【序文、日本左派運動内のもつれた糸を紐解く為に】

 思い起こせば筆者体験であるが、全共闘学生運動の華やかりし頃、70年安保闘争を控え、検挙に継ぐ検挙をものともせず、60年安保闘争に負けじとばかりの闘いの炎が猛り狂っていた。この頃の伝聞である。新参で入獄して来た活動家に対して獄中の活動家が放った言葉が、「革命はなったか」であった。云った本人は至極マジであった。これが面白おかしく伝えられていた。こういう逸話は捜すまでもなくゴマンとある。かの時代が終わったのは確かである。

 「きみまろ」ではないが「あれから30年」。余りにも情況が悪くなった。我が国の政治権力者の能力が格段に落ちている。大和民族史上未曾有の存亡危機であるというのに、与野党の政治運動全体が漫談化している。にも拘らず日本左派運動の先頭に立ってきた学生運動の灯がほぼ潰えている。仄聞するところ、中核派系の学生による法政大での闘争が聞こえる程度である。

 なぜこのようなことになってしまったのだろうか。政治運動のみならず政治評論さえ消えている。久しくまともな言及に出会ったためしがない。筆者は、「饒舌無内容、失語症時代」と規定している。この状況を打開する為に何をすれば良いのだろうか。かっての活動家なら均しく憂いているであろう。

 こういう問題意識は時空を飛ぶ。漸くかの時代の再検証の動きが始まっている。若松孝二監督が「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を制作し各地で上映されている。藤山顕一郎監督が、今日時点に於ける新旧学生運動家の結節組織である「9条改憲阻止の会」の面々の闘いを「We命尽きるまで」に編集し、これが大阪市淀川区の第7芸術劇場で上映されている。

 筆者は、この動きを奨励したい。できることならこれを契機に、学生運動史上の名場面を採掘したシリーズものを望みたい。特に採り上げるシーンは、戦後直後の勃興期の学生運動、1951年の血のメーデー、その直後からの山岳武装闘争、1955年以来の砂川闘争、警職法闘争、勤評闘争、原水禁運動、60年安保闘争、1967年の激動の7ヶ月の諸闘争、全共闘運動、その頂点としての東大安田砦攻防戦、よど号赤軍派事件、70年安保闘争、連合赤軍派事件、アラブ赤軍派事件、中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派間武装闘争、川口君虐殺糾弾早大闘争、三里塚闘争等々と続くフィルムを見てみたい。

 筆者は永らく待望している。風邪を引いたときのカンフル剤、気が滅入った時の元気剤として重用したいと思っている。しかし、これをどう描くかが肝腎であろう。筆者は、無条件的讃美も批判も相応しくないと思っている。願うらくは、過去そういう運動があったと云う実存的史実の確認と、今日時点でこれをどう評するべきかで生産的な議論を呼ぶような構成にして貰いたい。何なら筆者を雇って貰いたい。

 書籍では、この間それなりの回顧物が出版されてはいる。但し、今日時点に於いてはいずれも、それらの分析観点は既にステロタイプなものでしかない。失礼を顧みず云わせていただくなら、筆者の学生運動論が現われるまでの意義しか持ち合わせていないように思われる。筆者の学生運動論が公開されて以降は、これを塗り替えるものでなくては意義が減じよう。筆者には、そういう自負がある。これを契機に、関心者が共同テーブルに就くことを願う。互いに寿命のある身だからわだかまりなくそうしたいと思う。

 そういう折の2008年元旦、社会批評社の小西さんとネットメールで年賀挨拶を交わした。この時、「対話物語り学生運動史」の上宰を着想し、お盆の頃までに書き上げる旨表明した。小西さんは「期待する。でき上がったら原稿を送ってください」とエールしてくれた。さて、どう纏めるかということになった。

 筆者は既にネット上に「戦後学生運動考」をサイトアップしている。これを原資料として、要点整理のような形で纏めることもできる。これなら割合早くできる。しかし、既に書き上げているものを単にブック化するより、今までの書き付けを踏まえての新たな学生運動論を著してみたいと思った。そういう形でもう一汗掻きたいと思った。当初は盆の頃までにはできると思っていたが、大幅に遅れて今ようやくでき上がった。何せ難しいんだ実際にやるとなると。

 筆者は、学生運動論になぜ拘るのか。それは、僅かな期間といえども青春時代に掛け値なしの感性で没頭した生命が宿され、今も息づいているからであると思う。あの時、マルクス主義的な観点を得た。これは貴重であった。他方逆に、そのステンドグラス的メガネを掛けたことにより却って曇った面、失った面もあるような気がしている。マルクス主義的観点を受容したことにより社会に妙な拘りを持ち、停滞的ながらも日本社会が伝統的に愛育してきている善良なしきたりに盲目となり、それがその後の筆者の人生を妙に屈折ないしは半身構えにさせたかも知れないと思っている。

 その汚れを落としながら、必要なものは継承しつつ新たな観点を模索し続けているのが現在の筆者である。今もその途上にある。そういう風に形成されつつある筆者の思想観念、歴史観念を仮に「れんだいこ史観」と命名する。これによれば、既成の学生運動論もマルクス主義解説本も殆ど役に立たない。史実検証的なところは学ばせていただくことができるが、著者の評価的なくだりはバッサリ切り捨てるしかない。「れんだいこ史観」と市井の評者のそれはそれほど隔たっている。

 そういう新たな視点に基づく学生運動論を提起したいと思う。その成果として、端的に現在の日本左派運動の余りにもな逼塞情況に打開の道筋を生み出したい。筆者が見立てるところ、日本左派運動はもつれにもつれた糸で身動きできなくされており、筆者以外には誰も解けない気がする。これが本書執筆の理由となっている。大言壮語かどうか、それは読んでみてからのお楽しみにして欲しい。
 ところで、2009年の本書発刊現在、学生運動ないしは学生運動論という項目でネット検索してみても、できの良いのは筆者のそれが出て来るぐらいで、散発的なものはあるものの通史として読み取れるものはない。これは至って貧困な現象ではなかろうか。歴史を疎かにするのは滅びの道である。組織なり運動なり、これができているところは成長し逆は衰亡する。歴史が教える法理であろう。

 そういう意味で、筆者は、あくまで試論としてのそれであるが本格的なものの市場提供を志した。結果的に新たな観点を随所に提示することになった。既にインターネット上にサイトアップしてきているのだが、大幅に書き換えた。これまでのところ反響が少ない。筆者の試論が論評に値しないのだろうか、「れんだいこ史観」に立ち向かってくる試論がない。

 それは許せるのだが、この間、筆者が既に理論的に総括済みしている諸問題に対して、左派圏内では相変わらずの千年一日的な政治的立場を保守し続けている。これが許せない。ここに生産性は微塵も見られない。こういう閉塞現象をこそ打破すべきが左派ではないのか。と云っても馬の面に念仏かも知れない。日本左派運動はそれほど病膏肓に陥っているのではなかろうか。

 ならば、嫌味を言わせて貰おう。願うことは、左派圏諸君は、どうせその程度の知力、実践力しかないのなら、万ずに於いて小難しく語ってくれるな。これが云いたい。筆者はその仕掛けに随分悩まされてきた。今はっきり断言できることは、それは皆ペテンの小道具でしかないと云う思いである。小難しく語る者を警戒せよ、筆者のこたびの試論と対話せよ。これを、後に続く者への餞(はなむけ)の言葉としたい。 

 れんだいこの学生運動論は、去る日の1999.12.1日より2000.2.5日にわたっての「さざなみ通信」(http://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/)での以下の投稿文より始まった。
 「戦後学生運動1、60年安保闘争まで
 (marxismco/marxshuginogendaitekikadai1_4.htm)
 「戦後学生運動2、60年安保闘争以降
 (marxismco/marxshuginogendaitekikadai1_5.htm)
 「戦後学生運動3、余話
 (gakuseiundo/history/3_yowa.htm)

 これは、「新日和見主義事件」解析の前提としての作業であった。その後、学生運動そのものを更に検証する為に「詳論戦後学生運動史論」を書き上げた。それが余りに長大資料的になり過ぎたので「概論戦後学生運動史論」を書き上げた。どちらも時系列的に検証している。

 これで良しとしたかったのだが満足できなかった。時期を相前後させてでもその時代の枢要な動きを纏め、当時の政治運動全体の流れと純粋学生運動の動きに分けてコメントする方法も有益ではないかと気づいた。この観点から三部作目として「物語り戦後学生運動論」を書き上げることにした。その際、事件性よりも思想性を重視して流れを掴むように心掛けた。こうして、筆者の戦後学生運動史論三部作が完了した。これにより左派運動の再生方途を処方箋したつもりである。後は、読者の反響を期待するばかりである。

 こたび書物として発刊する為「物語り戦後学生運動史」を更に練った。でき上がってみると、本書で簡略に理解し、「物語り戦後学生運動論」でもう少し詳しく確認し、次に「概論戦後学生運動史論」で肉付けし、更に「詳論戦後学生運動史論」へと読み進めばより博識になろう。




(私論.私見)