1963 革共同第三次分裂、唐牛問題事件

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第6期その3の1、全学連の三方向分裂固定化」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1962年から63年までの動きを検証する。この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に 全自連→平民学連経由で全学連を再建させていくことになる。これに対して、社学同再建派・社青同・構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくことになるも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりであった。

 ところが、世の中まか不思議な事が起こる。マル学同に流れ込んだ旧ブント系の影響を受けたか革共同全国委内に№1黒田と№2本多の間に確執が発生し、いわゆる革マル派と中核派へ分裂することになる。マル学同から追い出された形になった中核派が三派連合に合流していく ことになり、この流れが民青同に続いて三番手の全学連を模索していくことになった。

 この過程であくまで全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派・社青同・中核派の新三派連合が誕生することになる。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声-民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同-再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。この間の主要な動きについて見ておくことにする。


【1963(昭和38)年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1963年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 「中ソ論争」の公然化。


 1.11日、マル学同全国支部代表者会議、六二年秋の大管法闘争における他党派との統一行動をめぐり論争。


 1.12-13日、マル学同全学連第33回中執委開催されるが〔全銀連会館〕、大管法闘争の総括をめぐり根本委員長派と小野田書記長派に深刻な対立を引き起こした。「統一行動の中で、他の分派、例えば社学同などを充分に批判できなかった」といった意見が出されて、内部の分裂が公然化した。後の革マル派に繋がる根本派は、統一行動は野合に過ぎぬと批判し、後の中核派に繋がる小野田派は、セクト主義だと批判を投げ返した。


 1.19日、都学連再建大会〔芝児童会館〕。社学同・社青同・構改派らの都内13大学26自治会94名参加。一・二四ストから試験ボイコットへと大管法闘争推進等を決定(委員長・今井澄)。


 1.19-21日、社青同第三回全国大会〔国労会館〕、日韓会談粉砕・政転闘争勝利・憲法完全実施をスロ-ガンに五千の幹部・五万の同盟員・百万の大衆運動を目標に同盟建設推進を決定。


 1.24日、都学連、(三派系)大管法闘争第一波、四派統一行動で決起集会〔氷川公園〕に五百名参加、日比谷公園までデモ。


 1.25-27日、民青同第八回全国大会〔日本青年会館〕、十五万の同盟員・二十万の機関紙獲得・地域青学共闘を績み上げ中央青学共闘再建等の方針を決定。


 1.25日、池田首相は大管法提出の見送りを決定した。


 1.26日、全学連・都学連(三派系)百二十名、国大協臨時総会〔上野・学術会議講堂〕実力阻止闘争、会場前で機動隊と衝突。


 2.10日、マル学同中核派結成大会(3月5日機関紙「中核」創刊)。


 2.20日、平民学連、国民会議の統一行動に全国各地で千五百名参加。 


【「革共同の第三次分裂」発生】
 2月、革命的共産主義者同盟全国委員会政治局(本多延嘉)が、前進120-122号で、「同盟第3回全国委員総会と革命的共産主義運動の現段階」を発表。

 2.20日、革共同全国委政治局小数派の党内闘争宣言「政治局多数派による革マル主義の歪曲に抗して断乎たる分派闘争を展開せよ」が発表され、党派闘争が開始される。革共同全国委政治局議長・黒田寛一、倉川篤、森茂ら3名の政治局員が、いわゆる「最後の手紙」と呼ばれる党内闘争の宣言を発表し、事実上の組織分裂を引き起こした。黒寛派は、「日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派」(革マル派)を結成し、機関紙「解放」を創刊し、反黒寛派は、「日本マルクス主義学生同盟中核派」(中核派)を結成し、機関紙「前進」を継承した。こうして、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを革共同の第三次分裂と云う。 (これについて「革共同の第三次分裂考」で更に検証する)

 この分裂の直接の契機は、前年の62.9月の「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点での革共同全国委の中心人物であった黒田と本多間の抜き差しならない意見対立にあり、四派連合問題もまたこの延長線上で発生したものであった。つまり、革共同全国委内の黒田派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及していった結果として四派連合問題をも発生させ、これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされたという経過になる。

 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒寛派についたのは後にJR東労組運動の指導者として台頭していく倉川篤(松崎明)と森茂らの少数であった。こうして黒寛派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。

 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立は当然のことながらマル学同内部にも対立を波及させていくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。「東京都内における学生活動家の数は、分裂当初、僅か18人になってしまった」と本多自身が語っている。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことに なる。

【「中核派と革マル派の対立の背景】
 この対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。古賀氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。
 概要「革共同の中にも実践派と書斎-評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのことである」。

 他にも、大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質として あったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せていた。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」 であるとも看做していた。

 これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、ズブズブ統一行動主義、過激主義」であると云う。例えば、こ の時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと「我々は水ぶくれと寄せ集めによる『党建設』を絶対に拒否する」と理論化していた。

 運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わないことが革命的であるかの如くに云う日和見主義」といい、革マル派は、中核派に対して、「主観主義的情勢分析、分析ならぬ信念に基づく危機感のあおり立て」と云う。

 も う一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。

 この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方も ある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張 し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。

 党建設を廻っての意見の対立も深刻であった。立花隆・氏は、著書「中核対革マル」の中で次のように分析している。
 「革マル派は、『社会民主主義やスターリニズムかに真にイデオロギー的に組織的に脱却した革命的労働者のケルン(中核)作りが必要』と力説したのに対し、これに対し中核派は、『ケルン作りと云えば聞こえはいいが、要するに革マル派のやっていることは、サークル作り、喫茶店で革命をおしゃべりする人間を集めて、ネチャーエフ的陰謀主義的な組織を作れば革命が出来ると思っている』、『党が建設途上にあろうとも、その党が党として大衆の前で帝国主義に対して闘って行く必要性、党の為の闘いと同時に、党としての闘いを展開していくことを忘れている』と批判した」。
(私論.私見) 中核派と革マル派の分裂考
 中核派と革マル派の分裂について、この時点での対立については、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないか、と私には思える。革共同とブントとの違いのカオス・ロゴス識別に従えば、 中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。鎌田氏はこれを「再生ブントという性格的側面を色濃く持っていた」と指摘している。

 立花隆は、「中核対革マル」文中で、「どこまで行っても、水掛け論である。双方の悪口、なかなかよく相手の特徴をついている。どちらが論理的に正しいかなどということは、決められない。それれを決めるのは、歴史だけである。何年か何十年か後に、どちらかの党派が革命をやり遂げることが出来たら、そちらが正しかったということになるのだし、どちらも出来なかったら、どちらも正しくなかったということになるのだろう」と述べているのが参考になる。

 こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。

【「唐牛問題」発生】
 2月、「唐牛問題」が発生している。(これについては「唐牛問題(「歪んだ青春-全学連闘士のその後」)考」で更に検証する)。

 TBSラジオが録音構成「歪んだ青春-全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを、暴露した。これに共産党が飛びつき、「トロッキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。

 この資金カンパについて、島氏は次のように述べている。「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」、「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」、「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」、「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。唐牛自身次のように述べている。「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネが無かったですよ」。しかし、これが唐牛ひいてはブントの「いかがわしさ」を公認させ、葬り去られる契機となった。

 3.1日、社学同、社青同、共青(構改派)の三派連合で都学連再建大会を開催。


 3.6日、共青(構改派)が社学同、社青同のラジカルな運動方針を嫌って三派連合から離脱。


 3.8日、大阪市大の構改派が日共から離脱し、平和と社会主義をめざす学生同盟を結成。


 3.9日、社革(準)が第三回全国総会で社会主義革新運動に改称。議長・内藤知周。


 3.9日、大阪市立大学小野義彦教授の指導の下、平民学連の一部が分裂して、民主主義学生同盟を結成。小野教授が新志賀派だったことから後に日本のこえ派の指導下に入る。


 3.14日、社学同多数派フラク、機関紙「赤光」創刊(11月15日理論機関誌「マルクス・レー二ン主義」創刊)。


 3.15日、民青同・社青同、革新都政実現のための統一戦線覚書を発表。


 3月、「日韓会談反対」闘争を中軸として、金鐘泌訪日阻止闘争が羽田で行われた。


 3.17-19日、東京で平民学協全国学生集会が開かれた〔目黒公会堂〕。130大学.1500名の結集。日韓会談反対、大学管理法粉砕、7月全学連再建、学生戦線統一を決議した。


【マル学同全学連が、革マル派全学連に純化する】
 4.1-2日、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。(乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した)

 4.1日、革共同全国委革命的マルクス主義派(革マル派)結成、機関紙「解放」創刊。


 4.1-2日、全学連第三十四回中央委〔中労委会館〕、中執(根本)提出と書記局(小野田)提出の議案審議・中執案を採択、中核派六中執を罷免。


 4.8日、三派連合、全国自治会代表者会議〔全自交会館〕、百五十自治会代表参加、日韓会談反対闘争を軸とした方針等を決定。


 4.19日、全学連・三派連合百名、日韓会談粉砕・韓国学生支援で氷川公園から日比谷公園までデモ。


 4.26日、全学連・三派連合、日韓会談粉砕・米原潜寄港阻止全国統一行動、全都総決起大会〔日比谷野音〕に七百名参加、のち三河台公園までデモ・機動隊と衝突、京都府学連七百名は同志社大に結集、祇園までデモ・機動隊と衝突。


 4.26日、社学同理論機関誌「理論戦線」が復刊される。第1号は、社学同全国執行委・水沢史郎の「日本資本主義の現状分析」を掲載。


 5.12日、都学連(三派系)呼びかけの全国学生自治会代表者会議〔東学館〕、日韓会談阻止五・三一全国統一行動を全学連主催とするか実行委を結成するかでマル学同(中核派)と三派が対立、三派は別会場〔中大〕に移り五・三一闘争全国実行委結成、全学連再建の母体とすることを決議。


 5.15日、日共の志賀、鈴木が除名される。


 5.20日、全学連・都学連(三派系)日韓会談粉砕全都学生総決起集会〔氷川公園〕、四百名参加し日比谷までデモ、国民会議の統一集会・国会デモに合流。


 5.23日、最高裁ポポロ事件判決抗議闘争、京都府学連千五百名、京都地裁に抗議デモ、大阪府学連二百名、大阪高裁長官に面会要求、高裁内を抗議デモ、兵庫県学連三百名、神戸地裁・地検に抗議デモ。


 5.25日、都学連(三派系)、最高裁ポポロ判決抗議デモ、三名逮捕。


 5.31日、全学連、社学同・構改派の四派、原潜寄港阻止・日韓会談粉砕の統一行動に1500名参加〔清水谷公園〕。京都府学連四千名、大阪府学連千名等全国各地で高揚。


 6.1日、平民学連第二回全国代表者会議、七月十九日全学連再建大会開催・六月二十八~二十九日大会招集呼びかけのための全自代開催を決定。


 6.15日、全学連・三派連合、原潜寄港阻止・日韓会談粉砕全国統一行動、全都学生総決起大会〔日比谷野音〕に二千名結集、のち国会に向けてデモ・機動隊と衝突、京都府学連・兵庫県学連、全関西総決起集会〔神戸市庁前〕に三千五百名結集、のち米領事館前・自民党県連前で坐り込み。


 6.21日、平民学連、〝学生戦線統一に関するアピール〟で七月全学連再建を見送り。


 6.23日、日共系の原潜寄港反対全国統一行動、横須賀大集会〔臨海公園〕に東京・関東から平民学連五千名参加、のち基地周辺デモ。


 6.25日、全学連・三派連合、国民会議統一行動に呼応し全国統一行動、全都総決起大会〔東郷公園〕に二千名結集・新橋までデモ、京都府学連集会〔円山公園〕に二千二百名結集、大阪府学連集会〔中之島公園〕に千二百名結集等全国各地で集会・デモ。


 6.28-29日、平民学連全国自治会代表者会議〔中労委会館〕、九十自治会代表・十四自治会オブザーバー参加、七月全学連再建見送りを確認、平民学連を自治会連合体に改組の方向を決定。


 6.30日、原潜寄港阻止・日韓会談粉砕の統一行動に1500名参加。


 6月、岩田弘が、「経済評論」に「現代資本主義と国家独占資本主義論」を発表。


 5、6月、自治会選挙で、民青系が進出した。


【全学連20回大会】
 7.5-8日、全学連20回大会(委員長・根本仁)が開催された。中核派130名がスクラムを組んで入場せんとし、30分間の激闘の末、革マル派が実力阻止した。革マル派が中核派の6中執の罷免を承認し、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。代議員の定員が満たされておらず、全学連の実質を喪失したことになった。以降革マル派全学連としてセクト化し、各党派が「革マル派全学連」を見習い党派の全学連を目指して行くことになる

 中核派は全学連主流派総決起大会を開催(1・2日目/自治労会館、3日目/法政大)し、革マル派単独大会を分裂行動と非難する。 

【「平民学連」結成】
 7.16-18日、民青同系全学連の先駆的形態として、「安保反対.平和と民主主義を守る全国学生自治会連合」(平民学連)が結成され、第一回大会が開催された〔台東体育館〕。委員長に川上徹を選出した。この大会には、全学連規約に準じて代議員が各自治会から選出された。72大学、121自治会、230名の代議員参加、傍聴者3500名を越えた。

 平民学連が重視したのは、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていたことにある。
 自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。
 民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。
 国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。
 自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する 闘いが必要である。
(私論.私見) 平民学連規約考

 れんだいこは、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。ただし、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる、と思われる。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限」理論の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いてい くことが出来るかもしれないとも思う。


 7.17日、三派連合が、全自交会館で全国自治会代表者会議開催。50大学200名参加、改憲阻止闘争を中心に反日帝闘争強化、全学連12月再建等を決議する。


 8.5日、三派連合と中核派が、広島・労働会館で全国学生反戦集会を開催し、あらゆる国の核実験に反対、9月全自代開催を決議、四派連合形成される。同日、革マル派300名が、原水禁大会集会場〔広島・平和公園〕で原水協批判宣伝、原水協の要請で機動隊により排除、6名逮捕される。


 8.5日、米英ソ三国、モスクワで部分的核実験停止条約調印。


 8.6日、全学連8.6国際反戦集会〔広島・光道会館〕に、革マル派200名参加。


 8.16-18日、青年学生運動革新会議全国会議〔大津労働会館〕が、各地方の異なる組織形態を全国的に統一するため青学新を共青(準)に改組し全国準備委選出する。


 8.20-31日、平民学連第一回代表者会議〔東京〕、地域共闘・青学共闘の強化、軍学協同反対、大学の民主化要求等を決定する。


 9.1-2日、全学連第35回中央委〔全銀連会館〕、70名参加、日韓会談粉砕・ポラ潜寄港阻止を軸とする反戦闘争拡大等を決定。


 9.4-5日、京都府学連第二十回大会〔同志社大〕、民青同系ボイコット、社学同系が執行部多数派を掌握。


 9..7-8日、三派連合・中核派が、全国自治会代表者会議〔明大〕、日韓会談粉砕・ポラ潜寄港阻止の9.13第一波、10.31全国ストの統一行動を設定、ゼネスト実行委結成を決定。


【清水谷乱闘事件】
 9.13日、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)が全都総決起集会〔清水谷公園〕で250名が集会しているところへ、革マル派150名が押しかけ演壇占拠、角材で渡り合う乱闘事態となった。のち両派相前後して日比谷公園までデモ。
(私論.私見) 
 革マル派のその他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。

【民青同系から民主主義学生同盟(民学同)が離脱】
 9.13(15)日、日共細胞除名の大阪大中心に民青同系から民主主義学生同盟(民学同)が離脱。1964.7月、民学同は「日本の声」派と合流する。その後、共産主義労働者系と「日本の声」派となに分岐し、10月「フロント」と共に全国自治会共闘を結成し、構造改革派系新左翼連合戦線を形成している。

 9-10月、三派、革マル派など日韓条約批准反対闘争展開。


 9.25日、日共の神山、中野が除名される。


 10.10日、社学同第4回都大会〔小松川公会堂〕が開催され、革通派系のマル戦派、反マル戦派、独立派の対立が激化する。


 10.17日、四派連合全国統一行動、東京では都学連(三派系)300名の決起集会〔明大〕と中核系200名の決起集会〔清水谷公園〕に分裂、京都府学連集会〔同志社大〕に500名結集・市内デモ。


 10.31日、四派連合全国統一行動、全都学生統一集会〔日比谷公園〕に800名結集、外務省にデモ。京都府学連千名の市内デモ等全国各地で集会・デモ。


 10.31日、革マル派全学連が、日韓会談粉砕全学連総決起集会〔清水谷公園〕開催し170名参加、日比谷公園までデモ、解散集会後、華僑総会に中国核実験準備反対で抗議デモ。


 11.1日、南ベトナムで軍事クーデター発生。ズオン・バン・ミン将軍らが、アメリカの黙認の下で軍事クーデターを起し首都サイゴンを制圧。11.2日、ゴ・ディン・ジェム大統領と弟の秘密警察長官ゴ・ディン・ヌーを殺害しゴ・ジン・ジェム政権がクーデタで倒れた。


 11.1日、京都府学連統一行動、池田内閣打倒・憲法改悪反対集会〔立命館大〕に800名結集、市内デモで7名逮捕される。民青同系は米の対日文化侵略反対集会〔同志社大〕に千名動員、別個集会・デモ。


 11.22日、ケネディー米国大統領暗殺される。テキサス州ダラスで遊説中狙撃された。約1時間半後、ダグラス市警は、リー・H・オズワルドを犯人として拘束したが、二日後に移送中、ジャック・ルビーにより射殺された。ジョンソン副大統領が昇格し、事件を調査する「ウォーレン委員会」を設置し、翌年9.26日、事件をオズワルドの単独犯行とする調査結果を報告した。しかし、疑惑が多く信憑性が疑われている。アメリカはその後、ベトナム戦争拡大に向かう事になった。


 11.29日、四派連合(マル学同中核派・社学同・社青同・構改派)が、原潜寄港阻止・日韓会談粉砕全国統一行動、都決起集会〔日比谷野音〕に千名結集、のち外務省デモ、外務省前坐り込みで25名逮捕される。


 11.29日、革マル派全学連が、原潜寄港阻止・中仏核実験準備反対・日韓会談粉砕統一行動、芝公園に170名参加、日比谷公園までデモ。


 12.5日、京都府学連、原潜寄港阻止・私学授業料値上げ反対統一行動、決起集会〔同志社大〕に六百名参加、のち円山公園までデモ。


 12.13日、全学連三百名、動労の反合理化ストで尾久・田端に支援デモ、二名逮捕。


 12.15-17日、中核派、全学連主流派総決起大会開催(一・二日目=杉並公会堂、三日目=法政大〕、平民学連との対決を打ち出し日韓会談粉砕に政治闘争の重点を置く等確認、六四年七月全学連再建を宣言。


 12.17-19日、平民学連第2回拡大全国代表者会議〔国労会館〕、分裂主義者の徹底的粉砕・三月学生文化会議開備、三月一日青学平和会議を呼びかける。


 12月、「プロ通派」から林紘一らが分れて「共産主義の旗派」を結成していたが、この流れから日本共産労働党―共産主義者同盟を経て全国社会科学研究会が結成された。全国社会科学研究会は、1972.7月「真の前衛党づくりを目ざす」として「マル労同」(マルクス主義労働者同盟となり、現在社労党へと至っている。


 この社労党から見たこの間のブントの流れは次のとおりである(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)。
 「そして、ブントの崩壊後、戦旗派は丸ごと、プロ通派はその一部が革共同に救いを求めて『乗り移り』、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも六三年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、『反帝・反スタ』のお題目の下に『革命的な自己変革』と『主体形成』に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、60年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、66年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。

 さて、こうして安保闘争の終焉とともにブントの英雄たちが無責任・無節操にも、あるいは新左翼運動に安易に鞍替えし、あるいは自己の階級的地位にしたがって大学やブルジョア社会に復帰していくなかで、ブントの理想を継承しつつ、その小ブルジョア急進主義を止揚し、マルクス主義に基礎をおく労働者政党の結成を追求する少数の人々があった。「プロ通」派―「共産主義の旗」派の流れを汲む林紘義らのグループである。

 彼らは新左翼流の皮相で空虚な大言壮語を退けて、『革命理論なくして革命運動なし』の立場に立って、六三年一二月には革命的サークル、全国社会科学研究会を組織、真にマルクス主義的な革命的理論に立脚した革命政党の創出をめざし、その理論的、組織的、実際的な準備を行うための地道な活動に乗り出した。

 全国社研は理論誌『科学的共産主義研究』によって理論的な成果を発表するとともに、66年にはレーニンの『イスクラ』に因んだ新聞『火花』を創刊、さらにビラやリーフレットの配布などによって先進的な労働者や労働者グループへの働きかけを追求していった。彼らはスターリニズムによって歪曲され、改竄され、投げ捨てられたマルクスやレーニンの革命理論を復元し、それに基づいて日本と世界の現実と階級闘争を分析し、日本における社会主義革命実現に向けての客観的、主体的な条件を明らかにしていった。

 この間の理論的成果としては、1848年の革命以来の国際的な社会主義運動・労働運動の歴史を総括して「二段階革命論」や「統一戦線戦術」の誤りを明らかにしたことなどもさることながら、何よりも特筆すべきは、一般に「社会主義」と呼ばれているソ連や中国の体制は何なのかという“20世紀最大の謎”を解明し、それが一種の資本主義=国家資本主義の体制に他ならないこと、そしてスターリニズムとはその上部構造に他ならないことを明らかにしたことである。これによって初めてわれわれは世界史の現段階と世界体制を正しく把握するカギを得たのである」。

 これより後は、「第6期その4、新三派連合結成、民青系全学連誕生」に記す。





(私論.私見)