第8期その2後半期 | 1969年 | 圧巻の全国全共闘結成と内部溶解の兆し |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.8.12日
これより前は、「東大闘争クライマックスとその顛末」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1969年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
佐野秀夫「戦後学生運動の歴史(1969年7月-9月)」、「戦後学生運動の歴史(1969年10月-12月)」その他参照。 |
2.1日、東大全共闘救対部・10.8救援会主催・東大・日大闘争勝利報告集会〔全電通会館〕に千名参加。
2.2日、1.18-19神田解放区闘争で反日共系各派上部団体捜査される。
2.2日、沖縄「いのちを守る」県民共闘会議が、2.4日のゼネスト中止を決定。2.3日、亀甲議長辞任。2.4日、沖繩二・四ゼネストを県民大会に変更して統一行動。嘉手納基地ゲート前で5万5千名が参加してB52の撤去を求める抗議集会が開催される。
2.2日、日本大学で、経済学部、法学部に機動隊が導入され封鎖解除。
2.3日、革マル系全学連十名が米大使館に突入。”沖繩人民解放“″B52撤去”等のたれ幕を下げ抗議、三十分後に全員逮捕される。
2.3日、琉球大・沖繩大・国際大生千名、県民共闘の二・四ゼネスト回避抗議集会〔琉球政府前〕、のち屋良主席に釈明を要求して会議室に突入、琉球大、民青同系学生の妨害を蹴って二日間バリスト突入。2.4日、沖繩B52撤去要求県民総決起大会〔嘉手納村〕に琉球大中心に三大学学生・高校生等五百名結集、米軍基地突入を図り機動隊と衝突、火炎瓶を投擲。
2.4日、沖繩一ゼネスト支援全国統一行動、集会〔中大〕に各派学生・反戦など3千名結集、のち本郷通りデモ で18名逮捕、全国20ヵ所で集会・デモ。42名逮捕される。民青同系千名が決起集会〔東大〕・文部省デモ。
2.5日、アメリカカリフォルニア大学のバークレー校に州知事R・レーガンの指揮で非常事態が発令される。
2.9日、日本大学芸術学部で、機動隊により封鎖解除される。
2.9-10日、東京地検、1.18-19闘争で509名を大量起訴(1.18/東大179、神田10。1.19/東大295、 神田25)
2.11日、日大全共闘主催/日大闘争勝利5万名集会。労・学・市民連帯集会に5000名結集。開催予定の本部前を機動隊五千名で″警戒“したため中大で開催、各派学生・反戦など七千名参加、潜行中の日大全共闘秋田議長挨拶。
2.11日、京大全共闘主催・学園闘争勝利全関西決起集会〔京大〕に千名参加、のち立命館大・ 府立医大までデモ、河原町通りで坐り込み
2.11日、紀元節復活反対全都高校生集会〔清水谷公園〕に反日共系高校生約700名結集。のち国労会館までデモ・9名逮捕。京都高校生自治会連合準備会主催・建国記念に関する討論会〔勤労会館〕・のち円山公園までデモ、全国数ヵ所で集会・デモ。
2.14日、京大、京大全共闘と民青同激闘。時計台一階を全共闘が奪還。
2.18日、日大闘争救援会主催・日大闘争勝利報告集会〔千代田公会堂〕に千名参加。
2.19日、中央大、全学封鎖2ヶ月ぶりに解除される。
2.21日、東大全共闘主催「東大闘争勝利。労.学.市民連帯集会」(日比谷公会堂)に5千名参加。潜航中の東大全共闘山本代表挨拶。
2.23日、京大・立命館大全共闘共催・東大日大闘争勝利・全国学園闘争勝利全京都労学市民連帯集会〔同志社大〕に三千名参加、のち京大までデモ。2.24日、大阪大全共闘等共催・東大日大闘争連帯・全国学園闘争勝利大阪集会〔大阪大〕に二千名参加、 のち市内デモ。2.25日、兵庫集会。2.26日、広島集会。2.27日、九州実行委主催・東大日大闘争・全国学園闘争勝利九州労学市民連帯集会〔九大〕に二千名参加、のち九大反戦会議(中核系)、本館を封鎖。
2.27-28日、中核系全学連中央委員会〔法政大〕、230名参加。4.28沖繩奪還闘争・全国学園闘争等の方針を決定。
2.28日、広島大本館封鎖。
3.1日、京大闘争勝利・入試粉砕労学総決起集会〔京大〕に全国から各派学生・全共闘三千名結集、本部を封鎖、機動隊の教養・本部乱入に火炎瓶で抗戦、東大路にバリ構築して深夜まで対峙、10名逮捕。
3.2日、中国とソ連が、国境のウスリー川ダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突。死者は、ソ連側34名、中国側30-40名。
3.3日、京大入試粉砕労学総決起集会〔京大〕、学外試験場に阻止闘争展開、機動隊の徹底弾圧で61名逮捕、重傷者多数。その他神戸大・広島大・岡山大・九大・ 長崎大等で入試粉砕闘争、12名逮捕。
3.3日、東大全共闘千名、法研を再封鎖、機動隊導入で排除、駒場共闘五百名、教授会メンバー全員を追及。3.4日、機動隊導入で41名逮捕。
3.8日、東大日大・全国学園闘争勝利労学市民連帯名古屋集会〔市公会堂〕に1500名参加、 のち市内デモ。
3.11日、フランスで24時間ゼネスト。
【日大全共闘秋田議長が潜伏先の渋谷で逮捕される】 |
3.12日、日大全共闘秋田議長が潜伏先の渋谷で逮捕される。3ヶ月以上もの拘留が続く。拘留開示公判が行われたのはやっと6.5日。「獄中記」には5.10日から6.19日までの日記が掲載されている。 |
3.14日、この日までに全国56の高校で卒業式闘争。
3.15日、社青同国際主義派、正式に解散<29日国際主義共産学生同盟(学生インター)結成。
3.19日、反戦高協等共催・全都高校生卒業式闘争決起集会〔芝公園〕に四百名参加、のち中教審答申粉砕で文部省にデモ、五名逮捕。
3.20-23日、民青同系全学連第十一回拡大中央委〔早大〕、東大闘争は確認書を成果として勝利と総括、戦闘的民主的学生運動の推進を決議。
3.22日、東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘3000名結集。
3.25日、革共同全国委・共産同・ML同盟・社労同・第四インター日本支部の五派が四・二八闘争で統一行動の共同アピール発す。
3.27-28日、社学同系全学連(委員長・藤本敏夫)が臨時全国大会。社学同系単独で開催、全国学園闘争を総括、 全学連のソヴィェト型組織への改編等を確認。
3.27-28日、民学同第十一回全国大会〔桃山学院大〕、構改派学生運動からの訣別・プロレタリア学生同盟への組織発展を宣言。二日目、プロ学同第一回全国大会、視約を採択、中央委員を選出。
3.27-29日、革マル系全学連(委員長・成岡庸治)が第二十六回臨時全国大会。早大文・東大文より四・二八全国ゼネスト決起をアピール。
3.28-29日、中核系全学連(委員長・金山克已)が臨時全国大会。全国学園闘争を総括、学園を七〇年闘争の砦にと確認、四・ 二八闘争決起を決議。
3.30日、パリでフランシーヌ・ルコント(30歳)、ベトナム戦争とビアフラ戦争と飢餓に抗議して焼身自殺。これを題材として、新谷のり子が「フランシーヌの場合」を歌う事になる。
3.30日、地元反対同盟主催/三里塚軍事空港粉砕集会(三里塚第二公園)。 現地反対同盟・反戦青年委・全学連の労農学1万2000名が集会とデモ。
3.31日、東大で機動隊が封鎖解除。
【生田浩二、恭子夫妻の遺骨が羽田空港に着く】 |
3.31日、東大大学院博士課程に在籍のままアメリカのペンシルバニア大学に留学中、不運の火災事故で死んだ生田浩二、恭子夫妻の遺骨が羽田空港に着いた。出迎えた一人に島成郎がいた。島は、東京小平市の広大な敷地の中にある国立武蔵療養所で、精神科の医師として働くかたわら、精神病の原因究明のため電気顕微鏡で腦細胞をのぞき、精神病理学の研究に熱を入れている。生田は、60年安保のとき、国会に突入し「赤いカミナリ族」といわれた全学連主流派のブントの事務局長、島は書記長であった。ブントの国会突入の渦の中で同志の樺美智が死んだ。デモ隊が機動隊に追われ、逃げ散ったとき、それまで人陣頭指揮をしていた生田氏は「これとともに逃げていく一人の市民でしかなかった」(生田夫妻追悼記念文集)。やがて生田は東大大学院の研究所に戻り、マルクス経済学から近代経済学へと向きを変える。島も3年後に東大医学部に復学した。 |
3月、社青同の宮城反戦、埼玉反戦のよびかけによる全国県反戦代表者会議がもたれ、4月沖縄闘争の方針をきめるとともに総評、社会党に「全国反戦再開」を申し入れた。この行動は社青同はもちろん「社会―総評ブロック」のワクをはみ出すものだった。
【社学同派全学連を発足】 |
3月、社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連 として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化 し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということである。この大会で
軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立した。 この頃、ブント政治局は塩見孝也に政治局を辞めることを要求する。塩見孝也グループは、塩見の「過渡期世界論―世界同時革命」以来の「軍事」主義をさらに強め「前段階蜂起」という主張の元、分派を形成し始める。6月あたりから「赤軍派」と名乗ることとなる。 |
【共労党指導下の民学同がプロレタリア学生同盟結成】 | |||
3月、共労党指導下の民学同は、プロレタリア学生同盟を結成し、「平和共存と構造改革論の破産」を宣言し、戦闘的な行動へと移行していくこととなった。この時の書記長はいいだもも。同氏は次のような見解を見せている。
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4.1日、早大で反戦連合が第二学生会館突入、占拠。以降騒動化する。4.4日、本部を封鎖。革マル派が学館に突入。
4.1-24日、中共九全大会、林彪副主席を毛沢東の後継者と規定。
4.5日、アメリカで、10万名が43都市で一斉に反戦デモを展開する。
4.7日、連続射殺事件の容疑者・永山則夫が逮捕される。(1994.8.1日、死刑執行される)
4.8日、社青同解放派主催・首都労学決起集会〔目黒公会堂〕に1200名参加、4.28闘争に向けて意志確認。
4~12月にかけて広島大、早稲田大、京都大など全国学園砦死守闘争が展開された。
【米国ハーバード大学で学生運動激化】 |
4.9日、約300名の学生がハーバード大学の本部ビルを占拠した。翌日早朝ネイザン・プシー総長は400人以上の警官隊を導入し、学生を排除した。45名が負傷し、197名が逮捕された。三日間の授業ボイコットは、4.25日までの15日間のストライキに発展し、期末試験は中止された。 |
4.12日、日本共産党革命左派神奈川県委員会が結成される。4.20日、大衆組織として京浜安保共闘を設立する。
4.12日、日大全共闘3千名が、午後2時すぎから明大学生会館前で法経奪還闘争集会を開き、午後4時すぎ、約600名が校舎の再占拠をはかろうと日大理工学部周辺の路地から明大前の大通りをデモし、機動隊に投石するなど“市街戦”を展開した。午後5時ごろ、機動隊が催涙弾を発射、明大学館内に逃げ込んだ学生を追って同会館になだれこみ、会館内にいた学生126名(うち女子21名)を公務執行妨害で検挙した。学生会館にいた明大生で逮捕されたのは18名、そのうち4名が機動隊に暴行を受けた。いずれも一般学生で凶器は持っていなかった。また、全逮捕者のうち送検されたのは86名、拘置されたのは5人だけであった。
4.12日、岡山大学で、機動隊員の巡査が学生による投石を頭部に受け同日夜に死亡する事件が発生した。岡山大学の学生による学生課長及び教養部教官に対する集団暴行傷害事件について大学長が学生十数名を告発したことに伴う岡山県警の強制捜査の際に起きた事件で、学生約150人は警察官に激しい投石を行い執行を妨害した。殺害された巡査以外にも警察官多数が負傷した。
4.14日、学内乱入抗議で明大全学部臨時休校。4.14日・15日、駿河台の明大記念館で学長との大衆団交が行われ、両日とも会場を埋め尽くすほどの学生が詰め掛けた。
4.12日、岡山大全共闘、機動隊の学内搜査に抗戦、機動隊員1名死亡、学生3名逮捕。4.13日、全共闘、再度バリ封鎖に突入。
4.14日、早大サークル連合主催の新入生歓迎集会に革マル派、集会粉砕で介入し衝突。4.17日、反戦連合が本部に突入・ バリ封鎖。
4.14日、中国共産党が、第9回全国代表者会議を開き、林彪を毛沢東の後継者に指名。
4.15日、共産同主催・青年学生政治集会が九段会館で開催される。4.28闘争に向けて意志確認。集会後、戦旗派の荒・氏が九段会館門前で逮捕される。罪状は、東大安田決戦での凶器準備結集罪。
4.17日、革共同全国委・中核派共催・70年安保闘争勝利新入生歓迎政治集会〔文京公会堂〕に2千名参加、関西三ヵ所でも開催。
4.17日、早大全共闘が早大本部を占拠した。この時、大学本部を占拠中の早大全共闘と革マル派との戦いが勃発している。
4.17日、チェコ共産党、ドプチェク第一書記を解任、フサーク新第一書記を選任。
4.18日、政府、米軍立川基地の拡張計画中止を決定。
4.18日、全大阪反戦青年委主催・沖繩闘争勝利・70年安保粉砕全大阪青年総決起集会〔扇町公園〕に二千名参加、のち大阪中郵前までデモ。
4.20日、反戦青年委主催・安保粉砕・沖繩闘争勝利青学総決起集会〔明治公園〕に6千名結集、日比谷公園までデモ、17名逮捕。
4.23日、日経連総会で桜田武常務理事、自主防衛力を強調。
4.25日、明大で臨時学生大会が開かれ、4月26日から28日までの全学ストライキに入った。明大和泉校舎でも正門にバリケードが築かれたが、社学同の大半のメンバーは御茶ノ水駅周辺の「解放区」闘争に向かった。
4.26日、70年安保粉砕・ 沖繩闘争勝利全関西労学総決起集会〔円山公園〕に関西各派学生・反戦・高校生四千名結集、のち市役所前までデモ、18名逮捕。
4.26日、早大に機動隊導入、本部封鎖解除、大学当局、4.28闘争事前弾圧で十日間の休校・構内立入り票止を決定。
4.27日、政府が、翌28日の沖縄デーを控え、政府中枢の占拠を示唆したとして革共同全国委に破防法第40条適用さる。中核派書記長本多延嘉、政治局員/東京地区反戦世話人藤原慶久、青木忠、ブント幹部のさらぎ徳二、久保井拓三の5名に破防法を適用。4.28日早朝、本多と藤原が逮捕される。
4.28日、法政大に四・二八闘争で拠点つぶしをねらい機動隊導入、泊り込み学生千名は事前に手入れを察知して東京医歯大・ 明大等に移動。
【4.28沖縄闘争】 |
4.28日、沖縄反戦デー闘争。70年安保闘争に向けた前哨戦として大規模な闘いとなった。全国45都道府県、318ヶ所に14万9千人が参加して(警視庁調べ)集会やデモが行われ、かってないもり上がりをみせた。東京では社共総評の初の統一集会が代々木公園で開かれ13万人参加。 この時、中央集会への参加を拒否された新左翼系学生の革マル派を除く新左翼各派は約1万名と反戦労働者5千名が共闘して武装デモ。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りた。新左翼各派の中で中核派は、「沖縄奪還」をスローガンとし沖縄の永久核基地化粉砕、本土復帰、基地撤去を掲げた。社学同は、米軍政打倒、米軍基地撤去、日帝の侵略反革命前線基地化粉砕を呼号した。 前夜から都内10大学に泊まっていた反代々木系学生は、学内で集会やデモを続けたのち、午後3時半ごろから一斉に行動を開始した。午後4時ごろ、まず赤ヘルメットの学生約200人が世田谷区代沢の佐藤総理私邸に押し掛け、催涙性の粉末が入ったビンを邸内に投げ込んだ。首相は鎌倉から帰ってきた直後で、私邸を護衛していた北沢署の警官約100名がガス弾を発射して規制、機動隊約300名がかけつけ学生を追い払った。また国電御茶ノ水駅付近の明大、中大などの集まっていた学生は、午後3時半ごろから道路にバリケードを築いて「解放区」を作ろうとはかり、警官隊と衝突、東京医科歯科大病院にたてこもっていた学生数百人も、デモを組んで都心方面に向かおうとし、警官隊とぶつかった。警官隊はガス弾で規制し、同地区の交通は一時完全にマヒした。この衝突で学生数十人が逮捕された。 国電品川駅にも反代々木系学生約150名が押しかけ、京浜東北線が一時ストップ。国電新橋駅にも4時ごろ学生が集まり、警官隊とぶつかった。世田谷署上馬交番や神田署神保町交番にも学生が押しかけ、交番をこわすなどの騒ぎが続いた。新橋駅に集まった学生たちは、駅構内で新幹線の架線をこわそうとするなど、不穏な動きを続け、さらに同駅から霞が関方面に突っ込むおそれが強まった。 警視庁が午後6時15分に規制を開始した。新橋、有楽町の両方面から線路上に追い詰め学生を多数逮捕したが、学生は火炎ビンや投石で抵抗した。さらに東京交通会館前など数か所に看板や道路標識でバリケードを築き、鍛冶橋交番や駐車中の乗用車2台に放火するなど、東京駅から有楽町一帯は深夜まで騒然とした空気だった。新左翼系のデモ隊が新橋駅から機動隊に追われて銀座付近に集まり、反戦青年委の一部や高校生を合わせた約2千名がデモや交番への投石、放火などを繰返した。 午後7時、数寄屋橋界隈に騒ぎの中心が移った。ヘルメット約400名が数寄屋橋交差点から銀座4丁目にかけてジグザグデモを繰り返した。歩道をいっぱいに埋めた野次馬は約1万人。出口の階段もラッシュなみの混雑、歩道は大勢の通行人(野次馬)でぎっしり埋まった。 午後7時15分、べ平連のデモ隊が銀座4丁目方向へ道いっぱいのフランスデモに移りかけた時、機動隊が4丁目の方からガス銃を撃ちながら突っ込んだ。デモ隊はばらばらと逃げ、騒ぎの範囲は一気にフードセンター、読売新聞社前まで拡大した。態勢を立て直した中核派の部隊が数寄屋橋交番をゲバ棒で破壊し窓ガラスが投石や角材でメチャメチャにされた。 その後、学生らが東京―新橋間の線路を一時占拠したため新幹線をはじめ山手、京浜東北線など都心部を通る国電各線が深夜まで完全にストップした。反代々木系学生は佐藤総理私邸に投石し、国電御茶ノ水駅付近で警官隊と衝突したほか交番10ヶ所を襲うなど東京駅、銀座、新宿、渋谷などの都心部で騒乱した。 渋谷駅でも学生が警察のジープをこわす事件があり、夜10時すぎにも代々木公園の大会に参加し、恵比寿までのデモに加わった反戦青年委の青年約千名が、デモの解散後、渋谷に引返して、渋谷署中通交番に投石する騒ぎがあった。 ガス銃攻撃による警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。べ平連6月行動委など市民団体8千名も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。 全関西全共闘総決起集会〔大手前公園〕、京大・大阪大・大阪市大・大阪外大・ 大阪教育大・ 大阪経大・ 大阪府立医大・神戸大・関西学院大・ 桃山学院大の各大学全共闘、同志社大・ 近幾大学生等二千五百名参加政府、米軍立川基地の拡張計画中止を決定。その他札幌・仙台・大阪・福岡等で集会・デモ、逮捕者総数九百七十九名。 全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。逮捕者数は新宿騒乱、東大安田講堂事件を上回り、1日の逮捕者数としては戦後最高となった。 |
【共産同派内に69.4.28沖縄闘争の総括を廻って対立が発生】 |
4.28日の沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。 新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として「敗北」の総括をした。 この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展 し、党内急進派は、「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになった。 |
【川島グループが、「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」(通称「京浜安保共闘」)を結成】 |
4月、日共左派の「神奈川県委員会準備会」で、米軍基地攻撃など過激な闘争を主張する川島豪グループと、「党建設」を重視すべきであると主張する望月登グループとの間で対立が起こり、川島グループが、「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」(通称「京浜安保共闘」)を結成して分離独立した。代表・川島豪、機関誌・解放の旗。 この「京浜安保共闘」は69年から71年にかけて「米・ソ両大使館襲撃事件」(69.11月)、「東京・上赤塚交番拳銃奪取未遂事件」(70.12)、「真岡市猟銃強奪事件」(71.2)などの過激行動をくり返したのち、いわゆる「連合赤軍事件」をひき起こして自滅することとなった。 |
5.2日、中核系全学連が)都自治会代表者会議〔慶大日吉〕。大学立法・破防法粉砕の闘争方針決定。
5.6日、九大法学部教授会、井上問題で文相の責任追及すべしとパンフ配布。5.20日、井上”学長事務取扱“を辞任。
5.10-19日、全都全共闘主催・東大闘争分離公判粉砕・破防法粉砕労学総決起集会〔日比谷野音〕に7千名参加、東京地裁にデモ、のち菊屋橋101号問題でサンゲイ新聞社に抗議デモ。
5.10日、民青同系全学連が全国自治会代表者会議〔東大教養〕、自治会選挙対策を討議。
【全共闘と三島由紀夫の討論会】 | |
5.13日、満員となった東大教養学部900番教室で、全共闘と三島由紀夫の討論会が開催された。三島は、「君達が天皇を認めるならば、君達に同意してもいい!」と言い放ち、衝撃を与えている。 この対話集会を企画したのは、東大糞災実行委員会という一種のパロディー団体で、この時の記録は「三島由紀夫vs東大全共闘−《美と共同体と東大闘争》』」(新潮社、1969.6月初版)というタイトルで出版されている。「討論 三島由紀夫vs東大全共闘』の断片的要約ノート」が、遣り取りの一部を紹介している。 |
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れんだいこが、両者の遣り取りを窺うに、全共闘側はくだらない抽象論で終始している。暴力論、解放区論について得るところは何もない。天皇論についても、両者が無内容且つ一知半解な思弁を繰り広げている。一点言及しておく。 三島は、天皇論について次のように言及している。
三島がかく立論した以上、この三島式天皇論の是非を問うのが討論であろう。全共闘は、これに何も答えていない。れんだいこならまず、歴史的天皇制と近代的天皇制の相似と異質性を衝き、近代的天皇制が、歴史的天皇制が辛うじて保持していた「神的天皇と文化的天皇制」から見ても値しないことを衝く。尊ぶべきは、日本史上の和的社会性であり、その表象としての天皇制であるはずのところ、近代天皇制がこれにも値しない非を衝く。 |
5.14-15日、大学立法粉砕全京都決起集会〔京大〕に関西各大学全共闘千名参加。京大全共闘が医学部校内を全面封鎖。学生部再封鎖。
5.15日、愛知外務大臣がインドネシアの首都ジャカルタで開催される「アジア会議」に出席するため日本を発った。この会議は事実上、アジアの反共国家の集まりであるため、日本がこれに参加することに対して、内外から激しい反対運動が盛り上がっていた。外相が出発する15日、全国全共闘、革マル派などがそれぞれ抗議集会を開いて気勢を上げた。
午前6時過ぎ、全国全共闘は多摩川緑公園に約2千名を集めて集会を開き、大田区民広場前―六郷橋―萩中公園の順でデモ行進した。デモ途中の大田区民広場前では、全共闘学生と革マル派の衝突が一部で起こったが大きな衝突には至らなかった。さらに解散まぎわ、全共闘学生が機動隊に投石したため19名が検挙された。
夕方の5時、全国反戦、全国全共闘主催の「米帝のカンボジア侵略反対、愛知訪ジャカルタ抗議集会」が日比谷野外音楽堂で開催され、労働者、学生、市民約5千名の結集をみた。全国反戦、全国全共闘のアッピールが述べられた後、在日米人行動委員会からタドタドしい日本語を使って、米帝への力強い闘争宣言が発せられ、会場から盛んな拍手を浴びた。内ゲバなどもあり会場はたびたび混乱したが、8時過ぎから機動隊の片側規制の中を、霞が関―虎の門―新橋―八重洲口の順でデモ行進し、そのまま解散した。
【新宿西口フォーク集会】 |
1969年春頃より、毎週土曜日になると新宿駅西口地下広場にベ平連の「フォークゲリラ」が現れた。同広場は、駅構内と都道の接するところで、乗降客を含めて1日ざっと百万人が通る。多くの通行人や学生などが共に歌を歌い、まさに「反戦広場」となった。警察当局は「広場」とは認めず、「通路」であるということで警官や機動隊による規制に乗り出した。 5.14日夕、新宿駅西口広場が学生などのカンパ活動や集会で“占拠”されているのは通行人に迷惑として、淀橋署が機動隊の応援を得て一斉排除に乗り出した。新宿駅西口広場は毎週土曜日のベ平連集会を始め、学生のカンパ活動、各種演説会などがある。これまで何度か警告してきたが効き目がないため、同署は機動隊100人と署員50人の大部隊で抵抗すれば道路交通法違反や鉄道営業法違反を適用する構えで排除した。 5.17日、新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5千名規模で開催された。 |
6.14日午後、6・15統一集会をひかえ、東京・新宿駅西口地下広場で恒例のフォークソング集会があり、これまで最高の6千人が集まった。午後7時半、人出は最高潮に達し、歌声のわきをいくつものグループに分かれた学生たちがうずまきデモ。地下広場に通ずる車道は一時交通ストップ。同8時過ぎ、約千人の学生が地上にわき出て、西口から東口へと街頭デモ。一部は歌舞伎町へ。また地下広場に逆流して、夜11時すぎまで輪になって議論を続けた。機動隊の出動だけはこの日もなかった。 新宿駅西口広場をめぐる「フォークゲリラ」側と警察の攻防が新聞で取り上げられたこともあり、毎週、フォーク集会の参加者が増えていくような状況だった。 |
6.28日夜、新宿駅西口地下広場の名物“フォークソング集会”が約7千人にふくれ、新宿郵便局の郵便番号自動読みとり機の強行搬入の問題もからんでついに爆発した。若者の群集は機動隊と衝突を繰返しながら西口改札口を自由に出入りし、機動隊は地下広場にガス銃を撃ち込んで規制、学生ら64名が公務執行妨害などの疑いで逮捕された。国電は平常どおり運転したが広場から出るバスはいずれもストップした。ビルの谷間の反戦歌はガス弾の煙の中で涙の大合唱に変わった。新宿駅西口地下広場は機動隊に制圧された。 7.26日、東京・新宿駅西口地下広場の“土曜フォークソング集会”を実力で規制している警視庁と淀橋署は2200人の機動隊員を配置、群集が少しでも立ち止まると実力で押し出すというハード戦術をとったため集会は先週に続いてお流れとなった。広場はこの夜、完全に“機動隊広場”となった。午後8時頃、群集の一部が東口に流れて歌舞伎町方面へデモをしかけたが、これも規制された。この日、“機動隊広場”での警官とのこぜりあいで6人が公務執行妨害の現行犯逮捕された。 |
約1年後の1970年6月6日、再び新宿駅西口広場に歌声が響く。しかし、警察の壁は厚かった。翌週の西口広場での集会は機動隊員2000人の規制により阻止され、その後、西口広場での反戦集会は実現していない。 |
5.19日、東大全共闘、安田講堂に3千名結集し加藤総長追及集会、潜行中の山本代表決意表明。
5.19-20日、早大一文学生大会をめぐり革マル派と早大全 共闘(反戦連合)が衝突。革マル派執行部が完敗し大会は流会になった。揉み合う中、革マル派が学友会室に逃げ込み、全共闘が追いかけ外から投石、火炎瓶で攻め立てた。機動隊が入り救出。反戦連合が″やったぜベビー“のビラを配布している。
この時の次の証言(桑原亘之介「当事者が語る学生運動」より抜粋)がある。
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5.20日、日大全共闘、日大闘争一周年全学総決起集会〔明大〕に3千名結集、のち理工学部デモで校舎に突入、機動隊出動して12名逮捕。
【立命館大学で「わだつみの像」が破壊される】(「全共闘時代用語の基礎知識」参照) | |
5.20日、立命館大学の構内にあった「わだつみの像」が破壊されているのが発見された。全共闘系学生によって破壊されたことが判明した。「わだつみの像」は、戦没学生の手記を集めた『きけわだつみの声』の出版を記念し、平和と民主主義のシンボルとして建設され、当初東京大学に建てられる予定だったが、反対にあい、当時立命館大学の総長だった末川博がこれを引き受け、同大学に建設されていた。しかし、1968年の学園闘争で、その末川総長が全共闘学生に対して機動隊を導入し排除行動に出たため、似非民主主義の象徴であるとして、反日共系学生たちがこの像を破壊した。 立命館大学全共闘機関紙「コンテスタシオン」は次のように声明している。
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5.21日、日大闘争1周年全学総決起集会。4000名が理工へデモ。校舎内に突入。
5.22日、「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。
5.23日、大学立法粉砕・ 中教審答申粉砕全国統一行動。全国34都道府県78ヵ所で集会・ デモ、35大学がスト。東京では各大学全共闘3千名が明大前通りにバリ構築し機動隊と衝突、37名逮捕(「神田解放区闘争」、逮捕者34名)。革マル系六百名は集会〔早大〕・日比谷デモ、民青同系5千名は集会〔礫川公園〕・ 日比谷デモ。関西では全関西総決起集会〔京大〕に千名結集し京大本部等を封鎖、機動隊と火炎瓶で抗戦、44名逮捕される。
5.24日、「大学の運営に関する臨時措置法案(大学律法)」が国会に上程される。
5. 28日、229団体により「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15集会実行委員会」が正式に発足。
5.29日、早大全共闘主催/ 早大闘争勝利全都学生総決起集会〔早大〕に2千名参加。各派3千名と早大生2千名が革マル派粉砕・ 早大闘争勝利で合流デモ。
5.29-31日、法政大、大学立法粉砕で全学バリスト。
5.30日、愛知訪米阻止労学市民決起集会〔日比谷野音〕に各派学生・ 反戦2千名参加、 八重洲口までデモ。愛知訪米阻止全関西決起集会〔扇町公園一に各派学生・反戦2千名参加、のち市内デモ。
5.31日、愛知訪米阻止羽田関争、革マル・反帝学評・フロント等各派学生・反戦2千名が蒲田・大鳥居駅周辺で機動隊と衝突、355名逮捕。愛知訪米阻止全大阪高校生統一集会〔扇町公園〕に2百名参加、のち大教組の集会に介入・ 衝突。
【共労党第三回大会で、いいだ派と内藤派が対立】 |
5月、共労党第3回大会で、戦略を廻りいいだ派と内藤派が対立。内藤が議長を辞任し、いいだが主導権を握る。いいだ派は新左翼系諸派との共闘路線を強化。内藤派の長谷川浩が労働者党全国連絡会議結成する。10月、共労党内内藤派の長谷川浩、内野壮児らが労働運動研究所を設立する。 (参考:労働運動研究No.176 /1984年 伊藤律「浩さんの思い出 真の共産主義者」より「長谷川浩略年譜」) (参考:先駆800号記念連載企画/革命家・労働運動家列伝④革命家の人間像―春日庄次郎(下)―日本で稀な革命家の人間像 晩年の10年―樋口 篤三) |
【早大全共闘が革マル派10数名を監禁、テロる】 |
5月下旬、全共闘が4月から早稲田大学本部を占拠中、文学部の学生大会が開催されるも、全共闘と革マル派執行部が競い合い、流会になった。革マル派が学友会室に逃げ込み、それを全共闘が追いかけ、外から投石、火炎瓶で攻め立てた。革マル派20名を文学部教室に監禁し(革マル派10数人を理工学部のサークル部屋に連れ込むとの記述もある)、リンチを加えるという事件が発生している。「俺たち全共闘は”止めろ”と言った。全共闘は大衆運動を重視し、テロで相手の肉体を痛めつけるような理論武装をしていなかった。しかし、セクトは日頃のうらみつらみからやってしまった(他大学のセクトが来ていて「テロった」ともある)」。機動隊が入り革マル派学生を救出した。 |
【革マル派が早大全共闘7名の学生を集団リンチしテロる】 | |
革マル派が、早大全共闘/早大反戦連合7名の学生を集団リンチし、埼玉県の山林に置き去りにするという報復が為された。証言者はいう。 (桑原亘之介の2024年6月11日 「当事者が語る学生運動」参照)
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【この頃の反戦成年委員会】 |
6月、治安当局の調べでは、全国に約490の反戦青年委員会の組織があり、構成人員は2万人以上だった。そのうち、社会党の指導下にあった組織は半分以下にまで落ち込んでおり、その他は新左翼系セクトの指導下になっていた。代表的党派とその掌握していた組織数は次の通り。社青同解放派(革労協)系84、共産同(ブント)系67、中核派系53、第四インター系32、革マル派系11。この中にあって反戦青年委員会の組織作りの初期から参画していた社青同解放派がさすがに主流を保っていた。10県反戦連絡会議の中心勢力は、社会党青少年局を中心とする構革左派「主体と変革」グループ(倉持和朗、鈴木達夫ら)・「根拠地」グループ(三田岳、高見圭 司ら)であった。 |
6.1日、出入国管理法粉砕全国統一行動、中央集会〔芝公園〕に8百名結集、東京入管事務所にデモ、7名逮捕、関西総決起集会〔神戸大〕に千名結集、神戸入管事務所にデモ、9名逮捕。
6.1日、全国基地撤去・沖繩連帯・砂川闘争勝利報告集会〔砂川町反戦広場〕に1500名参加。
6.2日、専修大バリケード封鎖。6.4日、機動隊導入。解除。
6.3日、京大工学部学生大会、会場防衛の民主化行動委に全共闘介入・乱闘、 スト解除を決議。
6.6日、全都全共闘24大学、大学立法粉砕で6.20全国学園バリスト決起をアピール。京大全共闘等共催・全関西労学御堂筋デモ総決起集会〔大手前公園〕に労学千名参加、 市内デモ。
6.8日、ニクソン米国大統領が、ベトナムから2万5000名の撤兵を発表する。この日、南ベトナム解放戦線が臨時革命政府樹立を宣言。首相はフィン・ファン・タト。
6.8日、アスパック(ASPAC、アジア太平洋協議会閣僚会議)粉砕闘争。中核派部隊が小田原で伊東行き電車の車両を切り離され143名逮捕される。各派学生・反戦・高校生1万2000名が伊藤駅前に結集。市内各地でグリラ戦、解散集会に機動隊襲撃。(全学連は伊藤警察を攻撃。46名逮捕される。計207名が逮捕される?)二日目、伊東に向かう学生を小田原駅で規制、一輛を車ごと全員検挙、逮捕者総数440名。
6.9日、現地集結に向かう中核派全員逮捕される。
6.10日、南ベトナムで、臨時革命政府が樹立される。
6.11日、日大全共闘、日大闘争バリスト1周年全学総決起集会(明大)、5千名がデモ。明大前通りをデモ。機動隊、着色液を放水。
6.11日、東大全共闘救対部・ マスコミ反戰等共催・ ″報道の自由”粉砕労学連帯集会〔文京区民ホール〕に1200名参加。
6.12日、ブント関西派が「赤軍派通達」を発行する。塩見らが、ブント内でオルグ活動を開始する。
6.14日、社学同高校生委主催・全関東高校生政治集会〔明大〕に百名参加、佐藤訪米実力阻止を確認。
【6.15集会】 |
6.15日、60年安保闘争で国会に突入した学生と機動隊が衝突した事件で樺美智子が死去した9年目の命日のこの日、日本でレコード「フランシーヌの場合」が発売された。午後1時40分、東京でべ平連と各派共催の362団体主催の「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15統一集会」(日比谷野外音楽堂)が開催され、労.農.学の約3万人(主催者側発表は7万人)が参加する。日曜の午後、東京の都心は統一行動デモの花と数百本の旗と横断幕が道いっぱいにゆれた。 ベ平連の小田実氏の「さまざまな形態のたたかいが1つにまとまり、権力に立ち向かおう」とのあいさつなど各団体からの連帯表明がなされた。午後2時44分あいさつが続けられていた途中、突如逮捕状が出て以来地下に潜行しながらも執拗に活動を続けている東大全共闘山本義隆代表が、厚い警備網を突破して会場に到着したと発表がなされた。会場はわれんばかりの拍手に湧きに湧き、東大全共闘が演壇上を陣取った。黒ヘルの一群が演壇に直進してくる旗で囲いをつくり、満場の拍手のなかを山本代表が現れ、約15分間の演説を終えてそのまま何処へとなく姿を消し去った。 午後3時半、ベ平連を先頭にデモ隊は出発した。公安委員会に許可申請した国会コースを一方的に変更され、付帯条件もつけられたなかをベ平連ー各大学ベ平連ー反戦青年委員会ー各大学全共闘ーフォークソングゲリラー無所属の順でデモ行進する。日比谷野外音楽堂から霞ヶ関ー虎ノ門、国会議事堂わきを経て新橋、銀座、東京八重洲に至る約2キロのデモが、色とりどりのヘルメットや旗、人波で埋め尽くされた。先頭の市民団体が午後5時頃目的地の東京駅に着いた頃ようやく最後尾のベ平連などが日比谷を出発し始める程であった。道中、国会近くを通過するときは約7メートル幅の機動隊の狭義地帯を歩むことを余儀なくされ、ちょっとでもジグザグデモをやると機動隊が規制に乗り出し、多数の負傷者を出す。頭をわられる者も出た。ベ平連を中心に、この統一行動の主役になった300近い市民グループは、ゲバ棒の代わりにアイデアをこらした幕やプラカードを持って八重洲口までデモをした。このデモに対して機動隊による過剰の警備体制で、東京では、吉川勇一ベ平連事務局長ら72人が公安条例違反などで逮捕され、全国でも223人にのぼる検挙者が出た。 夜、労学政治集会に1万2千名参加、大阪では1万5千名。全国29都道府県72カ所で十数万名が集会・ デモ。 |
6.21日、明大全共闘結成大会が駿河台の明大記念館で開かれた。参加したのは130団体、1500名。学生会中央執行委員長であった米田隆介(社学同)が東大安田講堂での闘いで拘留中だったため明大全共闘代表に副委員長の福田直人(社学同)が選出された。大会終了後、駿河台の各校舎をバリケード封鎖した。明大6号館(山の上ホテル裏)の封鎖には日大全共闘が協力し強固なバリケードが構築できた。和泉地区でも各門がバリケードで封鎖された。バリスト後の和泉地区では、1号館に各闘争委員会が陣取り、正門のバリケードでは検問が行なわれた。学館2階の学生会中執会議室で全共闘代表者会議が開かれ、各クラス・サークル闘争委の代表(ノンセクト・反帝学評)や学生会中執(社学同)、学館運営委員会(社学同)、法学部闘争委員会(社学同)、政経学部闘争委員会(社学同)、文学部闘争委員会(ML派)、商学部闘争委員会(中核派)などが闘争方針について議論した。夜になると学館と1号館に煌々と明かりが点り、右翼の襲撃に備えて各闘争委員会が交代で構内の夜間巡回を行った。幸い襲撃はなかった。
6.25日、明大全共闘単独での大学立法・中教審答申粉砕の街頭デモが行われた。和泉地区全共闘を先頭に、駿河台本校―八重洲―数寄屋橋―日比谷公園までのデモだった。解散地点の日比谷公園でデモの隊列を数えたら、ノンヘル部隊も含めて約1千名。
6.18日、ASPAC粉砕闘争。1万2千名が伊東駅前に結集。全学連が伊東警察署を攻撃。
6.21日、明大全共闘結成、学費闘争での処分白紙撤回等六項目を要求して全学バリスト突入を要求して目黒A棟を封鎖。
6.21日、共産同関西派が、自派の活動家に武装蜂起の「マル秘」通達を送った。この通達の中で「今秋の闘争には世界同時革命―日本革命戦争の前段階として、爆弾、小銃、拳銃などの銃器を持って戦う武装蜂起を設定、その中から革命の展望を切り開くべきである」としていた。
6.23日、全関西全共闘総決起集会〔京大〕に1500名参加、市役所に向かおうとして民青同系と衝突、正門をはさんで火炎瓶・投石をくり返し、機動隊出動。
【高野悦子が貨物列車に飛び込み自殺】 |
6.24日、69年1月から5月にかけて、立命館大全共闘の一員として闘争に参加していた高野悦子が貨物列車に飛び込み自殺(享年20歳)。高野悦子著「二十歳の原点」(新潮社)が出版されベストセラーになる。「京都の街を愛し、ジャズ喫茶に通い、学生運動のなかで自問を重ね、恋に傷ついた青春」。 |
6.24日、出入国管理法案粉砕全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に各派学生、反戦六千名参加、八重洲口までデモ、その他大阪・広島・下関・福岡等で集会・デモ。
【「大学運営臨時措置法案」提出され、大学治安立法粉砕闘争始まる】 |
6.24日、大学運営臨時措置法案が、衆議院本会議で文相の坂田道太により趣旨説明と質疑が行われた。「①・紛争大学の学長は6ヶ月以内で、一時休校とすることができる。②・文部大臣は紛争が9ヶ月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校措置)ができる。③・閉校後3ヶ月を経過しても収拾が困難な場合は、廃校措置をとる。④・臨時大学問題審議会を設ける」などが文案となっていた。 野党、マスコミはこぞって、「大学攻撃に名を借りた治安立法だ」、「大学の自治を侵す」、「大学紛争をますます困難なものにする」と反対の姿勢を示した。田中幹事長が精力的に動き、公明党・矢野じゅん也書記長、民社党・佐々木良作書記長、社会党・江田三郎書記長らと個別会談するも物別れに終わる。 |
6.26日。明大/民青系の「全明クラス連合準備会」主催の「大学立法反対・全学バリケード・スト反対」集会が錦華公園で体育会も参加して開かれた。
6.27日、全都全共闘が大学立法粉砕総決起集会〔明治公園〕。各派1万5千名が国会デモ。明大全共闘から1.000名参加。
6.28日、べ平連の新宿西口広場でのフォークソング集会。機動隊導入され64名逮捕。
【ブント関西派幹部の藤本敏夫と森恒夫が関東派に拉致され暴行される】 |
6.28日、ブント関西派の幹部にして後に歌手・加藤登紀子の夫となった藤本敏夫と森恒夫の両名が、関東派の学生に拉致され、暴行を受けるという事件が発生した。その日、藤本敏夫と森恒夫は明治大学構内にある明治記念館でイベントに登壇する予定であったが、中々姿を現さず、その現場に不気味な電話が入った。「藤本と森の身柄は、オレ達が預かった。藤本は国電上野駅近くにおいてあるぜ」というものであった。藤本と森は関東派の学生グループに拉致され、中央大学一号館一階の経済研究室に連れ込まれ、そこで「自己批判をしろ!」との吊るし上げを受けていた。藤本は自己批判を拒否、そこで壮絶な集団リンチに遭った。鉄拳を浴びせられ、顔面や下腹部に飛び蹴りを受けるなどの激しい暴行を受けたが、尚も要求を拒否し、そのまま気絶、人事不省に陥った。次は、森恒夫の番となったが、森は、あっさりと「勘弁してください。何でもいうことをききます」と声を振り絞り、関東派の連中からツバを吐きかけられながら自己批判を披露した。おそらく、森はそれで解放された。一方、人事不省に陥った藤本の方はというと、関東派にしても持て余して国鉄上野駅の付近に放置された。藤本が壮絶なリンチを浴びて上野駅付近に捨てられていた。藤本と一緒に森も拉致された筈だが、森の方はというと、関西派の幹部たちに「脱走してきた。敵を二、三人ぶちのめしてやったよ」等と、曖昧な事を口にした。藤本敏夫は薄々は森恒夫がどのような態度を採ったのかを知っていたが藤本は、それについては一切、話そうとしなかった。藤本と森が関東派に襲撃された事で、関西派は直ぐに報復の計画を立てた。京都や大阪に助っ人を要請し、京都・大阪から約50名が上京、また、関東派の中からも重信房子らも集まって藤本の仇討ちが練られた。 |
6.29日、新宿西口地下広場の反戦フォーク集会に7000名が参加。
6.29日、京大全共闘、教養部代議員大会をめぐり民青同系と衝突、機動隊導入で19名逮捕。
6.30日、京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3千名結集し、京大全共闘、立命館大全共闘3千名、京大構内を制圧。機動隊と民青同を蹴散らし時計台前で大学治安立法粉砕集会。
6月、中核派が、都議会選挙に参戦し、北小路敏・氏を立候補させ選挙戦を戦う。結果は1万5千票で落選する。「No141 革命的議会主義とは?」参照する。 7.14日の東京都議会議員選挙に中核派の元全学連委員長北小路敏候補(杉並区)が、4年前の刷新都議選、2年前の補欠都議選に続いて三度目の立候補をした。“片手にゲバ棒、片手に投票用紙”と揶揄された市街戦から選挙戦への思想と行動、その「革命的議会主義」、「議会は革命のための補助的な陣地」の論が注目される。中核派は学生運動からスタートして労働運動(反戦)、市民運動(ベ平連)、農民運動(成田空港反対)、さらに高校生運動へと幅を広げてきたが、これにさらに議会闘争を加えた。中核派内部でも立候補是非をめぐって激しい論争が繰返された。過去2回の選挙でスクラムを組んだ本多延嘉書記長は破防法で捕われの身、そのほか主だった幹部も捕らえられたり地下にもぐっての“破防法選挙”だったが、学生たちは“現地闘争本部”を作り全国からかけつけた。北小路氏は胸に赤いバラの花をつけ“進歩的文化人”や多数の“三派シンパ”を動員しての辻説法と演説会の一本やりを貫徹した。6月、明大和泉校舎(杉並区)では、正門を入ると中核派の大きな立看板があり、商学部のI氏が北小路敏氏の選挙を応援するアジ演説をする光景が見られた。演説会では米倉斉加年氏(俳優)や野坂昭如氏(作家)などが応援演説をした。結果、北小路氏は1万5千票余で惜敗した。 |
これより後は、「第9期その1、70年安保闘争とその後」に記す。
(私論.私見)