「戦後学生運動7、70年安保闘争以降概略」

 (最新見直し2008.5.18日)

【「戦後学生運動7、70年安保闘争以降概略の概略」】
 いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えていた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入まで見せた「60年安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数のみ誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評されたが、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。
(詳細は「戦後学生運動史第9期その1」(gakuseiundo/history/history9_1.htm)に記す)

 70年以前−以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノンポリと言われる一般学生が主流となった。一般学生は従来時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなっていた。学生運動活動家が一部特定化させられ、この両者の交流が認められなくなった。

 その原因は色々考えられるが、ここまで顧みてきたように新左翼左派運動の稚拙さが食傷され、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってネオ・シオニズムイデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は「一触即発的全般的危機に陥っている」と云われ続けながらも、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになったという背景事情もある。

 私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。

 反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。

 一つは、革マル派を仕掛け人とする党派間ゲバルト−テロの発生である。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。

 2008.1.10日 れんだいこ拝


第7史の第1期

1970年以降 赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件発生
 3.31日、赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。この事件を検証する。

 赤軍派は、国内での非合法闘争の後方基地(国外亡命基地)としての海外のベースが必要であるとする「国際根拠地論」に基づき、海外にメンバーを送り込む計画を立てていたが、3.15日、議長の塩見孝也が逮捕され、田宮高麿をリーダーとするグループが決行した。

 羽田空港発板付空港行きの日本航空351便(ボーイング727-89型機、愛称「よど号」)に搭乗し、午前7時33分、富士山上空を飛行中にハイジャックし、石田真二機長と江崎悌一副操縦士に北朝鮮の平壌に向かうよう要求した。


 機長は、「運行しているのは国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」として犯人グループを説得した。午前8時59分、板付空港に着陸した。警察と自衛隊の投降工作が行われたが、人質を盾にする犯人グループは応ぜず、女性と子供、病人と高齢者を含む人質23名を解放したものの強く北朝鮮行きを迫った。

 
午後1時59分、よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。北緯38度線を越えたところで「こちら平壌進入管制」という無線が入る。機体は誘導に従う形で左旋回し、再び北緯38度線を跨いで南下した。午後3時16分、同機は平壌国際空港と表示された韓国のソウル近郊にある金浦国際空港に着陸した。

 韓国兵が北朝鮮兵の服装をして、女性兵士が「平壌到着歓迎」のプラカードを掲げるなどの偽装工作を行っていた。
犯人グループは、機体に近づいてきた男性に「ここはピョンヤン(平壌)か」と尋ね、その他質問で確認した。男性は「ピョンヤンだ」と答えたが、金日成の大きな写真を持ってくるように要求したところ用意できなかった。犯人グループは偽装工作を確信し、即座に離陸させるように要求した。しかし、停止したエンジンを再始動するにはスターター(補助始動機)が必要であったが、韓国当局が機材供与を拒否した為、飛び立つことができず膠着状態に陥った。

 犯人グループは当初強硬な態度であったが、やがて交渉に応じ、食料等の差し入れが行なわれた。よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て、機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた紙コップをコクピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置を掴むことが出来た為、韓国当局はこの情報を元に特殊部隊による突入も検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。

 日本政府は、ソビエト連邦や国際赤十字社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を北朝鮮政府に要請した。これに対して北朝鮮当局は「人道主義に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員及び乗客は直ちに送り返す」と発表し、朝鮮赤十字会も同様の見解を示した。だが、韓国は、前年に発生した大韓航空機YS-11ハイジャック事件の乗員と乗客がこの時点で解放されていなかったこともあり、よど号をその二の舞として人質の解放がなされないままに北朝鮮に向わせる事を容認しなかった。

 日本政府は、犯人グループが乗員を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。なお、よど号には日本人以外の外国籍の乗客としてアメリカ人も2人搭乗しており、北朝鮮に渡った場合、「敵国人」であるアメリカ人が日本人に比べて過酷な扱いを受ける事を懸念して、アメリカ政府が善処を求めている。

 その後、橋本登美三郎運輸大臣も1日午後にソウルへ向かい、金山駐韓特命全権大使らとともに韓国当局との調整に当たった。4.3日、交渉の末、韓国に渡って交渉を行っていた山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとなることで決着。犯人側より山村政務次官が本物かどうかを証明するために、犯人の1人から日本社会党の阿部助哉衆議院議員に人物証明を行って欲しい旨の依頼があったため、4.2日、阿部議員がソウルに渡り、山村政務次官の人物証明を行った。

 犯人1名と山村が入れ替わる形で乗り込み、その間に乗客を解放し、最後に地上に降りていた犯人1名と最後の乗客1名がタラップ上で入れ替わる形で解放が行なわれた。また、乗員のうち客室乗務員も解放された。午後6時5分、よど号は金浦国際空港を離陸、犯人グループの要求通り北朝鮮に向かった。午後7時21分、着陸した。

 北朝鮮側は武装解除を求めた為、犯人グループは武器を置いて機外へ出た。武装解除により機内に残された日本刀、拳銃、爆弾などは、全て玩具や模造品であったことが後に判明する。よど号に乗っていた犯人グループ9名、乗員3名、人質の山村の計13名は北朝鮮当局によって身柄を拘束された。

 北朝鮮側は、よど号が到着した後、態度を硬化させ、「状況が変わった条件の下では乗員や機体の早期返還は保障出来ない」と発表。日本政府がなすべき事をせず、我々に問題を押し付けたとして非難した。また、犯人グループと乗務員、山村らには公開による尋問が行なわれ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。実際には、朝鮮料理の食事と個室が与えられた上で、映画鑑賞が用意されるなどのもてなしが提供された。

 4.4日、北朝鮮は、「人道主義的観点からとして機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に“飛行機を拉致してきた学生”に対し必要な調査と適切な措置を執るとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表した。山村運輸政務次官と運行乗務員はその後帰国したものの、犯人グループは亡命した。

 亡命者は次の通り。

田宮高麿  赤軍派軍事委員長。1995.11.30日、平壌で逝去。病死か変死かは不明。
小西隆裕  北朝鮮在住。国際手配中。
田中義三  1996.3月 カンボジアで拘束されてタイに移送(直接の嫌疑は偽造ドル所持及び使用、のち本件については無罪確定 偽札参照)。2000.6.27日、日本警察に引き渡され逮捕される。2003.6月、懲役12年の判決が確定、熊本刑務所に収監される。2006.11.22、肝臓癌のため大阪医療刑務所に移監。病状の悪化によって12.15日、は刑が執行停止され、千葉の病院に移送される。2007.1.1日、逝去。享年58。
魚本公博  北朝鮮在住。旧姓安部。国際手配中。
吉田金太郎  1985年、逝去?詳細不明(行方不明。強制収容所に送られた可能性大)。
岡本武  1988年、土砂崩れで日本人妻の福留貴美子と共に死去したと発表されているが未確認。日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件のメンバー岡本公三は弟。
若林盛亮  北朝鮮在住。国際手配中(バンド・裸のラリーズで活動していた)。
赤木志郎  北朝鮮在住。国際手配中。
柴田泰弘  1988.5.6日、逮捕。懲役5年の有罪判決を受け服役。1994年、満期出所。
 この事件は、現在まだ係争中ということで採り上げる。れんだいこは、よど号赤軍派の主義主張の是非はともかく、乗客を危めなかったことと、金浦空港偽装工作を見抜き目的通りに北朝鮮に向かったことを評価する。なお、当時のハト派政権が並々ならぬ配慮で根回しし、被害最小限に押えている手際をも高く評価する。

【補足(論評16)れんだいこがなぜ民青同に加入したか考】
 この頃、れんだいこは、自治会の諸闘争に参加しており、ある時の確か日比谷公園での座り込みの際にオルグられた。それまで誘われなかったのは多分異色であり臭いが違っていたのだろう。某先輩から誘われた時、凝縮した30秒の去来の内に了承した。以来、自治会活動家として、自分で言うのもなんだが8年在学しても良いと思うほどのめり込んだ。これについては「れんだいこがなぜ民青同に加入したか考」に記す。

1970年以降 70年安保闘争顛末

 3.14日 大阪万国博(EXP0'70)開会式。この頃カンボジアで内戦が起こり、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナム反戦闘争も混迷を深めることとなった。3.31日、日米安保条約自動継続の政府声明発表。

 3.31日、赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。

 4.8日、革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではなく、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、カンボジアに武器を援助していたことを認める。

 4.28日、沖縄デー。各地でデモ。10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。

 5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。

 6月、「反安保毎日デモ」が展開される。6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。

 6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集。逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。この時ML同盟は「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾し、組織は壊滅状態に陥った。


第7史の第2期

1970年以降 70年安保闘争余波

 6月のブント第七回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」と「叛旗派」に分裂した。「ML派」は、6月の反安保闘争で多数の逮捕者を出し、組織は壊滅的な影響を受け、混迷していくことになる。

 7.1日、共産党第11回党大会(初公開)。7.7日、ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4000名(うちべ平連550名)結集。7.17日、家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。7.23日、新潟地裁で反戦自衛官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。


1970年以降 中核派が革マル派活動家をリンチテロ致死せしめる

 8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏の死体が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。

 両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。

 この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日、中核派殲滅戦宣言、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人に残忍なテロを加え報復した。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。


1970年以降 三島由紀夫派のクーデター未遂事件

 11.25日、作家三島由紀夫氏らが市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動、割腹自殺。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。

 私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。決起文には次のように記されている。

 「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた」。
 「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」。

 この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろう、と思う。


1970年以降 【終わりに】

 70年安保闘争以降の諸闘争を追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。

 ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。

 他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と「お上」の能力の方が左翼より格段と勝れている神話化された現実があると思われる。

 問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の連衡戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。


【補足(論評17)統一戦線と共同戦線の識別考】
 ここまでの学生運動史を検証してみて気づいたことを書き留めておく。必要だった事は、統一戦線運動と共同戦線運動の識別ではなかっただろうか。理論が正しい場合には統一戦線運動は有効に機能する。そうでない場合には、主観的意思とは別に足かせ手かせでしかなくなるだろう。真に必要なのは、便宜的意味ではなく原理的な意味での共同戦線運動ではなかろうか。これについては「統一戦線と共同戦線の識別考」に記す。




(私論.私見)