周年の集会、5000名結集。
10.8日、東京地裁、新宿騒乱事件第17回公判で被告20名などが山崎博昭三回忌に黙薦を捧げようとして混乱、全員退廷させられる。
10.9日、火炎瓶二十数本を所持していた赤軍派学生・高校生三名、国鉄水戸駅構内で逮捕さる。
10.9日、バリケード封鎖中の明治大学に機動隊が導入され、東京・駿河台の明大大学院に立て篭った社学同、ML派、反帝学評の7名の学生が逮捕された。明大では6月22日のバリケード・スト突入以来、100日以上が経過していたが、明大が9月30日の日大法経奪還闘争の出撃拠点となったことや、10.21国際反戦デーの拠点となることを恐れた大学当局により機動隊導入、ロックアウトの措置がとられた。
【10・10全都高校生総決起集会】 |
港区の清水谷公園には、正午前から色さまざまなヘルメットがわき出るようにふえていった。統一集会に先立って開かれた「10・10全都高校生総決起集会」。約1500名参集はかって例をみない最大規模の結集となった。公園の前、ドブ川をへだてた道路には、ものものしい装備の機動隊員数十人がタテを並べ、そこここの木陰には私服あるいは教師と思われる背広姿が数十人見守りつづける。赤ヘルの高安闘委(ブンド系)、赤と白の高校生解放戦線(ML系)、緑ヘルの安保高戦(フロント系)、同じ緑ヘルの全高闘連(プロ学同系)、黒ヘルのプロ軍高協(プロ軍系)、白ヘルの反戦高協(中核系)の順にリーダーが数分ずつのアジ演説。ほとんどヤジが飛ばない。これら六派は9月27日、同じ清水谷公園で「高校生安保共闘会議」を結成している。 集会が六派共闘ラインで進行していたとき、別のマイクが割って入った。「ノンセクトの持つ運動能力を、セクト的野合の中に埋没させてはならない。大衆闘争を放棄して、戦術をエスカレートするばかりでは、われわれ自身の解放はない。教育闘争に力点を置いた地点に立って、未来をみつめよう・・」と、きれぎれに叫ぶ。六派共闘を離れてもう一つの集会が始まっていた。ヘルメットの文字は「全共闘」、「××高」、「××高ベ平連」、「さすらい派」、「叛」、「NON」、「キ」、「狂瀾怒涛派」、「民殺派」、「○○高越屍協会」、「野次馬」、「反戦集団」、「ニャロメ派」、「KG」などなど。色も黒、ピンク、茶、オレンジなど雑多な集団が数百人。まん中に座っていた青ヘルの反帝高評(反帝学評系)百数十人も、六派共闘側の集会に背を向けてノンセクト側に向き直ったために、数の上でも六派側を圧倒する集会となった。集会は分裂したまま、デモ行進も二分した。そして明治公園の統一集会では、ほとんどばらばらに数万人の参加者の中へ分散していった。 |
【羽田闘争二周年10・10全国青年労働者決起集会】 |
10.10日午後4時過ぎ、ベトナム反戦、安保粉砕、佐藤訪米阻止大統一集会(明治公園)にべ平連などの市民団体、全国全共闘連合、反戦青年委、高安共闘、革マル系全学連など10万名結集。6月15日の反安保集会を上回る数万人規模の大集会となった。あとから会場に到着した革マル派千3百人は会場内にはいれず、わきの仙寿院交差点通りで集会を開いたほど。「新左翼」各派の「10.11月闘争」の幕開けとなった。革マル派も参加したベ平連・新左翼の統一行動としては最初で最後の集会であった。 赤、青、ピンクと、色とりどりの旗。おばさんたちのベ平連からヘルメットに覆面の高校生、「外人ベ平連」の青い目まで数万人の人波であふれた。会場内は各団体、各派ごとにアジ演説の花ざかり。大会は訪米阻止に向け大同団結を訴えるアピールした。 当日、もっとも早くから独自の集会をもったのは反戦青年委員会だった。正午すぎ、会場の日比谷公園野外音楽堂は色とりどりのヘルメットに埋め尽くされ、「羽田闘争二周年10・10全国青年労働者決起集会」と書かれた横断幕のかかる壇上にまですわる部隊が出るほど。反戦青年委の全国集会としては、4・28沖縄デーを控えて催した4・20集会いらい二度目だが、その4・20とくらべ目をひいたのは参加者の多彩さと数の増加だった。演壇正面には中核の白ヘルメットの大部隊、すぐ右どなりが赤ヘル、左側上方には青ヘルと旧三派系反戦のほか、青い制服に身を固めた国鉄労働者など、その数は八千を優に超えていた。「オリジン電気労組」、「石油・化学反戦」など目新しい旗もあった。急速に増えている銀ヘルメットは戦闘的構革左派といわれる“主体と変革派”グループ。「4月にはわずか十数人の代表しか送れませんでしたが、今日は70人が参加しました」。長崎県反戦代表が誇らしげにあいさつした。参加者数は4・20の2倍。北海道が長沼ミサイル基地反対闘争に加わって参加できなかったほか、名古屋、京都などでも集会が開かれたため参加者は予定を下回って32都府県14,000人と主催者側は発表したが、その数は警視庁の予想をはるかにしのいだ。参加人数の増加にもましてこの集会を特徴づけたのは、制服姿で拍手を浴びた国労、動労など総評の主力単組である大組織の労働者たちであった。羽田闘争をきっかけに各セクトを中心に新左翼的に再編された反戦青年委は、地域の中小企業労働者が主体となり、もともと大単産の組織労働者はごく少数であった。そのうえ総評はこの集会に先立ち、現在の反戦青年委員会を「反安保・反戦青年中央協議会」に編成がえする方針を決め、旧三派の影響を強く受けたいまの組織を「悪い反戦」ときめつけ、「10・10集会には参加しないよう」強い指示を出していた。にもかかわらず、国労、動労、自治労などの青年労働者はその指示をはね返して、青婦部などの機関決定で参加してきた。機関決定で反戦集会に参加したのは初めてであった。壇上に立った各代表のあいさつは、これまでの組合運動の激しい批判に集中した。反戦青年委がきびしい制約のなかで戦闘性を強めると同時に、その輪を着実にひろげていた。デモが山崎博昭、由比忠之進両氏の遺影を先頭(写真)に、機動隊の青い隊列に見送られて出発したのは午後1時半だった。 午後4時半過ぎ、ベ平連を先頭に日比谷公園までデモ。ベ平連のあとにつづいた全共闘は会場を出るとジグザグデモをはじめ、待機していた機動隊の制止にあってたちまちこぜり合い。会場に残っていた学生たちもこれを見て色めきたち、会場内に落ちていたコーラや牛乳ビンを一斉に機動隊めがけて投げ始めた。機動隊のガス弾を放って応戦。デモ行進はスタートから波乱含みの雰囲気のなかで始まった。青山通りでは全共闘系学生が道路いっぱいにフランス・デモを展開した。有楽町、銀座など都心部は、機動隊や私服警官が厳重に警戒した。赤坂見附交差点には、デモ隊を平河町から国会方面に向かわせないため約100メートルにわたって機動隊のジュラルミンのタテによる壁がつくられた。平河町方面に約50メートル離れたところには、さらに二重のタテによる阻止線を張った。全共闘のデモ集団は、青山1丁目付近から機動隊に約100メートルごとに分断されたうえ片側に押し付けられ、機動隊のカベにつつまれるようなかっこうで通過した。大勢は平穏で、夜7時すぎから解散地点の日比谷公園で次々流れ解散した。噴水や野外音楽堂の近くで各派ごとに総括集会を開いた。 全国各地でもデモ。全関西労学市民総決起集会〔円山公園〕に5千名参加。 |
社会党は、「新左翼」の統一行動について態度を決めなかったが、総評は6日の幹事会で「いっさい参加しない」と決定。共産党は「首都武装制圧を叫ぶ暴力集団各派の挑発集会である」と論評した。 |
10.10-11日、赤軍派六名、火炎瓶等を運搬中に上野で逮捕、関西から上京した17名、無銭宿泊を理由に都内旅館で予防検束さる。
10.11日、立命館大、 ″わだつみの像”再建をめぐり学友会と全共闘が衝突、22名逮捕。
10.13日、九大機動隊導入封鎖解除。
10.13日、東大文学部授業再開、全共闘と民青同系学生が衝突・投石戦、機動隊出動し、授業中断。10.14日、再び両派衝突、機動隊出動して全共闘系学生を文学部周辺から排除。
10.15日、アメリカ全土で「ベトナム休戦デー」。ベトナムからの撤退を求めて、100万人以上の市民、学生デモ。
10.16日、早大機動隊導入、全学ロックアウト。
10.18日、反帝学評七名、首相官邸に火炎瓶を投擲・五名逮捕、八名が自民党本部へ突入・バリ構築・全員逮捕、四名が福岡県庁に火炎ピン投擲・逃走、 ML学生七名、東京拘置所に突入・ 全員逮捕。10.19日、ML派五名、自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入・火炎瓶を投擲。
10.19日、創価学会が代々木公園で新学生同盟(新学同)結成大会。創価学会学生部を中心に7500名参加。
10.20日、立大・国際基 督大・東京農大機動隊導入封鎖解除。
10.20日、沖闘委・那覇反戦五名、金網を乗りこえて嘉手納基地に突入、米空軍憲兵に全員逮捕される。
【10.21国際反戦デー。新宿、高田馬場で機動隊と衝突。1500名逮捕】 |
10.21日、国際反戦デーが社.共.総評の共闘で全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・ デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派約800名が、新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開、群衆を交えて市街戦を展開、戸塚二丁目交番焼打ち。社学同-全共闘グループ約300名が両国・東日本橋で本所警察署・両国橋東交番・久松警察署・東日本橋交番を襲撃、東神田で街頭バリ構築。反帝学評-旧構造改革派グループ(ML・プロ学同・フロントなど)は東京駅八重洲周辺で火炎瓶闘争。革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。 べ平連集会〔清水谷公園〕に労学市民1万名参加、のち市ヶ谷から飯田橋までデモ、大学べ平連が飯田橋ガード下など5ヵ所で街頭バリ構築。 |
10.29日、赤軍派が、「11.6首相官邸武装占拠計画」を拡大中央委員会で採択。
10.31日、沖繩県原水協主催・弾薬輸送阻止・毒ガス兵器撤去要求県民総決起大会〔美里中グランド〕に五千名参加、のち嘉手納基地第三ゲート前までデモ・坐り込み、学生・反戦の150名が基地突入を図り機動隊と衝突、3名逮捕される。
10.31-11.1日、国労・動労の機関助士廃止反対17時間ストに各派学生が支援行動。革マル派5百名が品川駅ホームをデモ。動労青年部と統一集会〔品川電車区〕。反帝学評・プロ学同・フロントなど3百名が芝公会堂で集会、のち品川駅で集会・デモ。反帝学評・フロントの40名が大阪駅中央コンコースでデモ、警官・鉄道公安官と衝突。フロント20名、名古屋駅コンコースでデモ。反帝学評の3名が国鉄本社に突入。
10.31日、革命左派が、岐阜県内の石灰採掘現場からダイナマイト15本と電気雷管30個を奪取。
【小西軍曹の決起】(「反戦自衛官小西軍曹の闘い」参照) |
「1969年秋、70年安保闘争に対して自衛隊は全国的に治安出動態勢に突入した。このとき、航空自衛隊佐渡レーダーサイトに服務していた小西誠・三曹(20歳)らが起った。小西三曹は、同年9月から同分屯基地内に「治安出動訓練拒否」、「自衛隊に自由を、民主主義を」などと書かれたビラ百数十枚を張り出すと共に、10.15日、「アンチ安保」3号に「我々の敵は誰か、我々の友は誰か」を発表。10.18日、分屯基地の営内で始まった治安出動訓練を全隊員の前で拒否した。
裁判は70.7月から第一回後半が開始され、75.3月、新潟地裁は「検察官の証明不十分」という理由で無罪を宣告した。憲法判断を回避したのだ。そして、控訴審・東京高裁では「審理不十分」として差し戻し判決が下され、さらに差し戻し審の新潟地裁では、81年、再び小西誠三曹に無罪判決が言い渡された。この判決に検察は、控訴をしなかったため、判決は確定した。11.1(4ともある)日、小西三曹は自衛隊警務隊に逮捕され、11.22日、自衛隊法第64条違反「政府の活動能率を低下させるサボタージュを煽動した」として新潟地裁に起訴された。 |
【赤軍派の大菩薩峠事件】 |
11.5日、首相官邸襲撃の為の軍事訓練を目的として山梨県大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53名が凶器準備集合罪で全員逮捕された(「大菩薩峠事件」)。 |
11.6日、全国全共闘主催・佐藤訪米阻止総決起集会 〔日比谷野音〕に4千名参加、11月訪米阻止実力闘争を確認。
11.8日、文部省手引書体制打破全都高校生決起集会〔清水谷公園〕に150名参加、 明治公園までデモ。
11.8日、北大機動隊導入封鎖解除。
11.9日、渡航制限撤廃で中核派学生26名が那覇商港実力上陸、火炎瓶投擲して機動隊と乱闘、一時海運局を占拠、23名逮捕。
11.13日、大学べ平連主催・佐藤訪米阻止労学市民決起集会〔清水谷公園〕に全共闘をふくむ3500名参加。明治公園までデモ、のち2500名が新宿コマ劇場前で機動隊に火炎瓶投擲、フロント・プロ学同6百名、銀座四丁目交差点付近で火炎瓶投擲。
【岡山大学法文学部2年/糟谷孝幸君が曽根崎署に連行され、後に死亡】 |
11.13日、大阪扇町公園で「佐藤訪米阻止」集会、3万人が参加した。この時、岡山大学法文学部2年、糟谷孝幸君(21)が扇町公園のむかい側の水道局前で逮捕され、歩いて約1キロ先の曽根崎署に連行された。指紋、写真、弁録書をとられたあとで気分が悪いことを訴え、警察発表によると、午後7時に救急病院に指定されている行岡病院に連れていかれた。病院側は8時50分と発表している。糟谷君は14日午前1時に意識を失った。情報を知った関西救援連絡センターと樺嶋弁護士、葛岡医師が病院にかけつけたが病院側は受け付けなかった。病院の看護婦の証言によると、この時点では脳内の血腫の有無を調べる血管撮影さえ行っていない。午前2時20分、樺嶋弁護士と葛岡医師が病室に入ることができたが、糟谷君は麻酔注射はされていたが血管撮影に必要な造影剤の注射はされていなかった。午前4時、手術。逮捕されてから実に10時間近くたっていた。手術担当は行岡病院の松木康氏で、松木医師は整形外科専門医で脳神経科の専門ではない。午前5時20分、京大病院の佐藤耕造医師(脳神経科)が協力を申し入れたが病院に拒否された。この拒否の態度は、糟谷君が病院に運び込まれたときからのもので、病院の玄関にバケツや工事用テントをうちつけるなどして一切応対に出ないというものであった。手術は6時20分に終了したが、この手術の際、カルテは書いていないことを8時45分の段階で、弁護士と佐藤氏は確認している。糟谷君は手術後もほとんど意識を回復することがなかった。糟谷君の身元は14日午後7時までわからなかったが、救対センターの努力で判明することができた。同日午後9時、糟谷孝幸君は死亡した。解剖は午前1時30分から5時30分までかかり、その結果、死因は頭部打撲による脳機能障害と発表された。 |
11.13日、沖繩復帰協等共催・ 佐藤訪米抗議、県民総決起集会〔那覇与儀公園〕に琉球大全共闘など1500名参加、那覇軍港実力解体で軍用道路上にバリ構築。
【中核派、革マル派の機関紙上での革命論論争】 | |||||
11月、佐藤訪米阻止闘争の直前、中核派は党内で次のような「レーニン主義的暴力革命論」を確認させている。
これに対して、革マル派は、次のように批判している。
これに対して、中核派は次のように反批判している。
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「国際革命文庫」の「日本革命的共産主義同盟小史」
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【岡大生の糟谷孝幸君虐殺事件】 | ||
11.13日、佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町闘争)の中で、無党派だったが糟谷孝幸君(岡山大学法科2年生)が機動隊と応戦中、機動隊員Sら3名に撲殺された(享年21歳)。機動隊の警棒乱打によって殺された。 糟谷君は次の言葉を残して大阪扇町の闘いに参加している。
当時救援連絡センターの水戸巌さんの文は次のように記している。
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1969年11月13日、糟谷孝幸(かすや・たかゆき)(岡山大生、プロレタリア学生同盟)が、大阪扇町での佐藤首相訪米阻止闘争で逮捕時に機動隊の警棒乱打の集団リンチを受け頭蓋骨骨折、治療されず取り調べ中に意識不明、翌14日逝去、虐殺さる(享年21歳)。 | ||
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983) 〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124 事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付 電話 086-242-5220 FAX 086-244-7724 メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美) (正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美) |
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2020.1.13日、糟谷孝之君の歿後50年を記念して、1彼が倒れた扇町公園近くで追悼集会が開催され、140名が参加して集会後公園で花をささげた。記録集が2020.11月に刊行される予定である。 |
11.14日、白鳥事件の村上国治、十七年ぶりに仮釈放。
11.15日、アメリカで2回目の「ベトナム休戦デー」。首都ワシントンに約50万人が集まり、反戦集会開催。
【社青同解放派が、革マル派により早大キャンパスからたたき出される】 | |
この間、革マル派と社青同解放派は反中核派という戦術で共闘していたが、早大キャンパスの支配権を廻って両派が激突し、社青同解放派が叩き出される事態となった。敗退追放された解放派はその後、明治大学を拠点とする。 革マル派のやり方は徹底しており、用意周到な調査に基づく幹部テロ、活動家の狙い撃ちテロにより、11.6日、社青同解放派は次第に劣勢となり、東大教養部に逃げ込んだ。これを追って早大からやって来た革マル派との間で12日間にわたる残酷な乱闘攻防戦が繰り返された。11.17日、東大全学共闘会議が退去命令を出し終息した。 以降、早大キャンパスは新左翼系では革マル派の単独支配となり、常時パトロール隊が他派の侵入を許さぬ体制を敷いていくことになった。民青同とは対立しつつも、「学園からの革マル派以外のトロツキスト追放」という線での平和共存関係による二元支配が確立した。 この時の革マル派のやり口が批判を浴びた。情況的に何時のころのことか不明であるが、立花隆氏の「中核対革マル」には次のように書かれている。
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【佐藤訪米阻止闘争】 |
11.15日、日比谷野音で佐藤訪米阻止全国反戦総決起集会。2万5千名参加。 |
11.16日-17、佐藤訪米阻止闘争。代々木公園で開かれた社会党反安保実行委主催の「安保条約廃棄、沖縄即時無条件返還、佐藤首相訪米抗議集会」には、労・学・市民7万人が集まった。そのあと、9千人の新左翼各派は、角材や火炎ビンで武装して、羽田をめざしていっせいに進撃した。中核派は二度にわたり蒲田駅から空港方面へ、あやめ橋で激突。火炎ビンと投石で機動隊と激突、蒲田署などの警察署や交番をおそって放火し、車を破壊するなどした。ML派は品川駅下車、品川警察署前で激突・街頭バリ構築。反帝学評は東京駅で乱闘、のち京浜国道路上でバリ構築。フロント・ プロ学同は東急池上駅周辺で激突・ バリ構築。革マル派は大田区役所池上出張所前でバリ構築。社学同は下丸子駅から蒲田へ、 各派深夜まで蒲田駅周辺で:グリラ活動。東京で1940名、全国で2156名が逮捕される。 この時、蒲田周辺に「自警団」が誕生している。これに日共が積極的に関与している。 新左翼各派は大きな打撃を受けた。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争-ゲリラ戦へと上り詰めていく。べ平連も16日、日比谷野音に1万5千人を集めて「首相訪米反対反戦市民連合集会」をひらいた。 |
11.17日、佐藤訪米抗議・即時無条件全面返還要求沖繩県民総決起大会〔嘉手納総合グランド〕に参加した中核系学生が交番に火炎瓶投擲、十名基地突入・2名逮捕される。革マル派は基地一番ゲートのバリに放火。 11.18日、沖繩の革マル派二十名、日本政府沖繩事務所・那覇署与儀交番に火炎瓶投擲、2名逮捕。 |
11.21日、ワシントンで、日米共同声明発表される。
11.26日、革マル系全学連主催・ 日米共同声明、弾効・安保沖繩闘争勝利全都決起集会〔芝公園〕に7百名参加、国労会館までデモ、社青同解放派主催・日米共同声明粉砕、佐藤自民党政府打倒羽田集会〔羽田東口公園〕に2百名参加して萩中公園までデモ。
11.27日、米軍弾薬列車実力阻止決起集会〔福生公園〕に各派学生・反戦千名参加、拝島駅までデモ、夜半、駅周辺で機動隊と衝突、4名達捕。
11.28日、東大裁判、 安田第三グループ7被告に異例の欠席判決(5名・1年6月~8月の実刑)全国全共闘、欠席判決粉砕集会〔日比谷野音〕に高校生・べ平連を含む3千名参加、地裁までデモ。
11.28日、日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が竹竿や投石で乱闘した。負傷者十数人。
【革マル派が「10・11月決戦」後の最初の総括集会「大政治集会」を早大で開催】 |
11.29日、革共同革マル派が、「10・11月決戦」後の最初の総括集会となる「大政治集会」を早大で開催し、主催者発表で約4千人が結集。革マル派機関紙は、「佐藤訪米阻止闘争が明らかにしたものは、武装ほう起宣伝集団(中核派、赤軍派、ML同盟のこと)のみるも無残な敗走であり、山ネコスト待望派(社青同解放派や構改系諸派)の反革命的とん走であった」と揶揄した。 |
カクマル議長黒田寛一は、当局の破防法攻撃、数千人規模の逮捕を絶好のチャンスと捉え、「今賀千安」の筆名を使って、他党派一掃の狼煙を上げた。12月の中核派3政治局員への襲撃、12・4関西大学バリケード襲撃で中核派2名の殺害を機に、70年安保・沖縄闘争を暴力的に襲撃・鎮圧する反革命としてカクマルが登場した。 |
【革マル派と社青同解放派、中核派との公然ゲバルト始まる】 | |
この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に
向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。 全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり、折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。 社青同解放派、中核派は、68-69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。 11.28日、東大裁判で初の欠席判決が出されたことに抗議する各セクト合同の東大闘争裁判支援の抗議集会が、日比谷野音で開かれた。総勢2500名が集まったものの、この時半数を占めた革マルと他派が互いに批判し始め、遂にゲバルトを引き起こした。中核派、解放派ら八派と革マル派が竹竿や投石で乱闘した。結果、革マル派が武力制圧した。負傷者双方で十数人。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、以降反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。 12.14日、岡山大学生の「糟谷君人民葬」が同じ日比谷野音で開かれた。これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生し大乱闘となった。双方合わせて1500名が日比谷公園を舞台に大乱闘をくり広げ50名が負傷し、200名が逮捕された。この事件を、中核派は次のように論評している。
翌12.15日、中核派全学連大会が開かれ、この時中核派は、革マル派を「武装反革命集団」であり「第二民青」であると規定し、せん滅宣言を出した。ここに中核派と革マル派との党的な対立が決定的になる。 続いて、12.17日には、各セクト合同で作っていた「10.11月闘争統一救援対策本部」も、革マル派を追い出し、絶縁宣言を出した。12.18日には、全国反戦青年委員会代表者会議が開かれ、「革マル派の一貫した反階級的裏切り行為と暴力的破壊行動に対する糾弾と自己批判を要求する決議」を通した。 |
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私は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として次のように思う。「れんだいこは、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、『70年安保闘争』の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応『仮定』とするが、革マル派が、独特の教義とも言える『他党派解体路線』に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、『安田決戦敵前逃亡事件』と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。 もっとも、 これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が『70年安保闘争』そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、大衆を巻き込んだ『下から討議』を徹底して積み上げねばならないのでは無かろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされる。なぜこのように思うかというと、この後検討する予定にしている新日和見主義事件の考察の際にも関係してくるからである。この『全党的な討議がない』、『重要な決定に関わる際に公明正大さが無い』ということが左翼の致命的な悪しき習慣的組織論に起因している、とみる。補足すれば、大衆討議は、正しさを確信し得る者達だけに可能な路線であると思う。下部構成員あるいはシンパ層まで含めてそれを要求せねばならないとも思う。そういうことが出来ない組織は未だ練られていないと云えるのではなかろうか」。 |
【警察の中核派に対する破防法適用】 |
このころ、警察は中核派に対して本多・藤原・松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。 こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、概要「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。 |
12.4日、ML同盟の「11月決戦報告大政治集会」が、東京・品川公会堂で開催された。約1500名の学生、労働者が結集。鈴木迪夫書記長が「敵は自警団を組織するに至った。われわれも人民の武装を進めなければならない」と反発した。 |
12.6日、米軍弾薬輸送阻止決起集会〔福岡・山田弾薬庫前〕に各派学生・反戦5百名参加、のち南小倉駅までデモ。
12.8日、革命左派の議長・川島豪が逮捕される。
【中核派が「大政治集会」を東京・品川公会堂で開催】 |
12.8日、革共同中核派の「大政治集会」が、東京・品川公会堂で開催された。約2500名の学生、労働者が結集。北小路敏政治局員が「マスコミはゲバルト路線の破産なんて騒いでいるが、とんでもない。佐藤訪米を阻止できなかったのはわれわれの力が弱かったためで、われわれの力がもう少し強かったら機動隊をせん滅し、訪米を阻止できた。したがって今後も機動隊せん滅、街頭武装闘争の方針は変わらない」と強調した。「革マル派粉砕」が叫ばれた。 |
12.9日、最高裁、安保六・一五上告審判決公判で北小路敏・大瀬振に上告棄却を判決、救援会等中心に六十名支援闘争展開。
12.10日、各派救対部、共同声明”革マル派の反階級的裏切り行為を糾弾する”をアピール。
【社青同解放派が「全関東労学政治集会」を川崎市の労働会館で開催】 |
12.11日、社青同解放派の「全関東労学政治集会」が川崎市の労働会館で開催された。約600名が会場をうめた。滝口弘人代表が「われわれはあくまでも革命的暴力主義に徹すべきだ」と声明した。「醜悪な革マル派を粉砕するために闘争資金が必要です」とカンパの訴えが出た。 |
12.12日、共産同大政治集会〔荒川公会堂〕、佐藤訪米は阻止できなかったが内戦の端緒的構造は獲得と評価。 |
「10・11月決戦」の評価は派によってマチマチとなった。ML派と中核派が「勝った勝った」と肯定総括、社青同解放派は「敗北」総括。ML同盟は「佐藤首相が羽田に自動車で行けずに、ヘリコプターで、しかも空港を機動隊で埋めつくしてやっと出発できた。敵をそこまで追い込んだ。これが勝利でなくてなんだ」。中核派は「革命の本隊である労働者が初めて武装して立ち上がった。革命への道が切り開かれた」と自画自賛。 |
【糟谷君虐殺抗議人民葬集会】 | |
12.14日午後2時半、全国全共闘主催・「糟谷君虐殺(先月13日、大阪・扇町公園で開かれた佐藤訪米抗議集会」で機動隊に逮捕され、翌日死亡、岡山大生)抗議人民葬〔日比谷野音〕に学生、反戦青年委、市民などが1万2千名結集して盛大にかちとられた。 赤ヘル部隊は、午前11時に淡路町公園に結集し、日比谷野音に向かった。日比谷野音は、革マル派の『介入』を粉砕し、人民葬を闘いとらんとする各部隊によって完全に防衛され、続々と労・学・市民が結集し、1時過ぎに野音内はほぼ満員になる。日比谷野音において、2時過ぎから人民葬が全国全共闘の代表の司会によって開始され、黙祷が捧げられた後、弁護団から糟谷君虐殺の下手人である寝屋川署員3名他、糟谷君逮捕に協力した不特定多数の官憲を告発した旨報告される。三里塚芝山反対同盟戸村一作委員長等の追悼の言葉が述べら人民葬はとどこおりなく進展する。 革マル派が、同音楽堂での糟谷君虐殺人民葬を執り行う八派集会を襲撃し、1500人規模の乱闘で50人が負傷した。カクマルが、岡山大生・糟谷君虐殺抗議人民葬襲撃を、「解放」150号で次のように自尊している。
全国全共闘派が、「まさに自己の運動が、いかに権力に立ち向かうかではなしに、党派囲い込み=他党派解体に自己完結する革マル派の野望を粉砕すべく意思統一を続ける」。野音の外では、革マル派が日比谷公園の一隅に辿り着いたとの報で全部隊が戦闘配置につく。同3時半ごろ、これに参加しようとした革マル派約700名と会場外で待機していた中核派、ML派、反帝学評、フロントの学生など約1000名が衝突。公園内一帯で投石と旗ざおのなぐり合いとなった。革マル派と他派の“内ゲバ”は再三起こっているがこれほど大規模なのは始めて。赤ヘル部隊は最先頭に位置し、反帝学評とともに戦端を切り拓いた。後続部隊が続き、日比谷公園からまさに革マル派を駆逐せんとする勢いのった時、官憲が介入し、革マル派は余命を保つことができた。赤ヘルを先頭とした革命的左翼の諸部隊は、官憲の介入を阻止し人民葬を貫徹すべく戦線を立て直した。医師団の報告を最後に、人民葬は、政党代表の追悼の言葉に移った。共産同代表は『糟谷君の遺志を受け継ぐことは、この秋の闘いでわれわれがかちとった、正規軍、軍団建設を全階級的に定着拡大させ、恒常的武装闘争を闘いぬく中から。世界プロ独に進撃することである』との力強い決意が述べられた。人民葬の最後は『虐殺抗議・安保粉砕』の一大デモンストレーションを国会―首相官邸―新橋―国労会館コースによって終始戦闘的に展開することであった。 3時45分から機動隊が規制に入り、187名が凶器準備集合、暴力行為の現行犯で逮捕された。弔旗先頭に八重洲口までデモ。逮捕された中には法政大の糸井重里氏もいた。 |
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「元東大反帝学評 伊東恒夫氏の証言」が次のように記している。
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12.15-17日、全学連(中核系)第26回臨時全国大会(委員長金山克已)、11月決戦勝利を確認。
12.15-17日、全学連(革マル系)第28回臨時全国大会(委員長・大貫健夫)、反革マル連合の″小ブル急進主義″をのりこえて革命的学生運動の前進を確認。
【京浜安保共闘が板橋区上赤塚の交番を襲撃、柴野春彦が射殺される】 |
12.18日、「銃から革命は生まれる」とする京浜安保共闘が、板橋区上赤塚の交番を襲撃。そのうちの1人、柴野春彦は巡査に射殺される。 |
12.19日、全国全共闘第2回大会〔日比谷野音〕、1万名参加、6月安保決戰に向けて関争展開を確認。中核派・反帝学評が衝突。
【沖縄で「コザ暴動」】 |
12.20日、沖縄で「コザ暴動」。市民5千人が米軍の占領支配への不満を爆発させた。騒乱罪が適用された。その背景には、25年におよぶ過酷な米軍支配への鬱積した県民の怒りがあった。 (http://www1.jca.apc.org/aml/200012/20276.html) |
12.20-22日、全学連(反帝学評系)臨時全国大会(委員長・石橋興一)、11月決戦を勝利的前進と評価。
12.30日、革命左派の創設者の一人、河北三男氏が武闘路線を批判し離脱する。
全共闘運動-学園闘争の波は、全国の大学、高校、専門学校にまで波及した。バリケード・ストに突入する大学、高校はあとをたたなかった。1969.2月、京大、東京水産大、京都府立医大、広島大がバリケード・ストに突入。3月、山形大、富山大、関西学院大。4月、沖大、岡山大、島根大と際限なく続いた。年間では国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校、また、私立大学270校中79校が、それぞれの闘争の戦列に加わった。この数字は、日本の大学数のほぼ半数に近い。しかし、大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻 り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減 じた。
1969(昭和44年)のゲバルト事犯による死傷者数は1145人、うち死亡者2人。街頭をバリケードで封鎖したり、駅で混乱を起こして交通機関を停止させるなどし、凶器も角材だけでなく石塊、鉄片、劇薬などが用いられるようになり過激化し、検挙人員は前年には6600人であったが、1969年には1万4700人にのぼった。
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これより後は、「第9期その1、70年安保闘争とその後」に記す。
(私論.私見)