
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
これより前は、「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦後学生運動の第4期その3は、1957年の学生運動史を記す。当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1957年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
1.8日、全学連中執委、石橋首相に沖縄問題等十二項目の公開質問状提出。
1.16日、都学連、アイク・ドクトリンに反対で米大使館・外務省にデモ。
【全学連第10中委】 |
1.18−21日、全学連第10中委が衆院会館で開かれた。砂川闘争
を総括、沖縄の永久基地化反対・英クリスマス島核実験反対等を闘争目標に設定、主流・反主流の論争表面化。多数派は、アメリカのアイゼンハワー大統領の年頭教書に反発して、沖縄の永久原爆基地化反対、日本本土の原爆基地化反対の闘争などアメリカの原水爆戦争政策即ちアイク.ドクトリンに反対して闘うことこそ全学連の第一義的任務であるという運動方針を決定した。少数派は国鉄運賃値上げ反対など、学生生活の擁護や民主主義教育擁護等の課題を主張した。
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【「日本トロツキスト連盟」結成準備会】 |
1.27日、当時トロツキズム研究で思想的に近接していた黒田寛一や内田英世・富雄兄弟と太田竜らの3グループがこの日、「日本トロツキスト連盟」結成準備会を持ち、「日本トロツキスト連盟」を発足させた。この主流がわが国における最初となった日本トロツキスト運動を生み出すこととなった。内田らの「反逆者」が連盟機関紙となった。山西らの三多摩グループは時期尚早として結集してこなかった。西京司・岡谷進らの関西グループが参加してくるのは、翌年57年の3三月以降である。早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して日本共産党に替わる新党運動を創造することが始められたと云える。
「日本トロツキスト連盟」は、第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置付けられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。日本トロツキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、
スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。
その主張を見るに、次のような自覚を論拠としていた。
「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、
我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(探求)。 |
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(私論.私見) 日本トロツキスト運動の評価基準について |
この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、
そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。
宮顕理論に拠れば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている…私の注)反
共(ここが詐術である…私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。
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(私論.私観) トロツキズム誕生の観方について
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ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。
もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるよう
になってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。
ちなみに、私は、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えています。この二人の相違は、
党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったが、スターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。
ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強
くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょっ
て権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。スターリ
ニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えるのが私見です。こう考えると、宮顕イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる |
1.30日、群馬県相馬ケ原の米軍射撃場で米兵が農婦を射殺(ジラード事件)。
2.1日、全学連は、沖縄永久基地化反対、民主主義擁護全国学生決起大会を清水谷公園で開いた。1500名の学生が結集してデモに移り、アメリカ大使館に抗議を行った。
2月、共産党の大沢氏が「前衛」に初のスターリン批判。
2.5日、全学連中執委が、イギリス議会に対してクリスマス島の原爆実験中止の申し入れ決議を行った。全学連中執委、新駐日米国大使マッカーサー二世に沖縄の永久基地化反対等を申入れ。
2.15日、新駐日米国大使マッカーサー二世着任、全学連約200名が羽田で抗議デモ展開、都学連委員長逮捕さる。
2.23日、沖縄返還要求大会が開かれ、全国6千名結集、学生は2千名参加。
2.23日、石橋内閣総辞職。
2.24日、成立した岸内閣を買弁内閣であると規定し、その外交政策転換闘争も決めた。
2.25日、岸信介内閣成立。
3.1日、国民各層代表3千名が「クリスマス島水爆実験反対中央大会」を開き、英国大使館へ抗議デモ。
3.5−6日、全学連中執委が、四・五月闘争準備方針討議、水爆実験阻止のため全組織をあげて集会・デモ等あらゆる形態で闘う声明発表。3.8日、反戦学同、英大使館に水爆実験反対抗議デモ。
【第2回東京都党会議の混乱】 |
3.9日、注目されるべき事件が発生している。この日と翌10日、17日の三日間約400名の代議員を集めて開かれた第2回東京都党会議は、「六全協」以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。この時都委員の顔ぶれは、はっきりとした党中央派が生田八重子・国府の2名、中間派は杉本・増淵・唐沢清八・岩間の4名、それに安東仁兵衛であった。残りの増田格之助・武井昭夫・・片山さとし・野田弥三郎・芝寛・高山・西尾・山本正美・島成郎らの革新派(急進主義者)が、この間の党中央の分裂経過につき責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂・宮本・春日正一らが壇上で立ち往生させられたのである。
この時の模様の一端として次のようなことがある。「中央公論」臨時増刊座談会で、武井昭夫が、いわゆるトラック部隊の暗躍による繊研事業部事件で党の処置が曖昧だと発言していた。これが「党内問題を外部へ持ち出した」として、この時党中央から規約違反により委員改選の欠格事由とされようとしていたようである。「日本共産党員私の証言」(野田弥三郎)によれば、都委員会でのこの追求に対して、野坂が「この事件は、今や敵側が刑事事件にしようとして狙っている。それで、それをまともに解決しようとしたら数千万円の金が必要なんだ。しかし、そういう金は党にはない。だから、この問題はそんなにあせってやるのではなしに、西沢君を責任者にしてあるから、そこでもって充分討議して、はっきりさせる」と、述べている。これに対し告発側の繊研従業員は、「こういう不祥事件を引き起こした当事者の西沢が責任者になって、一体何が調べられる」と抗議している。しかし、この追求は沙汰止みとなり今日まで闇の世界にある。
この時の都委員会の選挙では、宮顕の介入を排して、元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、さらに芝寛を都書記に選ぶことになった。この時の東京都党会議の決議案は、党指導部への批判や官僚主義への反対などを強く打ち出した。
この結果に対し、宮顕は「中央の認めない決議は無効だ」として居直った。宮顕の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質が露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしか出来ないということになる。こういう史実を踏まえて、現下党中央の「民主集中制」論の是非を問わねばならないのではなかろうか。
この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井・安東らが、この時点で東京都党委員になっており、特に武井が批判派として立ち現れてきていることである。武井・安東らは、この間一貫して宮本グループの傘下に位置しつつ相呼応して徳田系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にもひたすら国際派として宮本グループと歩調を共にしてきていたことを考えると、この頃蜜月時代が終わったということであろう。この時若手の武井は、徳田系にも宮本系にも党内反対派として位置していた野田グループと協調しつつ、「六全協」・「第7回党大会」の経過で進行しつつある宮本グループ系の宮廷革命の動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮本が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。ちなみに、安東は宮本寄りにシフトしつつ是々非々の立場にあったようである。
この時の当事者の一人増田格之助は、昭和47年8月号「現代の眼」で次のように語っている。
「東京都委員会問題というものが起る問題点というのは、大きく分けますと二つです。分ければ三つでも四つでもありますが、基本的な問題は党内民主主義の問題ということになると思います」、「党内民主主義の内容の中には、やはり過去の誤りをもっと明確にしなきゃいかんということが当然含まれてくる訳です。それを前向き、後ろ向きということでないがしろにできないんだ、徹底的に追及しなければいけないんだという姿勢ですね」、「今ひとつは、理論的な問題として、新綱領そのものにあの誤りの責任があるんだ、元凶をそのまま正しかったといっておいて、小手先の批判ではいけないんだという問題ですね。大きく分ければその二つですが、党内民主主義と過去の総括と言うような問題、これは両方絡み合ってきますが、そこで過去の責任の追及ということになりますと、例のむ志田問題なんかが暴露される訳です」、「それと同時に、やはり共産党が再びああいう誤りを犯さないためには、一人一人の党員が国際的な情勢についても、いろんなものについて自分の頭で考えると言う自由がなければ、中央が誤まれば全部誤まっちゃうということなんだと思います。従って、各機関なり党員個人個人が自分の頭で考える、そういう党につくり直さない限り駄目だという問題が出てくる訳です」。 |
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(私論.私見) 宮顕の「民主集中制」論の体質について |
宮顕の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質が露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしか出来ないということになる。こういう史実を踏まえて、現下党中央の「民主集中制」論の是非を問わねばならないのではなかろうか。
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(私論.私見) 武井・安東らの宮顕派との最終的決別の動きについて |
この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井・安東らが、この時点で東京都党委員になっており、批判派として立ち現れてきていることである。武井・安東らは、この間一貫して宮顕グループの傘下に位置しつつ相呼応して徳球系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にもひたすら国際派として宮顕グループと歩調を共にしてきていたことを考えると、この頃蜜月時代が終わったということであろう。
この時、若手の武井・安東らは、徳球系にも宮顕系にも党内反対派として位置していた野田グループと協調しつつ、「六全協」・「第7回党大会」の経過で進行しつつある宮顕グループ系の宮廷革命の動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮顕が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。 |
3.18日、都学連、水爆実験反対で英国大使館に抗議デモ、約五十名参加。3.20日、全学連・護憲連合等五団体、英大使館に抗議。3.30−31日、反戦学同第九回全国委〔衆院会館〕、クリスマス島水爆実験反対闘争を強化し国民的統一戦線結成等を決定。
3.30−31日、反戦学同第9回全国委〔衆院会館〕が開催され、クリスマス島水爆実験反対闘争を強化し国民的統一戦線結成等を決定。全国総計32支部、同盟員数410名。組織メンバーとして、東京教育大22名、東大本郷39、東大C25、東京学芸大11、東工大11、中央大25、法政大15、明大37、日大5、武蔵美大20、女子美4、衛生短大3、早大、都立大、日本医大、日比谷高3、青山高3。地方推定として、横国大5、名大20、立命館大30、同志社20、大阪市大20、大阪外大5、神戸大20、新潟大10、山口大10、愛媛大5、九大20、豊岡高5。
4.1−3日、全学連第11回中央委員会が衆参院会館で開かれ、4月の新学年を迎えての核実験.核戦争体制反対闘争が指令された。クリスマス島水爆実験を全力阻止、四・二七統一行動。
4.27日、第一次統一行動(東京2300、札幌1500、京都1100、その他全国各地)。
5.1日、メーデー参加。
5.3日、全学連中執の5.17闘争宣言。国鉄運賃値上げ反対国会請願デモ。5.5日、国鉄運賃値上げ反対全国学生総決起大会、中央集会〔日比谷野音〕に都内学生二千名参加、八重洲口までデモ。
5.8日、コカ・コーラ、日本での販売開始。
5.11日、国鉄の処分反対闘争支援。
5.15日、イギリス政府はクリスマス島で原爆実験を強行した。
5.16日、全国の大学で抗議集会がもたれ、5.17日、全学連は「クリスマス島水爆実験反対」闘争で大統一行動を組織し全国60の都市で抗議集会を開いた。東京では2万5000名が参加し、最高の動員数となった。夜は夜学生6000名のちょうちんデモ、その他の各地でも京都の4000名をはじめ、かってない規模で集会が持たれた。この5.17統一行動の組織の仕方は、全学連の8中委、9大会で形成され、砂川闘争以後内部での闘争を通して再確認された、「学生運動の全国一斉統一行動方式」の典型的実践であり、その後この経験は、学生運動の模範として定式化されることになった。
「昭和の抵抗権行使運動(13) CIAの犬・岸信介の登場」は次のように記している。
5月、原子戦争準備反対全国学生総決起行動デ―。5月の総決起大会では、全国170校380自治会35万名が参加した。東京では11万5000名の学生が日比谷野外音楽堂の内外を埋めつくし、空前の集会となった。集会には来賓に社共、原水協、日教組、東京地評代表が挨拶し、国際学連、総評、全逓、全専売、日高教、共同印刷労組、大学教授などがメッセ―ジを寄せ、国民諸階層から強い支持をうけた。
5.17日、クリスマス島水爆実験反対。
5.21日、共産党の志田重男が除名。
5.22−23日、全学連第八回中執委総会。
5月、反戦学同第2回全国大会が開催され、原子戦争準備反対、平和擁護闘争を決議。野矢テツオが「7月戦争危機説」提起、後撤回する。全国委員長・中村光男、副委員長・鈴木迪也、書記長鈴木啓一。
5.28日、砂川現地闘争。4時過ぎからデモ行進に移り、三派全学連が機動隊と激しく衝突するも楯と警棒に阻まれた。学生たちは次第に歩道側へと追いやられ、片側サンドイッチ規制のまま立川駅方面へと向かった。夜8時半ごろ、デモ隊は、ジグザグデモや渦巻デモをくり返して、立川駅前で党派別というより大学別に集まって総括的に逮捕者や怪我人などの安全確認をし、9時ごろ、立川駅から御茶ノ水へと向かった。双方合わせて約100名の負傷者を出し、学生48人が逮捕された。
【全学連10回大会】 |
6.3−6日、全学連10回大会が開かれ、270名の代議員、800名が参加した。原子戦争準備政策打破を中心とする平和擁護闘争推進を決議、規約改正(平和と独立強調)等を決定。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと言われている。大会は9回大会路線の意義を再確認し、一層政治主義的傾向を強めた。
大会は、「ストライキをやる目的は良いが、激しい形態をとるべきではない。その手段によって分裂を生む。それよりも集会程度の形態をとって、大勢の学生を集めて決議を行ったほうが効果がある」とする右翼反対派の主張を、「運動における無原則的な幅広理論であり、主体的条件を変える努力を怠る理論である」と規定して退け、「我々が強力な形態をとればとるほど対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、我々の周りに結集する勢力も大きくなる」と闘争の意義を確認し、学生運動が独自に国際国内情勢を分析する能力を持ち、方針を立てていくという自律化を志向した。
この頃になると、学生細胞の大部分は、共産党の方針は正しくないとして地区委員会の指導を受けようとせず、全学連の方針こそ正しいとみなしていた。当時東大学生細胞は細胞機関紙「マルクス=レーニン主義」を発行していたが、この機関紙の理論展開の方に共感していた。
「全学連第10回大会一般報告」の基調は「一連の平和擁護闘争の成果をうちかためるべく」を眼目としており、次の5点を骨子としていた。
1 |
国際情勢の特徴は、平和勢力と国際緊張激化をめざす勢力との対立にあり、前者が後者にたいして優位に立ちつつある。 |
2 |
原子戦争準備にたいして直接的打撃を与える方向をめざし、平和擁護闘争を第一義的任務とする。原水禁署名とヵンパ。 |
3 |
岸政府の反動的本質の暴露。 |
4 |
強力な闘争形態をとればとるほど、戦争勢力との矛盾は鋭くなり、われわれの周りに結集する平和勢力は大きくなる。無原則的な幅広論は誤りである。 |
5 |
全学連のかくも巨大な力の源泉は、情勢の科学的分析、正しい進路の明示、高い水準の意志統一、若さと情熱と敏速、その鋭い行動力にある。 |
フルシチョフのスターリン批判、ハンガリー事件等々に伴う衝撃については次のように評している。
「昨年十月ハンガリーにおける事件は、種々の矛盾と社会主義建設のうえでの政治的経済的諸事情の反映であるが、帝国主義勢力の危険な干渉とたたかい、矛盾の解決のための努力が開始され、社会主義国家の新しい関係がうちたてられ、一時的困難にかかわらず、世界平和を確保するうえで積極的役割を演じてきた」。 |
この時の人事で、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、桜田健介(立命館大)、書記長・小野田正臣(東大)が選出され、その他森田実・島成郎・牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。
この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていく。これが日本共産党第7回党大会前の頃の動きである。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになり、新しい活動家が輩出していった。
大会に参加した主な活動家たちは、大会終了直後、理論合宿を行い、次のような総括提起がなされている。
「プロレタリア世界革命の第一段階(ロシア革命)は、帝国主義の最も弱い一環を強行突破したこと。第二段階(コミンテルン時代)は、世界革命の拠点たるソヴエト擁護の課題を含めた上で、国際国内的反ファッショ統一戦線を結成し、孤立化をはかったこと。第三段階(現代)は、対ソ、対社会主義、対植民地反革命帝国主義原子戦争の主勢力たるアメリカ帝国主義の国際的孤立化と、帝国主義諸国間の矛盾の激発を通じて、帝国主義諸国の全般的弱体化をはかり、各国の革命を容易にすること」(「平和共存から恒久平和確立へ ― 第二次大戦後の国際情勢の特徴と平和擁護闘争の世界史的意義」反戦学同機関誌『平和のために』57年8月)。 |
(私論.私観) 宮顕系党中央による反トロツキズム運動について
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ところで、宮顕系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロツキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。
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(私論.私見) 全学連運動の三分岐の始動について |
この経過を見てみると次のように言えるのではなかろうか。この当時のポスト武井時代の党員学生活動家のうちの急進主義的部分は、二つの側面からの闘いへと向かおうとしていた。一つは宮顕系宮廷革命の進行過程に対するアンチの立場の確立であり、後一つは先行して結成された日本トロツキスト連盟の戦闘的学生活動家取込みを通じた全学連への浸透に対する危機感であった。全学連再建派は、これらへの対応ということも要因としつつ懸命に全学連運動の再構築を模索し始めていったようである。
こうして、この時期の党員学生活動家には、全学連再建急進主義派と日本トロツキスト連盟派と民青同派という三方向分離が見られていたことになる。「新左翼運動40年の光と影25P」は次のように記して当時の状況を明らかにしている。
「確か1957年の夏に当時中野にあった私の自宅で確認したのだが、そのときの出席者は学連.東大から島成郎と私(塩川喜信)、早大から本多延嘉、小泉修一の4名で、やがてブントと革共同へと別れていくメンバーの呉越同舟であった」。 |
そういう産みの苦しみ.喜びの時期であったと思われる。
ところで、宮顕系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロツキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。 |
6.21日、岸首相・アイゼンハワー大統領、首脳会談で「日米新時代来る」の共同声明。
6.21日、全学連は沖縄の永久基地化に抗議して数百名の学生が警視庁前にテントをはって座り込んだ。
6.23日、明大で、学長名で指導的な学生たちの大量処分が発表された。退学処分11名を含む21名に懲戒処分が科された。退学処分には、学費闘争の始まりの学生会中執委員長の中澤満正、全学闘争委員長の大内義男、全学連初代委員長だった斉藤克彦、「2・2協定」の混乱を収拾していた委員長代行の任を負っている小森紀男も含まれていた。二部では、酒田全二部共闘会議議長や研連委員長だった岡田に退学処分が下された。ただちに、昼間部、夜間部の各執行部、各学部自治会は、不当処分に対し「処分撤回闘争」を組み、ハンストや、授業ボイコット体制を取る宣言を発した。
7.2日、全学連第12回中央委〔参院会館〕、砂川闘争を基地問題の天王山″として全力投入を決定。
7.5日、国体の各府県持ち回り開催決定。
【第三次砂川闘争前段、反対派学生が基地突入】 |
7.8日、再び砂川基地拡張の強制測量が行われ、夏休み中であったが学生は労働者と共にかけつけ、警官隊と対峙した。この時数十名の学生が、有刺鉄線を切り倒して基地内に突入した。「米軍基地内に初めて日本人が公然と突入した」と気勢をあげた。基地への侵入は当然のことと考えていた都学連委員長だった土屋源太郎が指揮をとった。闘争を指導していた森田実・氏がデモ隊を基地外に出るよう指揮している。
機関銃を乗せた米軍ジープが2台現れ、司令官から基地内に入った者があれば射殺してよいと命令を受けていた。対峙は昼近くまで続き、国会議員や調達局(測量当事者)、警察と話し合った。「本日の測量は中止する。双方は同時に引き上げる。逮捕者は出さない」ということで闘いは終わった。
7.9日、砂川現地闘争。砂川基地拡張阻止大集会が社共統一行動として行われた。雨の中、全学連、反戦青年委員会も加わり12,000名が参集。この日も激しい市街戦となった。この頃の闘いから、反戦青年委員会が既成左翼や組合の無力さから独自に全学連との行動を重視するようになっていった。同時に、砂川闘争の党派間先陣争い的な競合がはじまった。
9.22日、先の戦いから2ケ月以上も経ったこの日、米軍立川基地突入者が逮捕され、労働者、学生23名が逮捕され、労働者4名、学生3名の7名が安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴された。土屋都学連委員長もその一人でした。砂川事件で起訴された7名の被告には総評弁護団中心に大勢の弁護団が結成された。被告側の主張は「安保条約に基づく米軍基地の駐留は日本国憲法第九条違反であり、基地侵入は無罪」という立場で、「この裁判は憲法裁判だ」として臨んだ。この事件は、59年3.30日東京地裁の判決(伊達裁判長)で、「米軍基地の存在そのものが憲法違反であり、基地への侵入は無罪である」という「伊達判決」が下されたことで画期的な意味を持った。
「伊達判決」の主旨は次の通リ。
米軍の日本駐留は軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため、自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならない。米軍の駐留が国連の機関による勧告または命令に基づいたものであれば、憲法第九条第一項項前段によって禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかし米軍は、米戦略上必要と判断した場合、わが国と直接関係ない武力紛争に巻き込まれる危険があり、駐留を許可したわが国政府は、政府の行為により、再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した日本国憲法の精神に悖る。わが国が、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容していることは、指揮権や軍出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項前段によって禁止されている戦力の保持に該当するものであり、結局わが国に駐留する米軍は、憲法上その存在を許すべからざるものと言わざるを得ない。米軍が憲法第九条に違反している以上、一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的理由は存在しない。軽犯罪法より重い刑事特別法第二条規定は、なん人も適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効である。 |
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7月、「日本トロツキスト連盟」を結成した中心人物の3名のうち、内田英世は太田との対立で組織を離脱。
8.6日、第3回原水爆禁止世界大会が開かれた。全学連は第一回原水禁世界大会以来、常にこの運動の先頭になって取り組んできたが、今回も精力的に活動を強めた。400名の学生が参加した。この時党中央は、統一行動の一致点を求めるためという名目での幅広主義による穏和化指導をなそうとした。全学連はこれに反発するアジ演説を為し、「無原則的な幅広論、単なるカンパ二ア主義に反対し筋を通さなければならない」と主張した。
8.27日、東海村原子力研究所に初めて"原子の火"点火。
8.28日、ソ連が大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功。
8.30−31日、反戦学同第十回全国委、第三次世界大戦の危機を強調した七・八月危機説″を自己批判。
【共産党の「日本共産党党章草案」が発表される】 |
9月、正式に「日本共産党党章草案」が発表された。日共14中総が開催され、「党章草案」が採択された。その骨子は次のようなものであった。
「日本は高度に発達した資本主義でありながら、米帝国主義に半ば占領された半従属国であり、当面の革命は民族の完全独立、民主主義擁護のための人民民主主義であり、これを社会主義革命に急速に発展させる」。 |
党内討論が開始され、東京都委員会はまっさきに反対決議を出している。「党章草案」が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判し、草案に反対の態度を示した。但し、この時の文面から見ると、構造改革論に近い見地から批判しているようである。構改派は、党章草案の対米従属−民族独立民主革命(民民路線)に対して、反独占=社会主義革命を対置した。構改派の観点について、蔵田計成氏は次のように評している。
「だが、この構改派路線は、日帝自立論に立ちながらも、革命論としては平和共存を基調とするフルシチョフ路線の延長にあり、プロ独否定の議会主議平和革命論だった。その限りで、党章=民民派とこの反党章=構改派の間には絶対的矛盾は存在しなかった。同時に、この両者の共通点のなかにこそ、彼らが、プロ独=世界革命を掲げて登場しつつあった革命的左翼にたいして、共同の敵対党派として立ち向う論理的必然性があった
」。 |
東京都委員会は同時に「党章草案」の中に含まれている規約草案 に対しても、これは「党内民主主義の拡大ではなくて縮小」であり、「中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大」であると批判した。こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で一ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。
綱領論争は、学生戦線でもっとも鋭く問われた。なぜなら、学生運動が党中央指導によって激しく打撃を受けてきたからであった。
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9.1−3日、全学連第十三回中央委〔中央労政会館〕、原水爆実験禁止協定実現のための行動を提起、九・一七、一一・一統一行動を決定。
9.17日、原子戦争準備反対・原水爆実験禁止協定即時無条件締結要求全日本学生総決起デー、全国28都市7万人参加。9.18日、香山全学連委員長ら代表、警視庁当局と会見、不当弾圧抗議、釈放要求(20日釈放)。
9.20日、国産ロケット第1号の発射成功。
【第三次砂川闘争中段、基地突入学生が逮捕される】 |
9.22日、警視庁は、「さる6.27日−26日の砂川町の基地測量にあたり、基地内に立ち入って妨害した」という理由で、23名の学生.労働者を逮捕した。この逮捕は、日米行政協定に基づく刑事特別法第2条によるものであった。全学連小野寺書記長、土屋都学連委員長等9名の学生、労働者14名が逮捕され起訴された。この事件は、後に東京地裁の判決(伊達判決)で、「米軍基地の存在そのものが憲法違反であり、基地への侵入は無罪である」という「伊達判決」が下されたことで画期的な意味を持つことになった。
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【第三次砂川闘争後段、抗議闘争激化する】 |
全学連は直ちに行動を起こし、200名の学生が国鉄新橋の労働者とともに、警視庁に押しかけ抗議した。深夜に全学連拡大中執が開かれ、全国的な闘争を組織することを決定した。9.23日、全学連、砂川闘争関係者逮捕に25日第一波、28日第二波抗議行動を決定し、連日警視庁に抗議デモを仕掛ける。
9.25日、全学連2300名の抗議デモが組織された。2000名の武装警官隊がこれを襲撃し、2名を検束、十数名に重軽傷を負わせた。しかし、全学連は闘争の鉾を納めず、26日、27日と立て続けに警視庁への抗議デモを組織し労組とともに主要駅で真相報告とカンパ活動を展開している。
9.28日、原水爆実験反対・砂川不当弾圧反対国民大会〔日比谷〕に学生を含め一万名参加、IUSのメッセージ届く、京都・大阪・九州でも学生・労働者が決起。
9.27日、京都でも3千名の学生の決起大会、市内デモが行われ、この日に京都を訪れていた岸首相を手厚く歓迎している。
9.28日、全学連第二波の決起行動。 9.28日、不当弾圧抗議が組織され、広汎な抗議闘争が組まれた。日比谷で全学連.総評.基地農民.原水協.社共両党による1万余の国民大会が開かれ、弾圧に抗議している。
9.29日、全学連緊急拡大中執委が、逮捕者全員釈放に勝利の一歩と声明、11.1総決起を呼びかける。
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10.4日、ソ連が世界最初の人工衛星スプートニク1号を軌道に乗せることに成功。
10.5日、香山全学連委員長、IUSの要請で国際統一行動のためAA諸国オルグ活動に出発。
10.18−19日、全学連第八回拡大中執委、一一・一国際統一行動スローガン等を決定。
10.21−27日、学園創立75周年記念の早稲田祭 。
10.28日、早大の吉村一政、岩崎二文、高木一理各部長が国連に核実験反対を訴える。
【日本トロツキズム運動のその後の流れ】 |
10月頃、黒田寛一を中心に学生.労働者.インテリ層で「弁証法研究会」がつくられその機関誌「探求」が発行された。
トロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐってゴタゴタした対立を見せていくことになる。黒寛や西京司とトロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす太田竜(栗原登一)らで「日本トロツキスト連盟」とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。この流れが後に「日本革命的共産主義者同盟」となっていった。(日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロツキスト連盟→12.1日、日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していく)。
この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。「加入戦術」と
は、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。
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(私論.私観) トロツキズム誕生の観方について |
新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、れんだいこは、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい。日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが。
このグループの特長として理論闘争を重視するということと、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロツキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに
幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められると思われる。ところが、わが国で始まったトロツキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。あるいは、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面が認められる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。 |
【「ジグザグ.デモかバレードか」の対立発生】 |
11.1日、「ジグザグ.デモかバレードか」を廻って全学連内に対立が発生している。第3回原水爆禁止世界大会の決議に基づく国際共同行動デーとして、日本全国各地100ヶ所で集会.デモが行われ、その参加者は約80万と云われたが、全学連は81大学181自治会で十数万の学生が参加し、国会、米英ソ三国大使館に決議文手交、東京駅までデモ。この時、全学連中執内で対立が発生した。全学連多数派のジグザグ.デモ指揮に対して、一部の学生自治会はこれを拒否した。全学連中執は、「階級的裏切り行為」、「分裂行動」であるとしてこれを激しく非難した。責任追及は2名の中執(早大.神戸大)に及び罷免した。
この頃、全学連指導部内には、「現在の情勢はアメリカ帝国主義の核戦争体制が一層強化され国際緊張は激化しつつある。従って、これに対しては激烈な形態で闘争しなければならない」という多数派と、「社会主義勢力の強化によって国際緊張は緩和しつつあり、従って大衆運動は幅広くしなければならない」という少数派の対立が発生していた。こうした認識の違いが行動方針にも反映し、「ジグザグ.デモかバレードか」、「ストライキか授業放棄か」という対立まで引き起こしていた。この穏和化路線を宮顕系党中央が指導していた。
「11月の国際行動デーに際し、共産党本部はジグザグ.デモはしない方針をたてた。ところが、全学連はこれをけってジグザグ.デモをしたが、‐‐‐高野派(早稲田大学グループ)は『大衆と共に闘うために』というので、パレード方式をとり、高野君はオープンから指揮をとって、のどかに風船デモをやった」(57.11.14日「読売新聞解説」)。 |
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(私論.私見) ジグザグ.デモまで規制する宮顕路線考 |
全学連指導部はジグザグ.デモを指揮し、宮顕系日共がどういう意図に拠ってかこれを止めさせようとする。ここに、全学連運動を右翼的指導で統制しようとする宮顕の「ジグザグ.デモ規制指導」がここに刻印されている。してみれば、その後の民青同系の穏和式バレードデモは必然の産物であったことになる。 |
11.6日、全学連が、スエズ問題に関して英仏の軍事行動停止を要求、エジプト政府とカイロ大学生を激励する声明発表。
11.13日、全学連第14回拡大中委が開かれ、11.1行動を中心とする核実験反対闘争を総括するとともに、「右翼反対派」の中執委員2名(清本、赤碕の早大・神戸大コンビ)、中委(福島大)を解任した。当時の「右翼反対派」は、「ストではなく授業放棄を」、「ジグザグデモではなくパレードを」と主張し、執拗に内部対立を煽っていたのが原因であった。砂川闘争以来の主流・反主流の対立が表面化した。
11.15日、全学連中央委参加自治会、授業料値上げ反対対策会議開催、値上げ反対闘争の全国化等を決定。
11.15−17日、全学連第十二回全国委、全学連の情宣部門担当と平和擁護闘争方針を明確化。
11.16日、全学連代表、勤評闘争の共闘で日教組書記長と会談、一二・四学生総決起大会に協力を要請。
11.22−23日、日共全国学校細胞代表者会議、党中央作成の運動方針を”学生に対する無方針と偏見”と批判・否決。
11.24−25日、全国自治会代表者会議〔浅草公会堂〕、ハンガリー問題を討議、国鉄理事会案撤回等を決議、12.5全国総決起を呼びかける。
11月、「反戦旗情報」復刊第1号(反戦学同全国執行委員会教宣部責任編集・執筆:中村光男、清水丈夫、武田秀郎)。12月、「反戦旗情報」復刊第2号(執筆:鈴木啓一、杉田信雄、中村光男ほか)。
11.23−25日、反戦学同第3回全国大会〔中央労政会館〕、世界民青連加盟を決議、正式に・七八月危機説″の自己批判採択。「反戦学同書記局細胞意見書」が提起され、11.1原水爆禁止国際統一行動デーを巡る対日共中央批判を開始する。同盟組織百二支部約千名と発表。全国102支部、同盟員数約1千名。高校生が増加する。組織部長・多田靖、島田、小西、石田、香村、井上らが指導部に就任する。
11.30日、全学連緊急中執委が、11・1闘争処分反対、12.4勤評反対、12.6沖縄弾圧反対闘争を決定。
11月、モスクワで社会主義革命40周年祝典。志賀,蔵原.初の国際会議出席。
【日本革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生】 |
12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、
全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。
但し、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたという
ことかも知れぬ。 |
12.4日、全学連・全教学協共催で「勤評反対・民主教育擁護」闘争が行われ、全国の教育系学生5万が各地で集会を開催し、東京の中央集会〔日比谷野音〕では1000名の学生が参加し文部省・都庁に抗議デモ。
12.6日、米軍の沖縄不当弾圧反対全国学生総決起大会、中央集会〔清水谷公園〕に東大教養を初め2500名参加、米大使館に抗議文手交、新橋までのデモで3名逮捕、全国8カ所で集会・デモ。
12.10日、伊豆天城山で元満州国皇帝薄儀の姪・愛新覚羅慧生と学習院大級友の心中死体発見。
12.15日、「全学連通信」第三十一号をもって休刊、新年度より理論機関誌発行と発表。
12.17−18日、全学連拡大中執委、沖縄那覇市長選で民連推薦の兼次候補支持、勤評反対闘争強化等を決定。
12.20日、全国教育委員長協議会「勤務評定試案」を承認。12.22日、日教組が勤務評定反対闘争の「非常事態」宣言。
12.24日、NHK、FM放送を開始。12.28日、NHK・日本テレビ、カラーテレビ実験放送開始。
【ブント旗揚げの謀議】 |
自主的に再建された全学連はこの頃党派性を強めていくことになった。 革共同の結成は、日共学生党員グループの急進主義派を刺激した。
12月、全学連主流派の最高指導部となっていた島、生田、佐伯秀光(東大数学科の大学院学生)の三名は、宮顕系日共の右派的引き回しから決別し、独自の党派性を強めつつあったこの頃、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。
党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。この僅か3名のスタートが翌年のブント結成の萌芽となった。「ブントの夜明け前」の動きということになる。
この時のことを島氏は後年次のように追想している。
「既に、『スターリン主義』が単なる一思想ではなくソ連という強大な国家意思の実現と、その物質化されたものとの認識に到達した限り、『スターリン主義』日共は最早変え得る存在ではなく、打倒すべき対象であり、欲するところは、これに代わる新しき前衛の創設である。この立場に立った生田は、密かに、しかし容易ならぬ決意を持って『新しき前衛』の準備に着手した。1957年の暮れの或る日、この合議のため生田と私、そしてSが会した場所こそ、9年後、生田の灰を迎えねばならなかったあの横浜の寺の一隅であった。
一方、党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最も年少の代議員の一人になったのだ」(「生田夫妻追悼記念文集」の島氏の追悼文)。 |
彼らは、日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本が貪るように読まれて
いくことになった。島・氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。
「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」。 |
日経の「私の履歴書の青木昌彦編の2007.103日付けbRの「3人の先輩」は次のように記している。
「1956年の東大入学時、私は歴史学者を目指していた。だから入学と同時に、駒場の時計台建物の中にあった歴史研究会の部室に出入りし始めた。まだマルクス主義が圧倒的に知識人・学生を引きつけ、中でも歴史学がいわば磁場の地位にあった時代だ。
部室には、角帽の時代の雰囲気を残した痩身、長髪で圧倒的なカリスマ性を発散させる先輩が居た。50年の反レッドパージ学生運動時に孝行退学になって大検で東大へ進み、後の大学紛争時などでは名大、東大の哲学教授として学生運動に大きな影響を与えることになる、広松渉だ。
彼に大学生協でコーヒーに誘われた。何事か、といぶかると、『日本共産党はもうだめだ。東大細胞でもう一度本当のマルクス主義を復活させる。参加しないか』と言う。まだ18歳の若者にとっては、思いもかけない話であるが、抗しがたい魅力もあった。その後の人生行路の方角を定める出会いとなった。
56年には学生運動が再び上げ潮に乗り始めていた。日本共産党が大学細胞を通じて学生運動を主導するのではなく、学生が自ら主体的に運動を起こす時代の始まりだ。
当時の東大細胞には秀才、俊才、異才がキラ星のように結集していた。中でも生田浩二という、その後、早すぎる死に至るまで人生行路を共にすることになる男も居た。鼻までずり落ちる眼鏡を押えながら訥々として人を説得するその人柄には誰もが信頼を寄せる趣があった。
彼に誘われて横浜にあるお寺の家に、数学科の大学院学生だった佐伯秀光に会いに行った。佐伯は山口一理というペンネームで、東大細胞の機関誌に衝撃的な論文を書き、運動家の間では神格的な存在だった。日本の左翼運動がおかしいのは、単に日本共産党のせいではなく、本家のソ連がそもそも共産主義運動を裏切ったからだという。目から鱗が落ちる、とはこういうことだ。
薄暗い庫裏で我々はトロツキーについて語り合った。ロシア革命の指導者の一人であるのに、政敵スターリンに追われてメキシコで暗殺された人物だ。トロツキーからは国際共産主義の過ちを学んだが、彼のエピゴーネンたちによる第四インターへの執拗な誘いには我々は応じなかった。佐伯は後に、カナダで数学教授になった」。 |
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(私論.私観) ブント結成前夜の動きについて |
田川和夫氏は「日本共産党史」の中で次のように、ブント結成前夜の背景を語っている。
「自らの主体的実践の中から、それに基づく理論的探求をとおして、見事に、20世紀の魔法たるスターリン主義の呪縛から自らを解放すことに成功した学生達は、もはや、マルクスによって創始された、革命的理論とその思想、彼ら自身が身をもって闘う革命的実践、そしてプロレタリアートの解放による人間の窮極の開放に対する希求と熱情以外に、如何なる権威も認めなかった。
彼らは、躊躇することなく、ながらく共産党指導部によって、ベールを被されていたマルクス主義、その革命的理論そのももの摂取に突進した。そして、マルクスの人間開放の革命的思想と理論、その主体的な哲学と情熱と実践、資本主義社会の巨大なメカニズムの透徹した分析、『一国社会主義』論と不可分に結びついた二段階革命論に対置さるべき、全世界にわたるプロレタリア永久革命に関する革命的理論、現在のロシア・ソビエト社会を『社会主義』と称する社会主義そのものの矮小化と官僚擁護の理論に対置さるべき、マルクスによって、はじめて提起された共産主義社会の壮大な展望等々を学び取る努力を開始した。
全てこれらのことは、1957年も押し詰まった頃から1958年にかけて、はじめはたどたどしく、後には爆発的な形をとって行われた。学生達が、57年の11.1原子戦争準備反対国際統一行動、砂川の第二次調査反対と不当逮捕反対闘争から、58年のあの熾烈な勤評闘争から警職法反対闘争にいたる、日本ブルジョアジーとの正面からの対決の開始という段階へ前進してゆく、騒然たる中で、これらの理論的転換がはかられつつあったのである」。 |
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【ブントの夜明け、最初のケルン】 |
「島・生田・佐伯の3名の秘密会議」は次のメンバーを獲得し、これが後のブントの核となった。東大細胞の生田浩二、佐伯秀光、冨岡倍雄、青木昌彦。早大細胞の片山○夫、小泉修一ら。関西の星宮等々。彼らは、日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなる。但し、星宮は二股であったようである。
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【山口一理論文の衝撃】 |
この最初期ブントが、レーニン・トロツキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。山口一理(佐伯のペンネーム)の論文
「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと言われている)と生田論文「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。
この「山口一理論文」は、かなり長大な文面で、ロシア革命以後の国際共産主義運動の展開を俯瞰した上で総括し、その上で日本共産党の運動をも系統的に批判的総括すると云うスケールの大きな議論を展開していた。
宮顕が定式化し始めていた「まずはブルジョワ民主主義革命の遂行と云う二段階革命論」を否定し、日本に於ける革命運動の世界史的意義を「世界革命への最先端を担う」と指針させていた。その上で次のように述べている。
「『敵は優勢、味方は劣勢』という空虚なスローガンによってズブズブの大衆追随主義に革命部隊を封じ込め、抽象的な『平和と民主主義』のスローガンによって、プロレタリアートの前衛的部隊を武装解除させてしまったのであった」。 |
山口論文は、宮顕主導の右翼的党運動に対する鋭角的なアンチの観点となった。この論文が、全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。この山口論文の延長上に姫岡玲治(青木昌彦)、竹中明夫(小川登)らがブント機関誌「共産主義」に次々と論文を発表し、それがブント理論となつて行くことになる。この時点では「山口一理論文」が理論的な武器になり、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。
この論文が果たした決定的役割について、蔵田計成氏は次のように述べている。
「当時、革共同はこの山口論文を『トロツキ―のノリカミ細工』、『ブント裏切り史観の原典』と酷評した。しかし、この論文が果たした役割は決定的であった。この論文は日共党内論争のワクをはみだす重要な内容をふくんでいたのである。その表裏にある『プロレタリア世界革命万才!』という禁句のスロ―ガンに示されているように、論文はそれ自体が、階級闘争を直接媒介にして展開された日共党内闘争の歴史的産物であるとともに、党内闘争にひとつの方向性と結集軸を与えるための、来たるべき党派闘争に賭ける宣言であり、これは東大細胞の内外に巨大な反響をまきおこした。
論文は、第一に、忘れ去られた世界革命を復権させるために、ロシア革命以後の国際共産主義運動史を全面的に洗い直し、党内の右翼的諸潮流を批判し、第二に、反革命の代名詞とされたトロツキ―にすら学んで、スターリン教科書の『10月革命の伝説』を打ち砕き、レーニンの革命的指導の精髄を学び、『ボリシェヴィキ党の正しい戦闘的伝統を再建』することを呼びかけ、第三に・ロシア・ボリシェヴィキ戦術に関する党内闘争の歴史的教訓を学ぶことによって、来たるべき党内闘争に備えようとした。
また、論文は党中枢部で大まじめに演じられていた綱領論争にたいして『民主主義革命か社会主義革命か、いやむしろ構造改良か、という論議が大衆闘争よりもはるかにはなばなしく行なわれている』として、その転倒した綱領論争の不毛性を厳しく批判して、革命運動における日共党内闘争にたいする基準と立場性を示した」。 |
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【「戦後革命論争史・上下2巻」発売される】
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この頃、上田耕一郎名義で「戦後革命論争史上下2巻」が大月書店から刊行された。同書は当時の左派運動圏からの反応がよく、上田・不破兄弟登竜の足掛かりとなった点で大きな意味を持つ。ところが、上田・不破両氏はその後絶版を指示して今日に至っている。これにつき、安東氏は、「上田は惜しむらくはこの名著を現在まで絶版にしたままである。公認の党史と矛盾、撞着する論述もさることながら、おそらく巻末の日本革命論が現綱領と相容れないためであろう」と指摘している。
ところが、最近判明したことは、上田と不破がこの労作を書き上げたとされてきたが、実際は違うようである。「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯の裏話し(真相)について、宮地氏のホームページの爆弾内容」を紹介する。
石堂清倫氏と宮地氏の間に交わされた手紙3通と書評によれば、「戦後革命論争史上下2巻」出版経緯について次のように明らかにされている。 石堂氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の出版と廃刊の経緯を知らない人が多いようですから一筆しておきますとして、以下のように述べている。れんだいこが意訳して概要を整理した。詳しくは宮地健一サイト「共産党問題、社会主義問題を考える」で確認ください。
「運動史研究」14巻(48〜49頁)にも触れていますが、あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を世に送り出したものです。一同が五〇年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論が続きました。その頃はまだ無名時代の上田耕一郎が筆録しましたが、内野以下五名は50年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。討論の成果を内野君がまとめ、内野の名義で出版するはずのものでした。
ところが、内野が超遅筆で一向に進捗しないので、待ちきれない大月書店がやかましく言い始めました。代わってまとめようにもそれぞれの者も時間がなく、窮余の一策として上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申し出、一同それもよかろうと承諾したのが実際の経過です。
こうして、討論を筆記してきた上田君が内野君に代わって執筆することになったのでした。『戦後革命論争史』の出版事情はこの通りです。あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田君が持っているわけはなく、内野以下五名が持っていたものを提供しています。もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくはない。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして「私的」のものではない。
こうして『戦後革命論争史』が1956年12月と翌年1月に出版されました。これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。そんな関係で上田の結婚パーティも、内野はじめ全員が出ています。この経過について、宮本は敵意を抱いていたかもしれませんが、蔵原は理解を示していました。私が「現代の理論」に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです。
ところが、その後の経緯は不明ですが、上田はその後内野グループから離脱し、宮本派に鞍がえをしてしまいます。その後宮本レジムの政治局員にまで昇進しました。宮本君は『戦後革命論争史』に対して最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、兄弟を自己批判させ、『戦後革命論争史』絶版を迫りました。そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すべきだったのですが、まるで自己の著作であるかのように絶版措置をとりました。著作家としての名声に未練があったからでないかと想像します。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきでしょう。まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があります。
付言すれば、党の丸山真男批判の意味は、丸山理論によって党の「神話」が吹っとぶことを、宮本君は直感したし、そのことによって批判キャンペーンが為されている気がします。
最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。マルクス、とくにレーニンの誤りなどと、彼の言うのは、見当違いです。最近、ロシアで、1891年〜1922年のレーニンの“知られざる著作”が刊行されました。“知られざる”というよりは、公表をはばかってきた著作というべきで、しかもその全部とは到底言えないものですが、今回公表された420点の文献を、成心なく読んだ方がよかろうと思います。レーニンは、いろいろ間違いもやり、ヘマも犯していますが、何も後来の宮本や不破を免罪するために行動した人物でないことを知るべきです。
2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。こんな“虫のいい”限定相続をやっているようでは、“何一つ学ばず、何一つ忘れなかった”人間の標本にされそうです。現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場があります。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論でありますが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのでしょうか。
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(私見・私論) 「『戦後革命論争史』の出版と絶版経過に見られる上田の人間的資質」について |
石堂氏は左派インテリという格調からであろうが、淡々と事実だけをメッセージしている。これをれんだいこ流に分かりやすく翻訳するとこうなる。上田は、石堂氏ら5名の先輩党員の業績を剽窃して弟不破との共著として「戦後革命論争史」を世に喧伝してきた。本来であれば、後書きで出版経過を報告すべきところを意図的にはしょっている。つまり、トンビの油揚げないしは手柄の横取りをしていることになる。この本の評価は高く、各界から上田・不破の声名を高めることになった。最高指導者宮顕が特に好むタイプであるということであろうか、その後両名は宮顕の懐に入り込み出世階段を上り詰めていき今日の地位にある。
だがしかし、こういう手合いの出世主義人士が党中央に君臨しているということ自体恥ずべきことである。やはりこのラインは入る党を間違えている気がしてならない。
『戦後革命論争史』にまつわる裏話。 投稿者:れんだいこ 5.26日 鹿児島事件掲示板 |
上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯の裏話し(真相)について、宮地氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」の爆弾内容をまとめてみました。宮地さんには事後報告でご了承願うつもりです。
石堂氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の出版と廃刊の経緯を知らない人が多いようですから一筆しておきますとして、本書の出版の経緯について次のように明らかにしています。れんだいこが意訳して概要を整理しました。
「運動史研究」にも触れていますが、あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を元にしています。一同が50年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論が続きました。その頃はまだ無名時代の上田耕一郎が筆録しましたが、内野以下五名は50年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。討論の成果を内野君がまとめ、内野の名義で出版するはずのものでした。
ところが、内野が超遅筆で一向に進捗しないので、待ちきれない大月書店がやかましく言い始めました。代わってまとめようにもそれぞれの者も時間がなく、窮余の一策として上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申し出、一同それもよかろうと承諾したのが実際の経過です。
こうして、討論を筆記してきた上田君が内野君に代わって執筆することになったのでした。『戦後革命論争史』の出版事情はこの通りです。あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田君が持っているわけはなく、内野以下五名が持っていたものを提供しています。もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくはない。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして「私的」のものではない。
こうして『戦後革命論争史』は1956年12月と翌年1月に出版されました。これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。私が「現代の理論」に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです。
ところが、その後の経緯は不明ですが、上田はその後内野グループから離脱し、宮本派に鞍がえをしてしまいます。その後宮本レジムの政治局員にまで昇進しました。宮本君は『戦後革命論争史』に対して最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、上田兄弟を自己批判させ、『戦後革命論争史』絶版を迫りました。そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すべきだったのですが、まるで自己の著作であるかのように絶版措置をとりました。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきでしょう。まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があります。
最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場があります。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論でありますが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのでしょうか。
以下、れんだいこ私見を添えておきます。石堂氏はインテリという格調からであろうが、淡々と事実だけをメッセージしている。これをれんだいこ流に分かりやすく翻訳するとこうなる。上田は、本来であれば、後書きで共著的出版経過を報告すべきところを意図的にはしょっている。つまり、トンビの油揚げないしは手柄の横取りをしていることになる。最高指導者宮本が特に好むタイプであるということであろうか、その後両名は宮顕の懐に入り込み出世階段を上り詰めていき今日の地位にある。だがしかし、こういう手合いの出世主義人士が党中央に君臨しているということ自体恥ずべきことではなかろうか。やはりこのラインは入る党を間違えている気がしてならない。 |
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【全学連の再建を廻る左右両派の抗争の捉え方考】 |
「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。
「砂川闘争から57年春のクリスマス島、エニウエトク環礁での水爆実験反対闘争、そして原水爆禁止世界大会、11.1日の原水爆禁止国際統一行動と、全学連の運動は57年いっぱい平和擁護闘争を展開していった。この57年いっぱいにわたって展開された平和擁護闘争は、その当時の日本の労働者人民の平和主義的気分に依拠し、かつまた、ソ連共産党20回大会路線としての平和共存路線にのっとり、この路線を促進させる運動として成立したのである。したがってこの日本の学生運動は平和共存路線の戦闘的な左の翼として位置していたといえよう」。 |
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(私論.私見) 「平和共存路線の戦闘的な左の翼として位置していた全学連運動」考 |
「日本革命的共産主義同盟小史」の指摘する「平和共存路線の戦闘的な左の翼として位置していた全学連運動」とは極めて複雑な表現であるが、的確でもある。しかし、その背景説明がデタラメであるのでれんだいこが訂正しておきたい。従来、この「複雑さ」の解析が為されておらず、次なるれんだいこ観点は傾聴に値するだろう。
共産党の「50年分裂」途上で発生した所感派と国際派のふたつの流れは、六全協でもって国際派の勝利に帰した。しかしながら、所感派と国際派はどちらが右派で左派であるのか識別し難いところに変調さがある。なぜこうした事になるのかというと、日共党中央の政変にダイレクトに関係しているからである。その震源地の核を為していた宮顕は、反徳球派活動の間中は左派に位置していた。この時全学連中央は宮顕派に位置していたのでその戦闘的左派性が利用された。ところが、レッド・パージ以降徳球党中央が中国へ密航し、北京機関を作り、海外から持ちかけた新路線は目をまがうばかりの左傾武装闘争路線であった。全学連内所感派はこの方針に従い、火炎びん闘争あるいは山岳根拠地闘争に突入した。ところが、所感派が左傾化すると今度は国際派が右傾化し始め、左右の立場が逆転する始末となった。この現象は、政治方針が党利党略ならぬ私利私略に基づいていることに拠るとしか考えられない。
そういう意味で、国際派の反戦平和闘争とは、所感派の武装闘争とは別軌道を意識させたかなり屈折した運動であることになる。しかも、その中に、後々の右派系潮流と左派系潮流が混在していた。問題は更にこれからややこしくなる。その徳球系所感派運動が破産させられ、19555年の六全協で宮廷革命式で宮顕一派が党中央に登壇するや、宮顕はそれまでの「左派性衣装」をかなぐり捨て手のひらを返した。露骨な右派系運動へ転換させ始めたのである。これにより国際派の面々は順応する者と抵抗する者の二派に分裂することになる。右派系は新党中央に帰順し党内の登竜門を駆け上がっていくことになった。左派系は日共運動に愛想を尽かし新左翼運動の創出を視野に入れていった。
19555年の六全協前後の全学連運動は、所感派の破産、国際派の流産という否定事象に沈んでいた。新党中央宮顕路線による全学連指導は、悪名高い「自治会サービス機関論」を持ち込み、戦闘的左翼としての全学連運動の伝統に対する破壊攻撃に出ていた。まずこれに立ち向かったのが日本トロツキズム運動であり、これに合流しなかった残された戦闘派がブント運動を創出していくことになる。この二派が新左翼運動と称せられるようになり、糸を織り成すようにしてその後の左派運動をリードしていくことになる。
2006.9.21日再編集 れんだいこ拝 |
【全学連中央を再び戦闘的左翼派が掌握する】 |
「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
この頃、学生活動家の政治意識は極めて尖鋭であった。全学連は50年分裂の痛手、六全協ショックを克服して政治的に安定し、組織拡大の気運がみなぎっていた。全学連の運動を支える活動家組織たる反戦学生同盟は正確な数字は不明であるが、少くとも二千名位は結集していたであろう。そして、各大学にはほとんど日共の学生細胞が組織されていた。その数も拠点大学では50名から100名は下らず、どんな大学でも10名位の日共産党員がいて自治会、AG、サークル等を指導していた。
学生活動家たちの「群をなす」政治化は同時にその内部での政治的分解の進行を伴っていた。8中委―9大会路線をもって再建された全学連も、57年の第二次砂川闘争の総括をめぐってまず最初の分解を経験する。砂川基地拡張阻止闘争は現地の反対同盟の戦闘的実力阻止路線とそれを担い包んで支援した全学連、東京地評、社会党の力によって勝利し、米軍と日本政府は拡張を中断しなければならなくなり、砂川闘争は勝利した基地闘争として歴史の金字塔をうちたてた。特に、この闘争のなかでの学生たちの戦闘的で献身的な闘いぶりは日本国中に知れ渡り、全学連の名を一挙にたかめることとなった。
勝利の要因の評価をめぐり、残留書記局派と現地指導部派の対立が発生した。残留書記局派は宮顕が采配し始めた日共党中央の総括に則り、全学連運動を穏和的平和擁護運動に従属せしめようと主張し始め、現地指導部は「労農学」共同による政治的勝利の経験を更に強めようと総括した。当初は党中央派―全学連書記局派が主流派であったが、この日和見主義部分はすぐに少数派に転落し砂川の現地闘争を担ったグループが全学連の主流を形成することになる。こうして、60年当時の全自連にまで連らなる全学連反主流派が早大、教育大、神戸大などを拠点にして形成されるいっぽう、主流派は東大を中心に数的には圧倒的多数で全学連のヘゲモニーを掌握し、ここにいわゆる全学連主流派が形成された。
全学連主流派は11.1闘争の総括をめぐってその内部に政治的分解をつくりはじめた。戦闘的翼は、平和擁護運動を戦闘的に闘争したとしても、情勢と歯み合わないという気分を募らせ始めた。さらに、日共の綱領論争とからんでスターリニズムへの不信をいっそうつのらせていった。戦闘的翼は、平和共存路線そのものがスターリニズムの枠内にあることを気づき始めた。
しかし、決定的に主体的に学生たちをして平和共存路線から離反させた力は、JRの学生たちへの介入であった。西京司が57年の初頭、日本トロツキスト連盟の存在を知って連絡をとり連盟に加入し、京都でトロツキスト運動を開始していた。西は、日共党内において行動を共にしてきた岡谷進を連盟に加入させ、このことによって京都の地に最初のトロツキストの核を形成した。西は共産党京都府委員会の府委員となって学対部長のポストに就き、ちょうど57年の平和擁護闘争が盛んなころ、京部府学連の指導メンバーと接触した。西は学生党員たちに対して真向うから平和共存反対の論争を仕掛けた。日共理論を盲信していた学生指導メンバーは、西の理論によって平和共存理論が完膚なきまでに粉砕されてしまうのを経験して、次第に西の主張の正しさを認めるようになっていった。
当時、京都の学生運動の指導部で全学連中執の星宮がまずはじめに西、岡谷の工作によってトロツキズムに獲得された。星宮は学生メンバーのなかで最古参であり、関西の学生運動を代表していたので、星宮の獲得はトロツキズム運動において決定的に重要な意味をもった。星宮は出身の立命館大学の共産党細胞の中に次第にトロツキズムの影響を拡大していき、寺岡らその中心メンバーをトロツキズムに獲得していった。かくて、57.12月の細胞総会では、11.1の総括をめぐって平和共存派と論争し、平和共存反対の決議を支持するものが多数を制した。
立命館大学学生細胞の平和共存反対の決議は全国的にも先頭を切ったフルシチョフ路線への公然たる反乱の突破口であった。平和共存路線はスターリン死後のフルシチョフが代表した新たなスターリニズム官僚体制の総路線の中心軸であった。従って、日共学生党員がこの平和共存路線に公然と反対したことは、学生たちの非スターリン化を質的に飛躍させたことを意味した。日共の綱領論争の次元では対立は未だ一国主義のコップの中の対立であった。それが平和共存反対によってスターリニズム批判を国際的次元で展開する端初についたことになる。
JRの介入はまずこのようにして、学生運動の指導メンバーがつき当っていた平和共存路線への疑問に対して、階級的、革命的立場からの批判として遂行され、京都においてはその成果が確認された。立命館の決議を突破口として、京都、大阪で西、岡谷、星宮らの討論の洗礼を受けた学生活動家たちは、自分たちが卒先して推進してきた戦闘的平和共存のための運動を自己批判的に総括していくことによってトロツキズムに接近した。
この傾向はJRの介入が具体的に成功した関西だけにとどまらず、各地方学連において共通して見られる現象であった。各地方学連と拠点自治会の指導メンバーは実践を通してもっとも深刻に平和擁護路線の壁に直面していた。平和共存に対する根底的な批判を通してスターリニズムからの離反を開始し得る条件が客観的に醸成されていった。
しかしこのときの学生メンバーのスターリニズムからの離反は決して一様になしとげられたわけではない。そこには内部でいくつかの政治傾向に分解するという現象が発生した。この分解を具体的に東京の例でみると、四つのグループをつくりあげていった。
1 |
全学連書記局グループ |
香山、森田ら。このグループは最後まで平和共存路線に執着した右派であった。ちなみにかれらは60年安保闘争後、見事な転向をとげていくことになる。 |
2 |
東大共産党細胞の指導部 |
島、生田、富岡、山口一理ら。このグループは全学連運動の“陰の最高指導部”でありかつブントが結成されたときの指導部を形成する。このグループは全学連主流派を総体として代表していた。かつまた、学生活動家がスターリニズムから離脱するための思想的、理論的イニシアチブもここから生れてきていた。 |
3 |
東大駒場グループ |
青木、清水ら。本郷の指導部より一段若い層であり、60年安保において全学連とブントを牛耳りJRに対するもっともセクト的イニシァチブをとっていくのである。 |
4 |
都学連グループ |
塩川、鬼塚、土屋ら。香山、森田ら平和共存派をもっとも強く批判し、東京都学連に依り、最左派に位置していた。 |
西、岡谷の指導のもとに星宮はこの分解状況を利用して各地区の指導的メンバーをトロツキズムへ獲得する工作をすすめた。東京の塩川、鬼塚、土屋ら、東北の今野らはこうした関西の星宮からの工作によってトロツキズムに接近していった。58.5月の全学連第11回大会頃には、JR系のグループが形成されだした。 |
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これより後は、「第5期その1、新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。



(私論.私見)